2005年8月の記録
沖縄の地域研究(もくじ)
2005.08.31(水)
今年のウンジャミ(海神祭)は学芸員実習を兼ねての参加である。ウンジャミを見るのが最初のメンバーがほとんど。本番を見る、あるいは参加するにあたってビデオで様子をみる。橋が架かって最初のウンジャミである。祭祀の流れをつかむことで、妨げにならないような調査と動きをしてもらうことに。古宇利小学校の参加があった。真剣な眼差しと、参加している姿は自然である。逆によそものの私たちが反省させられる面が多い。
古宇利島の海神祭(ウンジャミ)。12時半頃から三々五々と神人達が神アサギに集まってきた。旧盆明けの最初の亥の日にあたる。古宇利子(フンシ神)を勤める古宇利春男氏の合図で祭祀が始まる。神アサギの中に神人全員が集まり、まずナカムイの御嶽に向って線香をたて祈りをする。神アサギでの祈りが終わると、神アサギから筵を外にだし、何名かの神人が座り、弓(ヌミ)を持つ神人(今年は6名)がロ形の周辺をコ字形に七回往復する。
(コ形に7回往復するのは、島に七森七嶽があるので、そのことを認識しているのかもしれない)
神アサギでは七回往復すると、ミャー(庭)の東側に神人が二列縦隊に座し、ナカムイの御嶽に
向って祈る。その後、ヌミ(弓)に餅を結わえ落とす所作がある。その後、書記さんが神人に餅を
配る場面がある。
神アサギから古宇利子(フンシー)ヤーに移り、フンシヤーの庭にある小さな祠に二本のロープを結わえ、二本のロープで船をつくり、神人達がロープとヌミ(弓)を手に船を漕ぐ所作をする。祠にはブジュル(男根)が安置されている。(かつて、そこから男女が古宇利子宅にはいり、男女の交わりの仕草をしたという。今では行なわれていない)。
古宇利子ヤーから神道を通りクヮサヤー(ヒチャバアサギともいう)へ。そこで神アサギ同様、座る神人とヌミを持つ神人に分かれ、神アサギミャーで行なわれる所作を七回行なう。
弓を持った神人がシラサ(岬)へゆき、東方(塩屋)に向って神送りをする。(神人は塩屋は姉妹であるので、塩屋に向って合図、あるいは神送りをする認識を持っている)。台風の余波で風が強く、神人は岬のちょっと行ったところまで。三人の神人はいつもの岬の中あたりで東方に向って祈りをした。
シラサで(岬)での祈りが終わるとクヮサヤー(ヒチャヌアサギ)で、弓を持つ神人全員で長い棒(帆柱?)を以って漕ぐ所作をする。長い棒を置き、頭に被っていたハーブイを置き、神衣装を脱いで一通りの祭祀を終える。弓を持つ神人は自分のカミヤーに行き、弓をおさめる。フンシー神はフンシヤーの祠に行き、フンシー神人と弓を持つ神人一人、玉城氏(海勢頭役?)の三名で小さな祠への祈願をする。古宇利子の祭祀は、ここで終わる。
古宇利春男氏(古宇利子)と玉城氏(海勢頭役?)がお宮(海神宮か)にゆき祈願をする。そこでの祈願が終わると、ハーリー舟の漕ぎ手(東・中・西)達が集まり手をあわせる。三つのコースをくじ引きで決める。ハーリー舟はウプドゥマイのシラサ(岬)から漕ぎ出し、スタートの位置へ向う。スタートラインに着くとスタートの合図がなる。
今年は前半が台風の余波の強い向い風、往路は追い風。ウガンバーリは島の漁師達がほとんどなので、強い風はなんのそのである。今年は西組が一位、東組が二位、三位は中組であった。強風、そして波のある中での競争だったので、見る側にとっては迫力のあるハーリーであった。
2005.08.30(火)
午前中、業務調整。沖国大のE教授が来館。実習生の様子伺いに。三時から今回の展示テーマ「山原の津(港)と山原船」にかかわる炬港と運天港までゆく。炬港ではシーカヤックを使って海から陸へ遡ってゆく、昔人(むかしびと)の視点を体験と確認をする。さらに炬港と呼ばれる大井川河口の港の様子を知ってもらった。各自の報告は明日。
炬港から大井川にかけてのシーカヤックでの案内を「なきじん海辺の自然学校」の岩井氏にお願い。大井川の下流域は穏やか。台風の接近で日程を、急遽早めにしていただきました。感謝です。
さらに展示会の柱の一つとなる運天港まで。台風の接近で羽地内海へ避難していく貨物船あり。港が果たしている機能の一つを目にしたということか。またコバテイシの大木の下に集まる。かつて、このような大木が何本もあったようだ。国頭・大宜味・今帰仁・本部の世上米を、それぞれの大木の下に集積し、薩摩へ積み出したという。首里王府への貢納の穀物の集積でもあった。近くに番所跡もある。
運天港は今年の2月8日まで運天港と古宇利島を結ぶフェリーが運航していた港である。これまで運天港が果たしてきた役割があるが、一通りの役目が終わり、次の役割を模索している時期か・・・。

▲シーカヤックに乗る。さて何が見えたか・・・。漕いだり、舵をとるのに精一杯か!

