201010月の記録              
                 
地域調査研究(もくじへ)           


2010(平成22)年1030日(土)

 
「山原のムラ・シマ」の一コーナーは「本部町のムラ・シマ」である。展示はされているが、「地域文化」の講義で紹介する。前回は「大宜味村のムラ・シマ」であった。今回は本部町へ足を運ぶことに。歴史文化センターの調査記録を展示へ、さらに大学の学生達へ。本部町の11の字(ムラ・シマ)を取り上げて、それぞれのムラ・シマの歴史を手掛かりに文化を見つけていく。どんな歴史・文化があるのか。楽しみである!

 企画展を見学しているお客さんの声を聞いていると「山原に、そんなに歴史・文化があったのか!」の声が聞こえてくる。有り難いものだ。

  「先生、山原が好きなのですか??」「他の地域はやらないのですか?」の学生達の質問。「もちろん。山原は大好きです。好きでなければ調査・研究に手を染めなかったでしょう」。「次第に南下します。奄美へ行ったり、伊是名島や久米島、宮古、八重山まで行きますから。心配しないでください」。ハハハ

 

  (以下は略)


2010(平成22)年1029日(金)

 台風は沖縄本島北部はそれてくれました。企画展―山原のムラ・シマが明日からスタート。展示完了。一部、先にお見せ致します。
  ・今帰仁のムラ・シマ(第三展示室:常設展))
  ・恩納村のムラ・シマ
  ・宜野座村のムラ・シマ
  ・金武町のムラ・シマ
  ・旧羽地村のムラ・シマ
  ・名護三ケ(城・東江・大兼久)
  ・大宜味村のムラ・シマ
  ・国頭村のムラ・シマ
  ・(東村のムラシマ)
  ・本部町のムラ・シマ
  ・人々・農作業・稲作・幼稚園・学校などなど)
  ・山原の歴史散歩



 

 


2010(平成22)年1028日(木)

 以前紹介した記憶があるが、新聞の切り抜きが出て来たので再度のその記事を掲げておく(昭和14日新聞記事)。

   古琉球の遺寶
      水晶の曲玉  県外流失を免れ 郷土参考舘へ所蔵
  県教育会郷土参考舘では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎秘蔵の永良部阿応恵の
  曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本晶は元小
  録御殿の伝寶にかかり同家大宗維衝(尚氏大王長男)より四世に当る大具志頭王子
  朝盛の室永良部阿応理恵職の佩用したものとみられている。これに関し県教育会
  主事島袋源一郎氏は語る。
   此曲玉は永良部阿応理恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上
  昌けんの女で童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理恵なる神職
  は苧禄御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年
  島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其の後廃官になったものと思
  われる。しかし同家では尚維衝が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えてい
  る中でこの曲玉は前年京大に送って調査の結果何れも硬玉で石の原産は南支地方で
  あろうとのことで曲玉は三箇で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一箇が一連になってをり又と
  得がたき寶物であるが松原氏は数箇所より高価をもって所望せらるるにもかかわらず、
  その県外に流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派
  なものだ。

 
      永良部阿応理恵の曲玉         右が永良部阿応理恵の佩用の曲玉


2010(平成22)年1027日(水)

 明日は「運天の歴史」をテーマで講義(「沖縄の歴史と文化」)。下はレジュメである。運天の位置 古琉球の運天 近世の運天 近世末の運天 近世末~明治 明治~昭和、最後は運天(港)が果たした歴史的役割でまとめる。歴史文化センターの企画展で、運天は展示したばかりである(1020日)。頭の整理はできたのであるが台風が接近中28日台風接近で休講)

 

 午前中、うるま市から80名余がやってきた。台風接近で今帰仁グスクまで登るのは諦めたらとさとしたのであるが「イヤ、登る!」と。結局40名の方々が今帰仁グスクへ今帰仁ウガミである。残りの30名は歴史文化センターのみとなった。舘内で30分ばかり講話をすることになる。雨、台風接近と、臨機応変の対応でジタバタ。「雨なので写真はいいのでは?」と声をかけると、「イヤ、絶対に撮らないと」と使命感に燃えていました。写真撮影が終るのに、20分はかかりましたかね。引率の皆さんごくろうさん。

 
    「ハーイ、写真撮りますので・・・」      写真係さんは「絶対に集合写真をとらんと」。


2010(平成22)年1026日(火)

