2009年3月の動き

                                   沖縄の地域研究もくじへ


2009年3月28日(土)

 恩納村の三つの史料を並べてみると、興味深いことがわかる。まず、一つは1713年から1763年の間に、恩納間切の地頭代の名称が変わっていることである。谷茶大屋子から前兼久親雲上となっている。恩納間切だけでなく、今帰仁間切でも湧大屋子から古宇利親雲上となっている。そこでも1750年頃には今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上となっている。恩納間切と今帰仁間切とのほぼ同時期に地頭代の変更がなされているのは首里王府の政策があったのであろう。因みに、今帰仁間切の湧川村の創設(1738年)の時、地頭代を古宇利親雲上とし、これまで地頭代の名であった湧川を創設した村名としたと見られる。恩納間切の谷茶はどうだろうか。

 それと『琉球国由来記』(1713年)に村名として登場しない恩納間切の谷茶、今帰仁間切の湧川は地頭代の名称(役地?)が変更されると、これまで地頭代の名称であった谷茶と湧川が村として登場してくる。他の間切でそのような例はないだろうか。羽地間切を見ると、嵩川大屋子から川上親雲上へと変わっている。ただし、嵩川村の創設はないが、田井等村を分割して親川村の新設がなされている。変更のない間切が多いのではあるが。そのような地頭代の役地(村)の変更や村の創設、村移動などの動きは、蔡温の元文検地(17371750年)と関係すると見られる。

 恩納間切で気づかされるのは掟の一人に「久留原掟」が登場する。久留原掟はどの村の掟なのだろうか。『恩納村誌』を執筆された仲松先生は、「恩納村は大きい村として考えてのことか、恩納掟と久留原掟の二掟が居た。恩納掟は恩納の後村渠(クシンダカリ)、久留原掟は前村渠(メンダカリ)を分担していたらしい」と説明されている(31頁)。明治になっても「久留原掟」は登場してくる。伊江島で明治まで「今帰仁掟」が出てくるのと同じようなことか。

 金武間切で村名として出てこない「並里掟」がある。並里は金武村に含まれている。金武村は大規模の村だったので金武掟と並里掟の役地に充てたと見てよさそうである。仲松先生が述べられているように恩納村が大きな村であったために恩納掟と久留原掟を置いたとするのと同様かもしれない。

【琉球国由来記】(1713年)の恩納間切
  ・地頭代   谷茶大屋子
  ・夫地頭   富着大屋子  瀬良垣大屋子  前兼久大屋子
  ・首里大屋子
  ・大 掟
  ・南風掟
  ・西 掟
  ・名嘉真掟
  ・安富祖掟
  ・恩納掟
  ・仲泊掟
  ・山田掟
  ・真栄田掟
  ・久留原掟

【恩納村役場所蔵の扁額】(乾隆28年:1763
  ・地頭代      前兼久親雲上(安富祖村)
   ・首里大屋子  当山筑登上(恩納村)
   ・大 掟      当山仁屋(前兼久村)
   ・南風掟     長浜仁屋(恩納村)
   ・西  掟     古波蔵仁屋(仲泊村)

(裏面)
   乾隆丙子冠船御渡来之時此表字相求候
    呉姓久高筑登之親雲上幸孝検者役之
    時額作候也
      地頭代安富祖村 前兼久親雲上


【恩納間切役員】(明治13年)
  ・地頭代    前兼久親雲上
  ・夫地頭    富着親雲上  谷茶親雲上 瀬良垣親雲上 
  ・首里大屋子 金城筑登之 
  ・大掟      大城にや
  ・南風掟    当山にや
  ・西掟      喜納にや
  ・名嘉真掟   金城にや
  ・安富祖掟   恩納掟
  ・久留原掟   新里にや
  ・仲泊掟     松田にや
  ・山田掟     金城にや
  ・真栄田掟   安富祖にや


2009年3月27日(金)

 京都国立博物館(妙心寺展)、滋賀県(安土城、県立安土城考古博物館)、堺市博物館、岸和田城などを行脚してきた。目的は博物館などで展示されている勾玉やガラス玉、それと出土した鏡など。京都国立博物館の企画展で展示されていた妙心寺と麒祥院の「瑠璃天蓋」は、沖縄の祭祀などに使われていた御玉貫などで使われている玉(小玉と表記)や色つきの玉(ガラス)などと、どう関わっているのか興味深く拝見。それと王府の王冠は皮弁冠と呼ばれているが、皮弁冠は中国製、それについている小玉はどこ製? それといくつかの達磨図などと沖縄の旧家などでみられる図像と称される絵図。さらに螺鈿の座屏風絵、琉球の夜行貝とどう結びつくのだろうか。素人ながらあれこれ興味深々。

