2001年12月の記録

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2001.12.28(金)

 今年最後の書き込みとなります。今日が御用納めです。9月から「歴史文化センターの動き」で日々やってきたことの一部ではありますが、存分に書いてきました。それまで調査ノートやメモなどに記録してきました。それは、誰にも読めるものではありません(私自身でも読めません)。「うごき」がノート代わりに書き込めたことは幸いでした。この「うごき」は「まあ、2、3週間続けばいいのかな?」「書くことがあるのかな」「ネタ切れするだろうな」と不安な思いをいだきながらのスタートでした。8月分はパソコンに慣れていなかったこともあり消してしまいました。残った9月途中からとなっています。

 内容は全体として、まだまだ小振りな動きですが、来年の4月からもっと大きな動きにする予定。この歴文センターのホームページそのものを博物館にしたいと考えています。ボツボツ、パソコンの容量や人材の心配しなければなりません。もの知りの博物館というより、足が地についた生きた百科事典風の博物館をイメージしています。それもムラ・シマの方々との関わり、そこから生まれてきたキーワードや信頼関係を築きながらの作業に切り替えていく予定。

 このホームページは公開していますが、ノート代わりだと思っていただければ幸いです。9月からの「うごき」を振り返る余裕はありませんが、手ごたえは十分感じています。やはり、読んでいる方の声が一番の力になっています。また、その声のおかげで持続できました。ありがたいですね。感謝しています。
 新年になると、山原を中心としたシリーズものをスタートさせます。お楽しみに。よい年をむかえますように。


2001.12.27(木)

 キリ短(沖縄キリスト教短期大学)の留学生達がやってきた。続いて名桜大学の学生達も。学生達がやって来ることは、老いぼれかけたわたしはいつも楽しい。両大学とも留学生である。中国や南米の学生達が、沖縄(琉球)の歴史や文化をどう学んで行くのか。どう受け止めていくのか、非常に興味深い。
 南米からきた学生は沖縄二世か三世である。沖縄あるいは日本の言葉がまだ十分理解できるわけではないが、沖縄の歴史や文化や生活様式などについて話すと、目を輝かして聞きいっている。ときどき逆毛が立つ様子も伺えた。外国人ではあるが、やはり沖縄人でもあるのだと気づき血が騒いだにちがいない。

 中国の福建省からやってきた学生は、歴史文化センターの展示をみながら自分のクニのものだと、目を輝かせて涙ぐんで見ている。500年あるいは600年前の先人達が焼き上げた陶磁器類が東シナ海を越えて小さな琉球国に数多く運ばれたことへの思いなのであろうか。自分たちの先祖が、あるいは先祖がつくった品々が歴史的な遺産として目の前に歴史の重みをもって展示されていることが、胸内の琴線を弾いたにちがいない。学生達の反応や表情をうかがい、そして楽しみながら歴史や文化や人となりを語りながらの案内役だった。 

今泊のプトゥチウガン(解の御願)

 12月24日、今帰仁村今泊でプトゥチウガン(解の御願)があった。今泊公民館(ムラヤー)の隣にあるフプハサギで午前11時頃今帰仁ノロ・区長・書記の三人で祭祀を執り行っていた。その日に回った場所は、ヌンドゥルチ(ノロ家)・フプハサギ(親泊)・セークヤーヌハー・ハサギンクヮー(今帰仁)・ウッチハタイを御願して公民館に戻った。公民館の縁側で外側に向かって平線香・神酒(泡盛)・餅・花米を供えて祈る。今回、今帰仁グスクへは白餅(三枚重ね)の二皿と花米、神酒(泡盛)、平線香を供えて遥拝したという。セークヤーヌハーでも同様な供え物を供えて祈願をした。そこはかつて池だったのだが、池の形は残しているが利用されていない。道路の途中まではみ出しているが、埋めることなく祭祀場として遺している。

 以前はクボウヌウタキ・グスク内の神ハサギ跡・カラウカー・火の神の祠・テンチヂアマチヂ・ソイツギノオイベ、さらに今帰仁グスクの入口付近にあるフィドンチ・ウイヌンドゥルチ・トゥムヌハーニヌルドゥンチの順に御願をしたという。今では今帰仁ヌンドゥルチで遥拝しているにすぎない。「一年間に願いごとをした神に感謝して願いを解く日」(『今帰仁村史』)だという。

                                           ▲フプハサギでのフトゥチウガン      ▲セークヤーヌハーでの御願

2001.12.26(水)

 「酒田市少年の翼」(総勢43名)が今帰仁村にやってきた。25日(火)午前中は、今帰仁村字今泊の集落の散策。そして今日は歴史文化センターと今帰仁グスク。歴文センターでは今帰仁グスクから出土した遺物(中国製の青磁・白磁・陶器など)、人々の使った生活道具などの見学。それと「神人」の映画をみてもらった。画面に昨日散策した今泊集落の内の場面場面が登場する。また神人たちの祭祀の場面。散策した集落内での豊年祭や三線の音色に沖縄と酒田との歴史や文化の違いを体感したに違いない。

 最後は今帰仁グスク。正門・旧道・大庭・本丸・志慶真郭・テンチヂアマチヂ(御嶽)、そして大内原の順に足を進めた。大隈(ウーシミ)でミカン(シークァーサー)狩り、木によじ登って取るのもいる。いい思い出ができたでしょう。昨日交流会をした兼次小学校の生徒もグスクまでテクテク上ってきての見送り。ありがたいことです。「また、来たいと思うのは人ですよ」「人との出会いですよ」と、有り難い言葉をいただいた。ほんとにそうですね(感謝)。ましてや、給料をもらって仕事している立場です。わたしは(反省)。

