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2010(平成22)年8月29日(日)

 午前中、お墓の展示作業。午後から国頭村与那の海神祭(ウンジャミ)調査。学芸員実習を兼ねて。

【国頭村与那の海神祭】

 これまで国頭村与那の海神祭(ウンジャミ)は見たことがない。それで今年は与那の海神祭の調査をすることに。その前に、どのような視点で見て行けばいいのか。その下調べから。調査に入る前に、1969年に発行された『沖縄民俗』(琉球大学民俗クラブ)から「ウンジャミ」の流れを把握することから。

 40年余経過した今日どのように変貌しているのか。その視点での調査をしてみることに(調査がうまくできるかどうか?)。また古宇利島の海神祭や他の地域の海神祭と比較してみることも。海神祭の三日前の酉の日はミタベー、亥の日は海神祭、海神祭の翌日の子の日はワラビウイミとして行われる(どのように変貌、簡略化されてるか!)。

『山原の土俗』(島袋源七著:大正14年)
 ・与那の祝女は同村与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉の五ヶ字の祭祀を掌る。各字に神人はいる。

 ・ウングマイ

  祭の三日前の夜、神人だけでアシアゲに集まって、儀式を行う。その夜は神アシアゲの周囲の民家
  の男は、総て他家に行って宿泊せねばならない。また夜外出する事はいたく禁じられている。


 ・祭の当日
   神人は祝女殿内へ集まる。その時各字から来た神人(男)は儀式用具を持つ様になっている。
   即ち宇嘉の神人は月を持ち辺野喜の神人は太陽を持ち、佐手・謝敷の神人は太鼓を打つこと
   になっている。用意が整うと行列をして神アシアゲに参る。月と太陽はウチバという。


 ・神アシアゲ内

   アシアゲに至ると図のように着席し祝女は祈願する。
   祈願が終わると大勢頭は弓を持って庭にかざってある冬瓜で作った猪を射る真似をして幾度も
   ねらいを定め直す。その間ムラ神は猪を両方から囲み立て大勢頭に加勢をなす。遂にこれを射
   れば、根神・ウチ神・祝女等は大勢頭とムラ神を取りかこんで太鼓を鳴らす。ウチバは特に歓喜
   の情を見せて踊り狂う。

 ・ナガレ

  しばらくして猪を持ち神人は行列をして浜に参る。大勢頭は猪を砂中に埋めムラ神と共に弓の先で
  その上をつつき山に向って礼拝す。神人は頭にかぶっていたカブイ(トーカンラという蔓草で作ったも
  の)を海に流す。それで式が終わる。

『沖縄民俗』(1969年調査:琉球大学民俗クラブ)調査
 ・三日目の酉の日にはミタベー(神人がヌンドゥンチでウンジャミがあることの予告の祈願)。
 ・七月盆明けのの亥の日
 ・ウンジャミの日、神人はヌンドゥンチに集まり祈願をする。
   シンメーダキ、ウサギヤビティ、ムヌマキン、カジマキン、シミミソーラングトゥ
   健康ニカミブリンシミソーリ
 ・祈願が終わるとアサギへスネーイ(行列)
   シル神二名と村人一名の計三名が三日月と満月の模型と太鼓を持つ。
   村神は弓や弓矢を持つ。
 ・アサギにつくと村の人々と一緒に健康祈願をする。
 ・村神、根神は扇を右手に持ち、左手で縄をつかまえて揺り動かしながらエーヒドゥヌサチーのオモロ
  を謡う。
 ・他の神人はアサギで見守る。
 ・何ももたずに、縄もつかわないで円陣をえがきエーアカムヤー、続いてエークガチンヌーのオモロを謡う。
 ・その後、青年達が網で魚を取る真似をする。籠に魚にみたてた木片などを入れて山の神に供える。
 ・スブイ(冬瓜)かカボチャでヤマシシ(猪)の形をつくり、村神のメーウンニー家のおばあさんが弓矢で
  射る。
 ・弓矢で猪を射って東に向って弓を三回あげる。
 ・まさぐ浜に行く。(他部落の神人を見送る)
 ・イスヌウカミ(磯の御神→海の神)へ猪を供える。
 ・それが終わるとヌンドゥンチに行き、祭りの終わりを告げ、謡い踊る。
 
 ・与那部落所有の田のムッチマシから収穫した米で作った餅を、四部落(宇嘉・佐手・辺野喜・謝敷)
  からは一戸当りエーヌクヮ(魚の一種)十尾を竹で串刺ししたものを三組づつアサギで供えて神人に
  配る。
 ・与那区民一人当り米一合ずつ徴収して神人に一人当り三升ほど配り、残った米で翌日使うホイ
  ヤーミチ(神酒)をつくる。(当時(1969年)には金を徴収している)

