2007年2月28日(水)
運天の字誌の編集会議あり。運天の方言である。それ急げ!
しばらく休息していました。東京と神奈川での所用を早々と片付けると、「やっぱり」である。昨年の今頃は確か富山と金沢だったような。今回は小田原城と江戸東京博物館の「江戸城」の企画展をみる。
【小田原城】
今回、小田原城は足を運ぼう内々考えていた。以前から訪れたい城の一つであった。小田原城とマチに関心があるからである。戦国大名の国取り合戦には、あまり興味がない。小田原城を歩きながら、何か考えることがあれば程度の関心である。
小田原駅(小田急)を降りると、城下マチの雰囲気が道筋や道路名などから伝わってくる。人並みについていくと北入口にたどりつく。北口入口付近から線路沿いは堀ではなかったかと想像してしまう。北口を入ると目につくのが駐車場である。大きな曲輪(クルワ)の一つである。御用米曲輪とある。天守閣の城壁を見ながら本丸へ。天守閣は昭和35年に復興したとある。略年表を広げてみると、明治3年に天守などが売却。明治5年に銅門などが売却。昭和3年小田原城祉払い下げ。昭和9年隅櫓復興。昭和13年国指定される。昭和35年天守閣復興、同46年常盤木門の復興、平成9年銅門復原などとある。馬出門枡形復元工事が行われている最中であった。取り壊しては復原、複雑な思いで眺めていた。
小田原のマチがどう見えるか。天守閣にあがるしかない。上り口にカンヒサクラが花を咲かせている。説明板に「原産は台湾です。沖縄では1月ころから咲き出します」とある。小田原城までカンヒサクラを見るとは。歓迎されたのかも。天守閣は三重の四階建てである。最上階から周りを見ることができる。目の行き場所の一つに中世の小田原城の拠点となったという城山あたりがある。
2007年2月23日(金)
火曜日まで休息します(東京ゆき)。
徳之島に漂着した船の記事をひろってみた。徳之島で唐船や異国船などの漂着船をどう処理したか。その中で大琉球に送り届けたり、送還している。島津の琉球進攻後の徳之島と琉球との関係が見えてくる。与論島以北を薩摩に割譲しながら琉球との関わりを堅持し続けている。そのスタンスが漂着船の処理だけでなく、琉球的な習俗や統治を近世まで残しているのではないか。
④徳之島に漂着した船と処理
・亀津村(徳之島町)
弘化5年亀津村沖に異国船が一艘現れ、橋船で七人が上陸、津口番所に来た後本船に戻り、
大島方面に向かった(「徳之島前録帳」)。
・秋徳村(亀徳)(徳之島町)
明和5年(1768)尾母村下の浦に漂着した唐船の破損した船尾を秋徳湊で修理し乗組員を帰
帆させる。
文化6年(1809)三月井之川湊沖に漂着した唐船一艘を牽引し秋徳湊に回し4月琉球に送り届
ける。
・和瀬村(徳之島町)
享保18年(1733)和瀬村下に唐船一艘が漂着、船は破損していたので捨て流し、乗組員15人
を陸に揚げ琉球に赴く予定。
・尾母村(徳之島町)
明和5年(1768)尾母村したの宇良御口浦に唐船が一艘が漂着し、船尾が破損しているので
秋徳湊で修理し、乗組員26人は帰帆した。
安政4年御口浦に薩摩山川の船が着船するが途中大風波によって難船、帆柱を切り捨て漂着
したという。
・井之川湊(徳之島町)
文化6年井之川港沖に唐船が一艘漂着する。
・母間村(徳之島町)
安永2年(1773)村の沖合いに唐船一艘が漂着したが、乗組員58人は水・薪を積んで帰帆し
た。
・山村(徳之島町)
宝栄6年(1709)頃、金間湊(山湊)に南京船が一艘漂着、また享保6年(1721)にも金間浜に唐
船が一艘漂着。
嘉永2年(1849)に朝鮮人7人が乗り込んだ船が漂着、山村に11日ほど召し置き、そこから秋
徳に移し、さらに本琉球に送還している。

