2004年7月調査研究
沖縄の地域調査研究(もくじへ)
2004.7.30(金)
た。今日から復帰です。お悔みのお言葉や思い、ありがとうございます。この場をかりて御礼申し上げます。(全く個人的なことですが・・・)
父は92年の人生を生き抜き、天寿をまっとうしたと思っています。戦前(30年)・戦後(30年)・復帰後の30年の三つの時代を生き抜いたと思っています。ときどき戦前、戦後の「生き字引」としてきました。私がプライベートを放棄した生活を続けてきたので、父は最後をみとってくれるのかどうか気にかけていました。そのこともあって、昨年の10月あたりから、父の体調を見ながらの遠出や仕事でした。最後をみとることはできました。しばらく、この動きもゆるやかな動きとなります。
「今日は月曜日だな。国頭か?本部か?どこにいくのか?早く行け!」「今日は水曜日か。仕事だな。早く行け!」「今日は早いな。行かなかったのか」の会話が度々。この「動き」に貢献してくれた一人でした。公にしたものに質問したりアドバイスしたりするよき読者の一人でもありました。
書き込みをしようとしたら「失ったものと得たものの大きさ」を実感しています。感謝。合掌
三時から名護市立源河小学校の先生方が来館。「冷たいところ(古宇利)から来られたので暑いでしょう」の一言からスタート。一時間近くの案内。学校のある源河につないでの話。源河ウェーキなど。なぜ、グスクから中国製の陶磁器が大量に出土するのか。沖縄のグスクは「丘陵地に造られ、丘陵地で終わる」ことなどなど。お疲れさん。
⑱根謝銘グスクと御嶽(ウタキ)
根謝銘グスクは別名ウイグスクと呼ばれ、『海東諸国紀』(1472年)の琉球国之図で「国頭城」と出てくる。そのため国頭城は根謝銘グスクと想定されたりする。このグスクはグスクと御嶽の関係をしる手掛かりを持っている。グスクが先か御嶽が先かの議論。
根謝銘グスクは大宜味村字謝名城にあるグスクである。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割してできた間切である。間切分割以前の国頭間切(大宜味間切の大半を含む)の拠点となったグスクと見られる。国頭按司の首里への移り住みや間切分割で大宜味間切地内になったり複雑である。根謝銘グスクは大宜味間切内の根謝銘村に位置する(明治36年以降謝名城)。
杜全体が根謝銘グスク(ウイグスク)である。杜全体を御嶽(ウタキ)と見なすと、根謝銘グスク内にウフグスクとナカグスクの二つのグスクがあるが、それは一つのウタキにイベが二つある御嶽と見た方がよさそうである。ナカグスクとウフグスクはグスクと呼んでいるがそこは御嶽のイベに相当する位置にある。
杜全体が御嶽(グスク)で、御嶽(グスク)の中に二つのイベがあると考えた方がいいのではないか。そのパターンは今帰仁グスクも同様である。今帰仁グスクを含めて、もう一度整理してみる必要がある。
(工事中なり)
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▲屋嘉比港からみた根謝銘グスク ▲グスク上り口のウドゥンニーズとトゥンチニーズ
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▲グスクの上り口から今帰仁グスク方面をのぞむ ▲グスク内のウフグスク(イベ)
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▲グスク内のナカグスク(イベ) ▲グスク内にある神アサギ
2004.7.27(火)
(うしまる)
本来ならこのコーナーは、仲原館長の調査・研究の報告をするところですが、本日は館長に代わって急きょ、私の方でお知らせを申し上げます。
新聞でお知りになった方も多いことと存じますが、館長のお父上の仲原武一さんが、昨日の朝、お亡くなりになりました。享年92歳でした。
仲原のお父さんは、警察官でした。とてもやさしい、お巡りさんだったようです。調査に行くと「謝名の仲原さんと言ったら、仲原巡査のとこね~? 昔よくお世話になったよ」という声をよく聞きました。
またお父さんは牛を養い、畑もやっていらっしゃいました。朝早くから、夜遅くまで、一生懸命働く方でした。80歳過ぎても、牛を飼っていらっしゃいました。
とても気骨があり、そして礼儀正しい、やさしいお父さんでした。色々な思い出が頭をよぎり、胸が一杯です。
月曜日の休館日にその日を定められたのも、毎日病院で寄り添っていた息子である館長の仕事を気遣ってのことのようにも思えてなりません。
仲原のお父さんに心からの感謝を込めつつ、ご冥福をお祈りいたします。
石野 裕子
2004年7月.25日(日)
月曜日は休館です。詰めの仕事あり。骨休みはできるかな?!
⑯国頭村辺戸の安須森(アスムイ)
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。
『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
・シチャラ嶽 神名:スデル御イベ
・アフリ嶽 神名:カンナカナノ御イベ
・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ
アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。
アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れるの王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。
宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」
の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。
首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。
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▲辺戸岬から見た安須森 ▲辺戸の集落から見た安須森
⑰辺戸のシチャラ嶽
『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。
(工事中)
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▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽) ▲御嶽のイビヌメーだとみられる
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▲御嶽の頂上部にあるイベ ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある
2004年7月24日(土)
小学6年生総合学習で二グループ来館。一時間ばかり分担の時代のレクチャー。
⑮今帰仁村古宇利島の御嶽(ウタキ)
古宇利島は今帰仁村村にある離島である。この島に七森七嶽(ナナムイナナタキがある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる古宇利(郡)島の御嶽は次の三つである。
・中 嶽 神名:ナカモリノ御イベ (現在のナカムイヌ御嶽)
・サウ嶽御イベ (神名不伝) (現在のソウヌ御嶽)
・カマニシ嶽御イベ(神名不伝) (現在のハマンシヌ御嶽)
『琉球国由来記』に記載のないのがマーハグチヌ・プトゥキヌメーヌ・ハマンシヌ・マチヂヌの四御嶽である(郡巫の崇所の所に誤記があるのでそこは注意)。御嶽の議論をするとき、どの御嶽かを特定して論を展開する必要がありそう。
▲古宇利島の七森七嶽の位置
島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。
古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。
古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。
古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。ソウヌ御嶽のイビは未確認である。
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御嶽(ウタキ)名と概要 |
現在の御嶽の様子 |
ナカムイヌ御嶽 |
古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる |
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マチヂヌ御嶽 |
古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。(画像古宇利掟提供) |
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マ|ハグチヌ御嶽 |
最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。 |
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トゥンガヌ御嶽 |
道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。 |
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ソ|ヌ御嶽 |
古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。 |
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プトゥキヌメ|ヌ御嶽 |
島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。 |
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ハマンシヌ御嶽 |
一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。 |
2004.7.23(金)
多忙中!(県教育長会:講演 今帰仁グスクを中心としたあれこれ!)