 ・海神祭の翌日(子の日)はワラビウイミと称し、昼頃アサギの広場でユノウシ(椀)にホイヤーミチ
  (神酒)を入れたのを一対お膳に置き男一人で飲む。この時、一人の神人がホイヤー、ホイヤー
  と掛け声をかけながら太鼓を叩き、後ろ側の一人の神人が男の耳をつかまえ揺り動かす。神酒が
  こぼれてしまう。


 ・神酒がこぼれあふれる程作物ができて欲しいとの祈願。
 ・その日はノロ・若ノロ・ウスー(御主)は招待客であり、駕籠に乗って見守る。拝みをするのは根神
  が中心である。
 ・根神・掟神・ウフシル神・村神(2名)の計5名はアシビガミ(遊び神)と呼ばれアサギマーで踊る。

①ノロドゥンチでの祈願(謝敷の神人達が参加)



②神アサギミャーの様子(与那の方々がアサギ庭に集まる)



③神アサギ及び船漕ぎ儀礼



④ウンコイ庭(七回廻る)             ⑤アサギ庭でウタを謡



⑥魚の捕獲                   ⑦猪をしとめる



⑧海岸への行列              ⑨海岸(流し)での祈り



2010(平成22)年8月28日(土)

 学芸員実習は、シーカヤックは天気の都合でキャンセル。残念。昨日クボウのウタキから麓を眺めた。シーカヤックで海から陸上を眺める。二つの視点を体験させるのが目的であった。ちゅら海水族舘で他の館を学芸員の目線での見学。どんな報告があるか楽しみである。

【イベはウタキに内部にあるポイント!】

 御嶽(ウタキ)とイベは区別して記述すべきである。そのことは『琉球国由来記』(1713年)から意識されている。ところが、イベのことを神名と記してあることから誤解を招いている。ウタキとイベとの区別をしているかどうかで、ウタキの領域が異なってくる。そのため、ウタキとイベの認識は区別していくべきである。構造からするとウタキの内部にイベがあるということ。そのことは、『古代の沖縄』(宮城真治著)で明確にウタキの構造を図化してある。ウタキの領域にイベだけでなく旧家や集落などの要件を含む場合もある。ウタキの内部のイベは神との関わる重要なポイントだとみるべきである。そこでウタキはイベを含む領域としてとらえると集落やグスクとウタキやイベとの関わりが見えてくる。ウタキの領域を認識してみていくと、ウタキやグスクと集落との関係が密接に関わっていることに気づかされる。

 ここに『具志川家家譜』にある「今帰仁旧城図(乾隆7年:1742年)を掲げてみた。そこに「上ノイヘ」と「下ノイヘ」と記されている。これは『琉球国由来記』(1713年)の「城内上之嶽」と「同下之嶽」を指している。上(御嶽)ノイベと下(御嶽)ノイベは、ウタキの内部にあるイベ(場所)を指していることがわかる。当時からすでにウタキとイベは区別している。『琉球国由来記』でイベに神名としてあるが、神の存在というよりイベはウタキのポイント(場所名)とみるべきであろう。

 宮城真治がウタキを図化してあるように、ウタキを構成する要素にイベ・イベの前・(場所によっては神アシアゲ)・殿内(旧家)・カー・火神・帯綱・裾廻りなどがあげられる。つまりウタキ≒イビではないということ。イベはウタキの中に含まれるもの。ウタキやイビについて、その認識があって記述されているかで、ウタキやグスクや集落との関わり、古琉球のムラ・シマと近世のムラの記述の仕方に影響を及ぼす重要なテーマだと見ている(近世の村と古琉球のムラと同一視してみていないか! そのことはクニレベルの祭祀とムラレベルの祭祀と同一視していないか!にもつながるテーマでもある)


▲「今帰仁旧城図」の二つのイベの記述          ▲宮城真治が図化したウタキの概念図

2010(平成22)8月27日(木)

 学芸員実習でコウボウヌウタキまで登る。杖をついてのウタキ登りである。回りは老人の杖つきだと見ている節がある。もちろん、そのこともあるが①用心棒(ハブ払い)、②蜘蛛の巣払い、③歩く速さの調整 ④物差し ⑤転ばぬ先の杖 などなど。

 クボウヌウタキは『琉球国由来記』(1713年)に「コバウノ嶽 今帰仁村 神名:ワカツカサノ御イベ」とある。それに続いて「謝名村ニ、アフリノハナト、云所アリ。昔、君真物出現之時、之所ニ、黄冷傘立時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、又コバウノ嶽ニ、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立ト、申伝也。」とある。「右三ヶ所、今帰仁巫崇所」lとある。この三ヶ所は①城内上之嶽 ②城内下之嶽 ③コバウノ嶽である。ここで城内之嶽と下之嶽、そしてコバウノ嶽も今帰仁巫の崇所となっているが、注意を必要とする。