▲徳之島町の東海岸
・手々村(徳之島町)
元文4年(1739)手々村地崎の干瀬に朝鮮人25人乗りの船が乗り上げ破損したため、西目
間切の与人達が本琉球に送還する。
・阿布木名村(天城町)
弘化5年(1848)八月の大風の中、阿布木名村の干瀬に琉球に向かう観宝丸二十三反帆船
が破船する。
・平土野湊(天城町)
京和3年(1803)西目間切の湾屋湊を通過したオランダ船が平土野浦に向かい乗組員(84人)
の広東人と徳之島の通事与人の兼久村の瀏献が対応、本琉球に向かう。
・湾屋湊(天城町)
享保20年(1735)「澄屋泊り」(湾屋湾?)に朝鮮人男18人、女8人、赤子2人が乗り組んだ船が
漂着する。
明和3年(1766)面縄間切の浅間村の浦に唐船(23人)が漂着、湾屋湊から本琉球に送り届ける。
享和3年(1803)オランダ船が湾屋湊を通過し土野浦に向かう。
・岡前村(天城町)
弘化4年(1847)沖に異国船(アメリカ船か)が一艘、上陸して鉄砲で鳥などを撃って遊んだ
あと本船に戻り西の方に向かう。
(工事中)
▲平土野港(天城町) ▲伊仙町喜念あたりからみた朝焼け
2007年2月22日(木)
今帰仁城跡調査研究整備委員会があり、それとは別に館内の展示・運天港・番所跡・オランダ墓・遠見台などの説明で頭の中が回りぱなっし。そのため徳之島に戻すのに手間取っている始末。戻さないと。レジュメがつくれません!ハハハ
③徳之島の村名(地名)など
徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?一つひとつ紐解きする余裕がないが・・・
伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納はウンナーは「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。
【徳之島】 【沖縄本島】
・久志村(徳之島町) ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
・母間村(徳之島町・ブマ) ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク) ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
・手々村(徳之島町手々・ティティ) ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
・兼久村(天城町・カネク) ←→兼久村(名護市・カネク)
・平土野(天城町・ヘトノ) ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
・瀬滝村(天城町・セタキ) ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
・与名間村(天城町・ユナマ) ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納) ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
・糸木名村(伊仙町・イチキナ) ←→イチョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
・大城跡(天城町松原・ウフグスク) ←→大城(ウフグスク)
・喜念(伊仙町・キネン) ←→知念(現在南城市・チネン)?
・グスク ←→グスク
・間切 ←→間切(マギリ)
・八重竿村(伊仙町・竿・ソー) ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
・掟袋・里袋(・・・ブク) ←→田袋(ターブク)
・河地(カワチ) ←→幸地
・按司(アジ) ←→按司(アジ)
・玉城(タマグスク) ←→玉城(タマグスク・タモーシ)

▲面縄の集落(上縄面より) ▲上面縄への途中にある拝所

▲面縄高千穂神社 ▲上面縄から眺めた面縄の集落
2007年2月21日(水)
「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。
辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。
②徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
しよりの御ミ(事)
とくのにしめまきりの
てヽのろハ
もとののろのくわ
一人まなへのたるに
たまわり申し候
しよりよりまなへたるか方へまいる
萬暦二十八年正月廿四日
▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より
古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたいう石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

