2005年6月の記録
沖縄の地域調査研究(もくじ)
2005.06.29(水)
午後から壺屋焼物博物館のメンバーが来館。博物館の情報交換。午後4時から兼次小の4年生の一グループがやってきた。「名刀千代金丸」のグループ。6名でその物語を紙芝居風に発表する予定である(一人は欠席)。脚本は「名刀千代金丸」である。そして物語を6名で分担したのを読み合わせから。
今日は、まずそれぞれ自分の持分の原稿読みから。だいたい一人10行程度。しばらく、何回も原稿を読むことに。そして、持分の原稿(中身)を他人に伝えるつもりでの発表。なかなか、しっかりと原稿を読んでくれた。このグループは早めにしあがりそうだ。
もう一つ、分担した原稿の場面を絵にすることに。どのような絵にするか個々にヒントを与える。
・今帰仁グスクの当時場面。
・千代金丸をかざして戦う場面。
・本部テーパラーの裏切りの場面。
・今帰仁グスクが焼かれてしまう場面。
・千代金丸で霊石を切りつける場面
などなどである。しばらく絵を描きながら、原稿を読むこと。進んでいるのは、遅れいる友達の手助けをすること。6名でうまくつないで一つの物語を完成していく。大事なこと。絵ができあがった頃、今帰仁グスクで実演をする予定。お客さんにも見てもらい、そこで、さらに一工夫をしていく。
生徒達は、ぼつぼつ狙いに気づいてきたようだ。ここまでくると、余裕をもって楽しみながら進めていける。最後に、もう一度一人ひとり原稿を読んでおわり。その後、「今帰仁グスク見てくる!」とカメラ持って今帰仁グスクヘ。絵にするようだ。NHKの課外授業?をやっているようなものである。
▲今日は、一人一人分担の原稿の読み合わせから。なかなかうまいよ。みんな!
2005.06.28(火)
金武町にある観音寺と境内にある金武宮(洞窟)までゆく。普通金武の寺と呼ばれている。寺の知識を持たないので金武町教育委員会がたててある説明文を。
当観音寺は、十六世紀に日秀上人によって創建された。現存する観音寺は、
昭和十七年に再建されたものであり、建築手法は近世社寺の手法が取り入
れられている。
沖縄県下の社寺建築の多くは今次大戦で消失したが、幸い当観音寺は戦災
を免れて今日に至っており、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築である。
当観音寺は、昭和五十九年六月一日、有形文化財(建造物)に指定された。
金武町教育委員会、

▲金武町にある観音寺 ▲金武宮(鍾乳洞)
2005.06.26(日)
月曜日は休館です。天気はよくなりそう。いい休日であるように!
与論島以北の島々と琉球との比較をする場合、島津軍の琉球侵攻後の江戸幕府や島津氏の島々への対応を知っていく必要がある。そのこともあって、江戸幕府と島津軍の琉球侵攻後の対策を頭に入れておく必要がある。そのあたりについて、『幕藩制国家の琉球支配』(紙屋敦之著:校倉書房)から概略をまとめておくことに。当初は琉球を幕藩体制のもとに大和化しようとするが、幕府の対明政策がうまく行かず、島津氏の琉球の支配方針が変る。一変して琉球に対して日本風俗を禁止することになる。
1609年3月の琉球侵攻は島津の軍勢3000人と言われている。その5月島津軍は尚寧王をはじめ100名余を捕虜にして薩摩に引きつれていった。徳川家康は7月に琉球支配をいくつかの制限をつけて認めた(幕府の対明政策の範囲)。
・琉球は代々中山王が国なので他姓を立てて国王にしてはならない。
・琉球国を明国との貿易の仲介を予定。
・島津家久に琉球からの貢税を与える。
・琉球の支配者が不在のうちに検地を実施する。
・9月に尚寧王や三司官などの帰国が許される。
・1069年9月19日付の「掟十カ条」が出される。
・1613年6月1日付の「御掟之条々」が出される。
(以下略)
(そこら当りの動きは丁寧に把握する必要あり。島津・幕府・琉球の関係を踏まえ
て与論島以北の琉球的なものを考えなければならない。そのことは別稿でまと
めることに)
2005.06.25(土)
『聞得大君規式の御次第』に出てくる七御嶽は、集落の発生と関わる御嶽とは別に国レベルの御嶽とするものである。琉球の七御嶽は出典によって異なっていることに注意。
御国ノ御立始メ、国頭間切アオヒノ御嶽、今帰仁間切コバオノ御嶽、首里森ノ御嶽、セヤハノ御嶽、
弁ノ御嶽、久高コバオノ御嶽、玉城雨辻此ノ七御嶽、海ニ干瀬出土、阿摩弥久、志仁礼久、天ヨリ
七御嶽ヘ御下リ御覧被遊、東ノ浪ハ西ニ越エ西ノ浪ハ東ニ越エ此レ形ニ而ハ出毛草木下可成相
ハ天ニ御登、久葉、松、ススキ、アダ弥、浜ハウ木、此五品御下、天テイシ御下、天帝子、天タイ
シハ御子供三人有之、御一人ハ天孫子、御一人ハコンコント申シ、天ヨリ・・・
①アオヒノ御嶽(国頭間切辺戸のアフリ御嶽)
②コバオノ御嶽(今帰仁間切今泊のクバの御嶽)
③首里森の御嶽(首里城内)
④セヤハノ御嶽(知念間切の斎場嶽:セーファウタキ)
⑤弁ノ御嶽(首里の弁が嶽)
⑥久高コバオノ御嶽(久高島のクバの御嶽)
⑦玉城雨辻(玉城の雨辻御嶽)
