2013年1月調査記録 沖縄の地域調査(もくじ)
2013年1月4日(金)
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。今年は今帰仁グスクからスタートです(小雨のグスクでした)。正月疲れ中ですが、ボツボツ動き動きだしていきます。
【18世紀の租税制度】(メモ)
①王府への上納―正租(田・畑租)/附加税(諸出来米)/夫役銭/浮得税(桑・棕櫚・刳舟・九年母類)
諸間切諸島は田租は米、畑租は雑穀(麦・粟・?・大豆・小豆・胡麻・菜種子など) 一部は砂糖で代納、
久米島は砂糖の代わりに紬。
夫役銭と浮得銭は現銭が原則、浮得銭の内、棕櫚縄・綿子は現品納
先島は各税目を一にして、宮古は粟・反布、八重山は米と反布
②薩摩への貢祖(仕上世)―正祖・諸出米、上木税(芭蕉・唐芋・藺・桑・棕櫚・塩の類)
米で納める。1646年以来約三分の一を砂糖で代納する。一応王府に納め、王府から薩摩へ。
③地頭・おえか人への知行・役俸・作得・夫銭など
知行・役俸・作得は米・雑穀で納める。
夫銭は現夫と銭及び雑物(野菜・魚・鶏・薪・炭・材木・茅・苫の類
直接地頭・おえか人へ納める。
先島に地頭がいない。頭以下の役職者に対する役俸・作得・夫役銭があり、宮古では粟、八重山では米で納めた。
夫役銭の現夫には宮古では名子・宿引女、八重山では童男供夫・賄女というのもあった。
ウコンのような薩摩からの御用品などがある。
どのような作物をどれほど作るかは、すべて公儀(王府)が決める。さらに、それらは薩摩側がきめたという。
・砂糖とウコン
・紬・細上布
2013年1月5日(土)
中南部の殿(トゥン)は沖縄本島北部を中心にある神アサギとは性格を異にしているのではないか。神アサギは集落の中心地にあることが多い。祭祀空間と集落の税の集積場の性格が強い。殿は旧家の屋敷内に置かれるのが特徴である。里主所の殿は火神の祠の傾向がある。グスク内に神アサギや殿が置かれる場合、里主所や巫(ノロ)家や根人など旧家に置かれる場合は火神のようである。殿が設置される場所も殿の性格を考える上で重要である。
御嶽内やグスク内に置かれる殿は御嶽のイベの祠かグスク内に居住していた按司などの火神なのか、それらのことも念頭に入れて祠内をみる必要がありそう。それと集落との関係(祭祀)、近世の行政村とのとの関わりも考えてみる必要がありそう。殿(トゥン)を置かれた場所で分類ができそう。そこから、性格が見えてきそうである。(まだ、現場踏査はしていないので机上の仮説である)。読谷間切の各村の殿は、北部の神アサギと類似した施設?
