2009年9月
                              沖縄の地域調査研究(もくじへ)


2009930日(水)

 久し振りに企画展の作業に手をかける。展示に没頭する時間が欲しいもんだ。来週にはキャプション張りまでいけそうだ。途中、あれこれ入らなければだが。今月も今日でおわりなり。

 


2009929日(火)

 
今帰仁村玉城の字誌がスタート。「玉城誌委員会」の立ち上げである。途中で断ち切れにならないようにバックアップするのが歴史文化センターの役目である。編集委員会で「玉城」の引き出しをあけたので、いくつか書き出しておくことにする。

【岸本・寒水・玉城の合併村】

 現在の玉城は岸本・寒水・玉城の三つの村が明治36年に合併した村(ムラ)である。他の地域では旧村から一字をとって新しい村名にしているが、玉城ではそれがなされていない。その理由は不明だが、対等合併ではなかったのではないか。そのことが今に尾を引いている一因なのかもしれない。それと寒水村と岸本村の祭祀の管轄は岸本ノロ、玉城ノロが管轄する村は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ村である。そのことは、現在の玉城区で御願費(ウガンピ)が予算に組めない理由はそこにある。もう一つ他地域からの寄留人(士族)が四割も占めているので、特に祭祀においての統合は困難である。三ヶ村の合併の痕跡の可視的なものに三つの神アサギがある。

 三つの村は移動村である。そのことが村の成り立ちを複雑にしている。三つの村が揃って登場するのは『琉球国由来記』(1713年)からである。それ以前の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』で「玉城村」と「きし本村」は出てくるが「寒水村」は登場しない。寒水村は『琉球国由来記』(1713年)以降、岸本村から分離独立した可能性がある(ノロ管轄からして)

 合併した三つの村の人口を見ると、以下の通りである。明治36年の玉城村(三ヶ村統合後)の士族の比率は45.8%を占める。

 【明治13年】 
    玉城村の世帯数35戸、人口134人(男69人、恩納66人)
    寒水村の世帯数13戸、人口68人(男42人、女26人)
    岸本村の世帯数29戸、人口169人(男89人、女80人)

 【明治36年】(明治36年の「砂糖消費税法改正之儀ニ付請願」)
    玉城村の世帯数 約40
    寒水村の世帯数 約30
    岸本村の世帯数 約40

 【明治36年三村統合】
   玉城村(三ヶ村統合)  世帯数119戸 人口640人(男307人、女333人)
    
 
    玉城公民館内の表彰状            玉城誌編集会委員会開催

  
      玉城の神アサギ       岸本の神アサギ       寒水の神アサギ


2009928日(月)

古宇利島のミチュンウガミ】(旧暦810日)


 旧暦8月の祭祀をいくつか拾ってみると、地域によって行われる日は異なり、そして名称も異なっている。古宇利島のミチュンウガミは他の地域ではみられない要素をもっているような。ミチュンウガミにどのようなことをウガン(祈願)に込めているのか。旧暦の8月は、どの地域でも農作業が一段落する月で、農閑期となり豊年祭(ムラウドゥイ)が行われていた(古宇利島は海神祭の翌日)

 宮城真治資料で「八月上旬に水祭」とあるがそれは雨乞いのウガンである。雨が少なく、雨が欲しい時に雨乞いのウガンをしていたという。ミチュンウガミは「神行事の終わり、締めのウガン」との認識がある。ミチュンは「満ちるや終わる」の意味か。この頃、雨が降らないので「雨乞い」のウガンもしたとのこと。

  ・88日(トーカチ)(家行事) ミジマチ(古宇利島:家行事)
  ・89日(柴差)(今帰仁村今泊) ヨーカビー(与那嶺)(913日の間)
  ・810日(ミチュンウガミ)(古宇利島) シバサシ(与那嶺) 八月カシチー(小豆入りの赤強飯を供える)
  ・811日(ヨーカビー)(今泊) イリチャヨー(伊是名島)
  ・815日(フチャギモチ供え)(家行事)

 「神の島、古宇利」(宮城真治:昭和2年調査)に、「八月十日のみ出る居神四人」と「八月十日柴差」についてのメモがある。
  ・八月上旬に水祭といって餅 肴 香幸を持って墓参をする。もとはミーサもした。
  ・八月十日柴差
     十日に屋敷にしめ縄を廻らした。(九月家々で毛作の御願あり)
  ・八月十五夜 伊々で月祭があった。今も旧家はする。
     トージミ餅、大なる丸餅。切ってつめて祖先に上げて月を見ながら・・・

古宇利島では柴差の行事はシマの祭祀ではなく個人的のもの。宮城のいう水祭は、雨がなく干ばつになりそうな時、ナカムイの南側で水捲きをして雨乞いのウガンをするもの(不定期)。今日のミチュンウガミのウガンは雨乞いのウガンも兼ねての祈願がなされていた。(その後、島に雨がもたらされていた。雨乞いのウガンがかなったか)

 
 ナカムイヌウタキに向かってのウガン  アサギの中で餅が配られる

 
    ナカムイヌウタキの南側へ移動     ナカムイヌウタキに向かってウガン

 今帰仁村仲尾次の8月のウガン(祈願)は、8月8日は米寿祝い、彼岸の節内に屋敷ウガン、屋敷のサンミンがあり、屋敷内にヤナムン、ナガムンヤナカジ等が屋敷内に入らないように、そして家内安全と繁栄を祈るようだ。8月9日は折目(ウイミ)で御飯と肉汁を供える。8月10日は柴差(シバサシ)で屋敷内の魔除け、ススキを結んだサイを屋敷の四隅、門、トイレ、家畜小屋などに差す。8月11日は妖怪日(ヨーハビ)で夜になると火の玉が見えたという。8月15日は中秋の名月(折り目)で月拝みで各家庭でフチャギモチを供え、夕飯には、ご飯と肉汁を供えて家内の健康と繁栄を祈願をする(『仲尾次誌』)。


2009926日(土)