 勾玉(曲玉)の形の呼び方は、単に勾玉、子持ち勾玉などと多くないので問題はないが、鉱物はなにかとなるとお手上げ。翡翠や瑠璃や瑪瑙などあるが・・・。識別できる訓練をしないと。

【京都国立博物館】(企画展:妙心寺)



【安土城・県立安土城考古博物館】

 安土駅に降りると、安土町立城郭資料館で安土城について説明をうけ、タクシーで安土城へ。城の全面は水田が広がり、カラ風がピューピュー。大手門跡から石段の大手道をあがる。大手道の両側に前田利家邸跡、羽柴秀吉邸跡、徳川家康邸跡など標識が立っている。本丸跡からさらに上に天主跡があり、建物の礎石が整然と配置されている。天主の建物は安土駅の裏手にある安土町立城郭資料館に二十分の一で復元されている。安土城については研究が盛んに行われているようだ。

 関心ごとは沖縄県久米島町の具志川グスク跡にグスク内の門に使われたとみられる切り石に「天正八年」(1580)と彫られている。中国年号を使っていた琉球国が日本年号を使うのは異例である(近世日本年号の寛文を使った数年間がある)。安土城が築かれた天正四年(1576)と具志川グスクの天正八年(1580)と。琉球国と日本国との何らかの関わりがあったのか。



【堺市博物館】

 堺は近世以前の貿易港としての役割を果たした港であったことはよく知られている。兵庫にかわる遣明船の発着港としての役割を果たしている。堺津から琉球に渡航した商人がいたようで、そのことについての手掛かりがないか。堺は室町幕府の直轄地としての保護され、琉球貿易による貿易港として発展したという。堺港と琉球国との関わりを堺にみてみたいものだ。それと周辺には教科書でみたことのある古墳がいくつも。沖縄には古墳そのものがない。

【岸和田城】

 岸和田城は関西空港へ向かう途中、何度か電車から見ている。途中下車して一度は見ておきたいと。やっと念願のかなった岸和田城ゆき。堀の回りは桜が咲き始めていた。重い荷物を担いで。近くの駅にロッカーがなかったノー。


2009年3月23日(月)

    (館内くん蒸及び出張のため27日まで更新がありません)


 
恩納村喜瀬武原のメンバーがやってくる。喜瀬武原のウマチモーについては二度ほど紹介したことがある。ウマチモーに御待毛と漢字が充てられてることから、お偉い方が通るためお待ちするということであろう。他のウマチモーを見ると、それだけではなく隣接する間切番所と番所との事務引き継ぎ場所でもある。恩納村には三ヶ所に御待毛がある。
 多幸山………………読谷山間切と恩納間切
 喜瀬武原……………金武間切と恩納間切
 名嘉真(伊武部))名護間切と恩納間切

 『恩納村誌』は次のように説明してある。
   首里から恩納、または恩納経由名護往来の王府役人はカゴ乗りであった。西宿(道)による往来と、東宿に沿う
   金武番所から脇道による恩納、名護往来とがあった。しかして間切内を通る場合は、その間切が世話をする義務が
   あった。したがって恩納間切においては三箇所に、すなわち読谷山間切との境、金武間切との境付近でカゴ引き継ぎ
   が行われた。
    カゴ引き継ぎのため、役人を待つ場所としての「御待毛」と称する場所があった。

   この場所で他間切駕掛と交替するのであるが、肩強な若人が四人、二人宛交替で担いだのである。山道にかかると上下
  左右に揺す振ることのないように気を付けたために、随分体と心を消耗させたのであった。つまづいたりした場合は至極叱
  られ、心身ともふるえあがったのであった。


 喜瀬武原は金武町と恩納村との境に位置している。行政区として恩納村安富祖から分離したのは大正11年のようである。ただし地籍が分離したのは昭和23年(1948)である。字分離に関わった人物がいる。当時の村会議員の外間政実氏(喜瀬武原出身)と当山忠勇氏(安富祖出身)である。

