今帰仁村歴史文化センターの調査記録 
        
   
(2013年5月)  
                         
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2013年5月25日(土)

 しばらく、お休みです!(今月一杯)


2013年5月24日(金)

 今帰仁村に慰霊塔が建立されたのは昭和30年である。その前に10ヶの字(アザ/区)で設置している。村の「慰霊塔」の場所はチュウコンヒ(忠魂碑)があった場所で、現在は地名として残っている。その忠魂碑の建立は「大正10年1月15日」(『今帰仁村史』の年表)である。今帰仁村の「忠魂碑」建立についての記事の確認がまだできていない。碑の確認も。そして「忠魂碑」の揮毫は誰だろうか。

 今帰仁村で「源為朝公上陸之趾」碑は大正5年5月、「山北今帰仁城址」碑は昭和4年10月で、いずれも揮毫は「元帥伯爵東郷平八郎書」である。それからすると、今帰仁村の忠魂碑(大正10年)の揮毫は東郷平八郎元帥とみてよさそうである。

 昭和10年代の仲原馬場での出征兵士の壮行の場面の写真があるが、昭和10年に建立されたばかりの「忠魂碑」がみえる。ほぼ現在の「慰霊塔」のある場所(仲原馬場の西端)である。(「一軍人の仲原馬場での村葬と墓」参照)


    ▲昭和30年建立の「慰霊塔」 「忠魂碑」の跡地に建てられている。


 ▲仲原馬場の西端に「忠魂碑」がみえる(碑の建立は昭和15年)

2013年5月23日(木)

 『諸志の字誌』の編集会議、500頁近い中身の全体像を一気に出すことに。「諸志の家族」の項目が最後のつめに入り、ひとまず終了。これから、書きためた原稿を「もくじ」の順に並べることに。









2013年5月22日(水)

 『沖縄旧法制史料集成』(第三巻)崎浜秀明編の1690年の僉議に出て来る頭数(人口)は興味深い村の人口である。僉議の内容を合わせみると地頭の削減に関わるもののようである。それと明治13年頃の人口との比較も可能であるが、1690年の頭数というのは、世帯主か、納税の対象者(女性を除く)いた数なのか。また、総地頭や脇地頭家への出夫や付届する人数なのか。

【僉 議】(康煕29年:1690)にみる頭数

【本部間切】
 一、頭数  162人  嵩見村
(具志堅の統合されたことのある嘉津宇村のことか)
 一、 〃  112人  具志堅村
 一、 〃   58人  真部村   合頭数 332人
 一、 〃  176人  謝花村   
 一、 〃   386人  天底村(1719年移動、移動前の人数)  

【今帰仁間切】
 一、 頭数 63人  玉城村
 一、  〃  38人  岸本村
 一、  〃 110人  勢理客村  合頭数 211人

【羽地間切】(羽地間切側へ移動前:移動あ1736年)
 一、頭数 133人  我部村
 一、 〃  31人  松田村
 一、 〃  111人  振慶名村  合頭数 275人


 湧川の新里家や湧川村(ムラ)の祭祀をやってきた仲里トメさん(昭和10年生)から、新里家の話。湧川村の祭祀、メーダウガンやワラビミチ、タキヌウガン、塩づくりなどの話を伺う。

 今帰仁村内の慰霊塔をゆく。①湧川 ②謝名 ③崎山 ④仲尾次 ⑤与那嶺 ⑥諸志 ⑦兼次 ⑧今泊 ⑨上運天(今回訪れる)。他にも戦没者と関わる塔などがある。それは6月の「今帰仁と戦争」(仮題)の展示に集約していく(遺跡の分布)する。

 11ヶ所の字(アザ)に「慰霊塔」が建立された。村全体の慰霊塔が建立される(昭和30年)と、村の慰霊塔に合祀された字もある(玉城・越地・謝名)。合祀されたが残っている謝名の慰霊塔を画像で紹介しましょう。表面に「慰霊塔」、裏面に「一九四八年五月三十日建立」(セメント)とある。越地と玉城にも「慰霊塔」があったが、今はなし。