殿の内部が火神かイベの祠なのかなどの確認が必要。
【グスク内にある神アサギと殿】(『琉球国由来記』1713年から)
【旧家屋敷内の殿・嶽内の殿・グスク内の嶽(イベか)】
【具志川間切】
・グスク嶽の殿(具志川村) ・クバウ嶽の殿(宇堅村) ・コシモリ嶽の殿(天願村) ・グスク嶽の殿(安慶名村)
・タカミ嶽の殿(川崎村) ・グスク嶽の殿(江洲村) ・アフノ嶽の殿(中嶺村) ・タケナフ嶽の殿(喜屋武村)
・殿(里主所火の神)(栄野比村)・殿(里主所)(兼ヶ段村)・殿(村之上の松下)(宮里村)・ヨナ川の殿(村の上にあり)
(高江洲村)
・オヤバンタの殿(村の前にあり)(上江洲村)・殿(里主所)(大田村)
【勝連間切】
・城内玉ノミウデ嶽(イベか)(南風原村)・城内肝タカの嶽(イベか)(南風原村)・比嘉城の嶽(浜比嘉村)
・殿(勝連城の内)(南風原村)
・殿(仁牛外間家に有り)(平安名村) ・殿(仁牛与那城家に有り) ・殿(三良金城家) ・殿(次良中村渠家)(内間村)
・殿(次良中村渠家)(内間村) ・殿(平敷屋巫家)(平敷屋村) ・殿(浜里主所)(浜村) ・殿(比嘉里主所)(比嘉村)
・殿(津堅掟家)(津堅・神谷二ヶ村)
【与那城間切】
・森城(平安座村) ・城内の嶽(宮城村) 城内のイベ(伊計村)
・殿(西原巫家に席を設ける)(西原村) ・殿(根神家に席を設ける)(与那城村) ・殿(根人家に席を設ける)(鐃辺村)
・殿(根人の家に席を設ける)(安勢理村) ・殿(平安座巫家に席を設け、仲程と言うところにあり)平安座村)
・殿(上原巫家に席を設ける)(上原村) ・殿(掟神家に席を設ける。ハンタミヤという)(名安呉村) ・殿(根人家に席を設ける。
オエキミという)(宮城村) ・殿(宮城巫家に席を設ける。アンミヤという)(宮城村) ・殿(伊計巫家に席を設ける。アガリミヤ
という)(伊計村)
【読谷山間切】
・城内の嶽(二御前)(座喜味村) ・城内火神(座喜味村) ・
・読谷山城内の殿(座喜味村) ・波平の殿(波平村) ・上地の殿(上地村) ・瀬名波殿(瀬名波村) ・高志保の殿
(高志保村)
・長浜の殿(長浜村) ・宇座の殿(宇座村) ・喜名の殿(喜名村) ・大湾の殿(大湾村) ・伊良皆の殿(伊良皆村)
・渡口の殿(渡口村) ・楚辺の殿(楚辺村)
2013年1月9日(水)
多忙中。北部の神アサギの調査をしてきた。中・南部の殿(トゥン)の確認をしていると、祭祀空間としては一致しているが、集落と関わりでみていくと、どうも異なった性格をもっているのではないか。それは『琉球国由来記』(1713年)の編集者は「神アシアゲ」と「殿」は明らかに性格を異にしたものと認識している。それは『琉球国由来記』の再編集と見られる『琉球国旧記』(1731年)にも、そのまま現れている。神アシアゲは「神軒」とし、殿はそのまま「殿」としている。神アシアゲと殿は同一のものではないことの認識があったからであろう。同一のものだとの認識があったなら、殿か神アシアゲにしたはずである。
その違いは何かをしるには殿の祠の内部と置かれた場所と祭祀との関わりを見究めていく必要ある。そのため中・南部の殿を設置場所・戦前の建物の様子、それと神アサギ内にはなかった香炉。殿ではどうかなど、いくつかの要素を確認する必要がある。殿の姿をみていくことは、古琉球のムラ・シマの形を継承しているのかもしれない。逆に神アサギのある村は近世の村の形なのかもしれない。そのあたりのことに視点をあてて中・南部の殿の姿をみていくことにする。
それは、祭祀が歴史の変化しない部分を引きずっているからである。『琉球国由来記』(1713年)に記された神アシアゲが300年も経った今もあり、あるいはあったことが確認できる。時々、「祭祀は歴史の変わらない部分を継承している。祭祀も歴史史料になりうる」と言葉にするのはそのためである。
