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2013年2月28日(木)
『球陽』(読み下し編:角川書店)の尚真48条(1524年)に、以下の記事がある。
諸按司、首里に聚居す。
窃かに按ずるに、旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に居りて教化を承敷し、郡民を?治す。猶中華に諸候有るが若し。或いは見朝の期に当れば、則ち啓行して京に赴き、或いは公事の時有れば、則ち暫く首里に駐し、公務全く竣(オワ)りて既に各城に帰り、仍郡民を治む。此の時、権りに兵戦を重ぬれば、群郡雄を争ひ干戈未だ息まざらん。直尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せしめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ、(俗に按司掟と呼ぶ)。而して按司の功勲有る者は、錦浮織冠を恩賜し、高く王子位に陞す。
この条文は16世紀初頭の状況を的確に示しているのではないか。
・これまでは郡に按司を一人置く
・按司は各一城に建て
・按司は一城にいて教化をし、郡民を治める。
・見朝の時期になると啓行して京(首里城)に赴き駐留する
・公務が終ると各城に帰り、郡民を治める
・郡雄を争い武器を持ち休息に至っていない
・尚真王は制度を改め、諸按司を首里に聚居させ、領地を治めさせる
・按司に代わって座敷官(按司掟)を派遣し、その郡(間切)を監督させた
・按司の功勲のある者は、錦浮織冠を賜わり王子の位まで陞る
尚真王の時代より以前は、各郡(間切)に按司を一人置き、按司はグスクを建て、そのグスクに住み教化をし、郡(間切)民を治めた。時期になると首里王府へ赴き駐留し公務を勤める。終るとグスクに帰り郡(間切)民を治めた。
ところが、郡(間切)は雄を争い、武器をもち安泰に至っていない。それで、尚真王は制度を改め、各地の按司を首里に集居させ、領地を治めさせた。領地には按司に代わって按司掟を派遣し、間切を監督させた。按司が功績をあげると、位をたまわり、王子の位までのぼることができる。
今帰仁グスク(間切)を合わせみると、北山の滅亡後第一尚氏王統から今帰仁グスクには監守(尚忠と具頭王子)の派遣がある。他のグスクでも按司を置いてある。首里からの按司の派遣かどうか? 尚真王の制度の改革で諸按司を首里に集めるが、今帰仁グスクの按司(監守)は、首里に移り住むことなく、そのまま今帰仁グスクに監守として居住する(1665年首里に引揚げ)。
尚真王の中央集権国家の制度で例外をなしたのが今帰仁グスク(間切・按司)であった。首里に移り住むことなく、今帰仁グスクに住む(1665年首里に引揚げ)。そのことが北山の歴史、あるいは三山統一以前、その後の歴史や文化に興味深い痕跡を残していると言えそうである。
2013年2月27日(水)
歴史文化センター運営協議会の開催。
2013年2月23日(土)
これまで中・南部の殿(トゥン)をいくつか見てきたが、沖縄本島の神アサギとの対比でみてきた。なかなか整理することができないた。『沖縄の古代部落マキョの研究』(稲村賢敷著)で神アシアゲと殿との相違点について述べている。「殿」を見る視点が述べられ興味深い。稲村は神アシアゲと殿の相違を歴史的に「神アシアゲは古代部落マキョの祭祀を行う建物」、「殿の建築様式は中世化した建物」とされる。
・殿建築様式は壁や襖、天井に依って部屋の仕切りをつけてある。
・神棚を設け位牌を祭り軸物をかけ香炉が備えられている。
・線香を燻して祭祀を行う。
稲村が述べられるような視点で「殿(トゥン)を見て行くと大方説明がつく。殿の建物、祠の内部、殿がある場所(旧家の屋敷内、グスク内)、ウタキのイベになっていないか、火神が祭られていないか。それらの要素は単一的ではないことを注視する必要がある。
山原の神アサギが旧家の屋敷内に置かれているところがある。国頭村宇嘉(ウフヤ)、奥間(ノロ殿:後に移動)、本部町瀬底(ウフグスクの屋敷)内にある神アサギは、殿(トゥン)へ移行する過渡期の姿をしめしているのか。
因みに伊是名島の神アサギは全て旧家の屋敷内にあるが、建物の様式は沖縄本島北部の茅葺屋根の軒の低い建物である。建物の様式は神アサギ、アサギを立てる場所は中南部の殿ように旧家の屋敷内。それも神アサギから殿へ移行する過渡期の様相を示している可能性がある。
