2007年12月の記録

                                   地域調査研究(もくじ)




2007年12月30日(日)

 さて、今年最後の更新となります。1月から振り返る時間があるかどうか。1年間で踏査した島々や行ったヶ所のみ掲げてみることにします。恐ろしい気もしますが。訪ねた場所で多くの方々のお世話になっています。感謝。またこのHPへの問い合わせも数多くありました。問い合わせの全てには、お答えしておりません。質問をいただくだけでも有り難いと思っております。新年もよろしくお願いします。

 今年1月からの訪ねた場所を整理しかけたのですが、それは大変。行った場所を思い出すだけでも論文がいくつも書けそうである。それは足腰が動かなくなってからでいい。この一年間、テーマをもって各地を動けたのがいい。それと聞き役に回ってくれた方々に感謝。「歴史文化センターの動き」に掲げなかった講演や研究報告やシンポジウムなども数多くあり。歴史文化センターと共に動いてきた20年間の軌跡を整理すべき時期にきていることを実感。新しいテーマを担いで、まだまだ各地を動き回れるそう。新年はどこからスタートしようかと思案中。元気だということなり。「まとめ」はまだ先になりそう。

   (一年間ありがとうございました! 良い年をお迎えください。この頁は
    新年3日からスタートします)

 日々の「歴史文化センター動き」として更新しています。テーマによっては『なきじん研究』にまとめ、発刊しています。またメモ書きとしてオープンしていますが、論文等にご利用される場合は一言連絡いただければ幸いです。


【奄美大島 4】

 大熊から名瀬のマチで奄美市博物館の標識を目にしながら、ここで一時間費やすわけにいかず左折し小宿(コシュク)へ一目散。これまで『南島雑話』(名越左源太)をいくつかの発刊本で目にしてきた。沖縄の近世の歴史もそうであるが、奄美の歴史を扱う場合どうしても『南島雑話』に記された当時の生業や人々の生活を脳裏に入れて置く必要があるからである。名越左源太が記した記載の中に数多くの琉球的なものがある。それらのものは、1609年以降変貌しつつあるが、古琉球の時代に溯るものではないかと常々考えている。琉球と分断された与論以北の島々に残る琉球的なものが、薩摩の政策や文物が被さって300年、あるいは400年という歳月がたっても、何故今もって流れ続けているのか。その疑問を解く鍵を握っている資料だと考えている。

 そのような『南島雑話』の記録を遺した名越左源太が1850(嘉永5)年から1855年まで蟄居した名瀬間切小宿村、どういうところなのか。今はどうなっているのか。そのことがあって、まずは小宿である。それから展開するのが、名越左源太と関わる薩摩の人物達である。幕末の運天港、島津斉彬のフランス国との貿易構想など、大きくうねる歴史を奄美・琉球(運天港)と関わらしめながら見ていこうとするものであるが・・・。

 小宿の後から、拝所(神社やおがみ山)や公民館、そして土俵、それとグスクと集落との関わりを見ながら西(南)下する。(奄美大島→)(ほんとは、瀬戸内町加計呂麻島に飛びたいのですが・・・)


      ▲奄美市名瀬小宿のマチ          ▲左源太の蟄居跡は小宿大川の左岸

 
  ▲名越左源太の蟄居跡の説明板           ▲蟄居跡(現在)(右手後方に川が流れる)

    名越左源太
      流刑中の居住の跡

    嘉慶二年、島津斉興の正妻の子斉彬、妾腹の子久光とのあいだで相続争いの事件で
   二派にわかれて争われた。お由良(妾)騒動で、高崎五良左エ門ら十四名切腹を命ぜられ
   たため、高崎崩れという。退役謹慎十四名、遠島九名中の一人名越左源太が大島名瀬方
   小宿藤由気宅に嘉永三年五月八日から安政二年四月二日まで約五ケ年間居住して、小宿
   の子弟に読書や学問を教え、その感化を授けた地である。


 小宿から根瀬部(ここまでが名瀬間切)、屋喜内(焼内)間切の→知名瀬→根瀬部→国直→湯湾釜、その後屋喜内(焼内)間切の津名久→思勝→大和浜→大棚→大兼久→戸円→名音→今里の村までゆく。宇検(屋喜内間切:現在瀬戸内町)で日が暮れる

 (現在の瀬戸内町の村々は積み残しである。宇検から古仁屋までの海岸線は複雑である。奄美大島側と加計呂麻島の間の大島海峡を挟んで地域に文化圏を形成しているのではないか。沖縄の先島の石垣島を中心に波照間島を含む島々が作り出している文化圏?というか生活圏が似ているような!)



