2007年6月30日(土)
まだまだ、多忙が続いている。やっと「北山(山原)の歴史と文化」のレジュメの目途がついたので、日、月と逃避するか。
「北山の歴史」を整理している。その中で祭祀は間切や村々を統治する(租税を貢納させる)琉球国の手段だと考えている。その視点で『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁グスクでの祭祀を見てみた。今帰仁グスクでの祭祀に誰が参加、あるいは供え物を提供するのかである。すると、琉球国の役人である今帰仁按司や惣地頭、それと間切役人であるオエカ人が参加している。もちろん、その村の百姓である。そして祭祀を掌るノロや居神などの神人である。『琉球国由来記』(1713年)が編集された頃、今帰仁阿応理屋恵は地元今帰仁から首里に引き上げており、また廃止されている時期である。そのため『琉球国由来記』に今帰仁阿応理屋恵が果たすべき祭祀の場に登場してこない。
【今帰仁城内神アシアゲ】(今帰仁村)
・麦稲大祭(按司・惣地頭・今帰仁・親泊二カ村オエカ人・同村百姓)
・麦祭(二カ村オエカ人。同村百姓)
・稲祭(同オエカ人・同百姓・志慶真村オエカ人・同村百姓)
・大折目(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
・柴指(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
・芋ナイ(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
・大折目次日(オエカ人・百姓)
(上の祭祀は今帰仁巫とトモノカネ巫の管轄)
(以下、部分は郡(古宇利)村の祭祀の後ろについている。それは祭祀が行われる場所や流れから明らかに今帰仁グスクでの祭祀である。もちろん古宇利島でも大折目(=海神祭)が行われていた。 そこで、郡(古宇利)村の後ろに続く大折目(海神祭)を今帰仁グスクでの流れに合わせてみた。
【毎年七月大折目(海神祭)】
毎年七月、大折目トテ、
海神祭、且作毛之為ニ巫・大根神・居神、
都合二十数人余、
城内のヨウスイト云所ニ、
タモトヲ居ヘ、花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、
アワシ川ノ水トリ、巫大根神、浴テ、七度
アザナ廻リイタシ、於
庭酒祭ル也(自按司出ル)。ソレヨリ
縄ヲ引張船漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、
惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持、
ナカレ庭ト云所ニ参リ、塩撫、親川ニイタリテ水撫デ、又城内、ヨウスイニテ、祭祀也。
旧暦七月に行われる大折目は海神祭といい、ノロはじめ大根神、居神など20数人が参加する。海神祭のとき、羽地間切は仲尾村の神アシアゲと池城神アシアゲ(親川グスク)、名護間切は名護グスク内の神アシアゲにの間切中のノロが集まって祭祀を行う。そこに按司や惣地頭が関わる。今帰仁グスクの神アシアゲの20数名の神人が集まるのは今帰仁間切内のノロが参集したものであろう。1666年に伊野波(本部)間切が分割する以前は、伊野波(本部)間切内のノロも海神祭のとき今帰仁グスク内の神アサギに集まったと見られる。その痕跡は本部側に見られる。
ところで『琉球国由来記』(1713年)の海神祭を流れにそってその場所を確認しておきたい。
大折目だが、今泊では旧盆明けの亥の日に行われる。三日間に行われる。一日目はウーニフジ、二日目をウプユミ(大折目)、そして三日目がシマウイミ(島折目)である。三日間の祭祀を海神祭と呼んでいる。
城内ノヨウスイであるが、タモトを居へとあり、神アサギ内にタモト木を置くということであろう。するタモト木が置かれる場所なので城内の神アサギだと見ていい。そこで両惣地頭から花・五水がだされる。アワシ川から水をとる。志慶真村跡から志慶真川に降りていった場所はアーシージャーと呼ばれているのでそのカーか。(志慶真乙樽を出す家の方のウガンに参加したことがある。親川にあるような窪み石がある)。アザナは本丸の隅にある。庭は大庭のこと。そこで酒を振舞ったり餅を配ったりする。縄を引っ張り船漕ぎの所作をしたのであろう(そこでの船漕ぎはみたことはない)。