 というのは、『琉球国由来記』(1713年)が編集された頃、今帰仁監守と今帰仁アオリヤエの一族が首里に引き上げて40年余経った頃である。つまり、今帰仁アオリヤエが主導していた祭祀が今帰仁ノロが肩代わりしている様子が伺える。首里王府の祭祀を今帰仁ノロが肩代わりしている姿が『琉球国由来記』に反映しているとみていい。

 また、クボウノ嶽での祈願の趣旨でもわかる通り、そこでの祭祀は村(ムラ)の祭祀も含まれているが、「首里天加那志美御前(首里の王様よ)・・・」と国(首里王府:クニ)の祭祀としての祈願である。その唱えは今帰仁アオリヤエが主になって祈願をしていた見るべきであろう。前に見た「君真物」の神の出現も村の神の出現というより、王府と関わるものである。(祭祀を見るときクニとムラレベルの祭祀は、区別する必要があるというのは、そこからきた発想である。クニレバルのウタキもあればムラレベルのウタキがあるということでもある。さらに古琉球のマキ・マキヨ、あるいは一族、さらに先島に行くとオンやワークラスのウタキもあり、どのクラスのウタキや祭祀であるのか、認識する必要がありそう)

   首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、
    島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ、デゝ

 『琉球国由来記』(1713年)の国頭間切辺戸村の「アフリ嶽・宜野久瀬嶽・大川」での祭祀は辺戸ノロの崇所となっているが、君真物やアフリ(冷傘)の出現を王殿への伝達、首里天加那志美御前・・・の祈願などから、明らかに国(クニ:首里王府)の祭祀である。辺戸村の祭祀場も今帰仁間切のクバウ嶽同様、今帰仁アオリヤエの祭祀(祈願の役目)であったのが首里への引き上げで辺戸ノロが肩代わりした様子が『琉球国由来記』に報告され記述されているのであろう。『琉球国由来記』の報告や記述に北山監守とアオリヤエ一族の首里引上げと今帰仁間切の分割など歴史の動きが反映している。


    ▲クボウヌウタキへの道筋               ▲中腹にあるクボウヌウタキのイベ


        ▲クボウヌウタキの頂上          ▲クボウヌウタキのイビのメーに当る広場

2010(平成22)年8月25日(水)

 旧盆が終り、これから村踊り(ムラウドゥイ:豊年祭)が各地で行われる。『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)に「村芝居」について以下のように述べている。

   村芝居は之を似念仏(ニセネンブツ)ともいう。百数十年来(大正8年頃より)各字殆んど之を演ぜざる所なく旧藩時代には
   筆者及び其の子弟中より選抜して枝芸を授け凡そ毎年旧七月頃より之が稽古をなさしめ旧八月十五日夜数日前より
   本舞台なる神アシャゲの庭前又は村内の広場に於いて上演し一般民衆に観覧せしむ。而して其の費用は字民の負担
   とし相当基本財産又は之に要する諸物品を設備す。或いは毎年或いは二年一回、三年一回、五年一回等ありて一定
   せず。然るに日清戦争後旧慣打破の風と共に経済上負担に苦しきこと、勤労着実の美風廃れ遊惰淫猥の悪習に染む
   等其の弊害を訴へて遂に漸次之を廃するに至れり。・・・・

   芸は従来すべ琉球古劇にして若衆踊、二歳踊、女踊、狂言、組踊の五種にて二三十種を演じしが近年内地劇及び近代
   劇等に改良せられつつあり。

 旧16日は各字で盆おどりが行われる。それは豊年祭(村踊り)とは別のものだが、盆踊りの舞台を画像で掲げておきましょう。


     ▲玉城の盆踊りのヤグラ          ▲プログラム


    ▲越地のウフェーのヤグラ              ▲崎山の盆おどり会場


     ▲与那嶺の盆踊りのヤグラ                ▲今泊の盆踊りのヤグラ

2010(平成22)年8月24日(火)

 17日佐賀市から博多に向う途中、「吉野ケ里歴史公園」駅で途中下車。環濠集落内の施設を歩いてまわる。木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)などに目を見張るのがある。主祭殿や物見やぐらなどに上がってみた。弥生時代の集落のすごさを感じるのであるが、私がイメージしている弥生時代の様子とは、ギャップが大きすぎた。現在の物差しやスタンスで描いているためか、なぜか気恥しい気分がついて回った(それは、私の勉強不足のせいであるが!)


        ▲城柵・土塁・環濠の様子                     ▲環濠内の集落跡

【国頭村与那の海神祭】

 これまで国頭村与那の海神祭(ウンジャミ)は見たことがない。それで今年は与那の海神祭の調査をすることに。その前に、どのような視点で見て行けばいいのか。その下調べから。調査に入る前に、1969年に発行された『沖縄民俗』(琉球大学民俗クラブ)から「ウンジャミ」の流れを把握することから。

 40年余経過した今日どのように変貌しているのか。その視点での調査をしてみることに(調査がうまくできるかどうか?)。また古宇利島の海神祭や他の地域の海神祭と比較してみることも。海神祭の三日前の酉の日はミタベー、亥の日は海神祭、海神祭の翌日の子の日はワラビウイミとして行われる(どのように変貌、簡略化されてるか!)

