2011年12月調査記録
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2011年12月28日(火)

 (2011年の調査記録は本日で終了です。一年間ごくろうさんでした。ありがとうございました。
  よいお年を御迎えくださいませ。本日、御用納めです!)

 先日、国頭村の宇良・伊地・辺戸までいく。辺戸へ行く途中宇良に立ち寄りました。宇良の拝所への道筋を整備したことが新聞で紹介されています。宇良を通る時、右手に真っ白な細い階段道が拝所まで整備されています。神アサギ調査の時、ウタキの確認ができずにいたムラでした。それと神アサギに二ヶ所に向って拝む香炉が置かれています。宇良の神アサギはユニークで、字名を記憶するため、神アサギの屋根のユニークさにひっかけて山本リンダの「うらら、ウラ~、ウラ、ウララ~」と口ずさみ、忘れることなく覚えています。以下のように記しています。

 二つの香炉が二つの宇良村とトヒチャ(渡比謝)村の合併の痕跡だと見ていました。一つの香炉はトチャ村、もう一つの香炉の向きがどうしても納得できずにいました。ところが、今回拝所への道の整備をして下さったため、宇良村のウタキを確認することができました。一つの香炉は宇良村のウタキに向けていることがわかりました(ウタキの画像は後で)。そこは宇良村のウタキでサン嶽・シノグイ嶽と呼ばれています。ウタキのシニグイはシヌグの時、ウタキ(イベ)から男衆が集落内へ降りてきたのであろう。シニグイ嶽へは伊地との境界から上っていくが、今回旧公民舘の傍から上って行けるようにしてあります。かつての段々畑の様子が伺え、また宇良集落から辺土名あたりまで見渡せます。

⑥宇良の神アサギ
 他と異なった雰囲気の建物。柱は4本。中に二基の香炉が配置されている。一つは宇良、もう一つはトンジャへ向っている。宇良の一部はトンジャ(辺土名の上島付近)から移動してきたという。『琉球国由来記』(1713年)に宇良村に宇良村の神アシアゲとトヒチャ神アシアゲがあり、合併村の痕跡を残している。祭祀は辺土名ノロの管轄である。


▲宇良村の神アサギ(二ヶ所に香炉あり)

2011年12月24日(土)

 新暦の12月24日は各地でプトゥチウガン(解御願)が行われる。かつて正月が旧暦で行って頃は、プトゥチウガンも旧の12月24日に行っていたという。村(ムラ)の神行事で新暦で行うのはプトゥチウガンのみである。今帰仁村諸志のプトゥチウガンに参加させてもらった(ウガンが行われる場所の呼称は確認必要)。参加者は区長さん、書記さん、有志の方(議員さん)。
   公民館に集合
  ①ウフェー(東)
  ②デークヤーの東側(ワータンジャー付近)
  ③ナートゥ(港原の橋)
  ④ヤンジャボロ
  ⑤ヤマガマバル(山釜原)
  ⑥⑦⑧⑨諸志公民館の四隅
  ⑩⑪二つの神アサギ(オミヤともいう)


   ▲集落の周辺と公民館の四隅             ①ウフェーでのウガン


      ③ナートゥの橋付近でノウガン           ⑧公民館の隅でのウガン

2011年12月22日(木)

 近世の首里・那覇の街と言われる地域にどのような職業があったのか、いつも気になる。17世紀頃の「御財制」(『那覇市史 琉球資料(上)』所収)に「諸細工并職人上納」としてある。職人の人数や上納についてもあるが、ここでは職業とその人数を掲げてみる。ここで「豚切職」(屠殺者)が4人とあることからすると1719年頃は首里・那覇一人づつなので、それより少し後の首里・那覇の街の職業の様子を示すものであろう。

 蔡温の「独物語」に「…二十年以前はふた切とて首里那覇一人ツゝ立置候付・・・」とあり、首里那覇で二人の屠殺者である。御冠船が琉球にやってきたとき(1719年)、琉球だけでは日に豚20疋づつ唐人の御馳走に必要したため不足し、与論島・沖永良部島・徳之島・大島・鬼界島からふた(豚)を取り寄せ間に合わせている。屠殺者を何拾人に増やしたため20年後の今では首里・那覇では日に4、50頭ト殺しても不足しないようになったとある。地域でそれらの職業はあったであろうが、その人数は?