 沖縄の美しい青い海、空をみると同時に異なった歴史や文化の深さに気づき、感動し、シマでであった通りすがりの金城のあばあの「パナ」(花・鼻)ティー(手)などの方言を酒田に戻り伝えてくれることでしょう。
 アオリヤエの勾玉が山形県に近い新潟県の糸魚川流域からきた可能性あり。また山形県出身の沖縄県令二代目の上杉茂憲(シゲモチ)が明治14年に、この今帰仁にもやってきたことがある。その足跡をきっちと遺している。「酒田少年の翼」も今帰仁に新しい足跡を遺してくれたにちがいない。今回もまた、いい旅になったにちがいない。そう思う。


2001.12.24(月)

 
午前中、今泊の集落をゆく。明治14年(120年前)、上杉県令は今帰仁城跡を訪れている。その日は雨だったようで「海天墨の如く、雨俄に至る」とし、さらに「景(色)のみるべきなし」と記している。天候に恵まれなかったのは残念である。今帰仁村と親泊村については「親泊、今帰仁の二村を過ぎ」としか書かれていない。今帰仁グスクについては、「上杉県令日誌」で触れるのでここでは省く。今泊の集落内を散策してみた。

明治の今泊村図

 今ここに一枚の地図を広げている。「国頭郡今帰仁間切今泊村全図」と銘打たれた明治36年頃のカラー図である。村(今の字)は海岸から山手に向かって細長く、さらに山手の方は尻尾の先のように細くなっている。集落は海岸に近い所にあり朱色に染められている。集落部分は小字で言えば、今帰仁と親泊である。今帰仁と親泊部分が集落の中心となっている地域であり、字(あるいは村)名となっている。「ここが村(ムラ)の中心地だ」と二つの村(ムラ)が主張しているかのように見える。この二つの村(ムラ)の村人の住む集落地域を散策してみた。

ムラヤーの響き

 まず、集落のさらに核となる現在のムラヤー(村屋)の方に行ってみた。今は公民館と呼ぶのであるが、シマの先輩方や一部若い者でもムラヤーと呼んでいる。それは今の字(アザ)が村(ムラ)であった時代、その長い歴史が村人をしてムラヤーと呼ばしているにちがいない。わたしにとっていい響きである。ムラ、ムラヤーの響きが村に生きる人々の声にも聞こえてくる。

 今帰仁側の公民館は字(アザ)の合併で親泊のムラヤーの方に統合されたが、今帰仁側の公民館の建物が今でも残っており、散髪屋として使われている。通りすがら覗いてみると二、三人の小学生達がいた。髪を切りに来たのか、散髪屋のおかみさんと遊びにきたのか。寝転がった子供が姿があった。

馬場跡(マーウイ・プーミチ)

 集落の中央部に約230m近い直線の通り道がある。シマの人々はプーミチと呼ぶ。プーミチは大きな道という意味である。馬場跡をしてプーミチと呼んでいる。馬場そのものが道としての役割を担っていたのである。番所と番所を結ぶスクミチ(宿道)とは別に集落内のメインストリートをしてプーミチと誇らしげに言っているのかもしれない。馬場跡と言えば村内に仲原馬場と天底馬場がある(あった)。最近みた資料の中に運天番所の前の通りも馬場として使われていたことがわかる。咸豊七年丁丑(1857)「御首尾扣帳」によると親泊馬場は旧暦の8月11日に、親泊馬場で馬揃(競馬)が行われ、ご馳走を持参して見物した」という。馬揃(馬走・マーパラセイ)はなくなったが、昔も今も変わらず豊年祭の舞台をほぼ中央部に設置して行っている。旧暦8月11日のヨウハビーには馬場跡の一角で獅子を小屋から出して演舞させる。

福木の並木

 今泊の集落の福木がいつ頃植えられたのか定かではない。集落の東半分の親泊側は別にして、今帰仁村は1609年の薩摩軍の琉球侵攻からそう遠くない頃に今帰仁グスクの前方ハタイ原から移動してきた。薩摩軍の琉球侵攻の時、西来院・名護・江洲が首里から親泊沖まで来て和睦の交渉を試みたが失敗に終わった。今帰仁グスクが薩摩軍によって焼き払われてしまう。その後、しばらくして今帰仁グスクの前方にあった今帰仁村と後方にあった志慶真村が移動した。現在の今泊の集落の西側がグスク前方から移動してきた今帰仁村の集落である。その時の集落移動で屋敷林として福木が植えられたのであれば約400年という歳月ということになる。所々舗装されていない道筋や福木のコブのよう木根や大木の屋敷林に触れながら歩いていると集落の移動・故地の拝所・碁盤型の集落形成・薩摩軍の琉球侵攻・北山監守三代目の和賢(津屋口墓、別名アカン墓)などが歴史の重なりとして思い浮かんでくる。

時間の流れの豊かさ

 神ハサギ(フプハサギ・ハサギンクァー)や祭祀、あるいはコバテイシや今帰仁グスク、港・宿道・稲作・アオリヤエ・今帰仁ノロなどについて、ここで触れないが、その一つ一つが村の歴史を豊なものにしている。南北に伸びる福木並木の道を乳母車を利用した車をおしながら買い物へいく姿、あるいは談笑しながらゆったりとした時間の流れに歩調を合わせたかのように歩く村人。戦前の裸足の時代、戦争、そして戦後の物資のない時代、昭和30年代から高度成長時代、宇宙に人間が飛んでいく時代、平成のバブル。琉球の歴史でいくつの黄金時代があったにしろ、そのような体験をした人々は過去になかったのではないか。集落の中をゆったりとした時間の流れ、我を忘れて立ち止まらせてしまう風景。鎌を持った手を腰にしながら近くの畑に向かうシマの老人が「ここは、いいシマですよ」と一言言い放った。一瞬、緊張感がよぎった。

