2007年3月のメモ
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・久志間切番所の移転
・琉球(北山)と沖永良部
・本部町の神アサギ(一部)
・沖永良部島と西郷隆盛
・小田原城
2007年3月29日(木)
年度末、多忙中ですが、30日から2日まで私用があって東京・神奈川県行きです。留守番よろしくお願いします。職員には迷惑かけます。このページもお休みします。
湧川小学校の教員研修会の件、地籍図の修復、新城徳祐氏資料(芸能関係)の貸し出し(三箱)、沖国大南島研のシンポジウムの打ち合わせ、「なきじん研究」の進捗状況など来館者が続きました。それと兼次小のみなさん。わざわざ、ありがとうございます。新年度の予定が、次々とはいてきます(頭、大丈夫かな?!)。
兼次小の新4、5、6年生達。参加できたメンバーがやってきました。総合学習の成果を持って。一人一人のノートの印象記が面白い。夏に行ったところ。質問に答えたこと。紹介したこと。アラビ細工、食事は二食だったこと。道具からおじいあばい達の知恵を学んだこと。などなど。一つ上の学年になったら、また新しいことを学びましょう。三つの鉢物の贈り物。しっかり育てます。お楽しみに。

▲新4、5、6年生のメンバー ▲印象を記したノートと写真
2007年3月28日(水)
くん蒸は完了。念のため空気の入れ換え中。ミーちゃんは、まだ館の近辺で待機しています。においに敏感のようです。29日は朝から開館いたします。
21日から多忙中であったが各地を訪れている。前後が分らなくなるのでメモしておくことに。
・3月21日(水)
・午前中、明治学院大学高原ゼミへのレクチャー
・午 後 広島女学院(学芸員実習生)
宮城島・伊計島・浜比嘉島
・3月22日(木)
・午後から歴史文化センター運営委員会(平成18年度事業報告)
・3月23日(金)
・一日 奄美沖縄民間文芸学会(奄美沖縄における歴史と伝承)
奄美(沖縄)と与論・沖永良部・徳之島の三島)で報告
・3月25日(日)
・一日 奄美沖縄民間文芸学会(参加)
・3月25日(月)
・くん蒸のため職員研修
・根謝銘グスク(大宜味村)
・国頭村与那集落
・辺土名の上島集落
・名護市(旧羽地村の源河ウェーキ・源河グスクなど)
・3月28日(水)
・名護市(旧久志村の大浦・瀬嵩)
【久志番所の移転】(『久志村誌』15~16頁
久志村役所(1967年)
久志間切は地勢上交通不便で、しかも西方への横断道路が当時なく、久志から羽地番所への逓送は
久志番所から一部逆戻りして金武間切古知屋潟原から名護の許田村に宿次して、名護番所に至り名護
番所から羽地、大宜味、国頭へ順次逓送していた。名護は結局西宿と東宿両駅の責任と負担を負わさ
れ、同間切は其の苦難を上訴したので、王府の命により、金武、久志、名護、羽地、大宜味の各地頭会
議を開き対策協議の結果、各間切地頭代に命じ五ケ間切地頭代が大浦と羽地仲尾次境界の岳に登り
地勢を視察し道路開鑿が出来る事を認めて貞亨四年九月(1719)久志、羽地、両間切の協同工事に至
り、久志間切瀬嵩村から羽地間切真喜屋村に至る山野を開鑿し西道が開通せられ爾後駅路に指定さ
れた。
西道の駅路が開通後の翌年大浦から御飯越地(ウバンクイチ)を越え名護の東江原、三つ城、中山を
経て東江へ通ずる。東江原道と御飯越地から川沿に羽地川上に通ずる「タガラ」道が開鑿せられて西方
面への交通が愈々便利になった。
間切の新設医ら番所は久志に設置せられてあったが、其の伝達が間切の地形上一方に偏しているの
と、駅路の開通や東江原道、タガラ道の開通が便利になったので番所の移転方を王庁へ上申した所認
可になり、1720年瀬嵩に移転する事に決定せられた。
瀬嵩地内の現役所在地に番所の新築期間中大浦村々屋(現在の事務所)に番所を仮設置し政務を掌
っていたので、仮に之を大浦仮番所と称していた。新築中の番所が落成して移転し瀬嵩番所と称せられ
るヽに至った。
久志間切設置後、1696年金武間切古知屋は久志間切に編入せられていたが、瀬嵩に移転したので元
の金武間切に復帰することとなった。
※御飯越地(ウガンクチ)を、現在は「番越」と表記されている。番越は?