惣様(惣地頭)は城外から馬に乗り、弓矢を持って(弓:ヌミか)を持って、ナカレ庭にゆく。塩撫でをするので海岸である。二日目のウプユミのとき、シバンティナの浜で潮撫でをするので、そこなのであろう。それから親川で水撫でをする。親川はグスクの登り口にある親川(エーガー)のこと。今はシバンティナの浜で潮撫でするとノロ殿内近くでグスクに向かって遥拝して終わる。親川から、再度グスク内のヨウスイ(城内の神アサギ)に行き祭祀を行う。
20年前から今帰仁グスクでの大折目(海神祭)を、数人いた神人の時何度か見てきた。『琉球国由来記』の大折目(海神祭)は頭になかったので重ね合わせをしてこなかった。重ね合わせ見ると、簡略化されているが、大筋流れに沿って伝えられている。大折目の時、隣の具志堅ノロもグスクでの大折目(海神祭)に参加していたのは本部間切域のノロが今帰仁グスクでの祭祀に参加していた痕跡としてとらえてよさそうである。(具志堅では今でも今帰仁グスクに向かって遥拝している)。
▲ヨウスイ(神アサギ跡) ▲アザナなど七度廻り
▲神アサギ跡での大折目(海神祭) ▲ナガレ庭での潮撫(シバンティーナ浜)
2007年6月28日(木)
午後から小学4年生の総合学習。今帰仁グスクで。4年生は今帰仁グスクにまつわる話。今日は伝説にでてくる場面をグスクの中で見つける作業。文字で覚えたことと、その場所で考えることは、子供達には別次元のようだ。それを結びつける思考の訓練でもある。100の質問づくりも。
二、三回で、足が地についた発表になる。石積みから旧道、志慶真村の跡、千代金丸が自害した場所、志慶真乙樽などが住んだ大内原、志慶真川、北山王が政治をした場所、祈りをしたウタキのイベなどなど。
たくさん転がっている石の中から、柱置きに使われた石(礎石)探し。最初はパズル状態。法則を見つけると、何名かは。「きみ、あそこだよ」「もっとこっち」などと礎石さがし。どのくらいの建物だったのだろう。「みんな柱になーれ」。屋根(庇)が延びるからもっと大きいのだぞ!
▲北殿跡の礎石の柱になってみよう! ▲頭に入れ切れないほど。・・・ごくろうさん
2007年6月27日(水)
モクモクと空に入道雲が。渡喜仁の字誌の原稿4編分、それと「アヤーチ(操り獅子)」の調査報告(中間)の原稿渡し。ちょっと休憩したいところだが、運天の字誌の編集会議あり。字誌の委員の方々が休まず頑張るので、協力は惜しみません。今日は屋号をやるとのこと。住宅地図を準備すればいいか。一軒一軒屋号を言ってもらうことに。120世帯余かな。そこは字の委員の方々が主役なり。それぞれの家にまつわる話を引き出し、整理する役目なり。聖徳太子状態にならないと、後の整理ができません。今日は、テープに録音することにするか。
2007年6月26日(火)
「今帰仁村謝名のアヤーチ(操り獅子)」の中間報告のまとめをしてみた(提出)。興味深いことに気づく。調査報告書に書いた一部を紹介。
今帰仁村字謝名は今帰仁村の中部地区にありジャナと呼ばれる。『絵図郷村帳』(1649年)や『琉球国高究帳』(17世紀前半)で「謝名村」と出てくる。謝名の大島原に御嶽があり、そこは遺跡となっている(ウンジョウヘイ遺跡)。御嶽の後方はグスクンシリー(グスクの後方)と呼ばれ、御嶽がグスクの呼び方がなされる。御嶽の南斜面はグスク系の土器や中国製の陶磁器類が出土している。集落も御嶽の内部から次第に南斜面に発達した痕跡がみられる。現在の集落部分は大島原(ウブシマ)と呼ばれ、御嶽を背にした古島タイプの典型的な集落を形成している。
『琉球国由来記』(1713年)にも「謝名村」とあるが、同由来記の「諸間切諸島夫地頭?ヲエカ人之事」で平田掟とでてくる。後に平田掟は謝名掟となるが、平田(親雲上)は首里に住む脇地頭である。謝名村に貢献していたのか、謝名村を平田掟とされる。『琉球藩雑記』(琉球藩臣下禄記)をみると「今帰仁間切謝名村作得七石余 平田親雲上」とある。謝名村と首里に住む脇地頭との関係が密接であることがわかる。