 もともと今泊は今帰仁村と親泊村が合併、分離、さらに合併して現在に至っている。つまり、二つの村(ムラ)が合併した字(アザ)である。二つの村の合併や分離が、村の歴史の軸となっている。それだけでなく、今帰仁グスクという世界遺産に登録(平成12年12月)されたとてつもない歴史を持つグスクを抱えた村(ムラ・字)である。いろんな思いをめぐらしながらの歴史散策であった。


     沖縄県本島図

2001.12.22(土)

 
「上杉県令日誌」の運天部分の整理にはいる。紹介は次回になるが、なかなか興味深い。運天港周辺の様子。百按司墓や源為朝公のこと。そして問答。村学校や学校建設の件など。明治14年当時の運天番所や負債や人身売買などについて問答がなされている。また、20日に「歴史散歩」をしたので、整理できしだい報告する予定。

     
「酒田少年の翼」(山形県)がやってくる

 24日から酒田市(山形県)から「酒田少年の翼」の受け入れがある。村内の集落散策の計画がはいているのでコースの確認に出向いた。今泊集落の東側は何度か「ムラ・シマ講座」などで回っているので別コースも設定してみた。集落を散策するポイントやキーワードを見つけながら歩いてみた。気温は18度。馬場跡・コバテイシ・井戸・神アサギ・石垣・石敢当・福木並木・拝所・港跡?・獅子小屋・瓦屋根の家・赤瓦屋根の家・ブタ小屋跡など。

 酒田の皆さん、どんなことを沖縄で見つけてくれるか楽しみです。どんなコースができるかな?コースによってはミカン(ヒラミレモン)狩りができるかも。全員、海(海岸)に出ます。サンゴや青い海の美しさ体感できます。「泳ぎたいな」という人もでてくるでしょう。お楽しみに。お待ちしています。


2001.12.21(金 

       
屋我地大橋~運天港

 屋我は素通り。帰りに屋我の神アサギに立ち寄る予定。
    
【饒平名】

 上杉県令一行が上陸した、かつての饒平名村と我部村へ向かう。県道から左手に折れ屋我地小・中学校の方へ車を進めた。県道から屋我地中学校に至る道路が直線となっていて、辛うじて馬場跡の面影を遺しているとでもいえようか。それでも小字名に「馬上」(マーウイ)の地名を残してくれたことはありがたい。これだけでも感謝せねばならない。
 中学校寄りの海岸に出てみたが、塩田跡らしい場所が見つからず。後で聞いたら、「中学校のグランドの下ですよ」とのこと。塩田の眠る運動場か.....。近世末から塩炊きや塩売りで生計をたてた人々がたくさんいたのである。首里や那覇、それに泊などからの寄留人が多い。戦後、屋我地村(ソン)であった頃、饒平名に役所・郵便局・農協・学校などがあり、屋我地の中心地だった字(アザ)である。
   
【饒平名の神アサギ付近】

 饒平名の集落内に入ると、足は神アサギの方へと向いていく。ノロ家の側にある小さなコンクリートの神アサギ。神アサギの前に道路より一段と上がった広場がアサギ庭(ナー)である。広場の側に公民館(村屋・ムラヤー)がある。見ごたえのある福木の多い集落だ。饒平名の御嶽(ウタキ)までは少々距離があるが、ヌンドゥンチ・神アサギ・アサギナー・村屋(ムラヤー、現在の公民館)、そしてヌンドゥンチの裏手の空き屋敷の土手のに張った木の根、土手の下方に挟まった陶器の欠片や貝などがムラの歴史の長さを嫌がおうにも見せつけられる。ほとんど人影はない。神アサギ前の庭(ナー)に立つと気持ちよい、心地よい風がふく。「上杉県令日誌」をたどる「歴史散歩」は、まさに120年という時空を体感させてくれる散歩である。
                                           
     ▲饒平名のヌンドゥルチの後の屋敷の木の根と神アサギ
   
【屋我地の豊年祭】

 饒平名の区長さん話では、豊年祭は五ケ字(饒平名・我部・運天原・済井出・屋我)が順次交代で毎年やっているとのこと。「四ケ字では?」字(アザ)は饒平名・我部・済井出・屋我ではなかったか?「公民館は運天原にもあるし.....」。読谷山というイモを植えている老婆に聞いたら運天原も入るとのこと。運天原は昭和6年に分字している。「でもね。ムラによっては踊りを金で買ってやるんだよ.....」と老婆の一言。「それは、寂しいね」とつぶやいてしまった。
   
【ワイトゥのシマヌハー】

 どうも上杉県令一行は饒平名の御嶽のワイトゥイをとおり済井出村に向かっているようだ。「上杉県令日誌」に「丘山あり、古木森然たり、一井あり、水少し、白みを帯び、頗る清泉なり」の一井は饒平名のシマヌハーにちがいない。一行はそこから坂道をあがり、松並木道を通り済井出村に向かった。十二、三町歩いている。現在はパイン畑と砂糖キビ畑が続く。
   
【饒平名の御嶽(ウタキ)】

 「上杉県令日誌」のコースから外れて、そこらあたりから得意の自己中の散策にはいる。集落の後方の御嶽(ウタキ)らしき所へ一目散。御嶽に間違いなかった。神人が御願をするイベがこしらえられている。後で調べてみたらシマヌハー御嶽とメーダキ(前嶽)というようだ。二つの御嶽の間が割取(ワイトゥイ)になっていて、少し下った窪地にシマヌハーがある。シマヌハー御嶽の中には、フルディラ(古いティラ)とミーディラ(新しいティラ)がある。御嶽に入るとクバが目につく。のぼり気味に右手へ行くとフルディラに着く。半洞窟になっていて少しかがむ程で入れる規模の高さである。人形の形をしたビジュルがいくつもある。ニ、三男根の形をした石も置かれている。訪れた人々が拝んだ形跡があり、あっちこちに線香が散乱している。古宇利のビジュルメーやプトゥキヌメーと同様な雰囲気が漂っている。ここも子宝の授かるよう祈願する拝所にちがいない。ミーディラはかがんで入らなければならない。それは子宝が授かるようにとの祈願かもしれない。ノロをはじめとする神人達の素朴な祈りはムラの繁盛につながるものである。神人の祈りは国家へ租税が不足することなく納めなければならないことと、村人達が休息の日(神遊び)をとることの攻め合いへと展開していく(「神人の祈り」として別稿予定)。
    