2004.7.22(木)
国頭村比地に二つの御嶽がある。『琉球国由来記』(1713年)の国頭間切比地村に三つの御嶽がある。現在呼ばれている( )に想定できそうである。
・幸地嶽 神名:アカシニヤノ御イベ(現在のイビヌタキ)
・キンナ嶽 神名:中森ノ御イベ (現在の中の宮)
・小玉森 神名:アマオレノ御イベ (現在のアサギ森)
⑬国頭村比地の御嶽(幸地嶽・キンナ嶽)
『琉球国由来記』(1713年)で幸地嶽としてあるのは、一帯はウチバルと呼ばれている。ウチバルは河内(こうち)原の「こ」が脱落した呼び方で、カワチに幸地と漢字を充てたのであろう。幸地嶽は河内原にある御嶽ということになる。イビヌウタキと呼ばれている杜全体が幸地御嶽とみることができる。
現在イビヌウタキと呼ばれている場所に祠があるが幸地御嶽のイビに相当すると考えていい。そしてキンナ嶽は「中の宮」と呼ばれているが、中の宮は『由来記』の神名中森ノ御イベからきたもので、中ノ嶽とも呼ばれている。幸地嶽と中の宮の関係は幸地森全体が御嶽で、イビヌウタキがイビ、そして中の宮がイビヌメー(イベの前)に相当する。今帰仁村今泊のクボウの御嶽の構造とよくにている。村人達は中の宮に集まり、イビへは神人のみ上っていく。イビで祈りをした神人はドラを敲いて下で待機している人たちに合図をしたという。
中の宮(イビヌメー)の中にある香炉と国頭王子(正秀)の石燈籠に、この御嶽の性格が読み取れそうである。比地村の御嶽(小玉杜)と性格を異にした御嶽である。ここで関心を持っているのは石燈籠の銘や香炉とイビヌメーヌ嶽付近から出土したという鏡や鉦皷などである(『沖縄の古代部落マキョの研究』所収325頁)。按司や王子クラスの御嶽と見てよさそうでる。特に按司や王子などの薩摩や唐旅に関わる航海安全に関わる御嶽とみることができそうである。
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▲イビヌタキ(幸地嶽のことか) ▲中の宮(キンナ嶽・中森のことか)
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▲中の宮の中にある10基余の香炉 ▲国頭王子の銘のある燈籠
⑭国頭村比地村の御嶽(小玉森)
国頭村比地の小玉森(ウタキ)は興味深くみてきた。アサギムイともいい、『琉球国由来記』の小玉森は「クダの杜(ウタキ)」のことではないか。クダはマクやマキヨ同様、小規模の集落のこと。マは間で広場や空間のこと。するとクダマ(小玉)杜はクダの広場の杜、つまりウタキのことだと解することができる。まさに集落の発生と関わるウタキである。
これまで調査したウンジャミや神アサギもあるが、ウンジャミのとき、それぞれの一門が赤木や福木の大木の下に香炉を置き、一族がその前に集まり線香をたてる。その風景は比地村は複数の集団からなる村ではないか。マク・マキヨクラスの集団が一つの村を形成し、神人はそれぞれの一族から出してきた姿ではないか。
神アサギの中に座っている神人達は、一門からだされた供え物がお土産として持ち帰る。それは神人達の報酬である。その姿は、かつての神人たちの報酬の受け取りの場面であったにちがいない。一族一門が繁盛すれば、報酬が多くなる計算である。祈りのときの唱えに「村(ムラ)の繁盛」があるのは神人の報酬につながっていた。
森全体がウタキでウタキの中に一門一族のイビがあり、神アサギもある。周りに旧家とみられる神屋が何軒かある。ウタキの中に家々があり、斜面にもシマンポーヤー・根神屋跡がある。比地の集落ははウタキの内部から斜面にかけてあったのが、次第に麓に移動していったとみられる。集落とウタキが密接に結びついていたことがわかる。集落の発生と村の成立で、神人は一門から出していく形で継承されてきている。
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▲国頭村比地の小玉森(ウタキ) ▲ウタキ内にある神アサギ(平成15年)
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▲それぞれのイビに一門が集まる ▲福木や赤木の大木の下に香炉が
2004年7月.21日(水)
昨日は大宜味村の根謝銘グスク(別名ウイグスク)と国頭村の比地の二つの御嶽(ウタキ)と最北端の辺戸の村の御嶽と安須森(国クラスの御嶽)までゆく。比地のイビヌタキと中の宮が、村の御嶽というより按司クラスの御嶽の性格を持っているようだ(詳細については別報告)。
国頭地域の御嶽を踏査していると、村レベルの御嶽と国や按司クラスの御嶽が混在していることに気づく。村(ムラ)の御嶽と国や按司クラスの御嶽と区別して考える必要がありそうである。按司や脇地頭と関わる御嶽は主に航海安全、そして首里に住んでいて役地の祭祀との関わりで御嶽を置いている例がある。それらを理解するために「国頭の歴史」を十分把握する必要がありそう。複雑にしているのは間切の分割や番所の移動や大宜味間切との村の組み換えなど。さらに間切分割で国頭地域のグスク(根謝銘グスク)が国頭間切ではなく大宜味間切の地(さらに村の合併)にあること。そのことがあって惣地頭や按司の領地の拠点が時代によって違っているため、1673年以前・以後なのか、番所はどこにあったのかなど、合わせ見て考える必要がある。
一言でそうだという答えがないところがなかなか面白い。現場に立ったとき、御嶽の性格がよく見えてくる(ただし、御嶽は一言で何かという発想や視点ではどうだろうか)。中南部の御嶽やグスクを見ていくと、これまでの発想がもろとも崩れるかもしれない。それがまたもっと面白い。
⑫集落移動の村と御嶽(ウタキ)―羽地間切仲尾村の事例―
仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたのかがテーマである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、同丘陵地の向って右側は親川グスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。
仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認めれた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やカーなどが今でも遺っている。
集落は移動したが御嶽(ヒチグスク)は新しく設けることなく、また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギなどに、かつての集落跡を確認することしかできない。
『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。そのことを示すように天啓二年(1622年)の辞令書があり、仲尾ノロは「大のろくもひ」と呼ばれている(『かんてな誌』43頁所収。仲尾ノロに関する明治の史料があるが省略)。
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▲羽地間切仲尾村のヒチグスク(現名護市) ▲道光15年ここ勘手納に集落を移動
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▲集落のあった半田原に神アサギがある。 ▲故地にある仲尾ヌルドゥンチ跡
首里乃御ミ事 |
2004年7月18日(日)
19日(月)・20日(火)は休館となります。御嶽踏査や企画展など、あれこれあり。休日が怖くなります。