▲屋敷内に置かれている掟大八の力石(天城町手々)
2007年2月20日(火)
17日17時頃、徳之島の亀徳新港につく。車を借り、喜念・目手久・目縄・検福・伊仙・阿三・鹿浦・阿権・犬田布・木之香・糸木名までゆく。そこで夕暮れとなる。二日目のため、天城から東海岸の花徳(けとく)へ横断し、バス停や道路標識で字(アザ)名を確認しながら南下し亀徳へ。徳之島の一部を訪ねてみたが、まだ見るテーマが決まらず。フェリーを下りるとき、琉大の考古学のメンバー会う。島をちょっと回って宿に戻ると琉大のメンバーも同じ宿で夕食を一緒にする。島を回った印象を少し報告。
(一緒に回ってみたいの学生の声が聞こえたような!そうなると予定の半分もできません。墓調査の現場を見て欲しいとの希望もあったが時間があれば・・・と)
①島津軍の琉球進攻と徳之島(1609年)
1609年3月、島津軍勢の琉球進攻で南下していく途中徳之島の秋徳(亀徳)と亀津での出来事が『琉球渡日々記』に次のように記してある。
「廿日の卯の刻に、西のこみを出船にと、とくの島の秋徳と申す湊に申の刻計りに着き申し候。
船道廿五里にて候。廿一日に出船で、十里ほど乗り出したら、少し向い風気味になり、結局はと
れになったので、引き返し、亀沢(津か)というところに着いた。・・・・廿二日に、深い山を、おおぜ
いで山狩りをした。そのわけは亀沢の役人たちが山にかくれているのを狩出すためであった。
役人を狩り出し、特別に琉球入番衆主取を、致し方なく逮捕された。この人は三司官のうち、謝
納(名か)の婿である。黄鉢巻の位をもった人を捕らえたのである。」
秋徳は今の亀徳に改称されたようである。亀徳大橋の向こう側の橋詰がその場所である。
亀徳を出たが向かい風で
亀津に戻り、そこで山狩をしている。そのようなことを思い描きながらの上陸であった。
島津側の『琉球渡日々記』で徳之島での出来事は上の通りであるが、徳之島でどうとらえているか興味がある。琉球側の『喜安日記』では「三月十日、兵船大島へ着津して島の軍勢弱して敗軍すと飛脚到来す」と記しているのみ。
「亀津の役人が逃隠れたので山狩が行われている。この軍勢に対して秋徳の掟兄弟が棒を尖
らしたり、竹に包丁や山刀を括り付けて敵を打ち殺せと指示しているほか、粟粥をたぎらして坂
や道に流して火傷を負わせるよう命じている」
▲大橋の橋詰めあたりが亀徳 ▲なごみの岬からみた亀徳・亀津方面
▲右手の丘手前あたりが亀津 ▲フェリーからみた亀津の遠景
2007年2月16日(金)
明日から「徳之島」までゆく予定。徳之島には徳之島町、天城町、伊仙町の三つの町がある。それぞれの町には十数の字(ムラ)がある。近世のムラは50近い数である。それを実質一日で踏査することになる。そのため、今日は徳之島情報を頭に叩き込む。
3月の下旬、与論島、沖永良部島、徳之島を含め、古琉球の琉球国(沖縄)との関わりで話をすることに。徳之島行きは講義のレジュメづくりも兼ねているような。徳之島に古琉球の痕跡をどう遺しているか。それらを目で肌で確かめるためでもある。どんな結論を導き出せるのか。結果はどうであれ、徳之島ゆきは楽しみである。
もう一つは、やはり1609年の島津軍の琉球進攻である。3月25日26日は今帰仁間切の運天(古宇利島)。27日は今帰仁グスクに攻め入る。そこでの出来事は、今帰仁グスクのその後の歴史に重要な影響を及ぼしている。琉球進攻は沖縄(琉球)の歴史を大きく変えていった事件であった。
3月20日に徳之島の秋徳につく。出港したが風がなく22日亀津に着く。そこで山狩りをしている。奄美大島で討伐、亀津で山狩り、今帰仁グスクは無人、首里で射撃戦が行われている。島津軍の琉球進攻は、日本の中世の合戦規模のものでは全くない。その様相は何を意味しているのか。17世紀初期の琉球の人口規模を知りたいのは、琉球側の戦力がどれ程のものだったのかにつながってくる。蔡温が述べているように20万人だとすると、17世紀初頭は15万人ほどか
(17世紀初頭イモの導入があり、食料が安定し人口は増え、蔡温の頃には20万人まで増えていったか)。今から二年後には島津軍の琉球進攻から400年となる。それに合わせて県は何か行うのであろうか。