中頭・島尻について2008年の3月、9月に調査したことがある(一部)。
2013年1月10日(木)
昭和30年頃の今帰仁諸志である。ボーボー幼稚園(アサギ広場:昭和26年)、手踊りのエイサー(リーキチヤー)、脱穀の場面(後方の茅葺家:リーキチヤー:昭和30年頃)である(内間利三氏提供。ボーボー幼稚園は、二、三才のボーボーから幼稚園生まで、ムラ中の子供たちを預かり、親は田畑作業に勤しんだ。諸志も昭和30年代まで水田が多くみられ、中学生になると一人前に農作業をしていた時代である。エイサーは手踊りである。太鼓はなく三味線と指笛、歌や掛け声での踊りである。家々を回り、交差点などで泡盛を酌み交わし、回りながら踊っていた。物のない時代であるが、のどかな時代である。
▲ボーボーを預かった幼稚園(アサギ広場)(昭和26年頃)
▲リーキチヤーの庭でのエイサー ▲左から内間利次、内間正善、金城重一の三少年(昭和30年頃)
2013年1月11日(金)
中南部の「殿(トゥン)」をみると、いくつか特徴があげられる。それらの特徴をできるだけ掲げ、さらに神アサギと比較してみることにする。中南部の殿をみると、神アサギとは大分様子は異にしている。どちらかと言えば、殿はウタキ内のイベの祠、それと住居(旧家跡)の火神が重なっているのも散見される。それからすると殿と集落、御嶽内やグスク内のイベとの関わりを
・呼称は「殿(トゥン)」と呼ぶ。
・旧家の屋敷内に置かれる例。
・集落内に置かれる例。
・グスク内にある場合。
・グスク内の御嶽(イベ)になっている。
・御嶽(ウタキ)内に置かれる場合。
・建物になっている場合。
・殿の内部で祭祀を行うところもある。
・祠や石囲いの祠もある。
・祠内部に石が一個、あるいは複数ある場合。
・祠内に火神(三個の石)が置かれた例もある。
・祠に向っての祭祀が行われる。
・近世の行政村内に複数の殿がある。
▲シリーヌ殿(喜屋武間切) ▲奥間の殿(トゥン)(喜屋武間切)
▲玻名城の殿(具志頭間切) ▲具志川グスク(御嶽)の殿(具志川間切)
▲波平の殿(東風平間切富盛) ▲仲真森の殿(中間の嶽内:イベ?)
▲山口の殿(知念間切山里:屋敷内) ▲伊波城内之殿?(美里間切)
【山原の神アサギ】
▲今帰仁村玉城の神アサギ ▲今帰仁村岸本の神アサギ(玉城) ▲古宇利島の神アサギ(今帰仁村)
2013年1月12日(土)
『琉球国由来記』(1713年)から読谷山間切の「殿」を拾ってみる。明治中頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」田代安定撰録)では「殿」でなく「神アサギ」と記されている。その詳細については『読谷村史』(読谷の民俗下)を参照する。『読谷村史』でも解説されている通り、「本島における名称の分岐点となっており、興味深い」と指摘されている。由来記や旧記を編集した頃、あるいは編集者は読谷間切の神アサギは「殿」としている。
明治の調査では、読谷山間切の「殿」の全てを「神アサギ」としている。神アサギや殿の呼称だけでは、同一の性格のものか、はっきりしないので現場踏査が必要である。建て物と祠の内部と置かれた場所(集落や御嶽など)の確認も必要。現在も残っているカミアサギの呼称も合わせ見ると、読谷山間切の村々の領域まで「神アサギ」圏である。『琉球国由来記』(1713年)で島尻の11の村で「神アシアゲ」が記録されている。それからすると、沖縄本島や周辺離島まで神アサギ(アシアゲ)(建物の形態は別にして)があり、それを島尻・中頭では「殿(トゥン)」としたのかもしれない。(殿と集落、あるいは殿の内部や置かれた場所、ウタキのイベか、旧家の火神などのことも視野に入れての確認が必要)