【近世に分村した稲嶺村】

 羽地間切稲嶺村(現在名護市)は真喜屋村から分かれた村である。独立した場合、これまで通りのもの、新しく独立させるもの。それらを拾いあげてみる必要がありそう。『琉球国由来記』(1713年)に真喜屋村に真喜屋之嶽とまてきや嶽がある。稲嶺が分村した後は稲嶺村のウタキ(真照喜屋宮)としている。由来記の頃から真喜屋村に二つの神アサギがあり、それは二つの村が統合し、再び分離したのかもしれない。ただし、『絵図郷村帳』(1644年頃)と『琉球国高究帳』に「まきや村」のみしか出てこない。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の稲嶺村と真喜真村の拝所は以下の通りである。
  ・稲嶺村  マテキヤ嶽一ヶ所
  ・真喜屋村 ・神アサギ二ヶ所 ・根神火ノ神一ヶ所 ・チバナ嶽一ヶ所

・ノロクモイ火ノ神一ヶ所  ・真喜屋村火神一ヶ所 ・上ノ嶽一ヶ所 

 明治36年の「砂糖消費税改正之儀ニ付請願」に見た稲嶺村は115世帯、真喜屋村は159世帯あり、両村とも羽地間切では規模の大きな村である。真喜屋村と稲嶺村は古琉球の時代に合併し、18世紀に分離した可能性がある。行政村の合併、分離という歴史の流れで見ていくと、神アサギが二つあること。それは村が統合しても祭祀は一つにならない。あるいは統合しても祭祀は一つにならない法則性が見られる(詳細については触れないが古宇利島の例と似ている)。「古琉球の時代に二つのムラが合併、18世紀に分離した」との前提で祭祀や祭祀場(神アシアゲ)や豊年祭(両村で行う)などを見ると説明がつく。

 稲嶺の集落の東側にウィーヌビンジルと少し離れてヒチャヌビンジルがある。稲嶺村は風水見のはいた村である。二つのビンジルも風水の目標にされていたような。

 真照喜屋宮に三基の香炉がある。その一基に以下のように彫られている。上地福重氏は「砂糖消費税改正之儀ニ付請願」(明治36年)に署名された人物の一人である。それによると真喜屋村弘化元年(1844)七月一日生まれで、家の番地は88番地である。明治28年に上京されたようである。同じ記載の香炉が真喜屋の「上之御嶽」のイベにもある。明治28年の上京とは何だろうか。翌29年に稲嶺分教場が設置されるが、それと氏の上京と関係するか。

 「奉寄進 明治廿八年五月吉日 上京之時 真喜屋村 上地福重」






2009925日(金)

 21日~24日まで、北陸の旅をする。石川県の小松航空から入り、立山黒部アルペンルート、黒部渓谷、金沢(兼六園・金沢城・東茶屋)、白川郷(荻町合掌集落)、白山、能登半島(和倉温泉・輪島など)をまわる。

【1日目】
 初日は立山・室堂・大観峰・黒部平・黒部湖(ダム)・扇沢駅への立山黒部アルペンルートをゆくとは言っても観光バスやケーブルカーやロープウェー任せの移動である。小松空港から立山、扇沢駅から白馬の宿まではバスである。途中の街並や集落を見るのは実に楽しいのだが、バス酔いで寝ては起きての繰り返しである。鞭打ち状態の今日である。

 黒部平でのロープェーは2時間余待ちで、黒部ダム通過は暗くなりダムは一部ライティングがされていた。黒部ダムを出たのが1928分。

  
      立山駅は連休のためか混雑      途中途中のマチや集落がいい

 
          室堂平付近               ミクリガ池付近付   
  

 
    黒部平から黒部湖(ダム)へのロープウェーは2時間待ち

【2日目】


 大和の歴史をどう切り取っていけばいいのか、無知なままで2日目の黒部渓谷入り。関心ごとは北陸の川沿いの村々である。川沿いにどう文化が伝播していくのか。その思惑ははずれ、黒部川沿いをトロッコ電車に揺られながら渓谷と紅葉しかかった木々やいくつもの滝を見ながら、黒部川沿いの電源開発の歴史を知ることになる。山林監視役の役人のみが入山を許され、「山の様子は口外無用のこと」の掟のもと入山が許されたという。
 バスで黒部峡谷鉄道の宇奈月駅へ。そこから金沢市内へ。兼六園が主目的であるが、やはり近くにある金沢城へ足が向く。城下の東茶屋街へ。

 

【金沢】

 
 金沢の繊細な文化。



【3日目】
 
【白川郷(荻町合掌集落】

 荻町の集落を荻町城址(展望台)から見る。そこは荻町集落[標高500m)である。荻町と書くが集落のようである。かつては荻町村とでも表記したのであろうか。飛騨の白川村は、中切・大郷・山家の三地区があり、さらに小規模の集落からなっているようである。荻町も町と書かれるが集落の一つなのであろう。白川郷(白川村か)の三地区の中央部を庄川が日本海(富山湾)に向けて流れている。

 白川村が養蚕が盛んだったことは、20数年前に訪れた時の記億にあった。今回「養蚕にともなって生じる蚕糞を原料にした焔硝(えんしょう)生産は、江戸時代における白川村の重要な産業でした」(『知られざる白川郷床下の焔硝が村をつくった』(馬路泰蔵編著)には驚かされた(焔硝は火薬の原料となる)。昭和初期まで富山県(越中)の城端町から物資の多くが運ばれていたという。

 荻町集落に一時間ばかりの通りすがりの旅行客である。山城の荻町城址、土塁、そこから見える合掌づくりの集落、そして日本海(富山湾)に注ぐ庄川など気になるものばかり。また、行きますかね!

 
      荻町城址の案内版         荻町城址の遺構の土塁

 
   荻町城址の本丸?にある祠            荻町城址から荻町集落を望む

 
    荻町集落の合従づくりの建物        荻町集落にある和田家(資料館になっている)

【能登半島へ】

 能登半島の村々の生業や歴史文化に触れたいと常々思っていた。能登半島の東側(日本海に直面)と西側(富山湾に面する)の違い。それと松前船の往来。古くは大陸との関わりなど。それと七尾湾岸沿いの村々と能登島。輪島の漆器。金沢学が提唱されている(能登半島まで含んでいたか?)。そこまで踏み込むことはできないが、興味深く歴史を紐解くスタンスに触れることができた(それは金沢の書店での読みした書物から)

 

 

【4日目】

 輪島の漆器と途中途中の棚田。


      20日から24日まで休息します!


