2006年8月記録

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(画像は略)

2006年8月31日(木)

 学芸員実習最終日。今日は展示のレファレンスまで。一人ひとりの実習期間の感想や印象を述べてもらった。これまでの展示では、以下のコーナーにまとめてあります(資料の整理で一部変更もあり)。展示を見に来られた方々がどう見てくれるのか一番気になるところでしょう。レファレンスもやってもらいましょうか。残念、そこまでやる時間がありませんでした。作る側の立場、充分体験できたのではないか。実習ごくろうさんでした。

 ①水田のある風景
 ②戦後の建物の移り変わり
 ③今帰仁の19の字(アザ:ムラ)
 ④ムラ・シマの人々
 ⑤戦後60年の軌跡(文書資料展)
 ⑥行政の中心となった役所(役所関係文書)
 ⑦村内の学校
 ⑧湧川の塩づくり
 ⑨薪からガスへの時代
 ⑩今帰仁の生業(農業・漁業など)
 ⑪茅葺屋根から瓦葺へ(神アサギ)
 ⑫消えゆく祭祀(海神祭、ウプユミなど)

 展示の全体は、「戦後60年の軌跡」のページで報告することに。


▲片付けも終り、ヤッター!     ▲「稲作が行われていた風景」そこに・・・


2006年8月30日(水)

 展示は着々と進んでいます。午前中、沖国大の大城、玉城、嵩原の三名で倉庫と展示室の片付け。午後から二ヶ所の壁展示をしました(雑然としていた展示室はすっきり)。ごくろうさん。

 展示作業もみていくお客さんがいます。展示作業も展示の一部だと考えていますので「どうぞ」です。現物資料を手にするたびに緊張が走ります。同時に嬉しいものがあります。その感動は多くの方々にも。秘めておくのはもったいないなり。そのこともあって作業過程も展示の一部だと実習生達に言っています。

 学芸業務は見る側ではなく見せる側だと。展示は理解させるというより、ショックを与えるものだと考えています。また展示過程の展開も、このページで紹介しています。進捗状況を画像で見せています。

 展示もボツボツ大詰めに入ります。「いつオープンしてもいいですね」の声が聞こえてきます。開催日を早めてもいいかな?10月2日からにしますかね。

 戦後の文書資料の中身については、これからです。めくると、何があるのか・・・。ミイラ獲りがミイラになり展示作業が進みません。一段落したので、二、三の表紙を見ました。ちょっと待て、マテ!(ハハハ)


 ▲戦後の動きを写真と物でみせます!  ▲戦後の軌跡を出来事と文書資料で!


 ▲片付け、心機一転して作業に入る  ▲ミイラ獲りがミイラになるので表紙のみ

2006年8月29日(火)

 広島女学院大の二人が今朝今帰仁を去る。広島のメンバーのお陰で予定以上に展示作業が進みました。人数が半分になったので気が抜けています。今日は、ゆったりの一日なり(実は疲労困憊中なり。ハハハ)。

 今日は壁展示の補充程度の進み具合。午前中、沖国大(崎浜助教授)から学芸員実習生の激励に来館。わざわざご苦労さんでした。


2006.08.28(月)

 二日間は野外へ。今日から再び館内の展示にかかる。展示はほぼ山を越えたところ。広島のメンバーは最後の実習日である。ごくろうさんでした。

 今日で壁展示がほほ完了する。部分的に物展示にはいっている。明日からは、コーナーのタイトルと解説文にはいる予定である。

 27日(日)は「琉球孤の子ども像と地域史」(於:沖大)に参加。「山原の間切番所と同村と祭祀」で報告する。

 いろいろなことがあって書くことができない状態なり。ハハハ
 

   ▲一枚一枚丁寧に展示せねば!   ▲自分達手掛けた展示の前で。感無量!


   ▲コーナーによっては、これから・・・        ▲「バランスいいですか?」

 
土(26日)は館外研修である。まず、古宇利大橋から島の渡海浜まで下りる。大宜味村喜如嘉の芭蕉布会館、謝名城を通り、国頭村のゆいゆいで昼食。やんばる野生動物保護センターへ。

 さらに国頭村の辺戸岬、辺戸の集落(松並木・神アサギ・ノロドゥンチ跡・ウタキなど)を散策する。奥・安田へ周り帰路へ。奥と安田との間でヤンバルクイナーとであう。


    ▲古宇利島の渡海の浜         ▲古宇利島の北側のポットホール


  ▲辺戸岬から安須森を眺める     ▲野外展示のヤンバルクイナー


2006年8月25日(金)

 「戦後60年の軌跡」の企画展の「ムラ・シマの人々」「昭和20年代の風景」「戦後の建物」「戦後の祭祀」などのコーナーの壁展示が着々と進んでいる。

 戦後の文書資料を台に置いてみた。これまでどれだけ展示を手掛けたか数えたことがないが、今回の展示は、わたしにとって最後の展示ではないか。戦後60年の軌跡を辿るような展示会は、わたしの時代にはないでしょう。戦後の文書資料を台に並べたときに、そんなことが脳裏を横切ってしまった。それは時間的なこと、同時に体力的なことも(今回は指示するのみ)

 年度別に置いてくれた資料のページをめくりたい気持ちを抑え、これらの資料をどう宝物として残していけばいいのかが・・・。ただの紙屑にしないためにも方針を定める必要がありそうだ(戦前首里城にあった郷土博物館への批判が胸に突き刺さっているからである)。

 この展示会は歴史文化センターとわたしへの贈り物ではないか。学芸員実習生達の言葉を聞いていると。感謝


   ▲戦後の60年の資料を置いてみた・・・・


   ▲ムラ・シマの人々コーナー   ▲タイトルを決めかねているコーナー


 ▲区切りのいいところで今日の作業は終了。手ごたえのある一日だったと!

