2006年12月の調査記録

                             沖縄の地域調査(もくじ)



2006年12月21日(木)

 『琉球国由来記』(1713年)の八重山島(石垣島)には石垣村・登野城村・名蔵村・崎枝村・平得村・大浜村・宮良村・本宮良村・川平村・中筋村・桴海村・平久保村が登場する。何故か白保村が登場しない。白保にある御嶽は宮良村内となっている。由来記に登場する石垣島の村々を訪ねてみたいのだが。

 白保から大里→星野→伊野田→伊原間→明石→久宇良→平久保→平野まで行ったのであるが、車を降りるたびに雨。そのため集落内の踏査は諦めることに。平野から伊原間まで戻り、そこから西海岸沿いを寄り道せず川平へ。川平で大雨と闇となる(1日目)。

③【石垣市川平】

 川平は川平間切の中心となった村である。1771年頃の人口が951人である。川平は仲間・大口・仲栄・久場川・西・慶田城・平得・内原・田多の9つの小さい集落からなっているという。それらの集落と御嶽との関わりを見ていく必要がある。行政村となる以前の小集落はそれぞれ御嶽を持ち、それが行政村として一つにされたとき、御嶽を一つにしたり祭祀を村祭祀として整理できなかった痕跡として見ることができそう。

 『琉球国由来記』(1713年)の川平村に赤イロ目宮島御嶽・山川御嶽・稲ホシ御嶽・浜崎御嶽・シコゼ御嶽がある。本島では神名を・・・イベとしているが、八重山では御イベ名として名称がつけられている。記録の方法が異なっている。神名は御嶽と同じ名とし、神名とは別に御イベ名が記されている。


 「大波之時各村之形行書」(1771~1776年)で川平村の被害状況が以下のように記されている(『大波之時各村之形行書』石垣史料叢書12:現代語訳より)。川平村出身者32人の溺死者が出ているが、石垣に出かけての被害なので川平村内での死者はでなかったようである。作物や田に被害がでたものの村や御嶽には被害がなかった。

  住民は男465人、女486人、合計951人いたが、大津波が掲がり、男14人、女18人、合計32人が
  溺死した。磯辺の所々に被害が出たが、男451人、女468人、合計919人が生き残った。村や御嶽
  は別状ない。
   男女32人は、公務で石垣に出掛けていて溺死。

 
  ▲ヤマオン(山川御嶽)の鳥居と拝殿         ▲ヤマオンの本殿とイベ

 
▲ンニブシオン(稲干御嶽・群星御嶽)の鳥居      ▲ンニブシオンの拝殿

 
    ▲ンニブシオン(群星御嶽)の庭      ▲シニブシオンの本殿とイベ

 
  ▲アーラオン(赤イロ目宮鳥御嶽)        ▲アーラオンの拝殿

 
     ▲川平にある観音堂               ▲キファオン(浜崎御嶽)


2006年12月20日(水)

②【石垣市伊野田】

 白保を後にして北上し伊野田で車を降りる。入植した集落だということは前から知っていた。鳥居と目にしたとき、「八重山の御嶽にしては変だな。山原の御嶽に似ているな」との印象をもった。これまで見てきた八重山の御嶽は平坦地にあり、鳥居や拝殿や本殿、そしてイベが明確にある。伊野田は鳥居の後方の森全体が御嶽、鳥居をくぐり登っていくと御嶽のイビにあたる場所に祠が設置されている。火の神(三個の石)ではなく一個の石か香炉が置かれている。これまで見てきた山原(沖縄本島)の御嶽の構造である。

 伊野田への集団入植者は、以下の通りである(『八重山開拓移民』金城朝夫による)。
     第一次が大宜味村田嘉里(21戸)と喜如嘉(1戸)(昭和26年)
     第二次が大宜味村田嘉里(9戸)

 
 伊野田の御嶽内の三つの祠(イベ)がどのような観念で設置されたか未調査だが、田嘉里は親田・屋嘉比・美里の三つのムラの合併(明治36年)なので三つの村(ムラ)のイベを想定したものか。それとも三つの系統の一門、あるいは田嘉里・喜如嘉ともう一字としてのイベなのか。御嶽を造った経緯については改めて確認することに。

 いずれにしろ、白保でもそうであったが、ここ伊野田でも他の地域から集団で移住しくると、新地に信仰の対象として御嶽をつくる性格をもっている。八重山でも沖縄本島でも。沖縄本島での鳥居は昭和初期からで、八重山の御嶽の鳥居は明治初期(廃藩置県以前)からあるので、両者の性格は異なる。