このように見て来ると、これまで神アサギは近世的な施設(土地制度との関わりで)と見て来たが、古い時代からの神アサギの施設を祭祀空間であったのを納税(穀物)の一時保管場所として利用したと位置付けることができそうである。『琉球国由来記』(1713年)で中・南部に神アシアゲが12ヶ所の記載があり、また中部あたりでは殿と神アサギ(国頭郡に106)の両名が多く見られるのも、過渡期の様子を伺しめる。
▲恩納グスク内の殿(恩納村) ▲伊波城内の殿(うるま市) ▲伊波城の殿の内部
2013年2月22日(金)
馬や馬場の問合せが続くので歴史文化センターが所蔵している馬(馬車・運搬)の画像を10枚紹介します。
▲夏場の農耕(帽子を被る) ▲鋤で田を耕す(1960年頃)
▲馬車で土運び(宮古) ▲馬で材木を運ぶ(沖縄本島北部)
▲鋤で田を耕す ▲馬車で割った薪(ワイダムン)を運ぶ
▲サトウキビの絞りかすを運ぶ(本部町) ▲馬車でサトウキビを運搬’(宮古)
2013年2月21日(木)
今帰仁村仲尾次の大城勇氏から、1966年の数枚の写真の提供がありました。崎山の前田原2枚、崎山の後のスクミチ(2枚)、仲原馬場など。仲原馬場や馬の問合せが三軒。平敷・崎山の前田原や仲原馬場について紹介したことがあるが、貴重な場面なので再度紹介紹介。(感謝)
▲崎山の前田原(崎山ノロ殿内方面から)(1966年7月)
▲仲原馬場(中央部の来賓席の石垣が残る) ▲与那嶺長浜(後方の山並みはクボウヌウタキ)
▲崎山のクシのスクミチ沿い(仲尾次の大城氏)
2013年2月20日(水)
富山市までゆく。足を延ばしたのは富山城のみ。月曜日のため開館は富山城内にある「富山市郷土郷土博物館」と「美術館」のみでした。近くを流れる神通川、そして舟橋、北陸街道や飛騨街道、平野に築かれた浮城の名称が印象的である。天主閣の石垣の鏡石(大きな石)は、沖縄でみられる石敢當的な役割を果たしているのだろうか。雪が積もった富山城。外観を興味深く拝見しました。館内の歴史展示を把握する時間がなく・・・。
▲追手口?の数個の鏡石 ▲雪に染まった富山城(公園)
▲雪が解けた富山城(公園) ▲枡型になった追手口?の鏡石の一つ
2013年2月15日(金)
(しばらくお休みします)
2013年2月12日(火)
今帰仁村内の神アサギを画像で紹介。以前「山原の神アサギ」で紹介したことがある。その間で建て替えたのが「与那嶺の神ハサーギ」のみである。
今帰仁村内の神アサギを全て茅葺屋根の神アサギにできたら「神アサギロード」として、西側の今帰仁グスクのある今泊から運天港、さらには古宇利島までの村内の神アサギを手掛かりに各字の集落景観、更には文化財、各字の歴史を踏査する重厚な道筋ができそうだ。その試みもあって、踏査してみた。
【琉球国由来記】(1713年)に登場する今帰仁間切の神アサギ(アシアゲ)。
郡(古宇利)村/運天村/上運天村/勢理客村/寒水村/岸本村/玉城村/
中(仲)宗根村/謝名村/平敷(識)村/中城(仲尾次)村/崎山村/与那嶺村
/諸喜田村/兼次村/志慶真村/親泊村/今帰仁村(安次嶺)
『琉球国由来記』(1713年)に登場する神アサギは城内神アシアゲを除いて、すべて残っている。城内の神アシアゲも「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃)で「古城内神アシアゲ」とあり、城内にその跡が確認できる。神アサギが300年も継承されていることに注目する必要がある。
祭祀のみでなく、近世の地割制との関わりで租税の一時収納施設、年中祭祀が現在の休日(神遊)に相当することなど。
【古宇利】
【湧 川】
【天 底】
【勢理客】
【上運天】
【運 天】
【仲宗根】
【玉城・岸本・寒水】
【謝 名】
【平 敷】
【崎 山】
【仲尾次】
【与那嶺】
【諸志(諸喜田・志慶真)】
【兼 次】
【今泊(親泊・今帰仁)】
2013年2月11日(月)
「今帰仁の歴史的風景」をテーマで講演。各村を神アサギをノロ管轄でつなぎ、『琉球国由来記』(1713年)に登場する村、同書にある神アサギが現在もあり、300年も残っていることの重要さ。それと祭祀と関わるウタキやカーなどの拝所が、景観を保持し続けていることの重要さ。それと運天港のあるムラウチ集落、そこに近世の琉球の歴史と関わる出来ごとや墓などもあり、歴史をよみがえらせる歴史的景観地として・・・(どんなまとめになるやら)
2013年2月9日(土)
午後から「恩納村の御嶽(イビ)と集落」をテーマで講演。御嶽(イベ)と集落との関わりで話をする予定。発表原稿と画像原稿がまとまりましたので、レッツゴー!
