2005年5月の記録

                                 沖縄の地域研究(もくじ)


2005.05.31(火)

 
5月の最後の日なり。

 津(港)を調査していると、近世の上納などの運搬の主流は津(港)を介した海運であった。その運搬役を務めたのが山原船であった。海上交通が主であった時代に戻ってみると、その時代が見えてくる。山原船が往来していた時代を、もうすこし鮮明に描けないだろうか。「山原の津(港)と山原船」をテーマに掲げたのは、それぞれの港(津)に立って時代を見ていく作業をする。史料の少ないが、現場に立ってどれだけ読み取っていくことができるか。不十分ではあるが、その作業は大きな楽しみである。

 山原の各地の港(津)を歩いている。『琉球国旧記』(1731年)に記された山原の港や江を拾ってみた。まだその全ての確認ができていない。ブルーは踏査できた港や河口である。当時の江や港が現在どうなっているか、特定するにはなかなか困難である。地図や地名を手がかりに、そのあたりではないかと想定したのもある。

 8月の下旬から9月上旬にかけて学芸員実習をするが、それらの津(港)や江を踏査してみようと計画している。沖縄の江(川)や港に立つと、一般的に考えている港や川とは異なるでしょう! どう異なっているか。川や港の概念を壊すことになるのかも。それが面白い。ハハハ

【恩納郡(間切)】・・・16
  名嘉真江名嘉真港安富祖港瀬良垣港仲泊港/外川港/山田江
  /真栄田港比留港/恩納港/内那喇港/久波江/久良波江/谷茶港

【金武郡(間切)】・・・10
  末塗江/大久辺江/漢那港宜野座港/烏部江/屋嘉港屋嘉江
  喜嘉江/古知屋港

【名護郡(間切)】・・・9
  名護港許田港名護江瓶底港(湖辺底)/屋部港安和港
  山入端江喜瀬港世冨慶港

【本部郡(間切)】・・・6
  満名江健堅江/上川/前川/大川/伊豆味江

【今帰仁郡(間切)】・・・
  悪江/藻黒江/姑妹江/大為江(大井川)

【羽地郡(間切)】・・・6
  池城江/大江/真喜屋江大浦江(羽地大川)/振慶名江/小江

【久志郡(間切)】・・・18
  下江/中江/毛漲港/辺野古港/流江(辺野喜)/流江(大浦)/
  大港/小江/流江(汀間)/中港/流江(安部)/宇李江/流江(天仁屋)
  流江/□江/中港/流江(平良)/流江(川田)

【大宜味郡(間切)】・・・3
  寄江/港(・・・)/平南江

【国頭郡(間切)】・・・29
  踏喜屋江/幸地江/炭儀山江/中塘江/真竹名江/浜江/大江(与那)
  大江(□□)/大江(宇嘉)/伊野波江/宇緑江/大江(佐手)/蛇屯江
  大口江/興江/楚巣江伊符江/大江(安波)/奇喇麻江/武銘江/
  吉葉江/棚江/大江/亀江/伊英江/宇嘉江/混茶江/大山江


2005.05.29(

 
梅雨があけたかのような晴の天気。ちょっと館から出て周辺を撮影してみた。間もなく(7月1日から)グスク交流センターが開館する。歴史文化センターの正面に。一日窓口で受付をしていると、グスクや歴史文化センターにやってくるお客さん方。有り難いですが、マナーの悪さに嫌な思いすること度々。これから、ますますそうなりそう。すんなり流して、ニコニコしないと勤まりません。青空をみて深呼吸。ハハハ

 古宇利島のタキヌウガンから帰ってきたm&mはタコの味噌和えとサザエを引っ下げての帰館。それだけ手伝いできたということか。留守番役にまで。ご馳走になりました。感謝。先日のプーチウガンの時でもそうであったが、車の往来がひっきりなし。

 今日のタキヌウガンは島の一周道路沿いで行なうので車には気をつけないと。神人のほんどが80歳以上。足腰が弱り杖をついている方がほとんど。古宇利島の神行事は今では人手がいる。神人の足、そして交通整理係も。

 今日は歴文からも足を。聞くところによると、足手まといになったとか。いやいや、ご苦労さん。次の祭祀から、おまわりさんに交通整理お願いしないと。区長殿。





2005.05.28(土)

 
昨日プーチウガンの最中、貴重な話を伺った。ウプドゥマイでのウガンが終わると、古宇利春男氏が「ヂャンヂャンパネだよ。この岩。向こうに夫婦岩があったんだが・・・」と。「ヂャンヂャンバネ?何ですか?」と訪ねると「ザン=ジュゴンだよ。シラサの向こう側に波が荒れるとよく寄っていたよ。パネは離れで、離れた岩」と。なるほど。

 ウプドゥマイでのウガンの側の岩はザンに似ている。プーチウガンの祈りはザン岩には直接向けていない(海の方に向ってウガンをしている)。


▲ウプドゥマイのヂャン岩の側でウガン        ▲その岩がジャン(ザン)

 「山原の御嶽と祭祀」(「南風」原稿 琉球新報送付済)

【南 風】(琉球新報)原稿出稿(確認)

  山原の歴史散歩(1月17日掲載)山原の歴史散歩 
  今帰仁グスクに立つ(1月31日掲載)今帰仁グスクに立つ
  島に橋が架かる(2月14日掲載)島に橋が架かる
  名護は和(ナグ)?(2月28日掲載)名護は和(ナグ)?
   