  

 今帰仁村に忠魂碑が建立されたのは大正10年である。その忠魂碑があった場所に、戦後村の慰霊塔が建立される(昭和30年)。そこは今でもチュウコンヒと呼ばれ地名となっている(仲原馬場の西端)。:平敷の山出原)。

2013年5月18日(土)

 名護市汀間出身の山内さんが説明。ありがとうございます。補足をする程度で非常に楽な講座でした。今日は大雨だろうと館内での資料の準備していたら雲り空。汀間の福木並み木のある集落、泰山石敢当が三基。子どもの背の高さほどの大型の石敢当。大きさと「泰山」まで掘り込んだあるので、きったムラに大きな災いがあったのかもしれない。それとも大きな災いが来ないようにとの予防か。

 イリギッチョ(西の木の下か)付近に旧家(根屋・西大屋など)があり、汀間集落はイジミガー付近に発祥の地を求めたことがわかる。

 今回特にナートゥガー沿いの墓地に関心が向いた。そこにはガンサ(合葬:村墓)の時代、門中(引)の三つの墓(門中墓)、そして家墓(個人墓)があり、墓の変貌(変遷)がわかる場所である。


  ▲館内で久志地域のムラのレクチャー  ▲サンカジョウ(ウガングヮー)の前での説明


▲汀間当の碑の前で山内さんがうなってくれました ▲旧家のあるイリギッチョ附近


       ▲按司墓の前で               ▲シマワカレの場所で


2013年5月17日(金)

 300余名の学生を相手に講座。「ノロ制度が造り出した歴史と文化」がテーマ。沖縄の歴史や文化の話を聞くことはほとんどなかったようだ。今回は、これまで調査してきたノロ関係資料の紹介。喜界島から久米島までのノロ関係の遺品や辞令書、そしてノロが関わるムラ・シマの祭祀、その現状の紹介。

 明日は「ムラ・シマ講座」。雨天の場合は館内でやります。少々の雨でも名護市汀間まで。





2013年5月16日(木)

 
歴史文化センター運営委員会。一年間の業務計画などの報告。特に今年は「今帰仁と戦争」と「今帰仁村内の文化財」をテーマに企画展示の予定。「歴史文化センターの事業」(平成25年度)、「ムラ・シマ講座」(第一回)資料、「News ゆらゆら」、「今帰仁と戦争」(企画展案)を配布。

 明日は大学で「ノロ制度が造り出した歴史と文化」をテーマに講演調(約250名なので)、講義をします。そのレジュメづくり。

 これまで調査してきたノロ関係の遺品(勾玉や簪や辞令書など)、ノロが関わる祭祀などを紹介。最後に現在の現状を述べ、まとめることに。さて、どんな話になることやら。これから頭の整理でもしましょうかね。





2013年5月15日(水)

 沖永良部島(和泊町)の小学生77名がやってきた。北山(今帰仁グスク)と沖永良部との関わり説明。
シニグロード、世之主と北山、そして城(グスク)のつく村が数ヶ所あることなどの話。沖永良部島参照。

 
         ▲展示をみながらグスクや出土した遺物に関心をもっていました!

 島に帰ってから、沖縄(琉球)と沖永良部島との関係を学ぶきっかけになればいいですね。世界遺産のグスクや沖縄にある城のつく地名、そして沖永良部島にある大城・内城・玉城・下城・上城・新城。そして沖永良部島に残る琉球の文化。なぜだろうか? そんな疑問をもってくれたら有り難いですね。


2013年5月13日(火)

【屋嘉比港】
(国頭村の浜と大宜味村の田嘉里の境界)(方切)

 屋嘉比川沿いに国頭村の浜と大宜味村の田嘉里がある。1673年まで大宜味間切(村)の大半は国頭間切でした。屋嘉比川を境にして間切を分割したため、祭祀や村を構成する系統が混在している。屋嘉比ノロ管轄の村と城ノロ管轄の謝名城が拝む根謝銘グスク(ウイグスク)がある。