▲台風の接近で貨物船が羽地内海へ避難 ▲運天のコバテイシの根元でパチリ
2005.08.29(月)
沖縄のメンバーの学芸員実習は5日目、広島組は今日が実習1日目である。一部展示に取りかかる。午前中、前の展示の撤去(思いが一杯詰っているのでなかなか前に進まない)、午後から一部壁展示にかかる。
壁の展示にかかる。壁(3.5m×7m)に本部半島を中心とした沖縄本島図を壁面に描き、それに津(港)の分布を示していく。港の分布図に、これまで作ってきた港に関する情報パネルを配置していく。ボツボツ展示の概要の一部が見えてきたようだ。今日から実習にはいた組は、まだ戸惑い気味。
これから展示や学芸員の業務などについて、実際に展示をしていく過程で熱のはいたミーティングが続く。
▲展示の撤去作業
▲壁面に本部半島を中心とした沖縄本島図 ▲展示についてのミーティング
2005.08.28(日)
午前中昨日やってきた広島のメンバーが来館。展示をみて広島、東京へ帰っていきました。わざわざ、ありがとさん。今度はのんびり来て下さい。
午後から第二陣5名がやってきた。すでに沖縄のコバルト色の海や今帰仁グスクを満喫してきたようだ。元気に来沖しています。ご心配なく。私は、今日から館と民宿のおやじなり。ハハハ
学芸員実習、そして実習生を預かる身。へこたれずに見守りましょう。これから、歓迎会でもするか。バタバタの一日なり。書き込みナシ。
2005.08.27(土)
県博友の会のメンバー(30数名)がやってきた。歴史文化センターで、古宇利島の話をし午後現場の古宇利島へ。島のこと、あれこれ頭に入れての島回り。二時間ほどの時間ではナカムイノウタキ・神アサギ・アサギナー、それから神道を通りお宮(クヮサヤー)。そしてシラサ(岬)あたりまで回るので精一杯か。
中南部の方々には、山原の集落景観に法則性を持っていることに気づいていないのではないか(関心がないのかも)。それに気づくと、山原は非常に面白いところ。風景だけでなく、目に見えない島の姿や人々の声に耳を傾けることができれば、もっともっと島の面白さに浸ることができるのでは。
学芸員実習、午前中県博友の会の皆さんと古宇利島の話を聞いてもらう。感想などは明日のミーティングで報告してもらうことに。写真のラミネート張り(50枚近く)は、ほぼ終わったようだ。数枚の失敗はあったようだが、もうコツを覚えたようだ。明日からパネル台に写真の貼り付けである。パネルの仕上げでもある。明日沖縄入りする広島のメンバーが加わると前回の展示を取り外し、新しい展示へと。間もなくである。
広島から一昨年のメンバー(三名)が今帰仁入りしたので、これから美味しいのを食べにゆくか。
2005.08.26(金)
スライド70枚余を紹介する。村内の方々なので50年前の風景や人々、そして生きてきたシマの情景や時代が思い出されたようだ。一枚一枚に私の解説など、ほとんどいらない。一人ひとりが自分の人生と重ねて画面をみ、そして読み取っている姿をみていると、私の方が生徒である。画面を見ながら、あちこちで小声で解説しているその姿は実に美しい。ありがたかった。
このような場面と出会うとき、「今の仕事をしてよかった」とつくづく思う。そういう博物館を造りたいとの夢でもあった。口癖のように言ってきた「地域や地域の方々から頂いたものは還す」というのは、まさに今日のような場面である。一枚一枚のスライドが、いい場面とか、風景が美しいだけでなく、その時代を鮮明に蘇らせる歴史史料である。画面を見ながら自然と発せられる人たちの声は、その時代に生きた人々の生の声であると実感させられた。帰り際のシマの方々の、あのいい顔・・・。
今、進めている「山原の津(港)と山原船」も、津(港)や山原船の展示を通して、その時代を生きてきた人々に、どれだけ声を発させることができるか。そして企画する方の耳に聴きたい思いをどれだけ展示に込めることができるか。学生達も今日のスライドを見ている方々の姿から、手がけているパネル一つひとつに、「熱意を込めても込めすぎ」ということはないと気付いてくれたに違いない。スライドを見て下さった方々、そして声を発してくれた方々に感謝である。
明日は沖縄県博物館友の会のメンバーがやってくる(10時半頃)。古宇利島ゆきである。午前中、歴史文化センターで古宇利島のレクチャーをして、それから島へ渡る予定なり。これから、明日の話の準備にかかります。
2005.08.24(水)
午前11時過ぎから2時頃まで那覇市松川の字誌のメンバーと様々な話。話題の尽きない話合いでした。松川というマチは兎に角面白い。私にとってではある。首里城へ上る、あるいは首里から泊や那覇へ下るには松川を通らなければならない。首里へのメインストリートとしての道筋を持っている。松川は安里川の上流部に位置し、かつては一帯まで潮が遡流する場所のようだ。今ではマチになっているが農村だったころの風景や様子が描けそうである。それと湧泉(ハー)や拝所などもキーワードにして。
9月13日(日)に
「北山の領域とみた奄美への視点」で講演をすることになっている。そのため、かつて琉球国の領域であった与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島・加計呂麻島・請島・喜界島の八つの島の資料に目を通している。まずは八つの島と琉球国とに関わる記事を拾いアウトラインの確認から。大方四つの時代(期間)に区切られ、各時代をいくつかのキーワードで見ていくことに(少し見通しがついてきたか?)。