 大学の講義(「沖縄の地域文化」)は「地域文化大宜味のムラ・シマ」である。大宜味村の南側のムラ・シマを取り上げる。津波 白浜 大保 押川 田港 屋古 塩屋 根路銘の八ヶムラ。津波は合併村、白浜(渡野喜屋)は塩屋との渡し舟、大保はウタキのないムラ、押川は山間のムラ、田港は田港間切のとき番所が置かれた村、屋古は海神祭、塩屋も間切番所が置かれた村と塩づくり、ペリー一行がくる、根路銘は海神祭を塩屋から分離、神アサギを公民館に取り組むなど。それぞれのムラから数個のキーワードを掲げて歴史をたどり、そこからムラ・シマの特徴を文化としてとらえていく。

 津波では神アサギが一つの建物に二つの神アサギを置いてある。津波村の神アサギ、もう一方は平南村の神アサギである。二つの村の統合の痕跡を神アサギに遺してある。また、平南村跡の領域に「ヱ あさか原」の印部石、津波の集落内に「ヰ つは原」の印部石があり、元文検地との関わりが読み取れる。「あさか原」のアサカはリュウキュウアオキ(方言:アサカ)の植物名に因んだ地名のようだ。「つは原」は今でも津波の集落の中心部にあり、元文検地の頃の原との関係が読み取れる。

 塩屋のハーミジョウが何たるかが紐解けそうである。ハーミジョウに以下のような説明文がある。ハーミは神のこと、ジョウは屋号などに「アガリジョウ」「イリジョウ」「ウンジョウ」などがあり、「ジョウ」は・・・の方や・・・の場と解することができそうである。塩屋のハーミジョウは「神のおわす場所」や「神の場」と解することができそうである。

 
ハーミジョウの展望台への階段  ハーミジョウの展望台からみた学校(塩屋番所跡)

【ハーミジョウの麓にあるフンチャ墓】
 



【歴史背景】

 昭和26に大宜味村火葬場ができる以前は、私達大宜味村の先祖の葬儀の風習は
「埋葬式」であったため、塩屋内のハスノハギリの周辺は、墓地の場として区民に利
用されていたそうです。埋葬方法は、亡くなった人を棺に入れ、満2年ウフンチャ墓の
中に放置し、その後、ハスノハギリの樹の下の隅にムシロを敷き、各部の骨をきれい
に洗い(洗骨)、箱(紙の箱)に再び収めてハスノハギリの前にあるウフンチャ墓に納
骨していたそうです。mた当時は幼少期や大病で亡くなった人の骨は、ウフンチャ墓
へ納骨が許されておらず、ハスノハギリの樹の下に埋葬していました。・・・


【田港(大宜味)間切と番所が置かれた村】(田港大宜味塩屋大宜味(大兼久)

 1673年に大宜味間切ではなく田港間切としたかである。番所を田港に置いたことでの間切名とみていい。後に大宜味村、塩屋村、さらに字大宜味へと番所(役場)は移転する。田港村に番所を置いたのは、1713年の『琉球国由来記』を見ると、大宜味間切の村に平良村と川田村がある。二つの村は東海岸にある。両村の祭祀を管轄するノロは平良巫である。それ以前の『絵図郷土村帳』と『琉球国高究帳』では平良村と川田村は名護間切の内である。

 1673年久志間切が創設された時(同年大宜味間切も創設)、平良村と川田村は名護間切から久志間切へ。『球陽』の尚貞王五年条(1695年)に大宜味間切に組み込まれるが、1719年に不便をきたしているということで再び久志間切へ。その当りの動きは間切番所が田港から大宜味へ、さらに塩屋に移動していることと関係していると見られる。

 以前にも触れたが、宮城島についで再度。

 『正保国絵図』(1646年)に「いな城嶋 人居なし」とあり、まだ人が住んでいない。18世紀半ばに首里から移住してきた人達が集落をつくったという。宮城島は津波村に属し、明治12年後に津波村の小字になったという。1937年(昭和12)に津波と宮城島に橋が架かる。明治14年に塩屋を訪れた上杉県令日誌に「水を隔て、宮城島あり、島中小村落あり。渡舟相往来す」とあり、島の様子を記してある。今では津波と宮城島(宮城橋)、宮城島と塩屋との間(塩屋大橋)に橋が架かっている。昭和4年に大宜味村字宮城となる。

   『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行:18頁)に「宮城島は塩屋湾頭に横たわり周囲20町字津波に属す。人家十数軒
   塩田を有し朝夕炊煙立上りて湾内の風致を添えること一段なり」と。


