2005年2月の記録
沖縄の地域研究(もくじ)
2005.02.27(日)
午前中、金武町屋嘉の方々が来館。質問や反応がビンビン。歴史の展示案内で済むかと思っていたが、第二、第三、そして古宇利島の展示まで案内。展示の見方がすごい! そして丁寧に見ていきました。「やはり、チン、ヤンバルヤッサー」(金武も山原であるさ)と喜び勇んで今帰仁グスクへ行かれた。
▲金武町屋嘉の方々(歴史展示外の説明するのはマレ。暇だったのかも!)
昨日の「仕明請地帳」に出てくる許田村の「ふしにや原」(道光15年:1835)は小字から確認できなかったが、宮里村の「しみや原」(道光23年:1843)は現在の宮里の「志味屋原」(シミヤー)一帯と見られる。どんな場所か立ち寄ってみた。屋部川(ヤブガーラ)の中流に位置する。白銀橋を境にして、その下流域右岸一帯が志味屋原である。仕明地のほとんどが川沿いの湿地帯の開拓とみている。予想通りの場所であった。
現在はアパートや住宅や畑などになっている。ところどころに葦など湿地帯の植物が見らる。一帯は、かつて深田(ユピタ)だったにちがいない。そんな面影が今でものこっている。
数久田村の平良親雲上は小舟で屋部川をさかのぼって「すみや原」まで来たのだろうか。昭和12年屋部川下流に水門が設置される。それまで「すみや原」付近まで小舟で往き来できたという。平良親雲上は数久田村のウェーキで宮里村や屋部村あたりの人に小作させていたのかもしれない(今朝みたら、水門は撤去されていた)。
▲現在の屋部川(ヤブガーラ)流域の志味屋原(シミヤー)
【メ モ】
沖縄本島北部の170、伊是名(5)・伊平屋(5)、そして伊江島(8)、
計188の字(アザ)を踏査し、これまでのメモを再度整理する予定。
(これまで角川地名辞典や平凡社の地名辞典やこのHPや「なきじん研究
などで7割は触れていると思う。まだ正確に数えていませんが)
2005.02.26(土)
雨の日が続いています。春休みになったのか「わ」ナンバーの車での来館者が目立ちます。中には荷物を担いでバスを利用しての方々もいます。バスでは、訪れたい場所の半分も行けないでしょう。
このHPをご覧になって、近いところにあるとか、すぐ見つかると思っている方がおられます。村(ムラ)や御嶽や神アサギやハーなど、さらに画像にできるポイント探しは、さりげなく訪ねています。意識せずにやっていますが、それは経験と地理感を必要とするようです。
訪ねる村や場所は、前もって決めています。というより、ノートなどで下調べをします。その確認のために現場を訪ねるのが常です。ノートづくりをしたあとは、寝ていても頭の中でそのことが駆け巡っています。ですから、目が覚めると「ソレー行け」となります。思いつきなので一人で行くのがほとん。
休館日になると、普段行けない遠出となります。場所が特定できていないと、抽象的となり、同じ土俵での議論にならない場合が多い。
【名護湾岸のムラ―許田・幸喜・喜瀬】
名護湾岸の村々の川沿いに関心が向いている。川沿いの湿地帯は仕明地として開拓されていたのではないか。近世の地割から外れた土地として、同村の人民でなくても開拓ができた土地があった。許田・幸喜・喜瀬の直接の史料ではないが、以下のような仕明請地帳(二例)がある(『名護六百年史』所収)。
一枚目は、名護間切数久田村の平良親雲上が、隣村の許田村にある「ふしにや原」の竿はずれ地を仕明請地とする。もう一例は同じく数久田村の平良親雲上が宮里村の「すみや原」の竿はずれ(迚?)を仕明請地とする内容である。数久田村の平良親雲上は許田村と宮里村に仕明請地を持っていたことがわかる。村超えをして仕明できたということである。
ここで許田・幸喜・喜瀬の川沿いをあげたのは屋部や宇茂佐あたりのウェーキが、屋部川沿いにも持っていたが、名護湾を舟で横切って許田あたりに仕明地を持っていたことを聞いている(史料確認必要)。
地割対象外の土地(仕明地など)を他の村に持つことができた。それは川沿いや内海沿いなどの湿地帯に多くみられる。羽地大川沿いなどは、村移動までして開拓させているところもある。
(表紙)
印 高 九 升 仕 明 請 地 状
名護間切数久田村
平良親雲上
(文面)
名護間切 許田村
ふしにや原竿はずれより成る
仕明人 うし津波
一、下田 壱畝拾五歩 九升
右遂披露候之処為仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地並尤絵図仕付
置候御模可相守者也
道光拾五年乙未十二月
高 所 首里
之印 国頭里之子親雲上
喜舎場里之子親雲上
池原里之子親雲上
高嶺里之子親雲上
名護間切数久田村
平良親雲上
(表紙)
首里
之印 高四升 仕 明 請 地 帳
名護間切 数久田村
平良親雲上
(文面)
名護間切 宮里村
すみや原野竿迚より成る
仕明人 多戸 宮城
一、下田 拾五歩 四升
右御手形被下置候処癸卯十一月白蟻は跡方無之由仰出候付帳面引合相成由
仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地尤絵図仕付置候御模可相守者也
道光二十三年癸卯十二月
高 所 東風平親雲上
大宜見親雲上
池原親雲上
高嶺親方
名護間切数久田村
平良親雲上
▲上流部は内海になっている。内海口あたり ▲許田の内海一帯
▲幸喜の集落 ▲幸喜川沿い
2005.02.25(金)
今朝、名護グスクまでゆく。出勤前に名護グスクへ立ち寄る。現場で確認しておきたいことがいくつかあり。桜はほとんど散り、葉桜の名護グスクであった。今回触れることができなかった名護湾岸の村々の動き。先日行った許田・幸喜・喜瀬の川沿いの仕明地について触れたかったがボツにした。名護湾の水平線上に粟国島があり、天気がいいと見えるのだが。
名護湾岸の村々とグスクについて名護グスクを要とした視点と、首里王府から見た視点で考えてみたい。3月の中旬に開催されるM大学のシンポジウムで報告予定(中身の打ち合わせは月曜日)。詳細はそこで決まるので、今描いている頭の中の構想に変更があるかも)。

▲名護グスクから名護のマチと名護湾をみる(今朝)