琉球国由来記 |
琉球国旧記 |
村名(読谷山間切) |
現在の呼称(読谷村史)より |
読谷城内之殿 |
読谷城内殿 |
座喜味村(邑) |
・ |
座喜味之殿 |
座喜味殿 |
〃 |
カミアサギ |
波平之殿 |
波平殿 |
波平村(邑) |
アタトーヤー(カミアサギモー) |
上地之殿 |
上地殿 |
上地村(邑) |
カミサギ |
瀬名波之殿 |
瀬名波殿 |
瀬名波村(邑) |
カミサギモー(トゥヌ) |
高志保之殿 |
高志保殿 |
高志保村(邑) |
カミサギモー |
渡慶次之殿 |
渡慶次殿 |
渡慶次村(邑) |
アタトーヤー(カミアサギ) |
長浜之殿 |
長浜殿 |
長浜村(邑) |
カミアサギ(トゥンザー) |
宇座之殿 |
宇座殿 |
宇座村(邑) |
カミアサギ |
喜名之殿 |
喜名殿 |
喜名村(邑) |
(神アサギ) |
大湾之殿 |
大湾殿 |
大湾村(邑) |
カミサギモー |
伊良皆之殿 |
伊良皆之殿 |
伊良皆村(邑) |
カミアサギ |
渡口之殿 |
渡口殿 |
渡口村(邑) |
神アサギ |
楚辺之殿 |
楚辺殿 |
楚辺村(邑) |
神アサギ(東・西) |
【読谷山間切各村ノロクモイ員数】(「沖縄島諸祭神祝女類別表」田代安定撰録)
喜名村 |
11人 |
・ノロクモイ一人 ・若ノロクモイ一人 ・根神 一人(女) ・根神二人(男) |
座喜味村 |
7人 |
・ノロクモイ一人 ・根神一人(女) ・居神一人女 ・根神の補助員 ・若ノロクモイ一人 |
瀬名波村 |
5人 |
・ノロククモイ一人 ・根神男一人 ・若ノロクモイ一人 ・根神一人男 ・根人ノアンシイ一人女 |
大湾村 |
3人 |
・ノロクモイ一人 ・根神一人男 ・根人ノアンシイ一人女 |
楚辺村 |
10人 |
・ノロクモイ一人 ・根神二人男 ・根人アンシイ一人女 ・根神一人 ・居神五人女 |
【読谷山間切神拝所】(「沖縄島諸祭神祝女類別表」田代安定撰録)
喜名村 |
10ヶ所内 |
・ノロ殿内火神一ヶ所 ・神アサギ一ヶ所 ・伊良皆神アサギ一ヶ所 ・仝所神棚一ヶ所 |
座喜味村 |
8ヶ所 |
・ノロ殿内火ノ神1ヶ所 ・神アサギ1ヶ所 ・シラシ御嶽1ヶ所 ・同所神棚一ヶ所 ・上城一ヶ所 |
瀬名波村 |
10ヶ所 |
・ノロ殿内火神一ヶ所 ・神アサギ一ヶ所 ・名幸川一ヶ所 ・同所神棚一ヶ所 ・鏡地御嶽一ヶ所 |
大湾村 |
8ヶ所 |
・ノロ殿内火神一ヶ所 ・神アサギ一ヶ所 ・比謝御嶽一ヶ所 ・伊良皆・古堅・渡具知 |
楚辺村 |
10ヶ所 |
・ノロ殿内火神一ヶ所 ・神アサギ二ヶ所 ・前ノ御嶽一ヶ所 ・同所神御棚一ヶ所 ・東ノ御嶽一ヶ所 |
▲瀬名波の神アサギ毛の祠(読谷村) ▲アタトーヤー(神アサギ? 渡慶次)(読谷村)
2013年1月17日(木)
うるま市の伊波城まで。伊波グスクは1673年以降は美里間切内にある。『琉球国由来記』(1713年)に伊波村には森城嶽・中森城之嶽・三ツ森之嶽・小河之嶽の四つの御嶽が記されている。伊波グスクと関わる伊波城内之殿、それとは別に伊波巫火神と伊波之殿がある。伊波之殿は伊波村神アサギとあり、伊波ノロ家の屋敷内に置かれている。
伊波グスクの四つの祠を『琉球国由来記』の御嶽と殿を特定する必要がある。森城嶽と中森城之嶽と三ツ森之嶽と小河之嶽のイベは伊波村のいくつかの門中との関わり、殿(火神)は伊波按司一族のものと想定できる。
新城徳祐氏は「城内の火神」は「城内の殿」、本丸東側の福木のある場所が「森城嶽」(イベ)、東の物見台の近くにあるのが「中森城の嶽」(イベ)とされる。