『中山世鑑』の「琉球開闢之事」で、御嶽は以下の順序で創設される。ここでは七つの御嶽創設の順序を述べていて、七カ所の御嶽のみを指しているのではない。上の七嶽と同一の御嶽もあるが、別の個所の御嶽を指している場合もある。例えば、今帰仁の場合は上の資料ではクボウの御嶽をさし、下では今帰仁グスク内のカナヒヤブ(テンチヂアマチヂ)の御嶽をさしている。首里や知念では複数の御嶽をまとめてある。
先ズ一番ニ、国頭ニ、辺土ノ安須森、次ニ今鬼神ノ、カナヒヤブ、次ニ知念森、斎場嶽、藪薩ノ
浦原、次ニ玉城アマツヅ、次に久高コバウ森、次ニ首里森、真玉森、次ニ嶋々国々ノ、嶽々森森
ヲバ、作リテケリ。
①国頭辺戸の安須森
②今帰仁城のカナイヤブ
③知念森・斎場嶽・藪薩の浦原
④玉城のアマチヂ
⑤久高島のクバの御嶽
⑥首里森、真玉森
⑦嶋々の御嶽
▲知念城内にある拝所(イベ) ▲知念城の裏門
▲斎場嶽の三庫理(サングーイ) ▲斎場嶽の寄満(ユインチ)
「山原は様々な学問の対象地」(南風最終回原稿)
2005.06.24(金)
沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。
空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登るだろうか。
安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀はないということ。だからクニレベルの御嶽だということではない。
『琉球神道記』(1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、
新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、
アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。
八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、
託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘
三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。
とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。
▲宇嘉からみた安須杜(アスムイ) ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)
▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島 ▲辺戸岬からみた与論島
▲国頭村奥の集落、海上に与論島が ▲国頭村奥の港(干潮時)
2005.06.22(水)
徳之島のアルバムを取り出してみた。平成9年(1997年)に二度訪れている。徳之島は奄美大島の南西に位置し、沖永良部島・与論島、そして沖縄本島へと続く。
今回徳之島について触れるのは古琉球の辞令書を手掛かりにしてである。辞令書はよく知られて、すでに報告されているものである。1600年の辞令書から首里王府は徳之島も統治していたことがわかる。
「徳之島は三間切(近世は東間切・西目間切・面縄間切)に分かれ、三山分立時代には与論・沖永良部・鬼界島とともに北山王の支配下にあった。奄美大島は中山王の支配下にあったが、与路・請島は徳之島下に属していた」という。辞令書に登場する手々は三山統一後の第二尚氏時代のことである。手々は徳之島町の大字で、島の最北端に位置する。
辞令書の頃は首里王府支配下であるが、三山の時代の痕跡が残っているかもしれない。与路と請島が徳之島に属していたというのが気になる。すぐ近くの加計呂麻島の村には山原で見られる神アシャギがあるからである。
(工事中)
【徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書】(1600年)
しよりの御ミ(事)
とくのにしめまきりの
てゝのろハ
もとののろのくわ
一人まなへたるに
たまわり申し候
しよりよりまなへたるか方へまいる
萬暦二十八年正月廿四日
2005.06.19(日)
9月11日(日)「山原と奄美」のシンポジウムがあるのでその準備なり。1992年9月に沖永良部島を訪れている。記憶が薄らいでいるのでアルバムを開いてみる。
沖縄の歴史の三山(北山・中山・南山)の時代の北山に強く関心を持っているのが沖永良部島である。『知名町誌』で「琉球服属時代」として50頁余さいている。「北山と沖永良部」で、伝えられている北山王の二男(真松千代)はどの王の二男なのか。いろいろ検討を加え怕尼芝の長男が珉で、二男が真松千代、そして三男が与論世の主とされている。史実にかなっているかどうかは別にして、沖永良部島と与論島が北山の二男、三男が島を統治したという歴史認識は古くからあったとみていい。
そして中山の尚巴志と連合軍に北山が滅ぼされ、その後護佐丸が座喜味城を築いたとき、「鬼界島、大島、その他の島々からも人夫として駆り出され、山田城から石を運ばされた」と伝えられている。「三山の時代は与論、沖永良部、徳之島、大島、喜界島は北山の領分であった」との伝承や認識がみられる(そこでは伊是名・伊平屋島も北山王の支配下にあった)。