 ・三日目の酉の日にはミタベー(神人がヌンドゥンチでウンジャミがあることの予告の祈願)。
 ・七月盆明けのの亥の日
 ・ウンジャミの日、神人はヌンドゥンチに集まり祈願をする。
   シンメーダキ、ウサギヤビティ、ムヌマキン、カジマキン、シミミソーラングトゥ
   健康ニカミブリンシミソーリ
 ・祈願が終わるとアサギへスネーイ(行列)
   シル神二名と村人一名の計三名が三日月と満月の模型と太鼓を持つ。
   村神は弓や弓矢を持つ。
 ・アサギにつくと村の人々と一緒に健康祈願をする。
 ・村神、根神は扇を右手に持ち、左手で縄をつかまえて揺り動かしながらエーヒドゥヌサチーのオモロを謡う。

 ・他の神人はアサギで見守る。
 ・何ももたずに、縄もつかわないで円陣をえがきエーアカムヤー、続いてエークガチンヌーのオモロを謡う。
 ・その後、青年達が網で魚を取る真似をする。籠に魚にみたてた木片などを入れて山の神に供える。
 ・スブイ(冬瓜)かカボチャでヤマシシ(猪)の形をつくり、村神のメーウンニー家のおばあさんが弓矢で射る。
 ・弓矢で猪を射って東に向って弓を三回あげる。
 ・まさぐ浜に行く。(他部落の神人を見送る)
 ・イスヌウカミ(磯の御神→海の神)へ猪を供える。
 ・それが終わるとヌンドゥンチに行き、祭りの終わりを告げ、謡い踊る。

 
  ・与那部落所有の田のムッチマシから収穫した米で作った餅を、四部落(宇嘉・佐手・辺野喜・謝敷)からは各戸当り
   エーヌクヮ(魚の一種)十尾を竹で串刺ししたものを三組づつアサギで供えて神人に配る。
  ・与那区民一人当り米一合ずつ徴収して神人に一人当り三升ほど配り、残った米で翌日使うホイヤーミチ(神酒)を
   つくる。(当時(1969年)には金を徴収している)

  ・海神祭の翌日(子の日)はワラビウイミと称し、昼頃アサギの広場でユノウシ(椀)にホイヤーミチ(神酒)を入れたのを一
   対お膳に置き男一人で飲む。この時、一人の神人がホイヤー、ホイヤーと掛け声をかけながら太鼓を叩き、後ろ側の一人の
   神人が男の耳をつかまえ揺り動かす。神酒がこぼれてしまう。神酒がこぼれあふれる程作物ができて欲しいとの祈願。
  ・その日はノロ・若ノロ・ウスー(御主)は招待客であり、駕籠に乗って見守る。拝みをするのは根神が中心である。
  ・根神・掟神・ウフシル神・村神(2名)の計5名はアシビガミ(遊び神)と呼ばれアサギマーで踊る。
 


      ▲与那ノロドゥンチ(国頭村)        ▲海神祭の時に使う道具?


    ▲与那の神アサギとアサギマー                     ▲与那の集落

2010(平成22)年8月21日(土)

 中学生のインターシップの打合せ(9月13日~16日)。

 17日佐賀駅から城下町の雰囲気を味わいながら佐賀城跡まで。途中目に入ってきたのは「唐人町の由来」の説明版である。唐人が召し抱えられて町ができ、それから400年が経つことを記念して建立されたようである。途中、水路がいくつもあり、佐賀城の外掘なのかと想像を働かせながら歩く。三日目なので疲れがくるかと覚悟していたのだが、駅から佐賀城跡まで苦にならずに着いた。足に負担のかかりにくいアスファルトなのだろうか。

 近年、各地の城を訪ねるのであるが、城主の城の興亡について調べていくと頭の中が爆発するので、そこに立ち入ってみるこはほとんどない。各地の城をみることで沖縄グスクをどう言葉で表現したらいいのかが見えてくる。日本の城の知識で質問してくるお客さんが多々あるので、それを踏まえて答えてあげることも必要かと。

 詳細には触れないが、佐賀城跡で沖縄と関わる人物の名前を見つける。鍋島直彬(なべしま なおよし:1843・12・11~1915・6・14)である。氏は明治12年4月4日から明治14年5月18日まで、沖縄県初代の県令を勤めた方である。明治12年の沖縄の廃藩置県で苦慮されたようである。佐賀の地で育ち、アメリカ留学された鍋島氏が、沖縄にどんな面に力を注いだのだろうか。佐賀城跡内にある歴史舘の展示や案内をうけていると、なにかわかったような気分にさせられる。(今回の旅は、そのような空気に触れることが大きな目的である)
 

