2002年4月の動き
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2002.4.28

 
旧暦の3月27日が近づいてくると「薩摩の琉球侵攻」が思い出される。今帰仁においても大きな出来事であった。「琉球渡海日々記」をベースにするか、あるいは「喜安日記」によるかで記述が異なってくる。攻める側と攻められる側では自ずとその表現や数字は異なってこよう。それは当然である。要は何をどの史料を根拠に論を展開していくかである。まずは、今きじん(今帰仁)に関わる部分について「琉球渡海日々記」と「喜安日記」から、その概略を並べてみた。


「琉球渡海日々記」にみる今帰仁の状況

 ・3月24日午前10時頃徳之島の亀沢(津か)の港を出港した。
        沖永良部の島崎(地名見あたらず)に停泊した。
        先発の船が待ち合わせており、そのまま琉球へ。
        夜通し船を走らせた。
 ・3月25日夕刻6~7時頃(酉の刻頃)琉球のこほり(郡・古宇利)に着
        いた。
 ・3月26日は返報日なので打ちまわりなどもなく錨をいれた(休息日
        か)。
 ・3月27日太郎左衛門と半右衛門の二人は、今きじんと申す所を一覧
        のため五枚帆で出かけた。今きじんの城は開いていた。
        午前10時頃俄かに(急に)打ちまわり、方々に放火した。
        運よく捕り物が沢山あった。
        郡(こほり)の運天舟元より三里程奥に出かけた。田畠が
        多くよい在郷があった。
 ・3月28日は逗留(滞在)した。
 ・3月29日は夜半に船を出し、大わん(大湾)という所に着いた。


■「喜安日記」にみる今帰仁の様子

  3月26日は西来院・名護・江洲が先に首里から今帰仁に立ち倉波
        につく。今帰仁から河内と東風平が来て、道は敵が満ち
        満ちているため陸路は通らないようにとのこと。その日倉
        波から小舟で恩納までいく。

  
  
3月27日は暁に舟を出し、今帰仁(親泊)につき沖で詮議する。親泊
        の沖に敵舟が一艘きて、それに乗り移り、引かれて今帰仁
        (親泊?)につく。大将軍は今帰仁城へ勤めがあり、会うこ
        とができず、暮れたので帰った。
 


 「琉球渡海日々記」と「喜安日記」から「今きじん」(今帰仁)部分を歴史的にどう描けるのか。今帰仁部分の僅かな記録の行間からどこまで読みとっていけるのか(もちろん、全体を通してみる必要があるが)。「琉球渡海日々記」を記録した人物が薩摩軍を引っ張っていく立場でないため、全体の状況や動きの目的や人数など十分把握していないため、同時代史料であっても充分な記録ではないようだ。
  歴史を描く史料の限界を意識しつつ、他の史料を駆使して歴史を描く作業が必要となってくる。その視点での研究は紙屋敦之氏「薩摩の琉球侵攻」(『新琉球史 近世編(上)』ですでになされている。「琉球渡海日々記」から、もう一度確認してみると史料の限界も理解されよう。

  ・沖縄本島のこほり(古宇利)、運天港は郡の舟元にしたこと。
  ・26日は返報日なので「打ちまわり」がなかった。全く動きが
   なかったのか。
  ・27日に太郎左衛門と半右衛門の二人で今きじんを一覧するために
   五枚帆で出かけているが、それは討伐なのか。一方では運天から
   三里奥まで行き在郷があったとの報告。
  ・今きじんの城(今帰仁城)に行って見たら城は「あき城」(抜けの殻)
   だったのは戦わずして逃げ去っていたのか。
  ・28日の逗留は何を意味しているのか。

  「喜安日記」は同時代史料でないことを念頭に入れておく必要がある。それでも「琉球渡海日々記」を補完できる部分が多々ある。26日に西来院や名護、そして江洲が首里から今帰仁へ向っている。逆に、今帰仁から河内と東風平が来て(戻り)、「道は敵が満ち満ちていた」といい、そのため陸路を通らないようにと状況を報告している。河内と東風平が今帰仁から来た(戻ってきた)というのは、薩摩軍との戦いに敗れ逃げのびてきたことを意味するのか。(今帰仁でどのような戦闘があったのか、両史料とも具体的に述べていない)。

 3月28日今帰仁監守を勤めていた五世克祉(今帰仁按司)が死亡している(『具志川家家譜』)。その死は戦闘があっての死か、あるいは今帰仁城の焼き討ちの責任をとっての死か。いずれにしろ、薩摩軍と戦闘があったことを思わせる。死者が何名あったのか二つの史料から見つけ出すことはできない。別の同時代史料に出て来ているのかもしれない。

 それと「琉球渡海日々記」で25日にこほり(郡)の岸に着くとのみあり、運天港まできたか不明。100艘余の船なのでこほりの浜からはみ出て、一部奥の運天港まではいてきた可能性は十分。26日は「返報日で打ちまわりがなかった」とあるが、一部の部隊がこほりから運天港まで来たり、あるいは今帰仁城で戦いをした可能性がある。翌27日太郎左衛門と半右衛門の二人が行ってみたら今帰仁城は開いており(空城)、俄かに放火している。捕り物が多くあったというから、前日の戦闘後に今帰仁城に行ったのかもしれない。このように知りたいことへの解答は「かもしれない」の部分が多いのである。