2007年12月28日(木)

 御用納ですが30日も出勤日なので、そこで今年の締めをすることに。

【奄美大島 3】
 奄美大島の七間切時代の資料を目にしているので、村を見ていく場合は間切に戻していかないと混乱を起こす。以下の七間切である。加計呂麻島そのものが東間切と西間切とに分かれる。加計呂麻島の調査をしていると、「東側は」とか「西側は」という言葉を耳にする。それは東間切と西間切に分かれていたことが起因しているのだろうか(何か違いでもあるのか。それが何か興味深い)。

  ①笠利間切
  ②名瀬間切
  ③古見間切
  ④住用間切
  ⑤屋喜内(焼内)間切
  ⑥東間切
  ⑦西間切

 奄美大島については、混乱しないうちに行った順に整理することに。浦上はもう少し周辺を歩き回りたかったが、後髪を引かれる思いで次へ。浦上の隣が大熊(ダイクマ)である。そこは古琉球の時代、大熊ノロと男方の辞令書(二枚)が首里王府から発給され残っていた村である(但し、男方の二枚の辞令書は同家のものではなく後世に収集したらしいというが、ノロ家に男方の辞令書があるのは必ずしも不思議ではないので確認の必要あり)

 『南島雑話』に名越左源太が押し写した辞令書がある。毎年旧暦正月2日に辞令書(印判)の儀式があり、関係者が集まり辞令書が公開されるという。そのような大熊を外すわけにはいかない。(奄美大島→)

 大熊はマチになっているので、それと通りすがりなのでもとの集落の中心部をつかむことができない。それですぐ大熊漁港へ。大熊港は砂糖の積み出し港であったようで、それと大島代官が島を出たり入ったりした湊で、また鹿児島の山川港と大熊港を結ぶ航路があったようだ。集落の奥にいくと龍王神社がある。


       ▲大熊漁港(奄美大島)               ▲大熊のマチ(奄美)


    ▲大熊の龍王神社(奄美)           ▲大熊展望台付近からみた名瀬のマチ

2007年12月27日(水)

 積み残していった原稿に追われている。30頁余の原稿なのだが手こずっている。2004年11月に口頭での研究報告を原稿にしてくれたものの校正である。当時のままでは、どうしても公にすることができない。そのテーマは三年間で相当の積み重ねがあることを実感。それだけ成長したということか。この歳で、成長しているとは。退化の一途だと思っていたが。もう少し時間が欲しいところ。

【奄美大島 2】

 奄美の旅行カバンから奄美のノートを出したところ。那覇空港から奄美空港は一日一便しかない。11時55分発20名余のプロペラ機である。小さな飛行機だなと思いつつの搭乗。飛ぶと意外と安心感がある。プロペラが止まっても静かに海上を滑走して止まるのではないかとバカなことを考えている。約一時間の飛行である。天気はまあまあ。調査に影響するような天気ではなさそう。二人掛け座席のいくつかは空いているので満席ではないわけだ。

 奄美空港に着くと、空港内のレストランで早速鶏飯を注文。以前の徳之島で鶏飯を食べた時、失敗したことを思い出し、「どう食べるのですか」と聞く。「お茶漬けと一緒ですよ。二、三回に分けた方がおいしいですよ」と親切に教えてもらう。学習しているのだ。ハハハ 食べながら奄美大島のこれからの予定が頭を駆け巡っている。鶏飯が美味しかったのか。味はどうだったのか記憶にない。まあ、残さなかったので美味しかったに違いない。空港前で車を借りると、まずは車に慣れることから。刑事コロンボ風の車に日々乗っているのに比べると新車である。それにナビというわけのわからないテレビがついている。最後まで使い方にとまどい、せっかく身につけた調査ナビを使わないと。それでも新兵器のナビに指がいく。ドライブに来たのか、調査に来たのか! ダメダ~