「沖永良部世之主」や「世之主がなし」や「世乃主由書」などの資料の吟味は、北山の時代につながる、つまり北山文化圏や支配領域を議論していく足がかりとなればと考えている(詳細は別稿)。

▲沖永良部島の世之主の墓(和泊町) ▲世之主を祭った世之主神社(和泊町)
2005.06.18(土)
奄美地方が首里王府の支配下にあったことを示す史料に古琉球の「辞令書」がある。首里王府から発給された辞令書の分布(現存
●および逸存
●)を示してみる。首里王府から奄美地方に発給された古琉球の辞令書から、首里王府の奄美の統治の様子が伺える。
大屋子・掟・首里大屋子・のろ・目差・里主などの職へ辞令の発給がなされている。それと土地があたえられているのもある。それは奄美が特別なものではなく、琉球内でも同様な内容の辞令の発給がなされており、奄美含めて首里王府の統治の配下にあったもので、奄美の古琉球の辞令書を紐解くことは沖縄本島以南の古琉球の統治を知ることでもある(詳細については別報告)。
以下は『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会:昭和53年度から)。その後、確認された奄美の辞令書があったような。後で追加することに)。
●笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(嘉靖8年12月29日)(1529年)(大島北東部笠利町)
●瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書(嘉靖27年10月28日)(1548年)
(大島の南西部:瀬戸内町)
●喜界の志戸桶間切の大城大屋子補任辞令書(嘉靖33年8月29日)(1554年)(喜界島)
●屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年12月27日)(1554年)
(大島中西部、大和村・宇検村)
●屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年8月11日)(1556年)
(大島中西部、大和村・宇検村)
●瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(嘉靖・・・)(大島の南西部:瀬戸内町)
●笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年8月24日)(1568年)
(大島北東部笠利町)
●瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年8月24日)(1568年)(瀬戸内町)
●鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶3年正月5日)(1569年)(喜界島)
●瀬戸内間切阿木名目差職補任辞令書(隆慶5年6月11日)(1571年)
(大島の南西部:瀬戸内町阿木名)
●屋喜内間切の先原目差職補任辞令書(隆慶6年正月18日)(1572年)
(大島中西部、大和村・宇検村)
●屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令書(隆慶6年正月18日)(1572年)(大島中西部)
●瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
(瀬戸内町須子茂)
●瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
(瀬戸内町須子茂)
●瀬戸内西間切の古志のさかいへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
(瀬戸内町古志)
●□□□□□□□知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
●屋喜内間切の部連大屋子職補任辞令書(万暦7年5月5日)(1579年)
(大島中西部、大和村・宇検村)
●名瀬間切の首里大屋子職補任辞令書(万暦7年10月1日)(1579年)(瀬戸内町)
●屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11年正月27日)(1583年)
(大島中西部:宇検村名柄)
●名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15年10月4日)(1587年)(大島名瀬市大熊)
●瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(万暦16年5月27日)(1588年)(瀬戸内町)
●瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書(万暦23年9月22日)(1595年)(瀬戸内町)
●徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28年正月24日)(1600年)(徳之島町手々)
●瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30年9月10日)(1602年)(瀬戸内町)