 このように史料を駆使しながら、他の史料や一連の流れで「今帰仁(間切)における薩摩の琉球侵攻」をもう少し丁寧にみていく必要がある。限られた史料で歴史を描くことはなかなか困難なものがある。書かれたものを鵜呑みにして歴史を描いていやしないか。ときどき、そんな思いにかられる。

  薩摩軍の今帰仁城の放火後、今帰仁では城の前後にあった今帰仁村(ムラ)と志慶真村(ムラ)の麓への集落移動、今帰仁城内に居住していた監守一族が城下に移りすみ、さらに1665年首里に引き揚げ。翌年、今帰仁間切を分割し伊野波(本部)間切を創設する。さらに監守の首里への引き揚げは今帰仁阿応理屋恵の廃止へとつながっていく。このように薩摩軍の今帰仁城の焼き討ちは、「今帰仁の歴史」に大きな影響を及ぼしていった。もちろん、琉球全体が幕藩体制という枠組みに組み込まれていくのであるが。薩摩軍の今帰仁城の攻め入りについて、具体的な描写は困難である。しかし、その出来事がその後の今帰仁の歴史的な動きに大きな影響を及ぼしていることは確かである。


 今日は1609年3月25日から29日まで歴史の舞台となった今帰仁村今泊(親泊)海岸と薩摩の軍隊が逗留した古宇利島を遠方から撮影(干潮時で潮干狩りの人達がリーフに見られた)。そして城下から薩摩軍がかけ上がった(?)ハンタ道を通り今帰仁城まで登ってみた。さて、その実感は!!!

今帰仁の親泊(現在の今泊)   薩摩軍が逗留した古宇利島


2002.4.27(土)

 雨の中での墓調査であった。目的は湧川家(那覇在)の先祖の墓と思われる墓を開け、墓室に葬られている方々の確認調査であった。結論を先に報告すれば湧川家の先祖の墓だということがわかったこと。まずは最大の目的は達成。めでたしめでたし。

 詳細については、「今帰仁村謝名における墓調査湧川家の墓」として報告するとして、ここでは調査結果の概要をお知らせするに留めておくことにする。調査に至るまでの経緯は、今回墓調査のご足労下さった湧川郁男氏三回ほど直接歴文で打ち合わせをした。歴文が関わる以前に、すでにこの墓ではないかと下調べを行っていた。「二つの墓があるが、どうだろうか」と謝名の大久保原の現場まで同行した。これまで伺った話からすれば、一基や二基の甕ではないだろうとの判断があり、今回開けた墓の調査をすることとなった。墓地のある森は個人有地となっており、いくつも墓があり墓地の森といった方がいいかもしれない。森の墓地で所有者の分からない、そして拝まれていない墓の一つが今回開けた墓であった。

 今年の旧正月が終わった頃、開けるための日の設定をしていただいた。こちらの都合に合わせて今日の日となった。湧川家のご理解があり、学術的な調査となった。もちろん、三時間という時間と小雨模様という制約はあったが、気持ち的に楽な調査であった。
 今回の墓調査の目的は、参加者は周知のことであったが、確認のため説明をし協力いただいた。感謝ですね。

 午前9時から墓を開けるための準備に取りかかった。具志堅住職の開墓の祈りが終わると湧川家から墓口の石を取り除いてもらった。誰もが心配するがハブである。幸いにしてハブの出現はなかった。あらかじめ、一部開いていた墓口から墓室内の甕の数を10数基と目途をつけてあったので調査内容について、移動前の配置図・甕の位置と番号・銘書の判読(蓋と胴部)・蓋と胴部の実測・甕の内部の確認(誌板や副葬品など)・墓室内の簡易図を作成することにした。(文様の調査もすべきであったが、時間的なこともあって略した)

 午前9時半頃から墓室内から甕を取りだし墓庭で銘書(メーガチ)の判読と記録、そして実測となった。予定通り15基の記録取りとなった。最初に取り出した甕に「同治三年甲子六月十九日死去 なべ湧川」の銘書があり、湧川家と関わる墓であることが確認でき、スタートから順調な滑り出しであった。途中の銘書が「加慶三年(丁午)四月二十一日 謝名村やま大城 妻」とあった。加慶の加は「嘉」を略して書いたのであろう。「やま大城」とあり、??と思ったが「やま大城」の妻とあり、やま大城に嫁いだのであるが理由があって実家の墓に葬られたと判断(そういう事例はいくつもあり)した。それは納得。
 15基の内、銘書があったのは約半分の7基であった。

 銘書があり判読できたもので一番古いのはボージャーの甕の一基で「乾隆四十九年(甲辰) 十月十五日謝名村 死亡 辰ノ年 湧川仁屋」である。もし(他に銘書のない甕もあるので)湧川仁屋が一番古ければ、湧川仁屋が死去したときに、この墓を作った可能性が大である。乾隆49年(1784)頃、墓が作られたことになろう。そして墓室の前面中央部に配置されていたのは「明治十七年申甲二月十二日 武太湧川」である。この墓に葬られた最後の人物は「武太湧川」となる。すると銘書から読み取れる墓の利用は乾隆49年(1784)年から明治17年(1884)までの100年間ということになる。使われなくなって120年近い歳月ということになろうか。12時前には滞りなく調査記録を終わることができた。