山原のムラ・シマ講座(3月14日掲載)山原のムラ・シマ講座
  久米島のグスク(4月4日掲載)御嶽にグスクを築く
  塩屋湾岸のムラ(4月18日掲載)塩屋湾で歴史を思い描く
  山原の神アサギ(5月2日掲載)山原の神アサギ
  伊是名・伊平屋は山原?(5月16日掲載)伊是名・伊平屋は山原?
  山原の御嶽と祭祀(5月30日掲載)山原の御嶽と祭祀
  ⑪与論島と山原(与論島に行けたらの予定)
  ⑫四津(港)の一つ運天港(下書き済)
  
  ・根謝銘グスクと国頭地方(予備)
  ・羽地大川と移動村(ムラ)(予備)


2005.05.27(金)

 古宇利島のプーチウガンの調査する機会があった。旧暦の4月(日は選ぶ)に行なわれる祭祀の一つである。今年は一日置いて29日(日)にはタキヌウガンがある。プーチウガンは宮城真治氏がいう「津口の御願」でもあるようである。プーチウガンの拝む場所は、集落の出入口で行なわれている。島であるため、島外からは浜や津(港)が出入り口となるため、かつての舟の発着場がウガンの場所となっている。

 津口だけでなく、集落への出入り口(津も含む)での祈願が主なので、プーチは疫病や流行病など払う祈願あとみてよさそうである。かつて「豚をつるして御願をする。普通年二回であるが、病疫流行の際は数度行う」という(『古宇利島の研究』昭和2年)。今回は西側のウガンに参加させてもらった。以下の順にウガンをする。

【古宇利島のプーチウガン】
①サブセンター
  (線香・酒・豚肉・餅・神銭・半紙などを拝む場所の数、準備する)
②お宮(クワッサヤー)
③ヒジャヤー
④ヌルヤー
⑤ウチガミドゥンチ
⑥ナカムイ(中森)
   (東西二手に分かれる)
⑦イーバイ(マチヂとビジュルメーの御嶽への遥拝)
⑧ハンゼー(海岸)
⑨ウプドゥマイ(海岸)
⑩グサブ(古宇利港)
⑪ターチバナシ(海岸)
⑫トゥンジバマ(海岸)
⑬サブセンターで東組と合流して直会をする。


①サブセンターでウガンの準備     ②お宮(クワッサヤー:お宮)


      ③ピジャヤー                   ④ヌルヤー


   ⑤ウチガミヤー(ドゥンチ)           ⑥ナカムイ(中森の御嶽)


   ⑦イーバイ(二つの御嶽へ遥拝)            ⑧ハンゼー
       ⑨ウプドゥマイ                  ⑩グサブ(港)


        ⑪ターチバナシ               ⑫トゥンジバマ


      ⑬サブセンターで直会       ▲供えられて餅・豚肉(シーチカー)・豆腐

2005.05.26(木)

 
2時30分から兼次小学校6年生の総合学習がはいる。天気がいいので親川(ウェガー)からハンタ道を通り、今帰仁グスク入口までの約1キロメートル。ハンタ道を歩くことは北山の歴史の導入でもある。大正5年以前は、今帰仁グスクへのメイン道路であった。もちろん、車が通れる道ではない。時々、ハンタ道の草刈がなされるが、人通りがないため草に覆われることが度々である。

 今回も草道をハブに注意しながらの踏査であった。約1キロメートルの道筋は、生徒達にとってはハブとガジャン(蚊)の襲来との戦いである。3000名(今帰仁グスクにそれだけ来た?)近い薩摩軍の今帰仁グスクへの侵攻を思い浮かべていた。

 親川から一気にミームングスクまで。周辺が眺望できるミームングスク(見物グスク)。国頭、伊是名、伊平屋、与論島、古宇利島、干あがったリーフ、志慶真川、今帰仁グスクの志慶真郭などが見える。名称の通りである。「ミームンは新品のことですか?」の質問あり。「新品のミームンより、物見(見物)のミームンだな」と。

 「ハンタ道のハンタ(パンタ)はどうだろうか?」「ハンターじゃない?」「狩人か!? 沖縄では崖のことをハンタやパンタというのだよ。ハンタ道は見える一帯の崖からきた名称だな」(ハンタは「端っこ、端の方」の意か)・・・・・・。

 ハンタ道を登りきると集落の跡地。そこにはトムゥヌハーニー火神の祠、阿応理屋恵火神の祠、今帰仁ノロ火神の祠、古宇利殿内火神の祠がある。火神のある祠は住居跡地と見ていい。火神のある祠一帯は集落跡である。一帯にあった集落が今帰仁グスクの麓に移動して行った痕跡でもある。






2005.05.25(水)

 
本部町渡久地のマチの後方に、以前から気になっている場所があった。渡久地の拝所だろうか。忠魂碑、あるいはお宮(神社)なのか。本部大橋を通る度に、そこに行ってみようと・・・。近くまで何度か行っているのだが、入口がわからず通り過ぎてきた。

 別の目的で渡久地港に来たのであるが、港への入口の標識の反対側にぽっかりと開けた崖の中腹に見えたのは・・・。近くに車をおいて急な坂道をよいしょ、よいしょ。途中坂道の片側に防空壕跡がいくつもあった。

 
見えたのは宝珠?の形をした墓である。上部の石碑に「島袋一族の墓」とある。その前方の石碑に、

  「上記は祖六代目の祖先が首里王府より頂いた礼状をそのまま掲載した。泊村で
   在住中は二階堂の氏を称え七代目始祖の母方の氏嶋袋に変更している。


と、いきさつを述べている。上記の文面は、以下の通りである(急ぎでメモをとったので改めて□部分の文字は埋めます)。(工事中)

    一筆致啓上候
     太守様御慶之□□□□□
     御拝領候□□□□□
     安□□親雲上□□之候
     為□可□□御門□
     恐惶謹言
          国吉親方
    四月十七日
          小禄親方
          與那原親方
     二階堂左郎様



   ▲墓の方から渡久地港をみる       ▲宝珠?の形をして嶋袋一族の墓


    ▲墓の前にある石碑            ▲墓へ坂道沿いの防空壕跡

2005.05.24(火)

 
午前中兼次小学校4年生(大城先生クラス)の「総合的学習」(今帰仁城に伝わる話)の導入。早速、今帰仁城(グスク)に伝わる四つの話を石野さんが朗読。その後、四つの話に出てくる場面を写真や図で説明。関心と興味を持たせ、さらに一年間の流れと仕上がりイメージまで。一人ひとりが自分の持分をしっかり絵にし、そして他の仲間に伝えていく。「千代金丸」「志慶真乙樽」「茶谷菜切」などのキーワードと誰々君、誰々さんと結びつくようなものにしてゆく。そこまでいけたら本物。次回は今帰仁グスク内の場所と話の場面を現場で結びつけてゆくことに。ハンタ道からグスクに登りたいと。「志慶真乙樽の墓はここだぞ」などと生徒達が先生なり。