謝名での調査をしていると、度々アヤーチの導入は「300年位かな」と聴いてきた。『琉球国由来記』(1713年)の平田掟の平田や『琉球藩雑記』の脇地頭平田親雲上が、謝名村との関わりをみると、謝名にアヤーチ(操り獅子)を導入した脇地頭の可能性がある。因みに、今帰仁村湧川の村踊(ムラウドゥイ)の中に首里系の士族(与義家)が寄留してきて導入している。アヤーチの今帰仁村謝名への導入を示す資料はないが、首里に住む脇地頭や首里の御殿奉公をする奉公人との関係も念頭に入れておく必要がある。

2007年6月24日(日)
梅雨はあけたが、字誌原稿と数本の調査ものの報告を抱え、そのまとめと整理のため缶詰状態なり。もう少しの辛抱。
今月で『渡喜仁誌』の原稿校正と割付作業の8割までこぎつけたい。来週早々、歴史・小字と小地名・水源と井戸の三編はアップすることに。画像や図版作成などでアップアップ状態なり。字(アザ)は小字(コアザ)からなる。小字はさらに一筆一筆からなっていることの意識は非常に薄い。字の成り立ちを意識させるために、字誌には必ず小字を扱い、小字図を入れるようにしている。渡喜仁は10の小字からなり、昭和16年頃、大浜原は運天から、長迫原・川俣原・水川原は上運天から。小禄原・浜原・金原・立石原は勢理客から、時仁原と西時仁原は仲宗根から編入した小字である。小字にしても、そのような歴史を持つ。字誌用に作り変えなり。今帰仁村にまだ小字の線引きした図がない頃、全字(19字)の小字を一筆一筆確認しながら線引きをしたことがある。それと小字の現況調査を。あれから十数年たつので変わったでしょう。

【今帰仁村字渡喜仁の小字】
2007年6月23日(土)
このページを更新する時間がありません。あれこれ多いと書き込むことができないことに気付いています。
名護市史が発刊された「羽地地方役人関連資料」(名護市史資料編5 文献資料3)に目を通してみた。今帰仁にも間切役人(地方役人)と関わる史料が何点かあり、読み取ったり、あるいは解説していくのに参考となり、その労には感謝します。特に関心を引いているのは、間切役人のことではないが、首里から羽地間切へやってきた羽地按司と関わる「午年羽地按司様御初地入日記」である。それは首里に住む按司と間切、さらに按司や惣地頭あるいは脇地頭と同村(主)の祭祀との関係を示す具体的な事例である。それと間切役人(奉公人も含む)と按司家との関係、領地や家禄、作得、物成など、密接な関わりがあることに気付かされる。それと今帰仁の史料から、奉公人が果たした役割の一端が見えてくる。
「午年羽地按司様御初地入日記」も翻刻・現代語訳・脚注があり、議論を一歩、二歩進めることができる。そこまで出してくださる方々の労力には頭がさがります。同日記から流れを記し、祭祀について触れることに(詳細については「羽地 地方役人関連資料」を参照)。
・同治9年(1870)9月3日
羽地按司が初めて羽地間切にやってくるのお迎えに首里に向かう。
・同9月6日
羽地按司の出発の日であるが、5日から6日まで台風のため、出発をひかえる。
・同9月8日
羽地按司はじめお連れ衆(総勢16人)が出発し、読谷山間切宇座村で一泊する。
・同9月9日
恩納間切番所に一泊する。
・同9月10日
名護番所に一泊する。
・同9月11日
羽地間切に到着。羽地番所で御三献して真喜屋村の宿舎へ。
羽地按司は川さう仲尾親雲上宅
御内原(按司様の奥方)は前地頭代川上親雲上宅
役人はおかいら親川親雲上宅
親泊筑親雲上はたんはら屋
間切の役々は仲尾筑登之宅
・同9月12日
(翌日の準備、それと休息日としたのか、動きはとして何も記されていない)
・同9月13日
御立願をする。
①御殿火神(親川村)→②城(親川)→③勢頭神御川(親川村)→④御殿御川→
⑤のろ御火神(仲尾村)→⑥のろ御火神(真喜屋村)→⑦御嶽(真喜屋村)
・同9月14日
屋我地御立願
①のろこもい御火神(我部村)→御嶽(我部村)→③のろこもい御火神(によひ名村)→
④いりの寺(饒平名村)→⑤東の寺(饒平名村)→済井出村→屋我村を巡検される。
・同9月15日
間切から招待