 詳細については、別に報告するとして、まずは湧川家の墓と確認できたことに祝杯である。調査記録をしてくれた文化財の田港朝津係長、仲里なきさ、比嘉寿、そして小浜美千子さん(県文化財調査委員・ふい掟)、歴文の留守番役になった石野さん、そして湧川家の皆さん、小雨の中ご苦労様でした。副葬品が見られなかったのは残念だね。なぎさ。


    墓室内の様子      最後に葬られた人物


2002.4.26(金)
 

 今朝、村内の小学校を訪ねた。10期目(10年目)の『ムラ・シマ講座』の生徒募集のためである。10年目という節目である。どれだけの成果があったのか、振りかえる年ともなった。学校では総合的学習を模索している最中である。もっともっと深まりと延々と続くテーマの発見の場でなければならないが、学校ではパターン化しつつある。パターン化するのはいいが、形式的な深まりのないパターン化ではどうだろうか。10年間やってこれたのには理由がある。各字(ムラ・シマ)が三回目、四回目と回を重ねてきた。三回、四回と回数を重ねていく度に、新しい発見がありおもしろいのである。そのことは、いつも不思議に思う。

 今日、ある小学校の校長室でコーヒーを飲みながら話題が総合的学習に及び、そこで人材バンクの話しとなった。歴文も何名かの人材を抱えている。歴文が抱えている人材は対外的な部分が大である。地元の学校の総合的な学習に関わる人材はムラ・シマに住んでいる先輩方(おじいやおばあ達)である。その時、個々のおじいやおばあがどんなお話できるのか、それを把握しておくことが大事。むやみやたらに質問を投げかけても、大方「さあ、わからんさ。あのおじいに聞いたら」「もの知りのあのおばあが生きていたらね」としか返ってこない。その方(カタ)が得意とすることを話してもらうことが大事。個々のおじいやおばあが何を語れるのか、把握しておく必要がある。また、何ができるのかを聞く方がつかむ。おじい・おばあからいい話しを引き出していく訓練も必要。歴文も「個々のおじい・おばあ」が何を語れるのか、また伝えきれるのか。そのような人材バンクを準備することが急務だと考えている。今年のムラ・シマ講座は、そのことも意識しながら進めていこうと考えている。

 さて、連休前に募集をかけたがどのくらの参加者があるのか楽しみである。高校生に声かけしてないが口こみでどうだろうか。

 古宇利島はいつも気なる。こっちのメンバーが島に渡っての講座は何回か開いてきた。古宇利島も何回か島の子供達のためのムラ・シマ講座を開けたらと思う。もちろん、総合的な学習では関わってきたのであるが。何回か出前「ムラ・シマ講座」を開かんと如何のかと考えたりしている。必要とあらば、開きましょう。


2002.4.25(木)

 時々、歴史の話をするときに旧暦のサイクルを持ち出すことがある。旧暦のサイクルを話す時の生活している環境は「水田のある風景」である。ここ今帰仁村で水田が姿を消したのは昭和40年代の前半のこと。穀物の栽培は旧暦のサイクルで行われいる。米作は一期作から二期作ができるようになって、そのサイクルも大きく変化したであろうが、二期作が始まったのは昭和の初期である。少なくとも、古琉球から近世、そして明治、昭和の初期と一期作が行われていた。すると、一期作の米作りが行われていた歳月の長さがわかろう。

 時々、棚田や千枚田などをテレビ画面や写真などでみることがある。すると涙することが度々である。それは単なる郷愁ではない。一代や二代ではない長年稲作をしてきた身に染みついた旧暦のサイクルの琴線に触れたからだと考えている。もちろん、人によっては郷愁かもしれない。
         

今帰仁村今泊の稲作が行われている風景(昭和27年頃)


2002.4.21

 
本部町渡久地へ行く途中、あちこちの墓地でシーミー(清明祭)が行われていた。入道雲があり、青い空と海。いよいよ夏到来か。伊野波と備瀬の集落まで足を延ばしてきた。(写真撮影) 午後から学芸員実習の学生が来館(沖国大2名)。学芸員実習のスケジュールとテーマ設定。今回は墓を中心とした調査と企画展の予定。8月末から9月上旬。古宇利の原稿いただく(『なきじん研究』コラム掲載分)。まだまだ多忙続くなり。


2002.4.20(土)

 
本部町具志堅の神アサギ(神ハサーギと呼ぶ)を訪ねたことがある。気にかかっている神アサギの一つなので、少しまとめておくことにしよう。山原で茅葺き屋根の神アサギは三軒(今帰仁村字崎山、国頭村字安田、本部町字具志堅)あるが、その一軒が具志堅の神ハサーギである。具志堅の神ハサーギが気になっているのは、合併村(ムラ)でありながら、表面上一つの神アサギしかないことである。これまで、「行政的に村が合併しても祭祀は一体化しない」原則があると唱えてきたからである。現在の具志堅は具志堅村・真部村・上間村の合併である。三ケ村の合併は明治初期の段階になされている。『琉球国由来記』(1713年)に具志堅村は登場しているが真部と上間の両村は出てこない。その後の創設だと思われる。大正時代、島袋源七氏によって調査されまとめられた「本部村具志堅のシヌグ」がある。それは『山原の土俗』に収録されている。三つの神アサギの合併は昭和12年だから、神アサギが一つにされる前のシニグの状況を記録しており貴重な報告である。(『山原の土俗』より概略を示す)
 旧暦七月二十日後の吉日に行う。