▲名護グスクの森の斜面にある根神ヤー ▲根神ヤーの側に祭祀空間(カーがある)
午前中、兼次小学校の一年生がやってきた。今帰仁グスクを行っての帰り。エントランスホールで、
「古宇利島知っている?」
と聞いてみた。すると、
「行った、行った」
の声。古宇利大橋の開通後、大半が親子で島に渡ったようだ。
「では、これから古宇利島に行きます」
と声をかけると、キョトンとした顔。
「今日のコウリ島、氷になっているかな?」
「????!!!!」
展示室に入るや否や「すごーい、すごーい」ときた。
「島になにがあった?」
「なーにもなかった」
「そうだね。じゃ、これから古宇利島の宝探しをします」
▲何故か墓展示の前で神妙に話を聞いていました。神アサギ見つけた!
2005.02.24(木)
もう「南風」の原稿の締め切りがやってきた。明日にでも送付することに。もう一度見直してから。今回は昨年、今年と名護市内の病院の窓から名護湾を眺める日々があったので「名護湾岸のムラ」(仮称)でも。
今帰仁村内の原石(ハルイシ)を報告用に改めて整理する。法量や拓本、そして写真撮影。これまで村内で確認してしたのは20基だが、三基ほど所在不明となっている。今回のまとめで一区切りしたいと考えている。もちろん新しい発見があれば追加した形で報告する予定。
原石の原名と現在の小字との関わりについて『なきじん研究』―今帰仁の地名―(第7号)でまとめてある。元文検地の原石に出てくる原名と現在の原域との比較研究をしてもらいたい。たまたま、今帰仁村には「今帰仁間切平敷村略図」があり、現在の小字以前の原域がわかる地図である。それからすると、「現在の小字は複数の原を一つにまとめ、その中の代表的な原名が現在の小字名となっている」ことがわかる。他の地域でも、原石の原名と現在の小字名が比較できる史料があるのではないか。出てきて欲しいものだ。
▲歴史文化センター内に展示してある原石
▲今帰仁村古宇利島の原石の展示 ▲古宇利島の原石の拓本
2005.02.23(水)
午後から兼次小学校の発表会に参加してきた。6年生は「山北の歴史」(総合的な学習)がテーマ。八つの時代に分け三、四名ずつのグループごとの発表。各時代の様子を絵にし、時代の特徴を感想として報告してくれた。やっと自分の分担の時代が理解できたところか。一年間で各時代まで理解できるように頑張ってくれたら、なおいい。それと大きな今帰仁グスクの絵があったので、全体の流れとかみ合いわかりやすかった。パチパチパチ
一学期、歴史が何か? 体験としての歴史を学んでいない小学生。理解よりも、まずは体験ということで今帰仁グスクへ通じるハンタ道を汗を汗をかきながらの踏査。さらに周辺の拝所の確認。日を改めて今帰仁グスク内で各時代の目で見える歴史的なもの拾い。
次に歴史文化センターで発掘された遺物の確認。そこで今帰仁グスクの話に耳を傾ける授業。夏休みから二学期にかけて、歴史文化センターに分担した自分の時代の話と何を絵にするかの確認。自分の時代のみえる物の確認。
体験したり聞いたことを自分たちでまとめ、それを絵にしていく。各時代の見える歴史的なもの拾いがどれだけできたのか。今日は、そのことを含めての発表会である。
歴史を見ていくことが何なのか。気づいてくれたようだ。単なる知識ではないことも。自分の生き方につながっていることも。一学期の最初の言葉が、学校の授業の枠をはずすために「皆、大人の頭になれ!」と「自分の分担した時代にタイムスリップできる感性を持つこと」だった。

▲兼次小学校6年生の「山北の歴史」発表会
【名護市大浦をゆく】
名護市東江から山越えで東海岸にでる。大浦川を下ると左岸に大浦の集落がある。大浦は1673年以前は名護間切の村(ムラ)、それ以降久志間切の村となり、久志村の字となる。現在は名護市大浦である。
名護市から出された「民俗地図」を見ていると渡し場やワタシヤー、ウフラナートゥ(大浦港)などの地名がある。大浦川の中流部にタムンザ(薪の集積場)がある。そこから伝馬船で下流域に碇泊している山原船に積み込んだ様子がうかがえる。山手の大川では藍づくりが盛んだった時期があり、大浦のナートゥから積み出したという。薪や竹茅、炭などが主な集荷物であった。
大浦の集落南側のメーガー付近に稲倉が群をなしてあったという。稲倉を持っていたのはウェーキンチュ(富豪)と呼ばれる人たちで、サンゴ石灰岩を積み上げた屋敷囲いの家は、かつてのウェーキンチュの屋敷にちがいない。水田は大浦川沿いに広がり集落の後方の山手は段々畑であった。
大浦の神アサギは、山裾から移動している。


2005.02.22(火)
久しぶりに晴れの天気(昨日)。運天免許証の切り替えをすますと、まず名護グスクにあがり、その後名護湾岸の国道58号線沿いの数久田・許田・幸喜・喜瀬のムラを訪ねてみた。名護グスクを要にした湾岸のムラ、興味深くみることができた(別で報告予定)。
しばらく通っていない番越(バンクイ)を通り東海岸に出てみた。東江上トンネル?と雨志原トンネルが開通していた。番超トンネルは工事中で開通はまだ。名護市大浦の現在の神アサギと、移転前の神アサギ跡の確認。石垣の屋敷や石敢当を撮影して名護市汀間(ティーマ)へ向う。
【名護市汀間をゆく】(21日)
先日山内氏(汀間)と汀間について話する機会があった。「20年前に汀間の原石を見た記憶ですが、まだありますか?」と訪ねてみた。「うん、あ、あれまだありますよ。二つありますよ。そこに今帰仁の落ち武者らしき墓もありますよ。それと尚円にまつわる伝承も」と教えてもらった。山内氏に電話入れてみたが留守のようだ。
かすかな記憶をたどりながら、20年前確か土地改良の最中で、そこから山手に進むと、その裾野にあったような。杜はクサティと呼ばれているようだ。汀間の集落と山との間は平坦地になっている。かつて、一帯は水田が広がっていた面影が僅かながら窺える。山の裾野まで車を進め、杜の裾野に沿って歩いてみた。杜の中にカーと墓、よくよく見ると原石が二基あった。
汀間の尚円にまつわる伝承は宜名真や奥間との関連で興味がある。伝承にちがいないが、どうも首里王府は地方を統治するのに尚円(金丸)が首里にあがる経路をうまく利用したのではないか。沖縄には血筋でつないでいく発想が歴史をみる背景に根強くある。国を統治する立場にたつと、血筋(系統)と祭祀をうまく利用しているのではないか(支配してる方も意識していないかもしれない)。
明治26年に国頭を訪れた笹森儀助も尚円にまつわるカニマンガー(金満泉)を訪れている。
▲手前の杜の中に墓と原石がある ▲森の中にある墓と原石
▲チ (原名不明) ▲ム てい原
2005.02.20(日)
月曜日は閉館です。雨が続いていますが、いい休日にしたいもんだ!
【国頭村奥間をゆく】(メモ)
国頭村の道の駅の「ゆいゆい国頭」の前に立つと山手の麓に奥間小学校、その後方に杜が見える。御嶽かな、それともグスク。その杜はアマグスク、あるいはアマンチヂと呼ばれるグスクである。奥間一帯はかつて水田地帯で、奥間ターブクと呼ばれ国頭間切の田の約三分の一の面積を占めていたという。
ここで奥間について触れたのは、宜名真での尚円に関わる伝説が奥間にもあるからである。奥間ノロを出す座安家(アガリ)が鍛冶屋跡の祠の近くにあり、座安姓は尚円との関わりで首里王府が名付けた姓だという。鉄の産出しない沖縄で鍛冶屋は祭祀同様地域を統治する役目を担っていると見ている。
アマグスクへは奥間小学校の後方の土帝君が祭ってある祠からさらに上ってゆく。普段人がゆかないのか、草の伸びた道を踏み分けて上っていった。一段のぼりきった右側に石灯篭らしいのがある。その近くに祠が一つある。年号を記した香炉もあったような。さらに上の方約50mのところにも祠がある。南の御殿(フェーヌウドゥン)と北の御殿(ニシヌウドゥン)といわれるのはそれか。グスクの中の二つのウドゥンに興味がある(要調査)。せっかく上ったのにデジカメの電池切れ(残念!)。
・土帝君
・奥間鍛冶屋
・金剛山
・奥間ノロ(奥間・比地の祭祀を管轄)
・国頭間切の番所(現奥間小学校地)
1732年に国頭番所は浜村から奥間村へ移設される。
大正3(1914)年に役場は奥間から辺土名へ移転。
・アマングスクの北の御殿(イベ?)はノロ・勢頭神、南の殿内(イベ)は
若ノロ・根神・勢頭神が拝む。