 帰り際、バスの中でオレ「北山騒動をやるぞ!」、「志慶真乙樽はだれだれさんがやるといいな!」など、話とクラスの一人ひとりとダブらせているようだ。「なにか、面白そうだな」の声には、頼もしいものがある。今帰仁城にまつわる話の柱は下の四本。
   ・石切り妖刀(北谷菜切)
   ・今帰仁御神(志慶真乙樽)物語
   ・北山騒動
   ・名刀千代金丸


   ▲次第次第に今帰仁グスクに伝わる伝説に引き込まれてゆく・・・


2005.05.22(

 
月曜日は休館です。少し休みます。イヤ天気次第か。

 久しぶりに『明実録』や『歴代宝案』や『地方経済史料』などの記事に目を通してみた。特に交易に関する部分。それと琉球国(山北・中山・南山)が明国へ朝貢した記事。その中の馬や硫黄や方物など。その中の硫黄。硫黄の産出する硫黄鳥島(『沖縄県史 史料編10 硫黄鳥島』)についての報告書などなど。頭の中が満杯状態なので、少し整理してからまとめることに。少し頭を冷やしてから。

 それらの史料に目を通して見ると、これまでの議論をもっと深めることができそうなテーマがいくつも。20年前に書いたものなので、その後の史料の発掘や研究の深まりもあるので「北山の歴史」を全面的に書き換えたいと考えている(退職後?)。

 ▲昭和30年頃の今帰仁グスクの正門。右は三・五・七の階段が完成(昭和34年)

2005.05.21(土)

 下は『ペルリ提督日本遠征記』(三)岩波文庫120-121頁)にある文章である。祭祀の話をするとき、「かつての祭祀は人々の休息日である。祭祀を掌る神人は公務員である」と前置きする。二月三月などのウマチーやアブシバレー(ムシバレー)やウプユミなどの日は、村の人達にとって今の日曜日や公休日に相当するものだと。

 クニの立場からすれば、祭祀があまりにも多すぎる。祭祀を減らして働いて欲しい。一方、税を納める方からすれば、神に名付けた祭祀をつくり休息日にしたい。神行事が多かったのは、首里王府は神には弱かったのかもしれない。聞得大君を頂点として、祭祀を掌る神人組織をピラミット型に体系化し、祭祀を通してクニを末端まで統治したと考えている。祭祀を通しての体系化は、実のところ租税を課して納めさせるものである。

 その視点での研究がなされ、積み上げられるべきだと考えている。

    琉球人は大いに労働をする人民であって、労働を止めて骨休めすることは殆どない。
    宗教上の祭日と国の祭日とを祝うための休日はあるが、度々あるのではない。彼等の
    娯楽についてが殆ど見ることができなかった。但し町々や村々の近所に一見、競争や
    相撲やその他の競技にあてるらしい美しい蔔松に囲まれている大きな平坦な空地があ
    ることから押して、琉球人達は時々、右のような競技や娯楽に陶るものと推察された。
    ・・・

【参考文献】
 ・『ペルリ提督日本遠征記』(三)岩波文庫120-121頁)

2005.05.20(金)


 
展示会(「山原の津(港)と山原船」)のポスターと図録の打ち合わせ。あれこれひしめき、少し疲れ気味。

 船に関する史料を見ていると「酒造の取締」がよく出てくる。1862年の酒造の制限令に、次のようにある。
  ・酒を造って商売をすることは、穀物の費になるので一応酒造は
   停止する。
  ・糀(こうじ)・諸味・浸し置いた米粟の分は、必ず調査し検者見分け
   の上酒造はさせること。
  ・酒は平常呑むためのものは一切製造を禁止する。

 それらの達(たっし)の理由として以下。
   大和船の船頭達の穀物積みおろしが少なく、当地では米穀、唐芋なども高価になり、
   飯米が続きかねて難儀している折、酒を造って穀物を費すのは猶更難儀を重ねるような
   ものであるから、上の通り堅く取締り、守らせるようにせよ。若し違反するような者は家財を
   取上げ、流刑仰付ける。

 同じ年(1862年)に国頭方に令達した酒造禁止は、以下の通りである。
    諸間切村で持っている酒垂鍋、びんは各番所に取寄せ、頭役が封印して保管すること。
    そして今度の酒造禁止については、銭御蔵で保護することになったから、間切中をくわし
    く改め、持っている分は番所に取寄せ、間切の頭役が封印して、来る十五日限り差登す
    よう命ずる。若し隠しおいて露顕することがあったら道具と取上げの上、流刑申しつける。
    その上所の掟役を免じ、下知役、検者、さばくりには罪過仰付けるから左様心得よ。

    (工事中)

【参考文献】
   ・『近世地方経済史料』
   ・『琉球農村社会史』饒平名浩太郎(1960年発行)

2005.05.19(木)

 今帰仁グスクガイド養成講座あり。私の分担は「北山の歴史」。1時間半の講演。今回は今帰仁グスクの歴史と関わる部分を画像で話をすることに。もちろん話のアウトラインの資料は配るが、場所を追いながらの話なので時代をしっかり押さえて置かないと難しいかな?いくつか最新の情報の提供も。

 参加者が多いので中央公民館の講堂に開場を移して。詳細は明日にでも。司会はusimaru。パワーポイントの操作はm&mが。みなさんお疲れ様でした。



2005.05.18(水)

 
出勤前に赤墓、津屋口墓、それとオーレウドゥンの火神の祠まで。明日の講座のため。「北山の歴史」で欠かせない場所。「北山の歴史」を今帰仁グスクを中心に、それと関わる場所や墓や碑文や辞令書など画像で取り込んでみた。視覚的に歴史を説明していく予定。パワーポイントに80枚余の画像を取り込んだ。画像を取り込むのに精一杯。

 明日の午前中、一度スライドショーをやることに。どんなことになることやら。器械音痴には、操作がわかりません。念のため、スライドも準備するか。20ページ余のレジュメはオッケーなり。文化財の精鋭のメンバーが冊子の製本の手伝いに。感謝。ついでに明日の講演の予行演習まで。ハハハ

 館周辺の草刈り。2時間余でほぼ目的達成。明日は片付けしてもらいます。私は肩痛と腰痛で・・・・立てるかな?!