▲「番越」線の起点。右手は県道18号線 ▲番越線の案内版
▲「番越トンネル」の名前がついている ▲大浦の事務所前。大浦仮番所があったという
▲瀬嵩の番所のあった付近 ▲久志支所の裏側の老木
2007年3月26日(月)
26日(月)~28日(水)まで、くん蒸及び資料整理のため閉館となります。このページも休みとなります。ミーもしばらく旅にでなければ・・・。

▲なんか変だな?! ▲さて、どこに行こうか!
2007年3月24日(土)
追われぱなっし日々が続いていた。「琉球と与論・沖永良部・徳之島三島」について報告、そして「まとめ」ることができたのは大きな収穫なり。80分の講演の後は抜け殻状態。一夜明けた今朝まで続いている。次に向けて体を動かすことに(歴史文化センター周辺のレンギョウの剪定でも)。頭の中は、一日ボーとしているかも。
兼次小の3年生(新4年生)がやってきた。今日は一年間のお礼で。3年生は「自分のシマの自慢」がテーマでした。カーや石切り場や神ハサギや大きなコバテイシなど。暑い夏、行きました。それらを絵や文章にしてみんなに知らせる。その役割を一人ひとりがやってくれました。名残り惜しいのか「また、やりたい」と。「ムラ・シマ講座」があるので参加してください。お花と小箱の贈り物。ありがとさん。
▲兼次小のみなさん ▲贈り物です!
2007年3月22日(木)
午後からの運営協議会の資料づくり、田園空間整備事業の原稿校正とも完了。午後から運営協議会。これから明日の「琉球と与論・沖永良部・徳之島三島」のレジュメと画像取り込み(パワーポイント)にはいる。飛び込みがないように。チョン
2007年3月20日(火)
ちょっと一息。一息入れて次へ。三山の時代(北山)を色濃く残している沖永良部島の「永良部世之主」のこと。それと按司や大やこ、ノロなど琉球的な役職やシニグについて少し整理することに。北山の時代が、どう沖永良部島にどう痕跡として残されているのか。世の主が沖永良部島に派遣されたかどうか(史実?)ではなく、北山王の次男(有力者)が島にどう受け入れられているかについて触れることに。山原で行われているシニグが沖永良部島ではどうなっているのか。「琉球と沖永良部島」との関係の一つとして触れることに。
2007年3月19日(月)
急ピッチで原稿校正にかかっています。そのため、お願いことに十分答えることができません。すみません。もう、しばらく続きます。明日まで6~8編(60頁)、飛んで10編(20頁)まで目を通すことができるか。
(第1編~5編までの150頁は済み)行きましょう。そこまで済むと一息。ホッなんですが。
2007年3月18日(日)
「琉球と与論・沖永良部・徳之島三島」の講演原稿の整理。A4版で40頁余になっている。レジュメ原稿なので半分くらいに絞り込むことに。与論・沖永良部島・徳之島のことが頭を駆け巡った一日でした。もちろん、いくつかの項目には北山との関わりもある。一つひとつ片付けて行きましょう。まとまってくると楽しいものだ。明日からのスケジュール、おお大変だ!