 海神祭の時、ウイグスク内の大城(イベ)は屋嘉比ノロ管轄の田嘉里、中城(イベ)は城ノロ管轄の謝名城や喜如嘉などの神人が拝む。この根謝銘(ウイ)グスクは屋嘉比川沿いの丘陵地にあり、河口は屋嘉比港である。屋嘉比川の左岸には屋嘉比村墓、親田村墓、見里村墓があり、そこでも三つの村が統合されたことがわかる。そこにガンヤー跡があり、ガンヤーの出資に浜と田嘉里が出資している。

 屋嘉比川の下流域左岸にムランジュ(村墓所)がある(大宜味村田嘉里)。近くに現在サバニやボートが数隻置かれた場所がある。そこから根謝銘グスクが見える場所である。舟置き場から100m足らずの場所に龕屋(ガンヤー)がある。龕は亡くなると遺体を柩にいれ、その柩を納めて家から墓まで運ぶ道具である。火葬になってからは、龕は使われなくなった。.国頭村浜のガンヤーに(2015年1月9日))に触れたことがある。

 その龕が辛うじて原型をのこしたままある。貴重な現物資料である。この龕屋に関わる史料が「与論・国頭調査報告書」(1980年:沖縄国際大学南島文化研究所,135頁)で宮城栄昌教授(故)が報告してある(下に全文紹介)。

 国頭村浜と大宜味村田嘉里の両字で使っていた龕を分離した時の史料である。下の龕屋は大宜味村田嘉里にあり、「昭和十八年八月落成」とあり、新築した龕屋と龕と見られる。

 
  ▲大宜味村田嘉里にある龕屋と龕         ▲同龕屋内にある龕


   ▲龕屋の内部にある龕と道具        ▲「昭和十八年八月落成」とある

【龕史料】(国頭村字浜共同店沿革史より)
  昭和18年1月17日、龕修理ノ件ヲ協議シタルニ新建設ニシテ分離スルコトニ決シ、直ニ
  田嘉里部落ニ折渉シタルニ、現在ノ龕ニ大修理ヲカケ、尚ホ別ニ龕1個ヲ新造シ、両字ニ
  於テ確実値段ヲ定メ抽籤ニヨリ龕ヲ受取リテ分離スルコトトナレリ。

  同4月15日、金壱千百円也ニテ新旧龕ノ新修築ヲ名護町親泊完修氏ヘ請負契ヲナセリ。
  同7月30日、新旧・分離申合ノ為メ、字田嘉里字浜ノ2ケ字幹部会ヲ開催シ、左ノ通リ議決確
          定セリ。
   1.龕工親泊氏ヘ金五拾円也賞与ノコト
   2.新旧龕ノ評価決定
     金七百円也 但シ新龕価格
     金四百円也 但シ旧龕価格
    右ノ価格ニテ両字抽籤ノ結果、新龕ハ字田嘉里、旧龕ハ字浜ニ当リ、各分離スルコトト
     ナレリ。
  同8月1日
   1.新旧龕ノ新修築終了御願並ニ旧龕ノ33年期一切ノ御願ヲ終了シ、後龕ノ分離御願ヲ
     行ヘリ
     分離行列、御願終了後直ニ上原区長、仲原会計ヲ前棒、金城兼徳氏ヲ後棒、旗持ハ
     大嶺、宮城両村会議字有志等ニテ田嘉里旧龕屋ヨリ途中行列賑々シク浜ノ新龕屋ニ
     安置セリ。
   2.龕評価及龕屋新築費御願費其他一切経費報告(一切経費金七百拾六円壱銭也、共同店
     支出) 