  ▲赤墓は佐田浜にある(島は軍艦島)     ▲伊是名に向けて建立(拝領墓)

2005.05.17(火)

 8月末頃に学芸員実習を希望する広島のメンバーからボツボツ連絡がはいています。5名の予定のようです。実習を受け入れるにあたって、基本的なことを確認します。近々に。

 4時頃仙台の大学院生が二人。沖縄の「火神」をテーマにしたいと。何故、沖縄を選んだか聞いていないが、火神についてのレクチャー。一時間ばかり。また、夏にやってくるようだ。今帰仁グスクの外壁内にある古宇利殿内(フイドゥンチ)火神については5月13日に触れたところ。「火神が何か?」というより、火神のある祠がどんな歴史を持つのかの視点で見ると、広がりと深まりのあるテーマとなる。その視点で見れるかどうか?!

 次ような役職のつく火神があるが、それらの火神のある場所は、役職のつく人の住居であった。総地頭火神、按司地頭火神、地頭代火神、今帰仁ノロ殿内火神、島の大屋子火神、根神火神、内神火神など。

 これまで数多くの火神を見てきたが、旧家やウドゥンや番所などが引っ越したり、あるいは継承者のない跡地に火神を残す習性がある。火神へのお参りは、主にその一門や関わる一族である。ノロ火神や根神火神や内神火神などの神役の火神はムラ(字)で拝む場合が多い。「火神の祠のある屋敷の跡地は居住地である」ことがわかる。


       ▲今帰仁阿応理屋恵按司火神の祠と内部の火神の様子

2005.05.15(
 
 
月は休館なり。午後から青空も見えたが、月曜日はどうだろうか。青空になれば、どこか調査にでも。ちょと無理だな。休みたい。

 今帰仁阿応理屋恵(ナキジンアオリヤエ)について、断片的に見てきたがここで下の文献から整理してみた。

  ・『具志川家家譜』に出てくる今帰仁阿応理屋恵
  ・運天にある大北墓のアヲリヤエ(アンガナシ)
  ・『女官御双紙』
  ・「鎌倉芳太郎ノート」
  ・『沖縄県国頭郡志』
  ・「御案内」

【運天の大北墓】
 運天の大北墓(別名按司墓)は明治44年4月27日(旧3月11日)に修理した際に調査してある(『沖縄県国頭郡志』島袋源一郎(大正8年発刊)。その記録が以下のものである。そこにアヲリヤイアンシカナシ三名が登場するが、ここでは別のことを。

  一、イロノヘ按司、今帰仁按司御一人御名相不知
  二、宗仁公嫡子、御一人若□□カリヒタル金、御一人アヲリヤイアンシ、シタル金
  三、御一人真南風按司、御一人アヲリヤイアンシカナシ、オリヒカナコイ
  四、宗仁公四世今帰仁按司ママカル金、御一人御名相不知申候
  五、記名ナシ(宗仁公五世及び夫人等にあらざるか)
  六、宗仁公次男南風按司子孫多数永々相成面々相不知雍正十一年癸丑三月十六日 移
  七、宗仁公六世曽孫今帰仁按司童名松鶴金、御同人御母思玉金、与那嶺按司御同人
    ヲナジャラ、アヲリヤイ按司
  八、宗仁公七世今帰仁按司、御同人ヲナジャラ
  九、崎山按司、伊野波按司、親泊按司、崎山按司、本部按司、伊野波按司、後付相不知
  十、呉我アムカナシ、浦添大屋子、知念大屋子
 十一、崎山按司嫡子、崎山里之親雲上、同人姉マウシ金
 十二、今帰仁里之子親雲上


 これまで気づかずにいたというより、全く認識していなかったことに気づく。大北墓に誰(監守の今帰仁按司やアオリヤエ、そしてその一族)が葬られていたのかについては紹介してきた。ここで見逃していたのは、そこに記録されている崎山按司や伊野波按司、親泊按司、本部按司などの人物のことである。

 大北墓に葬られている人物は今帰仁グスクに住んでいた人物である。まだ監守一族が首里に引き揚げていない時代の人たちであること。

 そこに登場する本部按司や伊野波按司、崎山按司、親泊按司などは、監守一族であり、今帰仁グスクあるいは近辺に住み、脇地頭として本部や伊野波、崎山、親泊などの村を領地にしていたことがわかる。

 呉我アムカナシが出てくるが、1690年頃以前は呉我(村)は今帰仁間切の村であり、当時の今帰仁間切は今の本部町を含む範囲であった。本部や伊野波などは、1666年以後に本部(当初伊野波)間切の村となった。大北墓に葬られている人物の頃の今帰仁間切は本部町を含む範囲であったことを考えると上の按司達が今帰仁グスクにいて今帰仁間切内の村の脇地頭を務めていた様子がみえる。今帰仁按司やアオリヤエのことに目を向けていたが、今帰仁グスクに住んでいて脇地頭を勤めていたのは監守一族であったこと。北山監守の統治の形態が見えてくる。

 大北墓に葬られている人物たちは、監守一族が首里に引き揚げる前の時代の人たちであることを意識していなかったこと。そのことを頭にすえて見ると北山監守の統治の姿が見えてくる。監守制度が形式的なものではなかったこと。興味深い統治形態が見えてくる。同時代の人物を『具志川家家譜』から拾って重ねて見る必要あり(詳細について別でまとめることに)。


2005.05.14(土)