 さて、今回の主な目的地は加計呂麻島である。二日目の一日加計呂麻島の村々を訪れる予定。夕方暗くなる6時頃には瀬戸内町の古仁屋に到着したい。古仁屋までの寄り道をどうしようか。それも4時間という限られた時間である。名瀬市笠利町と龍郷町は帰りの日に組み込むことに。名瀬の市街地を抜け小宿からスタートすることを決意。そして反時計回りに古仁屋に向かうことにした。

 ところが、空孔に近い和野集落に立ち寄り、海石の石垣をみつける。節田が湊として機能していたことが頭にあり、早速節田の集落を抜け海岸へ。何かで見た節田まんかいなどが頭をよぎる。小宿からスタートしないと時間がないと思いつつ。名瀬の手前で浦上の標識。最終日に立ち寄ることができないかもしれないと頭をよぎると、今立ち寄るべきなりの道草である。浦上は大熊ノロが管轄する村の一つである。そしてノロに関する祭具が伝えれているようである。集落(マチ)にはいり、有盛神社(名瀬市指定文化財)がある。グスクの気配がする。
      (ハプニング続きの旅である)


    ▲笠利の和野の垣のある屋敷           ▲笠利の節田の海岸


▲名瀬浦上の有盛神社から眺めた浦上のマチ     ▲有盛神社はグスクの跡?

2007年12月22日(土)

 昨日から「山原のムラ・シマ―神アサギ・祭祀を通して―」の原稿校正に追われている。ほぼ目を通して画像を取り込んだが、頭の中は23日からの奄美大島ゆきの下調べにシフトしないといけません。原稿校正は、ここでギブアップ!(大学へは26日に送付します)

【奄美大島 1】

 23日から奄美大島まで調査で出かけるため、奄美の情報を頭にたたきこまないと。「奄美のノロ制度」を一部書き込んでいるが、そのことも一部ある。それと加計呂麻島まで足を運ぶ予定。これまで何度か奄美大島の瀬戸内町の古仁屋まで行っているが加計呂麻島は眺めてきただけ。一度は訪れているが何も覚えていない。

 神アサギが残っている島である。古琉球の辞令書が残っていた須子茂がある。ノロ辞令と扱われているが、役人の辞令だと考えている。もちろんノロ家にあったことは間違いないが、ノロの男方の辞令だとみている。辞令書の中身まで踏み込んだ議論はできないが、辞令書が残っていた須子茂と島の神アサギをいくつか見てみたい。

 加計呂麻島は神アサギ(建物)をのこしている最北の地ではないか。それと各字にノロ祭祀が残っているようだ。名瀬の大熊ノロは複数のムラの祭祀を管轄しているが、加計呂麻島は各字にノロがいたような調査報告である。その通りかもしれないが、気になるところ。そしては1609年以後、何度もノロの撲滅に薩摩は達しを出しているようだが明治まで、消し去ることができなかった。

 また、神アサギを残している風土はノロが関わる祭祀と切り離せないものがあるのであろう。なぜなのか、その風土を膚で感じ取ることができたらと、そんなシナリオを書いている。果たして結末は?!

 場所としてはまったく反対の笠利崎に1850年代に唐船が漂着した記事のようだ。奄美大島に漂着し運天港に引船された唐船ではないようだ(未確認)が、運天港に収容された唐船があった。確認したら1742年12月のことである。100年余りの時間差がある。間接的ではあるが運天港と関わる人物達の足跡もたどれたらと。

 唐船の漂着について『南島雑話』(名越左源太)に絵図があり、「唐船笠利崎ニ漂着の図」とある。笠利崎に灯台があるので、そこまで行けるでしょう。最後に立ち寄るの予定なので果たして時間があるか。乗り遅れたら十分時間はあることになる。