午前中、来客あり。運天がテーマ。中世の研究者なので「源為朝と琉球」が気になっていたのかもれない。勝手に為朝公上陸後、しばらく住み着いたというテラガマ。運天森の為朝公上陸跡之碑と運天集落。今帰仁グスクと関わる百按司墓と大北墓など。上間商店でソバとゼンザイ。その後、乙羽岳と今帰仁グスクまで。今帰仁グスクは先日やった名桜大学の授業の引率できたS講師。
乙羽岳で古宇利島を眺めていたら、進めなければならない「企画展―古宇利」と『古宇利誌』の校正と編集をスタートすることを決意するなり。のんびりいい景色を眺めに行ったのであるが、次の仕事に火をつけるはめになった。そうしないと動きません。早速、企画展―古宇利島―の展示項目をあげてみた。ご参考まで。特に広島や金沢にいる学芸員実習の学生達は目を通しておくこと。もちろん沖縄にいる学生達もです。ハイ
⑪移動した村と御嶽(ウタキ)
「移動村の御嶽(ウタキ)」については、④天底(1719年移動)を事例として紹介した。今朝立ち寄った羽地間切呉我村(現在名護市)も移動村の一例である。その呉我村が移動した地で御嶽をどう設置したのか。呉我は村移転200年や250年の記念祭を行い碑を建立している。
呉我は『琉球国高究帳』(1640年代)では今帰仁間切ごが村と出てくる。1713年の『琉球国由来記』では羽地間切呉我村として登場することから、羽地間切の村となったのは1690年頃だと考えている。現在地への村の移動は1736年であるから呉我山における御嶽と神名である。呉河之嶽 神名:イタオエクチワカ御イベとある。現在の御嶽のイベに同様に刻銘されている。
1736年に現在の今帰仁村呉我山地内にあった呉我村(この時は、羽地間切の内)が移転した。呉我・振慶名・我部・松田・桃原の五つの村が蔡温の山林政策で移動させられた。それは山林政策だけでなく、呉我は羽地大川下流域の開拓が狙いだったにちがいない。奈佐田川とフアマタガー(旧羽地大川)とが合流する一帯は呉我・古我知・我祖河の田が入り組んであった。呉我の村移動は、そのような未開拓地があったから移動が許されたのである(風水がどうかの前に)。
ここでのテーマは移動した村が御嶽をどうつくったかである。それと御嶽をつくる場合故地に向っているのかどうか。近世の移動村は御嶽をつくり、祭祀を継承している。御嶽の向きは必ずしも故地に向けていない。杜を御嶽とし高いところにイベを設けてある。呉我は麓に神アサギがある。アサギとセットで他の拝所の火神を祭ってある。稲穂が祭ってあった。イビの前に香炉が置かれ、その後方から急な坂の小道が御嶽のイベまでつながっている。村が移動すると新地で御嶽や神アサギをつくり、祭祀をしっかり継承している。因みに呉我は『琉球国由来記』以後、村移動があったが我部ノロの管轄の移動はなかった。
呉我村は我祖河村や古我知村地内に移転しており、呉我村に前の二か村の墓がある。呉我港と呼ぶところは、古我知港と呼ばれていた。呉我の耕作地(田畑)は集落の後方のウフェーを越えた旧羽地大川流域に広がる。
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▲呉我村250年と200年移転の記念碑 ▲呉我の御嶽からみた現在の集落
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▲後方の杜が御嶽、中央部が神アサギ ▲御嶽の頂上部にあるイベ
2004.7.17(土)
この頃、御嶽に立ち寄って出勤することが続いている。まっすぐ仕事場に向うのであるが、途中御嶽のことが頭を駆け巡り、頭の中を駆け巡った御嶽についつい立ち寄ってくる。今日こそは、まっすぐ・・・と思いつつ。だが、今日は勢理客の御嶽とノロと間切役人のことが次々と・・・。以前はカー(湧泉)だったような。ハー
⑩勢理客の御嶽(ウタキ)と集落
勢理客は「おもろ」で「せりかく」と謡われ、名高いノロを出した村(ムラ)である。御嶽(ウタキ)―神アサギ―集落をつなぐ軸線をはっきりと見せる村(ムラ)の一つである。御嶽を中心とした集落の成り立ちと村を統括する役人の動きと首里王府、そして祭祀を司るノロを通して王府との関係をしる手掛かりを与えてくれる村である。
勢理客の集落の後方にウガミ(御嶽)があり、その前方に神アサギやヌルドゥンチ跡、さらに湧泉(カー)があり、周辺に集落が発達している。さらに下方の方にいくと、かつての水田地帯である。御嶽は個にあるのではなく、そこに住んでいる人や集落との関わりで存在する。御嶽は村を統括したり、そして王府とはノロを要とした祭祀で結びつき、村を統治していく間切役人の任命などで結びついている。その最大の関わりはやはりからの貢租である。
御嶽の中のイビに二基の香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋」がある。もしかしたら、スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである(要確認)。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つに航海安全があることがしれる。
ヌルドゥンチ内にあるワラザンは、ノロへの貢物や出夫などの出納簿や出席簿である。祭祀を介してノロと村人との関わりがしれる。勢理客ノロはシマセンコノロとも呼ばれ、『琉球国由来記』(1713年)では島センク巫と記される。勢理客ノロが管轄する村は勢理客・上運天・運天の三カ村である。ところが、1738年に創設された湧川の祭祀にも関わっている。湧川村は湧川ノロを出しているにも関わらず・・・。それは湧川にあるヒチャヌアサギ(下のアサギ:別名奥間アサギ)と関係する。奥間アサギは一般的な神アサギではなく火神が祭ってあり奥間屋の家跡である。
その奥間屋は勢理客ノロ(大城家)を出す家である。1736年まで湧川地内に我部村と松田村などの村があった。そこは最初今帰仁間切地内、1690年頃羽地間切へ。1738年に再び今帰仁間切の地となる(間切の方切や村移動、村の新設など複雑に動く)。勢理客ノロが湧川の祭祀の一部に関わるのは奥間神アサギは奥間家跡である。勢理客ノロ家の先祖は今帰仁間切(1690年頃以降羽地間切)我部村出身である。
羽地間切我部村の時代、羽地間切の役人(南風掟:奥間親雲上)を勤めていたとき、羽地間切の地頭代の立川親雲上が犯罪を起こし流刑にされる事件があった。その責任をとって奥間親雲上も辞め、今帰仁間切勢理客村へ移った。そこで今帰仁間切の首里大屋子となり地頭代まで勤めた。位牌には島スンコノロクモイ(康煕6年:1667)が出ており、ここでもヌンドゥルチ家の男方は何名も間切役人を出している。湧川の奥間神アサギ(奥間家の火神)での祭祀(フプユミとワラビミチ)に勢理客ノロも参加するが、管轄村のノロの役目ではなく一門(奥間家)の神人として、奥間家で行われる祭祀としての参加とみなした方がいい(詳細は別報告)。勢理客ノロは我部の神人と別れて、勢理客・上運天・運天の順序で回っていく。
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▲中央部の杜が勢理客のウガミ(御嶽) ▲ウガミ(御嶽)入口の鳥居
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▲ウガミ(御嶽)の中のイベ(香炉が二基) ▲勢理客の神アサギ(ウガミに向って拝む)
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▲アサギの側にある勢理客ノロドゥンチ跡 ▲内部にあるワラザン
2004.7.16(木)