●名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書(万暦35年閏6月6日)(1607年)(名瀬市域)
●名瀬間切の西の里主職補任辞令書(万暦37年2月11日)(1609年)(名瀬市)
(分布図作成中)
【参考文献】
・『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会:昭和53年度
・「古琉球期の奄美における給田の移動」高良倉吉 『日本文化の深層と沖縄』所収(1996年)
2005.06.17(金)
与論島に古琉球(1609年以前)の琉球の痕跡が確認できないか。さらに三山の時代の北山の痕跡はどうか。そのような視点で与論島の資料を見ている。まず、古琉球の琉球の痕跡としてとらえることができるのに祭祀(ノロ制度)がある。第二尚氏尚真王の時代に制度化されたノロ制度の痕跡である。
1512年に尚真王の二男大里按司尚朝栄(花城真三郎王子)が与論世之主として派遣され与論島を統治したという。与論島での古琉球の辞令書は確認されていないが、与論島以北では首里王府発給の辞令書が確認されているので、与論島のノロにも辞令書の発給がなされたとみてよさそう。与論島のノロが関わる祭祀をみることは、首里王府の統治下の与論島を見ることになる。
与論島の「朝戸のユントクダークラの座元徳田氏宅にはノロの神衣と首飾りが保存されており、その家がノロ家であったとみられる」(『のろ調査資料』356頁、中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著)とある。与論のアンサリーは世之主の夫人や姉妹が任命されたという。その痕跡は近世の『東家系図』や『基家系図』に「西阿武」や「大阿部」、茶花ノル、内士(侍)ノル、大ノルなどが登場する。薩摩の琉球侵攻後、与論以北が薩摩へ分割されるが、以後も古琉球の祭祀を踏襲していることがわかる。
『のろ調査資料』に「現在の根地、すなわちサアクラ=アシャゲ家は旧家系統のものとみてよい」とあり、アシャゲは山原の神アサギと同じ施設を言っているのなら非常に興味深い・・・。
(続く)
【参考文献】
・『のろ調査資料』(1960年~1966年調査)中山・富村・宮城 1990年発刊
・『沖縄のノロの研究』宮城栄昌著 昭和54年発刊
・『与論町誌』与論町教育委員会 昭和63年発刊
2005.06.16(木)
これまで御嶽(ウタキ)がどう作られたのか、あるいは文献でどう説明しているのか整理してみる。「琉球の人たちは、集落(集団)をつくると御嶽をつくる習性を持っているのではないか」と考えている。御嶽をクニレベルと集落形成に伴う御嶽は分けて考える必要がありそう。御嶽を中心とした祭祀が首里王府の統治に組み込まれる以前の祭祀がどうか。恐らく、制度化されるベースに集落を中心とした祭祀が伝統的にあったと思われる。
それとは別に文献から、御嶽をどう位置づけたのか整理してみる。
(工事中)
・『球陽』の「琉球開闢説」
・『聞得大君御規式次第』
2005.06.15(水)
一時間半の講演はいつもぐったりである。頭の中のをすべて履き出したようなもの。金曜日にもう一本あり。一時間程度にとどめ、質問を受けることにしたい。スライドの数も60枚程度に。今日の参加者は沖縄県全域であった。17日(金)の対象者は山原域の方々なので北山に絞っての話ができそう。今日の参加者は昭和(戦前)生まれの方々がほとんど。「沖縄の歴史」を学んでいる方々は少ない。歴史を学ぶということは何かということ中心に話すことにした。
恩納村谷茶は言語でいうなら、沖縄本島の北部と中部を分ける境界線にあたる。また1673年まで谷茶以南は読谷山間切のうち、谷茶の隣(北)の恩納村(ムラ)から金武間切域である。ちょど北山と中山との境界での講演であった。恩納間切は金武間切と読谷山間切から分割した村で創設された。そのため恩納間切(後の恩納村)域は北山と中山の混合地域ということになる。「恩納村は北山(山原)?それとも中山域?」ということになる。恩納村の恩納以北(もとの金武間切域)は山原(北山)、谷茶以南のムラ(読谷山間切)は中山域ということになる。
最後に締めた言葉は「沖縄の歴史で戦前・戦争・戦後復興・高度成長、そして宇宙まで人間が飛んでゆく時代は過去にありませんでした。みなさんは、いずれの時代にも体験できなかった時代を体験してきました。貴重な時代に生きてきたことを誇りに思って欲しいし、愚かな戦争への道をたどってはいけないことを、後世にしかと伝えていただきたい」である。
2005.06.14(火)
歴史文化センターの業務の中に今帰仁グスクをはじめ「山原の歴史」情報を発信する役目も担っている。そのこともあって明日は「沖縄の歴史―北山を中心に―」をテーマで講演をする。今回は歴史的な話もするが、歴史を議論するベースについて話す予定。それでスライド80枚準備する。その時代時代に生きた人々の生活、そこに立って歴史を読み取っていく、そのことを中心に。レジュメは明朝にでも。
2005.06.12(日)
月曜日は
休館です。低気圧が発生しているのでしょうか?風強し!