ここでも御嶽(イベ)とムラ(伊波村)の祭祀、それとグスク(ここでは今帰仁グスクからの流れの一族)と城内の殿(火神)との関わり。詳細はもう少し調査をしてから述べるが、拝所や祭祀から歴史を読み取っていくことができる事例である。(グスクの殿や遥拝所は野史と言われる伝承と、御嶽(イベ)はムラ、あるいは一族(門中)の発祥、それと祭祀と結びついて設置されていることがわかる)
▲伊波城の入口 ▲入口側の祠 ▲城入口から伊波集落をみる
▲伊波城内の殿(祠) ▲城内の中森之嶽の祠(イベか) ▲森城嶽のイベ(伊波城内頂上部)
【伊波ノロドゥンチと神アサギ】
▲伊波の神アサギ ▲伊波ノロ火神の祠 ▲神アサギ(左側) ノロ火神(右側)
2013年1月20日(日)
沖縄市知花にある知花グスク(美里間切)。「おもろ」で「ちばなかなぐすく ちばないしぐすく」と謡われる。知花村のカナ森・森山嶽・カナヒヤン嶽の三つのウタキのイビ名が、同じ「イシノ御イベ」である。知花グスク全体がウタキで、そこに知花村内の三つの集落(あるいは一門・一族)と関わっているとみていい。それと、知花村に知花之殿と石城之殿があり、「石城之殿」は知花グスク内にあると見られる。知花之殿は、知花村(行政村)と関わる画像にある神アサギを指していると見られる。うるま市安慶名グスクの例
知花村の「石城之殿」は知花グスク内にあり、それは知花村(一族や一門)との関わりというより、伊波グスクのような他からの一族との関わりか。中南部のグスクと関わる殿(火神やイベである場合がある)、グスクのあるムラとの関わりでみると説明がつく(今帰仁グスクの事例など)。そこでの伝承も他からの者が筑城している。石城之殿は、その一族がイベあるいは火神としているのであろう。
琉球国由来記 |
村名(美里間切) |
類別表(田代) |
美里之殿 |
西原村 |
|
古謝之殿 |
古謝村 |
神アシアゲ二ヶ所 |
桃原之殿 |
桃原村 |
|
大里之殿 |
大里村 |
神アシアゲ |
高原之殿 |
高原村 |
|
満喜世之殿 |
満喜世之殿 |
|
比屋根之殿 |
比屋根村 |
|
佐久真之殿 |
比屋根村 |
神アシアゲ |
殿二(与儀・中尾) |
与儀村 |
神アシアゲ |
知花之殿 |
知花村 |
|
石城之殿 |
知花村 |
|
登川之殿 |
登川村 |
神アシアゲ |
池原之殿 |
池原村 |
神アシアゲ |
東恩納之殿 |
東恩納村 |
|
楚南之殿 |
楚南村 |
|
伊波城内之殿 |
伊波村 |
|
嘉手刈之殿 |
嘉手刈村 |
神アシアゲ |
山城之殿 |
山城村 |
神アシアゲ |
石川之殿 |
石川村 |
神アシアゲ |
琉球国由来記 |
村名(美里間切) |
与儀之嶽(二御前) |
与儀村 |
オシアゲ森 |
比屋根村 |
小 嶽 |
比屋根村 |
アマ城之嶽 |
大里村 |
クモコ嶽 |
古謝村 |
カナ森 |
知花村 |
森山嶽 |
知花村 |
カナヒヤン嶽 |
知花村 |
イイ森 |
池原村 |
タウノ嶽 |
登川村 |
クモコ嶽 |
東恩納 村 |
嵩城嶽 |
東恩納村 |
カナチャジキ嶽 |
東恩納村 |
ヨセ森 |
東恩納村 |
オシアゲ森 |
楚南村 |
オシアゲ森 |
楚南村 |
森城嶽 |
伊波村 |
中森城之嶽 |
伊波村 |
三ツ森之嶽 |
伊波村 |
小河之嶽 |
伊波村 |
アマサキヨリアゲ嶽 |
石川村 |
▲知花グスク近くにある神アサギ(殿か) ▲知花グスクの全景(全体がウタキ)
▲上の殿毛(知花之殿か) ▲殿の祠(この殿はイベか)
▲三つの御嶽のイベの一つか ▲知花グスクの頂上部からの眺め
問:三山時代の戦い方
北山・中山・南山の時代の戦いはどうだったのでしょうか。
問:戦いに使った費用
???