・同9月16日
按司様から真喜屋村の宿舎にさばくり(5人)、惣耕作当・御殿に仕えたもの・間切役人・
神人(14人)・80歳以上の老人を招待される。
(拝領物あり) (進上物あり)
(9月17日~25日の間についての記録がないが、その間、拝領物や進上物や間切役人などの
訪問があったであろう)
・同9月26日
羽地大川のたから(タガラ)から東宿で帰られる。(首里までの到着の記録はない。)
按司と間切役人とのやり取りはもちろんであるが、御立願で村々を回っているが、主村だけでなく、他の村々の御嶽(寺)まで御願(ウガン)をしているのは何故だろうか。羽地間切の中央部の村と屋我地島の全村を訪問している。仲尾村・真喜屋村・我部村・饒平名村(屋我ノロ)には、それぞれノロ家がある。他に伊差川ノロと源河ノロもあるが、そこも訪れたかどうか。その可能性は以下の文面からみることができる。
17日から24日までの日の記録がないので、その間に他の村々で御立願をした可能性はある。というのは、日記に「人々御扣の銘々」(ご招待した面々か)とあり、そこに下の松田にや(仲尾次村)、上の仲尾親雲上(仲尾次)、古我知大屋子(伊差川村)、当真喜屋掟(川上村)、当呉我掟(源河村)、こしの宮城にや(我祖河村)とあり、伊差川村と源河村でも宿泊しているので、羽地間切のノロの居住していた全村を訪れたことになる(のろ家を訪れたかどうかは記されていない)。
羽地按司が領地とした羽地間切の祭祀と関わるノロ在の全村を訪れている。ノロの居住していない村も訪れているので、間切を領地とした按司と村との密接な関わりがしれる。屋我地島まで渡っていることについては、領地の全村を回るとのことであれば納得できる。「御立願」をする理由が、必ずしも血筋ではなく、領地から得ている家禄や物成や作得へのお礼の意を持った村々への御願(ウガン)であることが。
▲真喜屋のウイヌウタキのイベ ▲真喜屋ノロドゥンチ跡(火神)
▲仲尾ノロドゥンチ火神 ▲親川(羽地)グスク跡
▲我部の御嶽 ▲我部の御嶽のイベの祠
2007年6月21日(木)
午前9時から今帰仁グスクで6年生の総合学習。いつも元気がメンバーがバテ気味状態。梅雨明けの日中のフィールドは大変。大筋のことは、やっているので、今回はこれまでやってきたことを一度空中分解させることに。それと現場で歴史を読み取っていくことの難しさを体験。歴史の流れをみると戦いあり、築城あり、嵐や大雨、旱魃、流行病、火事、漂着、祭祀など、様々な出来事がある。支配する方、される方のスタンスも。いつも全体を見せながら、一人一人の持ち場を確認させる作業。700~800年の8つの時代を並行させての授業なので、私の頭の中も空中分解なり。
▲この道を使っていた時代は・・・ ▲北山王が政治をとった場所・・・・
▲攀安知王が切りつけたイビ、その刀は・・・ ▲せっかく整理できていたのに空中分解・・・
午後から名桜大学の看護学課の学生の取材あり。世界遺産と今帰仁グスク、医療などについて。特に近代医学が導入される前の医療とその世界。当時の生活環境、平均寿命など。
2007年6月19日(火)
ここ二週、日・月大雨にたたられ外出禁止。「あ~あ~。先が思いやられます。そう家にいられると」のオカミの声が聞こえてきます。部屋中、資料を広げ(散らかしているという)、グータラしている姿が耐えられないようだ。気を利かして、図書館で歴史文化センターが持っていない書籍や資料にあたっているのだが。
20年前まで、図書館をよく利用した一人である。図書館の雰囲気に慣れないこともがあるが、座って読むことは苦手である。書棚から書籍を取り出し、立ったままパラパラと目次を中心に何冊も何時間も目を通している。それでも、抱えているテーマの視野が開かれる。しかし、まとめることは雑多な資料に埋もれていないと、できない性格になっているようだ。ボツボツ、梅雨はあけてくれませんかね。ハハハ
昨年から調査を進めている今帰仁村謝名のアヤーチ(操り獅子)の調査メモを項目に従って整理。25日が締め切り。神アサギの庭(ミャー)の舞台で二つの獅子が、三線に合わせてムンダニ(餌)を奪い合う所作をする。5年マールで行われる豊年祭の最後の演目である。今年が謝名の豊年祭のあたり年である。ノートと画像を出して資料整理。昨年の10月と11月に調査をしている。すっかり忘れているワイ。