2005.02.19(土)
一日のんびり。雨の日が続いているので、外へは出れず。そういう日もいいものだ。宜名真の村の成立ち。もう少し資料整理が必要。ボツボツ見ていきます。
何故か、一人で大笑い(傷口が傷みますワイ)。そのせいかクシャミも。春が近いのですかね。春先は体調や頭も気をつけましょう。
何故か意を決して宜名真について記そうとしている。多分、伊是名島との関わりで宜名真御殿内(ギナマウドゥン)は避けて通れない場所に気づいたからに違いない。それと宜名真御殿をこれまでの尚円が伊是名島から妻と船で宜名真に逃げ延びた。ここでも受け入れられず、さらに首里の上った。宜名真御殿が今に保存されのこっている。それは首里王府の山原(特に国頭一帯)の統治の一端ではないか。そう見ると興味深い姿が見えてくる。
【国頭村を宜名真ゆく】(メモ)
国頭村宜名真をゆく。明治7年のイギリス船の座礁やオランダ墓(英人墓)、英国船のバラスト、戻り道やカヤウチバンタ(茅打崖)については触れたように思う。ここで知りたいのは国頭村宜名真の人たちの気質である。「宜名真頑固」と言われているが、その頑固さは山原の人たちの頑固さとは異なる。首里文化や士族の気位をもって頑と山原的なものへ同化しない、それと明治政府の政策に抵抗している様子がチョコチョコ伺える。
第二尚王統の始祖と言われている尚円(1415年生)が、伊是名島の諸見は勿論のこと、ここ国頭村宜名真の宜名真御殿で延々と崇めたてられ、現在につながっていることの見通しがついたからかもしれない(書き進めていくとひっくり返るかも。ダメかも。それが面白い)。
『球陽』などの記事をみてみると、尚穆王が国頭間切(郡)の宜名真に竈神が祭られていて、間切の人民が尊敬をしているが公の祭りではない。国頭按司正方は公の祭りにして旧跡をりっぱにしようと願い出た。毛昌徳に命じて瓦葺の殿をつくらせ、村人をから選んで看守させ、夫役は免除して赤八巻(親雲上)を賜った。
現在の宜名真に宜名真権現の宜名真神社などいくつかの拝所がある。その一つは泊大比屋の火神の祠ではないか。建物の後方には地頭火神の碑もある。少し、拝所の確認も必要。
宜名真の村(ムラ)の成立と関わるが『琉球国由来記』に宜名真村がないこと、そして宜名真御殿が神アシアゲのように古く痛んでいる様子が記されている。宜名真に集落(集落は村(ムラ)ではない)があったことが知れる。建物が神アサギのようになっているとはあるが、神アサギがあったわけではない。それらからすると1700年代に宜名真にヤードゥイ的な集落はあるが、行政村としての存立は明治41年になってからである。
東恩納寛惇氏は『南島風土記』で宜名真は「辺戸の南一里余、もとの宜名真村にして、今は字辺戸の小字となる」とあるが、「宜名真はもと辺戸村のヤードゥイ集落であったが明治41年に字辺戸から分立する。さらに昭和14(1939)年に、完全な行政区として字宜名真となる」とした方がいい。
宜名真は首里・那覇の寄留人で構成されている。泊比屋の役人の派遣もあるが、尚円王の旧跡を整備し、火竈を設置したことと宜名真が寄留人で占めることと大いに関係ありそうだ。
尚円王(金丸按司末續王仁子)の年譜(『球陽』より)と宜名真に関する記事を他の資料から拾ってみる。
・宣徳9(1434)年 金丸20歳、弟宣威5歳
・正統3(1438)年 金丸24歳 伊是名の田を棄て妻と弟を引き連れ国頭へ。
(与那覇岳のインツキ屋取に隠れ、奥間村の鍛冶屋の世話になった由)
(宜名真の草庵は卯辰に坐して酉戌に向き、長さ10丈5尺、広さ6尺)
・正統6(1441)年 金丸27歳のとき妻と弟を連れて首里へいく。
尚思達王のとき家来の赤頭となる。(数年勤める)
・景泰3(1452)年 尚金福王のとき38歳黄冠(親雲上)の位を賜る。
・景泰5(1454)年 内間領主(地頭)になる。
・天順3(1459)年 45歳のとき御物御鎖側官となる。
・康煕52(1713)年 『琉球国由来記』の旧跡に、以下のようにある。
辺戸村ヨリ半里行程、宜名真ト云所ニ、御殿屋敷アリ。中畑壹畝余。
(名寄帳ニ、ギナマ原)是
尚円王、恩践祚以前ノ、御屋敷タルベキ由、申伝也。御屋敷ノ向、酉戌
ノ方。長二拾壹尋、横十二尋。内ニ、長三尋一尺、横ニ尋半ノ家アリ。今
神アシアゲノゴトク、古ミ破ケレバ、作替也。(泊ノヲヒヤ屋敷ノ間、十間
程。泊ヲヒヤ屋敷、今ハ津口番所ニテ、泊ノ大比屋、相詰也)
・
・
・乾隆46(1781)年 往昔、先王尚円未ダ践祚せざる時、国頭郡宜名真地にあり。尊ぶ所の
竈神、今に至つて遺跡猶ほ存す。郡を挙つて人民、尊敬をなすと雖ども、
然も公祭にあらず。所以に質朴雅とらず。馬承基前国頭按司正方は、公
祭を行つて旧跡を光さんことを禀請す。此れに因り毛昌徳(禰覇親雲上盛
寿)に命して其殿を製造せしめ、瓦を以て之れを蓋す。村人一人を択選し
て立て、看守すとなす。その夫役を免じて赤八巻位を賜ふ(『球陽』)。
・乾隆48(1783)年 嗣後三十二年冬十月、主上内院より(尚穆王)その遺跡を拝謁す(『球
陽』)。
・ 『琉球国惣絵図』(間切成集図)に「宜名真之御殿内」とあり、建物が描か
れいる。
・明治14(1800)年 「該村人煙稠密、漁業亦多シ、鱶五十斤内外ノモノヲ釣リ得ルト云フ、
因テ漁具ヲ一覧セラル」とあり、地割に預からなかった寄留人の生活が
しれる。
・明治41(1908)年 宜名真は辺戸村から分立する(土地の分離は未)。
・昭和14(1939)年 字宜名真から行政区として完全に独立し、字宜名真となる。
▲カヤウチバンタからみた宜名真集落 ▲宜名真集落の後方の山は辺戸の安須森

