2011年1月の記録
                        
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2011年1月30日(日)

 「調べたこと 学んだこと」(今帰仁小4年)の発表会の案内をいただいた。4年生の二クラスに字(アザ)紹介を職員でやったので、どのようなまとめの報告になるのか楽しみ。発表の様子をみることで、次回どのようにすればいいのか参考となる。

 謝名・崎山・与那嶺・越地・平敷・玉城・平敷・仲宗根の順で報告。生徒の発表から親が子供達から学ぶ場面である。現場にいき、地域の方々から話を聞き、それを記録し発表するスタイルは物を見る、考える、聞く、発表する、そこで数多くの発見があり、その感動は忘れられないでしょう。

 そのことは、将来「そういうことだったのか」と理解し、再び発見や感動する機会と出会うでしょう。「どうだった?!」と何人にも聞かれました。「いい報告をしていましね。各地を回ってきたのだな。リッパリッパ」。50人余の生徒が8ヶ字の宝探しをしてくれました。これからも宝探しを続けていくと、「歴史の生きづいた今帰仁村」になるでしょう。すごい「まとめ」と「発表」でした。生徒も先生方もごくろうさんでした。






2011年1月29日(土)


 『女官御双紙』(170613年)に「今帰仁あふりやい」と「伊平屋島ののろ二かや田」、さらに「噯間切のろくもい」の代合(交代)について、以下のように記してある。

 一 今帰仁ふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ今帰仁あふりやいより御様子
    有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田御門
    よりよしうて按司下庫裡に控居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉一対作事
    あむしられ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわれハよしろちへて美待拝申
 天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司あかなしよりおしあけめしよわる
 合済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌御給御規式相済按司御座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申
 相済みはい御暇乞大勢頭御取次にてみおミのけておれ申
 一 同時御印印判ハセと新雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ将来らる首里大あむしられよりミはいの時早朝今帰仁あふ
   りやいへ上申
 一 伊平屋ののろ二かや田代合之時も上相済首里殿内火神御前へみはな一ツ御五水一対持参にて玉かはらはき立御拝
   四ツからめき申尤御拝日撰前以以日引合有之事
 一 噯間切のろくもいた代合之時も右同断

 「今帰仁あおりやえ」の写真と関わる記事がある。
   「国頭郡今帰仁村今泊で旧按司家阿応理屋恵所蔵の佩佳玉は二十二個の所謂曲玉と、多数の水晶玉製丸玉とを交
   へて極めて見ものであるが、之を納めた袋に、
     玉かはら一連。内かはら一、大形。かはら二十一、小形。水晶之玉百十一。昭和四年四月四日現在。
  と書いてあった。(本誌記者云う、袋の文字は古くより此の形式に書いてあったのを昭和四年に袋を新調して書替へた
  のみである。阿応理家では今もその一連の玉全体を玉ガハラと呼んでいるのである。 

 下の写真は今帰仁阿応理屋恵が一連の勾玉と水晶玉(ガラス)、前に広げられた袋に「玉かはら」など文字が読める。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)でいう「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵目録」というのは、写真の文字のことであろう。それらの遺品は昭和11年に開館した「沖縄郷土博物館」(首里城北殿)で昭和1015日より1114日まで展示されたことがある。

 
一連の勾玉と水晶玉(ガラス)をかけた阿応理屋恵  「国頭郡志」のグラビアより


2011年1月26日(水)

 「印部石」が寄贈される。今帰仁村湧川の前田原にあった印部石(原石)である。前田原には前田拝所があり、湧川の祭祀に旧暦二月の最後の亥の日に行う前田折目(前田御願)がある。前田にあるイビムイ(湧川のウタキ:タキサンともいう)の麓に三穂田(ミフダ:神田)がある。そこで稲の生育や豊作のウガンがあある。神人が神田に入り稲苗の初植えの祭祀が行われる。田植えの合図であるという。20年前田港さん(故人)から付近に「原石がある」と聞かされていた。前田原一帯は土地改良でなされた。そのこともあって土地改良中に何度か足を運んだが確認することができなかった。今回提供された印部石(原石)はあった場所からすると、間違いなさそうである。

 「ケ しゆや原」である。塩屋原のことであろう。現在の小字(原)に「しゆや原」はない。前田原に「スガー」「シユガー」(塩川)があり、元文検地の頃、現在の前田原に「しゆや原」の原域があったと見られる。「しゆや原」は塩屋に因んだ原名と言えそうである。今帰仁間の元文検地は1743年頃だと見られる。印部石がたてられたのは、湧川村が新設されて間もない頃である。(湧川村が創設される以前、湧川村地内に振慶名・我部・松田・桃原などの村があった。それらの村を移動させて湧川村を新設)。湧川村に印部石を設置したのは村移動や村の新設と関係あるのだろうか?