    左ニ将来ノ参考ニ御願奉供物次第ヲ記ス。
       着手御願        中御願       落成御願

     扇  2本          同 上      豚頭皮共1頭分
      筆墨各2本           〃       足骨4ツ
      白紙20枚            〃       内臓各部ヨリ
      酒  3合            〃       エビ14
      線香j燐寸           〃       カミ14
      米ウンパナ9合        〃       白米1升
      豆腐5合            〃       扇子1本
      昆布種油            〃       筆墨2宛
      白モチ1組            〃       白紙20枚
      洗モチ1組            〃       肴ハチ2ツ
      醤油肉1斤           〃       丸魚2ツ(両方)
      ウチャヌク14(一方7ツ宛    〃       スクカラス14
      卵2個              〃       鶏2羽、卵2個其ママ酒2升
  龕ノ修理御願33年期御願一切終了済、龕屋ノ年期御願ハ未了ナリ。


  屋嘉比港は国頭按司の貿易港であった時代があったようで、貿易船の出入のさまは「おもろ」に謡われている。「鉄をもたらす日本商船もここに寄港し、按司はこれで刀剣や農具を造って、支配の手段に供したに相違ない。根謝銘城内には近代初期まで鍛冶屋があり、現在の一名代の屋号金細工屋の先祖がその業を世襲していたといわれている。サバ焼で代表される文化も、屋嘉比港を起点とする対外交通を媒介に発達したものである」(『国頭村史』49頁)。かつて山原船は比地村の下まで遡行したが、鏡地港の活況を背景として屋嘉比港はその機能を果たしていたと見られる。

  「おもろさうし」に、
  一やかびもり、おわる      一屋嘉比杜におわす、
    おやのろは、たかべて      親のろは崇べて
    あんまぶて、                 われを身守りて、
    このと、わたしよわれ、     この渡を渡し給われ、
  又あかまるに、おわる、     又赤丸におわす、
    てくのきみ、たかべて       てくのきみ崇べて  (13巻、176)
  又やかびもり、おわる、     又屋嘉比杜におわす、
    かねまるは、たかべて      金丸は崇べて
  又あかまるに、おわる、     又赤丸におわす、
    てくのきみ、たかべて      てくのきみは崇べて(13巻、182)

と謡われた屋嘉比の港は  明治時代初期には帆檣林立していたが、同港は鏡地港を背景にして機能を果たしていた。かつて、山原船は比地村の下まで遡行したが、鏡地港があってのことである。現在では屋嘉比港が果たしていた痕跡はほとんど見ることはできない。

 


2013年5月11日(土)

 午前中、沖縄高専の学生達(計37名)へ「北山の歴史と文化」の講演、その後今帰仁グスクの現場案内でした。沖縄本島北部の主なグスク、それと伊是名グスク、そして今帰仁グスク内の発掘遺物、古琉球の辞令書、ノロ制度が果たした役割など。

 
        ▲今帰仁村歴史文化センターの講堂で「北山の歴史と文化」の講演

 
 ▲今帰仁グスクの大内原で一緒にパチリ            ▲「北山の歴史と文化」の一場面

 野原真永氏から戦時中のサイパン、引揚後の様子をうかがう。戦時中の紙幣、戦後の紙幣、投降ビラ、ジュラルミンの鍋などの寄贈あり。サイパンから沖縄市のインヌミ、東風平村の前川、そして世那城への引揚などなど。真永氏の父真昌氏は、ハワイ経由で沖縄へ。前川で家族と一緒になったという。サイパンでの避難の様子、サトウキビづくり、麻などの栽培。


 
 ▲野原真栄氏から戦時中のサイパンの話を伺う        ▲五千円が貼られているビラ   



2013年5月10日(金)

 津堅島出身の方(千葉県在)から、津堅島についていくつか質問ありました。源古姓は源為朝と関係ありますか? 八首のヘビの行事がありますが? 2004年以来津堅島に渡っていないので、島の様子を思い出すために。津堅島が西原間切の時代があったことは頭に残っていたが、それと津堅島と久高島が並称されていたこと。そのことは飛行機から眺めた二つの島が並称されることに納得したことがある。