▲鳥居の後方の建物が宜名真権現 ▲宜名真権現の内部の様子

2005.02.18(金)
『海東諸国紀』(琉球国之図)
の「郡島」は「屋我地島」?
確かに東恩納寛惇氏は『南島風土記』で「郡島は屋我地」である?かのように記してあります。東恩納氏も?をつけています。
「この地はもと、羽地間切屋我村の請地であるが為めに屋我地と唱へ
られてゐるが、本来はこれを古宇利島と呼んで、今の古宇利島は沖
の古宇利と呼んだものらしく、検地帳には現に今の古宇利島を沖郡
島と注記してある。従って
海東紀地図に郡島と注してある大島は屋
我地であると思われる」(『南島風土記』昭和39年再版 399頁)
「按ずるに、検地帳に沖の郡島と注せるより見れば、或いは古へその
南の大島屋我地を郡島と唱へ、今の古宇利島を特に沖の郡島と唱
へしものにあらざるか。従つて、
諸国紀に云う所の郡島も屋我地の事
にして、特に『有人居』と注せるは、屋我等各本村よりの移住未だ少
なくして請地とならざりしものか、後世各村より移住開発する者盛んに
なりて、屋我地と唱へられしより、自然沖の郡島を単に郡島と唱ふる
に至れものか」(『南島風土記』昭和39年再版 391頁)
沖縄の地名を考える場合、注意しなければならないことがあります。方言呼びと表記が一致するかどうかの吟味です。時々「表記の変遷」と断りを入れます。それは表記と方言呼称が一致するときと、しない場合があるからです。
今回の古宇利島がそうです。古宇利島の表記の変遷は以下の通りです。
○→郡島→こほり→(沖の郡島)→郡島→古宇利(古宇里)→古宇利
○→ ? → 屋が(賀)嶋 → 屋我地島
表記の変遷は、そうですが島の方言呼びは一貫して「クイジマやフイジマ」です。近世中頃からクイジマあるいはフイジマと古宇利(こうり)島が平行した形での呼び方になります。
古宇利親雲上(コーリペーチン)と呼ぶ一方屋号ではフイッチヤ(古宇利掟屋)やメーフイヤー(前古宇利親雲上屋)、フイヤー(古宇利親雲上屋)というように。
つまり表記と方言での呼びが、異なっていても同じ地名や場所を指しているということがあります。「沖ノ郡島」(沖之郡島)と表記しても古宇利島を指しています。『琉球国高究帳』や『絵図郷村帳』や絵図などで屋我地島のことは「屋が嶋」や「屋賀島」と登場します。そこには郡島とは出てきません。「屋我地島のところに郡嶋」とあれば問題なかっのですが。
古宇利島が表記の上で、郡島やこほり、古宇利や沖ノ郡嶋と表記されていたとしても、それはクイジマ(フイジマ)と呼ばれ屋我地島ではなく古宇利島を指しています。
郡島の前に「沖ノ」のあるのは、屋我地島と区別するための「沖」ではなく、クイジマが「海を越えた所にある島」の意に、「海を越えた、黒潮を超えた沖にある島」と解しているとみた方がよさそう(ウタにもあるように。大橋は黒潮の上は横断していせん)。
東恩納寛惇氏が
①「古宇利島と呼んで」とあるが、
古宇利島をコウリジマ、それともクイジマやフイジマと発音したのか。
②「今の古宇利島は沖の古宇利と呼んだものらしく」とあるが、
「沖の古宇利」をオキノコウリと呼んだのか。それともオキノコウリか。
それともクイジマ(フイジマ)と呼び、オキノクイジマ(フイジマ)と呼んで
いるのか。
東恩納寛惇氏は①②とも方言ではなく表記のままでの呼び方をしています。表記を前提に「古宇利島」と「沖の古宇利島」は別の島だと見ています。沖の島に対して、手前の島ととらえているのかも。そのため「沖の郡島」(古宇利島)に対して郡島(屋我島)と考えたようです。また、次のようにも述べています。屋我島が屋我村の請地となったことで屋我地となり、自然と沖の古宇利島の「沖の」がなくなり「郡島」となったかもと。
検地帳に「沖の郡島」(古宇利島)とあるからとしているが、他の史料でも古宇利島のことを「沖の郡島」と出てきます。もし検地帳に「屋我島」のことを「郡島」とあったなら「沖の郡島」は古宇利島で、「郡島」は屋我島であると言えたはず。ところが検地帳や他の史料に屋我地島は屋が嶋とは出てきますが郡島とはありません。東恩納寛惇氏は「沖之」とあることから、「沖の郡島」から、郡島は屋我地島と想定しています。
このような史料や表記、あるいは方言呼称をみていくと、
古宇利島はいくつかの表記があるが、表記が異なってもクイジマや
フイジマと方言で呼び古宇利島を指しています。ここで詳細に説明でき
ないが、方言呼称のクイジマを表記で郡やこほり、さらに古宇利の字
を充てています。イリ(西)→いれ アガリ(東)→あがれ のように方言
(カタカナ)と表記では異なります。ある法則にのっています。クイが郡と
表記されるのも。
地名を扱う場合、表記や机上で結論を出すことは危ない面があります。「古宇利島はクイジマやフイジマと呼ぶ」と前置きするのは、そういうことがあるからです。ここで、郡島が特定できていないと話の前提が壊れかねませんので説明しておきました。
東恩納氏の『南島風土記』から多くのことを学んでいます。研究の深まりや他の視点からみたとき、結論や前提に訂正を必要とするところもあります。それはいいことで、ダメだということではありません。
2005.02.17(木)
小雨模様。今帰仁グスク・今帰仁ノロ家・運天周辺をゆく予定。小雨なのでどうか。沖縄歴史探訪講座(沖縄県いきいきふれあい財団)25名がやってくる。雨の中以下のポイントを訪ねる。体力的に厳しいコース(午後4時まで)なり。雨の中楽しくできたので回復しているようだ。いろいろな質問あり(雨模様だったので画像なし)。
・歴史文化センター(展示解説)
・今帰仁グスク
・今帰仁ノロ殿内(勾玉・簪)
・仲原馬場跡
・運天港(番所跡・コバテイシ・オランダ墓など)
・大北墓と監守
・百按司墓
・源為朝公上陸之址碑
(工事中)
2005.02.16(水)
午前中今帰仁小学校3年生と今帰仁グスクへ。途中で抜け別の来客があり再びグスクへ。3時後はダウン。ははは
国頭村奥までゆく(2月11日)。佐手でしばらく時間をとり、宜名真の宜名真権現に立ち寄る。辺戸は素通り、目的地は奥である。今年になって三度目である。『奥のあゆみ』を手に入れたかったことと奥の山原船が往来していた頃の港を確認しておきたかった。
奥の資料館に立ち寄ってみた。『奥のあゆみ』があるかどうか訪ねると「残念ながら販売用はありませんね。館長、調査ですか?」ときた。名前を思い出せず。名護市立図書館で一緒に講演をした方。奥の方から一冊ありますが・・・。奥の方で座ってでも・・・」と有り難い言葉。
時間がなくペラペラと開いてみた。目を通さずして奥は語れないと。出直すことに。
「山原船はそこらあたりまで上がってきたのですかね?」
「うん、そこらあたりで薪など積み下ろししていたそうだよ」
その一言を聞いて奥川の下流域へ。干潮の時間帯のせいか奥川の水が水路のように海に注いでいた。満潮時はどうだろうか。さっきの資料館あたりまで、海水は遡っていくにちがいない。
奥川に架かる奥橋あたりまでゆき車を降りた。川の右岸は墓地である。そこから奥川を画像に納めることに。振り返ると二人のおばあが立ち話をしている。一言あいさつして河口まで行ってみた。奥川と奥漁港との間は砂山である。川の水が通る筋だけが見えた。そこから500mほどまで海水が遡るだろうか。山原船が資料館あたりいけるか自信をなくしてしまった。
車に戻るとさっきのおばあ二人がまだ立ち話をしていたので声をかけてみた。
「山原船はどこらあたりに碇泊していました?」
「もっと下流でな、漁港にゆく手前(前浜)当りだよ」
あとで確認したのであるが、山原船やサバニを繋留したウランダハナグ(英国船の碇)やロープを結わえるコンクリートの棒状の船掛けがある。帰り際、
「おばあたちの言葉、外国語みたいですね」というと、
「あんたナイチャーか。ここの言葉はだな、大和に近いよ。与論が近い
からね」
ときた。すぐ頭をよぎったのは『琉球文化の探求』(河村只雄)の「奥の細道」である。
「辺戸から奥へは幾つかの峰を超えなければならなかった。・・・・・その中年男は奥部落
へ帰って行くものである。・・・・標準語が十分通じる。四、五十位のものならどこでもほぼ
話が通じる。もっとも首里・那覇はだめである。古き伝統をに対する一種の誇りがわざわ
してなかなか標準化しない。・・・田舎は純である。教えられるままに覚え、教えられるまま
用いる」
河村只雄をいいかげんな研究者と揶揄する方もいるが、『琉球文化の探求』は大正から昭和初期にかけて島々をよく記録しているとみている。私は最大に評価している。河村の誤解や間違いも多々あるが、資料として使う場合、使う側が取捨選択していけばいいこと。逆に力量が試されているのだと考えている。
河村が書き記した標準語の問題は、おばあたちが言っているような大和(与論)に近いからではなく、沖縄本島の最北端の陸の孤島であったが故、明治になって一目散に先鞭きって大和化していったと見た方がよさそうである。あばあたちにとってみれば、与論島が目の前に見えるのでそう理解し納得しているのかもしれない。
もう一つの引き金もあるが別で報告する予定。
▲奥橋付近の奥川 ▲奥川の下流域
▲奥の二人のおばあ ▲集落の後方に段々畑が見える
2005.02.15(火)
国頭村佐手までゆく。国頭村の西海岸の国道58号線沿いの字(アザ)は南から浜・半地・奥間・辺土名・宇良・伊地・与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉・宜名真・辺戸と続く。他に国道から外れた海岸にある鏡地・桃原、山手に比地がある。特に宇良から宇嘉の間の字の位置と様子が即座に浮かんでこない。それは私の調査不足でもある。
そのこともあって国頭村佐手を訪ねてみた。まず頭に入れたのは佐手小学校。小学校のあるムラと。旧道沿いにある神アサギ、その後方(北側)に旧家の屋号メーがある。海岸にヤーンクシと呼ばれる小島(砂洲で陸続き)がある。そこに与那ノロの墓がある。