 「ケ しゆや原」の印部石の確認は今帰仁村内で24基目である(但し、一基は史料の中)。



▲湧川の前田原にあった印部石


 「烽火制と琉球―近世の沖縄―」をテーマにして、八重山(波照間島)から宮古島、そして久米島・慶良間の島々、さらに伊江島、伊平屋島、沖縄本島北部から南に下り、弁ヶ嶽(首里王府)まで辿ってみた。烽火制を手掛かりに近世の沖縄の全域をみてみた。今回は「江戸参府」(江戸上り)を手掛かりに近世の沖縄についてみていく。「江戸参府」(江戸上り)を意識していたわけではないが、奄美から鹿児島、熊本、長崎、福岡、門司、山口、広島、岡山、兵庫、大阪、京都、名古屋、静岡、神奈川(小田原・箱根)、川崎、東京へと足を運んでいる。これらの地を「江戸参府」(江戸上り)のコースを重ねながら見て行くことに。「江戸参府」(江戸上り)を手掛かりに「近世の沖縄の歴史」を見て行くことにする(今回は「沖縄県史ビジュアル版)をテキス
にして)。

        ▲松原城(長崎県)                               ▲平戸(長崎県)

 
         呼子(佐賀県)                   名護屋城から玄界灘を望む


     ▲唐津城(別名舞鶴城、佐賀県:肥前)        ▲唐津城からみた虹の松原



      
開門岳(鹿児島県)             山川港(鹿児島県)


2011年1月25日(火)

 多忙でなかなか更新することができません。急きょ「地域文化」は今帰仁上り(拝み)の講座。沖縄の方々の底を流れている習慣。18世紀前半頃から定着していったのではないかと考えている。

 
 


2011年1月20日(木)

 「歴史資料としての写真」がテーマ。写真を歴史資料として扱ってきたことがある。これまで100回に亘って紹介してきた写真をベースに本部、伊江島、名護、宮古などの画像も紹介しながら。それと歴史をみて行くときの、その時代の生活環境も。
 学生達のレポート見てみる(100人)と、画像と文章をあわせた歴史の説明には圧倒さたようだ。写真が歴史資料になりうるのだと多くの学生が納得(全く理解していない学生が数人いるが、それもいいこと)。そんなに反応があると次の講義は厳しいな!)






                                        講義が終って!


 午後の4時過ぎから今小の4年たちがやってきた。
   ・平敷湧泉(ピシチガー)はどんな役割?
   ・玉城の獅獅は?
   ・渡地(玉城)は?
   ・豊年祭はいつから(素朴な質問)
   ・字(ムラ)の人口は?
 湧泉(カー)の話が多かったので水汲みがしたいと。幼稚園生用のカンを準備してあります。自分達が住んでいる家とカーとの間を水汲みしているつもりで! 水汲み、少しは様になったかな!
 


2011年1月19日(水)

 
今帰仁小4年生クラスでの総合学習(2クラス)。特に崎山と仲宗根と玉城が中心。生徒達から質問を受けて、それに答える形。・・・ストーリを持った報告ができればいいのだが。


2011年1月18日(火)

 「近代の沖縄の歴史」を話す時、避けて通れないのがある。沖縄のウタきと神社、そして桜である。沖縄の人たちが両手をあげて、心から美しいと声にしない、できないのは重々しい歴史が被さっていることが一因している。重苦しい歴史をほとんど学ぶことなくきた世代、そこには山原で行われている「桜まつり」が、桜と関わる新しい文化(名護市では48回目、本部町33回、今帰仁村4回のさくら祭り)を形成しているのかもしれない。神社を建設したが、これまでのウタキや拝所を撤廃することなく存続させている。桜まつりが始まっているところ、これからの所があるが、桜(ヒカンサクラ)を眺めながら、「近代の沖縄の歴史」をなぞってみる必要があるかもしれない。