【我部の二つの神アサギ】

 饒平名と我部の境界線がよそ者にはなかなかわかりにくい。とりあえず、我部の神アサギへ。1736年に現在の湧川地内から屋我地に移動した村である。移動後、我部村に松田村が合併する。今でも神アサギも二つある。松田アサギの壁に1963年とあり、今の神アサギはそのときに建立されたものである。小さな祠に見える。素朴な村だったような印象が神アサギに集落の大きさがかがえる。かつての神アサギを模したつもりであろうか。両側に三角穴をつくり神アサギらしくしてある。それは可愛いものである。向かって右が我部アサギ、左が松田アサギらしい(屋我地の神アサギ参照)。集落の後方にウガン(ガブウガミ)がある。故地の湧川地内にも拝所がある。移動集落の御嶽の位置は、故地に向かうことなく集落の高い方に御嶽をつくっている。人間が本質的にもっている集落を形成する軸線(御嶽―神アサギ―集落)なのかもしれない。
    
【済井出のマーウイと浜】

 明治14年済井出村の近くは水田やイモ畑が広がっていた。ガジュマルが多く目についたようだ。また、そこにも馬埒(馬場)ある。かつての馬場(マーウイ)は今では細長い公園となり草花が植えてある。公民館(村家)近くに大きなアコウの木が枝を広げている。ガジマルもあったという。馬場(マーウイ)跡の南端に立ってみると、向こう側にアコウの大木、右手の集落に福木が望める。集落の中は細い道筋が碁盤条のようで、直線的では必ずしもないようだ。馬場跡で豊年祭をしたこともある。また、アブシバレーの日に海岸に村の人たちが集り直会を今でもしている。済井出のユナジ浜に行くと、日よけの帽子をすっぽり被った70歳程の婦人がハマグリを取っていた。10メートル位掘り進んだ跡があった。「取れますか?」と聞くと白い歯を見せながら「ダメですね。小さいです....」続けて「6月頃、夏には一杯とれるのですが......」と声が途切れた。海の彼方に目をやると二つの小島の間に国頭方面の山々、そして「上杉県令日誌」の「カヤウチバンタ」の岬がしっかりとみえた。老婦人に「海面は湖のようですね.....」と一言。聞こえたかどうか。済井出の浜を後にした。
   
【屋我地の運天原】

 県令一行は済井出から運天原まで歩いて行ったようだ。古宇利島に近いところから舟に乗り、今帰仁側の岬(運天)と古宇利の岬の間に伊平屋島を望んでいる。古宇利大橋の屋我地側の橋元あたりの海上を通過している。橋元からしっかりと運天の岬と古宇利島の間に伊平屋島が見える。120年前も今も変わることなく伊平屋島が見える場所であるが、そこは今建設中の古宇利大橋の根元となっている。様変わりする場所である。10名余の方々が黙々と遺跡の発掘調査をしている姿があった。柱穴らしきものが出てきていた。「カニの穴ではないか?」「イヤ、カニの穴はもう経験づみです。途中から横になりますから」と厳しい視線が飛んできた。

 もう一度、伊平屋島の方へ向きをかえた。運天港(浮田)から出た伊平屋丸が古宇利島近くから外洋へと向かっていた。今日は臨時便が出ているのか、第八古宇利丸が何度も往来している。
 左手に運天番所と首里警察分署のあった運天港が見える。
                                         
      ▲運天岬と古宇利島(間に伊平屋島?)と済井出の浜

2001.12.20(木)

  「公民館講座」最終回。体調の悪い中での講座が続iいた。今日は特に資料の準備さえできず。もちろん、時間が取れなかったということもあるが、それは言い訳にすぎない。参加者には申し訳なかった。来年は別の形で進める予定。今帰仁は、やはり見事な地域である。足が地についた風土と歴史を持っている。そのことが、ことある毎に実感させられる。

  80枚のスライドを準備。運動公園にウリミバエ駆除用のヘリコブターがあった時に上空から撮影した学校のスライドを用意。10年前のこと。「ヘリコブターを引き揚げるので、乗りませんか」と声がかかり、準備していたら、天気が悪く 
とうとう乗ることはなかった。その頃撮影のスライド。
 村内の学校・松並木・稲作・川(水路)・洗濯場・馬場跡・家・ブタ小屋・赤瓦屋根の建物・人々などのスライドの映写をしました。現在、そして過去50年前の場面。時の流れと様変わりの風景。そこから発してくる思いと物の考え方が様々な形で湧き出てくる。

 ちょうど、「上杉県令日誌」のルートをたどっている最中である。それは今回の講座の延長線上にある。全体のまとめは「なきじん研究 11号」に収録の予定。お楽しみに。参加者の皆さんごくろうさまでした。(館長)
                                            

 
  ▲公民館講座で映写したスライドのうちの2枚。1950年代の
    沖縄県今帰仁村今泊の様子(水田や茅葺きの家)


2001.12.18(火)

 12月17日(月)、「上杉県令巡回日誌」をベースに羽地から屋我地、そして運天まで「歴史散歩」をしてみた。その一部を紹介する。その目的は120年前、上杉県令が巡回したルートを重ねて、そこから現在という時代を見ていこうとするものである。