 午前中「ムラ・シマ講座」(第13期1回目)であった。開講式と今帰仁グスクのフィールドワーク。昨日から雨が降っているので、どうなるかと。そのため館内でやるスライドなどの準備にテンヤワンヤ。開講式が済む頃、雨がやんだのでさっそく今帰仁グスクへ。風強し。教育長と課長も参加。ご苦労様です。

 ①ムラ・シマ講座開講式
 ②今帰仁グスク正門前の石積
 ③ウナーへの旧道
 ④グスク内の神アサギ跡の礎石(礎石に立って柱になってもらう)
 ⑤本丸にある火神の祠(三つの石の確認)
 ⑥テンチヂアマチヂ(上の御嶽と神木、北山の滅亡と千代金丸の宝剣)
 ⑦館内で報告会

 40余の参加者があったので、城内の神ハサギ跡(北殿)跡地の礎石に立ってもらい、北殿の建物の大きさを確認するため、小学生に、北殿の建物の柱になってもらいました。今回立った柱の倍の面積の建物あったことが実感できたでしょうか。

 子供達の報告は今帰仁グスクの石積み、火神と生活、神が降臨してくるテンチヂアマチヂ、そしてくねった旧道の報告がありました。感性豊かな感想報告でした。風が強く、少し寒かったですが。みんなの報告は熱いのがいっぱい。

 今帰仁グスク内の火神の祠(赤い屋根の建物)の中に三個セットの火神が二つ確認。香炉が三つあるので、かつては三個セットの火神が三つあったのかも。二つは、『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に出てくる旧惣地頭火神所と旧按司地頭火神にちがいない。『琉球国由来記』(1713年)の「今帰仁里主所火神」は、その二つの火神のどちらなのか、あるいは惣地頭と按司を里主所火神は一まとめにした表現なのか。それとも二つの火神と別のものなのか不明。


     ▲館内で開講式の様子       ▲今帰仁グスクの石積みについて


 ▲グスク内の北殿跡の礎石の確認     ▲火神の祠の前で説明をうける


 ▲テンチヂアマチヂで神降臨の話      ▲館内での報告会のようす

「南風」原稿送付 「伊是名・伊平屋は山原?」(月曜日掲載)

2005.05.13(金)

 
今帰仁グスクまでゆく。グスクの外郭内に古宇利殿内(フイドゥンチ)火神の祠がある。その火神の祠の性格がいまだすっきりとしない。古宇利島の人たちが来て拝むという。また名称がフイドゥンチのフイは古宇利島のことではあるが。それでも古宇利島あるいは古宇利島の人々と、この祠は結びつかないでいる。以前、ちょっと触れたことがあるが、それは「地頭火神」、あるいは「地頭代火神」ではないか。

 この火神の祠について『琉球国由来記』(1713年)には登場してこない。明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』の今帰仁間切今帰仁・親泊二カ村のところに14ヵ所の拝所が記されている。また大正末期に訪れた鎌倉芳太郎氏ノートに「クイドンチ(kuidunchi)(古宇利殿内)はオーレーウドンノ東南五十間位ノ所ニアリ、丑方ヲ拝ム、火神、瓦殿ナリ、古宇利人旧八月頃来リ参拝ス(諸人ハココヲ拝マズ)とある。( )に現在の呼称名を入れてみた。まだ古宇利殿内がどのような火神なのか未解決。

 気になっているのは1665年以前の今帰仁間切(本部間切含む)の番所はどこにあったのか。これまで史料を見ているが、当時の今帰仁番所がどこにあったのかはっきりしない。今帰仁按司がまだ首里に引き揚げていない時期なので、本部を含んだ今帰仁間切の番所は今帰仁グスク内にあったのではないか。古宇利殿内火神の祠のある一帯に番所があったのではないか。

 もし、そうであれば地頭代火神の祠だと言えそうだが。しかし今帰仁間切の地頭代が古宇利親雲上になるのは1750年頃からである。あるいは、この火神の祠に名称が必要になっていた頃は、今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上と呼ばれていたので、古宇利殿内と名付けた可能性もある。そのようなことも念頭にいれて考える必要がありそうだ。

 ・公方ノ嶽(クボウヌ御嶽)
 ・ヨクノカタ
 ・シノグン子(シニグンニ)
 ・ナグ(ナグガー:エーガー?)
 ・トモノ内子ノロクモイ火ノ神(トゥムハーニー火神)
 ・祝部火神(アオリヤエ火神)
 ・神アシヤケ(フプハサギ・ハサギンクァー?)
 ・本ノロクモイ火神(今帰仁ノロ火神の古い方)
 
・旧惣地頭火神所
 ・旧按司地頭火神(赤の二つの火神は一つの祠内にある可能性あり)
 ・今帰仁古城内神アシヤゲ(城内の神ハサギ)
 ・天辻(テンチヂアマチヂ:上の御嶽)
 ・雨辻(テンチヂアマチヂ:下の御嶽?)
 ・カラ川(カラウカー)

 
※今帰仁グスク内の火神の祠の中を見ると、三個づつの石(火神)が
 二セットあり、惣地頭火神と按司地頭火神と見てよさそうである。


         ▲古宇利殿内(フイドゥンチ)火神の祠とその内部

2005.05.12(木)

 兼次小学校の先生方と今年の「総合学習」の打ち合わせ。進め方と一年間の流れについての話し合い。持ち帰って、再度検討して進めることに。

 ガイド養成講座の「考古学からみる今帰仁城跡の歴史」(金武正紀氏)の講演から、いくつかの確認と多岐にわたって学ぶことができた。まずは、世界遺産(「琉球王国のグスク及び関連遺産群」)についての話。そして発掘調査の成果から今帰仁グスクの成立過程、遺構や石積や造成工事などを通して歴史をみてゆく、興味深い話が伺えた。

 さらに城郭外の集落跡は12、13世紀まで遡るという。本丸の成果が13世紀末とされていたので、それより100年から200年は古くまでゆくという話があった。それは城壁を築く以前のことなので、グスクの成立を考える上で非常に興味深いことである。有り難い講演内容であった。今日の金武氏の講演に連動する形で、来週は「今帰仁グスクを中心とした歴史」の内容にしましょうかね(思案中)。