 ・畳細工(14人:一人につき年に三貫文) ・かうつかけ并棕櫚切肌付細工(3人:一人につき年三貫文) 
 ・組物細工(2人:一人に付き年三貫文) ・皮細工(2人:一人につき年三貫文) ・御簾細工(2人) 
 ・鼓張細工(2人) ・中木引(6人) ・下木引(2人) ・紺屋(染物屋)(45人:内20人首里、20人泊、13人那覇:
   一人につき月に二貫文)
 ・桶細工(51人) ・油職(72人) ・見せかい(92人) ・塩売(45人) 
 ・豆腐職(166人) ・魚並塩辛職人(78人) ・明松職(12人) ・茶たはく職(100人) ・餅職(6人) 
 ・素麺職(53人) ・饅頭職(19人) ・豚切職(4人) ・味噌職(28人)  ・壺売職(7人) 
   (ここまでの合計813人)

 以下の職は上納銭(貢租)は御免(免除)のようである。
 ・酒屋 ・木工細工 ・加治細工 ・瓦細工 ・砂官 ・砂焼鍋之くう細工 ・金具師錫細工
 ・表具師鞍打細工 ・糸細工 ・縫物細工 ・彫物細工 ・玉貫細工師


2011年12月21日(水)

 午前中、今帰仁小学校4年生の総合学習。今帰仁村崎山・平敷・越地のムラの宝物探しである。自分達のムラ・シマであり知っている場所がほとんどである。目的は場所は知っているが、それを言葉にしてみんなに伝えることができるかどうか。その訓練でもある。発表者はいい報告をしてくれました。それと聞く方もよかったですよ。次回は1月6日に謝名・仲宗根・玉城を行います。お楽しみに!

 午後から『恩納村誌』の事務方と編集と進め方の打ち合わせ。わざわざ歴史文化センターまで来ていただきごくろうさんでした。一気に進めましょう。


        ▲う~ん、いい話だね               ▲そういうところもあったんだね!



2011年12月20日(火)

 
さっと、国頭村の村々を踏査する。しばらく行かないうちに変わっている。風景をはじめ、社会そのもの生き物であると実感する。これまで確認できなかった(私が)ものが、確認できたものもある。今日の講義は「国頭村のムラ・シマ―辺戸・安波―」。首里王府の「お水汲み」が行われている。その後の様子をみてきた。





2011年12月16日(金)

 尚敬王の時代の記事に「昔は六月吉日を撰んで「年浴」となし、八月吉日を撰んで「柴指」を行い十二月庚子(かのえね)庚午に鬼餅を作っていたが、此の年改めて「年浴」は六月二五日、「柴指」は八月十日、鬼餅は十二月八日と定めた」とある。

 『琉球国由来記』(1713年)の「年浴」は吉日を撰ぶとあり、「六月祓」ともいうとある。遊び(休息日)は一日である。柴指も吉日とあるが、六月二五日に決めている。その時の「神遊」は二日である。一日に減らされたということか。「鬼餅」は庚子と庚午だったのを十二月八日に決めた。その時の「遊び」は一日である。

 祭祀は神遊びで今の休息日(休日)だと位置付けてきた。祭祀の日の変更を首里王府が決めているのである。そして遊びの日も一日や二日など決められている。

 祭祀は民俗の分野で扱われるのが一般的であるが、首里王府は国の末端まで統治する手段としているのである。ノロの祈りも村の繁栄や五穀豊穣、そして航海安全など税と関わっている。祭祀をこのように位置付けてみると、歴史研究はもっと広がりを見せるのだが。


2011年12月15日(木)

 「諸志誌」(今帰仁村)の「もくじ」を見ながら、これまでの進捗状況の確認をします。相当なボリュウム(700頁)なのでプロジェクターで概要説明をします。そのようなものが次々やってくるので、体力と頭の回転が追いつきません。それと充電する時間がありませんね。まずは今晩の「諸志誌」を片づけましょう。







2011年12月13日(火)

 11日(日)「八重山文化を考える―内側の眼・外からの視線」(合同シンポジウム)(八重山文化研究会創立20周年記念)の研究会があった。「やんばる学研究会」を立ち上げたこともあり、どのようにして20年間も継続できたのか、そのことが学びたくて参加する。また、「やんばる学研究会」立上げの講演を三木氏にお願いしたもともあり、そのお礼も兼ねて。宮古・八重山をテーマにされた四名の方々報告を伺いながら、学ぶことが多くありました。

 また、今日の大学の講義が「八重山のムラ・シマ」がテーマである。八重山と言っても広い。石垣島、小浜島、竹富島、黒島、新城島、西表島、波照間島、それと与那国島まで広げてみる。切り口は御嶽(オン:ワー)と集落(集団)、土地制度と集落(ムラ)、御嶽(オン:ワー)の形成、移動集落など。

 さらに1500年以前の祭祀や習俗が、それ以後どう継承されて続いているか。1500年以後首里文化(本島側)の制度や文化がどう被さっているのか。そこに山原の統一された琉球国以前のムラ・シマの姿、それと近世の土地制度と関わるムラ・シマの姿も見えてきそうである。さて、どう「まとめ」ていこうか。