     名護市田井等~屋我地大橋まで(1回)

 名護市(羽地村)の田井等から入いる。それには理由がある。羽地の中部地域は、10数年前中村誠司氏(当時名護市史、現名桜大学)と「羽地間切針竿入帳」(1737~50年)の分析作業をしたことがある。一帯の小字や地形や拝所、それにハル石(原石)などで、くまなく歩きまわったことがある。あの当時、記録を取ったか定かでないが拝所調査の記録を残した記憶がある。どこかにまぎれ込んでいるのだろう。それは別にして、かつて歩いたビジュルや伊勢頭神の祠、神アサギ(お宮になっている)などを訪ねてみた。
    
名護市(旧羽地村)

【ビジュル】
  ビジュルは三枚の石を立て、その上に一枚乗せて祠にしてある。その内部に人形の形をした(鍾乳洞石)石を祭ってある。当時は欝蒼とした小さな森の中にあったように記憶してたが、現場をしっかり残したのであろうが、両側サイド道路が通り、中央部に小さな公園をつくりその角に置かれている。
    
【伊勢頭神】
  伊勢頭神の祠の中に火神、そして「責寿堂」の扁額がある。文字がなかなか判読しがたい。右側に置かれた聯が二本あり、対をなしている。下半分が朽ちて破損しているので読めない。裏面に「伊勢頭神様羽地間切田井等」とある。伊勢頭神は古宇利の海勢頭に相当する男の神役である。伊勢頭は大勢頭のことなのかもしれない。
  「雍客爼豆香雍」と「敬責□衣□□」」の字の判読の困難な扁額がある。
    ↓
【田井等神アサギ】
  田井等神アサギは、他の神屋が合祀されているようで、その中に獅子や扁額、刀二本、稲穂が祭られている。お宮の中の扁額の表に「徳其盛」とあり、裏面に「寄進羽地平良村人民」とある。神アサギと獅子小屋を一緒にしたような造りである。前方が神アサギ、後方が獅子小屋であろう。神アサギの前方にアサギナーがあり、周辺に福木・松の大木・ガジマル・デイゴなどがある。周辺が市街化していく中で、辛うじて残された遺産となっている。(写真は神アサギの奥の扁額「徳其盛」の額)

                          
    ↓
【親川グスク】(別名羽地グスク)
 そこから親川グスク(別名羽地グスク)へ。グスク周辺は土地改良で削り取られ、かつての丘陵地は変貌し畑地になっている。ヒチグスクと親川グスクとの境に割取(ワイトィ)があり、それはグスクの堀切である。このグスクが機能していた頃、グスクを拠点に勘定納港を利用していたのであろう。
    ↓
【池城神アサギ】(グスクアサーギ)
  グスクの前に新しく神アサギが建てられている。おそらく、この神アサギは「琉球国由来記」(1713年)に登場してくる「池城神アシアゲ」(田井等村後に親川村)にちがいない。この神アサギは根謝銘グスクや名護グスク、そして今帰仁グスク内にある(あった)神アサギと同様な形態をもつ。内部にはいつも稲の穂が置かれている。神アサギに三面アルミサッシの扉がつけられている。初めてではないか。アサギの建物の移り変わりで画期的かもしれない。建設した方は、神アサギってを知っていたのであろうか。
    ↓
【羽地番所跡】
 羽地番所は旧羽地村親川に位置する。その痕跡がほとんどない。辛うじて、かつて番所のあった丘が壊されずに遺されているにすぎない。明治14年に上杉県令が訪問した国頭役所(県の出張所)があった場所である。国頭役所は翌15年名護の博物館の隣あたりに移動した。それから名護がマチとして発達していったのである。山原の中心が名護にったきっかけとなった記念すべき出来事かもしれない。
    ↓
【仲尾の勘定納港】
 仲尾の方へと足を進めた。そこはやはり勘定納港、そして官庫(倉庫)が思い出される。集落からトンネルに向かって左手の方(親川)に向かう道がある。そこから仲尾の集落が一望できる。トンネルは大正8年に開通(因みに運天のトンネルは大正13年)したので、それ以前は親川に抜けるこの坂道が主要道路だったのであろう。仲尾の地形は今帰仁村の運天港のあるムラウチ集落と同様お碗の半分にしたような窪地、琉球の四津口の一つ。仲尾と運天は共通した条件を持った場所である。

 仲尾集落へ下りる坂道から仲尾の集落・羽地内海・屋我地島、その向こうに古宇利島が眺望できる。
 仲尾の集落の角に倉庫跡があり、勘定納港から羽地一帯の仕上世米を大和へ運んだ港である。運天港もそうであった。桟橋がある港だと連想するだろうが、勘定納港が本来の港の姿を見せているのかもしれない。そこでの過去のいろんな出来事がよみがえってくる。1416年三山鼎立時代に北山が滅ぼされた時、今帰仁を除いた国頭・羽地・名護・金武の按司達は中山に組みした。その時、連合軍は勘定納港に集結し、そこから今帰仁グスクを攻めたという。
 その他に、バジル・ホール、ペリーの一行、上杉県令、笹森儀助など。山形県令一行が訪れたとき、舟にのぼりを立て、幕などを飾って歓迎したのはどの時代も変わりはないようだ。

                           
                       
  ▲勘定納港のある仲尾集落 
   ↓                                 
【羽地内海の島々】

 車で屋我地大橋を渡る。羽地内海に浮かぶ10点余の島々。仲尾側からは島々がはっきりしないので、屋我地側に回ってみた。確かに10余の小島があり、まだ健在だ。屋我地大橋から、その数がよくわかる。撮影するには遠すぎる。角度としてはいいのだか。砂洲となった砂浜の流木の枝ぶりと古風な木木(カンプイ)がいかにも時の流れと動かざる過去の地理的空間をしっかりと見せてくれる。
                                   