   


  

 


2011年1月15日(土)

 今帰仁小の4年生が5名がやってきた。10月に勉強したメンバーである。近々発表会があるので、その仕上に向けての準備である。今帰仁村越地のフイジガーと「学校の移り変わり」である。

【フイジガー

  越地のフイジガーに寄ってきた。干潮時を狙っての立ち寄りである。フイジガーが二ヵ所あり、ムラの方々はどれをフイジガーと言っているのか。フイジガーについて聞いてみたら、東側のカーはピンクルソージで、西側がフイジガーである。下のウタは、まさしく西側のフイジガーを謡ったウタである。今は石積みで囲われているが、周りの砂浜の至るところから水が湧き出ている。囲われたカ所は砂を担ぎ出すように水の勢いがあり湧き出ていたのであろう。

  越地は昭和12年に謝名と仲宗根から分字したムラである。越地は水の不便な場所で、井戸の深さは13尋もあったという。井戸が掘られる前はフイジガーに水汲みや洗濯しに行った。製糖工場の取水場として利用していた。


  炬港(テーミナト)や大井川の下流域でエビやカニや貝、釣りをしての帰りにこんこんと水の湧き出るピンクルソージで手足や顔を洗って家路についたという。フイジガーもピンクルソージも水の湧く出る勢いは、今も変わらず、こんこんと湧き出ている。

 越地ガーぬ水や 砂かみてぃ湧ちゅさ (フイジガーの水は 砂を担ぎだすように湧いているよ)
       越地美童ぬ くんだ美らさ (越地の乙女の クンダ(ふくらはぎ)の美しさよ)

 越地ガーぬ水や 砂かみてぃ湧ちゅさ(フイジガーの水は 砂を担ぎだすようにコンコンと湧いているよ)
      越地美童ぬ 色き美らさ  (越地の乙女の 妖艶な美しさよ)


【学校の移り変わり】

 学校のあった場所も何回か変わっていくが、学校の名前は何度もかわっています。
   ・今帰仁小学校(明治15年~明治21年:今帰仁村謝名)
   ・今帰仁尋常小学校(明治21年~明治32年:今帰仁村兼次)
   ・今帰仁尋常高等小学校(明治32年~昭和15年:今帰仁村謝名(越地:現在地)
   ・今帰仁国民学校(昭和16年~昭和20年:学校は現在地:越地)
   ・今帰仁初等学校(昭和21年~27年:現在地:越地)
   ・今帰仁小学校(昭和27年~現在)(現在地:越地)


        ▲「フイジガー」と「学校の移り変わり」についてのまとめと発表まで!


2011年1月13日(木)

 「沖縄の桜(ヒカンサクラ)」をテーマとして講義をする。大学の名も桜がついているので。それと間もなく桜まつりがやってくるので桜を手掛かりに近現代の沖縄の歴史を。昨年の桜情報を見ながら。今年の「桜情報」でも触れたが。

 今帰仁城桜まつりのポスターのような開花までは少し早いですがピーアール。もう少しもう少しと思いながらの桜見もいいものである。小雨や曇の日が続いているが今日はいい天気。この時期は沖縄は雨の多い季節である。旧暦の12月なので沖縄は真冬である。この時期天気が晴れると夏である。沖縄の桜はソメイヨシノとは異なったヒカンサクラ、気温が低くなると開花していく。「桃ではないか!」の声。
 
 開花は南下していく。ヒカンサクラの見ごろは沖縄の真冬である(ヒカンサクラの季語は冬?)。 亜熱帯という地域。ヒカンサクラを観察していると、これまでもっていたソメイヨシノなどの桜の常識が、次々ひっくり返っていく。それが面白い。

 沖縄のヒカンサクラをキーワードに明治29年の公立小学校記念木植植栽規定・大正・戦前、昭和の初期(ウタキの神社化)、皇民化の動き、そして戦争。桜と連動する沖縄の歴史。沖縄本島北部で行われている「桜まつり」は、そのような歴史的な背景とは関係なくイベント的な流れとなっている。

 複雑に進んでいる社会の動き、戦争がない今が平和なのかもしれない。「サクラ」をテーマとした歴史講座。学生達の反応は?! 今日のサクラは私の目にどのように映るのだろうか!