▲謝名の神アサギ(後方の杜はウタキ) ▲二頭の獅子が奪いあうムンダニ(餌)
▲今帰仁村謝名のアヤーチ(操り獅子)(左がメス、右がオス)
2007年6月16日(土)
15日(金)が沖縄県地域協議会の研修会、宜野座村で開催される。午前、午後と計4本の報告があった。どれも歴史文化センターの業務と関わるテーマであり課題でもある。
・沖縄県史 県土のすがた・・・・当山昌直氏(沖縄県教育庁文化課)
・『具志川市史』第5巻戦争編の刊行を終えて・・・・佐々木末子さん
(うるま市教育委員会市史編さん室)
・文献資料集から通史へ・・・・・中鉢良護氏(名護市教育委員会文化課)
・『石垣市史 考古ビジュアル版』の編集・発刊と今後の計画・・・島袋綾乃さん
(石垣市史編集課)
報告の後、①宜野座ヌ古島遺跡→②大久保の孤児院等→③松田の馬場→
④松田後ヌ御嶽→⑤アシビナー→⑥潟原のマングローブとギンバル
ガーラ→⑦惣慶のイシガントー(三基)→⑧漢那ウェーヌアタイ→
⑨漢那ダム→⑩博物館
を廻る。各機関から発刊された多くの刊行物の寄贈。ありがたいものです。今帰仁村から近々、各機関に寄贈の予定。宜野座村の巡見は、どれも興味をひく場所である。山原の御嶽(ウタキ)と集落との関わりでモデルとなる場所である。「宜野座ヌ古島遺跡」の発掘調査報告は御嶽やグスク、そして集落との関係を知る上で注目される。(参考文献:「宜野座村乃文化財17、18―宜野座ヌ古島遺跡」参照)
宜野座ヌ古島遺跡は別名大川グスクと呼ばれている。巡見資料に大川按司屋敷・ヌル殿内・根屋・獅子安置小屋・拝所(イビのことか)・神アサギ・墓など、マク・マキヨクラスの集落を構成する条件が備わっている。もちろん、麓には湧泉(カー)がある。『琉球国由来記』(1713年)を見ると、宜金武間切野座村にヨリフサの御嶽があり、神名はコバヅカサワライヂヤウノ御イベである。今でもクバが散見できる。同村に宜野座巫火神と神アシアゲがあるが、『琉球国由来記』の頃には、古島と呼ばれているように集落はあったが、按司が住んだり防御的なグスクとしての機能は失っていたと見られる。巫火神と神アシアゲでの祭祀に(脇)地頭が関わっている。ウタキの内部、あるいは近接して集落が形成されている例の一つである。発掘に関わった職員の説明があり、有り難いものです。
▲杜(別名大川グスク)を中心に、その周辺地域を「宜野座ヌ古島遺跡」と呼んでいるようだ。
▲御嶽(グスク)や集落跡の麓にある湧く泉(カー) ▲杜(御嶽・グスク)の北側を流れる大川
▲御嶽(古島)内にあるヌル殿地跡 ▲古島内にある神アサギ
▲ヌル殿内の片隅にある御嶽のイベか ▲ヌル殿内を囲むように石積みがある
2007年6月13日(水)
ちょっと一息。
【羽地間切仲尾ノロ】
この辞令書は羽地村(現在名護市)仲尾の仲尾ノロ家にあった辞令書のようである(『かんてな誌』掲載)。天啓2年は1622年である。同じ頃の辞令書に屋我ノロの辞令書(1625年)がある(「辞令書等古文書調査報告書」掲載)。仲尾ノロ家には明治の資料があり散見したことがある。20年前のことである。それとは別に島袋源七文庫(琉球大学)にも仲尾ノロ関係の資料がある。それらの資料については手元にコピーがないので触れることができない。
ここで仲尾ノロ家の辞令書が気になる。現物にあたろうとしたこともあるが、未だ目にしていない。ここで興味があるのは、仲尾ノロが「大やこもひ」と記されていることである。屋嘉ノロ辞令書は「やかのろハ」(屋嘉ノロ)と村名の屋嘉がついている。仲尾ノロは17世紀には「大のろこもひ」と呼ばれていたのであろうか。
『琉球国由来記』(1713年)では中尾巫と表記される。中尾ノロは羽地間切のノロの中で間切全体のノロを統括している。羽地間切に同村がない。主村は田井等村だったようである。しかし祭祀は仲尾村が要になっている。羽地間切の惣地頭は仲尾村の神アシアゲと池城里主所(火)神、それと池城神アシアゲの祭祀と関わっている。海神祭(ウンジャミ)の時、羽地間切の仲尾ノロはじめ、真喜屋ノロ・屋我ノロ・我部ノロ・トモノカネノロ・原源ノロ・伊指(差)川ノロは仲尾の神アシアゲに集まり祭祀を行っている。羽地間切全部のノロが集まるのは仲尾の神アシアゲである。それからすると辞令書で仲尾ノロが「大やくもひ」と記されているのは、そのような事情があってのことであろう。