神アサギの側から細い路を山手に上っていくと広場にでる。二つの祠があり、北側のがサチヌウィ(佐手の上)と御嶽のイビ?の祠がある。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に国頭の佐手村を見ると「神アシアゲと上ノ嶽」がある。一つの祠は上ノ嶽のイビの祠と見られる。サチヌウィは北に向き、義本王に関わる祠だという。内部の土部分が盛り上がり人骨が葬られていると聞いている。かつては、一帯の斜面に集落があったともいう。斜面に福木がいくつもあり、あたかも家々が散在していた痕跡が窺える。
斜面にできた獣道をさらに歩いてみると、山手まで段々となっていて畑にして利用していた痕跡がある。佐手小学校後方のヤーンクシあたりに、舟溜りの場所ではないかと思われる空間がある。
後で調べたのであるが佐手は山仕事が盛んで、船を所有していた者がおり、奄美大島や那覇、さらに遠くの宮古島まで交易していたという(『国頭の村落』)。佐手の集落の南側に佐手尋常小学校発祥地の碑と墓地がある。墓地に龕屋(ガンヤー)があり、壊れかけた龕がまだある(保存したいもんだ)。今帰仁村での火葬は昭和36年頃である。国頭村で火葬が行なわれるようになったのは、もっと後なのであろう。火葬にふされるのに抵抗があり、後まで龕が使われたのかもしれない(要調査)。
2005.02.13(日)
月曜日は休館です。いい休日を!
大宜味村田港に伝わる下の伝承は非常に興味深い。それは1665年に今帰仁グスクで君臨していた山北監守(今帰仁按司)が首里に引き揚げていった(廃止)時の様子を示したものである。尚真王の三男尚韶威(今帰仁王子)を今帰仁グスクに派遣し、、その一族が七代(従憲)まで今帰仁グスクで監守を勤めた。首里に引き揚げるとき、意見が分かれたようで「山北の地は遠いので、まだ教化されていない」からとして監守制度の廃止に反対したのが定水和尚で、職を退いて田港村に隠れ住んだという。
(寺屋敷跡は未確認)
三山が統一され、今帰仁グスクに監守を派遣し、さらに廃止する。派遣の理由、そして廃止の理由が、「教化し難く」である。教化というのは首里を中心とした制度や文化なのであろう。それが教化できていないというのである。山原の立場からすれば、それが「北山文化」として捉えるべきものではないか。そういう視点での研究がなされていないのではないか。
「教化」できたのが伊平屋(伊是名含む)ではないか。尚円生誕地ということもあるが、尚円の姉を真世仁金を伊平屋の阿母加那志(アムガナシ)とし、叔母をニカヤ田の阿母、叔父を銘刈大屋子の地位を与えた。銘苅大屋子は代々男が継ぎ、近世になると夫地頭職を一家(銘刈殿内)が継承していく。また二カヤ田の阿母は、初代の伊平屋の阿母加那志に二人の娘がおり、南風のタハダと西(北?)のタハダの二家に分けて継承させる。神職は三家に継承される。銘刈殿内を入れて四殿と呼ばれている。
高良倉吉氏(琉球大学教授)は「伊是名島の特異な歴史」と表現される。それは首里王府の制度を尚円と密接に関わる人物を島に住まわせ浸透(教化)させたとみることができる。山北監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵は、それができずに首里に引きあげることになる。そこで「教化」できなかったのが、「北山文化」として息づいているとみている。
【田港の寺屋敷】
滝川のほとりに寺屋敷と称する所あり。二百六十年前定水和尚が居た所の跡だと伝へ
られている。定水和尚は(土地の人はダチ坊主と呼ぶ)首里新城家の祖先で王府に仕へ
て重職にあった人で寛文5年国王尚質王重臣を集めて尚真王以来派遣していた北山監守
を撤廃せん事を諮る。時定水は北山の地が癖遠にしてまだ教化が普及しないから撤廃は
早いとなし意見の不一致となる。
王嚇と怒り曰く「汝何の故を以てか尚早しとなす。予不徳にして感化未だ国頭に及ばざるの
謂なるか。と詰責され定水答ふる能はず、官職を辞し仏門に入り剃髪して定水と号し閑静な
る塩屋湾の東隅に退隠して悠々余生を送る。・・・(『大宜味村史』資料編、『琉球』大正14年発
行、『沖縄県国頭郡志』大正8年発行)
▲アタイグヮーはかつての水田(田港) ▲滝川の側にある祠
新城徳祐氏は1960年に田港御嶽調査を行なっている。その際、田港滝川についてのメモがある(『なきじん研究』10号所収)。古鏡や鉦鼓が定水和尚と関わる遺品かどうか確認が必要。
田港御嶽から古鏡2、鉦鼓1が発見された。
・古鏡(大)径20糎 八稜四獣唐草文鏡
・古鏡(小)径6.3糎 鶴亀梅文円鏡
・鉦鼓 胴径13.5糎 深さ3.7糎 高さ4.2糎
底径16.3糎 淵厚1糎
田港滝川
浄(定か)水和尚が住んでいた。屋敷跡がある。
首里にて意見が合わずに田港にきた。
田港御嶽からの古鏡(八稜四獣唐草文鏡)
2005.02.12(土)
大宜味村の塩屋湾岸をゆく。塩屋湾岸になぜグスクがつくられなかったのか。塩屋湾の塩屋村に作られた番所、ペリー一行が塩屋湾に6日も滞在したのは? 塩屋と渡野喜屋(白浜)の渡し舟、さらに戦前・戦後の湾岸の写真を見ると、見事なほどの段々畑がある。その風景は山原の歴史を読み取っていくとき、前提としなければならない風景の一つではないか(特に近世以降)。大宜味間切の村として東海岸の平良村と川田村が含まれていたこと。大正から昭和初期にかけて小規模ではあるがマチが発達していた。そんなことを思い巡らせながら塩屋湾岸の塩屋・屋古・田港・白浜(渡野喜屋)・宮城などの字(アザ)を訪ねてみた(2月11日)。
その風景を浮べたとき1736年頃蔡温が山原の間切を視察し山林に関わる七書を編集したことが理解できる。林政に関する法律を制定したことで彼の偉大さを褒め称えることもあるが、山の頂上付近まで段々畑にしていかなければならない社会状況が法律を制定して保護する必要があった。一方では耕されている耕地の確認のための印部土手(原石)を使って行なった元文検地がある。猫の額ほどの段々畑まで地割の対象になった土地だったのだろうか。
近世塩屋湾内に大宜味間切の番所が置かれた。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切を分割して創設された間切である。当初、田港間切であったので田港村が同村なので、そこに田港間切番所が置かれたのであろう。田港間切から大宜味間切に改称されたとき、番所は大宜味村(ムラ)に移動。ところが大宜味村は外洋に面しているため租税などに不便をきたしたためか、1732年頃塩屋湾内の塩屋村に番所を移している。ペリー提督の一行がきたとき、番所は塩屋村にある。
明治30年頃塩屋番所から大宜味間切役場となる。役場の位置は、まだ塩屋村である。明治44年に役場移転問題がでる。同44年塩屋校と津波校の新改築を条件に、役場は字塩屋から字大宜味に村(ムラ)に移転した。
(詳細は「山原の津(港)と山原船」に所収)
2005.02.10(木)
11日(金)は公休日のため閉館となります。
今帰仁グスクの桜満開中です。天気は曇り、時々小雨模様。原稿校正でフーフー。
▲今帰仁グスクへゆく道筋の桜 ▲今帰仁グスク内(大庭)の桜
【塩屋と渡野喜屋の渡し舟】メモ
塩屋と渡野喜屋(現在の白浜)間の渡し舟の往来はいつ頃からはっきりしないようだ。明治14年上杉県令が大宜味間切を視察した際、渡し舟について間切から廃藩置県で不合理が生じている旨報告している。これまで渡し船の運航が夫役で間に合わしていたが、廃藩置県以後、それが出来なくなって困っていると。ならば運賃をとってどうかと県令から提案される。その後、渡し舟(伝馬舟)は村費で建造して「渡し賃」を取ることになった。渡し番は塩屋と渡野喜屋から、それぞれ出していた。
役場の吏員・村議・郵便配達人・駐在所の巡査などは無料で、一般の通行人から渡し賃を取って運営していた。
昭和の初め頃、名護から渡野喜屋まで乗合い自動車が運行するようになり(南陽自動車・朝日自動車・新垣自動車)、渡野喜屋は客待ちの場所となり雑貨や菓子を売る店、食堂ができ賑わったという。塩屋側の舟着き場は学校の校庭となっていて、賑わいを見せていた頃は送別の宴など校庭で行なわれ、授業に迷惑がかかったため舟着場を学校から少し離れた場所に変更された。
渡し舟は辺土名までバスが塩屋湾を回って運行されるが、それでも渡し舟は続いた。昭和13年に宮城橋(丸太橋)が架けられると渡野喜屋と塩屋を結んでいた渡し舟は宮城島と塩屋を往来するようになった。昭和38年に塩屋大橋が開通したため渡し舟は役目を終える。現在の塩屋大橋は1999年に竣工したものである。
昭和7年頃三島丸(約30トン)が就航し、塩屋と那覇間を結んだ。昭和17年村営の新造船大宜味丸(53トン)が就航する。当時は山原船も航海し薪や木炭、材木、農産物が輸出されていた。(参考文献:『塩屋誌』大宜味村塩屋)
【ペリー来航と塩屋湾】(工事中)
2005.02.09(水)
古宇利島の初御願はこれまで参加したことがなかった。初御願をみるため橋を通り島に渡ってみた。サブセンターやその周辺、島の人たちに昨日の祝賀の余韻がまだ漂っていた。1960mの橋は結構長い印象。橋からみた島の集落は、船からみた印象とは異なっている。島の玄関口がすでに港から集落の東側に移っている。まずは集落東側の福木が目につく。
今日は旧正月である。古宇利島の初御願をみる。拝む場所はクワッサヤ(お宮)とハー(アガリヌハーとイリヌハー)である。
お宮に島の人たちが新年のウガンをしに集まり、酒(泡盛)と塩が準備されていてウガンの後、酒をいただき塩は額につける。クワッサヤー(お宮)の内部に数個の大きな石が置かれている。どうも海神宮と御嶽へのウトゥーシ、そして大きなナベを置いた石と見られる。クッワサヤーの名称から御馳走を振舞う場所、海の寄り物が取れると大きな石にナベを置いて寄り物を島中の人たちが食べていた場所だという。それが昭和の7年にお宮をつくりまとめたのではないか。
お宮はハーリーのとき、最初に祈願をする。それは海神宮(龍宮の神と言っている)で豊漁祈願や安全祈願。そこはマーグシクヤーの神人の管理のようだ。
ハー拝みは神人二人と区長、書記、そして島のカーを使った人たちが数人。かつてはハーから水(若水)を汲み、屋敷の東側や仏壇の湯のみなどを洗い清め、健康祈願をしていたという。今朝のウガンは若水をとることなく線香・米・塩・酒(泡盛)を供えていた。東の井戸(アガリヌハー)と西の井戸(イリヌハー)の二つのハーでウガンをしている。
(工事中)