 喜瀬武原は本集落から離れており、交通の不便な場所に位置している。西海岸の恩納村安富祖と東海岸の金武町金武との間を郡道として整備されたのは大正8年である。それ以前にも金武から喜瀬武原を通る道筋がある。『正保国絵図』(正保三年:1646年)(恩納間切創設以前の絵図:1673年)に「幸喜村大道ヨリ金武間切大道迄壱里三一町四十間」の脇道(大道は宿道)が記されている。その道筋は喜瀬武原を経由しているとみられる。


        喜瀬武腹のウマチモー               真栄田のウマチモーへの標識


2009年3月19日(木)

 「旧慣問答書」の「付届ノ事」の記事は、間切と両総地頭や脇地頭との関係をしる手掛かりとなる。恩納間切と大宜味間切の例を取り上げることにする。2008年4月でも触れている。

【恩納間切】の「付届」
 .問
 付届とて文子より掟に昇等するか。掟より南風掟、西掟等へ昇等、或は位階に叙せられし際、地頭代又は検者、下知役、
  掟へ豚、焼酎等送るの慣例はなきか。若しあらば何役へ豚何斤、焼酎何升等詳細に記すべし。

・答
 掟以上役上りしたる総人数より下知役、検者、地頭代へは一人に豚肉四斤宛、山筆者へ三斤宛、総地頭へ三十斤差上げ申候


・問
 盆暮その他、両総地頭杯へ右等附届をなすことあらば、其事を詳細に記すべし。
・答
 盆薪木拾束、炭三十斤、ハライ蔦二升、酒代銭五貫文なり。尤も歳暮として豚肉三十斤、生姜二十斤、炭三拾斤、薪木拾束
 総地頭へ差上申
候。

【大宜味間切の付届】
 ・問
   文子以上役上りの時地頭代役々へ付届並に盆暮等役々へ付届の定例如何
 ・答
   役々相互に付届する事なし

 ・問
   文子以上地頭代まで役上りの時々両惣地頭其の他へ付届の定例如何
 ・答
   地頭代以下役上り時々付届の定例左の通り

    ・両惣地頭へ肴十斤づつ     地頭代へ焼酎二合瓶一対づつ
    ・両惣地頭嫡子元服次第同人へ肴二斤づつ、焼酎壱合瓶一対づつ
    ・両惣地頭惣聞へ肴二斤づつ
    ・下知役検者へ肴一斤づつ

 ・問
   村又は間切より付届の定例如何
 ・答
   下の通り
 
    盆上物例 
     ・両惣地頭へ間切より
       薪木拾束づつ   明松三束づつ  白菜壱斤づつ  角俣一斤づつ  ミミクリ一斤づつ
       辛子一斤づつ  玉子五拾甲づつ
     ・脇地頭へ村々より
       白菜半斤づづ  角俣半斤づつ  ミミクリ半斤づつ  辛子五合づつ
    歳暮上物例
      ・公儀へ間切より
        干猪肉壱拾八斤   蒕壱斗八升
      ・聞得大君得間切より
      ・佐敷殿へ間切より
      ・両惣地頭へ間切より
      ・両惣地頭嫡子孫元服次第
      ・脇地頭へ村より


2009年3月18日(水)

 恩納村山田に「護佐丸祖先墓碑」(毛氏墳墓)がある。碑の後方の崖上は山田城跡である。恩納村山田は1673年以前は読谷山間切の村の一つであり、読谷山村と呼ばれていた。『琉球国由来記』(1713年)には「読谷山村」と出てくる。『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』には「読谷山間切古読谷山村」と出てくる。読谷山間切の同村とみて差し支えない。まだ解答を持っている訳ではないが、1673年以前の読谷山間切の番所はどこだったのだろうか。山田城から座喜味城に移っているようなので、間切が創設された頃の読谷山間切の番所は座喜味にあったのか、それとも古くから,喜名村に番所があったのだろうか。『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」を見ると、首里に住む按司と総地頭は座喜味村にある「読谷山城内之殿」(座喜味城)の祭祀と関わっている。それからすると、読谷山間切の番所は座喜味村にあった可能性が高い。そこから時期は不明だが喜名村に番所は移動したとみた方がよさそうである。

 恩納間切(後の村)が創設される以前は、読谷山村(古読谷山村、後の山田村)は中山に属した間切である。そのことが後の恩納間切が創設されると読谷山間切に属していた村が恩納間切に組み替えられた後、どんな影響を及ぼしているのだろうか。