(本日の来館者400名余。300~500名余に落ち着いてきたかな!窓口業務ご苦労さん)
2007年3月17日(土)
テレビ局の取材があり、今帰仁村崎山の神ハサギ、具志堅の神ハサーギまで。午前中、本部町渡久地、辺名地、備瀬までゆく。撮影で行ったのは今帰仁村崎山、今泊の座り石、具志堅の神ハサーギ。
▲本部町辺名地の神アサギ ▲神アサギ内のタモト木
▲本部町浜元の神アサギ ▲浜元の神アサギのタモト木
▲具志堅の神ハサーギ ▲神ハサーギ内にあるタモト木
2007年3月15日(木)
多忙な時期だが『渡喜仁の字誌』の出稿。本格的な出稿は4月に入てからであるが、待ったなしがやってくる。まずは目の前の「なきじん研究」の初校分から片付けましょう。
2007年3月14日(水)
運天の字誌の編集会議(運天の方言)が急きょ延期となる。今日は高校の合格発表の日のようで、お祝いが多いとのことで延期。しめしめである。初稿の原稿校正と画像の取り込みで目を真っ赤にする日がしばらく続く。逃避したいところだが、今月はギュウギュウ詰めのスケジュールで自由に身動きできません。
先月2月25日~27日に東京都と神奈川県へ行く。小田原城の途中までHPに取り込んだが、インフルエンザでダウンしたためチョン。その時、小田原城と東京江戸博物館の「江戸城」の企画展をみている。記憶の彼方になりそうなので、画像と、二、三のコメントを入れておくことに。
浅草橋駅を降りて宿までの途中に浅草見附、神田川にかかる浅草橋が目にとまりパチリ。「下町まちしるべ」に釘付け。タイトルは「旧浅草橋」とある。以下の説明がなされている。規模は違うが一帯の様子を調べていると、泊・那覇・久米村周辺の開発?と重なり興味深いものがある。
浅草橋という町は昭和九年(1934)に茅町、上平右衛門町・・・・ひとつになってできた。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋をなどを築き江戸城を警護した。奥州街道
が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また
警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋が架けられたのは嘉永十三年(1636)のことである。浅草門前にあった
ことから浅草御門橋と呼ばれていたがいつしか「浅草橋」になった。江戸の開発?をみると、規模は異なるが那覇・泊・久米村一帯の発達を彷彿する。

▲浅草橋からみた神田川 ▲浅草橋の側にある浅草見附跡

▲郡代屋敷跡(左側は交番) ▲東京江戸博物館正面
2007年3月13日(火)
年度末のせいか訪問や問合せが多いような。集中しなけらばならない業務が・・・。それでも一つひとつ片付けないとパンクしてしまいます。
三時頃から村内の大先輩方が企画展を見にやってきました。展示してある資料群は、戦後の歴史を歩んできた先輩方の足跡です。「物のない次代だったが、資料や写真など見ていると、いい時代だったんだな」と振り返っています。今向かっている国の方向と戦後間もない頃先輩達が向かっていた時代の方向を、言葉少ないがいいあてているような。
2007年3月12日(月)
次の業務に没頭するため、気分転換で名護グスクと金武グスクまでゆく。何度も足を運んでいるが、二つのグスクは自分の中にしっくりと入り込んでいない。現場を確認するだけでいいとの思いで・・・。
名護グスクは三高女(沖縄県立第三高等女学校)跡地から眺めてみた。そこには女学校発祥地の碑と黒岩恒先生の顕彰碑が建立されている。名護グスクから麓のマチを眺めるのだが、今日は麓から遠景をみる。「あの森全体が御嶽で、その中の拝所(香炉が置かれた場所)がイベ」である。その捉え方は名護グスクだったような・・・。
金武グスク跡地?は「上ヌ毛公園」として整備されている。そこから金武・並里の御嶽(中森とヘーシンバとトムツヅイベ)や集落の位置を確認する。金武グスクと集落と御嶽と位置関係がやっと飲み込むことができたようだ。トムツヅはすぐわかるのだが、今回中森とヘーシンバへ一回で辿りつくことができた。
二つのグスクを見た後、宜野湾市まで。一時間半ばかりの車中で「琉球と与論・沖永良部・徳之島三島」の講演を口にしながら運転をしている。大筋まとまったようだ。バックミュージックはイルカの全曲集である。それは何の意味もないが。ドリカムは卒業?!というより、そのテープを失ってしまっただけ。ハハハ
▲三高女跡地から名護グスクをのぞむ ▲三高女跡地の碑と黒岩先生の顕彰碑
▲金武グスク(上野毛公園)跡地 ▲トムツヅイベの御嶽の遠景(金武)
2007年3月10日(土)
今日は「ムラ・シマ講座」(第14期)の修了式です。中学校の卒業式と重なっているので参加者はどうでしょうか。早速の差し入れがあり、ありがとうございます。今年は第二土曜日が雨にたたられました。それでも無事修了となります。
全員の発表で、講座は修了となりました。一人ひとりの「ムラ・シマ講座」での思いをたくさん受け止めることになりました。300頁余の冊子もできました。ご苦労さんでした。スタッフともども。
▲発表前にノートをみながら・・・
▲差し入れを食べながら ▲一人ひとり発表
2007年3月9日(金)
与論・沖永良部・徳之島の三島には、近世にも「まきり」(間切)の行政区分がある。その詳細について、よくわからないが、行政区分の呼称は古琉球の時代からのものである。奄美に残る古琉球の辞令書が20点余あり、首里王府から発給されたものである。間切という行政区分は首里王府の地方や奄美を統治した姿だとみている。三島について具体的に見ていくが、奄美大島と喜界島まで掲げておくことにする。そこから何が見えてくるのか?