↑
首里の御ミ事
はねしまきりの
大のろくもひ
もとののろのうまが
一人ひやかなに
たまわり申候
天啓二年壬戌十月一日
↑
首里の御ミ事
はねしまきりの
屋かのろハ
もとののろのうまか
一人おとうに
たまわり申候
天啓五年四月廿日
2007年6月12日(火)
夏休みまで、児童生徒と一緒に学習する機会が多い。今日は小学3年生の学習である。今年は何をやろうかと思案中。3年生は自由なテーマを設定している(ほんとは大学生レベルの内容)。そのためか、来年もやりたいと生徒の希望が大きい。それは「ムラ・シマ講座」に参加してください。
今年は校区の5つの字(アザ)の成り立ちを中心に。今日は、その導入。どんな3年生がやってくるか。上空からの写真を準備。テーマは「鳥になろう!」。どんな鳥になってくれるか楽しみである。

▲兼次小校区(西側)の上空からの写真
2007年6月9日(土)
午前中今年度2回目の「
ムラ・シマ講座」である。心配していた雨はどこかへ。30名近いメンバーが参加。運天は今帰仁グスクと共に歴史のもう一本の柱にしているところである。今帰仁間切の番所、古くから良港として知られた雲見(運天)津。源為朝公の上陸の地としての伝承。幕末には外国船の来航。百按司墓や大北墓など歴史と関わる場所である。大正まで港として重要な役割を果たしている。小さな港であるが、歴史の重要な拠点で謎を秘めている。カに悩まされながらの現場踏査の「ムラ・シマ講座」であるが、得るものが多く楽しいようだ
(ちょっと、大変かも)。もちろん、企画する方は、楽しくいつも大きな収穫がある。説明役は石野さん。みんなの協力があるので、楽をさせてもらっています。ご老体は。参加者のみなさん、お疲れさんでした。
▲運天の神アサギで ▲上間商店の前で報告
2007年6月8日(金)
9時に総合学習で6年生がやってきた。雨のため館内での学習となる。みんな、今帰仁グスクでの調査がしたかったはず。残念。それで館内でやることに。すでにグループ分けがなされているので、それぞれ自分の時代のことを館内で見つけることとなった。16名のメンバーが二人で一時代のことをまとめ、報告する形をとる。ねらいを説明し、それぞれ分担の時代の前に行き、そこで出来事や監守(按司)や葬られている墓や碑文などを見つけていく。困難なところは、ヒントをあたえる。
やはり友だちの時代が気になるようだ。自分の分担の時代がまとまると、友達の時代の場所に移動して一緒にあれこれ出来事を探している。シメシメ。途中で全員集合の声をかける。「さあ、自分の時代の報告お願いします!」この学年は、みんなの前で報告することを楽しみにしている個性を持ったまとまりのあるクラスである。三年か四年生頃から見ているので、その成長ぶりを、いつも楽しみにしている。
みんなが揃うと、さっそく報告である。時代の古い方から。それぞれの時代の報告。その後コメントや補足いれていく。700年の歴史をクラス全員で2時間で一気に形づくっていく方式である。今のところ便宜的に以下の時代区分で進めていく。担任の先生から分担の名簿が回ってきた。わたしも時代と一人ひとりの生徒とダブらせながら歴史を読み取っていくことにする。全員の報告後の生徒達の表情を見ると、大枠が見えてきた顔をしている。みんなと一緒に歴史の世界への旅立ちである。世界遺産である今帰仁グスクを中心とした歴史をどう旅していこうか、そして歴史の旅をどう描いてくれるのか。楽しみである。担任のサポートがあり、楽な旅ができそうだ。
①北山王時代(廉・健太)
②第一監守時代(貴子・新)
③第二監守時代(前期)(美佐・併鶴)
④第二監守時代(後期)(香純・克樹)
⑤間切時代(前期)(賀美・結茄)
⑥間切時代(後期)(春佳・航汰)
⑦村政時代(戦前)(そら・咲子)
⑧村政時代(戦後)(葉月・夢乃)

▲分担の時代の前で出来事探し! ▲一番の楽しみの報告会!