2009919日(土)

 今帰仁村の越地と本部町浜元、そして同町瀬底のトゥーティンクー(土帝君)を案内する。三ヶ所の土帝君(トゥティンクー)の導入について興味深いものがある。祭祀を司るノロ、もう一方では同家の男方は役人であることも念頭に入れて議論する必要がある。本部町の二つの村、具志川村(のちに浜元村)と瀬底村のノロと男方とは表裏一体の関係にある。そのことは今帰仁間切の中城ノロでも言えることである。中城ノロ家に古琉球から近世にかけての辞令書が9点あった。2枚がノロ、他の7枚が男方の大屋子や目差などの役人である。広大なノロ地を賜るノロ職であるが、実際にノロ地(田畑)を耕作するのは男方である。ノロの祭祀に男方が導入した土帝君の祀りとは区別(ムラの祭祀と一族の祭祀)している。

 三ヶ所の土帝君を案内しながら以下のようなことを考えていた。

【今帰仁村越地の土帝君】

 今帰仁村越地の宮里家一門が祭っている「土帝君」は、「宮里の土帝君は何時の時代に誰が勧請して来たか解らないが、宮里家は三十六姓の子孫で、陳氏であり、多分クニンダ(久米村)から勧請されたものと思う。祭りは旧の二月二日に宮里一族で行っている。戦前の像は木像であったが、戦災に会い、現在の像は宮里政安氏が台湾から持ってきて祀ってある」という。

 

【本部町浜元の土帝君】

 浜元に具志川ノロの住宅跡がある。具志川村は明治6年の『琉球藩雑記』では消え、具志川村の一部から創設されたとみられる浜元村が登場している。具志川村から出た「具志川ノロ」は、浜元村で踏襲されている。『絵図郷村帳』(1648年)と『琉球国高究帳』で「具志川村」と登場し、また万暦35年(1607)の辞令書で「しよりの御ミ事 みやきせんまきりの くしかわのろ・・・」とあり、ぐしかわ村は古琉球の時代からあった村である。因みに具志川ノロが管轄する村は1713年の『琉球国由来記』を見ると具志川村の具志川巫火神、神アシアゲ、渡久地村のヨケノ嶽とアカラ嶽である。

 そこで注目しているのは具志川ノロ家が「土帝君」を導入していることである。今帰仁村越地の宮里家は久米系の一族であり「土帝君」を祀ることは理解できる。具志川ノロ家と「土帝君」との関わりは、ノロ自身というより、その男方だと見ている。というのは、具志川ノロ家には三枚の辞令書が残っており、その一枚は具志川ノロだが、他の二枚は今帰仁間切の辺名地目差職(万暦32年:1604)と今帰仁間切の謝花掟職(万暦40年:1612)である。つまりノロ家の男方は唐旅をする、あるいは按司や親方などに随行して唐に行ける立場にある。それはノロが導入したものではなく、男方が唐旅をして導入したとみている。

 ただし、ノロや神人が中心として行われるムラの年中祭祀とは別のものと扱われている。旧暦の二月二日にムラの人々が参加するが、本来ムラの祭祀ではないとの認識がある。新城徳祐資料の中に浜元の土帝君の写真がある。そこにある像と土帝君が写っている(探している最中)

 

【本部町瀬底の土帝君】

 瀬底島への土帝君の導入は本部間切の地頭代を数代勤めた健堅親雲上(シークエーキ:瀬底豪農)と関係がある。「上間家二世の健堅親雲上(17051779年)が山内親方に随行して清国(中国)へ渡った際農神土帝君の木像を請じて祀ったのが始まりだという」。上間家は代々地頭代を勤めた家で、土帝君は上間家所有のものであったが、大正時代に村(字)の関係者が参加して、旧二月二日に豊年祈願を行うようになったという。中国から持ってきた木像の土帝君は今次大戦で失い、現存するのは昭和32年頃、那覇市の掘師に依頼して造ったものだという。

 この土帝君の導入に関心を持っているのは、浜元(具志川ノロ)では、その男方に関心をもったが、ここでは健堅親雲上(本部間切の地頭代)が瀬底島に持ってきて上間家が祀っている。その女方は瀬底ノロを出す家である。すると、浜元の具志川ノロ家の男方同様、中国旅(あるいは随行)する立場にあった。ノロが中国まで行って土帝君の像を持ってきたわけではなく、その男方が持ってくる。ノロが行うムラの祭祀に溶け込むことはなく中国からの導入だとの認識が今でもある。そのためムラのものではなく、導入した一族のものだとの認識がある。(土帝君の画像は『瀬底誌』より)

 


2009918日(金)

 企画展の展示資料の中身の確認作業にはいる。整備される前の勝連城跡(徳祐資料)

 

 「毛氏先祖由来伝」(毛姓学事奨励会発行:昭和十二年)があるようで、今意訳している「毛姓先祖由来記」と前半部分は大筋内容が似ているが、後半で異なった内容となっている。その比較は全文目を通してから。

【毛姓先祖由来記】2124
 深く愁い隠し置き此の難を避けるべし
 又幼児を抱き助け来たり難く成るとも能く
 聞きとあるべし 親の敵は勝連の阿麻
 和利逆賊を打ち果たすべきを思ひ候得共
 上意なれば皆道無く一族の者
 只今自害仕り候 吾偽り(無き)処は日月
 曇なり 世上挙げて知る所に
 今助かれば護佐丸の忘形身残るなり
 行く末乳母を頼り何国の浦ニ茂
 身を立て討ち立て阿麻利を討ち吾が

 孝養に報し名をすすむべしと
 涙ながら申され給えば乳母はなくなく
 幼子抱き急ぎ逃げ去り 嶋尻国吉
 邑に至り事の仔細一々つぶさに
 地頭国吉に告ぐ自らは此の邑生産
 の者に而若子抱ききたたるよし涙
 を流し申したれば国吉茂落涙に
 好も抱き来たり候夫護佐丸は中山棟
 梁の大臣忠義仁繁の人 いかで
 逆心あらん佞人のために亡び給い


     24            23           22        21


2009916日(水)