2006年8月24日(木)

 前の展示物を撤去し、いよいよ展示に入る。大分ペースが速いようだ。今日は出来事のコーナー、村の人々のコーナーなど壁展示にはいる。実習5日目の学生(沖国大)、3日目の学生(広島女学院)、ボツボツ疲れがきたところか。そのこともあって、自分達が作った展示パネルがどう展示されていくのか。それが見えると疲れも吹き飛ぶでしょう。やはり、自分が作ったパネルが落とされるのは気になるようだ。

 学芸員実習期間は、展示作業の一過程である。展示についての資料収集は大分前から逐次進めてきた。今回は戦後60年の資料を整理することを含めての展示である。展示についてはHPの「平成18年企画展(準備中)」で一部紹介しているが、本番はこれからである。企画と大分変動がありそうだ。


   ▲正面の壁の展示にかかる         ▲60年の出来事を年表に!


   ▲前回のをはずし・・・           ▲ムラの人々のコーナの展示にはいる

2006.08月.23(水)

 「戦後60年の軌跡」の戦後の出来事を年表風にまとめることに。展示パネル作成はスムーズに進んでいる。展示の流れを逐次報告する予定であるが、更新がスムーズにできない(肝心なときに用をなさない。度々)。

 器用なメンバーが揃っているので、パネル張りもスムーズにすすむ。


      ▲台に写真張り             ▲手分けして写真張りとカッティング

2006年8月22日(火)

 学芸員実習は展示パネルづくりにはいる。50枚余のパネル台作成にはいる。写真の大きさにベニヤと角棒で台作り。


     ▲写真をはる台づくり           ▲一日の作業が終り報告会

2006年8月21日(月)

 
小学6年生「北山王時代」グループ。初任者(3年)、10年経験者研修会。学芸員実習。いくつも重なると声が出なくなる。ハハハ

 館内、今帰仁グスク、乙羽岳、運天の墓などをゆく。


   ▲北山王の時代の王は?


  ▲10年研の先生方と一緒に研修!  ▲乙羽岳から村内全域を見渡す


  ▲運天の歴史の面白さを・・・      ▲研修の後は上間商店でゼンザイを


2006月8月19日(土)

 学芸員実習(沖国大3名)がスタートする。学生達は14日の古宇利島のウンジャミ、そして昨日の伊野波のシニグイ(ウシデーク)をみる。実習はミーティングと展示用パネルづくり。そして嵩くんが宿泊する家の掃除をみんなで。明日、広島のメンバーが今帰仁入り。


  ▲みんなで大掃除。嵩くんのために・・・   ▲やはり大変だね!

 伊野波の神アサギは公民館の側から、現在地に移動したようである。殿(トゥン)と呼ばれる神家があるが、それは伊野波ノロ殿内のようである。ムックジャのユングトゥを唱える場所でもある。「神敬」の扁額が掲げられている。殿の中に三つの香炉があり、その一つに「奉寄進 咸豊九年巳未九月吉日 本部按司内 渡久地仁屋」とあり、首里に住む本部按司(あるいは按司家)と伊野波村は密接な結びつきがあったことが知れる。

 また、伊野波の方々にはあまり認識されていない拝所がある。それは殿の右手にある小さな祠である。それは伊野波家の火神である。それは惣地頭火神でる。首里に住み本部(伊野波)間切の惣地頭である。伊野波村に伊野波姓が一軒もないからと誤解している話も聞かれた。それは『琉球国由来記』(1713年)の伊野波村の祭祀に惣地頭が関わっていた痕跡が、惣地頭火神の祠にみることができる。また、並里にも「本部按司」と彫られた香炉がある。それは並里は伊野波村から1666年以降に分離した村である。そのため本部按司は伊野波と並里の両村の祭祀に関わったと見てよさそうである。


   ▲正面の祠が殿(トゥン)(伊野波ノロ殿内)  ▲殿にある「本部按司内」の香炉
 

   ▲シニグイ当日の神アサギ            ▲強飯(粟のはいたおにぎり)


    ▲惣地頭火神とみられる祠          ▲ウシデークとムックジャの場面
2006年8月18日(金)

 
本部町伊野波、並里、具志堅のシニグ(シニグイ)の調査をする。芸員実習もかねている。伊野波は昼間のウガンは終わっていて(潮に合わすようだ)、その足で並里へ。並里は公民館でウガンの準備中。以下の順で同行させてもらう。

  ①並里公民館   ハシキ(米と粟)お神酒(ゲンマイ)などを準備
  ②上満名殿内の離れの拝所
  ③上満名殿内(火神→神棚(関帝王三人像)→位牌)
  ④並里神社(上の祠:ウタキ)→神アサギ内)