  大ウサイ(ウフウサイ)(1日目)
   具志堅・真部・上間の三神ハサギのシヌグガミーが具志堅神ハサギ
   に集る。15歳以上の男子を報告、15歳以上の男子は粟五合づつ、
   十五歳以下は一合づつ各ハサギに納める(祭祀の費用にあてる)。
  ウーニクヂ(舟漕ぎ)(2日目)
   今帰仁村今泊の今帰仁阿応理屋恵や今帰仁ノロと共に今帰仁城
   跡に行き、テンチヂアマチヂで祭祀を行い具志堅神アサーギに帰っ
   て、今帰仁城での祈願の報告をする。
  大ユミ(ウフユミ)(3日目)
   神人総出で御嶽に上がる。神人は一段上の拝殿で祈願をしオモロ
   を謡う(このオモロすでに伝わらず)。ノロなどの神人の祈願が終わ
   ると一段下に向っていた男神人は、女神人を向えて一緒に祈願を
   する。ノロと島の大屋子、根神だけの組をつくり各自弓矢を携え二
   組になって道を異にして村の西海岸に行列をなしていき、そこで祈
   願をする。
  男のユバイ(大ユミから3日目)
   島の大屋子が柴山に登って柴と野葡萄とを取って、背から頭まで
   の高さにして具志堅神ハサーギに帰り、そこでご馳走をうける。男
   の神人を三つの組に分けて、鼓を打ちながら各戸をまわる。字の
   西方の流庭に行って合流する。そこで鼓を打つとノロや根神など
   女の神人たちが迎えにくる。連れ立って大川に行って体を清める。
   そこでの祈願が済むと各自の神ハサーギに戻り、粟の神酒をいた
   だく。
  女のユバイ(男のユバイの翌日)
   その日も神ハサーギに集って神酒をいただき、ノロ以下の神人は
   具志堅神ハサーギで踊りやウタの練習をする。
  当日
   その日は午後4時頃から各神ハサーギの庭でシヌグを踊る。その
   後男衆は各自の組旗を持って神ハサーギに行列していく。具志堅
   神ハサーギから上間神ハサーギに行列し、次に上間・真部神ハサ
   ーギからそれぞれ旗を持って具志堅神ハサーギに集り、女性達は
   合同してシヌグを踊る。(具志堅は「神徳霊妙」、真部は「神洋之
   遊」、上間は「三神和楽」の句)
  タモトノーヒ(お別れの日)(祭の最終日)
   各自の神ハサーギに行って重箱を開いて遊び、男性達は一定の
   場所に集って神饌をくみながら祝う。

     
 
具志堅・真部・上間の         具志堅のシヌグのウシデーク(1969年)
   三つの神ハサーギが一つになる
 

 ここで具志堅の神ハサーギを扱ったのは、「安田のシニグ」「古宇利島の海神祭(ウンジャミ)」「比地の海神祭」などとの比較j研究が念頭にあるからである。テーマを明確にしておきたいのは「国(くに)神人の祈り(五穀豊穣・ムラの繁栄・航海安全)租税制度」(国の統治)の仕組みを祭祀を通して見て行こうとするものである。具志堅のシヌグから、その姿の一端が見えてくる。それと監守制度と関わる阿応理屋恵(オーレー)按司の祭祀に関わっていた姿も。


2002.4.19(金)
 

午前中は今帰仁小学校へスライド写真を拝見に。残念ながら新聞社に貸し出してあり、戻り次第歴文に届けて下さるとの安田校長先生のお言葉。

 謝名公民館と崎山の公民館へ。両字誌が完売していたので支払いと受け入れ(謝名10冊、崎山15冊)。27日の墓調査の下見。謝名公民館からテントとテーブルの借用と区長さんも立ち会うよう依頼。のこぎりや草刈りなど手順の確認。(雨が落ちなければ時間内で調査は終われそう)

 崎山は喜屋武女性区長となる。歴文の運営委員でもあるので字誌を預かりに。お茶をご馳走になる。墓調査の古い写真があるとのこと。近々見せてもらう約束をするなり。1030分頃から原稿校正に入や否や東京からの来客。九州国立博物館(仮称)設立準備室の橋本・藤田・楠井の三研究員が来館。歴文の館内の案内。九博へのいくつかの希望・お願いをしておいた(何をお願いしたかは忘却の彼方へ)。二時頃まで原稿校正。引渡し。クタクタでバタンキュウ仮眠するなり。ああ~、いい夢を見たようだ。hahaha.....
 24日に渡す原稿、急ピッチでまとめねば。40頁ほどですかね。


2002.4.18(木)

 I氏が1枚の位牌を持参して来られた(写真)。一枚板の位牌は二つに割れている。文字は消えかかっている。黒の下地に赤茶の漆文字が書かれている。黒の下地は剥げ落ちている。文字を読むためにシンナーで拭いたという。文字の判読できないので読んで欲しいとのこと。判読してみた。部分は未判読部分。嘉慶は中国年号。
 嘉慶元年(1756年)九月に死去した松本親雲上と嘉慶四年(1799年)十二月に死去した松本子。この二人は男性。
 嘉慶十(1805)年四月に死去した女子(名前未判読)、同十六(1811)年七月に死去した□□松本は女性。
   