そのようなことを思い描きながら徳之島を回ってみることに!集落やグスクや沖縄に見られる地名の地も見てみたいものだが、正味一日しかない・・・。それと天気はどうか。(月曜日まで留守なり)
2007年2月15日(木)
兼次小の3年生達がやってきた。道具の勉強である。先日、各字にある宝物を拾って発表したグループである。道具の学習もその延長にある。最初にムラ・シマを歩き、大きな木に拾ってきた宝物を実のらすことであった。道具を通して得た先人達の知恵を、それも大木に追加していくことにしよう。
いつも「ムラ・シマ」という世界と結びつけて考える習慣と訓練である。今日、使った道具は、まず三本のクワ、①ランプ ②カクランプ ③アイロン ④ヤカン ⑤むかしの冷蔵庫 ⑥パンドウ ⑦クワ 最後に物担ぎである。むかしの道具を現在の生活とを結びつけていく訓練である。道具の名前を覚える勉強ではなく、道具を通して相手の気持、むかしの人達の心に触れることができたかな?みんなの反応をみていると指導する方も楽しいです。
▲兼次小3年生。道具を使って知恵探し!
2007年2月14日(水)
第7編~9編までの出稿。10編もOK。一息ついて次へと。11編の「戦後資料目録」を残すのみ。80頁の原稿が戻ってきた。これから二校目にはいる・・・。
(逃避したくなります!)
「琉球藩雑記」というのが、『沖縄県史14』(雑纂1資料編4)の中にはいている。「琉球藩雑記」に明治六年大蔵省調とあり、原本は内閣文庫にあるようである。その中の村名や数、人口などの数字があるが、明治6年頃の人口の実数を表していないようである。
「琉球藩雑記」によると、通りである。
琉球藩 人員総計 105,275人(内男 56,623人、女48,652人)
今帰仁間切 人員総計 843人(内男 417人、女 426人)
明治初期の数字にしては少なすぎる。ならば、どのような数字なのだろうか
(市町村史の解説をみると、まだ不明のようである)。
近世の歴史を読み取っていくとき、琉球国全体の総人口、間切、さらには村の人口を踏まえた議論が必要である。明治36年の今帰仁間切 総計(士族含) 12,163人である。それにしても開きがありすぎる。各時代の人口統計を整理してみる必要がありそう。明治13年の「統計概表」があるが、見つからず。「沖縄県地誌略」(明治17年)に人口363,830人余(戸数75,570余)とある。その方が実数を示しているであろう。明治12年の廃藩置県当時の琉球の人口は約35万人と見てよさそうである。
蔡温は『独物語』で「御当国当分弐拾万人能居候自今以後拾万弐拾万繁栄相増都合三四拾万に相及候共・・・」と述べている。当時の人口は20万人と。それからすると、近世初期、16世紀、グスク時代の人口の推計できるのではないか。グスク時代の琉球の人口を10数万人にしても間切や村の規模が見えてきそうである。
・グスク時代の琉球の人口は?
・16世紀初頭の人口は ?
・17世紀初頭の人口は ?
・18世紀中頃の人口は 約20万人(蔡温)
・19世紀末(明治13年)の人口は 約35万人
・20世紀初頭(明治36年)の人口は 約47万人
仮に蔡温は20万人としているが25万人として、17世紀初頭20万人、16世紀初頭15万人、グスク時代10万人と仮定してみると、ムラ・シマが規模がどの程度のものなのか。間切や行政村ができる以前の集団(マク・マキヨ)がどの程度の規模か?
2007年2月13日(火)
「本部域の神アサギ」原稿をまとめる。1666年以前は、今の本部町は今帰仁間切の内。ならば、一緒に見ていくべきだと勝手に考える。本部域の神アサギと集落との関係をみていくと、途中から「神アサギ」を見ていくことは近世の村(ムラ)をみ、御嶽(ウタキ)を通して村(ムラ)を見ることは古琉球のムラ(集落)をみることにつながるのではないか。それと本部域では昭和初期から10年代にかけて、複数の拝所を合祀し神殿、神アサギを拝殿とする動きは顕著である。明治以前の村(ムラ)をみるには、どうしても神殿・拝殿にする前の姿を復元して見る必要がありそう。
▲備瀬の神アサギ(拝殿)と神殿(右手) ▲渡久地の神アサギ(拝殿)と神殿(後方)