問:武器や鎧
今帰仁城跡でも戦闘の形跡が発掘調査で確認されています。攻撃する武器では鏃(ぞく:弓矢の矢先)が発掘されました。矢は竹などの植物で出来ていたと考えられますが、威力を高めるために矢先は鉄で造れられていたようです。さらに守備するものでは鎧(よろい)や兜(かぶと)の金具が発掘されています。金具は日本的なもので、中国だけではなく日本の文化との交流もあったことがこのことからわかります。
問:何故、難攻不落の城といわれているのか
いつ頃から「難攻不落の城」と言われているのかはわかっていません。今帰仁城跡の城の造りや、首里の中山が今帰仁攻めにとても苦労していたことが歴史文書にかかれていることから、そういわれたのかもしれません。
城の造りは東側が断崖絶壁、西側は高い城壁で守られています。さらにその城壁には戦闘を優位にすすめるために様々な工夫がなされています。城壁は真っ直ぐではなく、わざと波打つようにして築かれています。これは城壁の外側に一定の間隔を空けて突出した部分をつくることで、城壁に迫る敵を横から斜めから攻撃できるように工夫された造りになっています。
問:城政策にかかった費用
???
問:どれだけの人数で作ったか
今帰仁城跡の石垣は発掘調査で14世紀の中頃に造られはじめ、15世紀の前半には現在見る形にまで出来上がったようです。おおよそ70年くらいかかっていますので、多くの人と時間を費やしたことがわかっています。
問:どんな仕事があったか/食生活/洋服/お金/家/当時の今帰仁村の人口
(北山王の時代のムラ・シマの生活状況は以下のようなものでしょうか)
・1500年代に「みかない」と税が出てくるので季節に税を穀物や酒で納める。
・首里王府や役人に今のお歳暮をおくる習慣がある。(イノシシや珍しいものがとれると)
・山や谷があり、欃、桑、竹、松、梅などの材木がある。
・家にネズミがいて、牛や鶏や猫をかい、牛鶏は食べない。食べたらと促したらアカンベされたと。
・お酒をつくる。
・鳥に鴎(カモメ)、鷺(サギ)、黄雀鳩(キジバトか)あり。(鶏は食べない?)