①グスクの発生から三山の時代
②三山の時代と奄美(北山の領域とみた奄美)
③三山統一後の琉球国と奄美
④島津の琉球侵攻後の琉球国と奄美(分割された奄美)
とり急ぎ、四つの時代(期間)に区分して考えることに。史料(資料)をみていると、三山時代以前の喜界島や奄美大島あたりは、琉球と肥前の両属の様子が見えたりで興味深い。まだまだ、まとまるまで時間を必要としそう。しばらく、奄美を考えるのに時間を使いそう。
③徳之島(少し徳之島の整理)
オモロで徳之島のことを「まとく」と謡われる。徳之島には現在徳之島町・天城町・伊仙町の三つからなる。三山統一後の万暦28年(1600)の辞令書などがある。徳之島について忘れかけているので写真で思い出すことに。今気付いたのであるが、「徳之島を行く」(平成9年8月21日~24日、同年9月30日~10月3日に徳之島を訪れている)のタイトルで一文まとめてある(下の写真は平成9年)。
・とくのにしめまき里のてゝのろ(徳の西銘間切の手々ノロ)(深見文書)
・伊仙町の松山墓地にの石碑に嘉靖41年(1562)とあり、首里から役人がきたという。
・伊仙町伊仙に尚寧王時代の三司官を刻んだ鄭迥(ていどう:謝名親方)
の像といわれるのがある。1611年9月尚寧王が帰国が許されたとき、三司官以下の
重臣に起請文(誓約書)の提出を求められるが一人だけ拒否。9月19日に斬首され
た人物。
▲徳之島亀徳の町 ▲徳之島天城町天城への途中
▲嘉靖四十一年(1562)の石塔と鄭迥(謝名親方)の像と言われている。
2005.08.23(火)
歴史文化セターは火曜日が週の仕事始め。一週間の業務の確認や調整あり。
展示に使う港や船の写真の選び出し。差し当たり50枚。それらの写真を引き伸ばしてパネルにする。港の分布図の写真の場所に配置する。かつての港や船の様子などを画像から読み取っていく。陸上から見てきた視点と海上からの見た視点、さらに海上からどう見えてくるのか。港の概念や舟の果たしてきた役割を画像から読み取っていくいくことに。
▲山原船と積荷 ▲本部町渡久地の港(昭和30年頃)
▲木造船の骨格部分 ▲造船所の様子(昭和30年頃)
2005.08.21(日)
明日(月)は一日初任研と10年研なり。学校の先生方。これから、話をする話題の準備なり。
来週から学芸員実習が始まる。地元の学生は25日(木)からのスタートする。そのため、「山原の津(港)と山原船」の展示プランの確認と補足をする。実習期間に進める展示の手順を具体的に検討する。平面プランの作成。頭にできているが、コーナーの展示内容を図面に書き出さないと他人にはわかりませんね。パンク状態の頭で展示物の作成、パネルにする画像の選びだしなどを進める。
毎年、学芸員実習の方針は、「学芸業務の調査・研究を、その成果として展示や図録にして地域に還元する」ことを方針としている。短期間なので、その一端を展示で担ってもらうことになる。4m×7mの壁いっぱいの展示物となる予定。中身は今のところ丸秘なり。楽しみに。
2005.08.20(土)
今年度4回目の「ムラ・シマ講座」は古宇利島である。架橋後次々と変る古宇利島である。島への入り方が、フェリーの発着場(港)から古宇利大橋へと大きく変った。古宇利大橋の途中で下車させ、大橋からの島へ渡るコースにした。島の南側に展開すムラウチ集落。ムラウチ集落のアガイバーイ(東の方の集落)は屋敷囲いの福木がまだ多く残されて、島の雰囲気を和らげている。福木のある一帯には石積みの屋敷が目につく。
橋から古宇利島の集落をみて、ムラウチの人たちが使った掘りぬいた井戸(イリヌハー)へ。アガリヌハーを予定していたが、南の方から雨脚が迫ってくるので近くのイリヌハーを見ることに。ハーの話は私の説明のあと、わかりやすく補足説明を松村がする。彼女は初めての外での説明役である。
たまたま、島のS氏が車をとめて声をかけてくれた。
「Sさんもこのカーから水汲みしたことありますか?」
「うん、よく水汲みしたさ。あっち(アガリヌハー)のハーの水がよかったな」
「今、畑なにをしているのですか?」
「最近、雨が降るのでアロエ植えているさ」
の立ち話。
大雨が降り出したので、バスに乗り込み神アサギや舞台の方をバスからみて、雨宿りのためサブセンターへ。サブセンターの軒下を借りて、神アサギや御嶽などの説明。人類発祥やザン岩などの説明も。しばらくして、雨がやんだので、再び神アサギへ。
神アサギと舞台の最後の仕上げを業者がしている。新品の神アサギを見ることができ、みんなラッキーである。茅葺き屋根の神アサギ、これまでの神アサギ、そして新品の神アサギの説明。御嶽、そして神アサギ、舞台を使った豊年祭?など。
そこから浜におり、シラサの小さなガマをみる。そのガマは人類発祥伝承のガマ。シラサの岬はウンジャミのとき神人が一列になって塩屋に向って神送り?をする場所。そこに参加者が一列に並んで、感謝をこめて神送りをする。ウプドゥマイに降りてヂャンヂャン岩(ザン岩)を見つけて、何名かがスケッチをする。どこが頭だろうか。ウンジャミのとき神人がこの場所で幼子の「潮水撫で」をする。
そこから、バスで島を一周しながら御嶽の場所の確認のみ。今回は一人ひとりの報告はナシでした。残念の声が聞こえます。
▲テクテク古宇利大橋を渡る(500m程) ▲イリヌハーで井戸や水の話