 古宇利島の海神祭に続く「豊年祭」の調査。

  古宇利島の「豊年祭」を海神祭と呼ばれる祭祀の一連のものとして見ている。そこで祭祀(神人)と関わりで調査してみた。前日のハーリーの日に二本の旗頭は港の会場に立てられていた。豊年祭の道ジュネーはサブセンターからスタート。サブセンターを出発した長者の大主を先頭に。旧ムラヤー跡地で二本の旗頭(海神遊・祈豊年)と合流し、そこで旗頭の回りで舞い。そこから旗頭を先頭に神アサギの豊年祭の神アサギの会場へ。(旗頭の道筋は決まっている)

 豊年祭の最大の目的は二本の旗頭の「海神遊」と「祈豊年」にあるとみていい。その祈りは神人がやるということになる。
 
道ジュネー
舞台に向かって座る神人達
豊年祭のプログラム(長者の大主、新しく二頭の獅子登場など)
締めのウガン(神人達+出演者+有志の方々)
旗頭をサブセンターに納める

 
 サブセンターからムラヤー跡地まで道ジュネー         旗頭を中心に

 
   二本の旗頭を先頭に神アサギへ       長者の大主に続いて子供達

 
         長者の大主                  舞台の正面で見守る神人達

 
       新しく獅子舞が登場           すんどう(プログラムの最後)

 
       豊年祭のプログラムが終わると神人達がナカムイヌウタキに向かってウガンをする

 
      全日程が終わると旗頭は道ジュネーの帰り道を通りサブセンターへ

【毛姓先祖由来記】


  固くおさえて大手門を押し開き阿麻
  和利に向かって逆賊聞け吾に罪なき討手を
  蒙る事 汝倭肝の讒に因りてなり 只今
  手取にせんと思うも 勅命と
  あるに不肖自害仕り候 汝天罰を

  蒙り腹切時の手本にせよと
  城の東の岩下に立ち寄り寄り呼
  天上願はくわ吾が真偽を分給えとて
  夫人 長男 二男諸共自害成られ候間
  遠近の臣僕相前後を得て
 
  死ぬるもの数を知らず候
   附 切腹の場所風水よき霊
      地にて墓処召成いづれもの
      骨厨子安置致子孫参
     詣仕り来り候処右墓口の岩前

     崩れ候に付き今の御墓建立に而
     御骨を引移候
一 ここに三男はいまだ乳を離れず
  候段護佐丸乳母を呼び 汝はこの
  幼稚を伴い早く逃げ去り 何国の浦に而


                                       


2009915日(火)

 古宇利島のウンジャミと天底のワラビミチの調査。

【古宇利島のウンジャミ】
(旧盆明けの最初の亥の日:旧727日)(調査メモ)


 海神祭(ウンジャミ)と呼ばれているが様々な要素が含まれている。「一言で」と「かわかりやすく」とかの問い合わせがいくつもやってくる。戦前から研究者が研究をしてきているが、まだわからないことが多いようだ。昨日からはじまっている海神祭という行事をみていると、場面場面で意味を持っているようで、どこに海神と関わる部分はもちろんあるが、一連の祭祀に流れている多様性に注目しての記録が大事だと考えている。すると海神との関わりは、祭祀全体からすると一部にすぎないことに気づかされる。

 それと20年余島の祭祀と関わってきたきたが、祭祀は生き物であり、変貌していくものであるということを実感させられている。神人が参加する神行事として継続していくにはもう限界にきている。神人が関わる祭祀としては、もう閉じてもいいのではないか(神人達はやるというでしょうが)(今回の画像を見ていると、神人の動きより、取り巻く撮影者の頭ばかり。体や頭をポンポントリミングせざるえない画像のみ。切られた方には申し訳ないです)


【神アサギ内とアサギミャー】
 ・神アサギ内からナカムイヌウタキに向かってのウガン(ウタキからスタート)
 ・神人の持つヌミ(弓)棒(山のものを射る道具、舟を漕ぐ道具、作物を計る道具)
 ・唐船旗(トーシンケージ)(航海安全・豊漁祈願)
 ・アサギミャーでコの字に回る(本来7回廻る。その七は七森七嶽と関係ありか)
 ・アサギミャーで東方に向かっての祈願(神人には塩屋に向かっての祈願の観念あり)
 ・ヌミで穀物を計る場面がある(穀物の出来具合を測る。五穀豊穣の祈願)
 ・餅降らしの所作(米の豊作、人類発祥伝承との結び付き)
 ・ヌミを持つ神人と神アサギ内に座した神人(役割がありか。根人の役割をする男神人と勢頭神役の参加あり)

【フンシヤー】


 ・フンシヤーは古宇利島の祭祀を司る根人的役割を果たすフンシー 

(古宇利子)をだす旧家。
 ・フンシヤーの庭に小さな祠あり(男根の石が納められている。人類発祥や島の

繁盛を願いうものか)。
 ・小さな祠を舟先に見立て、二本のロープで舟の形をつくる。
 ・ロープ(舟)の中にヌミを持った神人がはいり、後ろの方では海勢頭の神役を務める男神人が
  ロープを持つ。
 ・ヌミを持った神人達が舟を漕ぐ動作を七回する。
 ・七回は七森七嶽、つまり島の人々は七つの集団からなるとの観念が根底にあるのではないか。
 ・舟漕ぎの所作は航海安全や豊漁祈願が含まれている。
 ・今では行われていないが、男女まじわりの所作があった(人類発祥や島の繁栄)

【神 道】
 ・シチャバアサギに移動する道筋を神道と呼び、ナカムイで招いた神(神人)を導いていく道。
  ウタキから次の場所へ移動。

【シチャバアサギ】
 ・シチャバアサギは下の神アサギのこと。神アサギが二つあった時代があり、島が二つの行政
  ムラがあった証。そのため上の神アサギと下の神アサギで同様にコ字型に往復する所作を
  する(今回は三回)。七回の往復は七森七御嶽(少なくとも古宇利島は七つの集団の集まり)

【シラサ】(岬)
 シラサ(岬)では神人が一列に並び、東方へ向かって舟を漕ぐ所作をする。神人達の観念は姉妹
 の塩屋への合図。神送りか。

【シチャバアサギ】
 シチャバアサギに戻りヌミを置き、大きな棒を神人が持ち漕ぐ所作を七回する。山原船の帆かけ
 棒である。舟の航海安全の祈願か。ここでも穀物を計る所作がある(五穀豊穣祈願)。