2001.12.16(日)

 明治14年2代目の上杉茂憲県令が着任6ケ月後の11月8日から12月にかけて廃藩置県後の各間切の状況を巡回視察した『上杉県令沖縄県巡回日誌』を通して120年前の「歴史散歩」を試みてみることにする。まずは、羽地国頭郡役所~運天番所まで。(概略)

 時は明治14年11月28日のこと。午前9時に羽地間切にある
国頭郡役所(明治15年名護に移る)を出発することに始まる。
  勘定納港(羽地間切仲尾村)
   ↓  勘定納に瓦葺の倉庫あり。
   ↓  役人などが送る。
   ↓  舟を集めて待つ。
   ↓  緑竹を半月に撓(タワメ)め舷(フナバタ)を結わえ
   ↓  羽(羽地間切)の字が染め抜かれている。
   ↓  青幕を蔽い、楼船に擬したり。
   ↓  県令・高尾・村田・内川・秋永・左近司・三俣・村吏員が
   ↓    乗る。
  奥 島(羽地内海に浮かぶ島)       
   ↓  陸前の松島に匹敵する。岩礁が10余あり。
  屋我地島(島に四つの村あり。周辺約9km、戸数300余)
   ↓  舟をおき、薯圃の中を行く。
   ↓  塩田が数ヶ所あり。潮を焼く(年に凡そ700石)
   ↓  米は240石産出する。
  屋我村(左)・饒平名村(右)
   ↓  水田あり。水は水倉(ミヂグラ)から引く。
   ↓  地頭代・吏員に纈袖をするよう命ず。
  饒平名村
   ↓  農家を巡視する。
   ↓  道路の修繕が行き届いている。
   ↓  清掃してあり綺麗なり。
  松島孫助(農夫)の家で休憩。(午前10時20分)
   ↓  門南向き・笹の生垣あり。
   ↓  床に孝の字、板壁に宜野湾朝保の「福禄寿」など。
   ↓  士族渡久地喜意の母ウシ(90年)が召される。    
   ↓  白衣の外衣、児孫併せて40人あり。
   ↓  目録を戴き拝謝する。 
   ↓  ノロクモイ二名が拝謁(ハイエツ)する。40年と11年。
   ↓  二人とも白衣をきて東京団扇を携え、神歌を唱え、
   ↓  豊年及び人民の長寿を祈るという。
   ↓  ニガン(根神?)という属官あり。祭典を助けるという。
   ↓  上代の遺風なるべし。
  孫助の家を辞す。
   ↓  丘山あり、古木森あり、井戸あり(清い泉)
   ↓  松樹の間をいく。十二、三丁にして一村あり。
  済井出村
   ↓  近傍に水田や薯圃が多い。
   ↓  村中溶樹(ガジマル)が多い。髭を垂れる。長い。
  宮城熊助の家に小憩(午前11時40分)
   ↓  門西に向く。細木で籬(カキ)を編めリ。
   ↓  床に球陽正史尚健の真蹟の書の軸を掲げてある。
   ↓  ご飯を喫す。  
  途(道)に登る(午後零時15分)
   ↓  薯圃蘇鉄の間をいく。松林に沿っていく。
   ↓  右手に山原の茅落端(カヤウチバンタ)を望む。
   ↓  近くに接して古宇利島あり。
   ↓  坂をつきて海辺に至る。
   ↓  村吏袖を纈って拝迎する。
  舟に上がる。
   ↓  幕及び油紙で上を蔽う。
   ↓  今帰仁の岬と古宇利島の岬との海峡より、遥かに
   ↓  伊平屋島を望む。
   ↓  左側は羽地の湾に通じる。
  舟、今帰仁番所・首里警察分署の前岸に達す(午後1時40分)。   
 
          (続)
2001.12.14(金)

 そろそろ『なきじん研究』11号の編集作業がボツボツはじまる。どんな内容にするか、詳しいことはまだ公にできないが、楽しい読みものにしようと考えている。ある意味では、ここ10年間のまとめの意味も含んでいる。今帰仁を俯瞰的に描くことができれ楽しいですね。今日は何をしたんだろう?原石を謝名の部分アップか。


2001.12.13(木)

 咸豊七年丁丑「御首尾扣帳」(今帰仁間切番所所蔵)が『宮城真治民俗調査ノート』などに収録されている。この史料の現物が残っている可能性は非常に薄い。文書の一部を抜粋したのであろうが興味深いので紹介する。
   「三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、
   八月十一日親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸
   重壱次持参、見物仕申候」
とある。咸豊7年は西暦の1857年、今から144年前のことである。今帰仁間切の番所は運天にあった。番所は明治29年に役場と改称され、大正5年に運天から現在地の仲宗根に移転した歴史がある。
 内容からすると三月三日と五月四日は番所(運天)の前で馬を揃え、皆んなが揃って酒にお重などを持参して見物をした。三月三日は一般的に浜下りの日、五月四日は豊漁を祈願するハーリーが行われる日である。番所前の馬場でお重を持参し休息の日として競馬を応援しながら過ごしたのであろう。アブシバレーは今帰仁間切中央部の仲原馬場で旧暦の四月に日を選んで行われる。

 八月十一日は親泊馬場のある親泊村ではヨーカービーにあたる。その日は島ウイミが行われる。今帰仁のハサギンクァーで今帰仁ノロや神人、そして各門中の代表者が集り、各々御花(お米)、御合水(御酒)、豚肉のお重、それに線香を供えてムラの繁盛と子孫繁栄、五穀豊穣の祈願をする。親泊のフプハサギでも同様な御願をする。その後に獅子舞と棒が行われる。現在も行われているヨーカービーの祭祀と同時に、親泊馬場に村中の人たちが集り馬揃(競馬か)を行い、御酒やお重を持参して休息日にしたのであろう。(館長)