梅雨が明けたら与論島を訪れてみようと思う。島に船が接岸している時間、船上から島を眺めただけの体験である。3月に『
与論島―
琉球の原風景が残る島』(高橋誠一・竹盛窪著)を高橋氏から献本いただいた。感謝!記されているキーワードを手がかりに与論島を歩いてみたいと思います。楽しみだ。
沖縄本島の最北端の辺戸から23㎞の距離に位置している。国頭村の奥の集落から海上(奥漁港)の正面に見える。
1616年に徳之島代官所が設置され沖永良部島と与論島を管轄するようになる。1616年以後は、薩摩藩の代官所による支配となる。それ以前の琉球王国の支配や文化の痕跡が、どのようなものや形でのこっているのか。そのことを確認するためにはどのようなキーワードがいいのか。沖縄本島のムラ・シマを見てきたキーワードが適応できるのか。あるいは与論島を見る独特なキーワードがあるのかもしれない。しばらく、その視点で与論島の資料をみることに。北山の時代の痕跡は?
・グスクと集落
・御嶽を集落移動
・集落区分の呼称と一門(血族集団?)
・「・・・サアクラ」は集落区分の呼称?あるいは血族(一門)集団の区分呼称?
(山原の・・・バーリや中南部の・・・ダカリ?)
・沖縄本島の祭祀との比較(シニグやウンジャミなど)
・与論方言と山原方言
・地名にみる共通性
・与論島における北山系統と中山系統
・1405年に北山から派遣されたという王舅なる人物?
・1512年に尚真王の次男尚朝栄(大里王子)、花城真三郎が与論世之主として
派遣されたということ。
・近世まで踏襲される琉球王国の役職
・今に残された琉球的な芸能や祭祀
・女性の入れ墨(本島での呼称はパヂチやハヂチ)
・神アサギ(アシャゲ)の痕跡はあるのか?
山原と与論島を比較するためのキーワードをあげてみた。期待したいのは、
・三山の時代の北山の時代の痕跡
・三山統一後の首里王府の支配化の痕跡
(古琉球の辞令書や祭祀など)
・1616年以降の薩摩の支配下の影響
などの重なりが確認できればと思っている。まだ見通しがついているわけではない・・・。果たして結末は!