近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性はある。
古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。
・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
(受給者不明)(年欠)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)
・与論島(近世後期に大水間切と東間切があったという。
【正保琉球国絵図】に間切名出てこない。
①大水間切 ②東間切
・沖永良部島(安政4年:1857に方制、明治41:1908年に町村制)
【正保琉球国絵図】
①大城間切 ②きびる間切 ③徳時間切
大城間切/喜美留間切/久志検間切
安政4年に方制が敷かれ、和泊方・東方・西方となる。
・徳之島
【正保琉球国絵図】
①東間切 ②西目間切 ③面縄間切
・奄美大島
【正保琉球国絵図】
①笠利間切 ②名瀬間切 ③焼内間切 ④西間切 ⑤東間切
⑥住用間切 ⑦古見間切
・喜界島
【正保琉球国絵図】
①志戸桶間切 ②東間切 ③西目間切 ④わん間切 ⑤荒木間切
2007年3月8日(木)
与論・沖永良部・徳之島の三島について、目を通すのは大変である。数項目についてまとめていくことに。手抜きが見えてきましたワイ。
【徳之島と西郷隆盛】
徳之島の天城町岡前に「岡前西郷公園」があり、そこに「西郷南洲顕彰碑」(平成6年)が建立されている。近くに文久2年(1862)6月西郷隆盛が奄美島(龍郷町龍郷)から徳之島に流謫された際、岡本家に身を寄せていたという。西郷が身を寄せていた謫居跡に以下の説明文がある。碑の側に力石が三個置かれている。近くには「岡前
曖(あつかい)役所跡」がある。
沖永良部島同様、徳之島でも西郷が上陸した湾屋湊(天城町)、そして岡前の謫居跡地など記念とすべき場所としている。近年でも顕彰碑を建立している。それを受け入れる島、受け入れ伝えようとする島の人々。西郷の場合は幕末の薩摩からの有力な人物を受け入れ伝えて行こうとするものである。
西郷南洲顕彰碑(平成6年)(天城町岡前)
徳之島にも遅ればせながら 西郷南洲顕彰碑が建設された 西郷田隆盛は国父島津久光公
の怒りにふれ 奄美大島 徳之島 沖永良部島に遠島(流刑)の身となったのであるが 時代
を経て現段階では すでに他島には謫居跡や牢舎が立派に復元されていたのに対し この島
にはいまだ それに比するものがなかった
下級武士の出ながら明治維新の最大の功労者となった西郷がこの地で過ごした日々から
一三二年の年月が過ぎた今日 当時流人の島として位置づけられた徳之島 外面はともかく
文化的 精神的側面でいかほどの変化を遂げてきたか そして今後ずれこへ行くべきか 深く
思いをめぐらす よすがとすべくふるさと・・・・
西郷南洲先生謫居之跡(天城町岡前)
「世界的偉人、西郷南洲先生が藩主島津久光公の不蒙り、そのために遠島の身となり、苦難の
生活をされたのでありますが、わが天城町の湾屋岡前で約三ヶ月間生活をされております。翁
は足軽二名に警護されて現在の浅間湾屋に上陸したのでは文久二年(一八六二年)六月十日
です
ちょうど翁が三十六歳のときでありました 翁はこの日
同地の農家湾直道(現山口直為祖
父)宅にはいり一週間止宿、その後岡前アツカイ惣横目琉仲為のすすめをいれて六月十七日
岡前の松田勝伝方に移り
ここで六十九日間を過ごしておりおられます 即ちこの地が翁の偉業
をたたえ
その遺徳を偲ぶとともに翁のすぐれた訓が後世に継承されることを切に願うものでござ
います・・・

▲西郷隆盛が謫居した跡地にある碑 ▲碑のそばに置かれている力石

▲西郷南洲先生謫居之跡の説明板 ▲岡前曖(あつかい)役所跡(天城町岡前)
2007年3月7日(水)
沖永良部島について頭の整理をと。昨年二度訪ねているが、まだ報告していない。しばらく放置してあったため、思い出すのに時間がかかりそう。ここで、沖永良部島の整理にとりかかることに。果たして?