 学芸員実習の申し込みあり(広島から5名)。(受け入れ側として注文あり)

2005.05.11(水)

 
午前中、古宇利小学校へ。「ムラ・シマ講座」開講及び生徒参加の件で校長先生を通しての依頼。古宇利島の神アサギが造り替えられるようなので、取り壊される前の写真とり。神アサギが東屋として建てられるのは「沖縄の歴史・文化」を全く知らない方の視点。「島興しや島の活性化」といいながら、島の伝統や文化、そして歴史を潰すことである。東屋として建てるなら、祭祀の場として使うたびに笑いものとなる。

 その後、『古宇利字誌』の進捗状況と画像の取り込み編集の打ち合わせ。

 午後から一門の系図及び東マーイなどのまとめの打ち合わせ。新報のミーちゃんの取材あり。午後8時から『運天の字誌』の編集会議。今日は教育編のモデル原稿の検討。多忙なり。


            ▲近々造りかえられる古宇利島の神アサギ  

2005.05.10(火)

 
『運天の字誌』の教育編の原稿をおこす。『古宇利の字誌』の言語編の原稿の校正にはいる。「ムラ・シマ講座」「総合学習の打ち合わせ」等がドンドンはいてくる。

【伊江島の山原船】
 
「山原の津(港)と山原船」の調査も大部進んできた。西海岸の座間味島、伊是名島、そして伊江島へと進めてきた。伊江島は2002年3月5日に訪れている。その時の目的は島村家の原石(印部土手)が主であった。これから西海岸の島々の調査にかかる予定。

 今帰仁村歴史文化センターから提供した伊江島の港や船の写真を提供してあった。その写真が3月に出版された『海の道変遷記』(伊江村船舶85周年記念誌:伊江村公営企業課)に使われている。その本が手にはいたので、それから伊江島の山原船(マーラン)や伝馬船についての記事を拾ってみた。

 山原船から木造船(焼玉エンジン)が出現するが、港湾の整備が十分でなく船の接岸が困難ため、沖に停泊した船と陸と間は伝馬船が荷物や家畜や人や商品などを運び活躍した。

 ・伊江島に山原船が見えたのは明治30年頃。寄留人儀間商店の持ち船
 ・那覇東町出身で伊江島で商売をする。
 ・商品の運送から砂糖の仲買人となる。
 ・儀間商店のマーラン船は12反帆
 ・大宜味村宮城島から辺土名某がきて山原船の運送業をはじめる。
 ・コーガーキー金城も運送業をはじめる。
 ・山原船は明治39年頃までガマでつくった帆であった。
 ・伊江島での最後のガマ帆はコーガーキー金城の船
 ・ガマ帆の一反(幅3尺×5枚連結→5反帆)
 ・明治40年頃布帆にかわる(船の速力が2倍になる)
 ・砂糖の増産や商品の仕入れて山原船業が増えた。
 ・明治42年前後して伊良部(イラブ)渡久地政財、サンダー山城幸三郎、
  アサシュ五良知念などが十二反マーラン船で営業する。
 ・伊江島で山原船が栄えたのは明治30年頃から大正8年頃まで。
 ・その間、遭難船もあった。


           ▲『海の道変遷記』に提供した写真の一部(昭和30年頃)

【参考文献】
 ・『伊江村史』(上・下)(昭和55年発行)
 ・『海の道変遷記』(伊江村船舶85周年記念誌:伊江村公営企業課)
   (平成17年発行)
 

2005.05.07(

  
月曜日は休館です。連休は3日でした。それでも大型連休なり。

 
「今帰仁城跡案内ガイド養成講座」がスタートしました。今日は第1回目。今帰仁グスクと歴史文化センターの館内。ガイドできるメンバーが出てきていい時期です。すでに何名かできる方々がいます。12回の講座なので、きっと実になるでしょう。

 講座で学んだこと全てが、一度のガイドで話すわけではないの、いくつかポイントをつかんでいくことです。それと同時に、自分が話しやすいストーリーを組み立てながら現場を踏査していくといいです。また、やっていく過程で質問を受け、その質問に応えられるような答えを準備していくと早い。その繰り返しで、数回のガイドをすることで自信がついていきます。どうであれ、積み重ねが必要となります。30名近い方々の参加がありました。最後まで頑張って欲しいものです。

 準備にかかった文化財の職員、ご苦労様でした。

2005.05.07(土)

 
伊是名グスク(杜)内、あるいは麓に一帯に伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落があったに違いない!???

【伊是名島の四つのムラの集落移動】
 
伊是名島には『琉球国由来記』(1713年)で登場する村(ムラ)は伊是名・勢理客・仲田・諸見の四つである。内花は昭和19年に字として諸見から独立しているので、ここでは扱わない。ここではグスク内にある御嶽(イベ)と祭祀との関わりで見てみる(山原のムラを見る視点、集落・御嶽・神アサギの関係と祭祀)。

 『琉球国由来記』に出てくる伊是名グスク内にイベが三つ出てくる。それらのイベとムラ(あるいは集落と祭祀)の関係がどうなっているのか。集落の発生と密接に結びついている御嶽(御嶽の内部のイベ)と集落。その結びつきが祭祀の拝む場所(御嶽:イビ)に痕跡としてあるのではないか。伊是名グスクは標高97mのピラミット型の杜で、またグスクでもある。グスク内(杜)に以下の三つのイベがある。

  ・伊是名ミヤ御イベ:神名 伊是名森(公儀祈願所伊是名城内)←伊是名
  ・高城ミヤ御イベ:神名 スエノ森(公儀祈願所伊是名城内)←勢理客
  ・大城ミヤ御イベ:神名 真玉森(公儀祈願所伊是名城内)←(諸見・仲田)