        ▲佐賀駅方面をみる            ▲「唐人町の由来」の説明版


▲佐賀城跡の周辺にはいくつもの堀がある           ▲佐賀城跡の鯱鉾門


          ▲復元された本丸が歴史舘として活用されている

 
      ▲一帯の石垣には数多くの記が彫られている!石を割取ったノミの跡も

中城ノロ家の伝世品

 ①佩用(勾玉大1、水晶玉(大~中)(合計96個)(銅線で繋がれている)
 ②ノロの位牌が二
 ③ノロ乗馬用の鞍(今回拝見せず)
 ④三採の水差(花瓶として利用)
 ⑤香炉(ノロ位牌のある棚に3、「諸葛孔明」の図像の前に香炉あり)
 ⑥茶入(のろくもいの墓の石製厨子甕内:中城のろくもい 道光八年 行歳八十二))
 ⑦戦前まであったノロ家にあった辞令書(11点)(現物は焼ける)(2点は写真でのこる)
   ・与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42:1563年)
   ・浦崎の目差宛辞令書(万暦14:1586年)
   ・玉城の大屋子宛辞令書(万暦20:1592年)
   ・中城ノロ職叙任辞令書(万暦33、1605年)
   ・与那嶺の大屋子叙任辞令書(万暦40:1612年)
   ・与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇貞16:1643年)
   ・中城ノロ叙任辞令書(隆武8:1652年)
   ・本部目差叙任辞令書(順治13:1654年)
   ・西目差叙任辞令書(康煕3:1664年)
   ・上間大屋子叙任辞令書(寛文7:1667年)
 ⑧誌板(宮城家の墓内:10本)
 ⑨「ノロクモイ御解御願並に立願」(城間系統日記)(1950年)

  
  ▲中城のろの勾玉と水晶玉          ▲中城のろの勾玉     ▲中城ノロドゥンチの水注(三採)

  
      ▲中城のろの位牌(二基)                ▲香 炉            ▲茶入(墓内)

 
      ▲中城ノロの辞令書(1605年)            ▲中城のろの辞令書(1652年)

【今帰仁ノロ家の伝世品】


   
▲今帰仁ノロの勾玉と水晶玉    ▲今帰仁ノロの釵    ▲今帰仁ノロの位牌        ▲香炉

2010(平成22)年8月20日(金)

 午前中、今帰仁ノロ家の勾玉と水晶玉と簪(カンザシ)と位牌。戦時中の聞き取り調査。午後から中城ノロの勾玉と三彩(水差)と香炉などの調査をする。

 16日長崎へ。博多から鳥栖を通り佐賀市。JR長崎本線で鹿島市、諫早湾沿いを通り諫早市。そこから長崎市へ。長崎駅前は坂本竜馬伝で賑わっていた。路面電車で数ヶ所行く予定が、最初に足を運んだ「出島」でほとんど時間を費やしてしまった。1996年に訪れた孔子廟・中国歴代博物館、今でも忘れることのできない靴のパクパク事件というのがあり、今回もその二の舞いになりそう。そのためではなかったのであるが訪れることができず残念。

 出島で時間を費やしたのには『江戸参府旅行日記』」(ケンペル:東洋文庫)に目を通していたからにほかならない。薩摩藩と琉球の江戸立(上り)、対馬藩と朝鮮通信使、松前藩と蝦夷地。長崎から江戸参府。琉球の江戸立(上り)や朝鮮通信使は門司から瀬戸内海を通るのが一般的なルートのようである。そのような江戸参府や江戸立(上り)などのつながりで「出島」で足止め。





2010(平成22)年8月19日(木)

  15日(日)福岡県の博多駅から筑肥線で唐津、呼子(佐賀県)などをゆく。福岡空港を降り立つと博多駅へ。駅に荷物を預けると、さっそく筑肥線に乗り、沿線のマチと玄界灘の空気が吸いたくて。そこらの歴史について、全く無知ながら朝鮮半島から渡ってきた人々と一帯に住んでいた人々との関わり(視線)が、どのように歴史・文化に影響を及ぼしているのだろうか。そんなことは暑さのためどこへやら。底のすれた靴を引きづりながら。

 今回は足を運ぶことができなかった平戸・鄭成功居宅跡・媽姐像及びその隋身、オランダ商館倉庫跡、井戸、平戸城などのことが思い出される(1996年9月「環シナ海地域間交流と平戸・長崎」の研究会で訪れている)。 

  (沖縄本島北部、山原というが、地元の人々の視線、首里・那覇からみた山原への視線、それらの視線が対立したり、
    融合したりしながら歴史・文化が築かれてきているのではないか)。


【呼子】(佐賀県:よぶこ)


         ▲呼子のイカ干し                   ▲呼子の港(イカの朝市)

【名護屋城跡】(佐賀県)


  ▲大手口付近の石積み(勾配が比較的緩やか)  ▲名護屋城跡から玄界灘の島々と数多くの陣屋

【唐津城跡】(佐賀県)


      ▲唐津城跡の天主閣            ▲唐津城跡から眺めたマチと虹の松原方面


      ▲唐津城跡の本丸                 ▲唐津城跡から眺めた唐津のマチ


 8月15日~18日まで、お休みします!