   唐船漂着之節、先年より来朝始諸雑、倭より首尾有之候、地廻りは、何篇本琉球に引付可申御法に
   て候、何之價は当分は直に倭之方に書出、差引は以前之通にて有之、併委細此記に不及也。、



2007年12月20日(木)

 小学5年生6名(兼次グループ)と担任の先生がやってきた。今帰仁村兼次のカーやタンクについての調べ学習である。「地域の伝統文化」が大きなテーマである。今帰仁グスクと結びつけて、即みんなでドラマをつくることに。兼次の集落が発生し、ウイヌハーへ水を汲みに行く場面から。それぞれの家からウイヌハーまで約700m。バケツを担いで水をくむ。正月の早朝は、若水をくみのに村の人たちでラッシュ。若水で元旦の御茶をのむ。みんなの健康祈願。若水を飲むと若返るぞ。たくさん飲んで赤ちゃんまで若がえるか!

 家から水を汲むのは大変なので、ムラの人たちは知恵を働かしてウイヌハーから水道をひくことに。昭和8年のこと。そして集落内に5つのタンクがつくられた。これまでウイヌハーまで水汲みに行っていたのが、家の近くにタンクができので便利便利。

 ウイヌハーからタンク、さらに各家庭に水道が引かれる。その過程をたどっていく。各家庭に水道が引かれたが、今でもタンクから水を汲んでいる人たちがいる。どうも、この水はおいしいようだ。きっと若返る水なのかもしれない。

 最近、国頭村の辺戸の大川から御水を汲んで首里城の王様に届ける祭祀があっただろう。兼次の水もおいしいし、若返るような不思議な水のようだ。ならば、今帰仁グスクの王様に届けることにするか? それが毎年のようにできると、それも伝統になるぞ。今は北山王はいないので歴史文化センターに館長に届けてくれませんか。そんなドラマをつくる。

 さあ、水道のない頃、ウイヌハーまで水汲みをしていた。そんなことをイメージしながら水汲みをすることに・・・・どんな結末をつけてくれるか楽しみ。

 

 水汲みが終わったころ、館内の展示を見学して明るい表情をみせてくれたノーブルメディカルセンターのみなさん。小学生達の水汲みの応援をしてくれました。若いころよく水汲みしたもんだと。

 


2007年12月19日(水)

 桜の花がチラリ、チラリ。気温が下がった日が続くと、花開いてきます。よく見ないとわかりません。桜が花が見えてきますと、春ではなく沖縄の冬がやってきます。まだまだ桜情報を流せるまでにはいっていません。何かと問い合わせが多くなってきました。昨年と比べると開花の時期はどうでしょうか。昨年は1月19日から桜情報を提供しています。今年はどうしようか?思案中!


     ▲今帰仁グスクへの道沿いの桜、まだポツリポツリ

 新聞社の取材あり。運天とテラガマについて。恩納村の名嘉真と安富祖のノロ殿内跡の調査。先日訪れることができず。

 恩納村名嘉真のヌルドゥンチ跡。現在人は住んでなく、側にカーがある。近くに神安富祖の神アサギがある。名嘉真と安富祖のノロは、それぞれ一村の祭祀を司る。

 名嘉真ヌルドゥンチの前は広場になっている。そこと神アサギの広場でウシデークをするという。地頭火神(脇地頭)や地頭屋敷跡がある。


     ▲名嘉真ヌルドゥンチ跡           ▲ヌルドゥンチ近くにある神アサギ

 安富祖のノロドゥンチは最近新築されている。公民館と隣接している。向かいの方にウタキがある。公民館の敷地内に神アサギがある。


   ▲新築されてた安富祖ヌルドゥンチ跡            ▲近くにある神アサギ

2007年12月18日(火)

 今帰仁村の中城ノロの資料をめくっている。以前紹介しているが、いま抱えているテーマと関わる部分についてコメントを。

 昭和9年に中城ノロの引継について「ノロクモイ御解御願、並に立願」の中に記されている。中城ノロクモイ(宮城マツ)jから宮城トミ(現金城トミ)へのノロ職引継(昭和9年)である。昭和9年でも、首里(三殿内統合)まで行きノロの引継をしている。その前文と戦前まで中城ノロ家にあった古琉球の辞令書等については「ノロ制度の終焉」の中城ヌルドゥンチで紹介する。