沖縄の村(ムラ)を見ていくとき、『琉球国由来記』(1713年)の村や神アシアゲや御嶽などの確認をする。それは1700年頃から2000年の約300年近い歳月で、由来記にある村や神アシアゲや祭祀がどう変貌しているかの確認でもある。その中の特に山原の「神アシアゲ」はそのほとんどが今に伝えている。明治から現在まで大きく変貌する中で、300年という歳月で9割以上残っているのは、確固たる史料がなくても、歴史を読み取っていく上で無視できないものがある。仲宗根村が明治41年に字仲宗根なり、小さな集落がマチとして発達していくが、近世から継承されてきた御嶽や神アサギやカーなど祭祀に関わる空間も形として遺し続けている。執り行う神人の継承がほとんどなされることなく消えつつある。
1700年以前の移り変わりの緩やかな時代ならば、現在まで激動の中の300年で残っているのは、変貌の緩やかな1700年より300年前にはすでにあったのではないか。少なくとも1700年から200年は遡っていいのではないかと考えている。仲松先生も「古層の村」として祭祀や御嶽や神アサギやマキ・マク・マキヨ(小集落)などの視点で見ている。
『琉球国由来記』(1713年)を利用するのは、その記事に1609年以前の王府の統治の姿が反映していると考えている。仲宗根村の祭祀に中(仲)宗根地頭(脇地頭)が祭祀に出席している。それは、首里に住む役人と村(領村)との関係を示すものである。つまり仲宗根地頭は仲宗根村を「あつかい村」として何がしの貢租を受け取っている関係にあったのであろう。そのために祭祀になると、わざわざ首里から「あつかい村」の祭祀に参加している。
地頭あるいは脇地頭は地頭地から給与として上納を受けていた。『法式』(1697)で地頭が「あつかい村」に行って迷惑jかけないようにの達(たっし)が出ているようであるが、明治6年調査の『琉球藩雑記』にみると、「領地 今帰仁間切仲宗根村作得四石余」とあり脇地頭仲宗根親雲上は四石余りの作得をもらっている。このように『琉球国由来記』の記事は、歴史を紐解く手掛かりとなる史料でもある。
⑨仲宗根のマチと御嶽(ウタキ)
仲宗根は現在マチとして発達しているが、ウタキ(グシクという)を背にした集落である。明治30年頃大井川に一本の橋が架かったことで、上流部の寒水村にあった質屋や店が仲宗根の前田原に移動し、その後プンジャーマチと発達した。それまでの仲宗根の集落はウタキ(グシクという)を背景にしたムラウチがもとの集落である。ムラウチから分かれたのがターバルの集落である。前田原一帯にマチが発達していくが、ムラウチを中心とした集落、神アサギやシシウドゥンなどの拝所はそのまま継承されている。グシクにはお宮がつくられ、中にイビが祭られている。
『琉球国由来記』(1713年)に中(仲)宗根村に御嶽はないが神アシアゲはある。祭祀に参加するのは掟・百姓・巫(ノロ)・掟神・中宗根地頭である。中(仲)宗根地頭は脇地頭で基本的に首里居住で祭祀のときにやってきたのであろう。仲宗根の祭祀は玉城巫の管轄である。
『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃)に仲宗根村の御嶽を百喜名嶽を村の御嶽としている。玉城村にも百喜名嶽とあることから、スムチナ御嶽をさしている。スムチナ御嶽は村々の御嶽というより玉城・謝名・平敷・仲宗根の四村の御嶽である。明治のこの資料で仲宗根村の御嶽として扱っている(スムチナ御嶽は村の御嶽とは性格が異なる)。(画像は今朝の仲宗根の様子なり)
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▲後方の緑地の杜が仲宗根のウタキ(グスク) ▲グスク(お宮)からマチを望む
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▲神アサギとシシウドゥン(後方) ▲お宮(本来は御嶽)
仲宗根のマチ展開
仲宗根のマチの展開を図で説明すると、まずグスク(お宮)の杜(ウタキ)を背に集落が発達する。ムラウチと呼ばれ、古層の村の原型をなしている。近世になるとムラウチから分家筋がターバル一帯に集落を形成する。1700年代へのターバルへの集落の形成は人口の増加と、大井川流域の開拓にあると考えている。1719年本部間切の天底村が今帰仁間切への村移動がある。天底村の集落は台地上への移動であるが、天底の地番が仲宗根と勢理客との間に細長く割り込んでいる。大井川流域の水田開拓と仲宗根のムラウチから分離する形で形成されたターバルと村移動をしてきた天底村の割り込みと時期を同じくしているのではないか。
明治30年代に大井川橋の架設がある。山岳から大井川橋までをミーミチ(新道)と呼ばれ、ミーミチ沿いにマチが鍛冶屋や商店などが並んでいった。また、大井川上流部の寒水村にあったマチが、橋の開通で仲宗根の前田原一帯に質屋や市場や魚店などが移動する。ミーミチ沿いから前田原にかけて仲宗根のマチが発達していった。今でもムラウチ・ターバル・ミーミチ・プルマチなどの地名にマチの歴史を読み取ることができる。マチとして展開するが、ムラウチには村の人たちが拠り所としてグスク(御嶽)やお宮など、形に遺せるものは残している。
2004.7.14(水)
目まぐるしく動いているため、書き込みできない状態が続いています。それと目を真っ赤にして編集と校正作業にかかっています。今日の山場を越すことができれば、攻めに入ります。攻めに入ると一気にいきます。座っての仕事は性にあいません。
では、しばらく。とは言っても明日ぐらいまでかな。
2004.7.11(日)
(工事中)
⑧創設村と御嶽(ウタキ)―創設された湧川村と御嶽―
近世から明治36年までに創設された村を対象にしている。創設村もいろいろある。一つの村から移動と同時に二つの村が創設されたり、あるいはいくつかの村を移して、そこに村を新しく創設した村もある。ここでは1736年に呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地間切へ移して、そこに1738年に新しく創設されたのが湧川村である。その頃新設された村は御嶽や神アサギをつくりノロが置いてある。創設村に、なぜ御嶽や神アサギやノロや神人を置く必要あったのか。
御嶽や神アサギを設けなければならない理由は、土地制度や祭祀そのものが村を統治していく要となっていたことによる。ノロも土地制度で土地の配分があるなど、恩恵をこうむることもある。また祭祀は村人にとって休息日である。そのために祭祀を行うことを必要としたと見るべきであろう。村を新設することは、首里王府にすれば当然のごとく租税をより効率的にとることができる。
大正から昭和の15年にかけて分字(アザ)したところは、御嶽や神アサギなどの設置はない。それとは別に鳥居をつくり神社を創設したところがある。神社は御嶽や神アサギなどとは全く歴史を異にしたものでるが、御嶽やグスクなどを日本の神社と同一視して行こうとする流れの遺物である。大正から昭和10年代にかけての分字(アザ)と明治36年の土地整理以前の創設村や分村との比較をすることで、御嶽や祭祀、ノロをはじめとした神人制度を必要とした理由がみえてくる。
1738年に創設された湧川村に御嶽と神アサギ、そしてノロや神人もいる。集落の後方の杜が湧川の御嶽(ウタキ)である。その杜のことをウタキやダキヤマと呼んでいる。ダキヤマは竹山ではなく、ウタキヤマと解した方がよさそうである。ウタキとダキヤマはイビヌメー(イベの前)とイビとを区別して呼んでいるのかもしれない(確認が必要)。
