2013年4月1日(月)

 大宜味村の北側をゆく。根路銘からはいり、大宜味、大兼久、饒波、喜如嘉、謝名城、田嘉里まで。各地を踏査していると、次々と変貌していく姿を記録し、次の世代へ橋渡しをすることを目的としている。ここで紹介する画像は限られているので、他はハードディスクに保存。


【根路銘】
 『琉球国高究帳』に「国頭間切ぬるめ村」と登場。田港間切の創設が1673年なので、それ以前は国頭間切の内。『琉球国由来記』(1713年)には根路銘村と直接登場しないが、根路銘掟と根路銘地頭(脇地頭)があり、根路銘村があったことが伺える。

 大宜味村から城ノロの管轄、根路銘村は根路銘掟と根路銘地頭は田湊巫火神(屋古前田村とに関わっているので田港ノロの管轄であったとみられる。現在、海神祭のハーリーは根路銘(上原)で独立して行われているが、かつては塩屋湾でのハーリーに参加している。

 根路銘川の左岸に鍛冶屋跡があり、祠内に鞴(フイゴ)?と金槌がある。根路銘の字章は○金になっているので、鍛冶屋の金万と関係するか。





【大宜味】
 大宜味は大宜味間切の番所が置かれた村(ムラ)である。間切番所は1673年に田港間切が創設された当初、田港村(ムラ)に置かれた。田港間切から大宜味間切に変わった時、間切番所も田港村から大宜味村に移動したと見られる。時期ははっきりしていないが、間切番所は大宜味村から塩屋村へ移る(塩屋小学校地へ)。

 隣接する大兼久は大宜味村(ムラ)に含まれていたとみられる。『琉球国由来記』(1713年)に、大兼久村はまだ登場してこない。大宜味村の御嶽は「オミカサノ嶽」とあり、イベ名(神名)はアカウトリヅカサとある。

 大宜味の御嶽の祠に9基の香炉が置かれている。寄進された香炉の年号は摩耗し不明。数多い香炉の数は大宜味村に番所が置かれていたことと無縁ではなかろう。田港村の御嶽に20基程の香炉があるのも、そこに番所があったことが起因していると見られる。

 
  ▲根神屋と神アサギと舞台    ▲カミヤー(アギハーリーのスタート地)


   ▲大宜味御嶽のイベ(祠)             ▲祠内の香炉


【大兼久】



【饒波】



【喜如嘉】



【謝名城】



【田嘉里】



2013年4月1日(月)

    山原(やんばる)紀行(沖縄県北部) (平成13年講演レジュメ)

 沖縄本島北部を山原(やんばる)といいます。現在名護市を中心に二町、九村(離島村が三)があります。その中からトピカルに紹介します。 

1.山原の歴史的素描
 沖縄県本島の北部には国頭村(5,840人)・大宜味村(3,534人)・東村(1,954人)・名護市(屋我地村・羽地村・名護町・屋部村・久志村我合併、56,301人)・今帰仁村(9,541人)・本部町(14,553人)・恩納村(9,779人)・宜野座村(5,133人)・金武町(10,454人)、離島に伊江村(5,398人)・伊是名村(1,965人)・伊平屋村(1,635人)があります。北部市町村の人口は約13万人(平成13年)です。

 沖縄本島北部のことを山原(やんばる)と呼びますが、歴史的には11、12世紀頃から各地のグスクが次第に勢力を持ちながら統括されていく時代があります。

 沖縄本島北部は根謝銘(ウイ)グスク(現在の大宜味村謝名城)、親川グスク(別名羽地グスク、旧羽地村で現在名護市)、名護グスク(現在名護市)、金武グスク(現在金武町)、今帰仁グスク(現在今帰仁村)の五つのグループにまとまります。さらに、それらの五つのグループをまとめたのが今帰仁グスク(別名北山ともいう)で、北山という小国家が形成し北山王が統治します。沖縄本島が北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代です。五つのグループは、後の国頭間切、羽地間切、名護間切、今帰仁間切、金武間切へと繋がっていきます。

近世になる国頭間切と羽地間切を分割して大宜味間切(1673年)、今帰仁間切を分割して伊野波(後に本部)間切、名護間切と金武間切を分割して久志間切(1673年)、金武間切と読谷山間切を分割して恩納間切(1673年)が創設され、その区分が現在の市町村の行政区分につながってきます。

五つの中堅クラスのグスクがさらに一つにまとめられます。その頂点に立ったのが今帰仁グスク(北山城址・今帰仁城跡)でした。

 ちょうどその頃、沖縄本島の中部地域が浦添グスク(後に首里グスク)、南の方は南山グスク(大里グスクと高嶺グスク)にまとまります。その時代が沖縄の歴史の三山鼎立時代といわれています。三山鼎立時代の北山をまとめあげ、その中心となったのが今帰仁グスクでした。 

2.北部病院の前方に名護グスク
 沖縄県立北部病院の前方に見えるのが名護グスク(ナングスク)です。桜の名所としてよく知られています。そのグスクは石垣のないグスクとして特徴を持ちます。また人工的に稜線を彫り切った「堀切」でグスクの境界を示しています。グスクの中心部に御嶽のイベに見立てた拝所と神アサギがあります。

 名護グスクに上ると名護のマチが一望でき、二月には桜祭りが行われます。現在名護市は北部の中心都市となっています。マチの展開は明治17年の国頭郡役所の羽地間切(親川)から名護に移転したことが、きっかけとなり、北部の行政の中心地となり発達し、現在に至っています。 

3.世界遺産の今帰仁グスク
 今帰仁グスクは北部(山原)の政治的に、あるいは文化を築き上げたグスクです。200012月に世界遺産に登録されたグスク(首里城・中城城・座喜味城・勝連城・今帰仁城)の一つです。他に園比屋御嶽・王陵・識名園・斉場御嶽が世界遺産に登録されました。