講演のタイトルが「琉球と与論・沖永良部・徳之島の三島」なので、その一つ沖永良部島と琉球との関わりについて少し整理することに。
【沖永良部島と西郷隆盛】
沖永良部島の伊延港に「西郷隆盛上陸之地」の碑がある。側の説明板に以下のように記してある。
「文久2年(1862)閏8月16日薩摩藩島津久光公の怒りにふれ流罪となった。西郷隆盛は
この地に上陸した。しかし沖永良部には西郷を囲う牢屋がなかったので牢ができるまでの
2日間は船牢で過ごした。牢が出来上がって連れにきた代官蔦原孫助や付役福山清茂、
間切横目土持政照らが乗馬をすすめたが「いや、私は牢に入る身、もう二度と土を踏むこ
とがないと思いますので、どうか和泊まで歩かせてください」と言って和泊まで一里の道を
歩いた」
必ずしも西郷隆盛の人物に関心があるわけではない。西郷隆盛が上陸した地に碑を建てた人々に関心がある。どうも奄美の島々の人々の底流に島に渡ってきた有力者や技術集団などがやってくると、それを伝承や碑などで、その痕跡を残していこうとする習性をもった人々ではないか。幕末に流罪となった西郷隆盛であるが、上陸地に碑を建立し、また和泊には牢屋などが再建され今でも残してある。
沖永良部島のシニグロードは、三山の時代に北山からやってきた山北王の三男一族が世の主神社(グスク)までゆく経路を辿っているのではないか。沖永良部島だけでなく、与論島や徳之島の人々の底流に、どうも有力者がやってくると、その痕跡を残していこうとする観念をもった人々が住む島なのかもしれない。その視点で見ると、弥生・縄文の人々の流れ、三山時代の流れ、三山統一後の流れ、薩摩の琉球侵攻以後の流れ。幾筋もの流れを今に伝えているような気がしてならない。
西郷隆盛の流罪は幕末のことである。奄美→徳之島→沖永良部島にその足跡をしっかりと残してある。西郷の足跡を人々は単に残しているわけではなさそうである。そのことを前提に考えてみると・・・・。

▲伊延港近くに「西郷隆盛上陸の地」の説明板と上陸之碑
【沖永良部和泊町の南洲神社と牢屋】


2007年3月6日(火)
今、後ろで『ムラ・シマ講座』(第14期)の冊子の印刷中です。ごくろうさんです。「発刊のことば」は、わたしの役目。とり急ぎ発刊のことばを。
『ムラ・シマ講座』(平成18年度)の冊子の発刊(305頁)。今年度の調査は、これまでにないほど苦労しました。というのは、二回目予定(6月10日)の天底は雨のために館内でした。天底は三回目へ。そして四回目(9月)の渡喜仁もハプニングがあって、その回は急きょ今帰仁グスクへ。渡喜仁は五回目(10月)として行いました。予定通りできたのは一回目の今泊と六回目の本部町備瀬ぐらいでした。
一人ひとりのノートから、行った場所を確認してみました。ノートに書かれ、いきいきとした絵が面白い。コバテイシにコゲラ、香炉に足をつけ歩かしている。グスクの野面積みを丁寧に、備瀬の井戸の中の梯子(ハシゴ)変わりの足場に気づいています。新鮮な気持ちで読むことができました。発表した自分の碑に刻んだ短い文章ですが、それもまたいいです。
・今泊(1回)……ハサギンクヮー・フプハサギ・コバテイシ・マシーチャガーなど
・歴史文化センター内(2回)…50年前の山原・今帰仁の風景(スライドで)
・天底(3回)…神アサギ・ウタキ・アミスガー・クンジャドーの井戸
・今帰仁グスク(4回)…グスクの石垣・火の神のほこら・ウタキなど
・渡喜仁(5回)……ハキジヌメー・ピージャーガー・ウッパマ