      
嘉慶元年辰九月死去      松本親雲上
     嘉慶四年未十二月六日死去  松本子
    帰信 各霊位
       同十年丑四月五日死去  女子□□
     同十六年(辛未)七月四日死去 □□松本
 
   
    
       
I氏所蔵の位牌の一部
 
 以前に墓をあけたことがあり、その時の記録が残っているようである。それを合わせみると、部分の判読の可能性がある。探し出して持参するとのこと。二百年前の先祖の死亡年月日や名前がわかったことで、「胸につかえたものが取れたようだ」と笑顔で帰られた。

 この位牌とは別件であるが4月27日(土・午前中)に謝名で墓調査を行う。実りある調査結果が得られたらと願っているが.......どうだろうか。


2002.4.17(水)

 酒田第二中の今泊の集落散策。5グループに分かれての散策。基本的に三コースである。同じコースでも案内される方々がムラ・シマの個性(特徴)につながってくる。それは風土が人をつくるということでもある。まずは、地元の説明される方々の視点で見ていただきたい。この地に生まれ育った方々にとって、当たり前のことであっても他の地域からやってきた方々にとって新鮮、あるいは発見であったりする場合が多い。他の地域からやってきた人達の感動や発見は、私達にとってこの地域を見ていく新たな視点となる。
 さて、今泊の散策は集落内の数ヶ所のポイントをつなぐ三つのコースを設定してみた(案内::玉城清さん・玉城松次さん・国吉春子さん・大城タマさん・仲尾次清治さんなど)(教育委員会職員の皆さん)
  今泊公民館(馬場跡・コバテイシの木・神ハサギ)井戸(マー
    シチャガー)(ワラビ細工)石垣のある家(福木)井戸(クビリガ
    ー)鍛冶屋跡(フイゴ)川口集落内(建物・福木・道など)
    白浜
  今泊公民館(馬場跡・コバテイシの木)石垣のある家(赤瓦屋
    根の家)獅子小屋神アサギワラビ細工集落(福木・民家)
    海岸(古い墓・川口)集落(福木・畑・民家など)白浜
  今泊公民館(馬場跡・コバテイシの木)民家(赤瓦屋根・石垣)
    シーサー獅子小屋石敢当ワラビ細工ノロドゥンチ(今
    帰仁ノロ)集落(福木並木)白浜
その後、歴文で今泊の集落散策を振りかえる。(時間がなく映画はカット)。最後は今帰仁グスクへ。
 はじめて訪れた沖縄、そして今帰仁村が酒田の中学生達の目にどう写ったのだろうか。残念なこともあった。もちろん北国から亜熱帯という熱い地方にやってきたこともあろうが、疲れた表情と活気の無さは反省すべきだろう。しかし何名かの生徒達の質問に助けられた。もう一つ、ハンディをもった女生徒がいた。いつも皆の前の方に自然と身の置き場をもっていく。いつもどうでしょう。一生懸命さ、それは嬉しかったね。学習の中で、健常者である他の生徒達の気配りを見ていた。ボランティアや福祉だ目標に掲げるのであるが、身近な学習の中で自然と手を差し出す場になったのではなかったか。普段の生活の中で気づかなかった分、他の地域に出かけたとき、皆でボランティアや環境や福祉について、身近な仲間の一人を通して考える学習の場になってくれたらいいな。

 手をさし出そうかどうか、迷っている生徒の姿があった。自分のことで精一杯の状況であるが、そういった姿勢があれば、疲れた表情はできなかったはず。環境や風土の異なる地域に立ったとき、整えられたレールを歩かされるのではなく、自分たちで未踏の道を踏みしめ、そこに何があり何が発見できるのだろうか、という気構えが必要であろう。もっとも勝手の違う場に置かれたので戸惑いがあったのでしょうね。中には扱えきれないほどの質問を投げかけてくれた生徒もいた。東北から来た生徒にとって、今帰仁村ではハードな学習だったかもしれない。グループによっては、おばあのいる風景に出会えた。またトラの尾の出荷の準備をしているおじさんとの出合いもあった。もっと、ゆとりのある時間の流れで散策ができると実に楽しいのだが。明日からは、きっと楽しい旅ができるでしょう。今帰仁グスクの三・五・七の石段を下るときに、一言言葉を交わし元気だったメンバー。


酒田第二中のタマちゃん、           今泊の白浜で
 スズちゃん、サトちゃん達


2002.4.16(火)

 山形県酒田市立第2中学校が今夕今帰仁村入り。100名余の中学生達。梯梧荘の庭で賑やかにバーべキュウをしていた。明日は今帰仁村の今泊集落の散策。その後、歴史文化センターの第二展示室の縦3m×14mの大型マップで、散策した場所の確認。さらに26年前の風景や人や村の様子や祭祀などを16mm映画で見てもらう予定。さらに世界遺産に登録された今帰仁グスクまで。もちろん、今泊の「白い浜」や福木の里をゆく。東北の中学生達にとって、沖縄の青い海と白い砂浜がどう写るのか。強烈な印象を受けるようだ。山形県の中学生が沖縄にどんな声を聞かしてくれるか楽しみじゃ。

 案内役はムラ・シマの方々が主役。私達はサポートする立場。集落を散策して、ムラ・シマのどんなおじいやおばあに出合えるか。心がけしだいで、きっといい出合いがあるかもしれない。おじいやおばあ達がいる風景は、贅沢な時間の流れを体感できる場面である。気付いてくれるかな? ゆったりとした時間の流れの豊かさと有りがたさを。