2010(平成22)年8月14日(土)

 「ムラ・シマ講座」開催です。今日は名護市名護村(東江・城・大兼久)です。特に名護グスク周辺です。
 『琉球国由来記』(1713年)に登場する名護間切名護村はどのような展開をしてきたのか。これまで見てきた名護間切名護村を以下の視点でみると、興味深い。

  ・『絵図郷村帳』(1646年頃)と『琉球国高究帳』には名護間切名護村のみ登場。
     (絵図郷村帳の「当時之無」の村は1646年頃にはなかった村と解する。ほとんどが1646年以前にあったと
       解されるが・・・)

  ・名護グスクの周辺の集落(集落の移動と拡大)
  ・1738年~1719年の間に名護間切は東江村と大兼久村と城村の行政村となる。
  ・三ヶ村が統合(明治36年)して名護村
  ・名護村から東江・城・大兼久へ分離(明治42年)
   (昭和19年大兼久は大中・大東・大西・大南・大北区に分かれる。昭和22年に城から
   港区が分離。現在12区からなる)
  ・行政村が分離や統合を繰り返すが、祭祀はどうなっているか。
  ・名護グスク周辺には古琉球のムラの痕跡が見え隠れする。





2010(平成22)年8月11日(水)

 
沖縄の女巫佩用の玉」(喜田貞吉 文学博士)に、以下の論説がある。全文は掲げないが、阿応理屋恵家から提供いただいた写真がある。その写真の場面を記したのが以下の文面である。昭和4年のことである。
 今帰仁阿応理屋恵の遺品について、『鎌倉芳太郎ノート』や『沖縄県国頭郡志』などに記されている。『南方文化の探究求』(昭和14年発行)や当時の新聞などに遺品についての記事がある。それらを整理し、現在歴史文化センターが所蔵している品々を一つひとつ特定する必要がありそう。

【鎌倉芳太郎ノート】(鎌倉芳太郎資料集(ノート編Ⅱ)(沖縄県芸術大学)
  玉(magadama)
   一連 大曲玉 一ヶ          a.玉かはら一連       b.玉御草履
      (1) 小曲玉 二十一ヶ         内            c.冠玉たれ一連 
         水晶玉 三十一ヶ        かはら一    大形    同玉之緒一連
      (2) 水晶玉 八十ヶ           同 二十二 小形
                          水晶之玉 百拾六 
 
【沖縄県国頭郡志】(今帰仁村字今泊阿応理屋恵按司所蔵品目録)(大正8年)
  一、冠玉たれ一通 一、同玉の緒一連 一、玉の胸当一連 一、玉の御草履一組
  一、玉かはら一連 同玉かはら一大形、二十二小形、水晶の球百十六。

 【沖縄の女巫佩用の玉】(喜田貞吉 文学博士)(昭和4年)(沖縄教育 201号 昭和8年発行)
 「国頭郡今帰仁村今泊で旧按司家阿応恵所蔵の佩佳玉は二十二個の所謂曲玉と、多数の水晶製丸玉とを交えへて究めめて見ものであるが、之を納めた袋に、
   玉かはら一連。内かはら一、大形。かはら二十一、小形。水晶玉百十一。昭和四年四月四日現在。
と書いてあった。(本社記者云う、袋の文字は古くより此の形式に書いてあったのを昭和四年に袋を新調して書替へたのみである)
 阿応理家では今もその一連の玉全体を玉ガハラと呼んでいるのである。而して之を区別して云えば、我が所謂個々の曲玉を単にカハラと呼んでいるので、此の点聊か西銘ノロという所と相違してはいるが、ともかく連珠其のものを玉ガハラという点に於いては、沖縄島の南端と、北端と、共に一致しているのである。・・・沖縄でも古くそれをカハラと呼んだ事は、古文書に証拠がある。而してそれは共に我がマガリ玉即ち曲玉なる名称が、連珠其の物を指した事の傍証となるべきものでなけれならぬ」(『沖縄教育』五月号 昭和8年発行)。



  ▲伝世品の目録を前にした今帰仁阿応理屋恵と勾玉など   ▲「国頭郡志」に掲載された遺品

※今帰仁阿応理屋恵按司の代合
 『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁阿応理屋恵の代合について、以下のように記してある。
 南風之平等(首里殿内)で行われる。
   今帰仁阿応理屋、代合ノ時、御朱印御拝ノ日、勢頭親雲上、首里殿内ニ持参、
   大阿武志良礼ヨリ、阿応屋恵へ上ゲ申也
   伊平屋阿武加那志、代相ニ、二カヤ田両人召列、首里殿内ニ被参、御花壹、御五水壹対、
   座敷酒壹対、供之、玉ガハラヲハキ、御拝四仕也。
  (南風原・大里・佐敷・知念・玉城・具志頭・恩納・大宜味・金武・国頭・伊江島・伊平屋島の
   ノロの交替は首里殿内で行われる。今帰仁間切のノロの引継は西之平等であるが、今帰仁阿応
   理屋恵は南風之平等(首里殿内)で行われる)

