2013年10月 
        
   
                        
 トップ(もくじ)
                                      


20131028日(火)

 喜納政業氏から聞き取り調査。戦前(東京時代)、戦中(軍隊~収容所)、戦後(帰村から議員)、経済など、多岐に渡っての話。月1回の3回目の聞き取り調査。毎回3時間余りの息尽く間もなく語る喜納政業氏(88歳)。氏のアルバムの画像を手掛かりに語ってもらった。寄贈いただいた書籍・資料・スクラップ・ビデオ、喜納政業氏の人生(いきざま)を含めての「まとめ」となり膨大な作業になりそう。「まとめ」は歴史文化センターの石野裕子、玉城菜美路、上地美和が受け持つ。毎回、兼次幸子さんも参加いただき感謝。

  ただひたすら、学問の世界について行くだけ。
  死が自分のものになるまで。90歳のこの老人は、そのことでたんたんと生きている。
  本が自由に買えて、読むことが出来る世の中なんて、滅多にあるものではない。
  最高の老人冥利である。世界の神々よありがとう。
                                  (喜納政業)

 
    ▲3回目の聞き取り調査(喜納政業氏宅)       奥さんがご馳走を。ご馳走を前に・・・・

 以下の写真は喜納政業氏提供

  
   東京高等工芸学校にて(昭和191月)  昭和航空計器株式会社 技術養成学校生徒一同(昭和15年5月)


          東京工芸学校 電気通信専修科第二部第1回卒業生 


20131025日(金)

 127日に「戦後の山原の生業や祭祀の変貌」をテーマとして講演をする予定。そのこともあって、名護市我部祖河の祭祀の様子をうかがいに我部祖河公民館へ(区長上間光成氏)。一年間の「御願表」と「我部祖河区年中諸御願日記」の原本を拝見することができた。「我部祖河区年中諸御願日記」は二日前に『羽地落穂集』(小川徹先生)から紹介したばかりである。上間氏と書記さんから、現在の神行事の様子を伺う。それと「我部祖河区年中諸御願日記」の原本に出会えたのは幸運であった。戦後60年の祭祀の変貌を具体的な事例として紹介できそう。

  
                    
「年中諸願日記」の一部

 
      河部祖河区の現在の「御願表」         旧家の一つスクヤーの祠    スクヤーの古い位牌

仲松ノート(我部祖河)
  ・サニサギ(サンサギ)
    サン(ワラザン)を松の幹に廻してさげたという。
    ナーハ(屋号、中のこと)の東傍らの丘
  ・ハンカジョウ(カンカ場のこと)
    豚・牛をほふる/北に向って拝す/北風はマジムンの乗ってくる悪風という。
    人を死なさないで、類に代って貰うという。


20131023日(水)

 「我部祖河区年中諸御願日記」(昭和20年代)がある。戦後すぐの記録であるが、戦前から踏襲しているものと思われる。書きだしの所に以下のようにある(羽地落穂集:旧羽地間切地方文書集成、法政大学沖縄文化研究所)。戦後になって廃止した祭祀もあり、中止するにあたって神人が決めるのではなく区役員や戸主会で決めている。下にあげた神行事は、区の公の祭祀であることを示している。我部祖河には戦後16の神行事がある。

 この資料は、戦前の祭祀の様子がしれ、戦後すぐいくつかの神行事の廃止、それと供え物、拝む場所などがしれ、祭祀の流れをしることができる。戦後60年余りたった現在、祭祀も生き物であり、その変貌をたどることのできる資料でもある。

 
「昭和20年四月七日(1945年)米軍上陸、反軍の遊撃戦に依り、保管帳簿全部焼失され、戦後二カ年間は神念を中止するの外なく、昭和22年講和なると共に、生を得たるは神の賜と信念の念を再起し、人民合議の上、旧慣例の諸願祭祀を挙行す。昔より永年保存したる帳焼失のため、各自の覚を記録し、後日の資料にす」とある。

 そこに旧羽地間切(村)我部祖河の祭祀が綴られている。それを掲げてみる(数量など、略したところが
  ありますのでご注意!)