原稿出しも大詰めとなる。明日7編~9編まで(50頁)出稿予定。第10編原稿の戦後資料目録を除くと、攻めの作業にはいる。12編の原稿は紙幅の調整原稿。これで大幅な変更はなし。2校目に入ると、画像と図版割付。一週間サイクルの自転車操業がはじまる。体力をつけて!
もくじ(8頁)
△・第1編~4編までの解説(4頁)
◎・第1編 国頭方の間切番所と同(主)村
第1章 国頭方東宿の間切番所と同(主)村(18頁)
第2章 国頭方西宿の間切番所と同(主)村(28頁)
◎・第2編 中頭方の間切番所と同(主)村
第1章 中頭方東宿の間切番所と同(主)村(16頁)
第2章 中頭方西宿の間切番所と同(主)村(8頁)
◎・第3編 島尻方の間切番所と同(主)村
第1章 島尻方南風原宿の間切番所と同(主)村(14頁)
第2章 島尻方真和志宿の間切番所と同(主)村(14頁)
◎・第4編 首里王府(8頁)
◎・第5編 山原の御嶽(ウタキ)と集落(36頁)
◎・第6編 金武・恩納域の御嶽(ウタキ)と集落(36頁)
◎・第7編 今帰仁・本部域の神アサギ(20頁)
◎・第8編 今帰仁間切平敷村略図にみる原域(10頁)
◎・第9編 ミャークニーの諸相
―哀惜歌としての側面に注目して―(酒井正子)(20頁)
◎・第10編 戦中・戦後の記憶(12頁)
○・第11編 今帰仁の戦後60年の軌跡(企画展・戦後資料目録)(40頁)
・編集後記
◎・第12編 山原の歴史と伝統芸能と祭祀(15頁)(紙幅調整原稿)
2007年2月11日(月)
天気がよく連休ということもあってか来館者が800~900人余と続いています。しばらく続きそう。心地よい気温と青空、リーフの白波と青い海、そして今帰仁グスクの桜がいい。お客さんの流れや動きなどの様子をみながらグスクまで。ガイドさん達は朝早くから案内しています。ご苦労さんです。
2007年2月9日(金)
「今帰仁域の神アサギ」について整理する。山原全域の神アサギについてまとめたいのだが、紙幅と時間がないので今帰仁域の神アサギを扱うことに。振り返ってみると、この神アサギは歴史文化センターのムラ・シマの歴史研究の手掛かりとはずみをつけてくれた重要なキーワードの一つである。神アサギを扱ったことから、いくつもの法則性を見出すことができた。今では当たり前に議論されるが、手をつけた頃は全く自信がなく、先の見えない研究だったことと、山原の全ての神アサギの前に立ち考えたことが一つひとつ思いだされる。
神アサギ調査は、途中からムラ・シマの歴史研究に欠かすことのできないことに気づく。神アサギを通してムラ・シマの成り立ちや歴史が見えてくる。神アサギは柱と茅葺屋根、そして土間で壁がなく単純な建物である。しかし、そこから様々なことが見出すことができた。建物そのものが様変わり祭祀は衰退の一途を辿っているが、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる神アサギ(アシャギ)の9割も残り、あるいはあったことが確認できる。明治以降これだけ変化した時代でありながら、神アサギを今に残し続けているのは何なのかである。神アサギは単なる祭祀空間ではなかった。神アサギを通して見えてきたものを思いつくまま拾うと以下のようなものがある。
①神アサギは集落とともに移動する
②近世にあっては新しく行政村(ムラ)を創設すると神アサギをつくる
③行政村が合併しても神アサギは一体とならない(祭祀は一体化しない)
④神アサギのアサギミャーがある
⑤アサギミャーで村踊り(今の豊年祭)が行われる
⑥茅葺屋根の低い建物である
⑦祭祀空間である
⑧山原域は神アサギ、中南部域では殿(トゥン)
⑨神アサギが作り変えられても柱の数はかえない
⑩神アサギの大きさでムラの大きさを誇っている
⑪(貢租の集積場となる)
⑫神アサギの中で線香を立てる方向に御嶽がある(全く逆の場合もある)
⑬タモト木と呼ばれる丸太が置かれる
⑭ノロを中心とした祭祀は国の統治と納税と密接につながっている
(祈りは五穀豊穣・航海安全・ムラの繁盛など)
⑮神ハサギ(西側)と神アサギ(東側)呼称の違いは?
その他