 
  
三・五・七の参拝道の今日の桜              開花した桜の木あり!


2011年1月7日(金)

 今帰仁の祭祀の整理をしているのであるが、なかなかまとまらない。それは今帰仁の祭祀の全体像をまだ描き切れていないからである。そのこともあって、まずは今帰仁の祭祀の全体を把握することから。昭和2年に宮城真治氏の調査ノートがある。そこから今帰仁と関わる祭祀をすべてピックアップすることから。

 整理の途中であるが、祭祀を行う日、名称、祭祀の内容など各地まちまちである。まず、そのことを認識してかかる必要がある。一つのキーワードで、あるいは一言で祭祀の本質を言い当てようとする心理が強く働く。そのためまとめることができない。一つにまとめようではなく、それぞれの事例を数多く紹介する視点でみていくことにする。

 今帰仁における祭祀をとりあげてみると、祭祀の呼称をはじめ、行われる日や祭祀の内容が異なっている場合が多いことに気づかされる。そのこともあって古宇利島の一年間通した祭祀の記録を公にする。その解説を書いているのであるが、少なくとも今帰仁における祭祀の全体像を把握する必要に迫られている。それで戦前から戦後にかけての参予観察記録や他の資料からがピックアップすることから。

 まずは、『宮城真治民俗調査ノート』(名護市史編さん室:編集・発行)と現在行われている今帰仁村全体の祭祀を取り出してみる。重複して記してある祭祀もあるが、僅かな呼称の違いもあるが祭祀の内容が伺えるのでそのままにしてある(1月と12月は新暦で行っている)。  

【新1月】
 ・1月1日のウガミ(今泊・仲尾次)
 ・1月1日タティウガン(兼次)/ハチウガン(与那嶺・平敷・謝名・仲宗根)
 ・1月1日チータチウガン(湧川・天底・上運天・運天)
 ・1月1日ハチウクシー(勢理客)
 ・正月元旦 謝名は各門中がシカ拝みと称し、シカの川を拝す。
 ・1月15日マーハグチのウガン(古宇利)

 ・正月15日、按司地頭家より、天辻、雨辻、公方の嶽等に祈願あり。
 ・「今帰仁村(ムラ)祭祀御供物帳」に「首里天加那志美御前百かほうの御為、御子御すでものの
  御為、又島国の作物の為、唐、大和、宮古、八重山、島々浦々船々往還、百かほうのあるやに
  御守みしょうれてて御たかべ仕也」とある。


【旧2月】(麦の穂祭:二月ウマチー)
 ・2月ウマチー(今泊)
 ・2月15日ウマチー(兼次・諸志・与那嶺・仲尾次・崎山:仲城ノロ管轄)(湧川)
 ・2月13日ウカタビ(謝名)
 ・2月15日ニンガチウチマチ(ウマチー)(平敷・謝名・仲宗根・玉城・勢理客・上運天・古宇利)
 ・2月最後の亥の日メーダウガン(湧川)
 ・2月亥の日ウマチー(天底)
 ・今帰仁、按司地頭より祭祀あり。
 ・今帰仁四ヵ字は近時2月15日に決定。元は間切日取。ヒノトの日ならんともいう?

 ・麦の穂の出初むる時の祭りなり。
 ・麦穂祭(今泊)

【旧3月】(麦の大祭)
 ・3月ウシマチ(今泊)
 ・3月ウマチー(今泊・仲尾次)
 ・3月13日ウカタビ(諸志・謝名)
 ・3月15日フチマチー(兼次・与那嶺・崎山・謝名・玉城)
 ・3月15日ミャーヌウガン(与那嶺)
 ・3月亥の日ウチマチ(天底)
 ・3月吉日ウチマチ(勢理客)
 ・咸豊7年(1857)丁丑「御首尾扣帳」(今帰仁番所所蔵)、「三月三日、五月四日は番所の前、
  アブシバラヒは仲原馬場、八月十一日親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸重壱次
  持参、見物仕申候」とあり。
 ・平敷にて、ウチマチともいう。
 ・3月御祭は、按司地頭より祭祀あり。