▲シラサ(岬)で感謝の神送り! ▲ウプドゥマイのザン岩の前で
2005.08.19(金)
「ムラ・シマ講座」は古宇利島なのでちょっと島の様子を見にゆく。さっと、確認してきた場所は、
①アガリヌハー
②イリヌハー
③新築の神アサギ、舞台
④ナカムイヌ御嶽
⑤シラサの人類発祥のガマとザン岩
⑥ウプドゥマイと桟橋
⑦チブヌ浜
⑧ポットホール
などである。実際に調査メモをするのは四ヶ所くらい。途中俄か雨にあったので素通り。区長さんに明日島に入るので。もし「島の子で参加希望者がいたらどうぞ」というお願いまで。
2005.08.18(木)
昨日、2日前から8名の方々が今帰仁村中央公民館に宿泊している。その人たちへのレクチャー。2時間近く。これで沖縄のリズムに戻ったかな? ボケと疲れがピーク最中だったので話したことは記憶なしですが。
24日(水)に『松川誌』(那覇市)のメンバーがやってくる。字誌の編集のことのようであるが、何故今帰仁なのか?よくわからない。もちろん、これまであるいは現在字誌の編集に関わってはいるのだが。もしか?すると第一の理由は、以下のことかもしれない。一通り、来週まで「松川」について、頭の整理を少しだがしておきましょう。
万歳嶺(現在首里山川町)と官松嶺(現那覇市松川)の碑がある。万歳嶺(ばんざいれい)は別名ウィーナチヂナー:上今帰仁那)、官松嶺(かんしょうみね)はシチャヌミヤキヂナー(下今帰仁那:シチャナチヂナー)とも呼ばれている。那覇にあるナチヂナーと今帰仁(間切)とどんな関係にあるのか。そんな質問がきそうである。
以前、考えたことがあるが定かなことはわからなかったような。確か『南島風土記』(東恩納寛惇著)にあった「往昔者、板橋ニテ、橋本迄、山原船出入仕リタリトナリ。中古、矼ニ成リタル時、潮與水行逢所ニテ、橋名ヲ指帰橋ト、名付タルト也」(『琉球国由来記』)であったような。東恩納氏が「この橋の辺まで山原船が出入りしたと伝ふ由来記の説は事実と思われる」と述べている。
万歳嶺(上ミヤキジナハノ碑文:1497年)と官松嶺記(下ミヤキヂナハの碑文:1497年)の二つの碑文にミヤキヂナハ(今帰仁那)と一文も登場しない。官松嶺記に「・・・三府在□曰離曰南山府在其両間曰中山府可謂海上之三山矣中府之西有丘・・・」とあり、山北府は出てくるがミヤキヂナーとはでてこない。恐らく、碑文が建立された時か、その後かもしれないが、一帯がミヤキヂナハ(ナチヂナー)と呼ばれていて、そこに二つの碑が建立されたのであろう。
碑文が設置された場所はナチヂナーの地名がつく場所であった。ナチヂナーの地名は二つの碑文の内容とは直接関係ないように思われる。東恩納氏が述べているように、安里川(近世、安里川から崇元寺より上流あたりまで舟が遡っている)から遡り、嶺の麓あたりまで舟の往来があり、港として機能した場所であったのかもしれない。そうであれば、今帰仁(北山)からの舟の発着に由来した可能性は十分ある。
果たして「嶺の麓が一帯が港として可能な場所でだろうか」の疑問はあるが、指帰橋あたりまで「潮水ト逢所ニテ」とあるので、満潮時には海水がそこまで遡流していたのであろう。一帯の標高が5m以下なら十分可能性があるのだが(それは未確認)。というのは、今帰仁あたりでも標高3~5mにあたりにトーセングムイやトーシンダー、あるはハキジ(舟綱をかける)など舟に関わる地名があるからである。11、12世紀ころの様子が彷彿してくる。
今週の土曜日(20日」)は「ムラ・シマ講座」は古宇利島である。今月の31日(水)にはウンジャミ(海神祭)、豊年祭とつづき、島渡がつづく。近くで旧盆で祭りの歌が聞こえてくる。
今日は県博物館友の会のIさんが来館。8月27日(土)古宇利島に行く予定。その打ち合わせあり。来週から9月にかけてモリタクサンの業務。忘れそうなので取り急ぎ。忘れ物はないでしょうか(いくつかありますね)。エイサーの調査の件で来館者もありましたが、予約なしなので十分に対応ができません(お許しを)。一昨年学芸員実習した3名のメンバーがやってくると間接的に聞いているが。
【8月】
・20日(土) ムラ・シマ講座(古宇利島)
・22日(月) 村内初任研(学校の先生方)
・24日(水) 『松川誌』(那覇市)
・26日(金) 50年前の山原(村老人クラブ)
・29日(月) 学芸員実習~
・31日(水) 古宇利のウンジャミ(学芸員実習調査)
【9月】
・1日(木) 古宇利島豊年祭(調査あり)
・4日(日) 糸満市潮平
・11日(日) 山原と奄美(北山の支配領域の視点から)(名護市民会館)
・9月上旬 「琉球国の統治と祭祀―山原の祭祀から―」(原稿締め切り)
2005.08.17(水)
「ドイツ・オーストリアをゆく」は独立したページにしました。10日分を整理するには時間がかかりそう。それと他の業務も進めなければなりません。
早く沖縄モードに戻さないといけないが、やはり「10日間の整理をしておかないと」といいつつ、いつになるかわかりません。もう少し進めて置くことに。
【ドイツ・オーストリアをゆく】
7日見る予定のカールテオドール橋(ハイデルベルグ)は前日の6日見ることになった。7日はツールドがあり道路事情がどうなるかわからないため。ハイデルベルグの街と城を後にするには後髪が引かれる思い。街と城との関わり、そしてネッカー河に架かるカールテオドール橋が果たした役割など、もう少し知りたいものだと。
【8月7日】(ドイツ3日目)
①ハイデルブルグの街
ハイデルベルグの街のある一帯は紀元前から集落があった地域のようである。「ケルト人達は聖なる山ハイリンゲン・ベルク(対岸の山)の双頂に避難用の城塞を築き、それは8の字形の環状二重城塞で取り囲まれたもので、両端間距離は3㎞(外)と2km(内)と広大なものであった」(ハイデルブルグ)(冊子)という。また、ネッカー河に架かるカールテオドール橋は紀元後間もないころには造られているようだ。その後、橋は戦略的に重要なので門や塔が設置されたり、高台には要塞が築かれたという(同書)。この地はゲルマン人、ローマ人、フランク人などの入れ替わりがあったともいう。
ハイデルブルク城で君臨した人物や城、そして街の歴史をたどる必要がありそうだ。ルプリヒト一世によって創設(1386年)され、19世紀初頭にカール・フロドリッヒによって再建されている。ハイデルブルク大学は地方の学生達の憧れのようである。現在でも、この街に学生が3万人(街の人口14万人余)はいるという。
②ハイデルブルグ城