2005.02.08(火)
今日は古宇利大橋開通の日である。島と関わってきた一人として古宇利大橋の開通に島の方々と一緒に祝杯をあげたい。平成元年から調査で関わった島の祭祀や地名や生業や歴史、島の方々から多くのことを学ばせてもらった。それが『なきじん研究』や企画展の「古宇利島―島に橋が架かる」や「古宇利島―人々・神人の祈り」など歴史文化センターの財産となっている。
・海神祭(ウンジャミ)は山・農耕・海の生業と関わる祭祀
・ノロをはじめ神人は公務員
・祭祀は生き物である
・祭祀が根強く残っているのは?
・祭祀は記録の仕方で歴史史料になる
・七森七嶽と集落、そして御嶽を管理する神人との関係
・フイジマやクイジマは「海を越えた島」の義
・神アサギとヒチャバアサギ(下のアサギ)から二つのムラが一つに?
・1750年頃から地頭代(今の村長)は古宇利親雲上を名乗る
・地頭代を勤めた家は屋号としてメーフイヤーやフイヤーがつく
・古宇利の原石(印部土手)から原域の組み換え
・土地所有地に地割の痕跡
・古宇利島のウプドゥマイ(島ではウプルマイ)は運天港の外港
・五基の原石の表記から方言音の表記の法則があること
・島の形と島人たちの思いと気質
・島に何もないと言わさせないための「古宇利島 遊歩マップ」
・石垣の屋敷や福木のある集落がいい
島との関わりでいただいた発想や視点、気づかされた数多くのことが思い出される。テレビで静かに今日一日の動きをみた。島の方々のインタビューの一言一言は重いものがあった。「参加して欲しい」とあったが遠慮した。今日、島に渡るといろいろ聞かれるし、私の説明より島の方々の生の声がもっともっと大事(二、三日前から電話での確認の問い合わせがあり)。
今日の島の方々の声はいい。サイフや自分ができるかどうか見究めた、そして足が地についた発言だったので現実味があり説得力がある。「島は自分たちで築いてきたし、築いていくのだ」との自信あふれている。
古宇利大橋は開通したが、『古宇利字誌』は、まだ編集作業中。もう少し古宇利島と関わる。
古宇利大橋開通、まずは島人に乾杯!
昨日は天気が悪く、それと飛び回るにはまだ慎重な動きを求めている。もうしばらく机上での作業を多くすることに。4月以降「津(港)や山原船」の調査に取り掛かる。その下調べということに。随時断片的な紹介となるが、その全体はあとあと編集の予定。
まずは山原船に限らず船に関する語を拾っていく(『近世薩琉関係史の研究』喜舎場一隆著)。
・楷 船・・・薩摩上国のための使船(官船)。春夏に薩摩藩に上国。
綾船→楷船
・紋 船・・・中世において楷船は紋船と呼ばれていた(あや船・綾
船・文船)薩摩では竜舟
・進貢船・・・明・清国への朝貢のための船(琉球王国の官船)