2007年12月16日(日)

 『渡喜仁誌』の発刊祝賀会に参加する。字創立65周年も兼ねている。これまで村内で発刊された字誌の多くに関わってきた。編集はもちろんのこと執筆なども。字誌との関わりは歴史文化センターの活動の柱の一つである。このHPに記録されていく字の記事も字誌へと組み込まれていく。もちろん、ここで書き記しているのはメモ程度のものであるが、『なきじん研究』にはいり、さらに字誌に向けての原稿へと書き改められていく。抱えている字誌が何本かあるが、その流れの中で進めていく。歴史文化センターとしては、字誌と関わる姿勢は、字から戴いたのは字に還していく。それは一貫した方針としてしている。これから発刊していく字とも関わっていく。

 祝賀会に出て、やはり『渡喜仁誌』が発刊され、みなが喜んでいる姿、シマの方々が、若者達が舞台に立ち、勇壮なそして元気な姿をみると大丈夫だと先輩方のうなずく姿を目にする。『渡喜仁誌』の発刊おめでとうございます。一番苦労されたアドバイザー(株式会社)さん、御苦労さんでした。


     ▲字誌の中扉              ▲字誌のグラビラの一部


   ▲字誌発刊と字創立65周年の祝賀会          ▲小学生から大先輩までが祝福

2007年12月15日(土)

 『南島雑話』(名越左源太)に以下の文章がある。

  慶長18年、始めて法元仁右衛門を大島代官職被仰付、年貢を収、島民を皆土人に準じ、諸事頭取者
  を一等揚て下士に準じ、頭長は大親を以て長とす。其次与人とす。大島に始めて法令を建る事は、元
  和9年癸亥悉く被定、同10年の2月18日法令之帖に、冠簪衣服階品を本琉球に受ける事を禁制す。
  此時より能呂久米年々印紙を本琉球官寮に請ることを止らる故に、寛永19年(1642)迄之免官印を傳
  て今其三四枚を蔵め傳う。大熊村安加那置書付なり。大熊村にて富統より内々にて、野呂久米安加
  那本書押付に為写す間、本書の儘也。文面如此かな書也。始と終に朱印、首里之印と云文あり、首里
  の里の子寮より出ものにて候由、上包の紙の上に里之子寮と有之候。

 さらに三枚の辞令書が写し取られている。その一枚のノロに関する「名瀬間切大熊のろ職補任辞令書」の文面を掲げる。

      しよりの御ミ事
        なせまきりの
        たいくまのろハ
         
もとののろのめい 
       一人まくもに
       あまわり申候
     しよりりまくもか方へまいる
     萬暦十五年十月四日

 奄美におけるノロが関わる祭祀、あるいは辞令書を今に伝えているのは、沖縄におけるノロが関わる祭祀が制度として崩壊しているにも関わらず、今に伝えていることと根は一つではないか。1609年以後の奄美のノロに対する薩摩の対応は、廃藩置県後の国の沖縄のノロ制度の廃止に向けての動きと軌を一つとするものなのか。奄美では完全に廃止することができなかったので、それだけ根深いことなので、沖縄では段階的に廃止に向けて行ったのか。

 1609年の琉球侵攻後の1611年に与論島以北を島津の領地に組み込まれた。制度や琉球的な習俗が消されていった。その中で消すことができなかったのが、ノロが関わる祭祀ではなかったのか。多くの文書が焼かれていく中で辞令書や祭祀と関わる衣装や簪などが遺されている。薩摩の琉球侵攻から400年近い歳月が経つのにである。