③ローテンブルグ
ハイデルブルクから途中までネッカー河沿いに遡りローテンブルクへ向う。人口1万7千人規模の街である。名の通りブルク(城塞)に囲まれた街である。街に入るには城門をくぐらなければならない。マルクト広場には市庁舎や聖ヤコブ教会や市参事宴会場などがある。市参事宴会場の建物の上部に仕掛け時計があり、時報とともに3.25リットルのワインを飲み干す場面がある。30年戦争のとき、当時の市長の「ワインの一気飲み」が街を救ったという。
市庁舎にある鐘塔に登ってみた。市庁舎と鐘塔の建設は1250年から1400年の間だという。階段は木造である。途中から一人しか通れない細い階段となる。そこから見下ろした街並は見事である。
・1142年ホーエンシュタウフェ家の国王コンラート三世によって城塞が建設された。
・1274年に国王ルドルフ・フォン・ハスプルクによって帝国自由都市に指定される。
・1356年地震によって城塞など街が破壊される。
・1400年トップラー市長時代、街は最盛期を迎える。人口6000人を超し帝国最大規模の街となる。
・1618年プロテスタントの街なので30年戦争で何度も占領される。
・1802年500年続いた独立からバイエルン王国に編入される。
・1945年街は連合軍の爆撃にあう。旧市街地は破壊され、古い建築物の40%以上が炎上する。
(世界からの支援援助で破壊された地区の再建復興がなされる)