▲近世から戦前まで航行した山原船
2005.02.06(日)
月曜日は閉館です。いい休日を!
昨夕「館長、島に渡らないの?」とフェリーの船長の娘(夕貴)から電話あり。どうしようかと迷っている最中であった。「どうせ明日は雨だろう」と内心思っていたが、「うん、渡りますよ」と軽く答えてしまった。
眼を覚ましたら、晴れそう。朝7時半運天港発。早朝の島渡りは朝日が見えていいものだ。8時半の臨時便もあるようだが、行くなら早い便の方がいい。乗船時のあいさつが「もうすぐですね」と橋の開通を心待ちにしていることと、開通後どうなるかの不安がひしひしと伝わってくる。午前中の短い時間の島渡り。
①古宇利港(古宇利丸)
②トゥーミヤー
③ポットホール
④アラサチ(荒崎)
⑤プトゥキヌメー
⑥「ヲ いれ原」の原石
⑦神アサギ
⑧ナカムイ
⑨イリヌハー
⑩アガリヌハー
⑪サブセンター
今日はトゥーミヤーまで行けたらいいと思っていた。夕貴も一緒するということで車を出してくれた。まずは、トゥーミヤーへ。そこは今は標準点が設置されている。かつての遠見台の面影を彷彿させてくれるのは、島の最高部(107m)と、回りよりちょっと高い岩の頂上部が平坦になっていることか。今帰仁グスクの側にあるピータティファーイや伊是名島の海上を眺めがら1644年の烽火制度や冊封船が進路を外し、葉壁山(伊平屋島)あたりに流され、小舟(30~50隻)にひかれて那覇港へ向う様子を思い浮かべていた。
そこから道を迷いながら渡海の浜へ。ポットホールと呼ばれる円柱状の穴がどうしてできたのか。まだ定説を見ていない。よくわからないことが、島は一度水面下にあったのかなどダイナミックな発想で島の成り立ちが想像でき愉快である。
近くにテーハマがあるはずだと、夕貴に脇道をいくようにお願いした。しばらく行くと行き止まり。最近、土を起し畑にしたような場所にでた。畑沿いに小路があり、さらに行くと奇妙な形をした岩場にでた。「おっおっ、ここはすごい!」
後で区長さんに聞いたら「あっ、そこね、アラサチだよ」とクールな返事。テーハマがもっといい場所だと言わんばかり。そんなことより、開通前後のことで頭がいっぱいのご様子。ハハハ このアラサチは荒崎にちがいない。外洋の荒波がまともに当たり打ち砕かれている。
古宇利島に「ほ あらさき原」の原石がある。あらさき原の原域は今の小字にはないが、小地名として残っている。一帯はかつて「あらさき原」であったに違いない。そこでの思いは蔡温は1743年頃今帰仁間切の竿入(元文検地)を実施している。古宇利島の北側の岩場の土地まで測量をし、税をかけようとしたのか。原石はある面で歴史史料ではあるが、アラサキに立つとそんな荒れ果てた地まで測量し、村人を苦しめる結果になったのではないか、そんなこと想像してしまった。
(工事中)
▲七時半頃に太陽が(運天港) ▲トゥーミヤー跡(標高約107m)
▲渡海浜のポットホール ▲「ヲ いれ原」の原石

▲古宇利島北側にあるアラサチ(荒崎)
▲古宇利島の神アサギ ▲古宇利島のナカムイ(中森)
▲今日の古宇利丸 ▲古宇利丸の軌跡
2005.02.05(土)
退屈しのぎに記憶にある伊是名島に飛んでみた。机上の旅は便利なものだ。記憶を呼び起こすために伊是名島の写真アルバムを捜してみた。もっと新しいアルバムもあるはずだが見つからず、1994年のモノクロ写真をめくって見た。記憶がなかなかよみがえってこない。これは、まずい。全身麻酔でそこは消え去ったか!
さて、今帰仁阿応理屋恵、久米島の君南風もそうであるが、三十三君の一人として伊平屋大あむがいる。初代の伊平屋大あむ(伊平屋の阿母加那志:アンジャナシー)は尚円王の姉真世仁金が任命された。伊平屋大あむは首里・儀保・真壁の三あむしられの内の首里大あむしられに属した。
尚円王の叔母に同名の真世仁金がおり、二人の娘がおり「二かや田阿母」の神職を賜った。この職を二人の娘が継いだため「南風の二かや田の阿母」(フェーヌハダ:フェーヌタータ)と「北の二かや田の阿母」(ニシヌハダ:ニシヌタータ)に分かれた(『伊是名村史』)。これらの神職を掌る神人の祭祀がどうなっているのか。実態の見えない今帰仁阿応理屋恵の祭祀が、伊平屋の神職を継ぐ三家(殿内)の祭祀から少しでも手がかりが得られたと考えているが、果たしてどうか?
伊是名島にある伊是名グスク。標高97mにあり、グスク内に三つのイベがある。
①大城ミヤ御イベ 神名:真玉森 →諸見・仲田のナー(両村の拝所)
②高城ミヤ御イベ 神名:スエノ森 →勢理客のナー(勢理客の拝所)
③伊是名ミヤ御イベ 神名:伊是名森 →伊是名のナー(伊是名村の拝所)
伊是名グスクの三つのイベに関心を持っている。それら三つのイベがムラの拝所になっていないかである。大城ミヤ御イベは諸見と仲田の人たちのウンジャミとシニグを行なっているようだ。他の二つのイベも勢理客と伊是名のナーとしてムラ名が付いているので、そのムラの拝所(イベ)に違いない。ならば・・・(要確認)。
(工事中)

▲伊是名グスクと銘刈家(1994年撮影)
2005.02.04(金)
今帰仁阿応理屋恵についてまとめてみたい。これまで断片的に報告してきたが、それを整理しておく必要がありそうだ。勾玉は県指定の文化財に指定されている(歴史文化センター所蔵)。それと1658年の位牌(六世縄祖)があり、また扁額も平成の三年頃まであったが失っている。
体調もよくなってきたので、早速今帰仁グスクの近くにある旧オーレウドゥンの火神の祠と今泊の集落内にある阿応理屋恵(オーレウドゥン)跡の祠を訪ねてみた。

▲グスクの近くにあるオーレーウドゥンの火神の祠と内部

▲オーレーウドゥンにあった扁額(紛失) ▲寄進された香炉四基あり

▲今泊集落内にあるオーレーウドゥンの火神の祠と内部

▲祠の内部に二基のガーナー位牌ある ▲阿応理屋恵の勾玉(歴文所蔵)
今帰仁阿応理屋恵に関する資料を引っ張りだしてみた。祭祀そのものは出ていないが、印判(辞令)の発給や知行地を賜り、廃止、復活したことは確認できる。聞得大君が100石~500石賜っているのに対し今帰仁阿応理屋恵は22石余なので、三十三君の一人ではあるが、1700年代には格下げされていたようだ。ガーナー位牌の一基に「順治十五年戊戌六月二拾九日去」(1658年)とあり、今帰仁按司(監守)六世縄祖の位牌である。
『女官御双紙』
一 今帰仁あふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ
今帰仁あふりやいより御様子有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみお
みのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田門よりよしうて按司下庫裡に控居
大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉貫一封作事
あむしられ御取次にておしあけ申按司御坐敷御呼めしよわれハよろしろちへ美待拝申
天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司かなし
よりおしあけめしよわる相済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌給御規式相済按司御
座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申相済みはい御暇气大勢頭部御取次にてみ
おミのけておれ申
一 同時御印判ハセと親雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ持来らる首里あむしられよりミ
はいの時早朝今帰仁あふりやいへ上申
今帰仁あふりやゑの1701年の知行高は以下の通りである。
地方高 田方六石ニ斗一升三合三勺四才 (与那嶺按司朝隣夫人)
畑方十六石五升九合三勺六才 (与那嶺按司朝隣夫人)
俸 米 二石(米一石 雑石一石)
倅 者 二
宮城栄昌氏は今帰仁阿応理屋恵について『沖縄ノロの研究』(422頁)で、
「三山分立時代山北の最高神女であった「あふりやゑ」の後を継承した第二尚氏王統時代
の今帰仁あふりやゑは、山北監守が首里に移った一六六五年以後は知行地も今帰仁間
切に給せられ、地方ノロ的存在と化した。一七〇一年に就任した与那嶺按司朝隣夫人のこ
の石高・・・(略)・・・一七三一年に廃止された。廃止しても前任関係者があふりやゑ御殿を
管理して祭祀を継続していたので、一七六八年六月に至り、今帰仁親泊村兼次親雲上の女
蒲戸を任命し、三十三君の一人として復活した」
とある。そのあたりの流れは、もう少し資料を吟味してみる必要がありそう(要調査確認)。
2005.02.03(木)
午前中和歌山県上富田町の議員さんが研修で今帰仁村へ。世界遺産の件もあったので役場職員と共に今帰仁グスクまで。桜は全体としては来週あたりが見ごろかな。木によっては七分咲きのもあります。
今日は天気も回復し、外は暖かい日和。寒い地域から「桜まだか、まだかの挨拶!」軽い運動兼ねて、グスクの桜の様子を見てきました。私は蕾が膨らんだ今頃が好き。