 ・平敷にてウツマチともいう。
 ・「今帰仁村御祭祀御供物帳」
 ・麦稲四祭というあり(穂祭二つ、大祭二つか)
 ・麦稲穂祭というあり(2月、5月の祭也)
 ・麦稲大祭というあり(3月、6月なり)

 ・3月フチマチ(古宇利殿内で)(今泊)

【旧4月】(四月御願)
 ・4月アブシバレー(今泊・
 ・4月吉日アブシバレー(兼次)
 ・4月15日アブシバレー(諸志・与那嶺・崎山・平敷・勢理客・上運天・運天)
 ・4月15日タキヌウガン(平敷・謝名・仲宗根・玉城・呉我山・天底・勢理客・上運天・運天)
 ・4月吉日プーチウガン/タキヌガン/ムシバレー(古宇利)
 ・4月1516日アブイシバレー(湧川)
 ・4月亥の日タキヌウガン(天底)
 
・4月15日以内の戌の日(畦払:アブシバレー)(今泊もあり)
 ・平敷に4月御願というあり。
 ・平敷4月御願(タキヌウガン)の時は、ミノカサを被り、タイマツを以て、上ジナまで神職を迎える。コレ、
  タキヌ御願と同一也。根神が嶽に行く。それを字人民より迎える。必ず、男神職と限らず。もと、一戸
  に一合づつ麦を徴収す。今は金五銭宛。

    (4月朔日より5日まで山留、海留)

【旧5月】
 ・5月ウマチー/ムラウガン(今泊)・仲尾次)
 ・5月5日ハーウガン(兼次)
 ・5月13日ウカタビ(諸志・謝名)
 ・5月15日ウマチー(兼次・諸志・謝名・仲宗根・玉城(メーヌプーともいう)・湧川)
               天底・勢理客・上運天・古宇利)
 ・5月最後の亥の日ワラビミチ(同時にウフユミ)(湧川)
 ・5月15日ウフガン(兼次)
 ・5月15日ウチマチ(与那嶺・崎山・平敷)
 ・ウビナディー、今帰仁は5月5日にウビナディーを行う。5月吉日は稲の穂祭(5月ウガン)、
  29日フトゥキヌイッピャ。
 ・謝名、大御願とはいはず。
 ・按司より御祭あり。
 ・謝名、当日ウペーフが藁の冠、白衣装、大ユの杖をつき、真川の西の方のあるウペーフ田を七回巡り、
  穂をとる(謝名、大御願とはいわず)
   イェヘン、イェヘンと知らせる。逢うたものは、杖にてぬかる。今一所のウペーフ田?イビ川の東にあり。
   サンナンチ田は百五十坪位、植える時は、川の湧に御願。  

【旧6月】
 ・6月吉日ウシマチ/稲のフパチ(今泊)
 ・6月15日フチマチー(兼次)
 ・6月15日シチュマ(兼次)
 ・6月15日ウチマチ(崎山・平敷)
 ・6月23日ウカタビ(諸志)
 ・6月25日ヒチュマ(与那嶺)
 ・6月15日ウマチー(仲尾次・玉城)(アワヌプー)
 ・6月23日ウガミ(仲尾次) 
 ・6月25日ウガミ(仲尾次)
 ・6月25日ウカタビ(崎山)
 ・6月25日ウユミー(謝名・勢理客)
 ・6月25日シツマ(シチュマ)(玉城)
 ・6月25日シチュマ/サーザーエー(上運天)
 ・6月25日ヤリヌウガン(仲宗根)
 ・6月25日ハミサガイ(古宇利)
 ・6月2526日サーザーウェー/ピローシ(古宇利)
 ・6月26日サージャーウェー(天底)
 ・平敷は、25日祭の外に、ウチマチというあり。
 ・6月御祭、按司地頭より祭祀あり。
 ・具志川御殿のアットメーより、城間翁への御話に、収穫の首尾の祭ということ。
 ・25日の祭は、平敷にてシグヒチ、あるいはユサヒチともいう。漁穫を祈ること。
 ・6月25日、26日、天底、古宇利、伊豆味にてサーザーイェーあり。
 ・26日は、羽地はヤーサグイあり。もとは下運天もあった。

 ・勢理客、運天は25日にあるのは海神祭?
 ・ウフユミフタービ、六月フチマチ、6月25(今泊)