三月三日(ハンカ)
 区役員煮て行う。供え物:花米、酒、豚肉、吸い物とお重
 御重の白肉をハンカ門、川の端小の角の十文字路、ぶり蔵の上十字路で悪疫駆除
 前川門森にて酒二合、米二合
 イビの前 御通し
 御願所の神の前にて人民の安寧を祈る
   (19531230日付で止めることにする。花米、線香、サネ清掃は区役員で行う)

四月の畔払
 三神吉日に行う。花米、酒、豚肉、豆腐(テンプラ)、昆布、醤油、線香
 神人の他に虫払夫一人を選定
 中村渠屋森(古我知との境)、渡地(名護との境)、トールの上(伊差川境)、クモイギャ辻(振慶名境)
 ナミ崎(我部境)の五ヶ所にて御願をし、通り道より悪虫をとり、アダン葉の舟を作り、この虫をのせ、
 潮の干す時を待ってへ流す

五月稲穂祭(旧5月15日)(三神)
 米、酒、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香
 井戸の清掃、上バーリ井戸(水なし)、地頭河(アサギの下)、寒水河の二ヶ所

六月山留御願(ヒチュマ)(三神吉日に行う)
 米、酒、神酒、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香

六月御祭折目(ウプマチ)
 三神(旧6月25日)、花米、酒、御飯、汁、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香

六月二十五日
 七神、花米、酒、神酒米、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香
   (キップ打ち夫賃)

六月二十六日
 七神、花米、酒、神酒、米、ノロ、掟神へ呈上、米、豚肉、豆腐、昆布、醤油、品の内より
 七寸重一次、スク屋の火神と神棚へ神酒提供、スク屋は自分拝み、線香、キップ打ち二人。

七月海神祭(ウンギャミ)(中止)
 花米、酒、線香、魚ドーシ、飯用米。但し魚ドーシは掟神、仲尾尾アサギ出発前に差し上げ、
 乗馬一匹共準備
19531230日の戸主会にて中止する事とする)

八月童神酒(旧八月八日)
、三神、花米九合、酒二合、線香、神酒米三升分(六月徴収せし花米より使用)、豚肉、昆布、豆腐、
 醤油(但し、上バーリ掃除に花米、酒、ワラザネ、39円)

八月十日
 七神、花米、酒、線香、豚肉、昆布、醤油、豆腐など

九月御願
 区役員にて、花米、酒、線香、餅(オチャノ子)、魚小、素麺、醤油吸物用、但し、夫地頭火神へ供す事

九月種籾御願(ミャダニ)19536030日付戸主会にて中止することとする)
 三神、花米、酒、線香、肉、豆腐、昆布、醤油

十月竈廻御嶽
 七神(中止)、花米、酒、線香、豚肉、豆腐、昆布、醤油

十一月芋種御願(ウンネー)
 七神(吉日に行う)、芋神酒用芋、豚肉、昆布、豆腐、醤油、但し芋は各戸より生芋二つづつ徴収。

十一月風器(フウキ)祝儀
 区役員、七寸重、酒、但し金細工屋宅にて

十一月大御願
 神酒用米、花米、御嶽の掃除、立御願、花米、酒 但し、各戸より縄五尋づつ徴収、イビの前
 掃除夫、女一、御嶽の縄引男二(1964年部落常会に於いて神人に対し、各戸より御弁当を差し
 あげるようにされた)

 外に臨時に祈願の必要ある時はその都度協議議決に依り挙行す

  
    
三神の火神           ワラゼネ人束と線香        三神、掟火神が祭られているお宮


20131022日(火)

 戦後の「議事録」(今帰仁村今泊:194511月~4812月)から戦後3年間の様子をみていくことに。
 昭和2011月は今泊住民が収容所から帰村した直後にあたる。


20131019日(土)

 今年度5回目の「ムラ・シマ講座」は名護市我部祖河でした。おつかれさんでした!

 
     
河部祖河のウタキ内で             メーガージョウヘーへ

【ノロへの納税】(のろかない)
 ノロへの納税(のろかない)は稲・粟・麦の外に豆かないもあったという。例えば、旧暦3月の麦の大祭の時、村の神アサギでノロに捧げた。麦の大祭はノロへの納税である(宮城真治)という。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の例をみると、
  ・今帰仁ノロへ今帰仁村と親泊村から麦一斗六合、志慶真村から麦三升。 
  ・中城ノロへ兼次村から麦二升、崎山村から麦二升、中城村から麦二升。
  ・玉城ノロへ玉城村から麦二升、平敷村から麦三升、謝名村から麦五升六合、仲宗根村から麦二升。
  ・岸本ノロへ?岸本村から麦一升、寒水村から麦八合。
  ・勢理客ノロへ勢理客村から麦二升、上運天村から麦四升、運天村から麦一升五合、麦一丸き(束)
  ・郡(古宇利)ノロへ郡村から麦四丸き(束)。