2005.06.10(金)
明日の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村与那嶺である。私の座っている斜め上に掲げてある故仲宗根政善先生の生誕地である。この時期になると、戦争をテーマにした催し物が各地で行なわれる。ある学校から「沖縄戦に関する資料を貸して欲しい」とあったが断った。単なる資料貸しをする資料館ではないのである。形だけの資料貸しはダメなのである。少なくとも一、二ヶ月前から準備が必要である。一過性のイベントにならないためにも。故仲宗根先生の視線がいつも注がれているからでもある。
口癖のように言い続けてきたのは「何故あなたは今ここに人間として存在するのですか?」である。「戦争の時、あなたのおじいさん、おばあさんはどこにいたのですか」 そこから自分自身が戦争と深く関わっていることに気づかせている。テレビを見る側ではなくてである。
仲宗根先生の生誕地である与那嶺を「ムラ・シマ講座」で訪ねることは、ぜひ参加者に伝えて欲しいとの先生の声なのだろう。無意識に先生の『石に刻む』を手に悔し涙を流している自分がいる。先生のメッセージのいくつかを先生の屋敷の見える与那嶺の公民館前の大きな赤木の下で伝える義務がある。そんな気がしてならない(無意識にそのコースを計画していた。いつものコースとは逆である)。
①ユナンガー(与那嶺井)
②ヤシダガー(安田井)
③ユナミナガハマ(与那嶺長浜)
④与那嶺の神ハサギ
⑤与那嶺の老木の赤木
北山高校での講演「生命の尊厳と神秘」(『石に刻む』所収)の結びで、仲宗根先生は次のようにように結んでおられます(1967年か)。
この美しい今帰仁の青山の木かげにも今度の戦争で命を失った人々がいくらもいるのであり、
沖縄全島至るところの巌かげに、また山のこかげに深くうもれて、戦争でなくなった人々がいる
のであります。皆様は幸にしてこの戦争にあいませんでした。本当に仕合だと思います。沖縄の山野
に散った人命は、二○余万人であります。彼等は無言のさけびをつづけているのであります。この
声なき声をしっかりと聞きとって生きて行くということがもっとも肝要であります。
生き残っている我々が、戦争にあわなかった皆さんに、是非とも伝えなければならないのは
このことであって、あえてここに皆様に訴えようとするのも、彼等の無言の声が私にはっきりきこ
えるからであります。私は彼等の声を生き残りの一人として皆様に御伝えする義務を感じます。
▲故仲宗根先生の遺影(歴文) ▲与那嶺の神ハサギとナー(庭)

▲ユナンガーの様子 ▲ヤシダガー(安田井)

▲ユナミナガハマ(与那嶺長浜) ▲長浜にある半洞窟(倉庫に利用)

▲与那嶺の神ハサギ ▲公民館前の大きな赤木
原稿締め切り。「山原の港と山原船」は推敲して明日送付なり。
2005.06.09(木)
北山高校の「沖縄の歴史」、兼次小学校の総合学習「北山の歴史」とつづく。特に、兼次小の「北山の歴史」は、8つの時代を並行した形で進めることに。そのため、課題やヒントを与えながら8カ所をかけまわる。
前回は親川からハンタ道を通り、ミームングスク、さらに旧集落跡まで踏査する。汗をかきながら、血を吸っているカをパチパチつぶしながらの踏査だったので、学んだ知識は吹っ飛び空中分解。そのこともあって、今度は歴史文化センターの展示室。8つのグループにわかれ、それぞれ分担する時代の前に座って。
歴史が展示されている物やパネルから、自分の時代のキーワードを見つけていく作業。言葉だけでなく、各時代の史料、さらに現在の様子。現在とそれぞれの時代をタイムスリップしたり戻ったりの訓練。さらに、あの顔は北山王の時代。監守時代の顔というように、それぞれの時代の顔をグループでつくっていく。ボツボツ生徒達も理解してきたような。「十世宣謨の時代」「第二監守の前期時代」などと呼びかけ手を挙げさせると、次第に自分の時代を認識し、友達は何時代だろうかと気にしている。「薩摩軍が攻めてきた時代はどのグループだ?」と聞くと、「おい、君の時代だろう」と合図したり。やはり、他の時代も気になっているようでシメシメである。