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▲集落の後方の杜が湧川の御嶽 ▲御嶽のイビヌメー
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▲イビヌメーからイビへの道 ▲湧川の御嶽のイビ
2004.7.10(土)
今回の「ムラ・シマ講座」(第12期3回目)は今帰仁村諸志である。諸志の御嶽(植物群落)・神ハサギ(二つ)・フプガー・焚字炉・中城ヌルドゥンチである。詳細については、「ムラ・シマ講座」で報告するとして、諸志は諸喜田村と志慶真村が明治36年に合併した村である(今日の「ムラ・シマ講座」の様子はここから入ると見れます)。
合併した村は御嶽(ウタキ)をどうしたのかがテーマになる。志慶真村は今帰仁ノロ、諸喜田村は中城ノロの管轄村である。ノロの異なる村が合併した時に御嶽(ウタキ)はどうしたのだろうか。「移動・合併村の御嶽」として事例をあげる必要がある。
諸志のこれまでの祭祀の動きをみていると、二つの村が合併したことで祭祀も一つにしていいのではないかとの傾向がある。ところが一つにすることがなかなかできない。二つの神ハサギを一カ所の一つの建物にまとめたことがあるが、再び分けて建ててある(現在)。志慶真村出身の神人は今帰仁グスクで行われる祭祀に参加していた。現在神ハサギが並べて建ててあるが、志慶真の神ハサギを祈る神人がいないので中城ノロが祈っている。志慶真ハサギは中城ノロがやるべきではないとの認識はしっかりと持っている。
諸志の御嶽は諸喜田村の御嶽であり、志慶真村の御嶽は今帰仁グスク付近にあるという(『古層の村』仲松弥秀)。志慶真村の御嶽は未確認であるが、村が移動しても祭祀はもとのノロ管轄のもとで、また以前の場所で行っていた。天底ノロが大正まで伊豆味まで出向いて祭祀を行っていたという。志慶真村も故地で祭祀を行っていた。ノロ管轄を超えて村移動しても祭祀はもとのノロ管轄での祭祀を踏襲する傾向にある。
⑦祭祀を掌るノロと御嶽(ウタキ)―今帰仁間切中城ノロ―
今帰仁間切中城ノロは今帰仁間切の公儀ノロの一人である。他に『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁ノロ・中城ノロ・玉城ノロ・岸本ノロ・勢利客ノロ・郡(古宇利)ノロの6名がいる。後に天底ノロ(移動村)と湧川ノロ(新設村)の出現がある。崎山・仲尾次(中城)・与那嶺・諸喜田(合併して諸志)・兼次の五村の祭祀を掌るのが中城ノロである。
中城ノロ(ヌルドゥンチ)には、戦前まで10枚の辞令書があったことが確認されている。その中の2枚が「中城のろ」の叙任辞令書である。他は大屋子(5枚)と目差(3枚)である。ヌルドゥンチは首里王府任命の公儀ノロを出す家であると同時に、男衆は首里王府から任命される役人を家柄であったことがわかる。神人であるノロは祭祀を通して村々の根神以下の神人を統括していたことがわかる。特に御嶽を中心とした祭祀と関わっている。村々のウタキと神人達が中心となって行われる祭祀と切り離すことのできない。その構造に国の統治の姿が見える。祭祀を仲介をするノロはじめとした神人が村を統治している姿が見えてくる。五穀豊穣・村の繁盛・航海安全を主とした祈りからすると、租税を貢納する関係として祭祀を捉える必要がありそうだ。
しよりの御ミ事
ミやきせんまきりの
中くすくのろハ
もとののろのくわ
一人まうしに
たまわり申し候
しよりよりまうしか方へまいる
万暦三十三年九月十八日(1605年)
首里乃御美事
今帰仁間切之
中城のろハ
□□□□
一人□□に
たまハり申し(候)
隆武八年二月五日(1652年)
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▲中城ヌルドゥンチにある勾玉と水晶玉 ▲同家にある水鳥の三彩(明三彩?)
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▲諸志の川筋の上流部分が諸喜田村の御嶽 ▲ウタキから流れるワータンジャー
2004.7.9(金)
備瀬までゆく。海岸にある休憩場に二人の漁師。海を眺めがらゆったりとタバコをくわえている。ワン公も一緒。二言、三言、言葉を交わしてみた。
「今日漁にでるのですか?」
「波があるからな・・・」
「今頃の漁はなんですか?」
「もずくが終わったところ」
「ウニも採るんですか?」
「ここらではウニ採れないですよ」
⑥移動集落の村と御嶽(ウタキ)―本部町備瀬―
ここでいう「移動集落の村」とは、同村内で集落部分が移動した村のことをいう。現在の備瀬の集落は海岸に近い兼久地にあり、福木並木の中に住宅があることでよく知られている。碁盤状や格子状の集落と言われている。碁盤状の集落は、移動集落である。その時期について定かではない。どこから移動してきたのかが、ここでのテーマ「移動集落の村と御嶽」である。
備瀬の集落の移動は「グスク山と現集落との間」あたりから移動してきたとの伝承がある。御嶽(ウタキ)は集落から約700mほど離れた山手にあるグスクヤマである。備瀬では御嶽のことをグスクと呼んでいる例である。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に「備瀬村・小浜村 城御嶽一ヶ所 □御嶽一ヶ所 神アサギ一ヶ所」とあり、グスクが御嶽としての認識があったことがわかる。グスクヤマ全体が御嶽とみると、内部にイベを祀った祠がある。それとは別にいくつかイベが置かれ、ムラ全体の御嶽のイベではなく、一門のイベとして拝んでいる。御嶽の中にいくつかのイベがある例である。
備瀬の集落移動の時期について仮説を立てている。備瀬の集落移動は1520年代以降、その年代に近い頃ではないかと。沖縄のグスクが機能しなくなるのは、各地のグスクに住んでいた按司を首里に集居させる政策がとられた(その年代について不明)。グスクの按司不在が、グスク周辺にあった集落が移動する低地へと移動していく要因になっているのではないか。今帰仁グスクも1600年代に首里に監守(今帰仁按司)一族が引き上げるとグスク周辺にあった今帰仁村と志慶真村が移動する。他のグスクでは1520年代に首里に移り住むことを考えると、集落移動が早い村ではその時期から始まったのではないか。備瀬の集落移動も1520年代に近い時期からと考えていいと思う。福木の年輪からして400年から500年と言っているのはあながち間違っていないかもしれない。
『琉球国由来記』(1713年)に備瀬村の「アラサケ嶽 神名:マワジノ御イベ」とある。その嶽が備瀬グスク(ウタキ)を指しているのかはっきりしない。備瀬村の祭祀は謝花ノロの管轄である。
御嶽と集落との関係で言えば、備瀬の集落はウタキ(グスク)の内部、あるいはその近くにあったのが、海岸の兼久地に移動している。集落は移動したが同村内での移動なので御嶽は元の場所から移すことはなかった。今でもウタキ(グスク)の中のイベでの祈願がなされている。ウタキ内に複数のイベが置かれているのは、ウタキの発生は小さな一族集団の拠り所にしたのかもしれない(今帰仁村古宇利島の七森七嶽で報告)。
備瀬の御嶽と集落の関係をみると、集落が移動しても御嶽はもとの場所におき、祭祀も御嶽のイベで行っている。同村内での集落移動は御嶽を移すことはなく、グスクやウタキの名称で呼び、祭祀で強く結びついている。
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▲後方の杜が備瀬グスク(御嶽) ▲御嶽の中にあるイベの祠
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▲備瀬の集落内の福木の並木 ▲グスクの下あたりから集落をみる