 午前中、今帰仁小学校4年生の学習。昨年あたりまで総合学習であったが、今はどう位置付けられているのだろうか。今日は今帰仁村越地と謝名が生徒達の舞台。一人ひとり、ムラ・シマの宝物を報告してきれました。拾ったムラの一つひとつを声にして報告することが大事だということに気づいてくれた大成功。ごくろうさん。

 


2010(平成22)年1023日(土)

 「山原のムラ・シマ」のタイトルで企画展の展示作業を進めている。「山原の集落区分の呼称」(『南島の地名』(南島地名研究センター:第3集 1988年)としてまとめた論文が出て来た。山原のムラ・シマを見る上で興味深いキーワードである。ムラ・シマの集落を区分する呼称が沖縄本島北部では「・・・バーリ」や「・・・バール」が多く見られるの対して、中南部では「・・・ダカリ」である。20年前(1988年)、これまでの「・・・ダカリ」の解釈に一石投じた論文であったことが思い出される。あれから20年余経っているので、ここで再度検討してみる必要がありそうだ。「集落区分の呼称の分布図」を展示することに。







             (以下13頁略)


2010(平成22)年1022日(金)

 
今日は大変な日。企画展用に「今帰仁村運天」(下の画像と展示)、小学生用に「今帰仁村謝名・仲宗根・越地」の引き出しを開け整理(火曜日の総合学習)。それと、与論島のことで来客あり、急きょ与論島の引き出しを開ける(ついでに来週の大学の講義にでも使いましょうかね)

 来月早々、奄美大島での研修会があり(今のところ実施)、その引き出しの確認。もう一件、11月下旬に久米島での研修会があり、「久米島の歴史と文化」の引き出しの確認までする(放電しっぱなし! ハハハ)

【運天のムラ・シマの展示内容】




【運天の展示】


2010(平成22)年1021日(木)

 「村祭り」の展示ほぼ完了。なかなか面白い展示ができたような。後は観覧者がどう見てくれるか。

【村祭りの展示】(村公民館講堂)

 



【大学の講義】(沖縄の歴史と文化)(4回目)
 前回提出してもらった学生のレポートの疑問や質問等に答えながら。4回目講座は「神女(ノロ)制度から見た歴史」とした。他のクラスで「ノロ制度が与えた地域文化」(沖縄の地域文化論)として講義したことがある。神女(ノロ)制度は村々の末端まで統治していった首里王府の政策(中央集権)であったこと。その視点で見て行こうとするものである(レジュメあり)。

 その制度が1609年以前、奄美の喜界島まで及んでいたこと。ノロや役人への辞令書、ノロ家が所蔵する遺品を通して実態として残っている制度であることを実感させるものである。また、沖縄本島のみでなく奄美や周辺離島、さらに先島まで視野に入れて歴史を読み取っていこうとするものである。最初から答えありきではなく、数多くの事例から各々で答えを見つけ出して欲しいものである。

 学生達からの報告や反応に目を通すのが楽しみである(毎回)。このクラス(「沖縄の歴史と文化」)120名の学生を相手なので、一枚の報告が学生一人ひとりとのコミュニケーションの場である。記憶している質問や疑問に対しては次の講義で答えている。(ギクッとしている学生の真剣な反応がいい。マイクを使い、私自信余裕がでてきたので学生の間を通りながら話しています。留学生が数名いるので、外国人が琉球(沖縄)をどう見ているのか参考になる。学生のレポート、その反応が面白く一気に目を通してしまった。先生はユタ?の質問あり。ハハハ)

 
    苦にせずレポートしているのがいい。          発見がいくつもあるようだ!


2010(平成22)年1020日(水)

 「今帰仁村まつり」が2324日に開催される。その中の展示部門と関わる。書道と絵画の展示をする。仕上げは明日(釈文と氏名の添付)

 合間合間を見ながら国頭村奥間と比地の展示。「山原のムラ・シマ」を描くどんなキーワードがあるのか。一つひとつのムラ・シマ(現在の字や区)に足を運んでみると、歴史、ウタキやグスク、年中祭祀、神アサギ、石碑、墓、人々が使ってきた湧泉(カー)、言葉や歌謡、生業、地名などなど。それらのことを記録し、将来への贈り物とする。その視点に立つと、山原は調査・研究の宝庫であり、夢があって実に楽しい。さて、明日の大学の講義(沖縄の歴史)のテーマでもかんがえましょうかね。

 
          国頭村奥間                        国頭村比地


2010(平成22)年1019日(火)

 「沖縄の地域文化」の事例として国頭村奥間を取り上げる。画像を使ってほぼそのコースを辿りながら散歩気分で。今帰仁村古宇利島、国頭村比地、そして今回は同村奥間である。奥間の大綱引きの模様は、調査したタマキに報告してもらう。前回の比地と今回の奥間は「山原のムラ・シマ」の企画展で展示する。学生達と一緒に展示までやっているようなもの。早速、比地の展示をしてみました!奥間は明日にでも。

  1.国頭村奥間の位置

  2.奥間の土帝君

  3.国頭間切の間切番所火神の祠(地頭代火神:番所火神)

    1673年大宜味間切の分割(以前の番所は?