これからしばらくは、自分の時代の痕跡さがし。各時代の出来事や特徴を把握できたら、次は前後の時代のつなぎをしていく。最後はみんなで繋いだ700年、800年の歴史を各時代のグループを被せて立体的に描いていく。分担した時代の痕跡や物など、見つけたことをみんなに報告していく。その面白さが、2回目にして実感できたようだ。これからが本番。
2006.06.08(水)
午前中古宇利島。「沖縄県いきいきふれあい財団」のかりゆし長寿大学校の研修90名がやってきた。それだけの人数なので古宇利島のサブセンターを会場として借用。古宇利島の小浜区長に「古宇利島の祭祀」について報告いただき、補足する形で古宇利島をキーワードに歴史の話を。
「古宇利(氷)島のクーラーは熱気で故障中です」からはいり、最後の質問は墓(後生:グソー)でしめました。運天港と古宇利島のウプドゥマイ、伊是名(伊平屋)島と古宇利島の遠見番所、古宇利島の前を通り運天港へ進んだフランス船(オランダ墓)と出島計画の話。
小浜区長の「古宇利島の神行事」の報告を受けて、神行事は首里王府が琉球国を統治していく巧みな制度の視点で話す。講演が終わってから墓やポットホールや原石(ハルイシ)などの質問あり。古宇利島をキーワードに歴史的な話るのもなかなか面白い。「話は早めに切り上げますので古宇利島のスイカを買っていって下さい。古宇利島の宝ものが詰っています」と。島のコマーシャルまで。帰りに大きなスイカ一個頂きました。感謝

晩は『運天の字誌』(戦争編)あり。明日は北山高校、兼次小の準備。あれこれと続き、頭の切り替えが大変じゃ。
2006.06.07(火)
戦争体験記録の筆耕で多野岳がたびたびでてくる。そのこともあって多野岳へ。多野岳から東海岸の嘉陽へ抜けてみた。嘉陽林道を通り東海岸へ抜けるのははじめて。途中車とすれ違ったのは一台のみ。嘉陽と天仁屋の間あたりに出た。嘉陽の集落内に大きなガジマルがあり、一帯にムラの祭祀場がまとまってある。
ガジマルの側は広場となっていてアシビナーと呼んでいるようで、そこに井戸があり大正ガーと呼ばれる。ガジマルの後方に三カ所(ニガミヤー・アジヌヤー・ニーブガミ)の拝所がまとめられている。ガジマルの西側にヌンドゥルチがある。ヌンドゥルチから海岸へ抜けてみた。その道筋はヌンドゥルチジョウグチと呼ばれ神道のようだ。
嘉陽にはウイグシク(ヤマ)があり、そこに神アサギがあったが再建されていない。今回はそこまで足を運ぶ体力がなく、嘉陽の集落から眺めるだけに。
▲アシビナーに拝所がまとまってある ▲嘉陽ノロの祠
▲アシビナーから見たウイグスク ▲ジョウーグチからみた嘉陽の海岸
名護市源河までゆく。これまで何度か訪ねているがムラの成り立ちが、まだ理解できないでいる。そして源河川の流域や河口は山原船の発着場として利用されていたのではないか。海岸には「湊上原」の小字はあるのだが。今帰仁間切の古宇利島の人たちが、福地川の右岸や後原川沿いにフイダー(古宇利田)を持っていたのは興味深い。
源河ウェーキ(富農)の屋敷から眺めた源河川、そして麓の集落を見ると付近まで山原船が遡ってきたのではないか。源河村(ムラ)は羽地間切で最大の面積を持ち、山の大半が杣山であった。

▲源河ウェーキからみた源河川と集落

▲源河ウェーキの石積み(左が勝手口の入口、右が正面の入口

▲源河ウェーキの屋敷(建物の跡) ▲屋敷地内にある豚小屋跡

▲隣屋敷跡にある井戸 ▲源河川からウーグシクをみる
2006.06.05(日)
月曜日は
休館です。あれこれ多忙な一日になりそう。
渡久地港は本部町にある港である。明治の頃は名護港についで貨物の輸送の多い港であった。港は良好とまで言えなかったようだが、山原船の出入りは頻繁にあったようだ。対岸に瀬底島があり、道の島との往来する船の寄港地でもあったようだ。渡久地港に寄港した船の数が多いかどうかは、同時代の他の港との比較でみていく必要がありそう。
渡久地港から「道の島や国頭方面へ」船
大和形船7隻 琉球形船 48隻 (明治26年)
大和形船5隻 琉球形船 40隻 (明治27年)
渡久地港から「那覇方面へ」の船
大和形船5隻 琉球形船 60隻 (明治26年)
大和形船4隻 琉球形船 50隻 (明治27年)