 その山田城跡の崖中腹にある「護佐丸祖先墓碑」から、どんなことが読み取れるのだろうか。興味深いことがいくつも見えてくる。

   ・乾隆五年(1714年)に造り替えられたということ。
   ・中城按司護佐丸は山田の城主であった。
   ・読谷山の城(山田城)を築き住居していたので、そこの洞窟に墓所を定めた。
   ・墓は洞窟につくり屋形に作り一族を葬った。
   ・幾年もたっているので石造りで築いたあるが悉く破壊。
   ・蒼苔で口が閉ざされている。
   ・康煕五十三年(1714)に墓門の修復と石厨殿に造り替え。遺骨を奉納
   ・毎年彼岸のとき供え物をささげ祭る。
   ・乾隆五年(1740)に碑文の文字が不祥になったので建て替える。

 【碑文表】
   往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ
   居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に
   幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり
   爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて
   永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけ
   まつる例となりぬ仍之石碑建之也
  大清乾隆五年庚申十月吉日          裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之

 【碑文裏】
   此碑文康煕五十三年雖為建置
   年来久敷文字不詳依之此節
   建替仕也
      書調人毛氏山内親方盛方
      彫調人毛氏又吉里之子盛庸


2009年3月16日(月)

 これまで「上国之時」と刻まれた石香炉を目にしてきた。それと「上国之時」とは記載されていないが、年号や王子や按司や「・・・にや(仁屋)」と彫られたのも目にしている。それらと薩摩との関わりをまとめた『中山世譜』(附巻)の記事とのかみ合わせをしてきた。『八重山由来記』から「航海と信仰祈願」について三島格氏が紹介している(『琉球』第十号:琉球史研究会 発行1959年)。それによると、上国の時出発前に「風旗」(カジバタ)の祈願がある。出発後、留守宅も航海安全の願文をつくって美崎嶽や権現堂にお参りをしている。下り船の季節になるとウタキに足しげく参詣したという。帰ってきてからの祈願があったであろう。ウタキや拝所の祠の香炉や石灯籠などは、『八重山由来記』に見る「上国」の時の祈願と無縁ではなかろう。上国する前や途中での祈願があるが、刻銘のある香炉や石灯籠は帰国してからの奉納(寄進)のが多いようである。上国と祈願と香炉・石灯籠との関係はいかに。

 一、美崎、宮鳥、長崎、天川、糸敷、名蔵、崎枝、此七嶽毎年上国役人立願結願仕候是上納船二隻上下海上安寧祈願為也


                            糸数グスク内の石灯籠


2009年3月14日(土)

 本日「ムラ・シマ講座」の修了式。午後から浦添市文化協会のメンバーが来館。

 昨日、大学病院の帰路、少し余裕があったので金武グスク跡、喜瀬武原(恩納村・金武町)経由で、恩納村の安富祖に出て名嘉真(仲間)に立ち寄る。喜瀬武原のメンバーがやってくるので、その下見でもある。喜瀬武原は恩納村と金武町とに分かれているようである。喜瀬武原は恩納村と金武町との境に位置していることが、歴史を見ていく視点に示唆を与えてくれる。それと、金武グスク跡近くと名嘉真(仲間)にある琉歌碑に1673年に創設された恩納間切以前の領域が歌いこまれている。東海岸からかつて同間切だった西海岸のムラ・シマを読み、また分割された西海岸から分割される以前の東海岸のムラ・シマを謡っている。歌に詠みこまれた歴史を紐解いていく面白さ。そしてその中間に位置する喜瀬武原。喜瀬武原の歴史については、改めて述べることに。

【金武節】(東海岸から西海岸のムラを読む。意訳は説明文から)

  くばや金武くばに(くばは金武で取り)
  竹や安富祖竹(竹や安富祖で取り)
  やにぃ瀬良垣に(瀬良垣では竹を細く削り)
  張りや恩納(恩納では笠を仕上げ)

【仲間節】(西海岸から東海岸のムラを読む)

  仲間からかいとて(仲間村もそうであるが)
  久志辺野古までも(久志・辺野古までも)
  金武の御前がなし(金武王子様の)
  おかけ親島(お抱えの領地)


  金武グスク跡の前に碑が建立(金武町金武)               「金武節」の歌碑
 
 
    ウマチモーの説明版(喜瀬武原)            喜瀬武原にあるウマチモー

 
      仲間節の歌碑(恩納村名嘉真)                「仲間節」の歌碑


2009年3月12日(木)