 明日の散策で、写真のような祭祀や獅子舞は見ることはできないが、26年前の映画でみせる計画。天気に恵まれますように。


  ハサギンクァーでの祭祀        馬場跡(マーウィ)での棒と獅子舞

4月中は多忙で、他のページの更新ができません。悪しからず)


2002.4.13(土)
 

 原稿校正、そしてコラム書きと繁多中。コラム書きはなかなか面白い。短い文章なので、一息で済ますことができる。ちょっと辛抱すればだが。先日、運天の字誌にいくと、この「絵葉書」を持参された大先輩がおられた。もちろん、歴文にもあるのだが、せっかく持参してくれたので拝借した。もちろん、運天の字誌に使う写真でもある。

 コラムの一つで、運天のコバテイシを扱ったので紹介するとしよう。この写真は観光絵葉書である。昭和30年代の運天港の様子がよくわかる。コバテイシは、絵葉書から40年近い歳月が経ち、周辺は様変わりしている。40年近い歳月でコバテイシは大分大きくなったなとの印象を受ける。右側の写真を見ると桟橋が海中に伸びて、昭和バスは桟橋の上で待機している。また、画面から外れているが、海岸沿いに休憩所が作られている。ピックニックがてらやってきて、そこでジュースやコーラでも飲んだであろう。


              「運天名所」(観光絵葉書、8枚の内2枚)


2002.4.11(木)
 集中しなければならない仕事中なり。今日の書き込みはナシなり(悪しからず)。


2002.4.10(水)

 今日は運天の字誌がある。「教育」がテーマで、その資料づくりをしている。沖縄(琉球)が一県になったのは明治12年である。廃藩置県によって沖縄県となる。沖縄県になると同時に日本国の制度を沖縄県に適用することになる。しかし、一年や二年で日本国の制度や法律を適用することができなかった。そのため旧慣温存期という王府時代の制度を徐々に日本国の制度に切り替えていく時期がある。日本政府がいちはやく導入した一つに学校教育があった。今帰仁間切に公立の学校ができたのは明治15年。明治14年上杉県令が今帰仁間切を訪れて際、学校についての問答がある。翌明治15年今帰仁間切中央部の謝名村に「今帰仁小学校」が創設された。その後、明治21年に天底尋常小学校が今帰仁小学校から分離独立して創設された。「運天の字誌」では天底小学校の出来事を手がかりに運天との関わりについてまとめていく作業となろう。

  ・旧藩時代以前の教育
  ・今帰仁小学校(明治15~同20年)
  ・天底尋常小学校時代(明治21~同31年)
  ・天底尋常高等小学校(明治32~昭和15年)
  ・天底国民学校(昭和16年~同20年)
  ・天底初等学校(昭和21年~同27年)
  ・天底小学校(同27年~現在)

 上記は学校の名称の変遷である。それぞれの時期にどんな学校教育を受け、どんなことがあったのか。そして、当時の教育が今の自分達にどう影響し、活かされているのか。さらに今、学校教育が大きく変わろうとしている。どのような方向に進もうとしているのか。今行われている教育が、30年あるいは50年先の自分達の生き方とどうつながっていくのか。将来の進路の指針となるようなことが読み取れたら幸いである。 

         
                
上空からみた上運天・運天


2002.4.7

 午前中くもり、午後から雨。今日の撮影は歴文の展示室。そして運天港の波打ち際。大北墓、コバテイシ、番所跡。それから運天森の源為朝上陸之跡碑、運天の公民館前の松並木。今帰仁城下の今帰仁ノロ(代理)と簪、勾玉の撮影。乙羽岳とクボウの御嶽は雨のためキャンセルでした。

 撮影中は、そこから離れて自己中の調査と写真撮影をするなり。運天の港付近のいくつかの墓を念入りに観察してみた。いや、いや。これまで気付かなかった墓づくりに出会った。それがなかなか面白い。ここで紹介するのは控えておく。もったいぶるつもりはないが、研究レポートできちっと報告することにしたい(悪しからず)。

 今帰仁ノロの簪(カンザシ)と勾玉は、これまで何度も立ち会っているが、やはり圧巻である。乙羽岳とクボウヌ御嶽はキャンセルとなった。二ヶ所は改めて撮影になるか、あるいは撮影した分で編集するのか。兎に角、いい番組になればいいですね。


2002.4.6(土)
 

天気良好。朝の9時半から撮影二日目がスタート。タイトルは「歴史探索・悠久の地・今帰仁」(『ウチナー紀聞』放送日は4月28日午前11時)である。午前中は歴文の展示物の撮影、そして全体の解説インタビューを受ける。午後から今泊の方々が7、8名。戦前・戦後のゆんたく風インタビューとなる。戦争の話・稲作・サトウキビ・今の生活・昔の生活などなど。どんな形で「悠久の地・今帰仁」にまとめるのか楽しみ。津屋口墓(アカン墓)の撮影。三世和賢が葬られている墓。神アサギ(今帰仁ムラのハサギンクヮー)、志慶真乙樽の墓、今帰仁村跡(ハタイ原)・鳥居などの撮影。