 「大波之時各村之形行書」(1771~1776年)で白保村の被害状況が以下のように記されている(『大波之時各村之形行書』石垣史料叢書12:現代語訳より)。
  (略)

 
    ▲伊野田の御嶽の前の鳥居           ▲御嶽のイベに祠を設置

 
            ▲伊野田集落センターの後方の森が御嶽

 午前中、兼次小6年生がやってきた。「間切時代(前期)」である。この時代の特徴を整理し、6枚の絵まで。


2006年12月19日(火)

 
16日から石垣島(石垣市)と小浜島(竹富町)までゆく。今回の八重山ゆきは、シマを見るキーワードが見つかればとの思いで・・・。まだ定まらないキーワードを見つけることが目的。ゆく前に「沖縄本島から海路で439km、台湾のキールンまで200km。そして沖縄県で最高峰の於茂登岳が477.4m」程度の予備知識。それでも胸騒ぎがしてくる。市内で車を借りると、まずは宮良から白保へのコースをとることに。

 16日は雨である。登野城→平得→真栄里→大浜へと車を走らせたのであるが、その境界が全くわからず。ということもあるが、石垣の空気に馴染んでいず、キーワードが定まっていず、足慣らしから。宮良の浜川原(ハマンガー)だろうか、道路沿いにヤラブの老木の並木があり車を降りてみた。大浜と宮良の集落をつなぐ道筋だったのであろう。

 
   ▲雨の中、空港から石垣市街地へ         ▲宮良のヤラブの並木道

①【白保の集落と村建と御嶽】

 宮良の集落を飛ばし白保の集落へ(宮良は三日目にゆく)。白保小学校を左手に見ながら通り過ぎ、右手の白保の集落内へはいる。

  ・宮良間切しらほ村(1647年頃:『宮古八重山両島絵図帳』)
  ・宮良・白保弐ヶ村(1651年:『八重山島年来記』)
  ・『琉球国由来記』(1713年)には白保村は宮良村内となっている。
  ・明和の大津波で白保村壊滅状態(1,574人の内28人が生き残る)(1771年)
  ・波照間島から418人が白保に移住(大津波後)
  ・八重山村字白保(明治41年)
  ・大浜村字白保(大正3年)
  ・大浜町字白保(昭和22年)
  ・石垣市字白保(昭和39年~現在)

 白保村は隣の宮良村とで宮良間切をなし、規模の大きな村であったようである。明和の大津波当時の人口が1,574人で八重山群島内で最大規模の人口を擁していたという。明和の大津波で人口の98%を失い、たった28人が生き残るという大惨事である。そこで関心をもったのはその後の村の復興と御嶽である。

  ・『琉球国由来記』(1713年)に嘉手苅御嶽・真和謝御嶽・田原御嶽が出てくる
   が宮良村となっている。それらの御嶽は現在白保内にある。
  ・波照間島から418人を移住させてウイヌージィ(上の地)に村を再建。
  ・近接していた真謝村も合併(あるいは真謝原にあった御嶽?)
  ・真謝村があったかどうかは不明。
  ・小字嘉手苅にあった御嶽(嘉手苅御嶽)

 そこで御嶽と集落の関係がはっきりしているのは明和の大津波の後、波照間島から418名を移住させたことである。移住すると、新地に御嶽をつくり故郷の村名や御嶽名をつけていることに注目した。それと、移住と関係なく御嶽あり、それら複数の御嶽は行政村になる以前の集団の御嶽と見ることができ、ムラが壊滅しても再び御嶽を復興させている。集団をなし住みはじめると御嶽をつくる習性をもつ集団ではないか。それだけのムラの人々の減少は税制度(土地制度)そのものが崩壊したのではないか。

(白保から後は、御嶽と集落との関わりで見ていくことになる。ときどき、八重山のムラ(集落)を見ると山原のムラがよく見えてくると言ってきた。今回もそうである。八重山の御嶽の構造は、森そのものが御嶽で鳥居・拝殿・イビの前・本殿・イビとする)。

 
      
▲嘉手苅御嶽の拝殿            ▲嘉手苅御嶽の本殿とイベ

  
       ▲真謝御嶽の拝殿           ▲真謝御嶽の拝殿にある扁額

 
   ▲多原御嶽の鳥居と拝殿          ▲拝殿にある「多原嶽」の扁額

 
      ▲波照間御嶽の拝殿          ▲拝殿の「波照間嶽」の扁額

【参考文献】

  ・「明治・大正・昭和初期―思い出のまち・むら―」石垣市史編集室(平成2年)
 ・「いしがきの地名(1)」石垣市史編集室(平成元年)
  ・『石垣市史―各論 民俗上』石垣市史編集室(平成6年)