 
午前に恩納村誌の事務局のメンバーが陣中見舞いにやってきた。一服中、頭は恩納村に切り替えて。明治の図、明治34年の先人達、そこに出てくる番地(世帯)などなど。恩納間切の『琉球国由来記』(1713年)当時のj地頭代は「谷茶大屋子」である。当時谷茶村は明確には登場せず。それより後の乾隆28年(1763)頃の地頭代は「前兼久親雲上」(恩納村役場の扁額)である。地頭代は谷茶大屋子から前兼久親雲上へと変わる。変更の時に谷茶村が行政村として登場してくる(その流れは今帰仁間切でも同様)。ウマチモーのことなどなど・・・。恩納村の香炉について確認調査しましょう。

 スムチナウタキにある香炉である。現在二基しかないが、1989年に撮影した写真を見ると、三基あり文字が判読できる状態にある。ここ20年で雨風にさらされ文字がほとんど判読不能になっている。二つの香炉については、どこかで紹介したが、写真が出てきたので紹介しておきましょう。それと、謝名のウタキ(グシクンシリー:謝名神社のイベ)にある香炉に「松本にや」とあり、スムチナウタキの同治九年(1870年)の香炉の松本にや(謝名村出身)と同一人物とみられる。

【スムチナウタキのイベの香炉】

  ・道光二拾年 上国之時 奉寄進 (1840年)
  ・同治九年 奉寄進 大城にや 松本にや (1870年)



【謝名のウタキのイベの香炉】

 ・同治午九年十月 奉寄進 松本仁屋 ((1870年)

 謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。

 同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物か。香炉の銘は「同治九年午九月 奉寄進 松本仁屋」と読める。


   謝名ウタキのイベの香炉(1870年)

【平敷のウタキのイベの香炉】

  ・道光二十五年 上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋 (1825年)

 今帰仁村平敷にある拝所のある杜はタキ(ウタキのこと)と呼ばれる。ウタキは平敷の現在の集落の北側に位置し、杜の中に散在してあった拝所を杜の中に集めている。杜周辺からグスク土器や青磁器などの遺物が散在している。かつての集落はウタキの南側に展開していた様子がうかがえる。ウタキの中にイビがある。そのイビに四基の古い石の香炉が置かれている。その内の二基に「奉寄進」と刻まれている。その一つに「道光二十五年上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋」と刻まれている。道光25年の上国した人物に今帰仁里主親雲上がいる。同行していった一人ではなかったか。


   平敷のウタキのイベの香炉(1825年)


2009年3月10日(火)

 あまりの忙しさに「動き」は動かせません! それに視力が落ち、文字が読めない状態。それは逃避なりか。アハハハ


2009年3月7日(土)

 これから西原町から40名余の文化協会のメンバーがやってくる。西原と北山(今帰仁)と結びつけて話をすることに。それがあってか先日今帰仁村諸志にある「赤墓」について記してある。赤墓に葬られている一族は、尚円王と関わる人物である。実際に赤墓に葬られているのは乾隆55年(1790)に亡くなった人物からである。その先祖にまつわる伝承がある。尚真王が北山を巡回した時に荒波にあい、救助したのが上間大親の親子で、その一族は尚円の弟ということがわかり、上間大親の子供二人は首里の役人にし、上間大親は具志堅村に一地を賜ったという。上間大親は故郷の見える場所(現在の諸志)に墓を造って欲しいとの遺言を残したらしい。それで後年ではあるが、拝領墓として伊是名島が見える場所に墓を造ったという。

 文書をみると、光緒元年(1875)に墓は開けたようで、その時の調査メモがその文書である。午前中は今帰仁グスク、午後は雨のため歴史文化センターの館内で。「北山の歴史と文化」で講演と展示の観覧なり。


  今帰仁村文化協会会長が歓迎の言葉            館内でプロゼェクターを使っての講演


                       講演の後館内の展示をみる!


2009年3月4日(水)

 午前中、今帰仁村仲尾次の渡名喜栄長翁(97歳)に「今帰仁ミャークニー」を謡ってもらい、その録音に立ち会う。いつ聴いてもミミグスイ・チムグスイ(耳薬・心薬)させられる。DVDに録画して、すぐに差し上げようとしたのだが、小型のDVDが村内になくデジカメの画像のみ。高齢なので、そういうのは待ったなしである。今日のために調子を調えてきたようでありがたいものです。ケーシをしてくれたのは石野さん。家族にも感謝である。今月の末に出番があるようなので、その時はほんとのミャークニーを画像でお届けします。お待ちください。感謝!