    浜奥間(1706年には奥間に移転)辺土名(大正3年)

  4.奥間グスク(アマングスク:ウタキ)

  5.東(アガリ:屋号)

  6.奥間加治屋(カンジャーヤー)の跡

  7.奥間巫(ノロ)ドゥンチと神アサギ

  8.奥間ノロ(比地の神アサギでの海神祭)

  9.奥間ノロの遺品

  10.ムラヤーのあった場所(現在)

  11.奥間の集落にある湧泉(ハー)

  12.金剛山の二つの碑(1706年)  

  13.金剛山の二つ碑(金剛山碑・南無阿弥陀仏碑:拓本)

  14.奥間の十二支

  15.奥間の大綱引き


解 説】(沖縄の地域文化論)(4回目)

 
 奥間は国頭間切の番所(後の役場:200年余)があった村(ムラ)である。国頭間切(後の村)の行政の中心となっていた時期がある。番所跡は奥間小学校敷地である。その痕跡とする一つが地頭代(番所)火神の祠がある。

 奥間集落の後方に奥間グスク、別名アマグスクある。そこにはニシヌウドゥン跡とフェーヌウドゥン跡の祠と石燈籠?が置かれている。祠はウタキ(グスク)のイベである。そういう場所(杜)をウタキやグスクと呼んでいる例である。頂上部をアマンチヂといい、そこにはイベがある。因みに、ニシヌウドゥンのイベはノロ・勢頭神、フェーヌウドゥンのイベは若ノロ・根神・勢頭神が担当して拝む(神人とイベとの関係、そして近世の行政村が成立する以前のムラの姿が見え隠れする)。

 奥間には土帝君や金剛山(金剛嶺:経塚)や南無阿弥陀仏、カンジャヤーや十二支や豊年祭や綱引きなどがあり、外の文化をいくつも導入している。それは奥間に番所が置かれていたことと関係していると思われる。金剛山 は首里に住む国頭親方が国頭間切番所のある奥間村にやってきて建立(康煕451706年)、筆者の東峰は坊さんのようである。経塚(きょうづか)とは、経典が土中に埋納された塚。仏教的な作善行為の一種で、経塚を造営する供養のことを埋経という。阿弥陀仏に帰依する意。浄土宗で阿弥陀仏の救済を願って唱える語である。

 「土帝君」が琉球(沖縄)への移入は康煕37(1698)である。農業の神様を祭っており、中国からの導入である。国頭への導入はだれがやったのであろうか。国頭間切の役人が唐旅をし、持ち帰り奥間村に持ってきたものであろう。年一回奥間の村で祭祀(旧暦2月2日)を行っている。

 奥間を構成している門中に、座安姓・金城姓・与那城姓・親川姓がある。奥間ノロは座安姓の一門から出している。他に、小橋川姓(後に小川)、竹園(元与那城姓)、東恩納、宮里、宮城、大城、山川、奥間、橋口(元金城)、又吉、玉城、嘉数、伊波などがあるが寄留民だという(『沖縄風土記全集:国頭村編』)。寄留してきた一族が多いことが村の歴史や文化に大きな影響を及ぼしている。祭祀の中心となっているのは古くからの一門である。座安一族から出る公儀ノロは首里王府からの任命なので中央部の祭祀の影響を受ける。また、座安家は尚円王(金丸)と関わる伝承を持ち、それを示すカンジャヤーがあり、そのことが奥間の村の伝統的は文化となっている。また鍛冶屋が扱う金属、あるいは金丸に因んで奥間はカニマンのマクの名の名称を持ち字(アザ)の称号にもなっている。

 首里王府によってノロ制度(1500年代)がしかれるが、ノロが掌る村(ムラ)があてがわれる。奥間ノロは奥間村と比地村である。ノロ制度そのものは消滅するが、今でもノロが行う祭祀は引き継がれている。奥間ノロは比地で行われる海神祭に出ている。

 地域(特に沖縄のアザ:区)の歴史と結びつく出来事や遺されている碑や伝承、今でも行われている祭祀や綱引きや村踊りなどを見て行くと、そのムラ・シマの歴史や伝統や文化に気づかされる。
   
(学生達の謙虚なコメントにハッとさせられたり、質問等には次回答えることに。毎回コメントしてもらっている.