【神浜:ウプドゥマイ】
 (今では見られないが、神人が浜に降りて手足を清め所作があった。ウタキから神人が下りて、
 五穀豊穣や豊漁や航海安全や島の繁栄を祈願しながら下りてくる。最後は浜で島の悪疫や
 悪しきもの海へみんな流してしまう)。

【神浜からの舟出】
 今ではウプドゥマイ(神浜)からハーリー舟が出ていく。ハーリー舟に託して島の悪疫などを流して
 しまう(流れミャー)。

 この時期に行われる他の地域のシニグやウプユミやワラビミチなどを見ていると、古宇利島の海神祭は、海神のみでなく、場所や所作や道具などから多様な要素を持った祭祀である。一言で言い当てようとしても、それは無理なことである。他の祭祀も同様である。明日の豊年祭は、一年間の祭祀の重要な位置づけがなされる場面である。

 
  神アサギ内でナカムイに向かってのウガン    アサギミャーでの三回の往復(今回)

 
   アサギミャーの東側でのウガン              餅落としの場面

 
                   フンシヤーでの舟漕ぎの儀礼

 
     ヒチャバアサギ跡での三回の往復        フンシー神人や居神など

 
         シラサ(岬)での神送り                 山原船の帆柱で七回漕ぎ

 
   一通りのウガンが終わって       ウプドゥマイ(神浜)から東・中・西組が舟出


2009914日(月)

 古宇利島のウンジャミグヮーへ。そこでの動きにいくつか興味深いことが見出される。午前中(730頃)、神人が浜(ウプドゥマイ:大泊:神浜)に降りてヌミを洗う(清める)所作がある。前年度の役割を終えて、新しい年度への区切の清めなのだろうか。今の頃(8月)が正月ではないかと言われるのはそれに起因しているのかもしれない。具志堅のシニグの一連の流れと古宇利の海神祭の一連の流れから今泊(今帰仁グスクと関わる)海神祭(ウプユミ)の流れの復元が可能とみられる。それは今帰仁ノロを中心としたシマの祭祀と監守や今帰仁阿応理屋恵の祭祀とは別で、グスクでの祭祀はムラ中心(今帰仁ノロ)の祭祀であることの認識が必要。

 ウンジャミグヮーは五時頃から行われた。神アサギに神人が洗い清めたヌミ(弓)と神衣装、ハーブイ(リュウキュボタンヅル)を持参して集まる。神衣装をはおり神アサギ内からウタキ(ナカムイヌウタキ)に向かっての祈りから始まる。アサギミャーに出て、四人に神人がコの字型の線上を三回往復する。そこまででウンジャミグヮーは終わる。
   
   
ウプドゥマイ(神浜)でヌミの清めの洗いをする。     洗い清められたヌミ

 
神アサギ内でウタキに向かってのウガン アサギミャーでの所作(予行演習?)


2009913(日)

 旧719日のウーニフジ、旧721日のウフユミ、旧723日のトントトトン、旧724日のイナグユバイは参加せず、暦725日のハートゥンチミチ(午後に行った)とシヌグ(ソウニチ)の調査をさせてもらった。具志堅の神行事は五日間に及ぶが、基本的に祭祀のスタートはお宮(ウタキのイベ)からである。様々の要素が含まれているが、大筋の流れはウタキから集落内、そして海(現在はフプガー)へ。つまり、神をウタキから迎えて、集落内と通り、悪疫や不要なものは神の力をかれりて海へ流すという観念が読み取れる。それは古宇利島の海神祭や今帰仁村今泊の海神祭(ウプユミ)でも同様な祭祀の流れや神観念がある(もちろん、それだけではない。詳細な比較のまとめは改めてする)

【具志堅のシニグ:ソウニチ】(旧725日)

 本部町具志堅のシニグの調査をする。旧暦7月25日はソウニチである。旧724日はイナグユバイであるが参加せず。旧725日の午前中にハートゥンチミチがあるが、午後の三時から行う予定であったが、雨のため少し遅れて開始。区長と書記?さん。お手伝いの方。神酒を運んだり、線香をつけたりする男性が参加。

お宮の中
 線香・お神酒・ミパナ(お米)・泡盛が供えられる。まずは正面の二つの香炉に線香をたて、供え物を添える。それが終わると西側の香炉に同じようにそなえウガンをする。それぞれウガンが終わるとお神酒がウサンデーとして配られる。

クランモー
 クラモーへ区長、書記さん、手伝いの二人。そこでは線香に火をつけずに二本づつの二組を置き、東方(今帰仁グスク)に向かって遥拝をする。

ウイハサギ跡
 ウイハサギに「神徳霊妙」の旗がたててある。そこにクンジやアサジ、それと白鉢巻。前結びと後ろ結びで流した方とに分かれている。そこでは横演習との声がかかる。数曲踊ると旗頭を先頭にアサギミャーまでミチジュネーをする。

アサギミヤー
 神アサギの方から進みミャーに円陣をくんで舞う。先頭は今年根神に就任した女性は一人白の神衣装。円陣の外側は鼓を打ち鉢巻は前結び。内側は手踊りと八巻きは後ろへ。

 
   御神酒や供え物をもってお宮へ         お宮(具志堅と上間)へのウガミ

 
    ウガミ(真部のウタキ)への遥拝      クランモーでのウガミ(東方・今帰仁グスクヘ)

 
    ウイハサーギ跡でのシニグ舞い         旗頭を戦闘に道ジュネー

 
     ハサギミヤーへの道ジュネー          ハサギミャーで二重の円陣をつくる

 
                  ハサギミヤーで円陣をつくり舞う 

 
                ハサギミヤーで円陣をつくり舞う


2009912日(土)

 午前中、「ムラ・シマ講座」は名護市仲尾である。なかなかシャッターを押す機会がない。仲尾は羽地地域の歴史を語ることのできる重要な場所である。何の変哲もない場所(仲尾古島遺跡)だが、そこには秘められた歴史がある。小学生達は出校日。明日は運動会なので欠席。例年、9月の講座は休みだが、先月台風の接近で中止となったので今月は開催した。