 「ノロ制度の終焉」をテーマにして山原のヌンドゥンチ(ノロ家)を訪ねていると、奄美における能呂久米(ノロ)と関わる祭祀や辞令書などが400年近くも衰退はしているものの、辛うじて継承され続けている。そのことは、沖縄のヌルドゥンチ、あるいはノロが関わる祭祀も衰退をしているものの継承されているのをみると、奄美の野呂久米の祭祀の継承と根は一つではないのか。奄美のおいては島津の、沖縄においては廃藩置県後の国はノロ制度を廃止の政策を何度もとってきている。しかし・・・、今次世界大戦でうやむやになってしまった。その結末をどう結んでいくかは、これから資料の整理を通して。奄美のノロについても避けては通れそうになさそうだ。

 「学童疎開」の件でわざわざ大阪から。エライもんじゃ。「このテーマは、あなたのこれからの生き方にとって、どんな意義があるのか」と厳しい質問を投げかけてしまった。それでも、何かやりたい。やってみたいと。本音でやってくる学生はありがたいし、大いに歓迎である。


2007年12月14日(金)

 来客が多い一日、対応に追われる。寄贈資料を箱から開けて確認と整理。山原のヌルドゥンチの整理など。多忙が続いている。「南米移民」「仮面」など、断片的な数少ない知識をかき集めて・・・。


2007年12月13日(木)

 ある出版社の辞典項目の原稿締切。一昨日からそこに集中。今朝送付。画像三、四点も送付する。原稿を出した後は抜けの殻。そして回りは使った資料の山。空っぽ状態のところに、待ってましたとばかりに大学から原稿校正の督促。来週中には送りますと。結構なボリュームあったような。

 『渡喜仁誌』が発刊され届く。それは、一段落。来年は『運天誌』の発刊に追われる一年なり。フ~ ちょっと逃避しないと頭が持ちません。


2007年12月11日(火)

 名護間切(現名護市)・恩納村(間切)・金武間切(金武町・宜野座村)・久志間切(現名護市)のヌルドゥンチ(ノロ家)の13ヶ所を踏査する(恩納村名嘉真ヌルドゥンチは未)。沖縄本島北部のほとんどのヌルドゥンチを踏査をしたことになる。未踏査のヌルドゥンチは隣家が告別式などがあり、遠慮したところである。そこは改めて足を運ぶことに。四間切のヌルドゥンチは「ノロ制度の終焉」で紹介するとして、ここでは金武町の伊芸ノロについてのみの報告。

 『琉球国由来記』(1713年)に金武間切伊芸巫火神(伊芸村)、伊芸ノロは伊芸の神アサギ(アシアゲ)、ノロ火神、屋嘉村の根神火神、屋嘉村の神アサギを管轄している。明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』(田城安定)に「伊芸村 壱人 本ノロクモイ壱人」「ノロクモイ火ノ神所壱ヶ所」とあり、伊芸ノロの存在がある。しかし明治14年の社禄や『沖縄のノロの研究』(宮城昌栄)や『のろ調査資料』(同)には伊芸ノロについて記録されていない(調査漏れ?)

 ここで伊芸ノロについて紹介するのは、新しくノロ殿内と神アサギが新築されているからである(平成19年)。ノロ殿内や神アサギがあったことはムラの方々の記憶にもあったようである。金武町伊芸はヌルドゥンチと神アサギの復活である。


     ▲新築された伊芸のろ殿内           ▲新築された伊芸の神アサギ

  (9日は県立博物館の常設展示をみる)

2007年12月8日(土)

 午前中「ムラ・シマ講座」。今帰仁村の平敷調査となります。フィールドワークは今年度最後。くもり空。平敷のウタキ、その中にある神アサギ、イビ、合祀された拝所、ウタキ(森)の中、あるいは近接して家々があった痕跡。集落の近くのカー(平敷湧泉)、古い時代の遺跡(ナビスクガマ)、そしてあの世の墓、歴史的な池城墓、さらに炬港。今日は平敷というムラ・シマが博物館。そこに住む人々が行ってきた祭祀、生業などを直に現場でイメージしていく。池城墓の墓碑の前では、碑文をなぞりながら葬られている方々と墓を造った大工と歴史的な対話を交わす。


 ▲平敷の神アサギは御嶽(森)の中         ▲ウタキの中に家があったのか!