▲古い型を保つ崎山の神ハサギ ▲合併したムラの二つの神ハサギ(諸志)

▲1738年創設したムラ湧川の神アサギ ▲御嶽の中にある平敷の神アサギ
2007年2月8日(木)
「山原の御嶽・グスク・墓・集落」をテーマに講話の予定。それで画像と頭の整理。それが終わると一段落つくかな。一息入れたいところ。外はポカポカ陽気。
2007年2月7日(水)
「金武間切域の村々」(第6編)の出稿(40頁)。遅れ気味なり。あれこれで多忙中!
昨日は兼次小学校の学習発表会に足を運びました。一学期から夏休みにかけて、今帰仁グスクや校区の字(アザ)の神アサギや馬場跡や湧泉(カー)などを調べました。また歴史文化センターに来て学んだりしていました。その発表会です。
その前に今帰仁グスクでやってくれた学年もありました。現場を踏まえた発表なので自信と地に足がついたいい発表でした。5年生は日々の生活をドラマにした内容。自分達でドラマのつくれるメンバー。気になっていた6年生。各時代をしっかりと発表していました。全時代を自分のものにできたかな?各学年駆け足で。数分ずつしか見れずとても残念。いい発表でした。パチパチ!ご苦労さんでした。

▲出番前。少し緊張! ▲今泊グループの発表(3年)

▲4年生の発表。余裕! ▲生活をドラマに。笑いあり!(5年)

▲村政時代。600年余の歴史を!(6年) ▲行った場所を絵に(3年)
2007年2月5日(月)
天気がよく今帰仁グスクへの坂道沿いやグスク内のカンピ桜は木によっては満開。中には、これから咲く木もあります。見ごろは、しばらく続きます。ここ二週間、日々1000名前後の来館者が。
明日は兼次小学校の学習発表会。夕方、「館長さん、見にきてください!」と各学年からの招待状を持参して来館。そういうのに出かけるのは苦手ですが、明日は児童生徒一人ひとりの成長ぶりを見たいです。楽しみです。
「金武間切域の村」の積み残しがあったので、確認のため宜野座村宜野座と屋嘉、金武町金武・並里までゆく。
【宜野座村宜野座】
宜野座村宜野座は金武間切の村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)にヨリフサノ嶽がでてくる。神名はコバヅカサワライヂヤウノ御イベとある。宜野座の神アサギ周辺にヌンドゥンチ、ニーヤー、シシ殿内などがあり、それらの森全体がウガンや大川グスクとも言われている。また、一帯はフルジマと呼ばれ、ウタキ・神アサギ・ウブガーなど、ウタキを背にした集落形態を残している。宜野座ノロの管轄である。ウタキ(グスク)の内部や近くに旧家や神アサギが位置する村の事例である。

▲宜野座のウガン(別名大川グスク) ▲宜野座の神アサギ
【宜野座村惣慶】
屋嘉も金武間切の村の一つである。ウタキはアガミと呼ばれ、『琉球国由来記』(1713年)の惣慶村にマチョウガマノ嶽とあり、神名はアラハタヨリフサノ御イベである。そこは漢那ノロの管轄である。アガミは戦時中に神社風のお宮にしたという。
惣慶の集落はオガミ山(御嶽)を後方にして、なだらかな低地へと発達している。アガミ山の近くに旧家がある。惣慶も御嶽を背に発達した集落である。