▲市庁舎の鐘塔から街を眺望する


▲城塞で囲まれたローテンブルクの街 ▲マルクト広場の市参事宴会場
(ドイツ フッセン泊)
2005.08.16(火)
一晩寝たせいかドイツの空気を膚で感じ取ることができる。歴史や文化の交流が希薄であっても、人間が生活していく中で内側(本質的)に持っている普遍性みたいなものを感じとれたときの面白さ。少ない情報で組み立てた仮説が、現場に立ったとき、あるいは多くの情報を読み取っていく過程で、もろとも崩れ落ちるヨーロッパの城の面白さ・・・。再び構築してみるか。
(ドイツの食べ物やビールやメルヘンの世界もあるが、その感性がないので略なり)
【8月6日】(2日目)
①【シュヴァルム地方】(Schwalmstadt)
②【アスフェルトの街】
③【リューデスハイム】
④【ニーダーヴェルトの丘】
⑤【ライン川沿いの古城】
⑥【ローレライの岩】
⑦【ハイデルベルグ】
⑧【ネッカー河沿いの古城】
⑨【カールテオドール橋】
①【シュヴァルム地方】(Schwalmstadt)
ホテルから目的地のアスフェルトまで、車窓から街が点在してあるのがわかる。車窓から眺める街の風景もいいが、やはりそこで生活の様子に接したい気持ちがある。いつも沖縄のムラやシマを車を降りて御嶽やカーなど、人々の生活の様子や声を聞く旅をしてきた。そのこともあり、ドイツの旅もそれができればと内々考えている。
その街に足をつけマルクト(広場)を見つけ、広場を囲むかのように教会や庁舎、あるいは今でも使われている城があり、さらに街の歴史を辿る作業を進めていく。そこから人々の考えや習慣を知ってゆく、そんな旅のスタートにしたいものだと・・・。
カッセルの街からシュヴァルム地方までバスでゆく。ここにはケプフェレ(鶏冠?)という伝承衣装があり「赤ずきん」とその衣装が結びついたという。いくつかの童話は、この地方に由来しているとの説明。なるほど。
②【アスフェルト】
アスフェルトの街にもやはり広場があり、キンダーコップが敷きつめてある。木組みの建物が目に付く。午前10時前から広場(マルクト)は会場づくりがボツボツ始まっている。何か催し物があるとのこと。マルクトの回りに教会や庁舎がある。キンダーコップの敷石は街の落ち着いた街の風情だけでなく、作品の一つであるとの印象。街づくりの柱<理念)になっているのであろう。建物の屋根の勾配が急傾斜である。雪の多い地域なのかもしれない。
この街は刺繍で知られた街のようだ。木組みに囲まれた石畳の広場は中世の面影を演出しているという。骨格部分は木材(主に樫)で、間を粘土やレンガなどで埋めてある。ある距離を置くとバランスよく見える。よくよく見るとズレや出っ張りなどがあり、それも計算の内なのだろうか。場所によっては広場だけでなく通りなどから見える窓にも花がいっぱい。
▲朝の広場の様子。パン屋はすでにオープン ▲広場に敷きつめられた石
▲今日は催し物があり、会場の準備がなされていた。 ▲シックな感じの木組みの建物
③【ニーダーヴェルトの丘】
リューデスハイムの街に入る前にニーダーヴェルトの丘へゆく。そこにドイツ統一記念碑がある。記念碑は皇帝ヴェルヘルム一世によるドイツ帝国成立(1871年)を記念したもののようだ。碑の建立は1883年で、最高部の像は女神ゲルマニアである。そこからリューデスハイの街やライン河、そして対岸の街が眺望できる。麓の斜面にはブドウ畑が、まだあおい実をつけている時期。

▲ドイツ統一記念碑 ▲ニーダーヴェルトの丘
④【リューデスハイム】
ニーダーヴェルトの丘からバスで下る。ドロッセルガッセ(つぐみ横丁)でよく知られて通りで昼食。通りではそう人影は多くないが、店の中は満杯状態である。白昼からワインである。
▲ニーダーヴェルトの丘からみた街 ▲リューデスハイムの街
⑤【ライン川沿いの古城】
ライン河下りの船上から眺める古城から、城の築城の目的や機能などライン河と深く関わっているのであろう。これら古城の一つ一つを理解する力量はないが、発刊されているガイドブックなどから、築城の目的や機能の一部を知ることができる。ライン河下りの間(リューデスハイム~ゴア)(約35km)で20近くの古城があると見られる。ここでは画像に納めることができた古城を掲げてある。
ドイツの古城は沖縄のグスクの展開と比較することは、ヨーロッパの築城の影響が少ない沖縄のグスクと比較することは、グスクも広がりと独自性がはっきり見えてくるのではないか。そんな思いを描きながらライン河沿いの古城を眺めていた。
参考文献:ライン河畔の城塞や居城(ガイドブック)
ラインの流れ(説明文)クラウス ラメール出版社
【左岸の城】
①ラインシュタイン城・・・税関(1825~29年)に使っていたのを城にした。プロイセンの王子
フリードリッヒ。
②ライヒェンシュタイン城・・・盗賊の根城として使われていたのをルドルフ・フォン・ハプス
ブルクによって、1282年に破壊される。現在博物館となっている。
③ゾーネック城・・・1010年に築城され13世紀になると盗賊騎士団の根城となる。
④シェーンブルク城・・・街の城壁の一部
⑤ラインフェルス城・・・1245年に築城される。通行税をとるための城。1479年にヘッセン伯爵の
所管となりヘッセル・カッセルのヴィルヘルム三世が1497年~1527年に
かけて増強する。

①ラインシュタイン城 ④シェーンブルク城

⑤ラインフェルス城
【右岸の城】
①エーレンファルス城・・・13世紀初頭に建造された城。河税関所として建てられた。
1689年に破壊され、廃墟となっている。
②グーテンフェルツ城・・・カウブの街の山手にある城。1200年頃の築城でグーテンファルツ
は堅固な岩。
③カッツ(猫)城・・・1393年カッツェンエルンボーゲン伯爵によって築城される。フランス革命のとき
破壊され、1898年に再建される。
④マウス(鼠)城・・・別名トゥルンベルク城。ねこ城の城主が揶揄してよんだことに由来。

①エーレンファルス城 ③カッツ(猫)城
【砂洲にある城】
①プファルツ城・・・中洲にある城、別名グーテンフェルツ城。1200年頃に築城。シュタウフェン
期にはライン地域の防衛の城としてつかわれた。
▲中州に立プファルツ城(工事中)
⑥【ローレライ】
ライン河の河幅が90mと狭まったところ。そこにそびえたつ132mの右岸の岩壁。急な流れと暗礁があり航行の難所となっている。水かさが減ると暗礁(七名の乙女)が姿を見せる。七名の乙女達は心が冷たく、そのために岩に姿が変えられたという。舟人を歌声で誘惑した妖女伝説やハイネの詩に曲がつけられ、日本で近藤朔風の「なじかは知らねど」の訳詩で歌われている。