午後から新聞取材があり、昭和18年の「食糧増産決戦記」にある今帰仁村諸志の写真の現場までゆく。二枚の写真を持って、島袋光さん、渡名喜長栄氏、内田巌氏の三方を訪ねた。諸志の排水路の掘削や付近の様子や食糧増産についての話を伺うことができた。なんと言っても三方の元気な姿が嬉しい。伺った話は、まとめてお返しします。現在と昭和18年の水路掘削の同じ場所の様子を並べてみた。考えさせられる。・・・(大田記者ご苦労さんでした。後は、おまかせします)

▲今帰仁村諸志の港原一帯(現在) ▲「泥粥を掬ふ難作業」であった(昭和18年)

▲水路掘削が行われた上流部(現在) ▲下流域(現在)
2007年6月7日(木)
頭がついていかないほど、事が次々やってくる。午前中、運天の墓のこと。現場までゆく。そして原稿校正、展示物の問合せ。雨のため小学校4年生の総合学習は教室でやってもらうことになった。キャンセルで一息。とは言っても『渡喜仁誌』の編集会議が晩にある。これまでの進捗状況の報告と9月末発刊に向けての確認。本日の集まりは、本格的に原稿出しをしていく決意表明。全体を見通すために、原稿の進捗状況を把握する。頭は回転せず、目だけが血走っている。今日の編集会議をクリアすれば、どうにか体力は大丈夫か。
明日の午前中は6年生の歴史学習がある。雨が降っても降らなくてもやることを担任と約束。土曜日は「ムラ・シマ講座」と続く。多分、原稿督促の出版社からの郵便物。明日は気分の重たい取材がはいている。そのため現場の確認と人にあたる。そういった忙しいときの電話は、特にしつこく感じる。失礼な受け答えをしているような。しています。申し訳ありません。
さて、これから字誌の会議へ。水辺の画像を入れて熱くなっている頭を冷やしながら・・・・
(本日の画像ではありません。今日は雨でした)。

▲渡喜仁の大浜(ウッパマ) ▲川が他の字との境界(右手が渡喜仁)
2007年6月6日(水)
急遽、資料に目を通すことに。県公文書館から「食料増産決戦記」(昭和18年)のコピーが送られてきた。それに対応する資料が歴史文化センターにある。食料増産隊沖縄隊がどのような動きをしたか把握していないが、本館が所蔵している資料に目を通すことに。①~⑥は連動するものであろうが、余裕がないので①の内容のみ把握することに。食料増産隊が昭和18年9月に今帰仁村にやってきた時、対応した帳簿ではないか。それと昭和18年以前から「耕地整理組合」があり、それと「食料増産隊」が今帰仁村にやってきたとき、関わった村人達の集合写真が二枚ある(『なきじん研究』(11号)写真で見る今帰仁で紹介したことがある。
(但し、執筆した当時食料増産隊との関わりは全く念頭になかった。各地にそれと関係する記念写真が残っている。すぐ取り出せないが市町村史や字誌で散見している)
①増産隊作業ノ時受拂簿(昭和十八年九月)今帰仁村西部耕地整理組合
②第二次食料増産ニ関スル現金受拂簿(昭和十九年一月)今帰仁村西部耕地整理組合)
③会計出納簿(昭和十八年八月以降)今帰仁村西部耕地整理組合
④費用徴収簿(自昭和十六年至昭和十八年)今帰仁村西部耕地聖地組合
⑤現金受拂簿(昭和十九年十二月)今帰仁村西部耕地整理組合
⑥分賦金賦課標準原簿(昭和拾六年壱月以降)今帰仁村西部耕地整理組合
①の「増産隊作業ノ時受拂簿」(昭和18年9月13日~9月15日)から、どのような内容か記事を拾ってみた。
・大井川仲原店ヨリ買入石油壱升代
・諸志配給所酒壱升ダイ宮城宅ニ於
・縄五桁諸志島袋幸福氏へ壱桁三十銭宛
・ヲキノ柄二ツ代諸志支所へ
・豚肉五斤代字諸志与那嶺忠助氏へお客用
・自転車賃諸志内間利清氏へ
・ハカリ賃諸志大城彦次郎氏へ
・縄五桁代大城幸五郎氏へ
・農兵隊慰労用山羊四二斤代諸志玉城カマダ様へ
・諸志高良森次へ山羊一匹代増産隊慰労用
・農兵隊延人員五百人ノ賃金一人壱日壱円同上ヘ払
・増産隊北山城跡拝観料トシテ
・増産隊慰労トシテ今泊踊見物御礼金
・家賃諸志島袋吉七郎氏へ
③
会計出納簿(昭和十八年八月以降)から増産隊と関わる記事を拾ってみる。
・増産部隊長池間氏現場視察ノ時鶏壱羽与那嶺トシ様へ
・食料増産隊用飲物及湯飲代嘉手苅店へ
・増産隊炊事場写真代
・大杭木代
・食料増産隊作業ノ時、夜間勤務手当宮城仙三郎外五人へ
2007年6月5日(火)