・備瀬(6回)……ウタキ・福木並木・井戸・神アサギ
参加者一人ひとりのノートを冊子にして目を通してみると、貴重な記録だと実感させられます。というのは、目まぐるしく動く社会や日々の生活をしている中で、アサギや井戸やカーやウタキに立つと、先人達の生活の営みが静かに浮かび上がってきます。そこに住んでいる人々の生活や個性が見えてくるような気がします。同時に調査ノートを書いた一人ひとりの成長していく姿も見えます。それと、回を重ねて参加している方々のノートは重みを持って表現されています。
ノートをとりながら記憶に刻んだ場所、そこで聞いたことが、時間がたち、振り返ってみたとき、記憶として思い出され、深く考え自分の成長ぶりが確認できます。歴史文化センターとしては14冊目の冊子となり、山を一つ積み上げることができました。記録した場所が、再び訪ねたとき、残された場所であれば幸いです。
2007年3月5日(月)
東京からインフルエンザを持ち帰り三日間ダウン。タミフルを服用したので外出禁止令がでる。体調が回復したので今日から出勤なり。しばらく、体の様子をみながら・・・。
3時前にJICA留学生セミナーの14名のメンバー(8カ国?)がやってきた。今帰仁グスクと歴史文化センターの館内で。東南アジアの国々の学生達が多かった。沖縄の戦後から昭和30年代の様子は自分達の国の近年の風景を見ているようだとの声。戦後の沖縄の様子を知ることは、自国の将来を見通すことにつながってくれたらと思う。
周辺諸国との貿易は国の繁栄をもたらすことにつながっていたこと。世界遺産に登録された今帰仁グスク、メリットもあればデメリットもあり。現在の沖縄を考える場合、歴史を抜きにしては考えられないこと。学生達に話していると、学生達は勿論のこと、一般の来館者も立ち止まって聞き耳をたてている。熱心に聴いているのを見ると病みあがりだとは言っておれません。ありがたいものです。お陰様でインフルエンザは吹き飛んでいったようだ!
▲グスク内はすでに葉桜! ▲ウーウチバルは風がピュービュー
▲留学生達には寒いグスク! ▲館内では熱い質問がいくつか!
2007年3月1日(木)
小田原城絵図(文久図)を手にしながら北口入口(現在)→御城米曲輪→御本丸→御天守(三重)→常盤木櫓→御二之丸(歴史見聞館)→(イヌマキの老木)→銅門(あかがねもん)→末吉橋(現在)→馬屋曲輪→御茶壷曲輪(御茶壷蔵跡・小田原番所跡)→南曲輪(郷土文化館)→南入口(現在)へと足を運んでみた。城外へでて「箱根口門跡」から相模湾(海岸)へ。
元禄時代の小田原城の絵図を見ると天守閣、本丸御殿の大きな規模の建物が描かれている。沖縄のグスクとは桁違いの規模の施設である。本丸の休み処に鉄くろがね門跡の碑を確認し常盤木門へ。本丸に何故か象が一頭。
常盤木門は本丸への正門のようで、付近にあった松に因んだ呼称のようだ。昭和46年に復興されている。二の丸には「歴史見聞館」があり、中を覗いてみた。画像での紹介がなされている。小田原城の歴史的な知識は全く持っていかなかったので苦しいものが・・・。
二の丸から銅門を出ると御茶壷曲輪である。二の丸の外堀がよく見える。そこには御茶壷蔵跡と小田原城番所跡の説明版があるが「小田原城絵図」には確認できなかった
(文字が小さいせいか?)。
▲常盤木門の碑 ▲常盤木門(昭和46年復興)
▲二の丸の外側の堀 ▲二の丸の南曲輪の外側の堀(郷土文化館)
▲銅櫓(門)(平成9年復元)
▲小田原城番所跡