▲往時の姿を見せる仲原馬場(昭和30年代)



2001.12.9(日)

 今帰仁村今泊のクボウヌ御嶽(ウタキ)、そしてプトゥキヌイッピャまで案内をする。クボウヌ御嶽は神・神人、そしてムラ・シマの人々との関わり、また祭祀を通して国家成立以前、国家成立後を考えるヒントを得た場所でもある。それに御嶽における神観念も.......。10月、仲松先生とご一緒しました。11月18日に御嶽―島に鎮まる神々―(おきでん百添アワー紀聞)として放送されました。
 プトゥキヌイッピャはこれまで何度か調査をしています。個々について公にすることはありません。5月と9月の29日に参加する方々にとって子供を授かるかどうか、神にすがりたい深刻なことですから.....。
  今帰仁出身者と今帰仁に住むその両親。 お礼の手紙いただきましたので紹介しておきましょう。

 昨日(9日)はお忙しいなか、クボウの御嶽とプトゥキヌイッピャを御案内いただきありがとうございました。私の両親は娘夫婦と仲原さんと一緒に散策できたことが、嬉しかったようで、興奮したのか、昨日は寝付けなかったようです。
 生育した場所の文化を少しでも客観的に知るということは、自尊感情を育むのですね。仲原さんの語る眼差しが、地域の人への受容と共感に基づいていることゆえなのでしょうか。私の母のアイデンティティは「今泊」に強く吸引されていて、そのことが彼女の自己肯定感に繋がればと思っていますので、この親孝行のスタイルをもう少し続けていきたいと思っています。ほんとうに有難うございました。(具志堅さん)

 晩は諸志の字誌。20名ほどの方々が集り、テーマは「諸志の人びと」である。世帯主・屋号・家族構成・家の様々ことを世帯ごとに1頁さしあげる企画である。
  「前の人の屋敷に住んでいるが、先方の屋号はどうしようか?」
  「次男、三男もまとめて1頁か?」
など、いつもの楽しい質問や難問も。

  「各世帯一頁さしあげるのは、みなさんがスポンサーです。それから  完成したとき、みんなが出ているのだから、いい本になることは間違  いないです」と.........。
 諸志は明治36年に諸喜田と志慶真の二つのムラが一つになった字なのです。
  「諸喜田村と志慶真村の気質の違いがあるのか?」

 そんな議論が始まりました。そういう議論が交わさせること自体が面白いです。合併後100年余という歳月で融合したところ、がんと以前の個性を保持している面、それを見極めることできるかもしれません。もちろん、仮説的な結論を持っていますが。「諸志の人びと」の調査表が集ってくると、なるほどとうなるような答えが出てくるかもしれません。楽しみです。


2001.12.8(土)

 
ノートを手に本部町立博物館へ。途中、山里のカルスト地形を見ながら。子供達はおむすび山やムーミン谷と名付けている。

 博物館につくと、早速友利哲夫先生から鳥の説明を受ける。クイナ・フクロウ・ノグチケラ・ツミなど。台風で迷子になってやってくる鳥もいるのですね。直になかなか見ることができない鳥に興味深々。剥製(ハクセイ)は殺すのではなく、もう一度生き返らせるのだ」とのこと。なるほど。印象深い言葉でした。歴史文化センターのガラス窓に鳥がよくぶっつかるので、避けてくれる知恵を授かった。明日にはやってみよう。成果はいずれ報告します。 

 普段、フィールド調査を主にしているので、山に登るのだと張り切って参加してくれた大人もいたが、今回はとりあえずカルスト地形の成り立ちを知識として学ぶ。それを目的にしておいた。友利哲夫先生の説明がはじまると大人の参加者は真剣そのもの。大人は友利先生に預けて.....。次には山の上や鍾乳洞から2億とか3億の時間の長さを体感してみましょう。

 子供たちは、道具の方へ。今回の人気のあったのは、帽子クマサー(イカタ)でした。「これは昔のボーリングボールです!! 指をさし込む穴がちゃんとあるでしょう??」「まさかね!!」「ほんと?」(アダン帽子のイカタでした)

 厨子甕に関心のあるお方は、誰が入るのか気になるようで....。「それは、いろいろですね」「あなたが、あの方と入りたいと言っても回りが許してくれますかね?!」「あなたは、もういませんし、決めるのは家族ですからね....」「仲が悪かったのに一緒に入れられたり。まあ、仲がよくても他人様ですからなどと、いろいろありますね」といった一コマあったムラ・シマ講座でした。今日は、全員の印象深い報告あり。2月に修了式します。


2001.12.7(金)

 明日はムラ・シマ講座。今年度最後の調査。本部町立博物館での調査となる。本部半島のカルスト地形や今帰仁グスクに積み上げられた岩石について学ぶ。また生活について博物館を利用しての調査となる。
  ・自然とくらし
  ・カルスト地形
  ・本部町の川やムラ
どんな発見があるか楽しみです。
 「神人」の上映会でエネルギーと神経をすり減らしてしまい、疲労こんぱい気味。でも、いい感想が聞かれます。感謝です。インターネットで宣伝してくださった皆さん。顔はみえませんが、ありがとうさん。威力発揮しています。実感
 
2001.12.6(木)

 「神人」を上映。来場者が予定を大幅に上回まわりました。ありがたいですね。あまり自信のない企画でした。流れるままに流してみた事業でもありました。文化センターの事業に力を貸してくださった方々が多いことに改めて感謝です。ミャークニー大会、そして「神人」の上映。予算のないことと、人手の少ないところでの事業でした。文化財の職員にも手伝っていただきました。「どこからきて、どこに行く」は誰のために、どこに向かって仕事するのか。そのことが問われた事業でもありました。黙して語らずでやってきた二つの企画。でも職員はついてきてくれたことに感謝。一人ひとりの顔を思い浮かべながら明日からの仕事につなげたいですね。「神アサギ」についで今帰仁村の原石(印部土手)についての紹介がはじまります。