▲正門あたりの桜の様子 ▲グスク内は大部咲いています
【今帰仁阿応理屋恵の祭祀の復元】
今帰仁阿応理屋恵の継承についていくつか研究があるが、その継承もまだ不明の部分が多い。ましてや今帰仁阿応理屋恵の祭祀については皆目わからない。残念なことに今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期に『琉球国由来記』(1713年)に編集されているので、阿応理屋恵の祭祀の記録がほとんどない。
辛うじてあるのが『琉球国由来記』(1713年)における阿応理屋恵按司火神(親泊村)の記録である。
阿応理屋恵按司火神 親泊村
麦稲四祭之時、仙香、肴一器、蕃署神酒一完(百姓)
大折目・柴指・芋ナイ折目之時、仙香、花米五合完、五水二合完、肴一器(百姓)供之。
同巫・居神、馳走也
とあるが、同巫は今帰仁阿応理屋恵の可能性もあるが、流れから見ると同巫は今帰仁巫の可能性もある。他の今帰仁グスク内での祭祀は今帰仁巫の祭祀となっている。
今帰仁グスク内の今帰仁里主所火神、グスクの近くにあるコバウノ御嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀ではなかったかと考えている。今帰仁阿応理屋恵の祭祀は消えてしまっているので久米島の君南風の祭祀からいくらか復元が可能ではないか。そんな期待を持っている。まだ、見通しはまったくナシ
『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)や『久米のきみはゑ五〇〇年』(久米島自然文化センター)で「久米島の君南風」の二枚の辞令書が紹介されている(鎌倉芳太郎ノート)。今帰仁阿応理屋恵にも
辞令(印判)の発給がなされているが、その現物や辞令の写しなどは確認されていない。久米島の君南風と同様な内容に違いない。
①君南風の大阿母知行安堵辞令書(1566年)
しよりの御ミ事
くめのくしかわまきりの
にしめのうちま人ちもとハ
あまかちの内より
一かりや三おつかたに六十九まし
ひらちしやはる又□□□はるともニ
又七十ぬき〔ちはた〕け□〔おほ〕そ
はゑはる又はなうはる?
〔又〕おち□□〔はる〕〔又〕□□はるともニ
このちのわくそ□この大あむかめはたまてハ
御ゆるしめされ候
一人きミはいの大あむに
たまわり申〔候〕
しよりよりきミはいの大あむか方へまいる
嘉靖四十五年十月八日
②君南風の大阿母知行安堵辞令書(1595年)
しよりの御ミ事
くめのくしかわまきりの
あらかきちもとのきミはいの
大あむかのろち
一 せちよくたに十四ましこミなとはる
又 十にきちたけ□〔おほそ〕
きし□□□
このちの□□かり(しまくにの人の?)〔て〕ま
つかいハ御きんせい(にて)候
一人きミはいの大あむに
あまわり申〔候〕
しよりのきミはいの大あむか方へまいる
万暦二十三年正月十二日
今帰仁按司(監守:阿応理屋恵)が首里に引き揚げる1665年まで
今帰仁間切(今の本部町含む)の番所は今帰仁グスク内にあった?!
今帰仁間切から伊野波(本部)間切が分割されると今帰仁間切は運天に、本部間切は渡久地に番所が置かれた。
(工事中)
2005.02.02(水)
・午前中兼次小学校の3年生に「道具を使って」の勉強
・新潟県新潟大学付属中学校2年渡辺くん(外6名:午前中)
久米島のグスクは伊敷索グスク→具志川グスクあるは宇江グスクの順に回った方が理解しやすいかも。麓に兼城泊や唐船グムイがある。
【伊敷索グスク】のメモ書き
久米島のグスクを整理しているが、今日は「伊敷索グスク」のこと。具志川村(現在久米島町)嘉手苅にあるグスクである。嘉手苅村は乾隆11年(1746)に仲里間切から具志川間切へ編入された村である。伊敷索グスク内の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)では儀間村の拝所で儀間ノロの管轄である。
伊敷索グスクの崖下を白瀬川が流れている。グスクの形は長方形(正面は直線で白瀬川沿いは崖)をなし、他のグスクとは異なった感がある。正面の直線的になった石積みは地形によるものか?興味深い。意識して直線にしたのなら、なお個性あるグスクである。久米島の具志川グスクや宇江グスクもそうであるが伊敷索グスクも尚真王の征伐で滅ぼされたという。
この伊敷索グスクについて、
『具志川間切旧記』(1703年)は
長男は中城(仲里城)按司
次男は具志川按司
長女は兼城大屋子の妻
次女は照真の妻
腹違いの三男笠末若茶良の母は粟国島出身
とあり、また『琉球国由来記』(1713年)では、
伊敷索按司には四人の子があり、それぞれが兼城村の屋敷、宇江城、
具志川城・登武那覇城を拠点として各地を統治していたが、尚真王によ
る久米島征伐で滅ぼされた。
とある。二つの記録は、史実として解するには府に落ちないところが大である。別資料で見ていく必要がありそうだ(要調査)。
▲伊敷索グスクから白瀬川を望む ▲グスク内で行なわれた祭祀の跡
2005.02.01(火)
2月となりました。今月は体調を整えるため館内や机上の業務中心となりそう。回復次第飛び出す準備でもしましょうかね。「心配して損した!」の声があちこちから。すみません。
立ち止まると考え込み、ふさぎ込んでしまいます。それから立ち上がるのに時間がかかります。そして恐ろしい。楽しく業務をし、停滞させないためにも、おじい歩きではあるが歩きます。よろしく。
(久米島ノート)
久米島の主なグスクに具志川グスク・宇江グスク・伊敷索グスク・登武那覇グスクなどがある。16世紀初頭尚真王の一軍に討伐されるまで、島内にグスクが割拠していた様子が伺える。グスクを築くことは、久米島内での按司同士が競い合わなければならない状況にあったのであろう。その様子は沖縄本島で北山・中山・南山の鼎立があるが、さらに中規模あるいは小規模のグスク間で争いがあったことが想定できる。
【久米島宇江グスク】
久米島の宇江グスクは中グスクや仲里グスクともいう。標高309.5mの宇江岳にあるグスク。そのグスクと関わる集落は中城・城・堂・仲里。城・堂・仲里の三つの集落が一つになって宇江城村になったという(『久米仲里旧記』)。
・大城城にグスクを築こうとしていた
・中城御嶽のある岳は水の便がある
・要害であり、グスクに適している
・中城御嶽の神は比嘉岳へ遷す
・石工のムクチ樽ガネに普請させ築かせる
【宇江グスクと集落】
宇江グスクは仲里村(現在久米島町)の宇江城にある。グスクの麓にあった城・堂・仲里の三つの集落との関わりはどうだろうか。もう少し史料の整理が必要。ここでも具志川グスク同様、グスク築城の過程が見えてくる。
当初から別の場所(大城)にグスクを形成しようとした。ところが、水の便や要塞とするに適した場所として選んでいる。具志川グスクもそうであったが、その場所が御嶽であったということグスクを考える視点として重要なことである。それは集落の形成が先か、グスクができて集落が形成されるかの議論につながるからである。ときどき、山原のグスクを議論するとき、「城壁の石垣を取り払ったら何が残るか。御嶽ではないのか」と問う場合がある。
(工事中)

▲宇江岳に築かれた宇江グスク遠景 ▲宇江グスクの城壁