 伊是名グスクの三つのイベで、大城ミヤ御イベで諸見と仲田、高城ミヤ御イベで勢理客、そして伊是名ミヤ御イベで伊是名の人たちがウンジャミとシニグを行なっている。山原の今帰仁グスク内の二つの御嶽(イビ)、根謝銘グスク内の二つの御嶽(イビ)と同様な形態をなしている。それはグスク(御嶽:杜)に二つの集落があり、その杜がグスクとなり、杜にあった集落が移動。集落が移動しても御嶽(イビ)への祭祀は途絶えることなく継承される。そのことが、伊是名グスクにも適用できそうである。

 その視点で伊是名グスク内のイベと集落の関係を見ると、伊是名杜(後にグスク)内や麓にあった伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落が、そこから移動していった。イベある一帯はそれぞれの集落の故地であると。諸見と仲田は移動する前は一つの集落で、移動時あるいは移動後に二つの集落(後にムラ)に分かれた可能性がある。1713年以前の分離なので、それぞれに神アサギがあって当然なこと。(伊平屋あんがなし、二かや田、銘刈家、それと伊是名ノロの祭祀の関わりなどを含め詳細な調査検討が必要)。

【伊是名ムラの集落移動】
 伊是名については、つとに解かれているように伊是名グスクから伊是名の上村へ、そこからさらに現在地に移動している。伊是名グスクあたりを元島、そこから移動した地を上村と呼び、地名(小字名:原名)に移動経路の痕跡を遺している。
 
【勢理客ムラの集落移動】

【諸見・仲田ムラの集落移動】


▲杜の内部、あるいは麓一帯に集落? ▲グスクから仲田・諸見集落をみる

2005.05.06(金)

 
「伊是名ゆき」の目的に伊是名港と山原船の件があった。伊是名は島なので、現在でも海上輸送が主である。王府時代に伊是名島に共有船や個人船(いずれも山原船)があり、沖縄本島との間で物資の輸送があった。山原船は帆での運航なので予定は風任せである。

 以下の略年譜のように番所や役場は伊是名村から仲田に移動。さらに伊平屋村は昭和14年に伊平屋村と伊是名村に分村する。

 ・伊平屋島の番所は伊是名村(ムラ)に置かれる。
 ・明治13年伊是名村の番所内に伊平屋島役所が設置される。
 ・明治14年伊平屋役所は那覇役所に併合され、番所はそのまま置かれる。
 ・明治29年郡区制が敷かれ、伊平屋は那覇役所から島尻郡区に編入さ
  れる。
 ・明治30年伊平屋島番所は役場と改称される。地頭代は島長となる。
 ・大正11年(1922)の伊福丸が伊平屋村と那覇間を就航する。
 ・昭和6年伊平屋村(伊是名含)役場は伊是名から仲田へ移動。
 ・昭和14年(1939)に伊平屋は伊平屋村と伊是名村とに分村し、伊是
  名村の役場は仲田に決定する。
 ・伊福丸は伊是名村と伊平屋村の共同経営となる。昭和19年の10.10
  空襲で爆撃をうける。
 ・昭和39年(1964)に仲田港を拡張・整備をする。

【明治の新聞記事】
 ・難破船(明治31年4月15日)
 ・琉球形帆船の流失(明治32年8月7日)
 ・琉球形船の行方不明(明治34年7月7日)
 ・難破船(明治36年7月9日)
 ・山原船の海難(明治38年11月5日)
 ・難破船一束(明治39年10月30日)
 ・難破船(明治42年3月31日)
 ・山原船の転覆(明治43年1月23日)

  新聞記事の一例「山原船の転覆」(明治43年1月23日)を全文紹介する。

   島尻郡伊平屋村字伊是名の共有山原三反帆船は、同村仲田四郎を船頭として外三名
    乗込み、藁三千五丸、藁五十枚、銀貨十五円位、紙幣十五円位、雑品入箱四個、公文
    書類一包と、外に去る旧臘帰郷せる、同村字勢理客歩兵二等卒上原三郎の、連隊より
    貸与せられたし返納軍服を積載して、去る十七日伊是名津口を出帆し国頭郡本部村字
    崎浜に碇泊し、翌十八日未明那覇へ向け仝地を発帆したるが、午前九時頃恩納崎を距
    る三海里の沖合に差しかかりしに、折しも吹き荒れる北風は激浪を巻き起し、終に船体
    は転覆j、激浪は更に乗組員一名を海中に捲き込み、行方不明となりたりとは悲惨にあ
    らずや。

   

    ▲現在の伊是名港            ▲昭和14年以前はここが主港


  ▲伊瀬名のドー(観音堂)のある杜       ▲千手観音を祭った祠

2005.05.05(木)

 5月2日「伊是名は山原?」のテーマを引っ下げて伊是名島をゆく。近世の伊平屋(伊是名を含む)は国頭方に入る。地理的には明らかに国頭郡の領域にはいるが伊是名・伊平屋は明治29年に島尻郡となり、現在でも島尻郡区である。明治41年に伊平屋村となるが、昭和14年に、これまで伊平屋(村:ソン)であったのが伊是名村と伊平屋村に分割され現在に至っている。両村の合併はないようだ。

 今回、訪れたのは以下の場所である(一つ一つについては別に報告)。

 ・諸見の集落/神アサギ/尚円の御臍所/首見のヲヒヤ火神/潮平御井
  /屋部の土帝君/逆田
 ・仲田の集落/神アサギ/二カヤ田の阿母(玉城家・伊礼家)/神降島/
  ウェジャナシー
 ・伊是名グスク/番家/玉御殿(墓)/伊是名ミヤ御イベ/高城ミヤ
    御イベ/大城ミヤ御イベ/イシジャー(石川)
 ・銘刈家墓/銘刈ガー/
 ・伊是名集落/神アサギ/銘刈家/御殿(ウドゥン:伊平屋阿加那志:
   名嘉家)/伊是名ノロ家跡/番所跡地/学校発祥地/伊是名港/
   観音堂(伊是名のドー)/陸ギタラ/海ギタラ/アカラ御嶽/
   サムレー道/浜崎港/伊是名漁港/シーシムイ
 ・勢理客の集落/神アサギ/タノカミ御嶽への遥拝所(アマイ倉?)
  /土帝君
 ・ふれあい民俗館/四カ通イ(シカドゥイ)の祭場コース)
 