  ▲ハシキと神酒(ゲンマイ)(公民館)   ▲上満名殿内の離れの拝所


  ▲上満名殿内で三ヶ所拝む        ▲神棚の関帝王にも拝む


 ▲神アサギの上の方にある祠へ      ▲神アサギ内でのウガン 

 
浦添市立図書館(沖縄学研究室)の長間氏から二枚のファックスが送られてきました。大宜味間切の根路銘村と津波村の山原船に関わる「津口手形」の一部のようです。一枚は明治30年代のもの(割印の下部の「・・・・・之印」とある。大宜味之印か)と見られるが年号不明。二枚目は明治17年です。全文確認したいと思います。資料提供は有り難いものです。感謝

【津口手形】文書(大宜味間切)

       津口手形
(明治30年代?)

  一 四反帆船   根路銘船
                 船 頭
        大宜味間切根路銘村拾八番地平民
                       金城国作
                       外乗組三人
     此積積込品目
   焼酎壺壹本      但壹斗入
   右ノ通リ検査ノ上船頭金城国佐ハ此手形ヲ下附シ大宜味間
   切根路銘村ヘ向ケ出船着許候条着港ノ上ハ手形ノ
   現品ヲ□査有之度候也
                  西村筆者
                      真栄城秀利
                 仝中取代理筆者
                      宮平永和
                 仝主取
                      安良城政起
     大宜味間切番所
              御 中


        「タイトル」欠
                     大宜味間切津波村
一 四端船     □有
    但積荷
    一 焼酎弐百斗       一 藍玉弐千斤
    一 雑有木 五拾本     一 アデュカコ木二十本
    一 砂糖栗弐千五百枚   一 仝フタ底板六百枚

   右之通積入永良部島江向ケ航海致度今般
   甲臺四十七号御布達之通船頭金城蔵下ヨリ
   航海願御許可相成申候間改方被仰付可被下候
   若現場御改之時違メ有之亦・・・・・・・・・・・
   其御取扱可被仰付候也
     明治十七年一月        山 當  宮城 仲濱
                       與組 頭  金城吉山
                       夫地頭 山城米吉

2006年8月17日(木)

 「副読本」の原稿渡し。ひとまず手から離れました。詰めの作業は次回。一息ついたと思ったら出版社から速達便が。原稿の督促か?(開封するのが怖い!)

 学芸員実習が始まるので、展示作業へ頭の切り替えを・・・。それにしても、明日もう一つ調査がはいている。本部町のシヌグイ(ウシデーク)調査がある。学生達の実習をかねた調査である。静かに参加したいのだ・・・。

【むかしあった飲み物】
 今日は5年生グループが。今日のテーマは何だったかな?そう、意外な質問で「むかしの飲み物は?」でした。「お酒、泡盛。それは大人が飲むものだな」、「お神酒というのがある。それもいくつか作り方があるようだよ。その一つに米などを炊いて、さめたらそこに口でかんだ米などを入れて置いて三日ほど置いておくと酒になるそうです」「みんな何歳?12、13歳でしょう。みんなの年齢になると口でかんで入れる役目だったのだぞ」「ゲー、ゲー」「神さまに捧げるものだからね」(お酒は二十歳なってからだぞ!)

 ほかに飲み物は?「シークヮーサーのジュース。半分に切って絞って砂糖を入れて、お湯か冷たい氷水を入れて飲んでみてください。みんなの年頃によく飲みました」。
 今もあるが、次のようなものがあるね。
   ・バンシルジュース(グヮバジュース)
   ・パインジュース
   ・バナナジュース
   ・ウッチン茶
   ・ゴーヤージュース
   ・バナナジュース
   ・ヤギの乳(牛乳は戦後だな)

【むかしあった職業・仕事】 
 今では今帰仁村にもいろいろな職業や仕事がありました。今では見かけないのもあるが、次のような職業や仕事や職人がいました。
  ・イシゼーク(石細工:石積みなどをする)
  ・マースヤー(塩つくり)
  ・ハンゼークヤー(金細工)
  ・馬車(馬)ムチャー(今のダンプカーの運転手)
  ・パジチャー(針突人)
  ・トーフヤー(豆腐屋)
  ・ウミアッチャー(漁師)
  ・セークヤー(家大工)
  ・イサーヤー(医者家)
  ・サカナヤー(料亭)
  ・役人(フイヤー・ウッチヤー・コーサクヤーなど)
  ・プグイトヤー(豚のフグリとり)
  ・バクヨー(博労)
  ・プニムチャー(船持ち)
  ・チミクマサー(馬蹄)


2006年8月16日(水)

 
午後8時から『運天誌』の編集会議なり。準備資料なし。参りました!(口絵を先行させることに。来月の編集会議には口絵部分入稿できるところまで進めることに。)

【ワラビ細工】
 5年生グループがやってきた。テーマやワラビ細工である。ワラビはコシダであるが、ここではワラビと呼んでいる。各地に分布している。ワラビ細工に使えるのを選ぶには経験が必要のようだ。

 以前は洗った容器の水切りに使っていた。特徴は竹細工のようにカビが生えないこと。そして太陽にあてない限り色がさめないこと。今では花いけや入れ物など入れなど、15余りの型があること。歴史は古くないが戦後は、ワラビ細工を売って学費にあてて高校を出た人たちがたくさんいること。現在今帰仁村でワラビ細工を作っている方は数少ない。竹のカゴとの違いは?産業にするには?