 明日から立て続けに祭祀の調査が続く。・・・・体力勝負なり。

【勘手納港】(『沖縄県国頭郡志』(大正8年)以下のようにある。
  「呉我より仲尾に公庫即ち定物蔵を設置し、羽地間切の貢米を勘定せしを以て此の名ありという。球陽尚思十一年の条(1416)に、
   寒汀那港擁兵渡江云々の文字あり」

 カンテナは「カンテ+ナ」とすると「勘定する+場所」と解する理解することができる。時々、「勘手納港」でカンティナと解し、ティナが港であると。それで理解に苦しんでいた。今帰仁グスクの海神祭(ウンジャミ)でグスクから海岸(海)に行ってのウガンがある。その場所がシバンティナである。シバンティナがどのような意味なのかなかなか理解できいでいた。具志堅のトントトトンの祭祀でシバを指して最後に流れ庭で流す場面がある。今帰仁グスクの海神祭で浜で海に向かっての所作がある。かつてはシバをそこで流していたのであろうか。今でもシバを流すことはしないが、潮撫でをしている。悪疫を海に流す所作をしている。それからするとシバンティナの語義は「シバを流す場所」とみてよさそう。

 宮城信治は『沖縄地名考』で「ティナ」のティは港でナは村もしくは島の義だとされる。ティが港かどうかにつて、事例あげて説明されているが、まだ腑に落ちないでいる。それに従えば「シバの港」(シバを流す港」ということになる。シバンティナの海岸が海神祭のときシバを投げ、清める場所に関心がある。

 


2009911日(金)

 具志堅の祭祀の流れは、今帰仁グスクができる前の祭祀の形を保っている可能性がある。ウタキと集落、集落移動と祭祀場、それと周辺の村々(集落)とグスク(ウタキ・イベ)との関係。具志堅の祭祀と集落の関係は古琉球のムラの形態を彷彿させるもので、それを引き継いでいると見られる。ここで「古琉球のムラ」の形が残っているとするのは「嘉靖四十二年七月十七日」(1563年)の上間家にあった古琉球の辞令書の原名を手掛かりに、古琉球ののムラの概念は近世のムラとは異なるものだととらえるべきだと考えるべきだと。

 それと山原における祭祀はウタキから集落、そして海への流れでなされている。シマの悪疫を海の方へ流す、追い払う、それを神の手を借りて流す。「海神祭」と観念とニライカナイなどの神観念があるが、海神の祭ではなく、神の手を借りて悪疫を海の彼方へ流す意味合いが強い。

 明治17年頃の具志堅村の拝所を掲げる。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃?)の頃の嘉津宇村は具志堅村に統合される前である(統合は明治36年)。明治6年資料に真部村が登場し、上間村は見られない。それからすると、上間村の具志堅村への統合は明治6年以前で、真部村の統合は、その後とみられる。しかし、神アサギは上間・真部、それと上アサギ(具志堅)はまだ独立した形で残っている。三つの村は具志堅ノロの管割なので祭祀は合同で行われていたと見られる。

  ・具志堅村(六ヶ所)
   ノロ殿内火神ノ所一ヶ所 具志堅村御嶽一ヶ所 上アサギ一ヶ所 城之鼻一ヶ所
   真部アサギ一ヶ所  上間アサギ一ヶ所  

  ・嘉津宇村(三ヶ所) ・神アサギ一ヶ所(嘉津宇) ・嘉津宇御嶽一ヶ所 ・ノロ殿内火神ノ所一ヶ所
     (これはユレヤーを指しているか?
  
   (嘉津宇村は明治36年に具志堅村に統合されるが戦後に字嘉津宇となり現在に至っている。ノロ管轄は天底ノロで
      1719年か21年に伊豆味の古嘉津宇から桃原へ。さらに現在地へ移動。ここでは嘉津宇について触れない)。


【具志堅のトントトトン】
(旧暦7月23日)

 具志堅のトントトトンは鼓を打つトントトトンからきた名称のようである。鼓のトントトトンに呼応するようにフイという。鼓はお宮(拝殿)からクラモーへの道筋、クラモーからフプガーの途中の交差点(アジマー)、フプガーに近づくと鼓が打たれた。かつては新築の家を回ったという。これは古宇利島のサーザーウェーの新築家の回りの所作と同様かと思われる。今泊でもトントトトンが行われていたことがある。悪疫を追い払う色彩が強い。トントトトンの最後の場面は、ウプガーで悪疫を流す所作がある。かつては海岸の「流れ庭」(ナガレミャー)で行っていたという。今はフプガーの流れで流す観念がある。祈りで「悪いものはみんな流れていけ。いいのは残して・・・」と唱えられる。トントトトンは男性のみのウガンであるとの認識がある。

  午後一番、フプガーでのウガンが終わると水を抜き清掃にかかる。同時に柴山に三本の木と蔓を切取に。水を抜き、掃除が終わりに近づいた頃、湧口の9本の柴木のうち三本は新しいのと交換する。それは具志堅村と上間村と真部村とが統合した証との観念があると見られる。今では具志堅は大島・新島・サガヤの三つの集落に分れているので、その観念に変わりつつある。フプガーの清掃が終わり、一段落した頃、お宮へ。

 お宮(拝殿) お宮からクラモーまでの道筋(鼓を打つ。かつては子供達が参加)  クラモーでのウガン クラモーから途中のアジマーへ(鼓を打つ)(かつては新築の家を回っていた) アジマーからフプガーへ(鼓を打つ) フプガーで悪疫を流す(流し庭)

 
      フプガーの水を抜き清掃をする      湧口の9本の柴木の内3本を新しいのに!