午後から歴史文化センター運営委員の委嘱状の公布と平成19年度の事業についての説明と審議。第2回「ムラシマ講座」の文書。総合学習の調整など。運営委員の方々には二年間お世話になります。
中頭の4つのグスクを訪ねてみた。これまで見てきた間切クラスや伊波グスク、安慶名グスクなどのグスクと概念を変えて見る必要がありそうだ。今回訪れたのは、以下の4つのグスクである。前回の喜屋武グスク(具志川市:現うるま市)も、この部類に入るかもしれない。いずれも「・・・グスク」と呼ばれているが、山原で見てきた御嶽(ウタキ)と集落の関係に類似している。結論を出すには早いが、もう少し中頭域のグスクを踏査してから。これらのグスクから、グスクの多様性に思い知らされる。
石積みのグスクが頭にあるので、石積みの痕跡を見つけようする。しかし、石積みのないグスク。石積みのないのもグスクである。グスクやウタキの周辺や麓に発達した集落との関係でみてきた視点が、市街化した地域でのグスクは、旧集落を脳裏で復元してみている。市街地のグスクは、グスクあるいはウタキと関わる部分の多くが削ぎ落とされ、祭祀と関わる拝所(イベやカー)や墓地が残されているのではないか。山原で叩き込んだつもりの視点が、中頭ではすっかり置き忘れてグスク(ウタキ)を見ていることに気付かされる。そのことは、もう少し数多くのグスクを歩いてから。
(下の四つのグスクについてのコメントする余裕がないので改めて。しばらく画像のみで)
①兼箇段グスク(具志川市:現うるま市)
②江洲グスク(具志川市:現うるま市)
③屋良グスク(嘉手納町)
④嘉数グスク(宜野湾市)
①兼箇段グスク
②江洲グスク
③屋良グスク



④嘉数グスク
2007年6月2日(土)
昨晩、帰宅途中苦手のハブと遭遇する。結構大き目のハブである。車道を堂々と向かってくる。車中からなので少しは余裕あり。突然目の前なら腰を抜かしていたでしょう。何度か腰を抜かしている。今でも、腰あたりがワナワナ、ヘナヘナ。昨日午後、源為朝のテレビ番組をつくりたいとのことで、「為朝公の痕跡がないか」と。テラガマや手形、上陸碑を紹介。「手形が探せない」と電話あり。洞窟は見つけたようですが、「階段を数歩下りたら右手にありますよ」「怖くて入れませんよ」と。「ハブがでますからね」そんなやりとりをしていたところ。「どうぞ」とはいえません。ハハハ ハブにご用心!今朝、出勤途中見たらカラスがついばんで、しっかり片付けていました。ありがとう。

▲車道をどうどうと徘徊するハブ公 ▲退治するのにカサ一本折りました!
2007年6月1日(金)
6月となりました。梅雨に入ったのであるが、雨天が少なく晴れの日が続いている。時間があれば、6月中に中部地域のグスクを回ることができればと。天気と気分次第なり。
【知花グスク】(沖縄市知花)
知花グスクのある知花は1666年以前は越来間切の内、1666年の越来間切から美里間切が創設されると知花村は美里間切の村となる。現在は沖縄市である。知花グスクを考える場合は、越来間切の内としてみる必要がある。知花グスクのある小字は後原である。知花集落の後方にあったことに由来するのであろう。
頂上部に近い所に展望台がつくられているが、そこが知花グスクの本丸ではないかと言われている。知花グスクそのものの歴史は閉ざされたままである。『野史』によると、具志川市の喜屋武の上の方に築かれた喜屋武グスクの喜屋武按司の四代目として生れた鬼大城賢雄が築いたと伝えられているようだ。知花グスクの中腹に「鬼大城の墓」があり、石碑が建立されている。石碑によると康煕55年(1716)に美里間切宮里村に移葬。いろいろ事情があり、咸豊3年(1853)に現在地に移し変えたという。石碑には墓をどうしたのかを記すのみで、知花グスク時代についてのものではないのが残念である。
やはり、中頭の知花グスク規模のグスクの関係がどうしても気になってくる。伝承では喜屋武グスクの喜屋武按司の四男とのことが言われているのだが。『琉球国由来記』(1713年)に出てこない神アシアゲが知花や池原、登川で現在登場しているのが気になる。
▲知花グスクの遠景 ▲麓をみる
▲カンサギヤーとある(神アサギ?) ▲上の殿内の祠
▲知花グスクの展望台への階段 ▲鬼大城の墓と夏氏大宗墓石碑(1853年)
【古宇利島の空撮】