     ▲ワラビ細工は主に食器の水切りに利用。竹篭などは米や麦など・・・

【古宇利の豊年祭】
 古宇利島の豊年祭をみる。他の地域では村踊り(ムラウドゥイ)という。古宇利島の豊年祭に、本来の豊年祭の姿を見ることができる。その姿というのは、神アサギ⇔アサギミャー(神人+村人)⇔舞台(長者の大主・豊年)⇔ウタキの構造である。豊年祭もムラの年中祭祀の一連のものと位置づけて見る必要がある。古宇利島の豊年祭にはその姿がしっかりと位置づけられ残っている。

 豊年祭の舞台の演目に目がいくが、旗頭の「海神遊」と「祈 豊年」は年中祭祀を象徴しているのではないか。つまり、祭祀の日は人々の休息日であり、豊年祭は神アサギに多くのムラ人が集まり、長者の大主と子供たちは健康繁栄、さらに豊年・豊漁を祈願し感謝を演出する場が神アサギを中心とした会場である。


 ▲長者の大主を先頭に(道ジュネー)  ▲神人は一列に座り最後まで舞台を見守る



  ▲演目の最後はスンドウである        ▲神人のウガンで閉じる

2006年8月15日(火)

 午前中、6年生、5年生、3年生のグループが次々とやってきました。3回目のメンバーもいる。

 6年生グループは「村政時代(後期)」でした。戦後すぐから現在(世界遺産登録)まで。この時代は今帰仁グスクと関わる以下の出来事がありました。
  ・戦後すぐ今帰仁グスクの大隅にミカンを植えた。
  ・昭和33年に琉球政府の文化に指定される。
  ・昭和35年に三・五・七の階段の参拝道をつくる。
  ・昭和37年に平郎門が今の形につくられる。
  ・昭和47年に国指定の文化財に指定される。
  ・昭和55年から今帰仁グスクの発掘調査がはじまる。
  ・平成7年に今帰仁グスクの発掘遺物が展示される。
  ・平成12年に今帰仁グスクは世界遺産に登録される。

 3年生はボツボツ発表の形へ。これからは調査し、記録したものを友だちに教えるための形づくり。それぞれ担当したところの顔になりつつあります。神ハサギ、大木のコバテイシ、福木並木、井戸、馬場跡の顔が・・・。

 5年生グループは三回目。今日はオフロ、便所、明かりでした。かつては豚小屋に便所がありました。つまり人間の排出物は豚のエサだったのでした。不衛生だったので、豚小屋と便所は離して造られるようになりました。よく、ブタにお尻をなめられた話を聞かされましたよ。ヘ~??!!
 
 
  ▲5年生グループは棒術や空手  ▲3年グループは発表に向けてのまとめ


2006年8月14日(月)

 古宇利島のウンジャミ調査。祭祀の流れが壊れかけている。取材陣に「壊された」と言った方がよさそうである。祭祀を行う神人とは距離をとって行って欲しいし、また神行事の流れを邪魔してはならないでしょう。長年古宇利島の祭祀をみてきたが、それほどの荒れたのはみたことがない。

 80歳過ぎた高齢者が自分の年齢や体力を省みずに暑い最中でやっているのだから、遠くからそっと見守って欲しいものだ。海神祭が何かを理解しているのなら、自ずと調査や取材する距離や移動する流れの妨げにならないように動けるはずである(島の祭祀を継承していただくためには対策が必要である)。


2006年8月14日(

   

 
11日(金)沖縄県地域史協議会の総会・研修会に参加
 12日(土)「ムラ・シマ講座」、本部町伊野波と並里の下見(シニグイ調査の)

 明日調査予定だった湧川~運天にかけての「ワラビミチ(ウフユミ)」の祭祀が行われない旨の連絡あり。そのため急遽古宇利島のウンジャミ調査を行うことに。


    ▲本部町並里の神アサギ        ▲左縄が巡らされた並里のウタキ
2006.08月10(木)

 旧暦の7月に行われるウンジャミ(ウンガミ)やシニグ(シヌグ)やウプユミ(ウフユミ)は、同一の性格を持った祭祀ではないかと見ている。祭祀のどの部分が強調され名称となっているのか。それらの行事の名称は幅広い内容の一面を表しているにすぎないのではないか。ここでは祭祀の名称が何かではなく、それぞれの祭祀に含まれた要素にどういうものがあるのか。その視点でみると、7月に行われる祭祀は名称は異なるが同様な内容をもった祭祀ではないかと。

 ここでは、古宇利島の海神祭(ウンジャミ)と湧川から運天にかけてのワラビミチ(ウフユミ)、そして本部町伊野波(並里)のシヌグイを比較してみることに。祭祀の呼び方は異なるが、祭祀の中から共通する項目を取り出し比較してみることに(伊野波の一連の祭祀記録は『本部のシヌグ―伊野波のシヌグイ―』仲田善明著を参照(今年、調査予定)。
 
 調査を予定しているため伊野波の公民館へ、あいさつと調査したい旨のお願いに。伊野波の方々は歴史文化センターで今帰仁グスクと伊野波の関わりについて私から説明を受け「神人」のビデオも見せてもらったとのこと。そのこともあって、伊野波と今帰仁グスクとの関わりについて、伊野波の公民館で話をして欲しいと。今回調査する祭祀を含めて話をすることに。ハイ


▲伊野波(本部)間切の同村の伊野波の集落 ▲付近に間切番所があったのでは?