2004.7.8(木)
一言で御嶽(ウタキ)と呼ばれる祭祀場はいくつか分類して捉える必要がありそうである。集落レベルのウタキ、国レベルのウタキ、ノロ管轄に関わるウタキ、グスクを抱えるウタキなど。ここではノロ管轄(複数村)に伴うウタキの事例として今帰仁間切玉城村にあるスムチナ(コモケナ)御嶽の紹介である。
⑤複数村(ムラ)の御嶽―スムチナ御嶽―
スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の起源と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができそうである。
・玉 城・・・・ウタキ有り(タマグシク)
・謝 名・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
・平 敷・・・・ウタキ有り(ウガン)
・仲宗根・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。
イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。
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▲ウカマに集まった村の人たち ▲ウカマでイビに向って祈りをする神人
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▲スムチナ御嶽のイビ ▲イビにある三基の香炉
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▲イビへの道に左縄が張られる ▲後方の山の少し盛り上がった部分がイベ
2004.7.7(水)
⑤運天の百按司墓の明治の修理
運天の百按司墓は明治になって修復されている。その資料を紹介しましょう。「沖縄県下今帰仁間切白骨埋エイノ件」に関する以下の文書がある。百按司墓の「白骨埋エイ之義ニ付伺」は明治15年2月2日に沖縄県令上杉茂憲県令から内務卿山田顕義宛に提出され、さらに明治15年9月7日に内務卿山田顕義から太政大臣三条実美に提出された文書である。太政大臣の決裁は「伺ノ趣ハ該県庁費用中ヲ流用支弁セシムヘシ」との回答である。その後、百按司墓は修理されているが、「白骨が暴露し風雨にさらされているので堪えない」とのことで文化財的な視点での修理ではなかった。
・白骨埋エイ之儀ニ付伺
・第一付属書「管下今帰仁間切運天港側白骨埋エイ之義ニ付上申」
・第二付属書「今帰仁間切運天港側白骨掩埋費見積書」
・内務省伺沖縄県下白骨埋エイノ義ニ付上申
これらの文書の詳細は掲載できないが、百按司墓が明治15年2月に「見積書」を添えて申請され、明治15年9月7日付けで「伺ノ趣ハ該県庁費中ヲ以テ流用支弁セシムヘシ」とあり、その後明治21年頃に修理されたようだ。百按司墓は明治15年に修理の申請がなされ、すぐ修理されたわけではないようである。明治26年9月運天を訪れた笹森儀助は「番所ノ南、百按司山ニ百按司墓ヲ参拝ス。洞窟ハ数年前、石垣ヘ堊塗(石灰のことか)ニテ堅メ外部ヨリ顕レタル数百ノ髑髏ヲ蔽ヘリ」と述べている。明治26年から数年前とするなら、百按司墓の修復は明治20年頃ということになる(何かに明治21年との記事があったような・・・)。
その時の「見積書」と修理された第一~三墓所が現在どうなっているか画像で紹介しましょう。「見積書」に添付されているのが下の絵である。「見積書」の石垣の修理などからすると、修理前の現状を描いた絵のようである。
▲『沖縄県史』(12巻所収。沖縄県関係各省公文書)より
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一 金四拾円六銭 |
▲第二墓所の外形 |
右 第二墓所石垣高二尺幅四尺此用材一尺二寸角ノ切石三十個 毎固八銭 |
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第三墓所石垣破壊ニ付修繕所高六尺幅二尺中込用 |
2004.7.6(火)
御嶽についてまとめていると、なかなか面白い。今日は「移動した村と御嶽」の事例報告をしましょう。時々、質問があるので使っている言葉のについて説明しておきましょう(時と場合によって微妙なニュアンスの違いで使い分けをすることもある)。
村(ムラ)・・・近世から明治41年まで使ってきた行政単位。
明治41年以降は字(アザ)となる。部落や村落と同意味。
村(ソン)・・・村(ソン)は明治41年に間切から村(ソン)となる。現在の
明治41年に今帰仁間切から今帰仁村(ナキジンソン)と
なる。村(ムラ)は今の字(アザ)のこと。
ムラ・・・・・・・近世以前の村について使っている。行政的な村よりマクや
マキヨなどの単位の集落の呼び方として使っったり、明治
41年以前の村(ムラ)に使う。
移動村・・・・あるいは村移動や村落移動は近世の行政村を飛び越えて
移動した村のこと。
集落移動・・・同じ行政村の内部で集落部分が移動や分離したりしている
場合をさしている。(同村内での移動のこと)
④移動村と御嶽―移動した天底村と御嶽―
ここで移動した村(ムラ)というのは、隣接する村を飛び越えて移動した村をさしている。近世にそのような移動した村に、本部間切から今帰仁間切へ移動した天底村(1719年)や嘉津宇村、今帰仁間切内の志慶真村(17世紀初頭)、1736年の呉我村・振慶名村・我部村・松田村などがある。それらの村が移動したとき、御嶽はどうしたのだろうか。天底村の移動と御嶽について紹介してみる。
1719年に天底村は本部間切の伊豆味村あたりから、現在の今帰仁村天底地内に村を移動した。『球陽』の尚敬王七年(1719年)の条に「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る」と現在の今帰仁村呉我山あった呉我村が羽地間切に移動した(1736年)ので、天底村は呉我村を通り越して現在地に移動したので集落移動の村ではなく「村移動の村」である。
天底村は移動した地で御嶽(ウタキ)をつくっている。御嶽のことをお宮と呼んだりしている。集落の形成をみると高いところに御嶽をつくり、その麓に近いところに神アサギを建て、御嶽の麓にウブガーがある。ウブガーは村が移転してきた当時、最初に使っていたカーだという。神アサギのさらに下の方にアミスガーがあり、ウブガーより水量は豊富である。
神アサギ周辺に天底ノロ家跡や根神ヤー跡などがある。御嶽内の最高部にイベを収めた祠がある。御嶽に入っていくと、階段があるがそこに左縄を張り、そこから内側は神人達の世界である。タキヌウガンのとき(旧暦の4月14日か15日)、村の人たちは階段の前までいき、そこで祈願をする。神人達はイベのある祠までいく。
移動村である天底をみると、村が移動してもウタキをつくる。ウタキの向きは高い杜の頂上部に向けてイベをつくる。必ずしも故地に向けて御嶽を設けていないことがわかる。村が移動すると高いところに向けてウタキをつくる習性があるようだ。天底に名前のわからない祠がある。向きは故地の伊豆味あたりに向いているので、その拝所は「お通し」なのかもしれない。
「移動村と御嶽」のことで言えば、村が移動したとき、御嶽をつくり神アサギも設置する。そして移転先で祭祀も継承される。元の村地に向って「お通し」をつくる傾向もある。天底ノロの管轄村は天底村・伊豆味村である。移転後(大正頃)も伊豆味村の祭祀をおこなっていたという。移動後もノロ管轄は変更されることがなかった。