 今帰仁グスクは今帰仁村今泊にあり、標高約100mに位置しています。城壁の総延長は約1.5kmあり、古生代石灰岩を使って城壁を積み上げています。このグスクの城主は北山王と呼ばれ、怕尼芝(ハニジ)・a(ミン)・攀安知(ハンアンジ)の三名の王が文献に登場します(もっと多くの王がいたでしょうかが)。1383年から1416年に至る三王の時代が隆盛を極めた時代です。

 今帰仁グスクの大内原に立つと伊是名・伊平屋が眺望でき三山鼎時代には北山王の支配下にあった。国頭の辺戸岬の後方に与論が見え北山王の三男が派遣され、沖永部は北山王の次男が派遣され北山の支配下にあったといわれます。 

4.国頭の根謝銘(ウイ)グスク
 現在大宜味村謝名城にあるグスク。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して創設された間切である。根謝銘グスクは本来国頭間切内にグスクで、国頭地方を統括したグスクです。根謝銘グスクは別名上グスクと呼ばれ標高約100mのところにあります。

 グスク内に神アサギがあり、旧暦の盆明けの亥の日にウンガミ(海神祭)が行われ、祭祀は城ノロの管轄です。 

5.親川(羽地)グスク
 旧羽地地域を統括したグスクで、羽地地域は首里王府時代から琉球の米どころとして知られ水田が広がっていました。羽地一帯で収穫した仕上世米は、羽地内海の四津口(那覇・湖辺底・運天・勘手納)の一つである勘手納港(現在名護市仲尾)から積み出されています。またこの港は北山(今帰仁)が中山の連合軍に攻め滅ぼされたとき、連合軍が終結した港として知られています。1816年にはイギリス人バジル・ホールの一行が訪れています。

6.金武グスク
 金武グスクは金武地方をまとめたグスク。現在の名護市の久志(間切)と恩納(間切)地域を包括した範囲を領地としていたであろうが、金武グスクそのものが破壊され、歴史的にほとんど解明されていないグスクである。 

山原にはグスクの他に、次のような名所があります。 

7.国頭村の辺戸岬
 沖縄最北端の辺戸岬はかつて県民が「祖国復帰」を祈念した広場で、昭和51年に祖国復帰祈念の碑が建てられました。晴れた日には与論島や沖永良部島・徳之島を望むことができ、初日の出の名所となっています。近くに琉球王国の聖地の一つである安須森の御嶽(あすむいのうたき)があり、現在でも毎年5月・12月に付近を流れる辺戸の大川(ウッカー)から首里城に届ける御水取りの儀式が行なわれています。 

8.与那覇岳とヤンバルクイナ
 与那覇岳は沖縄本島で一番高い山で、亜熱帯を代表するイタジイの森に 104科 378種の植物と37科74種のせきつい動物、 300種以上の昆虫やクモ類がすんでいます。1982年に新種として発見された飛べない鳥、ヤンバルクイナや、一属一種で世界にここだけしかいないノグチゲラ、また足を伸ばすと13センチに及ぶ日本最大のコガネムシ、ヤンバルテナガコガネなど絶滅寸前の稀少種も生息し、森一帯が国指定の天然記念物となっています。

9.大宜味村喜如嘉の芭蕉布
 芭蕉布は糸芭蕉の幹からとった繊維で織られた布で、戦前まで沖縄の各地で盛んに織られ、粗い糸は庶民の、細かい糸は位の高い人用と、糸の太さに応じてあらゆる階級の人々が着ていた着物でした。

 喜如嘉は戦前から芭蕉布の大きな産地でしたが、戦後途絶えかけていたのを倉敷から帰郷した平良敏子さんが復興に情熱をかたむけ、喜如嘉の婦人たちによって質の良い芭蕉布がまとまって生産できるようになりました。 

10.今帰仁村の運天港
 運天港は現在古宇利島への船の発着港ですが、沖縄本島北部を代表する歴史的な港です。

 滝沢馬琴の『椿説弓張月』は、平安時代の武将源為朝が運を天にまかせて流れ着いた港であるという伝説を有名にしましたが、1471年に朝鮮王に献上された『海東諸国紀』の「琉球国之図」で運天港はすでに「重要な津(港)」として記されています。海外交易の北の拠点であり、首里王府への上納物の集積所、薩摩の対中国政策、仕上世米の積み出し港、イギリス人バジル・ホールやアメリカのペリーなどの来航、運天番所の設置など、様々なテーマを持ち、今帰仁グスクと対となって琉球の歴史を描くことのできる港と言えます。 

11.本部町備瀬の福木並木
 海洋博公園側の海辺の集落である備瀬は碁盤の目状になっており、それぞれの屋敷が福木で囲われていて、集落全体が福木のトンネルのようです。

 福木は常緑高木の固い木で、古くから防風・防潮・防火林として屋敷囲いに利用されてきました。風の強い日には温かな空間を、そして夏の暑い日には涼しい木陰をムラに提供してくれます。

 備瀬の集落を散策すると、古い屋敷跡、井戸、珊瑚石灰岩を使ったブタ小屋の跡などかつてのムラの風景を味わうことができます。

おわりに
 山原地域には、これだけでなく海洋博覧会記念公園の水族館や伊江・伊是名・伊平屋などの離島があり、また字(あざ)の集落内に足を運び、シマに住む人々と声を交わすと、海や自然の美しさ、そして「時間の流れ」の豊かさが実感できるでしょう。    
  (於:沖縄県北部病院 講演レジュメ、医師会の機関紙へ掲載)



























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