    本番前にチンダミ(調子合せ)         今日謡ってくださった歌詞の一枚


2009年3月3日(火)

 頭を切り替える余裕がないなり。ちょっと息抜きに。「赤墓」と関わる上間家の文書をおこしておきましょう。あちこち読めません。私の力では。助っ人が必要だな。詳細については改めて。600頁と300頁の原稿の書きかえや校正に追われている。原稿を読むというより、見るといった状況。



大清道光癸未八月吉日
  先祖之由来述書
        
上間筑登之

 先祖上間大親亨翁者本伊平屋嶋
 葉壁首見申所之人ニ而候而成
 壮年之頃今帰仁居老を楽ミ
 被罷在候砌
尚真様北之方為御巡見船路より
 今帰仁被遊
 行幸候時湊口近付候大風吹出
 兎も角も被為成様無御座至
 被及危難候処上間大親嫡男次男
 召列小舟乗り於狂波之中身命を
 不顧段々相働終御船を湊内
 引入破損之危を奉救候
尚真様御喜欣不斜則
 御前被為召候右上間
尚円様御直弟ニ而
 君上与者骨肉之分於間柄者御叔父
 相当り依て家譜之本来委曲達
上聞候処骨肉之親就中被尽之忠情候
 為御褒美今帰仁間切惣地頭職
 被仰付候得共性質純厚之人ニ而
 身を卑り下りて惣地頭御断
 今具志堅村申処并比與喜屋之
 地処を仰下度奉願候処彌其通被仰付候
 左候嫡男次男御召附首里
 罷登猶又難有御近習職等仰候付
 夫首里江居住いたし候次男中城
 親雲上今牧志筑親雲上先祖三男
 上間子ハ本部間切具志堅村
 居住居候今にして其家跡を見候得
 右奉願頂戴仕候 地方ハ葉壁山ニ
 向候而者いか様本居る所を難
 忘常對見する之志にて候事又御
 先祖伝来之墓親泊有之赤
 墓之名ヶ申候是拝領之墓二而
 今以後裔伝へ候依て相考候得
 亨翁忠孝之情一端々験者也
  月 日

  

  光緒元年丙子十一月八日赤御墓御開御覧
  御六男西平里之子親雲上御女性衆御弐人〆御三人
  被成御下彼ノ御墓開御見分仕候処貫ぎやを
  御弐ツ其上ニ板弐枚内壱枚ハ字面相見得不申
  壱枚ハ字面相見得候処板痛ミ相付字面不正
  字面相見得候分左之通書積置申候
   奉
  推正               
    五撰             浩 諦
  西平親
  今帰仁親
  付奉行
 
 
高ハ九寸程口差渡し三寸程
  廻弐尺二寸三寸計
  御門貫きやを
  高三寸程口差渡し
  三寸五分計
  廻弐尺計

  字面御書之貫きやを之上□□面へニ而おしまへ座申候
  板一枚長三尺ヒ六寸巾三寸
  字面なし右同
  板一枚長七寸也三寸巾右同
  御墓門長弐間御門ヨリ後迄三間
  右同時御見分ニ付寸法付仕置申候尤貫
  きやを之儀之儀唐調等ニ而御座候父三良上間
  七十四歳男子牛上間にや三十八歳ニ而御開
  仕置申候

一 乾隆五十五年癸戌六月六日死去父親
一 同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
一 道光二十五年乙巳十月十八日金城筑登之妻
一 咸豊五年乙卯十二月七日金城筑登之
一 道光十八年亥十二月十日三良上間女子なへ
一 同二十一年寅五月廿日 同人 妻
一 同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
一 咸豊十二年丙三月廿一日三人上間にや  満名親雲上二男
   但  明治廿年丁亥十二月廿八日右三良上間にや嫡子まつ上間宅へ御移置
     申候                            上間嫡子
一 同治二年癸亥正月廿五日加那上間
                    
加那上間父
一 光緒三年丁丑十二月廿五日三良上間
一 明治三十八年乙
  乙三月五日上間権兵衛
  七男勘次郎ハ清国盛京省奉天省
  興隆北方高地に於テ戦死陸軍
  歩兵上等兵

  上間家所蔵の由来記(孟氏家譜に拠る)
  『国頭郡志』所収されている(376頁)

  「本部村字具志堅屋号上間口碑に依れば昔尚円未だ位
 に登らざる時伊平屋島首見村(今の伊是名島の東北字
 諸見)にあり年二十にして父母を失い自ら一家を維持
 して家族を扶養せしが或年大旱魃の為め凶歉あり、水
 田皆涸るゝ