2010(平成22)年8月10日(火)

 
『沖縄の祭と芸能』(本田安次著)に昭和34年今帰仁村の上運天や古宇利島の伝統芸能の採訪をなされている。その中に上運天の神アサギと内部の獅子とお宮の「神敬」の扁額や香炉を撮影されている。今から50年前の上運天の神アサギやアサギ内の獅子などの写真である。50年が経って、どうなっているのだろうか。

 一年、二年では変化に気づかないのであるが、このように50年のスパンで比較してみると、変わったもの、変わらないものがあることに気づかされる。神アサギは茅葺から瓦葺きへ。屋根の低さと柱の数は変わることなく伝統を保っている。それと獅子であるが、造りかえられているが、今でも存在し豊年祭で獅子は舞っている。

 お宮の中の「神敬」は昭和54年の写真に「大正十二年十一月吉日」とある。現在のは平成になってつくりかえたものである。(全てが一気に変わるものではない。徐々に変わるものである。また変わらないものもある)


▲上運天の茅葺屋根の神アサギ(昭和54年)       ▲アサギ内の獅子        ▲お宮内の扁額


 ▲上運天の瓦屋の神アサギ(平成4年)    ▲神アサギから出された獅子    ▲香炉(上部に扁額あり)

2010(平成22)年8月8日(日)

 午前中、沖縄国際大学の学生(アジア文化人類学ゼミ)へのレクチャー。みっちり二時間。はじめての学生達がほとんどなので、試行錯誤の実習でいいでしょう。また、たっぷり今帰仁の空気を吸ってくれたらいいですね。




2010(平成22)年8月6日(金)

 午前中、教職員の10年研修会。「北山の歴史と文化」。先生方に沖縄本島に中央から見る視点とは異なる「歴史・文化」があることを、意識しながら指導して欲しいとの提案。どのようなものがあるのか具体的に画像で見せながら。

 午後から今帰仁村天底のサーザーウェー、さらに古宇利島のピローシの調査へ(詳細は別に報告する)。

【天底のサーザーウェー】

①神アサギ→②ニガミヤー跡→③ヌルヤー跡→④天底のウタキ→⑤モーガー

 
    ▲神アサギでのウガン           ▲一般の方々は神アサギの外でウガンをする

 
    ▲神アサギからニガミヤー跡に向う        ▲ヌルヤー跡からウタキに向う

【古宇利島のサーザーウェーとピローシ】

 サーザーウェーは古宇利春夫氏一人で行った。今日はサーザーウェーの二日目である。①サブセンター→②ヌルヤー→③しちゃぐや→④お宮(クヮッサヤー)→お宮。引き続き、お宮の前でピローシが行われた。
 二日目のサーザーウェーはサブセンターから。古宇利春夫氏一人で行った。体調がおもわしくなく、無理を押して行っている(休みなく前半と後半のウタと踊りを行った)。ヌルヤーとしちゃぐやでも同様。筵やビンシー運びは三人の青年が手伝う。神人の移動は区長さん。(新築の家廻りはなし)お宮で「ウットミ パットミ」と古宇利春夫氏が閉める。

 それが終わるとお宮の右前方(路上)でピローシが行われた。ピローシには古宇利春夫氏の外に四人(渡具知綾子さん、兼次フサエさん、玉城タエさん、金城キヌエさん)の神人で行った。ピートゥ役は兼次光男氏である(長年勤める)。綱持ちと交通整理を島の若い青年達が手伝う。数名の手伝いがいないと島の祭祀は消滅してしまいそう。

 
 ▲ヌルヤーでの舞いとウタ         ▲しちゃぐやでのウタと舞い

 
  ▲ピローシは東に向ってのウガンから始まる       ▲ピートゥ(イルカ)を捕獲する場面

2010(平成22)年8月5日(木)

 下の画像は今帰仁グスクの前方にある今帰仁阿応理屋恵の火神(昭和30年代)の祠である。以前、前の松の木の付近に香炉が数個あった。いつの間にか不明になっている。それには「奉寄進」と年号などが刻まれていた思われる。祠内の写真が一枚見つかった(残念ながら撮影日が記されていない。確認が必要)。それを見ると10基ほどの香炉がある。松の木の下から祠内に移動したのであろう。現在、祠内にそれらの香炉がないのは残念。扁額の年号につながる香炉があるにちがいない。