【7 月】
 ・7月ウーニフジ(今泊)
 ・7月亥の日グスクウイミ(今泊)
 ・7月シマウイミ(今泊)
 ・7月7日ウプユミ(崎山)
 ・7月15日ウチマチ(平敷)
 ・719日ワラビミチ(仲宗根)
 ・7月25日ワラビミチ(平敷)
 ・7月29日ウガヌー(崎山)
 ・7月亥の日ワラビミチ(天底)
 ・7月最後の亥の日ウフユミ(兼次・諸志・与那嶺?・仲尾次・平敷・謝名・仲宗根・玉城)
 ・7月最後の亥の日ワラビミチ/ウフユミ(湧川・勢理客・上運天・運天)
 ・7月旧盆明けの最初の亥の日ウンジャミ(古宇利)(前日ウンジャミグヮ、翌日豊年祭)
 ・海神祭(七月最後の亥の日)、海神祭に男女二人の神人の性交の規式あり(古宇利島)

 ・7月大折目(ウイミ)という所もある。
     (海の神と山の神に漁猟を祈る)
 ・大折目とて按司地頭より祭祀あり
 ・謝名にて海神とは言わず、ウプウイミという。
 ・平敷にても、七月ウプユミという。古宇利島では海神祭(ウンジャミ)という。
 ・古宇利、舟をおしやり、またたぐるのは海神を幾回も送るのであろう。
 ・盆祭、城折目、大折目、七夕(具志堅・親泊)
 ・7月に童神酒をする字(仲宗根(7月19日正日)、古宇利?、平敷

【8 月】
 ・8月10日グスクウイミ(今泊)
 ・8月10日ハチグヮチウガン(兼次
 ・8月10日トゥハヌウグヮン(諸志・平敷・湧川
 ・8月10日ハチガチトゥカヌウガン(謝名・仲宗根・玉城)
 ・8月10日のウガン(仲尾次)
 ・8月10日カミウガン(崎山
 ・8月10日アラダムトゥ/シバシウガン(天底)
 ・8月10日アサギウガン(勢理客)
 ・8月10日ハミウガミ(ミチュンウガミ)(古宇利)
 ・8月吉日ウカタビ(諸志)
 ・8月11日シマウイミ/トントトトン(今泊)
 ・8月15日豊年祭(5年に一回)(与那嶺)
 ・8月15日ジュウグヤ(十五夜)(謝名・勢理客・上運天
 ・8月17日タキヌウガン(上運天・運天)
 ・ウーニフジ、10日城折目、11日島折目、12日シバサー(親川にて牛を屠る(今泊)。
 ・8月9日各家庭で家の隅々にグシチを差す。
 ・柴指のとき按司地頭からの祭祀あり。
 ・8月11日役場吏員はノロを拝む。
 ・10日は柴差、神拝みあり。今帰仁四ヶは各神アシャギにて各神職は各氏子より拝まれる。
 ・タマガイを見るのは8月14日まで、今帰仁でシバシという。
 ・咸豊7年丁巳「御首尾扣帳」(今帰仁番所)に「親泊、謝名。勢理客、上運天四ヶ村は一年越結願
  と〆、8月15日夜、俄念仏仕申候」とある。

 ・8月15日を童神酒の正日とする所(親泊・謝名、勢理客、上運天)

【9 月】
 ・9月7日ミャーヌウガン(玉城)
 ・9月9日キクザケ(仲宗根・勢理客)
 ・9月9日神社参拝(呉が山)(かつては闘牛大会)
 ・9月15日ムラウガン(今泊・
 ・9月15日ウフウガン(兼次
 ・9月15日ウガヌー(諸志・崎山
 ・9月15日ウマチー(与那嶺
 ・9月15日のウガミ(仲尾次)
 ・9月29日ヌルグヮチウガン(兼次
 ・9月吉日クンガチウガン(謝名)
 ・9月吉日プーチウガン(古宇利)
 ・9月吉日タキヌウガン(古宇利)
 ・9月御願 29日フトゥキヌイッピャ(今泊)
 ・9月9日に川拝みするところあり(今帰仁)。
 ・謝名は9月9日家々の御願をする。ウタキへのウガンなし(立て解の御願い?)。
 ・「今帰仁間切今帰仁村御祭祀御供物帳」によると「右三ヶ所(城内上之嶽・同下之嶽・公方之嶽)、
  今帰仁のろくもい御たかべ所。且毎年正月、下庫理勢頭、九月同当、御使にて、云々」とあり、
  正月と九月とは一対の祀である。
 ・「今帰仁間切今帰仁村祭祀規模帳」によると「年中立御願、結御願は1224日である。
 ・今帰仁にミャーダニ祭なし。