 明日(7日)は午前中運天港と松並木、その後に乙羽岳と今帰仁ノロ家・クボウヌ御嶽の撮影と続く予定。まあ、まあ順調に進んでいるようだ。出演されたシマの先輩方は大喜び。すっかりすがって(着飾って)いつもより垢抜けた感じ(怒られそう!)。重箱のすみをつつくようなものでなく、ダイナミックに「また、行ってみたい悠久の地・今帰仁」に編集してくれよ。お願いじゃ。

               
中南部の神アシアゲ

 山原地方にある105ヶ所に神アシアゲ(アサギやハサギ、村数121)があるが、中南部には12ヶ所(村数301)と非常に少ない。神アシアゲは少ないが、対象的に殿とよばれる祭祀施設が数多くある。それは何を意味しているのだろうか。二つの仮説を考えている。これまで、山原の神アサギはほぼ踏査した。「本部の神アサギ」(別ページ工事中)は近々立ち上げる予定。ここでは「中南部の神アシアゲ」を『琉球国由来記』(1713年)から拾ってみると、以下の8間切で11ヶ所(村数301)である。
  兼城間切波平村 神アシアゲ
  高嶺間切真栄里村 神アシアゲノ殿
  真壁間切新垣村 神アシアゲ
  真壁間切名嘉真村 神アシアゲ
  真壁間切真栄平村 神アシアゲ
              (真栄平アシアゲ)
  喜屋武間切上里村 神アシアゲ
  南風原間切照屋村 (神アシアゲ之殿)
  知念間切安坐真村 神アシアゲ
  玉城間切奥武村 神アシアゲ
  西原間切翁長村 翁長神アシアゲ
  越来間切大工廻村 大工廻神アシアゲ
 山原では、105の神アシアゲであるのに対して、中南部では殿(神アシアゲは11ヶ所)がほとんどである。18世紀初期の山原の村数、そして中南部の村数と殿の数を比べて見るだけでも歴然とする(正確な数字は後で数えてみることにする)。もちろん、神アシアゲと殿は異なる祭祀施設であることを前提としている。その数字の意味することを紐解いてみると、興味深い二つの仮説を立てることができる(詳細については、「山原の神アサギ」のまとめで報告する)。(未完)


2002.4.5(金)

 1日目の撮影無事に終わったようだ。午後から今帰仁グスクまで足を運ぶ。今日の撮影は学芸係の石野さんが出演。今日、私たちが関わったのは今帰仁グスクの本丸(主郭)と志慶真郭、そして志慶真川。明日は歴文の中での撮影の予定。

 志慶真郭まで下りてみた。本丸から志慶真郭を見下ろすと万里長城のミニチュアと言った印象。その城壁の石積みの技術が中国、朝鮮、日本の影響を受けたのか、あるいは独自の石積みの技法を持って積んだのか、不明である。志慶真郭から本丸の方を見上げると城壁は崩壊したままである。今年度から大規模の修復にかかる。本丸の東側部分の城壁が整備されると、今帰仁グスクの威容さを目の前にできるであろう。
 志慶真川まで下りてみた。この頃、雨が少ないので水量が少なかった。今帰仁グスクから崖を下りる形で水揚げ場が志慶真川沿いまで伸びている。そこまで行く時間がなく、今でも水揚げ場が残っているだろうか。20年前に見たままで、再度確認してみたいものだ。志慶真川のもう少し上流部に志慶真乙樽が髪を洗ったと伝わる窪み石がある。志慶真乙樽の神役をだすチッパヤー(諸志の島袋家)は拝みに行ったという。10年前、一度同行したことがある。土砂に埋まっていなければ、窪み石は今でもあるはずだ。

 撮影とは別に、志慶真川への道筋の植物をみながら、それと志慶真村(上原)の人たちが水くみや洗濯に通った話を思い出しながら歩いていた。


今帰仁グスクの崖下を流れる志慶真川

 さあ、これから「なきじん研究」の原稿校正と写真の確認作業だ。昼間のツケが回り徹夜状態かな!!! 明日、寝ぼけ顔と青白い顔色でインタビューを受けるのはイヤじゃな。頭の中までボケていなければいいがな........。では


2002.4.3(水)
 

5日~7日まで撮影に入るテレビ出演者の依頼で今泊公民館まで。区長さんとノロさんが快く引き受けて下さったので一安心。今帰仁ノロの簪と勾玉の撮影も可能となりました。区長さんは、ムラのどんな方々にお願いされたか楽しみです。歴文の展示物と今帰仁グスク、そして運天の解説や案内をするのは誰か、今のところ丸秘にしてあります(ファンが殺到すると撮影になりませんので!!hahaha... 放送日は4月28日(日)の午前中のようです。後は製作者まかせ。私の役目は、これで終わりじゃ。
 
 
ありがとうございます。トップページの説明で「基盤状」「碁盤状」が正解なりです。訂正しておきました。歴文のPCではトップページのその部分は、いつも隠れていますので気付きませんで。管理人様には長い長い間、気にさせご心労かけたようで申し訳なく思っています。今日から、気にせずごゆるりとご覧いただけるかと思います。読者のお一人の顔がわかり、ありがたく感謝申し上げます。そういった部分は多々ありますので、気になされずご覧いただいた方が精神衛生上よいかと思います。

     「山北今帰仁城監守来歴碑記」(県指定の文化財)