2010(平成22)年1018日(月)

 「山原のムラ・シマ」企画展の準備にかかる。恩納村・名護市の三ヶ(城・東江・大兼久)・羽地地方の三ヶ村(振慶名・田井等・親川)、宜野座村(松田・宜野座・惣慶・漢那)、金武町(金武・伊芸・屋嘉)の展示まで。村まつりや調査、取材などが入っているので、手がまわらないので企画展の開催は1030日(土)からとします。悪しからず!


        恩納村のムラ・シマ                    手前はムラ・シマの人々


2010(平成22)年1017日(日)

 「山原のムラ・シマ」の企画展を開催する。山原の180近いムラ・シマから20近いムラ・シマに代表になってもらう。それと同時に、山原のムラ・シマ全体から共通したキーワードを取り上げて描いてみる。例えば山原の神アサギ、山原のムラのウタキと集落、山原の集落を区分する呼称の分布、間切の番所の置かれる村、山原の津(港)、山原のノロなどなど。これまでの調査のまとめの中間報告の一部に成りうるか?


2010(平成22)年1016日(土)

 13日恩納村瀬良垣~恩納~谷茶まで。
 14日国頭村奥間まで。
 15日名護市(羽地)伊差川の金川銅山、羽地大川ダム資料館。
 16日名護市城の旧99日の菊酒の祈願と豊年踊り奉納踊り。

名護市城の旧9月9日の祈願

 城の旧9月9日の祈願の流れから、故地から一部は城へ、一部は東江へ、一部は大兼久へ移動している。城の祈願の流れと祈願を行う拝所から、故地での一門や神人の出自や拝所との関わりが見えてくる。名護グスク麓の斜面にある10余の火神の祠と、その一門はどこに移動しているのか、どんな神人を出していたのかが見えてきそうである(詳細は東江と大兼久の祭祀を確認してから)。今回の調査の狙いは、名護グスクにあった集落の一部が城へ。祭祀(場)を通して集落の形態を知ろうとするものである。

  
 アパヌクでの祈願(故地への遥拝か) 名護城の中腹に立てた旗頭    城のアパヌクヌウガミを望む

 
      神殿での祈願(女性のみ)        拝殿に城の有志の方々が座す

 
 神殿での祈願がすむと根神屋とフバヌヒチャに分かれて祈願をする

 
     根神屋での祈願                 フバヌヒチャーでの祈願


     奉納踊りはグスク内の神アサギミャーで行われる。かぎやで風、上り口説、浜千鳥

  
      高平万歳              ミルク神             国頭サバクイ


2010(平成22)年1012日(火)

 ・糸満市根人腹門中墓調査(一部拝見)(10日)
 ・糸満市真栄里(10
 ・南山城跡・和解杜・嘉手志川(10日)(今帰仁□□ 道光九年・・・ 奉寄進」の香炉あり)
 ・玉城奥武島の奥武島観音堂の石燈籠と棒(練習風景:本番は30日?)(10日)
 ・国頭村比地~与那(村墓の確認)(11日)

【糸満の根人腹門中之墓】10日)

 (内部の調査報告は、改めてなされるようなのでそれを待つことに。墓もそうであるが、山原とは別の物差しでみる必要がありそう。学ぶことが多くあり感謝)


     糸満の「根人腹一門之墓」中央部       「根人腹一門之墓」の左側にも一門の墓あり

【糸満市真栄里】(高嶺間切)(10日)

 『琉球国由来記』(1713年)の真栄里村に以下の12の拝所が記されている。
   島尻中城巫火神
   ソフヅケナ巫火神
   真栄里々主所
   島尻中城内西表之殿
   島尻中城内東表之殿
   下地之殿
   タムケ之殿
   勝連之殿
   上糸部之殿
   下糸部之殿
   神アシアゲの殿
   越地之殿

 ここでいう中城は真栄里の集落の後方にある杜のことだろうか。そのグスク内に「西表之殿」と「東表之殿」があるということか。グスクを背にいくつもの集落が形成されていたことが予想される。それが近世の行政村になった時、祭祀は統合されることなく今に続いているのではないか。(それにしても拝所が多いいことよ。それが島尻、あるい南山の文化になるのではないか)