 このように見て来ると、祭祀で備えられる米や麦や粟などは、ノロや神人達への「みかない(貢)」、納税とみることができる。ノロは、それとは別に田や畑などの土地(役地)が与えられている。
 
【島せんこのろこもい(勢理客ノロ)】
  ・田    254267      田叶高   4石78723
  ・畑   633386      畑叶高   861299
  ・原野  171178      原野叶高 066399       計140421(役地坪入帳 明治32年)

 「琉球藩各間切夫地頭以下役俸人別取調帳」(明治128月調査)
   ・今帰仁のろ    米341455     雑石 341455
   ・中城のろ      米186222     雑石 518320
   ・玉城のろ      米046488     雑石 223648
   ・岸本のろ      米033872     雑石 080357
   ・勢理客のろ    米135074     雑石 4173
   ・古宇利のろ    米なし        雑石 826152

 上の数字の比較や実態を論ずることはできないが、宮城真治は「のろは明治33年の土地整理実施以前に於いては、名実共に部落を支配する実力を備えていた」とされる。また、のろは「王府の役職であって、王府から相当に優遇されていた」と評されている。


20131018日(金)

 古宇利島の展示の仕上がりの確認と2枚の設置(182×91cm、91×118㎝)。展示パネルは30枚余。仕上がりがどうかと気をもんでいた。すべてのパネルを設置してみないとわからないが・・・。仕上がりがどうか見えない作業でした。テーマから画像の選び出し、原稿づくりが短期間でしたので、途中変更は許されませんでした。また余裕なしでした。外の業務を抱えながらなので。あと一枚(182×182cm)の原稿を残すのみ。次に進みます。明日は「ムラ・シマ講座」(名護市古我知)です。

 
 パネルの設置作業中(182×91cm、左は91×118cm)  展示パネル原稿の一枚(92×60cm)


20131016日(水)

 今帰仁村の村指定の文化財に向けて、数点(ヶ所)紹介し現場確認まで。勢理客ノロ家は改めて伺うこと予定。
 中城ノロ関係資料
 今帰仁ノロ関係資料
 今帰仁アオリヤエノロの遺品と今帰仁按司(監守)の位牌(ガーナー)
 津屋口墓と墳墓記(墓碑)
 勢理客ノロの遺品

中城ノロ関係資料


 

今帰仁ノロ関係資料


今帰仁アオリヤエノロの遺品と今帰仁按司(監守)の位牌(ガーナー)

   

津屋口墓と墳墓記(墓碑)

 

勢理客ノロの遺品


20131012日(土)

 今帰仁村今泊の青年達が今帰仁グスクと歴史文化センターへ。73歳のメンバー達。60年前の画像を前に生きて来た人生を振り返っていただいた。「おれいるよ」「・・・屋の誰ね」などの声が聞こえてくる。しかし、誰もおれだと名乗ってきません。戦後の歩みを語ってくださるのは、この世代なのですが。毎年、73歳組を揃えて映写会をしましょうかね。

 右下の写真の手をひかれている子供達が今では70歳余なり。

  


20131011日(金)

山原のムラ・シマ講座】(5回)

【名護市河部祖河】
 ・おもろさうし    がぶすか
 ・『絵図郷村帳』  羽地間切かぶそか村
 ・『琉球国高究帳』 羽地間切かぶそか村
 ・『琉球国由来記』(1713年)  我部祖河村(伊差川ノロ管轄)
    御嶽は仲尾ノロ管轄になっているが?