 
  拝殿の中でのウガン(根神と区長が中心となる)    鼓を打ちながらクラモーへ

 
 クラモーでのウガン(東か今帰仁グスクへ)       鼓を打ちながらアジマーへ

 
   アジマーで鼓を打つ           フプガーで悪疫を流すウガン(流れ庭)

【新城徳祐ノート】(1955年)より

・しるがみ
  神人が集まってあさぎで悪病除の祈願をし、それから柴木(しばき)山という所に行って、次のような祈願をする。
     具志堅ぬ しぬぐぬ しるがみえーびん
     前男ぬ 国割て 通やびらば
     前女ぬ 神し ひちまし かにまーし
     ひち呉みそーれ
とて、祈願をする。
 そうしてからしばきの枝を折って、各々の襟に差し、部落内の道を通って流り庭に行き、襟に差してあったしばきをの枝を海に投げ捨てる。こうすれば悪疫は追放されるとの古代の信仰を、そのまま残している。
 部落内を通る時、家々に入り、上座へ抜けて出て行く。太鼓をトントトトンと叩く、子供等は後ろから追うてフイと言う。これらの人々が入って来ると、家族は逃げる。新築の家はわざわざ招き入れる。そこでは7回屋敷を廻る。正面に来る度に、合掌礼拝する。


・しにぐ神酒
 穀類の中、米なら米、豆なら豆と大人1人につき5合宛を献上させた。現在(昭和30年)は各戸2合である。それにて神酒を作り、桶に入れて芭蕉の葉にておおい、左縄をなってそれで固くしばって封ずる。この神酒を前日の夕方、神あさぎの中に運び入れて、神へ奉献する。各家庭に於いても神酒を作り、その夜は美木を入れた桶は筵等にて囲った。
 夜半になると神殿の中から鐘の音が聞こえる。それは献納した神酒が、封は其のままであるのに減っていたという伝えが、今に残っている。
 翌朝未明に、神が納め残した神酒を村の人々が御さんでーをする。これは現在もまだやっており、この事をハートゥンチミチと言って、大変尊んでいる。


【上間家にあった辞令書】(写)
(宮城真治資料)

 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。

 この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1666年以前)のムラであった時代である。近世の間切は「まきり」と表記されるが、「・・・むら」(村)の表記がまだ登場してこない。

 現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているので、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致する。

     ・たけのみはる嵩原?
     ・まへたはる前田原(現在ナシ)
     ・とみちやはる富謝原 
     ・きのけなはら
     ・あら(な?)はなはる穴花原
     ・たこせなはる
     ・あふうちはる
     ・ふなさとはる
     ・まふはる真部原
     ・あまみせはら

 貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
     ・なつほこりミかない
     ・せちミかない
     ・なつわかミかない
     ・おれつむミかない
     ・正月ミかない
     ・きみかみのおやのミかない
     ・けふりのミかない

 のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
 古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。

【辞令書の全文】(一部不明あり)
  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいのおきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日


2009910日(木)

 多忙が続いていたので一服。明日は具志堅のトントトトンの調査予定。今帰仁城下の今泊でも簡略化されているが行われている祭祀である。シニグンニから男衆がシマに降りて棒で土を打ち鳴らしながらシニグミチを通ったという。具志堅では新築の家を回ったというが、それは古宇利島のサーザーウェーと似た場面がある。具志堅ではナガレミャーの場面がある。どのような動きをするのか調査をすることに。

 それぞれの祭祀にどのような所作が含まれているのか。具志堅のトントトトンで行われていた新築の家々を廻る所作は、古宇利島ではサーザーウェーで行われる。年間通した祭祀の所作が20あるとすると、この村では20の所作の3・7・9番目がある。別の村では13511が行われている。3の部分が共通している。といった視点で見ていく必要がありそうだ。具志堅の祭祀をみる前提に具志堅・上間・真部の三つの村の合併があったことを意識する必要がある。行政村として統合しても祭祀は、一体化しにくいという法則を以ているからである。

 ウーニフジやトントトトンの祭祀が何かという視点より、祭祀がどのような流れで行われいるのか。どんな所作がみられるのか。そのことを主に見ていくことに。そこで、いろいろな話(解説)を聞くこともまたいい。


200999日(水)

 いい天気が続いている。具志堅のお宮(グシク)からの眺望はいいものだ。調査は置いて、ボケと眺めているのもいい。後ろで「はじめますよ」の気配。神衣装をはおっているのは根神一人。バイモチあり、お酒(泡盛)あり、お神酒あり、平線香何本か。供え物やお神酒やモチなどにシバサシが置かれている。それを指すとシーラナイ(痛まない)と。

 バイモチのバイは「配る」の意味か。配るモチ。瀬底ではバイユーがあり、魚を配る意味か。豊穣や豊漁の祈願が。

 

【本部町具志堅のウフユミ(大折目)】(旧暦722日)

 午後三時過ぎ公民館から神ハサーギへ。神ハサーギでの供え物を置き、お宮の方へ。お宮で「ウーニフジ」同様のウガンが行われる。今日は根神を勤める方がウガンを行う。ノロさんは高齢のため自宅で遥拝をするという。根神を勤める方は、ノロさんからウガンの手ほどきをしてもらったようである。お宮と神ハサーギの二ヶ所でウガンがなされた。

 かつてはお宮の上の方(イビ:グシクモー)での「ユークイ、ユークイ」と唱えながら反時計回りに回ったようであるが、今回その儀式は行われなかった。ウフユミについて、いくつかの声を聞かせてもらった。参与観察をしながら、どんなことが流れのなかで行われているのか、その要素を拾い上げることにつとめることに。


【お宮:拝殿】

 

 

【神ハサーギ】 

 


200997日(月)

 本部町具志堅の区長と議員さんがやってくる。シニグ調査の案内である。午後三時過ぎ、具志堅のお宮(グシク)へ。お宮(グシク:ウタキ)の拝殿内の香炉、銘の判読できる三基を見せてもらう。今月も祭祀調査が続く。息つく暇なしか(「まとめ」は改めて)

【本部町具志堅】(ウーニフジ)(旧暦7月19日)
 今日から祭祀がはじまる。今日はウーニフジ(舟漕ぎ)である。関係者が公民館に集まり、お宮(グシク:ウタキ)からスタートし、神ハサーギまで。ノロさんや神人の参加なし。根神が生まれる。字の区長など関係者が7、8人参加。今帰仁グスクのウーニフジとの関係は改めて論じることに。

 
     拝殿の中(具志堅と上間)でのウガン       真部のウガミへのウガン(遥拝)

  
 神ハサーギ内でのウガン     ハサーギ内でのウガン     今帰仁グスクへの遥拝

【本部町具志堅の拝殿内の香炉】

  

(左) 咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内  具志堅仁屋 (1859年)
(中) 明治十四年辛巳五月 奉寄進 文子 仲村渠仁屋  (1881年)
(右) 同治三年甲子十二月吉日 奉寄進 □□□具志堅村 玉城ニや (1864年)
 