【伊是名グスク】


  ▲フェリーから見た伊是名グスク     ▲伊是名グスクの遠景(右が番家)


  ▲伊是名グスクの麓にある伊平屋(伊是名)玉御殿(東西二室になっている)


  ▲伊是名グスクへの登り道   ▲伊是名グスクへ上る途中にある大城ナー


   ▲伊是名グスク内にあるイシカー    ▲グスクにある高城ミヤ御イベ

【伊是名の神アサギ】
伊是名島には諸見・伊是名・勢理客・仲田に神アサギがある。いずれも8本の石柱と軒の低い茅葺き屋根の建物である。特徴的なのは、山原の神アサギのほとんどが集落の広場(アサギナー)付近にあるのに対して、伊是名の四つの神アサギと旧家の屋敷内にある。それは中・南部の殿(トゥン)の配置と共通している。

 伊是名の神アサギは山原とは異なり、御嶽―神アサギ―集落の軸線の法則性は希薄である。それは集落の移動と関係しているのかもしれない。集落移動と御嶽、そして神アサギの関係で見てみる必要がありそう。今回、御嶽との関わりの視点での見方はしていないので(再度確認をしてみたい)。

 伊是名の場合は伊是名グスク(元島)から上村、そして現在地への移動が言われているので理解できそう。それと伊是名グスク内にある拝所と四つの村との関係。

 伊是名の祭祀は公儀と村の祭祀が一体化している場合が多いようだ。それで伊平屋阿母がなしと北・南風の二カヤ田(タカヤタ)の神人の祭祀が村の祭祀にどうかぶさっているのか。村のみの祭祀がどう行われているのか。そのあたりの仕分けができると山原の今帰仁阿応理屋恵(アオリヤエ)と今帰仁ノロの祭祀の重なりが見えてくるかもしれない。そのこともあって、諸見からスタートして仲田、それから伊是名へゆく祭祀のコースを辿ってみたのだが・・・・


       ▲諸見の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)


       ▲仲田の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)


       ▲伊是名の屋敷内にある神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)


          ▲勢理客の神アサギ(茅葺き屋根と八本の石柱)

2005.05.01(

         閉館のお知らせ 
   5月2日(月)~4日(水)まで閉館となります。
  なお、5月5日(木)は開館です。いい連休を!

 5月がスタートしました。休館があるので、本格的な動きは連休あけか。
   
 休日を利用して伊是名島へ渡る予定。風があるのでどうか。伊是名島、地理的に山原でありながら、歴史や文化として山原ではなくなっている。それが何なのか興味深い。伊是名の方々は山原だと思っていないかも。おそらく???でしょう。それと三山(北山・中山・南山)の時代の伊平屋(伊是名を含む)は、北山の領域だったようだ。三山統一後は首里王府の直轄地のようなもの。それが伊平屋(伊是名)は山原ではなくしてしまった。首里王府の統治が今に大きく影響を及ぼしている。

 ちょっとメモ書きをしておいたが、伊是名島の仲田、諸見、伊是名、勢理客のムラ、それと神アサギなどブラリブラリ見れたらいいなと思っているが・・・。

【伊是名グスク】メモ
 伊是名島にある伊是名グスクは、伊平屋島(我喜屋)出身の屋蔵大主の子の佐銘川大主が築城したと伝えられる。佐銘川大主は沖縄本島の南にゆき、大里味の娘をめとり、その子が第一尚氏の苗代大親(思紹)だという。その子が尚巴志。三山を統一した人物である。

【四殿内(ユトゥヌチ)】メモ
 また第二尚氏を開いた尚円もまた伊平屋(伊是名の諸見)出身である。金丸(尚円)が王位ついた後、尚円の身近な人物をノロ職や夫地頭職にし世襲させた。
   ・真世金仁金(尚円の姉)が伊平屋の阿母加那志の神職を賜る。
       (にちりきよ君きよら、おもひませにかね)(三十三君の一人)
   ・叔母の真世金仁は「二かや田の阿母」の神職(名嘉家)を賜る。
   ・真世金仁「二かや田の阿母」に二人の娘がいたので、
     南風の二かや田母(姉)(玉城家)
     西の二かや田母(妹)(伊礼家)
   ・叔父の真三良は真和志間切銘刈村の地頭職を賜る。
     目を患い伊平屋へゆき銘刈大屋子となる(銘刈家)。

【伊平屋島玉御殿】メモ
 伊是名グスクの麓にある墓。伊是名玉御殿と呼ぶ(県指定)。
  ・尚真王時代(1500年代)の創建か?
  ・切妻式の破風墓(内部二室)
  ・東室に中国製の二基の石厨子(輝緑岩)
  ・ウツタクチテランソウ(勢理客)→東佐久田原(仲田)→現在地
  ・現在地の墓は最初木造の建物、さらに中に箱、その中に
   二基の厨子甕
  ・1687年大破したため現在の石造りの墓となる。
  ・東室に尚円の姉(伊平屋の阿母加那志)初代、尚円の叔父の
   銘刈大屋子、尚円の叔母の伊平屋阿母加那l志(初代)
  ・西室は各職の二代目以降が葬られている。
  ・同治9年(1870)から首里の玉稜同様に公事の清明祭が行なわれる。
     (その祭祀道具類はふれあい民俗館に所蔵)

【銘刈家】メモ
  ・尚円の叔父の真三良を初代とする銘刈家(国指定)
  ・銘刈家の当主は銘刈大屋子(親雲上)夫地頭職(終身・世襲)
  ・伊平屋玉御殿の清明祭を掌る。
  ・伊是名島における王家関係の祭祀儀礼を行う特異な夫地頭

  (工事中)

【参考文献】
  ・『伊是名村史』(上・中・下)
  ・『角川沖縄地名辞典』角川書店(昭和61年)
  ・『沖縄県の地名』平凡社(2002年発刊)