名護市の我部祖河です。我部祖河みていく場合、まず羽地間切(村:ソン)の一つの村(現在は区、アザ)であったことを頭に入れておく必要があります。現在の名護市は羽地村(間切)と名護町(間切)と久志村(間切)、戦後屋我地村、屋部村が創設されます。昭和45年(1970)に名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併し名護市となります。合併して40年余になりますが、歴史・文化を見て行く場合は、長い間切時代に蓄積されてきた歴史や文化が今に根強く引継がれています。名護市になって40年余たった現在、大きく、あるいは急激に変貌しつつある我部祖河の地から羽地間切域の一村から、その面影を拾っていきましょう。

 昭和50年代、くまなく踏査した経験があります。理解しにくい、あるいはできなかった地域との記憶があります。先日下見で行ったのですが、やはり難しい地域(ムラ)でした。よく解らないことは、ムラを見る視点を変える必要がありそうだ。それは我部祖河のムラ・シマと異なった形態をなしているのでしょう。

 大きく変貌したのは、一帯が水田地帯だったことです。また蔡温が大浦川を改修した頃、一帯は湿地帯で川の氾濫がたびたびあった所です。川筋の付け替えや湿地地帯の開拓が行われています。羽地間切の三大ウェーキ(源河・河部祖河・?)の一人が河部祖河村にいました。我部祖河は民俗学者の宮城真治先生が多くの資料をのこされたムラです。

 これまでの視点では説明できなかった河部祖河をどう理解していけばいいのか、その視点を見つけることができそうです。どんなムラでしょうか。おもしろそう!(出発前の説明を聴かないとチンプンカンプンかも)

 
        河部祖河のウタキ          ウタキ内にある神アサギの礎石

 
河部祖河のウタキ内につくられたお宮      お宮内に旧家の火の神を合祀

 
メーガジョウウフェーから見た古我知       河部祖河の仲門にある高倉(県指定)


20131010日(木)

 午前中、兼次小4年生の総合学習(仲原・石野・ナミジ・上地)。前回につづいて、兼次・諸志・与那嶺・仲尾次・崎山の主な場所を取り上げる。

【兼次】
 島袋源一郎 ウイヌハー 第1~5タンク 兼次公民館 兼次の神ハサギ
 りっぱな石垣のある家 兼次小学校と跡地 古島(遺跡とウタキ)

【諸志】
 諸志の植物群落 諸志のウプガー 志慶真乙樽と殿内 諸志の豊年祭 焚字炉
 中城ヌツドウンンチと勾玉など 赤墓 二つの神ハサギ
【与那嶺】
 神ハサギと舞台 公民館 アカギの大木 仲宗根政善先生と生家 ユナンガーとヤシダガー

【仲尾次】
 神ハサギと公民館 石橋 井戸(イリヌハー/チンジャ) 泰山石敢当 石切り場
 イヂヌイヤーヤ(洞窟)

【崎山】
 崎山の発祥地 公民館とその周辺 崎山ガー 崎山の神ハサーギ

 


2013109日(水)

 『南島風土記』(東恩納寛惇著)に「廃藩置県当時琉球藩として最後の調査」(駅遞寮地銘掛調査)として、首里、那覇、各間切の村名が記されている。今帰仁間切の村は、今帰仁村、親泊村、兼次村、志慶真村、諸喜田村、与那嶺村、仲尾次村、上間村、崎山村、平敷村、謝名村、古宇利村、運天村、上運天村、整理客村、天底村、湧川村、玉城村、岸本村、寒水村、仲宗根村(合計21ヶ村)とある。その中の上間村の存在が何かである。

 今帰仁村と親泊村が今泊村、諸喜田村と志慶真村が諸志村、玉城村と寒水村と岸本村で玉城村、それらの合併は明治36年とはっきりとしている。(今泊村は明治39年に分離、昭和48年に再度統合) 上間村は『御当国御高並諸上納里積記』(1738年後:湧川村が登場している)と『琉球一件帳』(1738年以降)に登場してくる。里積記では中城村と上間村が並んであるので、隣接していたことが伺える。上間村が登場し、消えていく。その説明がつかないことで、ノドに針がささっているような気分である。

 崎山(ヒチャマ:下間)、仲間(中城)、上間の関係で考えたことがあるが。・・・



2013105日(土)

 古宇利島の展示物を作成中。大型(182×91㎝)・中型(118×91㎝)・小型(92×60㎝)のパネルを作成している。全部で約30枚。  (台風接近中。本日は歴史文化センターは閉館です)

 


2013104日(金)