      ▲伊野波の神アサギ         ▲トゥン(殿)と呼ばれる火神の祠


 ▲神アサギの上の方にある気になる祠


【伊野波のシニグイ】


 伊野波のシニグイのことで伊野波公民館までゆく。旧暦7月20日~26日にかけて6つの祭祀が行われる。ここでもウプイミ(ウプユミ)、ヤーサグイ、シニグイ(シニグ)などと他地域で呼ばれている祭祀がある。
   ①7月20・21日 マーグミ
   ②7月22日    ウプイミ・ヤーハリホー
   ③7月23日    ヤーサグイ
   ④7月24日    ハンラレート
   ⑤7月25日    シニグイ・ムックジャ
   ⑥7月26日    ワカリ

①マーグミでの所作
 ・火神、アサギ、アサギミャー、御嶽などの木の払いや清掃(神迎え)

②ウプイミ・ヤーハリホー
 アサギ、殿(トゥン)での祈願(ウプイミ)。花米・御五水・神酒・重箱を供える。
  縄で舟、居神が縄の外側で鼓をうつ。立神は棒にカニと魚をつるしてカニと魚をぶつける
  (オーラセー)、立神はアサギからアマシガーへ。アサギに戻り直会をする。櫂で舟を漕
  ぐ所作をする。

③ヤ-サグイ
  旧家(クブスとコーサクヤー)で焼き魚を供える。アサギでウガン、鼓を打ちながらクブス
  (旧家)へ。家の人は隠れる。ウシヤチモーへ。魚を焼く。さらにコーチヤーへ。生魚を焼く。
  そこから神アサギへ。(鼓を打ちながらオオワクへ。そこで手足を洗い清めた)

④ハンラレート

  
各家を廻ってのお祓いをする。ハンラレート神人(男神人:シマンペーフ)が白衣装を着て
  茅(サン)を持ち鼓を打ちながら廻る。台所から入りサンで祓い、杵で臼や板を叩いて入る。
  家の人は隠れる。準備された酒をいただき家をでる。神アアギとトゥンでジューシーを供え、
  頂いてウガンは終わる。

⑤シニグイ・ムックジャ
  シニグ舞いはウシレークという。神アサギとトゥンに花米・お酒・粟御飯を供える。五穀豊穣の
  祈願をする。午後7時過ぎになると紺地の着物を着た婦人達が公民館に集まる。男性達は神
  アサギに座わって待つ。8時過ぎに神アサギでシニグイ舞い(ウシレーク)が始まる。殿の中で男
  ムックジャと女装したムックジャが子孫繁栄の祈願をする。
  神アサギマーから公民館の広場に移り、そこでシヌグイ舞いをする。再び神アサギミャーに戻
  り、そこでシニグイ舞いをする。(ユングトゥあり)途中ドラの合図でムックジャ二人(男と女の仮
  装)が登場する。

⑥ワカリ 
  神送りとシニグイの無事終わったことの慰労。神アサギとトゥンにお酒と豚肉のはいたジューシ
  ーメを供える。神人や参加者などの慰労をする。ウサンデーをして終わる。
 
  (工事中なり)



2006年8月9日(水)

 
本部町伊野波は伊野波・並里(満名)を頭に入れてみる必要がある。1666年以前は並里と満名は伊野波村に含まれていたようである。そのため伊野波村の御嶽は伊野波なのか、それとも並里なのか。ノロ殿内が伊野波村と記されているが並里村にあった可能性もある。そういう意味で、どの場所(村)にある拝所なのか、その確認と特定が必要である。伊野波と並里(満名)を含め、拝所の特定と祭祀(シニグイ)の調査をすることに。

【間切と同村と祭祀(按司・惣地頭)―本部間切伊野波村(並里村含む)の事例―

 『琉球国由来記』(1713年)から間切と同村、そして同村の祭祀と按司や惣地頭との関わりについてみたきた。按司や惣地頭と祭祀との関わりは、按司や惣地頭、あるいは両惣地頭として出てくるが、それはほんの僅かで、その内容については全く記されていない。按司や惣地頭が祭祀に関わるのは何故なのか。

 そこで別資料から、ここでは本部按司と本部惣地頭と伊野波(本部)間切との関わりを記すことに。ただし、『琉球国由来記』(1713年)には本部間切伊野波村のカナヒヤ森での祭祀に惣地頭のみで按司は登場しない。並里の御嶽の香炉に「奉寄進 咸豊九年 本部按司 渡久地仁屋」とあるのは、並里村が主村伊野波村内だったことに起因しているのか。