・昆虫に蚊(カ)・ハエ・カタツムリいて、カタツムリを煮て食べる。
・粟の種を10月に植え、2月から3月に刈りいれる。2回目は、再び植えて7、8月に収穫する。
・麦を植えて秋に牛糞を手で田に入れる。道具は鍾(ショウ:木のヘラ)を使って土を起こして、おう。
・粟・麦・豆を植える。
・土器で飯をたくが五、六日で壊れる。
・飯を入れるのは竹筒を用いる。
・カマドがなく、磁器の器はなく木の葉にのせてたべる。(おにぎり)
・塩・しょうゆがなく、海水で野菜や魚を和え物にして食べる。
・野菜にはヒル・ナス・真瓜(ウリ)あり。
・酒は濁りあり。清酒はなし。
・肴は乾魚を用いる。魚や野菜などの煮物。
・耳に穴をあけ、穴をあけるのに青い小さい珠でする。
・男女とも皆はだし。
・婦人は墨を以て手に黥し、文を為す。
・男子は髪を絞りまげてたたみ、縄で束ねる。
・髭をのばし。ヘソあたりまである。
・婦人の髪は長く、立つとカガトまであり。髪を頭の上に輪に結って押木をさす。木のジーファ。
・家はおおむね一室。木の床。敷物は蒲のむしろ。
・木綿がなく苧麻(マーウ)で織って布にする。箴杼(シンショ)機織り機で織る。
・暑さしのぎにシュロの葉で笠をつくる。
・家に厠(トイレ)がなく野にする。
・蝋燭はなく夜になると竹を束ねたタイマツで照らす。
・地をほって小さい井戸をつくり、ヒサゴで水をくむ。
・死者は山や崖下に葬る。
・今帰仁村の人口(下の数字は沖縄本島)みんなで予測してみましょう。
現在:140万人 18世紀 20万人 17世紀初頭 15万人 15世紀 10万人
今帰仁村 4000人(本部含む)すると、一村 20世帯~60世帯くらいでしょうか???
2013年1月23日(水)
これから『諸志誌』の編集会議。各世帯の聞き取りと諸志のシンボルマークの話でもうかがいましょうか。シンボルマークは公民館で今日撮影します。
諸志のシンボルマーク(説明書・諸志公民館)(昭和54年10月)(上間仙信氏作)
一、諸志の頭文字を取り入れて表現したのであるが、字の意味は「もろもろ」と解され、
物事が多いことでシンボルとして意味がはっきりしないので、その意味を明らかに
する必要がありと考え二通りに分類して意味を明確にすると、
二、その一つ言という字は人々の口から出る言葉のことであり、その言葉は聞く人々の
心に通ずるものであるので言葉は心のこもった正直なものでなければなりません。
よって人々にとって重大なるものである。
三、二つ目は者という字でありますが、この字は人を指す字であり、訓読みでは物事をはっ
きり区別する意味を有し、これをまとめて位置づけると心のこもった正直な言葉を使う人
であって、物事をはっきり区別する人を表現したのである。
これがすなわち諸志の人の誠心を表現するにふさわしいシンボルであると確信した
からである。
四、次に周囲環境を表現し、緑豊かな諸志を形づくり諸志特産のさとうきびが大地に力強く
根を張り青々とおいしげる環境の真中に諸志を位置づけしたのである。
五、その次は布地の赤色はくもりなき真心を表し大自然の太陽をまともにうけ心豊かな諸志
人を表現すると共に、諸志人の心を金色にして遠慮なく四海否、広き社会に放ち輝やく
表現したシンボルである。
2013年1月26日(土)
午前中、古宇利小学校の学習発表会へ。その後、久しぶりに古宇利島の「七森、七御嶽」を訪れる。昨年の台風の倒木と草でマーハグチとトゥンガヌウタキは入ることができず。ソーヌウタキの全景は解るがイベは未確認。古宇利島のタキヌウガン