▲惣慶のアガミ山(御嶽)神社風の建物 ▲惣慶の神アサギ

▲右側の建物後方にアガミ山(御嶽) ▲惣慶の旧家の一つ仙間屋
【金武町金武・並里】
金武間切の同村である。現在の金武小学校の付近は「御願原」である。一帯に『琉球国由来記』(1713年)の金武村に出てくる「中森 二御前」(神名:タケノコホツカサノ御イベ、ヨンサノツカサ御イベ」と二つのイベが記されている。それが公民館の側のヘーシンバとナカムイと見ていい。御願原一帯はウガンと呼ばれ御嶽になっていたという。二つの香炉が置かれているイベは一つの森にあったとみてよさそうである。
金武村には中森の他にトムツヅイベがあり、それらとは別にキンタガーの後方にも御嶽がある。行政村の金武村には複数の御嶽があるようにマクやマキヨクラスの集落があり、それらをまとめて金武村にしたと見られる。金武と並里が金武村の一行政村になるが、複数の御嶽や現在の金武区と並里区に分かれているが、それは行政村金武村になる以前の様相をひきずっているのではないか。
中森の二つのイビは、金武村が同村であると同時に惣地頭が関わる村であるとことと無縁ではなかろう。イビの数多くの香炉は、金武王子や金武按司などが大和旅、あるいは唐旅をしたときに航海安全祈願で寄進した香炉と見ている。

▲金武区公民館の側にあるヘーシンバ ▲ヘーシンバにある香炉
▲20基余の香炉

▲中森(ナーカムイ) ▲中森のイベにも香炉
2007年2月2日(金)
午前中兼次小学校3年生の「総合的学習」を今帰仁グスクで。自分達が住んでいるムラ(字)の宝探しです。大きな大木に宝物の実を実らせ、語らせるのがねらいです。一人ひとり拾ってきた宝を絵にして、みんなに伝えてくれました。
暑い夏の日一緒に回ったことが思い出されます。絵や文章にして、発見や感動を友だちにも伝えてくれました。ムラ・シマを調べる面白さに気づいてくれたようで、有りがたいです。学校での指導は石川先生、発表の指導は歴史文化センターの石野さんでした。いい発表でした。一般の方々からもパチパチパチ。
▲今泊グループ(7人) ▲兼次グループ(5人)
▲諸志グループ(3人) ▲与那嶺グループ(4人)
▲仲尾次グループ(4人) ▲3年生はみんなで23名です
2007年2月1日(木)
2月になりました。冷え冷えした一日でした。旅行の来館者も寒い寒いと。「沖縄も寒いなー!」と急ぎ足で展示室を抜けていきます。
④メンナー山(ヤブサス御嶽イベ)(伊是名島)
諸見の後方(北側)の標高84.9mの山がメンナー山である。『琉球国由来記』(1713年)のヤブサス嶽御イベのようである。島には「島中拝所」と「公儀祈願所」と区別されていてる。諸見のヤブサス嶽御イベは島中拝所である。神名はキウノ森とあり、本島側の御嶽の記載が異なる。本島側流に言うとキウノ森が御嶽名で、ヤブサス嶽御イベは神名ということになる。メンナー山全体が御嶽(ここでいうキウノ森)でヤブサス嶽御イベ部分はイベに相当する部分と考えている。
『伊是名村史』によると銘刈家の古い絵図に「いさす御嶽」とあり、メンナー山はイサシが古い名称ではないかとある。『琉球国由来記』のヤブサスと銘刈家の絵図のイサスは表記の違いなのであろう。
鳥居を三つくぐると瓦屋根の建物があり、イビノメー(イビの前)にあたり、頂上部に向けて壁が開けてある。そこに石が一基置かれている。そこはイベ部へのお通しのようである。そこから小道を登っていくと頂上部手前程にサンゴ石で造られた小さな祠があり、内部は一個の石が置かれている。メンナー山(ヤブサス:イサス御嶽)は諸見の村(ムラ)の御嶽と見ることができる。諸見の集落内の尚円と関わる拝所は、公儀拝所と記されるようにクニ(国)クラスの祭祀である。それが混交した形で行われているのではないか。
▲二番目の鳥居 ▲三番目の鳥居の赤瓦屋根の遥拝所
▲頂上部に向かう小道 ▲頂上部近くにある祠