 祭祀が国を統治する巧みな仕組みだと位置づけている。そのことを「本部間切内法」から見てみる。伊野波(本部)間切伊野波村(主村)と本部間切内法から首里王府(両惣地頭)との関わりでみることに。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃)のノロクモイ員数は伊野波村二人(根神一人、嶌ノ大屋子一人)、満名村一人(根神一人)、並里村一人(ノロクモイ一人)とある。また三ケ村の拝所は七ヶ所(伊野波ノロ殿内、タンタ御嶽、赤崎御嶽、満名村根神火神、嶌ノノロ殿内小、同所御嶽、同村御嶽)である(『琉球国由来記』(1713年)には並里村と満名村が登場していないので、拝所の特定・確認が必要。ノロも伊野波村から並里村に移ったのか?)。
  
 以下に間切内法や各村内法の条文を掲げるのは、『琉球国由来記』(1713年)の按司や惣地頭が関わる祭祀を揚げているが、間切と按司や惣地頭との関わりは、間切の統治と関わっていて祭祀はその一部であることをいつも念頭に入れておく必要があるからである。そのような勤めに対して領地や作得(給料?)を得ているということ。旧慣制度の役人の昇級などに惣地頭が関わってるのをみると、惣地頭が祭祀ばかりでなく、山原にやってきたときに最大にもてなす理由は、そこにあるような・・・。


  ▲本部按司とある香炉(咸豊9年)(並里)       ▲並里の御嶽にある香炉


 ▲後方手前の森が並里の御嶽              ▲並里の神アサギ

【沖縄県旧慣制度】

 ・地頭代ハ物奉行、仝吟味役ノ指揮監督ヲ受ケ諸令達ヲ執行シ部内ノ行政事務ヲ総理ス惣耕
  作当惣山当以下ノ進退賞罰ハ
両惣地頭ニ又ハ耕作ニ関スル吏員ニ在リテハ田地奉行等ヲ
  順次経由シテ物奉行ヘ具上ス


・両惣地頭は間切役人のほとんどの選任・資格・昇級順序に関わる。
 ・事例(地頭代・仮地頭代・惣耕作当・惣川頭当・勘定主取・津口横目・夫地頭・首里大
      屋子・掟など)

  地頭代ハ仮地頭代、惣耕作当ノ内人物勲功等下知役、検者ニ於テ取調両惣地頭ノ検閲ヲ
   受ケ田地奉行、物奉行ヲ経テ三司官ニ具上・・・

 ・掟ハ両惣地頭奉公人並文子ヨリ人柄勤功等下知役、検者、地頭代ニ於テ取調両惣地頭
  検閲ヲ受ケ物奉行ヲ経テ三司官ニ具上シ藩王之ヲ命ス資格ハ
両惣地頭奉公人並文子ニ限
  ル昇級ハ西掟又ハ夫地頭ニ進ム


【農務帳】
 村耕作 惣耕作之下知 不請付候はヾ 両惣地頭に付て 高奉行へ可申出事
  (村耕作当が惣耕作当の命に従わない場合、地頭代は両惣地頭に報告し、両惣地頭は高
   奉行に申し出なければならない事)

【本部間切内法】
〔第31条〕
 年中諸祭祀日撰言上写見合月々其日三日前村々へ触可差通若間違ノ義有之候ハヽ吟味ノ上
  其取扱可致候


〔第33条〕
 職賦ノ義毎年十二月中限リ賦リ付地頭代入調部頭御役衆御案内ノ上日限通取納座両惣地頭
 へ可差出候若彼是日限及相違候ハヽ番毎捌吏へ科銭拾貫文可申付候

〔第83条〕
 耕作当鍛冶細工船刳細工船築御位オカヅ差出候様御問合相届候ハヽ勤功並ニ札歳能々取調
 寄書相認メ地頭代入調頭御役衆御印申請両惣地頭御印添可差出候自然日限及相違候ハヽ科
 銭拾貫文ツヽ可申付事


〔第88条〕
 山師山当仮山当山工人御位オカヅノ義各勤年数宛札止木等能々見合毎年九月朔日限リ取調
 寄書相調地頭代入調山奉行御印申請両惣地頭御印押可差出候自然日限及相違候ハヽ科銭
 拾貫文可申付事


【本部各村内法】
【第1条】
 夫地頭掟ハ平常曖村ヘ出張第一身分ヲ慎ミ万反正道ニ相勤メ百姓中ノ規鑑ニ相成候様左候テ
 農業山工等引励シ年貢諸上納者無滞所中習俗等引改メ・・・・・・糾方之上頭御役両惣地頭御差
 図ヲ以テ重キ御取扱可被仰付事


【第92条】
 旧両惣地頭地割模方法ハ従前ヨリ面々ヘ・・・

2006.08.08(火)

 お昼時間、ウークイ(お送り)の日でもあるので実家まで車を走らせる。途中、路上でパタパタとはばたいている鳥が。車を止めて近づいてみるとアカショウビンの雛である。巣立つにはまだまだ。回りにカラスが何羽か。親鳥二羽が時々カラスに向かって飛び、あるいは鳴き声で威嚇している。雛は巣からカラスに引っばり出されたのだろうか。バタつくだけで、飛べず逃げ切れない。保護したのだが、親鳥二羽が鳴きながら近くで様子を見ているので森に返すことに。土手をよじ登って森の中の親もとへ。