2011年12月10日(土)

 「山原のムラ・シマ講座」は東村の平良と川田、そして「山と水の生活舘」まで。平良と川田の集落の成り立ちを見る。西海岸のムラ・シマと東海岸のムラ・シマとでは違いが見えて面白い。東村が創設された時、「上の方」と「下の方」との違いが東村の創設に影響を及ぼしている。気質の違いと表現されているが、言葉の違い、あるいは行政の中心が間切時代は瀬嵩村であったことも起因しているようだ。そのあたり、具体的に調査をしてみると面白いそうだ。旧役場跡地に東村創設を記念した「栄光」碑が建立されている。(平成23年度のムラ・シマ講座は最終回でした。お疲れ様でした)



 

2011年12月9日(金)

 「沖縄の歴史」を学ぶ学生がほとんど。前回「琉球・沖縄の歴史」(上)の古琉球の時代に引き続き近世以降(下)である。歴史を通して、学生達に夢を与えたい。歴史を通してみると、物の無い時代、不況の時代の様子を見ると、夢に向っての人々の熱気が社会を動かしている。その時々の首長の判断が後世に大きく影響を及ぼしている。





2011年12月7日(水)

 東村の平良・川田・有銘までゆく。東村は沖縄本島北部の東海岸に位置している。前回(6回)の「山原のムラ・シマ講座」に続いての東海岸である。
 東村(ソン)は大正12年に久志村(ソン)から有銘・慶佐次・平良・川田・宮城の五字で新設される。大正13年に宮城から高江が分離し独立字となる。村役場は川田に置かれていたが、昭和20年に字平良に移される。平良の役所跡地はゲートボール場として利用されている。役所は同字の□□に新しく造られるが、「東村役場」の石碑は跡地に遺されている。

 明治36年の久志間切有銘村の寄留士族の比率は37.8%、慶佐次村が30.7%、平良村が28.5%、川田村が20.9%、宮城村が30.8%である。寄留士族の比率の高い地域である。それと明治36年の未搭載戸数が有銘村が17.6%、慶佐次村が17.4%、平良村が14.0%、川田村が25.8%、宮城村が35.5%である。未搭載の寄留人も含めると寄留人の占める比率はもっと高くなる。その未登録搭載が多いことは、寄留人や陸の孤島と無関係ではなかろう。

 経済の流れは「農産物や林産物の出荷は、陸路を利用することはほとんどなく、たとい陸路を利用するとしても、それは塩屋湾を経て西海岸を羽地・名護と行くのが普通であった。中南部への産物はほとんどが山原船によって泡瀬・西原・与那原方面、さらに糸満・那覇へと運ばれていたから、上方と下方の住民が物資に流通で直接に関わりを持つことはなかった」」(『東村史』第1巻73頁)。

 元の役場の側に平良の神アサギと平良ノロドゥンチが並んである。


  ▲ノロドゥンチと神アサギが並ぶ(平良)      ▲東村役場の跡地(現在の役場は後方の赤瓦屋根の建物)

2011年12月6日(火)

 「宮古島のムラ・シマ」をムラ・シマレベルで見て行くと、沖縄本島では消えかかっている集落の成り立ちの原初的な姿がまだ息づいている。沖縄本島のグスクとグスクとの関係より、ムラとムラとの関わり、そして1500年のオヤケ・アカハチの乱以後、首里王府に統括され、本島側からの制度や文化が被さっていく過程と、以前の宮古の姿が今にどう根強く残っているのか。それを見て行く作業と同時に、グスクが極端に少ない宮古島。祭祀と集落(ムトゥ)との関係が、沖縄本島北部のムラと祭祀をどう見て行くべきかのヒントlを与えてくれる。




2011年12月1日(木)

  今回の「山原のムラ・シマ講座」は東村平良と川田である。川田の根謝銘屋のカブの簪の記事を紹介したことがある。忘れかけているので、再度紹介することに。

  2003年2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表した記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介。北山城主末裔についての伝承は久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもある。大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。

   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。
・・・・」

とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

 もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)。

 黄金の簪は公儀ノロのものであろう。すると根謝銘屋からノロを出していた時代があった可能性がある。ただ、『琉球国由来記』(1713年)の頃は川田村と平良村は大宜味間切の村で、川田ノロはなく川田村の祭祀は平良ノロの管轄である。黄金のカブの簪や絹の衣類などと北山の流れをくむ伝承と結びつけるのは早計かと思われる。それよりも平良ノロの継承者がなく、平良のノロが根謝銘屋に嫁にきてノロをし、遺品はそのままのこった可能性もある。

 二つの村から大宜味間切の三人の夫地頭の内二人の夫地頭(平良大屋子・川田大屋子)を出している。両村が大宜味間切の村であった頃、重要な役職を出している。