【玉城村奥武島】(ウシデークもあるという)(10日)


  南城市(玉城)奥武島の棒の練習(奥武観音堂前の広場)


2010(平成22)年109(土)

 「沖縄の地域文化事例:国頭村比地」(3回)としてまとめてみました。平成10年に調査した「国頭村比地の海神祭」の画像を取り出してみました。10年もすると、いい資料になっています。比地の様々な様子を紹介します。数多くのことを紹介するが、そこから各々の「地域文化」を見つけ出してもらいたい。どんな「まとめ」(むすび)になるやら! お楽しみだ~。手抜きして「国頭村比地」をベースにするか。

    はじめに
  1.国頭村比地の位置
  2.国頭村比地の戦前の様子
  3.比地村名の変遷
  4.現在の比地の様子
  5.比地の現在の集落
  6.『琉球国由来記』(1713年)の比地村
  7.比地の印部石と元文検地
  8.国頭王子と石燈籠
  9.小玉杜の俯瞰図
  10.ムラの歴史・文化が・・・
  11.小玉杜に源初的な集落が・・・
  12.小玉杜の道筋
  13.小玉杜での海神祭(平成10年)
  14.海神祭の様子(平成10年)
  15.比地の豊年祭
  16.集落内の今昔(~20
  21.比地大川の今昔(2122
  23.比地の山仕事
  24.比地の同年会
    おわりに


   並べられた数多くの品々(アサギ庭)     神アサギの中での神人(手前は奥間ノロさん)


2010(平成22)108日(金)

 金武町金武ノロの勾玉や簪(カンザシ)、のろ家の「金武村のろくもひ地名寄帳」などの確認調査。『諸志誌』の編集会議。アキサミヨー。口はどうにか回転していますが、頭の中が飽和状態なり。少し、冷ましてから。

  『諸志誌』の編集会議は「豊年踊」と「諸志の家族」がテーマ。1957年の「豊年踊」は詳細な記録があるので、その人名や豊年踊にまつわるエピソードの聞き書き。諸志の豊年踊は五年マール(満四年)で、1957年の豊年踊は戦後2回目だという。その時の写真を見ながらのユンタク会議なり。


                   ▲1957年の豊年踊の資料を見ながら・・・


   豊年踊(1957年)の本番の前日か         「豊年踊」の出演者が揃って撮影

 午前中、豊見城市の「豊寿大学」のみなさん(45名)が来舘。一時間ばかり、今帰仁グスクや豊見城グスクや那覇港のこと。そして墓の所で「あの世」(ぐそう)のことなどなど。楽しそうに帰って行かれました。(一日に、あれもこれ話していると、混乱しています。ハ~!)


          豊見城市の「豊寿大学」のみなさん、45名でした。


2010(平成22)107日(木)

 今帰仁村諸志に「豊年踊」(1957年)の記録簿が残っている。字誌に収録する予定。ここではプログラムと出演者、それと「長者の大主」の台詞を掲載。

今帰仁村諸志の豊年踊記録1957年旧8月)

【芸順並に芸人】
   一、扇 舞 
      与那嶺正行、上間辰夫、内間利和、内田正

   二、コテイ節
      内間悦子、内間末子

   三、四季口説 
      大城藤正、高良喜進

   四、辺野喜節 滝落 
      内間利和、内田正

   五、劇豊年 
      新垣正春、与那嶺弘、高良喜進、大城藤正、城間重正、内原甚吉、与那嶺照二、内原勇

  六、登口説 
      高良盛信、内間和信

  七、くわりさ節 
       玉城安子、島袋花子

  八、港くり節 
       坂原口説 与那嶺照二、内間憲篤

  九、劇 浮世 
       与那嶺弘、新垣正春、高良和篤、島袋民江、大城秀、内間エミ子、島袋伸子、島袋輝志雄、新垣正信、
       内間甚吉、金城松吉、与那嶺照二、 内田巖、大城和子、内間義雄、島袋福二