   ▲石碑をなぞりながら歴史を解く!      ▲カーでもお参りをしているな!

 6日に県立博物館と美術館を見てきたということもあってか何名かにコメントを求められる。規模の大きさや職員の数や予算の多さなどに言葉はありません。県立の博物館と地域博物館の果たす役割が明確に見えてくるので、そこは非常に面白い。そして、沖縄県全体のことは県立博物館が、地域博物館は地域についての博物館活動や展示をしていけばいい。そのことが明確なので、地域博物館としては安心して活動ができ、展示ができます。「そのことについては、沖縄全体についてのテーマなので県博の展示をご覧くださいね」と。

 地域博物館と県立博物の役割を、意識して関わる必要がありそうだ。自分自身が県民の一人としての自覚がなかったことに気づかされてしまった。新県立博物館と美術館をみると、地域博物としてのテーマが見え、元気がでます。県立の博物館と地域博物館を対峙すると、いくつも企画すべきテーマが浮かんできます。

 歴史文化センターの博物館活動の一つである「ムラ・シマ講座」。常設展示があり、企画展示をやっていますが、地域の方々と向かい合って人の顔や動きの見える活動を博物館活動の柱の一つにしてきました。それと記録をつくり積み上げていく作業。新しい県立博物館と美術館をみると、感心するし学ぶべきことが多く、観る側と造る側として気づかなかったことが数多くあり、何度も通うことになりそうです(全体を素通りしただけ。個々のコーナーの展示はこれから見学する予定。手抜きの学芸業務をしかと学ばないと)。

 
    ▲何故か、この位置からの風景が好きだ!(二度目も、ここでパチリ)

2007年12月7日(金)

 昨日は浦添・那覇へ。浦添での会議の後、時間があったので浦添市の安波茶橋と経塚の金剛嶺の碑をゆく。それから沖縄県立博物館・美術館。展示と事務所や作業室など、たっぷり見せていただきました。感謝。

 1609年3月の末、島津軍は浦添番所、そして安波茶橋を通り首里へ向かったのであろう。島津軍の琉球侵攻と関係する文面ではないが以下の説明文がある。

        安波茶橋と石畳道
    安茶橋と石畳道は、1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに
    造られたと考えられます。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道、幹線道路として人々の往来でにぎ
    わい、国王もこの道を通って普天間宮に参詣しました。
     橋は石造のアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋と支流のアブチ川に架けられた北橋から成り
    ます。深い谷の滝壺の側に巨岩を積み上げる大変な難工事だったと思われます。南橋は沖縄戦
    で破壊され、北橋も崩壊していましたが平成十年に修復しました。
     橋の下流側には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられる赤皿ガーがあります。
                                              浦添市教育委員会

 

   ▲安波茶橋と石畳道の説明板          ▲整備された安波茶橋

        中頭方西海道

    琉球王府時代(1429~1874)、首里王府からの諸令達や貢租のために使われた宿道の一つで、
   「公事道」とも呼ばれています。中頭方西海道は、首里城を起点に平良、大名を通り、浦添の沢岻・
   経塚・安波茶・仲間・牧港を経て読谷に至るルートを指し、北の恩納、国頭方面を繋ぐ主要道路で
   した。
    1597年建立の「浦添城前の碑」には、尚寧王の命により首里平良から浦添城までの道を拡張し、
  平良橋を木橋から石橋に架け替え、道に石畳を敷く国家的大土木工事を実施したと記されています。
   中頭方西海道は、琉球王国の政治・経済の発展に伴い整備されてきた道であり、琉球の歴史・文化・
  交通を考える上で重要な文化財です。
                                             浦添市教育委員会


     ▲中頭方西海道の経塚あたりの整備された石畳道


  ▲浦添市経塚の「金剛嶺」の碑              ▲「金剛嶺」の碑の全体
 

2007年12月5日(水)

 あれよあれよ。すでに12月は5日目。村内の大先輩方(老人会?)の企画で古宇利島へ。わたしもボツボツ仲間入りか。村内の案内も館の仕事のうち。何度も訪れる島であるが、参加者は初めての場所が多いという。「よかった。よかった」の声。それは嬉しいものがある。足を引きづりながらの方もいらっしゃる。ごくろうさんである。