古宇利島の御嶽(ウタキ)を見ていると、御嶽(ウタキ)とイベは明確に区別してみていく必要がある。御嶽(ウタキ)内のイベを丁寧に見て行くと、イベは半洞窟、洞窟内、森の上部、祠などがある。イベに石、香炉、ビジュル、墓、人骨などが置かれ、同一ではない。『琉球国由来記』(1713年)に中嶽(ナカムイヌウタキ:ナカモリノ御イベ)とサウ嶽御イベ(神名伝わらず)、カマニシ嶽御イベ(神名伝わらず)とある。御嶽とイベに神名が記されている場合が見られるが、イベやイベの祠を見ると、「一門や一族、あるいはムラの発祥の場」の観念が強く見られる。イベから生まれた、あるいはイベに元祖となる人が葬られているとの観念がみられる。イベは女性の陰部、そこから生まれる、一門、一族、あるいはムラの発祥の観念が見られる。古宇利島の御嶽は、担当の神人がいることも、神人が出す一門の元祖となる場と捉えることができる。
そういうこともあって、森全体が御嶽、そして内部にある半洞窟やガマや岩などがイベである。
【マーハグチヌ御嶽】
▲マーハグチヌ御嶽 ▲マーハグチのイベ(墓:人骨)
【トゥンガヌ御嶽】
▲トゥンガヌ御嶽の森 ▲トゥンガヌ御嶽のイベ
【プトゥキヌメーヌ御嶽】
▲プトゥキヌメーヌ御嶽(全景) ▲御嶽へのイベへの入口 ▲御嶽のイベの石
【ハマンシヌ御嶽】(ビジュルヌメーヌ御嶽)
▲ハマンシの御嶽(森全体)の入口 ▲御嶽のイベ(ガマ) ▲ガマの中のイベ
【ナカムイヌ御嶽】
▲後方の森がナカムイヌ御嶽 ▲御嶽内のイベの祠 ▲祠内のイベの様子(人骨あり)
【マチヂヌ御嶽】
▲マチヂヌ御嶽の森 ▲マチヂヌ御嶽のイベ(半洞窟) ▲イベの様子
【ソーヌ御嶽】
▲ソーヌ御嶽全体(森)
2013年1月29日(火)
グスク(ウタキ)と殿(トゥン)と集落との関わりをしるため、現うるま市の兼箇段グスクと喜屋武グスクまでゆく。まず気づかされることは御嶽(ウタキ)がグスクにもなっていること。それとそれぞれのグスクに地域を支配した按司伝承があり、その支配者の墓(御骨)が葬ってある。それと御嶽(グスク)と関わる集落(一門)と関わるイベがある。そのような事例をみていくと、御嶽・グスク、按司居住跡の殿(トゥン)などの様子が見えてくる。
【兼箇段グスク(御嶽)】(現うるま市)
『琉球国由来記』(1713年)でいう兼ヶ段村の「カナ森」(御嶽)は兼箇段グスク。御嶽がグスクとも呼ばれている例である。イベは「イシノ御イベ」とあり、後方の岩(石)をイベ名にしている例である。明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」田代安定撰録)では「兼ヶ段御嶽」とある。
麓にあるのが「殿(里主所)」であろう。内部をみると火神、三つの香炉があり、里主の住居跡とみられる。殿前は広場となっていて、反対側に舞台が置かれる。山原のアサギミャーの形態をなしている。
▲兼箇段グスク(カナ森:御嶽) ▲頂上部に近い岩場に墓あり
▲殿(里主所) ▲殿の内部(火神:イベ) ▲兼箇段御嶽 ▲兼箇段御嶽のイベ
兼箇段でバッテリーが切れたので、喜屋武グスクと江洲グスクは以前撮影した画像で。
【喜屋武グスク】
・シードゥガー
・火の神
・トゥム神
・喜屋武按司の墓
【江洲グスク】(現うるま市)
江洲グスクに江洲按司一族の墓があり、墓碑に「兄あんすあんし墓左」「妹つきおやのろ墓右」とある。「江洲グスク」は『琉球国由来記』(1713年)でいう「土城嶽」(ウタキ)だろうし、「グスク嶽ノ殿」もそこにあると思われる(確認必要)。
「沖縄島諸祭神祝女類別表」田代安定撰録:明治17年頃)に「□□御嶽」と「ノンヂ御嶽」とあり、前者は江洲グスク(御嶽)とみられる。そこでも御嶽をグスクとも呼ばれる例である。
江洲グスク(御嶽)に江洲按司一族の墓地になっている。御嶽内に墓の外にいくつかのイベがあり、それは江洲村と関わる一族あるいは一門のものであろう。
▲江洲グスク(□□御嶽)全景 ▲グスク(御嶽)内の江洲按司一族の墓 ▲江洲按司の墓
▲江洲公民館側の拝所 ▲江洲一族の系図を記した碑(墓の図あり)