  十、なぎなた(滝落) 
          内間悦子、上間末子

 十一、前之濱 
         与那原節 内間勇、与那嶺敏夫
 十二、やぐざい節 与那嶺正行、上間辰夫、内田正、仲宗根清、
 十三、拾子物語 
        内間甚吉、島袋福二、内間義雄、大城竹子、内間エミ子、大城和子、内間敏、金城松吉、上間末子、
        島袋伸子、島袋福二、与那嶺敦夫
 十四、浜千鳥節 
        内間エミ子、島袋シゲ子、島袋花子、大城和子
 十五、揚作田 
       大城幸夫、新垣正信
 十六、安里屋 汀間節 
       大城竹子、金城悦子
 十七、むんじゆる 
       内間良子、玉城安子
 十八、劇 阿保陀羅 
       島袋福二、与那嶺弘、新垣正春、島袋伸子
 十九、鳩間節 
       内間良子
 二〇、あやぐ 
       男 三郎、貞正、重正、輝志雄、清吉、憲篤、照夫
       女 シゲ子、悦子、内悦子、竹子、エミ子、和子、花子
 二一、秋の踊 いづや作田 
       内田巖、松田浩
 二二、劇 御茶漬の味 
       内間良子、玉城安子、島袋福二、高良和篤、金城松吉、与那嶺弘、内間敏、内間甚吉、島袋民江、島袋八重子
 二三、下り口説 
       内間義夫、高良和篤
 二四、南岳節 中作田 
       島袋しげる、内間悦子、金城悦子、内間エミ子、島袋伸子、大城和子
 二五、加なよー 天川節 
       与那嶺利雄、金城君子
 二六、高平萬蔵 
       仲村利喜也、松田浩
 二七、松竹梅 
      松 新垣正信、竹 大城幸夫 梅 島袋八重子、鶴 高良盛信、亀 内間和信
 二八、箱屋團吉 
       内間敏、与那嶺弘、内間甚吉、新垣正春、高良和篤、島袋福二、大城幸夫、大城竹子
 二九、八重瀬萬蔵 
       内田巖

【長者の大主台詞

  うーとーと みおんぬきやらび 吾んやこの村の百二十なゆる 長者の大主
  年や年まさい 世果報 うちぢち 尚ん豊の御代願えてい 今日のゆかる日や
  今日のまさる日や 子御孫、また御孫、ひち御孫連れて 踊狂言仕組まち あやびむの
  踊らちにゆみ かきやびら 遊ばちにゆみかきやびら うーとーと あーとーとー
  御慈悲ある御代や 波風ん静か 尚ん豊かぬ御代願えてい 御守りの光 ちりまさい まさーて
  子御孫 繁昌ぬ御願えさびら とーとー子御孫のちや 踊て御見かきり 遊しで御見かきり

 以上御願立の台詞をして舞台横に移動する。但し御願立する時は、供のものはその後方に座す。
尚舞台横に移動する時も、大主前頭にして横向に座す。
若象踊、二才踊の終える度にデキータデキータと大主のほめ言葉を与える。

 最後の出来た、出来たの次の台詞は、
    「今日のほこらしや ものにたとえしらりめ 大主共に踊て戻ら」お踊って幕入する。
    スンサーミーカジマヤ踊りは適宜組入れる。


    ▲1957年の豊年踊(松竹梅鶴亀)


      今帰仁村諸志の豊年踊の記録(あやぐ部分)                 豊年踊の記録の表紙


【大学での講義】(「沖縄の歴史と文化」)(2回目)
   世界遺産のグスクから見た歴史
     ・グスクの分布
     ・今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
     ・座喜味城跡(ざきみじょうあと)
     ・中城城跡(なかぐすくしょうあと)
     ・勝連城跡(かつれんじょうあと)
     ・首里城(しゅりじょうあと)
     ・三山時代から第二尚氏王統まで
     ・まとめ
 世界遺産の5つのグスクと関連遺産の園比屋武御嶽の石門、玉陵、識名園、斉場御嶽を手掛かりに、歴史を紐解いていく。「沖縄の歴史と文化」の基本的な事柄や言葉を把握させる。世界遺産に登録されて10年目。世界遺産登録前の動きやその後のことなど。
 沖縄の歴史や文化を見る時、中国、日本、そして琉球(沖縄)、それらが複雑にからみながら形成されていることに気づかさせる。などなど・・・

 (後方から画像を見ながらしゃべることに。テキストを作成しながら学生達と一緒に学んでいます!) 