【谷 茶】
根神をだす門中:山城門中/屋号:根人屋(大正15年調査)
【瀬良垣の根神】(大正15年調査)當山門中/根神屋
【前兼久】
根神をだす門中:川ノ根一門/屋号:東川根
【富 着】
根神をだす門中:富着門中/屋号:根神屋
【仲 泊】
根神をだす門中:下庫理一門/屋号:下庫理
2013年2月7日(木)
【恩 納】
恩納村の御嶽と集落の関係を整理。御嶽(ウタキ)を祭祀との関係で見て行く視点は、ウタキやイベが何かではなく、集落の一門、あるいは一族とどう関わっているかをみていくテーマである。興味深い関係が見えて来る。恩納村の北と読谷山間切から分割した村をみていくと頭が混乱。別の視点で切り変えていかないと整理できず。これから南側の村をみていくことに。どのような結論になるやら。
【久良波・山田】
2013年2月6日(水)
恩納村の名嘉真、安富祖、瀬良垣、恩納までゆく。恩納村の北側の字(アザ)である。名護市の喜瀬や幸喜の集落と類似してる部分が多く、なかなか区別でないでいる。それで足を運んでみた。取り急ぎ恩納村の北側、金武間切から分離した四つの字を駈足で踏査。9日(土)に「恩納村の御嶽と集落」について報告する予定。そのこともあっての頭の整理。
【名嘉真】
【恩納村安富祖】
【瀬良垣】
【恩納村恩納】(恩納グスク)
【恩納村恩納】(ウガン)
2013年2月4日(月)
天底小3年生の授業。27の道具を使って。スケッチをし、聞いたことをまとめ。最後はみんなの前で報告。
2013年2月2日(土)
仲宗根政善先生の資料の一部に目を通すことに。多くの方々がお見えになるので、中身を知らないでは説明できませんので。一部筆耕してみました。その総てを紹介することはできませんが、その一部を紹介してみました。そのようなノートが数ありそう。ノートの整理は手をつけたばかり。
波照間調査で、ここでは紹介してありませんが、a:ripingasi(中舌音など正確な表記はしてありません)という言葉を聞いた時、「あかあかと西海に没していく太陽の最後の微光が消える瞬間のような感動をおぼえた」とあります。そのような感動的な場面が、幾度もでてきます。動詞の活用調査や屋号と助詞 ja(は)の結合音など、言語調査の成果なども述べられています。そのような成果は、すでに論文や著書で公にされていると思います。ノートから、その時、そこでそのような発想や展開をされたのかと、言語に無知なものでも感動し、教わることが数多くあります。以下の一文が調査・研究に携わっている一人として、脳裏に強烈にたたきつけられています。
「この島にこの苦難に堪えて生きていた人間のあかしを何とか立ててやりたいという気持になり、この島の言葉を一語でも私は拾いあつめておきたい気持になった。学問の根底にそれがなくして、ただ言葉のけいがいを集めるだけでは申訳のないことである。」(1965.8.18ノート)
仲宗根政善資料(ノート類)の整理を急がないと!