10 月】
 ・101日ピーマチ(ガナシウガン)(諸志・天底・渡喜仁)
 ・島くさらし(今泊)、馬場にて牛を屠る。値を木につけて門口に立てる。骨を島の入口にさげる)
 ・キリシタン帳改、今帰仁仲宗根にもありという。
 ・
咸豊7年(1857)今帰仁間切番所御首尾帳
   1124日限り、切支丹証文差出すべき仰渡の件
 ・謝名は10月朔日にカマ廻りあり。ノロ(玉城ノロ)が内を巡る。
 ・今帰仁のタントゥイは立冬の入日、新暦の11月8日頃。


11 月】
 ・1115日ウンネー(与那嶺・玉城)
 ・1115日ウチマチ(平敷)
 ・1115日ウンネウガン(謝名)
 ・11月亥の日ウンネー(天底)
 ・11月吉日ウンネー(勢理客)
 ・フーチヌ祝(昔は島持ち、今も)ウンネー(今泊)
 ・藷饗祭、今帰仁中部(謝名・玉城・平敷・仲宗根)は玉城ウペーフより通知あり。

【新12月】
 ・128日鬼餅、24日師走の大御願(今泊)
 ・1220日ムユウイミ(ウットゥミ・パットミ)(古宇利)
 ・1223日プトゥチウガン(崎山)
 ・1224日、年中御結願として今帰仁は按司地頭より祭りあり。
 ・1224日解御願(フトゥチウガン)(今泊・兼次・諸志・与那嶺・仲尾次・平敷・謝名・仲宗根・玉城
       天底・勢理客)
 ・1224日ミチグイ(諸志)


 
▲今帰仁村中部(玉城・謝名・平敷・仲宗根)のタキヌウガン      ▲玉城の神アサギでのウガン


    
▲今帰仁村古宇利島の海神祭(ウンジャミ)        ▲今帰仁村今泊のフプウガン(タキヌウガン)


2011年1月5日(水)

 なかなか沖縄全体をみる機会がないので、波照間島・与那国島などの八重山、宮古の島々、久米島、慶良間諸島、そして沖縄本島と周辺の島々にある遠見台(遠見番)を繋ぎながら見て行くことにする。その総てを紹介できないが(今回は20余)、これまで踏査してきた遠見台跡に立ち、近世の琉球の歴史の一端を話していくことにする。烽火台(遠見台)を目的に踏査してきたわけではないが、よくもそんなに記録を遺しているなーと驚いてしまう。

 今回の主役である「遠見番」という役人。どのようなことをやっているのかというと多良間島の史料から風の向きや強さ、天気、そして通過する船の往来などの報告をしなけらばならない。いまでいう「天気予報士」である。遠見台に方位石が置かれているのは、風の向き、時刻、船の進行方向などの情報を記録するためのものであることがわかる。

 これから頭の整理をして、受講者が行ってみたくなるような歴史の話ができればいいかと。波照間島から与論島まで沖縄諸島を一気に駆け抜けます。最終の目的地は弁ヶ嶽(首里王府)です。煙にまかれず、無事伝達できるか? 言葉で簡単に説明できるが、広い自然空間の中でのことなので、そう簡単ないくものではないですよ。実際は!

 「遠見番」の役目は遠見台での異国船か帰唐船などかの判別や日々の気象状況の報告であるが、「異国船、帰唐船をみとめたら、早々に番毎方へ申し出るよう、百姓たちへ申し渡しておくこと。立火が見えたら本文と同様」(間切公事帳)。

 

 


2011年1月3日(月) 

 新年おめでとうございます。今年もよろしく。各地と過去への踏査ができればと! 新年早々夢を見ています。体力が続きますか。新年のスタートは、やはり今帰仁グスクから。昨年は「ムラ・シマ」をベースに歴史や地域文化を見て来たが、今年はどんな歴史の展開をしていこうか。まずは今年度の積み残しから。