下の左側の画像は現在の渡久地港、右が渡久地港の入口にあった離れ小島(谷茶大瀬)である(『望郷沖縄 第五巻』所収)。その小島は左側の画像の本部大橋の左側に見える緑地である。今でも森に祠がある。谷茶大瀬神社と呼んでいるようだ。漁民の豊漁や航海安全を祈る「海神宮」である。昭和8年頃の写真で鳥居やお宮は建設間もない頃である。
かつて小島であった大瀬まで埋められ、現在の護岸あたりの船着場(港)一帯は海中であった。様変わりしている。かつての港をイメージさせながら山原船を考えないといけません。
▲現在の本部町渡久地港 ▲海中にあった谷茶の大瀬(昭和8年頃)
近世(18世紀中頃)の津口(港)は津口番の役人によって取り締まりが行なわれていた。取り締まりの監督者は検者や山筆者、あるいは在番役人があたっていた。具体的なことは別でまとめる。ここでは管区のみ。
【津口番の管轄】(「今帰仁杣山方式」1754年)
金武間切は2管区
金武・並里・祖慶・漢那・宜野座・古知屋・・・6カ村 検者構
伊芸・屋嘉・・・・2カ村 美里間切 山筆者
久志間切は4管区
有銘・慶佐次・天仁屋・・・・3カ村 在番構
辺野古・大浦・久志・・・・・・3カ村 検者構
久志・汀間・安部・嘉陽・・・・・安部詰 山筆者構
川田・平良・大鼓・・・・・川田詰 山筆者
大宜味間切は3管区
根謝銘・一名代・城・親田・見里・屋嘉比・・・6カ村 国頭在番構
津波・塩屋・屋古前田・田港・渡野喜屋・・・5カ村 検者構
根路銘・大宜味・饒波・喜如嘉・・・・・4カ村 山筆者構
国頭間切は5管区
奥間・浜・比地・桃原・・・3カ村は在番構
与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉・・・・5カ村 謝敷筆者構
辺土名・宇良・伊地・・・・・3カ村 検者構
奥・辺戸・・・・2カ村詰筆者構
楚洲・安田・安波・・・・3カ村 山筆者構
名護間切
本部間切
今帰仁間切
2005.06.04(土)
戦争体験のテープ興しと『古宇利誌』の概況と復帰前後の予算書の校正。いくつか補足調査があるので、その調整。8日(水)「ふれあい財団」のメンバー90名ほど。古宇利島を研修の場に入れてあるので、サブセンターの借用(会場)とレファレンスの依頼と分担。区長が決定していないので前区長への依頼となりました。よろしく。
(工事中)
2005.06.03(金)
昨日は南風原町で沖縄博物館協議会の研修会。ちょっとした報告もあったが、やはり巡検は楽しい。南風原町にある戦争遺跡を回ったのであるが、帰ってきて画像を開いたら御嶽や殿や井戸や原石だった。
先日、運天の戦争について方言で語ってもらったテープを活字にしてみた。語ってくださった方々に原稿を戻して確認してもらう予定。方言のままでいいのであるが、字誌へは標準語にして原稿に。
▲喜屋武の黄金森の一部 ▲喜屋武の民家の井戸(ハー)
▲喜屋武の殿(トゥン) ▲ウフガー跡(喜屋武)
▲黄金森の頂上部にあるイベ? ▲仏ぬ前とある。イビヌメー?
▲野戦陸軍病院跡(入口) ▲「ゐ 松川原」の原石(センター敷地)
2005.06.01(水)
2日は南風原町文化センターで沖縄県博物館協会の研修会あり。報告することになっているので、今日は午後から資料づくり。テーマは「博物館等の活動と予算」である。私は「今帰仁村歴史文化センターの活動と予算」の報告をする予定。10年前から、それより前から厳しい厳しいと予算は削られてきた。予算がないから仕事ができなかったことはなかったような。今年から事情が変る。
今回は来年、再来年に向けて、潰されないように、そして厳しい話をすることになりそう。それでも各機関が元気に仕事していけるような話ができればと考えている。さて、明日はどんな報告ができるのか。夢でもみてまとめることに!
今年もモチキビが実る時期になった。今帰仁グスクの麓にある畑で、懐かしい風景を作り出している。モチキビの穂がたわわに黄金色になると、かつての水田の風景と重なってくる。この畑の一帯も昭和30年代まで水田が広がっていた。収穫のころに淡い黄色いご飯を食べてみたいものだ。
▲青々としたモチキビ畑 ▲たわわに実ったモチキビ