 それと平成5年頃まで扁額があった。幸いにして写真と拓本はとってあった。但し、扁額から年号の一部は判読できたが、全体の読みは困難であった。

 「今帰仁上り」(新城徳祐著)に火の神の祠の中の扁額を「乾隆歳次丁未二一春穀 福得休依」と読まれている。「休に依り福を得る」ということか(自信がありません)。それはそれとして年号の方がしっかり判読できなかったので、新城徳佑氏の「乾隆歳次丁未二一春穀」の読みはありがたい。(確認したら、2008年6月13日でも触れているので参考のため)
 


  ▲昭和30年代の今帰仁阿応理屋恵火神の祠       ▲近年の阿応理屋恵の火神の祠


                  ▲昭和60年頃の採択と写真


▲扁額がないので平成7年後の撮影である!(香炉がいくつもある)



2010(平成22)年8月4日(水)

 8月4日(旧暦6月24日)古宇利島でユーニゲーの神行事が行われた。それに参加する。

①サブセンター
 夕刻(午後7時前)、サブセンターに三人の神人(兼次フサエさん、玉城タエさん、キヌエさん)が集まる。出発前に今日のウガン、参加できない神人の体調などを気遣う会話。ヌルヤーへ行く前に、サブセンターの畳の間に茹でタコが吊るされる。今ではタコが吊るされるが、魚(海の物)が吊るされていたこともあるという。ビンシー(線香・お酒・米・塩)を持参してヌルヤーへ。

②ヌルヤー(車を降りてヌルヤーまで明かりが必要)
 三人の神人を車に分乗してヌルヤーへ。島の方は神人の外に区長さんのみ。書記さんは急用ができ参加できず。高齢のため、この祭祀に参加した早稲田大学の二人が神人の移動などの手助けをする。まずは、ヌルヤーでユーニゲーの行事であることのウガン。滞りなく行われるようにとの唱えをする。線香・お酒・米・塩などがヌルヤー内の二ヶ所に供えられる。

③サブセンターへ(車に分乗して)
 サブセンターに着くとタコの吊るされている間で、タコの廻りをウタを唄いながら廻る。三回廻ると言いながら一回廻るのが精いっぱい。タコが下され、区長さんがタコをいくつかに分配する。その間神人は腰掛けて休憩。かつて多くの神人が参加していたことや、今はタコを吊るすが魚など海の物を吊るしていたこともあったなどの話が飛び交う。分配したタコも持参する。

④ヌルヤーへ(車に分乗してヌルヤーへ)
 そこ頃(20時過)は真っ暗である。再び電灯を照らし足元に気をつけながらヌルヤーへ。ヌルヤーの内の二ヶ所の香炉に供える(線香・米・酒・塩)、サブセンターから持参したタコも供える。ウガンの唱えがある。ウガンが終わると、タコは神人や参加者に配られる。そこでのウガンが終わると解散。

①サブセンター事務所

 

②ヌルヤー内で



③再びサブセンター
(吊るしたタコの回りを廻る。タコが下されヌルヤーに運ばれる))



④再びヌルヤーへ
(タコが供えられる。終わると分配される。そこで解散)



「ムラ・シマ講座」の下見で「名護村(ムラ)の故地」を踏査する。


2010(平成22)年8月3日(火)

 『絵図郷村帳』(1647年)や『琉球国高究帳』の読谷山間切に「城村」は登場するが座喜味村は登場しない。『琉球国由来記』(1713年)では座喜味村が登場し城村は出てこない。同書に座喜味村に、城内嶽、城内火神、タインノ嶽、シラシ嶽がある。その他に座喜味村に座喜味巫火神、読谷山城内之殿、座喜味之殿などがでてくる。

 古琉球から17世紀前半まであった「城村」が、近世の中頃、座喜味村に統合されたのであろうか。『琉球国由来記』(1713年)では城巫ではなく座喜味巫で管轄は座喜味村・上地村、波平村の祭祀を管轄する。

 『真境名安興全集』(第三巻)に「城、座喜味の両村が合併にならなかった以前の祝女(ノロ)の辞令書がノロ殿内にあるが、時代は万暦の頃であったように玉城正保氏(小学校長)は話した」(昭和6年)とある。「万暦の頃」(1573~1620年)なので、座喜味村になっていない頃の辞令書である。仮に座喜味村になって以降、辞令書が給付されていたら座喜味ノロだろうか、あるいは前の城ノロの名称だろうか。

 座喜味村の初見を1680年代とされるのがあるが(『御当国御高並諸上納里積記』)が、その資料は1738年に創設された湧川村がでており、その後の資料ということになる。

 名護間切名護村のノロは名護のろくもひ(明治43年調査)、1738年頃名護村は東江村と城村と大兼久村に分かれるが、ノロの名称は名護のろくもい(ノロ)のままである(後に東江ノロになる:大正4年頃か)。名護ノロドゥンチについて、名護神社(昭和4年)との関係で説明が必要である。ノロドゥンチの近くに首里殿内(スイドゥンチ)跡がある。それは惣地頭火神か?


          ▲名護ノロドゥンチ跡              ▲名護神社の拝殿と神殿