 みなさん、本島側に住んでいる方々。村内であるが、橋を渡りながら島の美しさに歓声があがる。神アサギやナカムイのウタキ、内神ヤー・ヌルヤー、そしてシラサまで。そこから一気に遠見番所跡へ。伊是名・伊平屋島がよく見える。辺戸岬も。遠見番所跡へは何度来ても、来るたびに別のルート。

 ハマンシ(ビジュルヌメー)の御嶽は、御嶽の中のイビまでいく。イビは小さな洞窟になっている。タキヌウガンの時、神人が中まで入り、中の香炉の前でウガンをする。ハブと出くわせたことがあるので入るのは遠慮。

 そこから渡海の浜へ。みなさん感心があるようだ。珍しい穴の開いた岩(ポットホール)や浜を見ながら、「いい浜だな!」と。


       ▲古宇利大橋からみた島                ▲遠見番所跡へあがる


  ▲島の一番高い所にある遠見番所跡          ▲ビジュルヌメーヌ御嶽のイベ(洞窟)


          ▲渡海の浜の一つ          ▲渡海の浜には無数のポットホールがある

2007年12月4日(火)

 今年最後の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村平敷である。バスで移動するので、バスを留める場所、道路事情、場所への道筋などの確認。スムーズに進めるにはどうしても下見が必要である。そのため平敷の様子をみてきた。今回は以下の場所の調査を行う。

  ・平敷のウタキ(ウタキ内の拝所:イベ・神アサギ・カー・合祀された拝所など)
  ・平敷湧泉(ピシチガー)
  ・ナビスクガマ(鍋の底洞窟)
  ・大主墓(ウフシュバカ)
  ・池城墓(イチグスクバカ)
  ・炬港(テイミナト)


       ▲平敷のウタキ全体               ▲ウタキの中のイベの香炉


     ▲ウタキ内にある平敷の神アサギ         ▲いくつか合祀された拝所


         ▲大主墓(ウフシュ墓)                ▲大井川下流の炬港

2007年12月3日(月)

 午前中、佐竹高校(茨城県)の生徒達がやってきて「沖縄県の建築と自然」についての学習。以下のテーマで歴史文化センターにやってきた。イメージしていなかった沖縄の歴史象に出会ってくれたら幸い。船橋・河田・佐川・神長の四君でした。受験とは皆無かもしれないが、異文化に接することができた、そのようなことが脳裏に残ればいいと思う。ボツボツ沖縄について調べてみてください。

  ・三山の時代の北山王の居城。北山王はどんな人?
  ・首里城と他の城(グスク)との関係
  ・今帰仁グスクは他のグスクと、何が違うのか?  
  ・他のグスクとは対立関係があり、戦があったのか?
  ・滅んだあとの今帰仁グスクの歴史について。
  ・今帰仁グスクの規模


 ▲予期していなかった歴史が!ラッキー!

 本部町内のノロ家跡を踏査する。ノロ(ヌル)殿内(ノロ家)は、家そのものが継承されているず、ヌル殿内跡として遺されている。家そのものは継承されていないが、ノロそのものは家筋と関わる方が継承している場合が多い。各ノロの詳細については、「ノロ制度の終焉」で扱うことにする。現在ヌル殿内跡を画像で紹介(平成19年12月3日)。未撮影が二カ所あり。

・健堅ヌル殿内(タマウドゥンともいう)
・伊野波ヌル殿内(未)
・瀬底ヌル殿内
・具志川ヌル殿内
・浦崎ヌル殿内
・謝花ヌル殿内(未)
・具志堅ヌル殿内


▲本部町健堅ノロ殿内跡(球御殿ともいう)         ▲本部町瀬底ノロ殿内跡


  ▲本部町浜元の具志川ノロ殿内跡         ▲具志川ノロ殿内屋敷の井戸


    ▲本部町浦崎のヌル殿内跡             本部町具志堅ノロ殿内跡