 「国頭村奥部落調査報告」(1965年)『沖縄民俗』(琉球大民俗クラブ)の「拝所」に以下のような記事がある。
「拝所は二つある。部落の南側にミヤギムイなる丘があり、神号マハハという女神を祀る祠がある。このミヤギムイから東北方奥川の対岸の山□□には神号イビサトヌシなる男神を祀る祠がある。イビサトゥヌシはウプウガミ(大御願)と呼ばれ、マハハはウガミングヮー(御願小)と呼ばれている。以前は茅葺きであったが、現在はコンクリートにしてしまった。イビサトゥヌシは北方をマハハは東側に向けられている。祠には石香炉のみが安置され、その数は両ウガミとも五個である。その中に、
    玉城某 道光二九年(1849年) 寄進したもの(両ウガミにある)
    宮城仁屋 咸豊九年(1859年)に寄進したものが混在している。


 イビサトヌシは御嶽、ウガミグヮも御嶽(乃木神社)のようである。ここで関心を持っているのは二つの御嶽の寄進された香炉(年号)とウガミグヮ(ミヤギムイ)にある大きな石燈籠である。奉寄進の香炉と上国でまとめてありました。


   奥にある忠魂碑      ミヤギムイからながめた奥集落


 奥の集落内にあるノロドゥンチ(右側)    ミヤギムイにある祠と石燈籠

奥の集落内にある神アサギ


2013103日(木)

 兼次小学校4年生の総合学習。今回はクラスの半数のいる今泊を24名で14のポイントを文章にして発表していく。

 

 


2013102日(水)

 最近、「内間御殿」についての問い合わせがいくつかある。伝承が史実かどうか、史実と結びつけようとする姿が見え隠れする。今帰仁諸志に間違いなく内間御殿がある。それが史実であるかどうかは、次元の異なるものである。古い時代に書かれたからと言って史実を書き記したものあるとはかぎらないことが多々ある。伝承が神のお告げだとして拝むのは結構であるが、あまりにも飛躍した結びつけは避けるべきでああろう。伝承は古くからあったであろうが、山原では位牌や墓づくりは近世になってからのものであることが多い。同家にある位牌も乾隆14年や乾隆30年である。無銘の位牌もあるが、それは位牌や銘書を書く習慣がまだなかった時代のものである。書きようがないため、無銘の位牌にしているのである。諸志のシーシ墓にまつわる伝承はあったであろうが、墓が造られたのは乾隆14年頃で位牌もそうであろう。

 そのような例の一つに上間大親の赤墓がある。上間大親と尚円王の話は『球陽』で尚円王6年条(1475年)に記されるが、赤墓が造られたのは乾隆55年(1790年)頃である。そのように見てくると「神のお告げ」が必ずしも史実を伝えているわけではないことがよくわかる。
(伝承と史実は、はっきりと区別して考える必要がある)

 

  

 


2013101日(火)

 本部町山川の「山川垣内権現」と周辺の風葬墓を整理した古墓をみる。山川垣内権現洞窟遺跡は県指定の文化財となっている。その説明をみると「沖縄考古編年期~グスク時代初期の洞窟遺跡。床面直上で後期~グスク時代初期に属する厚手の無文土土器が見られるほか、少量の火葬人骨を入れた完形の須恵器が安置されている」とある。

 その対岸崖下にある石積み囲いの墓がある。詳細な報告書を見ていないが、木柱が両側にあり、両柱上に置かれていた柱が下にある。正面はチニブなどで閉じられていたのであろうか。墓内に新しい厨子甕(蔵骨器)が40余あり、整理されている。




 
メモ:

    明治4年 琉球、薩藩の所轄を離れ、鹿児島の管下に属す。
    明治5年 陰暦を廃止し、太陽暦を頒布する。
    明治5年 琉球をとし、尚泰を藩王に封じ華族に列する。琉球藩は外務省の直轄となる。
    明治6年 国旗を琉球に賜い、久米島外四島に掲揚させる。7月ドイツ商船ロベルトン号宮古沖で遭難する。
    明治7年 琉球藩は内務省に改め属する。
明治7年 英国軍艦来航、藩王に金時計を贈り、前年難民救護の礼を謝す。
        
  前年(明治6年)難民救護は国頭間切宜名真の英国船の座礁をさすか。
   明治8年 平民に氏を称し、定かでないものは新設する。
   明治9年 16の休暇日を日曜日を用いる。2月ドイツ帝国、宮古島に遭難したドイツ民のために碑を建立する。
         ドイツの軍艦チクロープ号来琉、藩王に謝恩のため金時計、望遠鏡を贈呈する。

  明治12年 尚健、尚弼を華族に列す。