 無事、育ってくれたらいいのだが!今年、アカショウビンを手にしたのは二度目なり。


  ▲路上でバタバタしていた雛鳥    ▲飛べないので森の中の親鳥のもとへ

2006年8月7日(月)

 
『運天誌』の口絵(B5、24頁)の編集作業にはいる。これまで収集してきた運天の写真を整理し10余の項目立て、文字情報を入れてみる(8月15日までに見本完成)。同時に副読本の編集、及び企画展の展示プラン(学芸員実習)と資料の選び出し、祭祀調査の下調べと続く。明日は位牌の調査とか。

  ①運天の様子(航空写真・5つの集落(ムラウチ・ジブ・ジラマ・トクヤマ・クンジャー)
  ②運天の歴史(年表・トンネル・オモロ・正保国絵・唐人漂着・史料など)
  ③運天の小字(こあざ)(明治の小字図・小字)
  ④運天の小地名
  ⑤運天にあった今帰仁間切番所(明治の間切番所・現在の番所跡・古文書など)
  ⑥源為朝公と運天(為朝公上陸址碑・テラガマ)
  ⑦運天のカー(ウプガー・メオトガー・クンジャーなど)
  ⑧運天の墓(百按司墓・木棺・大北墓・大和人墓・オランダ墓・横穴掘り抜き墓など)
  ⑨運天のタキヌウガン・ワラビミチ
  ⑩運天港と運天漁港(山原船など)
  ⑪その他
  

  ▲かつての海岸は集落付近          ▲みんなで運天港へ(学事奨励会)


  ▲運天のコバテイシ付近の様子と桟橋(昭和40年代:絵葉書)

2006年8月4日(金)

 
午前中、金武町の職員(町史・文化財)と屋嘉の区長さんがやってきた。屋嘉区の拝所(御嶽内)が崩壊しつつあり、作り変えるようである。そのため、どのようにしたらいいのかで、わざわざ訪ねて来られた。ご苦労さん。

 金武町の屋嘉。『琉球国由来記』(1713年)にヨリブサノ嶽(神名:アカウヅカサノ御イベ)と底森(神名:コバヅカサノ御イベ)の二つの御嶽がある。今でいうアガリヌウタキとイリヌウタキのことであろう。二つの御嶽の祭祀は伊芸ノロの管轄である。同じく『琉球国由来記』に屋嘉村に根神火神と神アシアゲが記されている。神アシアゲは伊芸ノロの管轄であるが、根神火神は屋嘉根神の祭祀である。

 現在もそうであるが、屋嘉には二つの御嶽が存在している。二つの御嶽をもつムラは非常に興味がある。というのは、行政ムラになる以前の、マクやマキヨと呼ばれる小集落があり、それらを一つの行政ムラした痕跡ではないかと考えている。そういう意味屋嘉はマク、マキヨの時代の名残をとどめているとみていい。

 屋嘉にはイーヌシマ(上の島)とスーケールに古い集落があったといわれている。スーケールから前田へ、イーヌシーシマから前田へ集落が移動してきたのではないか。(現在の前田は戦後の形成された集落である)。

 ヤガ・メーダと呼ばれた時代があり、現在の屋嘉は屋嘉と前田が統合され屋嘉となっている可能性がある。それが二つのマキヨ、マク規模の集落が一つの行政ムラになったのではないか。現在ある二つの御嶽も、そのことを裏付けているのではないか(詳細については別で)。

 そのような集落の移動や統合されたムラの歴史をもつ屋嘉が昭和53年に建立された二つの御嶽内の拝所を作り変えなければならない時期にきている。これまでの経過では、以前の形にもって行きたいと考えているようだ。問題はその前の形がどういうものだったのか。聞き取りもされているようだが、そこに戻す理由づけが必要になってくる。つまり、本来の御嶽の形に近い方にもっていくということである。それには相当な説得力と事例をもっての説明が必要である。

 ここで事例や詳細について明示できないが、少し調査をして9月下旬には報告できるようにしましょう。


「村政時代」(前期)
(明治41~昭和20年)

 午後一番で兼次小6年「村政時代」(前期)(明治41~昭和20年)グループがやってきた。この時代がどんな時代なのか。
 この時代は明治41年に今帰仁間切が今帰仁村(ソン)へ、仲尾次村や兼次村など、・・・村(ムラ)と呼ばれていたのが字仲尾次、字兼次など「字・・・」と改称された時代です。
  ・大正4年に今帰仁城跡の管理が今帰仁村今泊に委託される。
  ・大正5年に字運天にあった役場が字仲宗根に移される。
  ・大正13年に今帰仁城跡への参拝道が開鑿される。
  ・今帰仁城内に「山北今帰仁城跡碑」が建立される。
  ・昭和5年に今帰仁城跡入り口に鳥居がつくられる(現在撤去)
  ・昭和19年に北山神社の建立が進められた。
 この時代、今帰仁グスク内に人が住むことはありませんでした。これまで今帰仁グスクへのメイン通りであったハンタ道が大正13年に開鑿された道へ移ります。この時代の今帰仁グスクは、東郷平八郎の書の碑や鳥居、さらには北山神社の建設などの動きから、戦争への軍靴の足音が高々と聞こえた時代です。この時代は二人が分担です。


 ▲この時代は二人でがんばります!