現在の天底の集落は天底小学校周辺にある。御嶽や神アサギ周辺から明治以降、集落はさらに移動し、ノロドゥンチやニガミヤーなどに、明治頃までの天底村の集落の跡が窺える。
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▲天底の御嶽(ウタキ:お宮ともいう) ▲御嶽のイビへの道
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▲イビが納められている祠 ▲御嶽の近くにある天底の神アサギ
2004.7.4(日)
出勤途中、今帰仁村平敷のウガン(御嶽)に立ち寄ってきた。『琉球国由来記』(1713年)にすべての御嶽を明記さているものではない。今帰仁村平敷の御嶽も記載されていない一つである。『琉球国由来記』に記載されていないが、重要な御嶽である。記載されていない御嶽に、御嶽の源初的な姿があるのかもしれない。
ここでは、ウガン(御嶽)と集落との関係は、切り離すことのできない結びつきがあることに気づかされる。同時にそこで行われる祭祀がムラ人は勿論のこと、オエカ人(間切役人)の参加も欠かすことができない。そのことは祭祀が村を統治していく上で重要な役割を担っていたことがわかる。
③村レベルの御嶽(ウタキ)―今帰仁村平敷の事例―
村レベルの御嶽(ウタキ)を紹介する。源初的な構造を示す一例と見ているのが今帰仁村平敷のウタキである。シマの方々は拝所のあるその杜のことをウガンやウガンジュ(御願所)、あるいはタキ(ウタキのことか)と呼んでいる。ここでは杜全体をウタキ、ウタキの中の香炉が置かれた場所をイビとして扱う。
ウタキの中の一段高いところに香炉が置かれ、そこは神降臨の場所だとの認識があり、イビやタキと呼ぶ場合がある。『琉球国由来記』(1713年)に平識(敷)村の御嶽は記載されていないが、「神アシアゲ 平識(敷)村」とあるので平敷村の存在は確認できる。神アシアゲでの祭祀を見ると、オエカ人・百姓・巫(ノロ)・掟神・居神の参加がある。玉城ノロの管轄村である。首里王府役人の地頭(脇地頭)の参加がみられない。そこでのオエカ人は今帰仁間切役人のことで、村の祭祀に間切役人の参加があったことは、間切の統括と祭祀が一体となっていたということを示すものである。
平敷の御嶽は標高約15mの低地にあり、御嶽の南から東よりに集落が発達していた。御嶽に中、あるいは御嶽に近い場所に集落が展開する古琉球の村を連想させてくれる。現在は、さらに国道沿いから山手の方に家々が建てられつつある。御嶽や周辺からグスク系土器や中国製の陶磁器や染付、それと近世以降の沖縄製の陶器などが採集される。
平敷村の集落の発生は、少なくともグスク時代に遡ることができそうである。集落は御嶽の内部、そして御嶽の周辺部に広がりをもってあったことがわかる。村レベルの御嶽と集落は不可分の関係にあり、御嶽を中心として南斜面やカー(湧泉)との関わりで展開していく。(もう少しわかりやすく図で整理してみたい)
平敷のウガンにはイビ、そして神アサギがある。さらにシマダドゥンチとペーフドウンンチとウッチドゥンチが合祀され、ニーグラの祠などもウガンの内部に置かれている。ウガンの内部にある拝所は、もともとウガンの南側周辺にあったのをまとめてウガン内に置いたものである。平敷のウガン内に、少なくともイビと神アサギ、アサギミャーがある。集落はウガンの内部から周辺部に広がり、ウガンと集落の関係を読み取ることができる。
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▲平敷ウガン(御嶽)の遠景 ▲平敷ウガンの中の神アサギと拝所
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▲平敷ウガンの内部にあるイベ ▲平敷ウガンの麓にあるピシチガー
上の画像の上(北)部の緑地が平敷のウガン(御嶽)である。ウガンの内部
にイベや神アサギや周辺にあった神屋を合祀した拝所がある。御嶽の南側の畑
地にグスク土器や中国製の陶磁器などの破片が散布している。もともとはそこ
らに集落があったのであろう。次第にウガンあたりから南の方へ集落は移って
いる。東西に通る道は国道505号線で、かつての宿道(すくみち)である。
2004.7.3(土)
足が縛られた生活が続いているので、そういう時には資料の整理をしておきましょう。「山原の御嶽」を議論をしていくための土台を整理しておきたい。御嶽を国(琉球国)レベル、間切あるいはノロ管轄レベルの御嶽、村レベルの御嶽、グスクの御嶽など、いくつか区分してみていく必要がありそうだ。まずは今帰仁村間切内の御嶽から、村とグスクレベル御嶽について見ることができる。さらに18世紀初頭の人たちの御嶽とイベと神観念が見えてきそうである。
②山原の御嶽(今帰仁の御嶽)
まず『琉球国由来記』(1713年)に出てくる今帰仁間切の御嶽は以下の通りである。『琉球国由来記』編集のための調査で、すべての御嶽を網羅しているわけではない。調査対象の御嶽の線引きがどうであったかは不明。御嶽とイベ(イビ)や神名が統一された概念で十分把握されていない節がある。そのため、御嶽や神名などの報告が統一性を欠いている。
今帰仁間切の御嶽ではグスク(今帰仁グスク)と村レベルの御嶽について見ることができる。
・城内上之嶽 神名:テンツギノカナヒヤブノ御イベ (今帰仁村)
・同(城内)下之嶽 神名:ソイツギノイシズ御イベ (今帰仁村)
・コバウノ嶽 神名:ワカツカサノ御イベ (今帰仁村)
・兼次之嶽御イベ (不伝神名) (兼次村)
・ムコリガワ嶽御イベ(神名不伝) (与那嶺村)
・中尾次之嶽(神名:コハンナゝカモリ御イベ) (中尾次村)
・ギネンサ嶽御イベ(神名不伝) (中尾次村)
・コモキナ嶽(神名:コシアテモリノ御イベ) (玉城村)
・オホヰガワ嶽(神名:ヨリアゲマチウノ御イベ) (岸本村)
・上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ) (上運天村)
・ウケタ嶽(不伝神名) (上運天村)
・中嶽(神名:ナカモリノ御イベ) (郡 村)
・サウ嶽御イベ(神名不伝) (郡 村)
・カマニシ嶽御イベ(神名不伝) (郡 村)
他の地域でも同様なことが言えるのか、まだ整理していないのでわからない。異なった結果がでるのも楽しみである。
『琉球国由来記』の今帰仁間切の御嶽の記し方から、御嶽(嶽)とイベ、そして神を認めていることがわかる。御嶽名を「・・・嶽」と報告したところは「神名・・・御イベ」とある。ところが御嶽名を「・・・御イベ」と報告したところは「神名不伝」としている。このように不統一の報告であるが、御嶽(森)と御嶽の中のイベ、そしてイベに神の存在(降臨)を認めていることがわかる。
今帰仁グスク内にある二つの御嶽は村(ムラ)レベルの御嶽と異にしている。城内上之嶽は「此嶽、阿摩美久、作リ玉フトナリ」とあり、国レベルあるいはグスクレベルの御嶽と見ることができる。『中山世鑑』にの「琉球国開闢之事」で「先ヅ一番ニ、国頭ニ、辺土ノ安須森、次ニ今鬼神ノ、カナヒヤブ、・・・」とある。城内上之嶽の神名がテンツギノカナヒヤブノ御イベとあるので、開闢のカナヒヤブと同一の御嶽とみなすことができる。今帰仁グスクのカナヒヤブ(御嶽)はムラレベルの御嶽から国レベルの御嶽となり、さらに村レベルの御嶽としての祭祀場として残されている。阿応理屋恵の廃止、復活と関わりがあり、今帰仁ノロが阿応理屋恵が行っていた国レベルの祭祀も肩代わりしている部分があり複雑である。つまり村レベルの祭祀と国レベルの祭祀が、村祭祀を行うべき今帰仁ノロが国の祭祀も行っているということ。