 2004年4月6日の午前11時発の「フェリーくがに」で勝連町津堅島をゆく。平敷屋港から津堅港まで約30分。この季節になると島々を回りたくなる。昨年は伊平屋島だったような気がする。どの島に行っても飽きることがない。津堅島には『琉球国由来記』(1713年)に津堅村と神谷村があり、史料で神谷村が記録されなくなったりしているが、津堅ノロと神谷ノロについては伝えられていたようだ。二つの村の痕跡や集落がどう展開してきたのかに関心がある。御嶽やグスクを歩きながら、あるいはカーを訪ねながら集落をみていくのもいい。

 集落内を歩くことは、集落の展開を膚で感じ取ることだといつも思う。フェリーを降りると、足をどう向けていけばいいのか。初めての島はいつも躊躇する。もちろんフェリーを降りる島の人たちの流れを観察しながら最後に降りるのだが。自家用車を港に置いてあるので島の人たちの動きはつかみにくい。旅人は民宿の車で一目散。近くのスーパーで飲み物を買い、食堂でソバを食べながら島の様子を伺うことにした。

 集落を歩いているとやはり石積みの屋敷に魅了される。人が住んでなくてもである。屋敷に井戸の形をしたのがいくつも目にした。どのくらいの深さだろうかと覗くと、それは井戸ではなく雨水をためるタンクである。ホートゥガーやミーガーなどの話をきくと島の水の苦労は大変なものがあったようだ。

 島の中央部にミーガーと書かれた標柱が立っている。勝連町の文化財に指定されている。その奥に碑があり表に「記 新井川に而明治三十三年・・・(磨耗しているため現場で判読できず)」、裏面に「德里牛金乃頌德碑 明治三十三年(井戸沿革)」とある。ミーガーの沿革について知りたいものだ。周辺土地改良がなされているが、そのカーは古くから使われていたこともあり、また灌漑用水に使うために残したのであろう。傍に祠があり参拝する人がいるようだ。

 津堅島は短冊型の土地(耕作地)の印象がある。地割制度=短冊形土地だと錯覚していたことがある。地割制度は村人に土地をどう配分するかの制度であり、土地の形をどうするかということではない。津堅島のように短冊型をした土地を地割と呼んでいるため、地割制度と土地の形を結びつけて誤解をまねいている(私一人かもしれない)。因みに勝連町津堅島は「人頭割で年齢ニヨリ部合ヲ設ケスシテ平分ス」である。短冊型の土地は昭和51年度に土地改良事業が行われため、短冊型の土地の形は失われたと聞いている。

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     ▲喜舎場子の墓(中御嶽)        ▲クラチャガー(倉下湧泉)

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▲階段を降りたところにあるホートゥガー   ▲1949年竣工とある      ▲カーの内部

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   ▲やじり浜からみたアフ岩(小島)          ▲港付近のデイゴに花が咲いていた

2013年5月9日(木)

 糸満市喜屋武までゆく。喜屋武にある具志川グスク、仲宗根政善先生の原稿や出版物に目を通していると喜屋武岬は避けて通れない場所である。2013年の1月に喜屋武(糸満市)を訪れているが、理解に苦しんでいる。

 具志川城跡まで足を運ぶ。発掘が進めれているが、途中のようだ。城壁の整備も。この具志川グスクは糸満市喜屋武の具志川原に位置している。糸満市喜屋武は喜屋武間切、明治41年から喜屋武村(ソン)、昭和21年に三和村、昭和36年から糸満市の内となる。喜屋武は喜屋武間切の同村で、そこに喜屋武間切の番所が置かれる。喜屋武グスクが、喜屋武にあっていいのであるが、喜屋武間切内に具志川グスクがある。具志川グスクの名称は小字具志川原に位置することに由来すると見てもよさそうである。具志川グスクは間切規模のグスクなので喜屋武グスクの名称でもよさそうである(喜屋武グスクは別にあるようで)。

 具志川グスク内に「久米門中」と記されたコンクリートの碑が何ヶ所か、崖の中腹に墓が置かれている。それは「久米島の具志川城主真金声按司が、伊敷索、伊敷索按司の次男真仁古樽に追われ、喜屋武の地に落ちの延びて具志川城を築いた」という伝承をもつ一門がある。久米門中は喜屋武の集落内にいて、具志川グスクを拝んでいる。