2001.12.5(水)

 今帰仁村内の神アサギ(21ケ所)をすべてアップした(山原の神アサギ―今帰仁のアサギ―参照)。神アサギは山原のムラ・シマを理解していくキーワードの一つである。何気ない建物であるが、1713年の『琉球国由来記』に記載された神アサギが、288年という歳月がたっても今帰仁村(間切)でそのすべてが残っている。もちろん集落移動や村移動などで移動したりはしているが。神アサギは集落と共に移動する傾向も見られる。建物の茅葺きや石の柱から瓦屋根やコンクリートやブロックなどに変化してきた。しかし、神アサギを潰すことなく残してきた。それはムラのノロや根神など神人が行う祭祀と深く関わっているからである。

  神アサギの調査から、御嶽→神アサギ→集落という軸線を見つけることができたし、ムラの法則性を確認することができた。その法則性にあてはまらない場合は、そのムラの歴史をたどってみることで新しく創設された分字であったり、神アサギが複数あると村の合併であったりする。

 最近、玉城の神アサギの碑に「米蔵」建設の記録をみつけた。神アサギは穀物を集積する施設だと聞かされていた。昭和の初期に神アサギが米蔵の役割の一端を果たしていたことの認識を持っていたことがわかる。米蔵にも使われていたことは、神アサギの屋根が低いのは、馬や牛が中の穀物を食べないようにとのこと。理にかなった理由である。また、屋根を低くすることで人間が頭を下げて入る。神に対して無礼にならないように、それも一つの理由かもしれない。

 ここでは略すが、神アサギは祭祀という枠だけでなく、琉球国という仕組みの一端を担っている。そのことについては、「古宇利の海神祭、安田のシヌグなどの祭祀と祈り」を通してまとめる(1月予定)。今帰仁の神アサギの建物と概要的な報告である。御嶽と神アサギとの関係(向き)、香炉の配置(本来ない)、集落と神アサギの軸線、柱の数など興味つきない。柱の数は必要最小で4本である。アサギを謡ったウタは大きな神アサギをつくってムラの勢いを誇っている。また柱の数の神人がいたことをほこるムラもある。タモト木(神)や神人との関わりを見ることができる。まとめは1月に。 

 

2001.12.4(火)

 
あっちこっち、いじっていたらリンクがケガしてしまいました。2日、3日のことが思い出せずにいます。パソ姫のお陰で復活。午前中はチラシを持って公民館回り。午後は二時間に及ぶ来客。講演料が欲しいですよ(冗談)。その後、5時から打ち合わせ。ああ、参りました(一人のつぶやき)。
  (あれこれ、押し寄せて物を考える余裕がありませんです) 


2001.12.1(土)

 12月とはいえ、天気がいいのでまだセミが鳴いている。いつまで鳴くのか、ちょっとカケでもしたいですね。どんなカケ? コーヒーをおごるとか。

 夕方から新聞社の取材がはいった。「神人」の映画の上映についてである。25年前の映画を上映する意義なのでしょうか。それは、いろいろあるね。9月に大阪での上映会の様子、そして映画を見ての感想からニ、三拾ってみる。大阪で映画を見に来ていた方々の大半が二世である。二世や三世の方々は両親や親戚などから沖縄のことを度々聞かされている。聞かされていた両親の故郷の姿が動く画面で見ることが出来たわけである。ウガミ(御嶽)や馬場跡(フプーミチ)や今帰仁グスク、豊年祭の様子など親戚や故郷の知人達の話題になる風景や様子が画面で直に確認し見ることができのである。故郷に生きる知人や親戚の顔に涙したり、笑い出したりする一世。言葉で聞かされ、かすかに脳裏の片隅にあった場面が出てくると目を見張る二世や三世。故郷を離れた方々は、25年という時の流れと変化している現在の場を越えたところから沖縄を、そして自分自身の姿を追い続けて人々の思いを見た思いがした。
 地元での上映は、25年前の記憶を鮮明によみがえらして、さらに25年先の将来に、しかと伝えていただきたい。そんなことを願っての上映である。

 それとは別に今泊の歴史を今帰仁グスク・クボウの御嶽・集落移動・水田のあった風景・馬場跡・親泊の地名・阿応理屋恵・メーフイヤー・ハタイ原・今帰仁ノロ火神の祠・阿応理屋恵按司火神の祠・ワラビ細工・福木・村の合併・神ハサギなどキーワードを引き出しながら「ムラ散歩」をしている。

 
昨日は読谷村で「文化財愛護モデル地域」の研修会。「文化財ガイド・現状と課題」のテーマで基調報告。主な内容は文化財ガイドの市町村での取り組み、市町村で抱えている問題.点、市町村の今後の課題や方向、そして今帰仁村の文化財ガイドの事例とガイド養成、今帰仁村でのガイド養成、古宇利島の事例を中心に報告。

 午後からのシンポジウムは知念村(大城秀子さん)、下地町(川満邦弘氏)、浦添市(下地
安広氏)、石垣市(大田静夫氏)、那覇市(古塚達朗氏)から、文化財ガイド養成のいきさつや現在の報告、そして課題などについて報告がなされた。

 すでにスタートして数年経ったところは、課題や問題点を抱えているし、これからのところは、どのようにしていけばいいのか。先例にならい、進めていくヒントをもらったにちがいない。どんなガイドを養成を必要としているのか、またどんなガイドを目指していくのか、このシンポジウムを通してして方向性を見出して実践していくこと希望したいですね。