2006年8月3日(木)

 
頭の中は風が吹き荒れ、飛び込みもあり嵐のような状態が続いている。学芸員実習(沖国大)の三名が打ち合わせと宿泊する家の確認でやってきた。実習日程や実習内容についての打ち合わせ。宿泊する二軒までゆく。

 広島のメンバーより先に実習にはいる予定。本部町伊野波の祭祀調査ができればと考えている。来週伊野波までゆき、祭祀の日程や調査可能かどうかについて伺うことに。調査可能であれば本部町伊野波の祭祀調査を行うことに(まだ予定なり)。

 男性軍が宿泊する民家の草刈と部屋の大掃除をすます(5日)。


  ▲実習生達の宿泊拠点となる家         ▲男性軍が宿泊する民家

 今回本部町伊野波の祭祀調査を考えているのは、1666年に今帰仁間切を分割し、今帰仁間切と伊野波(後に本部)間切を創設した。伊野波間切は伊野波村(同村)に番所を置いただろうし、後に渡久地村に番所は移動している。『琉球国由来記』(1713年)で伊野波村の祭祀に按司名はみられないが惣地頭が伊野波村のカナヒヤ森の祭祀に関わっている。伊野波村の祭祀は伊野波ノロの管轄である。惣地頭や按司が関わった拝所が伊野波に確認できないか。按司や惣地頭と関わる拝所の確認を、調査の大きな目的としている。

【昔の食事やお祝いのご馳走】

 午前中、兼次小5年生たちがやってきた。今日は普段の食事やお祝いのご馳走についての調査である。わたしの方からニ、三質問してみた。そのあと、質問をうけることに。
  「あなたたちは一日何回食事しますか?」
  「三回です」
  「むかしは?」
  「????」
  「戦前、それより前の時代の主食はなんだったでしょうか?」
  「ごはん。パン?です」(ブブブー)
 むかしは一日の食事は基本的に二回でした。朝と昼の食事は一緒で一回。夕食で二回です。むかしの生活は夜があけると畑や田んぼに行って農作業をし11時頃にもどり食事をする。夏場の昼間は暑いので昼寝をし、涼しくなってから田畑仕事を暗くなるまでやる。農作業が終わると近くの川に行って浴びて帰る(家にお風呂場がありませんでした)。それが農家の一般的な生活でした。

 さて、どんな食事だったでしょうか。むかしはごはんはめったに食べることができませんでした。お米はどっちかというと、税金で納めるものでした。白いごはんは年に何回かしか食べることができませんでした。ごはんでなければ、なんだったでしょうか。ハイ、おイモが主食だったのですよ。「!!!????」

 「館長、ウソ言っていると思うでしょう。ならば証拠をみせましょう。ハイ」
 「あっ、ほんとだ!」

 「野国総官しっているでしょう。その人がイモを持ってきて広めたのだぞ」
 「その話、知っているよ」
 「イモのお陰で沖縄人口がどんどん増えていきました」

 そんな調子で食べ物の話をたくさん。ご馳走の話も。


  ▲イモとお汁とおかず(主食はイモでした)         ▲おなかすきました!


2006年8月2日(水)

 8月にはいりました。多忙が続いています。昨日はグスクガイド養成講座で「北山の歴史」、そして今日の午前中は「やんばるの歴史と文化」をテーマで初任研(高等学校の先生方)の研修会。さらに午後は兼次小3年生グループと今泊の宝探しです。前日の締切り原稿に追われ徹夜状態でした。そのため声がでにくく参加者にご迷惑をかけました。

 多忙が続いていますが、地域史協議会の会誌原稿がまだ残っています。明日には送付できます(迷惑かけています)。

 初任研は高等学校の先生方(100名)でしたので生徒を指導していくスタンスでの講演(梯梧莊)。前日声が出にくかったので、用心のため二つの話を準備。結局、50年前のスライドで山原の風景を手掛かりに、そこから見えてくる人々の生活や歴史についての内容で。80枚のスライドを準備しましたが60枚くらいで時間。最後の締めの「まとめ」まで。無事、まとめまで声は出ました。



【今泊の宝さがし】(小3年)

 午後から小学3年生達と今泊の宝探し。仲尾次・与那嶺グループ、諸志・兼次グループは先日すませました。今泊グループでひとまず一巡。夏休みの後半に発表の形まで進めていく予定。今泊は四ヶ所の調査でした(宝ものはたくさんありますよ)。グループ学習は、まだまだ続きます。一緒に参加されたお母さんが宝物をいっぱい拾っていました。いいことなり。

  今泊公民館
  フプハサギ(親泊村の神ハサギ)
  ハサギンクヮー(今帰仁村の神ハサギ)
  マチヒチャガー(松の下の井戸)
  ⑤獅子小屋
  ⑥馬場の跡
  ⑦今泊のコバテイシ


    ▲今泊公民館での調査             ▲ハサギンクヮー


    ▲マチヒチャガー(松の下の掘込み井戸)   ▲今泊のコバテイシ