 喜屋武ムラには、仲間門中、上地門中、北谷門中、イリーバラ門中、久米原(クミバラ)門中など10余の門中があり、久米原門中と具志川グスクでの祭祀と深く結びついているようだ。

 喜屋武公園内にいくつもの祠があり、殿(トゥン)なのだろうか。公園の後方は墓地になっているが、グスクやウタキで、そこにそれぞれの門中の先祖が祭られているのであろう(現場は未確認)。喜屋武のムラを見ていると、近世の村以前の門中を中心とした集落形態がみえてくる。それぞれの一門の旧家に殿(トゥン)が置かれているにちがいない(詳細な調査が必要)

  
 ▲糸満市喜屋武にある具志川グスク  ▲グスク内にある久米門中の拝所 ▲海に突き出た具志川グスク

 
    ▲10余の門中が記された祠    ▲公園の近くに石垣の家敷がいくつも見られる       

2013年5月7日(火)

 仲宗根政善先生の蔵書の配置替えで、連休明けは大工仕事からスタートです。講堂の三分の二まで埋まってしまいました。11日(土)に沖縄工専門学校の学生達(計42名)がやってきます。講堂を使用。仲宗根先生の蔵書の中(図書室)での講座となります(講堂の様子)。それから今帰仁グスクまで。贅沢な講座です。高専の生徒達へのテーマは世界遺産の「今帰仁グスクをめぐる歴史」(北山の歴史)にしましょうかね。

 講堂は「ムラ・シマ講座」、さらに「戦争」をテーマにした展示を開催します。

 これか寄贈本や雑誌やスクラップの目録の作成にはいります(原稿類と同時進行)。棚の解体や書籍やスクラップなどの移動は上地美和さんと菜美路さん。おつかれさん。石野さんは仲宗根先生の原稿おこしです。






2013年5月2日(木)
   
 「ムラ・シマ講座」の下見で名護市汀間まで。集落内の馬場跡の直線道路。それを境に山手側をクシグミ、海岸側をメーグミと区分されている。旧家はクシグミにあり、集落はクシグミ一帯から海岸側に展開していることがわかる。汀間の集落はウンバーリ、嘉手刈あたりから移動、模合墓をみると、上原門中、仲田門中、そしてアブ門中、それらの集団が現在の汀間集落内に移動したことが伺える。それは村内の神人の出自からも伺える。

 祭祀場がサンカジョウ(三ヶ所)に合祀されるが、元の場所に合祀以前の姿がみられる。豊年祭のスクミはイリギッチャ附近の旧家で行われていた。また、奉納踊りは旧神アサギのアサギナーで行われている。

 集落の後方から宿道が通り、ウマバ(馬場)の通りからバスや車が通っていた時代があった。ウマバで綱引きを行い、クスグミが勝と豊作、メーグミが勝つと飢饉がやってくるという。

 イリギッチャあたりにカニクウフヤー、イリウフヤー、ニガミヤー、メーウフヤーなどの旧家があり、そこから、かつての水田をとおりイズミガーへとつながる。イズミガーから集落をみると、イリギッチャ一帯は福木があり、その面影を今も残している。イズミガーからの突き当たりに石敢当がある。

 
      ▲汀間のイズミガー              ▲イズミガーから汀間の集落をみる

 
 
ウンバーリにはノロドンチ屋敷跡、神アサギ跡、汀間ノロを出していた松浜屋、ヌールガーがある。また尚円にまつわるカニマンガーがある。嘉手刈村があった場所にはチンガーがのこり、テーマガーの左岸にはウプウタキがあり、現在の汀間の成り立ちがみえる。歴史的な変遷と、祭祀の流れや神人の出自などを踏まえながらみていくと、汀間のムラや集落の成り立ちを興味深い。

  
   ▲カニマンガー              ▲ノロをだしていたという松浜屋       ▲松浜屋の側のヌルガー