それとグスクに近いコバウノ嶽も国レベルの御嶽であるが、阿応理屋恵ノロの廃止、復興などの経過があり、『琉球国由来記』では今帰仁村(ムラ)にあり今帰仁ノロの管轄となっている。国頭間切辺戸村のアフリ嶽(安須森か)に君真物出現の時、冷傘(ウランサン・リャンサン)が立ち、首里王府に伝え、王殿で儀式が行われる。村レベルの御嶽と異なり、国と関わる御嶽と位置づけることができるが、阿応理屋恵の廃止にともなって今帰仁ノロが肩代わりしたため、本来の祭祀の管轄に戻すことができなかった。今では村レベルの祭祀(フプウグヮン)として年二回(6月と9月)として村の人たちと今帰仁ノロが行っている。
今帰仁グスクのある標高約110mの森を御嶽と見なすことができるのではないか。すると御嶽の中に二つのイベ(イビともいう)がある。御嶽に石垣を積み上げてグスクとして機能し、限られた支配者が住むようになる。森全体が御嶽だったのが、本来のイベの部分とその周辺を囲って小さな御嶽にしてしまう。今帰仁グスクの場合は、1665年に今帰仁按司一族が首里に引き上げてしまう。その際、グスクには御嶽やイベはそのまま残し、さらに一族の火神を祠を城内に設けて(今帰仁里主所火神)引き上げてしまう。『琉球国由来記』(1713年)には首里に引き上げて50年近く経った頃の記録である。
名護グスクでの祭祀同様、今帰仁グスク内(今帰仁里主所火神や今帰仁城内神アシアゲ)での祭祀に首里に引き上げた、あるいは首里に居住している惣地頭や按司などの参加がみられる。本来、グスク内での祭祀は阿応理屋恵(オーレー)ノロの役目ではなかったか。前に述べたように、この頃は今帰仁阿応理屋恵は廃止されている時期である。そのため『琉球国由来記』には今帰仁巫(ノロ)とトモノカネ巫(ノロ)の祭祀として記録されている。
今帰仁グスクの御嶽とグスクとの関係をみると、今帰仁グスクのある森に人々が住み、小規模の集落を形成し御嶽をつくる。地域を統括する按司(世の主)の出現で石囲いのグスクを形成する。支配者を除いた人々はグスクの周辺に中心に住み集落を形成する。今帰仁グスクでは、近世初期までグスク周辺にあった今帰仁村と親泊村と志慶真村の三カ村である。山北王の時代、第一監守、第二監守(七世のとき首里に引き上げ)はグスク内で按司と一族は住む。今帰仁グスク内での惣地頭や按司の祭祀への参加に、引き上げ前の姿が見え隠れする。
グスク内には大正時代まで「城内の神ハサギ」があったが、今では建物はない。神ハサギ跡に祭祀を行う目印として香炉が一基置かれていて、海神祭のとき、その香炉に線香を置き祈りをする。『琉球国由来記』(1713年)に「毎年七月、大折目(海神祭)のとき、両惣地頭(惣地頭・按司)も参加する」ことになっている。城内のヨウオスイで行われるようだが、その場所はまだ特定できていない。城内に海神祭の時、餅を配る広場(店の前)があるがそこか。それともシマの人たちが集まる神アサギ跡の広場か。
・毎年7月大折目(海神祭ともいう)
・ノロ・大根神・居神・など二十人余りの神人が参加
・ヨウオスイ?にタモト(たもと木か)を置く。
・花(米)、五水(神酒)などをお供えする。
・アワシ川(アーシージャーか)から水をとりノロや大根神は浴びる。
・アザナを七回まわる。
・縄をはり舟こぎの真似をする。
・惣様(惣地頭?)馬に乗り弓箭を持ってナガレ庭(シバンティーナ
の浜か)へゆく。
・塩(潮か)撫でをする。
・親川で水撫でをする。
・再び城内のヨウオスイで祭祀をする。
グスクにおける祭祀と御嶽、そして首里に住む按司との関わりなど、ウタキをめぐって祭祀だけでなく、国を頂点とした祭祀を通した地方支配の形態が見えてくる。
(「今帰仁の村(ムラ)と御嶽」については別稿でまとめる。古宇利島の七森七嶽はどこかで一部紹介したような気がする。そのことは企画展―古宇利島―で詰めた議論をする予定)
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▲今帰仁グスクの城内上之嶽(カナヒヤブ) ▲上之嶽のイベ部分
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▲城内下之嶽のイベ ▲城内の神ハサギ跡の広場
2004.7.1(木)
しばらく休んでいる間に7月になりました。もうしばらく休むかもしれません。あの世と現世の通訳を仰せつかっていて、時々駆り出されるので、いつものように書き込むことができません。悪しからず。
H部病院の屋上から名護グスクと名護のマチを眺めながら、山原の御嶽の一例として名護グスクについて考えてみた。
①山原の御嶽【名護グスクと名護のマチ】
名護グスクも山原の興味深いグスクの一つである。名護グスクは標高約103mの森である。そこはグスクの名称が付いているが、石積み囲いのないグスクとしての特徴をもつ。石垣を積んで外と隔てることをしない、あるいは敵を石垣をもって防ぐことをしない。逆を言えば、防御的な石垣を積まなくても、名護地方を支配できたグスクであるということができる。グスクに居住する按司(世の主)は人望が厚く、人徳で統治することができる人物がいたのかもしれない。そのようなことまで考えさせるグスクである。
名護グスクのある森全体をウタキとみたとき、御嶽(ウタキ)とは何かとの疑問の答えの一つがありそうである。名護グスクを基点にして移動、分離した展開が見られる東江・城・宮里のムラがある(各村の展開は少し複雑である)。17世紀の『琉球国高究帳』の名護間切の村に名護村、宮里村は登場しているが城村や東江村や大兼久村は出てこない。1713年の『琉球国由来記』でも同様である。名護グスクの森はティンチヂムイと呼ばれ、御嶽における神観念が窺える。
名護グスクと呼ばれる森全体を考えたとき、南斜面にヌル殿内(ヌンドゥンチ)・ウチ神屋・フスミ屋・根神ヤー・名幸祠・イヂグチなどの旧家の火神の祠(カミヤー)がある。グスク内に神アサギもある。かつて名護グスクのある森の斜面に形成されていた集落が麓に移動して行ったことがわかる。そこから分離・移動してできた村が東江村・大兼久村・城村(名護村:三箇村と言われている)であろう。ただし、現在の名護のマチの発展は国頭役所が羽地間切親川村から名護間切大兼久村(さらに東江村へ)に移転した明治15年以降のことである。
名護グスクの森にあった集落が移動する時期について、はっきり文献にみることはできないが、1520年代に各地のグスクに居住していた按司を首里に集居させたという。そのことがグスク周辺にあった集落が麓に移動していくきっかけとなったと見ていいと考えている。それと、麓の湿地帯の開拓も大きな要因であると考えている。つまりグスクに住んでいた按司が首里に移ると、グスク周辺にあった集落が、直接支配関係にあった按司と集落との関わりが希薄になる。そのことも移動の要因とみることができる。グスク内での祭祀に首里に移った按司と村との関係が、『琉球国由来記』(1713年)の名護巫火神と名護城神アシアゲに於ける祭祀に首里に住んでいるはずの惣地頭(名護按司のことか)の参加に伺うことができる。
名護にマチが発達するきっかけは明治15年に羽地間切にあった国頭役所が名護間切の大兼久村へ、さらに東江村に移されることで、県の出先機関ができる。それがきっかけで山原の行政の中心となると同時に商店や銀行などができマチをなしていく。下の左側の画像の建物のある一帯の大半が昭和30年代まで田んぼであった。
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▲マチの後方の森が名護グスク ▲明治15年以降マチとして発展