▲切り立った右の岩壁(ローレライ) ▲この船でライン河を下る(ゴアの街まで)
⑦【ハイデルベルグ】
ハイデルベルグの街は大学の学生の多い街ということもあろうが学問や伝統や歴史が滲み出ているのではないか。そんな思いにさせられる。ネッカー河に架かるカールテオドール橋の橋詰付近にある自転車が在学する学生と結びついたに違いない。

▲ハイデルベルグの街の広場 ▲後方に見えるのがハイデルベルグ城

▲ハイデルベルグの街とネッカー河(ハイデルベルグ城から)
⑧【ネッカー河】

▲ネッカー河の下流(左)と上流をみる(右)(カールデオドール橋から)
(工事中)
⑨【カールテオドール橋】
(ドイツ・ハイデルベルグ泊)
2005.08.14(日)
昨日(13日)に旅から帰ってきました。まだ、時差ボケ状態。ボケ状態だが、記憶のある間に旅でのノート(メモ書き)の整理をして置かないと・・・。すでに混乱状態なり。ハハハ
ドイツの中南部のいくつかの街とオーストリアの三つの街を訪ねてみた(8月4日~13日)。ドイツとオーストリアは全く初めて訪ねた国である。それと予備知識なしなので、現地に立っての一日一日の報告をすることに(まずは訪ねた順に整理から)。
【旅への前日】
出発前日(8月3日)になって4日からの旅のドイツとオーストリアの地図を開いてみた。オーストリアも行くのかと気づいたのであるが調べる時間がない。とり急ぎドイツでの行き先を確認することにするが、適当な地図を探すことができず。ドイツの周辺にフランス・オランダ・ルクセンブルク・ベルギー・スイス・オーストリア・チェコ・ポーランド、そして北側にデンマークがあることを頭に入れる。
ドイツのマップに以下の七つの街道筋を見つけ、その一部を訪ねるのだと気づき、照れ臭さもあるがのることにした(今更じたばたしても)。さらにドイツからオーストリアへのコースである。オーストリアのインスブルック・ザルツブルク・ウィーンの三つの街は何故か興味がある。しかし、まだ気が乗らない状態での出発である。
①エリカ街道
②ゲーテ街道
③古城街道
④ロマンティク街道
⑤ファンタスティック街道
⑥アルペン街道
⑦メルヘン街道
【旅へ出発の日】
8月4日(木)出発の日、台風9号が沖縄本島と台湾との間を北上中である。那覇空港から飛行が飛び立つことができるだろうか。また台湾(タイペイ)への着陸、そして離陸ができるのかヤキモキしながらの旅たちである。自宅から空港まで2時間はみないといけない。家を出る直前に「現在のところ、予定通り出発します」との連絡あり。車中のラヂオを聞いていると沖縄本島から宮古や八重山などへの航路は前便欠航を告げている。台風が進路は沖縄側も台北(タイペイ)側も気をもむ。素人の旅人が気をもんでいるいるにすぎない程度の強風なのかもしれないと思いながら。飛行機はチャイナエアライン航空。
晩の19時55分那覇空港を出発し、台北20時20分着。台北23時10分発の便でフランクフルト(ドイツ)へ。到着は翌日(5日)の午前6時50分着の工程である。タイペイから北上し日本海上空を通過し、ロシアの上空を通過する北回りのコースである。バルト海から上空からドイツ入りの7時間余のフライトである。(機内 泊)
【8月5日】(1日目)
①フランクフルト
②ハーナウ
③シュタイナウ
④ザバブルク
⑤ヴィルヘルムスヘーエ公園(カッセル)
空港からバスの乗ったのであるが、ドイツで何をどう見ようか。まだ視点がボケたまま。機内での宿泊だったので、旅のスタートを切った気分でもない。運転席の後ろに座り、しばらく道路事情を見ることに。
②【ハーナウ】
ハーナウに着く間、マチと次のマチとの間にはっきりした区切がある。「ドイツのマチの成り立ち」が見えるのではないか。次第に「山原のムラ・シマを歩く」視点でドイツのマチが見えるのではないか。車中、次第にそんな思いが強くなってきた。
ハーナウのマチに行くと、まずはグリム兄弟の像(兄ヤーコブは1785.1.4生、弟のヴィルヘルムは1786.2.24生).のある広場(マルクト)へ。フランクフルトから約20kmの地にある。グルム兄弟の生まれ故郷であるが、マチがどう展開してきたのかに関心がある。10万人足らずのマチのようだ。14世紀初頭神聖ローマ帝国の皇帝アルブレヒト一世が、一帯を統治していたハーナウ伯ウーリッヒ一世に都市権を与えたのち、ウーリッヒ一世の定住地となり都市として発展してきたという。
後で気づくのであるが、マチの中央部に広場(マルクト)を設け放射状に道がつくられている。山原の集落も中央部にアサギミャー(アサギの庭)があり、このムラ(集落)の拠点になっている点、何か共通したものがあるのかもしれない(スケールは異なるが・・・)。
▲フランクフルト空港駐車場 ▲高速道路にHanauやKasselの掲示が
▲マチの中心部に教会や庁舎などがある。広場の中央部にグリム兄弟の像がある。
③【シュタイナウのマチ】
シュタイナウのマチはグリム兄弟が幼年の頃過ごしたマチである。交易の要所として発展したマチ。フランクフルトとライプチヒを結ぶ街道沿いのマチ。グリム兄弟の父が裁判官であったため、そこに引っ越してきたという。家は博物館になっているが、午前中だったので閉館中。家に向って左側には荷馬車やハシゴが置かれていた。
シュタイナウにある城の名称を聞いてみたら、同じくシュタイナウ城と呼んでいるという? 1290年にハプスブルク家のルドルフ王から都市権を得て、ハーナウ候が第二の居城として築いたという。ルネッサンス様式の城塞。
城や教会の前の広場は、多くのマチに見られる公共広場のようだ。車を降りて教会の広場の手前で道路の工事をしていた。石畳道の補修工事である。石畳道は歩くのに気持ちいいものであると、同時にマチの風情を落ち着いた歴史的なマチにしている。石畳道に使われている子供の頭程の石はキンダーコップと言うようだ。場所によってはレンガである。どこにでも転がっている石と思っていたら、人工的に裁断をしてはめ込んでいるのには驚いた。今では裁断機を使っているが、かつてはどうして切っていたのだろうか。あれだけの数。
▲教会前の広場。付近の家や店前に切られた枝が置かれていた。祭りに使う木だという。
▲シュタイナウ城?への石橋とアーチ門 ▲工事で掘り起こされたキンダーコップ
▲グリム兄弟の家の軒下にある荷車 ▲グリム兄弟の家(博物館になっている)
④【ザバブルク】
シュタナウからさらにザバブルクへと向う。自然公園となっているラインハイツの中にある。グリム童話のイバラ姫(眠れる森の美女)の舞台となった城のようだ。ザバブルクの周辺は自然公園となっていて鹿注意の看板がみられる。城の創設は1331年頃に遡るようだ。気温9度なり。
お城が巡礼者の祈りや狩猟などに使われたり、その機能をがしれる。現在は一部ホテルの宿泊に使われているが、中庭?(台所だという)場所まで案内してもらう。城の造り(石積みや構造など)や内部での生活の様子が伺え、琉球のグスクと比較しながら眺めている。