 「本部按司内」は本部按司殿内のことか。同様なのが本部町の辺名地や

満名や浜元などで確認している。

【本部町並里のウタキのイベの香炉】

 

 咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内 渡久地仁屋
 奉寄進 並里仁屋(年号不明)

【本部町伊野波の拝殿の香炉】

 渡久地仁屋は、波里にも寄進している。伊野波村と並里[満名)村は兄弟村ということからか。
  
  咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内 渡久地仁屋

 
 
【名護市仲尾】
 
旧羽地間切(現在名護市)の仲尾までゆく。「ムラ・シマ講座」の下調べでもある。先月の予定が台風のため中止にした場所である。仲尾(村)の勘定納港は仕上世米の積み出し港の一つ、運天港と共通する面がある、北山の滅亡、集落移動、羽地間切内のノロの中心となる仲尾ノロ(羽地間切大のろくもい)の所在する村など、歴史を読み取っていく上で重要な場所である。

 集落が移動した故地に何を残しているのか。それは近世の村移動や集落移動を確認していく上で、いくつか手掛かりを与えてくれる。仲尾村の集落は1835年である。詳細については【名護市仲尾】(旧羽地)2009730日(木)で紹介してある。

  

 


200995日(土)

 ここで『毛姓先祖由来記』を読んでいるのは、山田城跡に「護佐丸祖先墓碑」があり、その碑の文面と、この『毛姓先祖由来記』がどうつながってくるのか。そのことに関心があるからである。それと由来記と碑文にある墓についての記録(屋形と1714年の修復)である。全体を読みと通すことができるのは、まだ先のことである。『毛姓先祖由来記』の文字は十分読めていないが、全体を把握してから細部については考えることに(コメントは全体を読みとおしてから)。

「護佐丸祖先墓碑」(恩納村山田 山田城跡の崖中腹)
  (表 面)
   往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ
   居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に
   幾年の春秋を送りしかば築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり
   爰におゐて康煕五十三年墓門修覆石厨殿に造替し遺骨を奉納せひさて
   永代子ヽ孫ヽにも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽげ
   まうつる例となりぬ仍之石碑建之也
  大清乾隆五年庚申十月吉日    裔孫豊見城親雲上盛幸記之

  (裏 面)
       此碑文康煕五十三年雖為建置
       年来久敷文字不詳依此節
       建替仕也
         書調人毛氏山内親方盛方
         彫調人毛氏又吉里之子盛庸

   

【毛姓先祖由来記】

  信じ給わず討手遅延にて由々しき
  御大事に及ぶ由真に迫りて申したれば
  主上ざいねいに惑わされ、人をつかわし
  中城之様体を伺わせ候へば果て
  整兵の企たて由奏由奏聞す

  主上大御驚此上は急討手を
  つかわすべきとて阿摩和利大将にして
  大軍中城へ押し寄せ攻かこみ城候城之
  内には少しも動ぜず護佐丸己の本意
  を申し開んと嘆し候へども事j

  急にまかりなり、告げ訟うるところなし 只天に
  仰ぎ嘆じ吾罪なし 佞人の
  為に此責にあうことの口惜さよ然れども
  勅命なればあに違うべき只速かに
  腹切らんとの給われば群臣これ口惜
 
  御諚にて候 主君の罪なき所は天之
  照覧曇なし 只懸出て戦うべき由怒り
  候へば護佐丸此を止め罪無き所は世上
  知る所にて候へば 勅命に向いて
  矢を放つべき道理なり只慎めよと


                                


200994日(金)

 展示から展示資料の中身についてのキャブションにはいる。徳祐資料のノートにはグスク、年中祭祀、芸能など調査メモである。展示されている写真とノート(調査)は一体である。

  
 徳祐資料のノート類      徳祐資料のノート類     徳祐資料のスクラップブック

 
        徳祐資料のノートの中身(古宇利島の民俗行事)(1962.8.18


200993日(木)

 旧盆のウークイ(お送り)の日。朝、ちょっと顔を出してきた。普段住んでいない家も盆と正月には家族が集まり時を過ごす。ウークイが終わると、もとの静けさに。

 

【毛姓先祖由来記】

 尚金福王 尚泰王まで五君に奉仕
 忠義廉直にして国中鎮守の
 職に任じられ一朝の大臣たる由にて候
一 尚泰久王の御むこ勝連按司阿麻摩
  和利と申すはねい肝の人殊武芸も
  達し勇猛にして諸按司を見る
  事草芥のごとくし諸驕りたかぶりて常に
  皇君の位謀反の志これありひそかに計
  略を巡らし候護佐丸は早くこの陰
  謀を察しこれをふせぐべくして軍兵をあつめ

  長男二男大将にして手分けし阿摩
  和利の通路を固め候阿摩和利王都へ
  攻め登事かなわず漁舟の体にて与那
  原の湊舟をつけ王城へ参打仕
  護佐丸は諸軍兵をあつめ中山を攻める謀
  事ありと言上す 主上聞こし召し
  致し護佐丸は忠義の人中山股昿の
  大臣いかて反逆の心あらん 阿摩
  和利また奏し候は今臣の申す事空々
  ならば天よりその罰被るべく候若し君
  
 
                                  


200991日(火)

 墓調査や建物などの調査、芸能関係の資料などの展示。

 

【毛姓先祖由来記】

  これによって右修理のとき二ヶ村百姓
  共より願い出候いて仕事合力これありたる
  由にて候
一 久良波のろくもい厨子と申候いて
  墓内にこれ有り候は護佐丸由緒これ
  ある者にて右墓に葬られたる由に候
一 護佐丸公時代読谷山へ城立ちにて
  御遷居成らせられ読谷山按司と称せられ
  候処一人之御娘
尚泰久王御妃にお立ち成られ候段王城
 近く中城之地方御請給わり城郭を構
 遷給り中城按司を仰せられたる由にて候

  附読谷山城は山田城の積石を
   持ち越し鬼界大嶋並諸離よりも
   人夫寄来り争いて積み仕りたる由に候
   島々の仕えて城の若端に銘書
   割置由に候ところ今は文字相見え
   ず候諸嶋より参り候いて仮屋作り
   住居候御原名 相伝え申すところもこれ有る由にて候

一 護佐丸御事
  尚巴志王より尚忠王 尚思達王