 参考文献「もっと知りたい世界遺産」(編集:沖縄県教育長文化課 平成16年版)


2010(平成22)106()

 今帰仁村越地の老人会?の皆さんが来館(20名余)。古宇利島を行って帰りだという。高齢の方々がほとんどなので、自分たちの人生を振り返っていただいた。戦前、戦中、戦後、そして高度成長期、復帰後を生き抜いてきた皆さん。ごくろうさん。

 歴史の中で、そのような時代を生きた方々は過去にいません。みなさんは歴史の生き証人です。今日は、自分の人生を振り返って頭の体操をしましょうと。展示された写真を見ながら、「・・・兄さんよ。青年時代も今もハンサムだね。・・・さんは昔から美人だったんだね・・・。三線を弾いているのは上間精光さんだね。隣は奥さんだね」などなど。歴史文化センターから元気をもらって帰っていjかれました。博物館冥利につきますね。


    「これ使ったことあるね」                「あのニイニイしっているさ~」


2010(平成22)105日(火)

国頭村奥間

 国頭村奥間までゆく。奥間は国頭間切の主村である。国頭間切の番所が浜村から奥間村に移動(1713年には番所は移動か。大正3年辺土名に移動)している。奥間村には国頭の歴史を語るキーワードがいくつも遺されている。
 ・国頭間切奥間番所(番跡地と番所火神の祠)
 ・金剛山の「金剛山」(1706年:その頃番所の移転あり?)と「南無阿弥陀仏」の二つの碑
 ・奥間ノロの管轄村と遺品
 ・アマングスク(フェーヌウドン跡・ニシヌウドン跡)
 ・両惣地頭が関わる奥間村(国頭間切の主村)
 ・奥間の土帝君(1700年代か)
 ・カニマンとカニマンガーとマク名
 ・奥間の大綱引き
 ・奥間から分離した桃原と半地
 ・奥間ノロが関わる比地での海神祭
 ・干支を手掛かりにしたムラの結束


    金剛山の祠の碑(二基)       土帝君の像

【奥間の十二支】
(九つしかありませんでした)

      子                  丑                 


       巳                  未                 申   


      酉                  戌                 

(大学講義:シマの文化古宇利島)


2010(平成22)年102(土)

 830日学芸員実習生を引き連れて古宇利島の豊年祭を見学。道ジュネーが始まるまで、海神祭のコースを辿りシラサの岬へ。台風の余波があり、海は少し荒れ気味。ミサキで行われる旧暦一月のウトットミ・パットミなどの説明をしていると、後方のナカムイのウタキから東の方へ色濃い虹が延びていた。20数年間、調査で関わってきた古宇利島である。いくつも調査報告を出してきたが、ここらで「ムラ・シマの文化古宇利島の例」(地域文化論)として講義をすることに(2回:105日)。一回目は「ノロ制度が地域に与えた影響」(928日)でした。

  ・古宇利島の歴史
  ・島を構成している19の小字(コアザ)と印部石(原石)
  ・島の南側に発達したムラウチ集落(集落の成り立ち)
  ・島の宝物
  ・古宇利島の人類発祥伝承
  ・継承されてきた島の祭祀(15の神行事)

 それらの通して、島の文化を見出して行こうとするものである。島の文化というのは、そこで生活してきた人々が、継承し続けてきたものが文化である。言葉であったり、島であるが故の海との関わるハーリーであったりする。特に継承され続けてきた祭祀は、島の文化の典型的なものの一つである。古宇利島調査で、ウタキと神人の出自、古琉球のシマの成り立ち、自然発生的な集落の展開、島にある印部石(原石)、古宇利島の呼称(フイジマ)など、ムラ・シマを見て行くいくつものキーワードを頂いてきた。島を語れるキーワードが島の文化だと考えているが、学生達にどこまで伝えることができるか。それらのことを踏み込んで研究し、誇りを持って伝えてくれる若者が育ってくれたらと。 


  ナカムイのウタキから発した虹(830日)     豊年祭の舞台を見届ける神人達(830日)


2010(平成22)年10月1日(金)
 
 午後から今帰仁小の総合学習。50名余なので、一気にどう進めましょうかね。校区のムラ・シマ講座となる。今帰仁村与那嶺と玉城である。今日の発表者は玉城が14名、与那嶺が3名である。以下のキーワードでムラ・シマにどのようなものがあるのかに気づかせることが狙い。

【与那嶺】

 ・神ハサギと豊年祭の舞台
 ・広場の大きな赤木
 ・公民館(構造改善センター)
 ・カー(ユナンガーとヤシダガー)
 ・与那嶺政善先生の屋敷跡

【玉城】

 ・玉城の神アサギ
 ・玉城移転の碑
 ・玉城の旧公民館
 ・岸本の神アサギ
 ・アサギ周辺の祠(根神ヤー・岸本ノロドゥンチ跡)
 ・寒水の神アサギと根神ヤー
 ・寒水の豊年祭と舞台と師子舞
 ・寒水のウブガーとウタキ
 ・大井川のワータンジャー
 ・スムチナウタキ