 
昨年12月「山北今帰仁城監守来歴碑記」が県指定の文化財となった。今帰仁城跡の主郭(本丸)の火神の祠の前に立っている石碑。現在立っているのはレプリカで、原物は歴史文化センターのエントランスホールに展示してある。碑はニービヌフニ(微粒砂岩)で高さ約117㎝、幅約41㎝、厚さ9㎝である。石碑は乾隆14年(1749)に建立され、建てたのは今帰仁王子(十世宣謨)ある。火神の祠の前に燈篭があり、その一基に石碑の建立者である「今帰仁王子」の名が刻まれている。
 
碑文の内容の概略を記すと以下の通りである。
  「琉球は四分五裂し、ついに三山が鼎立する情勢となる。佐敷按司
  の巴志が兵を起こし統一する。北山は中山から遠く離れ教化し難く、
  また地形が険阻である。そのため変乱を起こす恐れがあり、次子の
  尚忠を派遣して監守させ、永くその制度を置いた。尚徳王に至って
  国政が乱れ禍を招き転覆する。尚円が王に推挙されると、しばらく大
  臣を輪番で派遣して監守させる。弘治年間に尚真王は第三子の尚
  韶威を派遣して監守となる。彼が吾(十世宣謨・今帰仁王子)の元
  祖である。代々今帰仁城を鎮め典法を守ってきた。康煕4年(1665
  七世従憲の時、住宅を首里に移し今帰仁城の旧跡や典礼などを掌っ
  た。乾隆7年(1742)に城地を郡民に授け、典礼を行わせようとした。
  ところが、宣謨は往時のことを禀明し、元祖以来山北を鎮守し統治す
  る者は吾が子々孫々しかない。宣謨はそのような来歴を記し、石に
  刻み永く伝える」

 この碑文から、沖縄の歴史の流れや監守設置の理由や監守引き揚げ、また今帰仁グスクの管理の移管や祭祀の状況を知ることができる。今帰仁グスクの歴史の一端を知ることができる貴重な史料である。当時の歴史観を伺うことができる。十世宣謨の当時の判断が今帰仁グスクの管理や所有権が今に影響を及ぼしている。


  移築前の来歴碑記(1987年)       移築された火神の祠と来歴碑記


2002.4.2(火) 

 4月がスタート。教職員の人事異動の辞令交付式が教育委員会でありました。38名の先生方の異動。山城教育長から一人ひとりに辞令が交付されました。辞令交付式は、いつも静粛に行われます。約1時間で辞令交付式と教育委員会の職員紹介がなされました。

 歴文の役目は、今帰仁村にはじめて赴任される先生方が多いので、辞令交付式の後村内の学校関係の施設と歴史文化と関わる運天港や今帰仁グスク、歴史文化センターの案内ということになります。

 教育委員会から二台のバスに分乗して運天港へ。車内の案内役は、1号車館長、2号車が学芸係の石野さんが勤めました。運天森に立ったとき、もちろん運天港の役割もありますが、江戸時代の鎖国との関わり、そして長崎の出島とオランダ墓、さらに昨日紹介した源為朝公上陸跡の碑について解説。さらに薩摩軍の琉球侵攻は旧暦の3月27日。ちょうど今頃。そして今帰仁グスクで勤めた監守一族の大北墓。沖縄の県民性をつくりあげた港であること。運天港は小さな小さな港であるが、「沖縄の歴史」を紐解くに欠かせない港であることに気づいていただきたい。そして小中学校の総合的学習で、もっともっと深めていただきたいというのが歴文からのお願い。

 運天からスクミチ(宿道)の一部を通り仲原馬場、崎山の神アサギへ。神アサギは山原のムラ・シマをみていく大事なキーワードの一つ。歴文が掲げている「北山文化圏」を根拠づける施設でもあります。崎山の神ハサギの前で祭祀を含めた古層のムラの話。そこにはハサギナーや舞台を設置するコンクリートの四角のコーナーがあります。神ハサギの中にあるタモト木や香炉、低い石柱など、ノロを中心とした神人の役割、それだけでなく祭祀と租税、ムラの繁盛などについて解説。神アサギは、ムラを見ていくに欠かせない施設であること.......。諸志の植物群落の中をとおり、亜熱帯地方の琉球石灰上に乗った極相状態を見ていただきました。

 時間の都合で歴文の第一展示室のみの説明。ここは今帰仁グスクや沖縄の歴史の読み方や見方について。そして総合的学習の場であること。先生方が一番利用する場でもある。どなたが上手に歴文の職員を使いきれるのでしょうか。大学での教え子、そして歴文で勤めたことのあるピヨピヨの先生が一人。歴文の使い方を知っているので、きっと上手に活用してくれるでしょう。使い上手になっていただきたい。

 やはり、今帰仁に赴任して足を運んで欲しいのは今帰仁グスク。世界遺産ということでよく知られてはいるが、なかなかグスクに上る機会がないようです。いい機会でしょう。世界に名をとどろかす世界遺産ですからね。理屈貫きで、知っていただきたいし、発見や感動する感性を磨いて欲しいものです。今帰仁グスクの、今年のサクランボは上出来ですね。見事に実ってる桜の木が何本かあります。

 最後に中学校が統合されますので、その建設現場まで。......ということで、多忙な1日でした。参加された先生方ご苦労様でした。めったに履かない、今日のためのハイヒール大丈夫だったでしょうか。因みに館長も今日は、昨日買った1950円の新品のスニーカーで参加。マメができそうじゃ。(教育委員会のみなさんご苦労さまでした。