▲サバブルクの外からの様子 ▲イバラ姫の一場面

▲上から中庭(台所跡)をみる ▲井戸の跡がある
⑤【ヴェルヘルムスヘーエ】(カッセル)
バスでカッセルのマチへ。ヴェルヘルムスヘーエ公園内に美術館があるが夕刻7時半であるのですでに閉館なり。夕刻8時過ぎまで明るい。気温が10度前後なので肌寒さあり。
公園からレーヴェンブルガ城が遠くに見える。残念ながら全景は見えず。ヴェルヘルムスヘーエ城は美術館と博物館になっているようだ。内部が見れず残念。
▲ヴィルヘルムスヘーエ城(今は美術館と博物館?)
▲カッセルの街が見える ▲こちらは博物館なり
▲遠くに見えるのがレーヴェンブルク城
(ドイツ カッセル泊)
2005.08.03(水)
8月4日(木)から14日(日)までお休みします。
ちょっと休憩します。しばらく、仕事から離れます!旅の準備、何もしていないのでこれから。何を見て来るのかわかりませんので、戻ってから報告です。
では、では・・・(それにしても台風で出発できるのかな?)
(留守中は二人にまかせて安心して出かけます。鬼のいない間に・・・)
【間切時代】(後期)のグループ
午前9時過ぎに兼次小6年生「間切時代」(後期)のメンバーがやってきた。明日から留守だと言ったら慌ててやってきた。このグループが最後。これで8グループの役割と次の課題へと。一通り終了です。
この時代は琉球国が明治5年に琉球藩、そして明治12年に沖縄県になるところからスタート。沖縄県になった時代の報告である。沖縄県になったのであるが、まだ琉球国時代の間切や村など、そして制度が尾を引っ張ってる時代である。
その頃の今帰仁グスクはどうであったのか。今帰仁グスクへはハンタ道を歩いて上っていた時代である。また、今帰仁グスクは今帰仁御殿から今泊に払い下げされる動きのある時代である(払い下げは大正4年)。話題に事欠かない時代である。
10月には今帰仁グスクで発表会をします。夏休みで一人ひとり絵をしっかり描いておいて。用紙は先生からもらってください。

▲今日まとめた自分の持分をしっかりと発表してくれました!3人組
2005.08.02(火)
8月にはいりました。夏真っ盛りで、暑いのですが夏が好きだ。
兼次小の3年生達が午前中「大きな木」の学習にやってきた。今帰仁村今泊にコバテイシの大木がある(県指定文化財)が、その木を手がかり学ぶことに。コバテイシに周辺のこと、そこで行なわれる豊年祭や棒術などの催し物などを語らすことに。一人で一つ二つの話題を拾い、みんなの話題を大きなコバテイシにお話をさせる設定。もっとたくさんの話題(今日は一人一つ二つで計10くらい)を拾って、400年の歳月や出来事を語らすことができるといいな。

▲コバテイシに語らせる話をまとめる ▲コバテイシのある今泊集落のマップの前で