2003年7月の記録
沖縄の地域調査研究(もくじ)
2003.7.31(金)
【上間家にあった辞令書】(写)メモ
この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。感謝。
この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。
現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致するでしょう。
・たけのみはる→嵩原?
・まへたはる→前田原(現在ナシ)
・とみちやはる→富謝原
・きのけなはら
・あら(な?)はなはる→穴花原
・たこせなはる
・あふうちはる
・ふなさとはる
・まふはる→真部原
・あまみせはら
貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
・なつほこりミかない
・せちミかない
・なつわかミかない
・おれつむミかない
・正月ミかない
・きみかみのおやのミかない
・けふりのミかない
のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。
【辞令書の全文】(一部不明あり)
志よりの御ミ事
みやきせんまきりの
くしけんのせさかち
この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
五 おミかないのところ
二 かりやたに 十三まし
たけのみはる 又まへたはるともに
又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
又 まふはるともニ
この分のミかない与
四かためおけの なつほこりミかない
又 くひきゆら ミしやもち
又 四かためおけの なつわかミかない
又 一かためおけの なつわミかない
又 一かためおけの おれつむミかない
又 一かためおけ 又なから正月ミかない
又 一lくひき みしやもち
又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
又 一くひ みしやもち
又 一かためおけの けふりミかない共
この分のみかないは
上申・・・・・・
ふみそい申しち
もとは中おしちの内より
一 ミやうすくたに ニまし
まへたはる一
この分のおやみかない
又 のろさとぬし
おきてかないともニ
御ゆるしめされ候
一人あかるいのおきてに給う
志よりよりあかるいのおきての方へまいる
嘉靖四十二年七月十七日
【シニーグ】
具志堅のシニーグの展示(引伸)用の写真を10枚ほどピックアップ。写真は新城徳祐氏(故人)資料(歴文所蔵)から。
今年は具志堅のシニーグの調査を予定している。34年前と今年とで、変貌したもの、継承されているもの、その視点でまずは調査できればと考えている。シニーグの展示は流れに沿って行う。学芸員実習の学生達も加わるので流れをしっかり把握しておく必要がありそうだ。祭祀の流れを崩すような調査はダメ。特に祭祀に関わる神人や区長さんなどからの聞き取りは、祭祀が終ってからか、日を改めてすること(調査マナーについては、時間をとってやります)。
34年前のシニーグの様子を写真でみると、神衣装を着た神人、白の鉢巻の違い(前、後、長いもの)、帯の結びが前、後と異なっている。太鼓を持ってたたく方、すべてが女性である、さらに衣装の柄など。所作やウタなどもあるようだ。なかなか興味深いものがありそうだ(具志堅のシニーグは初めて調査である)(今のところ予定)。
(工事中なり)
▲本部町具志堅のシニーグ(1969.旧7.25)
▲本部町具志堅のシニーグ(1969.旧7.25)
2003.7.30(水)
8月の予定をみたら、展示作業に使える日数が10日ちょっとしかありません。あせってしまう。まずは、手がけることができるのから。早速、航空写真の引き延ばしにかかる。作業をしながら展示の構想をねるが来客あり。頭の中身はそれに。明日は職員と展示のミーティング。希望のテーマを選んでください。
上空からみた具志堅と今泊(もう少し周辺まで入ります)のパネル。たて90cm×よこ70cmを作成。数枚つくります。それに地名や拝所やカーなどの情報をいれてます。そこからムラの成り立ちや集落移動や合併などを読み取っていきます。まずは基本資料づくりから。楽しいもんじゃ。ハハハ(何十回やっても楽にはならない展示会ですから。全くのオリジナルを作っていくのだから。だから楽しいのです)。ちょとした情報は、後でいれます。もう一枚大型パネル作成(中身は未)。
▲上空から見た具志堅と今泊
2003.7.29(火)
28日(月)午前9時半頃にクンジャダキ(国頭竹)が到着し、崎山の神ハサギの屋根に茅のせが始まった。各地の神アサギはトップページから「山原の神アサギ」を参照下さい。山原の神アサギについては、報告書をだす予定。休止中の「山原の神アサギ」も起こさないといけませんね。山原地域はほぼ調査は終っているはずだ。恩納村や本部町は公にしてあると思ってみたら休眠中なり。ボツボツ起こさんといけません。ハハハ

▲茅のせが始まる(時計回り) |

▲一回りしたところ(一段目) |

▲茅のせがほぼ終る(整茅がのこる) |

▲神ハサギの屋根裏の様子 |

▲区長さんの麦テンプラ(大好評) |

▲神ハサギ完成のウガン |

▲13kgのコイ2匹がサシミにされた |

▲祝い席に焼豚やコイのサシミが |
2003.7.27(日)
【崎山の神ハサギ葺き】
崎山区民は朝早くから神ハサギの桁打ちに取り掛かっています。神ハサギは自分達の誇りとするものとの意識が伝わってきます。通勤途中寄ってきたが、これからまた撮影・記録に出ます。午前中で作業終るかな?茅のせは明日です!!
下の画像は今日の午前中の作業である(午前中で作業終了)。明日は、これに茅をのせます。現場で専門用語を使っているが、なかなか理解できず。スミリン・エイリン・メケィリンやフラカムイ・ヤナハイ・イリチャ・プームスビなどの名称は、改めて教えを請うことにする。
【2003.7.27の作業】
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午前8時には作業に入る。昨日の続きでキチ(桁)を打ち付ける作業中。縦の棒(桁)はディヌと呼んでいるようだ。本ギタ(八本の石柱の上に置かれる四本の桁)に穴をあけ棟木にいく8本はヤリデゥヌという。
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クンジャンダキ(国頭竹)を二本づつ棕櫚縄で編んでいく。さらにアンムンをキチにプームスビで結わえていく。アンムンは茅がもれないようにするためである。編目も見た目がいいように、バランスをとる。丁寧さや出来栄えに影響するようだ。プームスビの指導もなされる。頭を使うとダメのようだ。横棒はヤナハナ? |
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アンムンlを編む作業。このアンムン(編物?)は屋根の頂上部の半円部の茅を包み込むのに使う。棕櫚縄を三本並行にして国頭竹を二本づつ編んでいく。全体の長さ195cm、中央部と、その左右70cmのところを棕櫚縄で編む。
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今日午前中の作業はここまでである。茅のせできるまでの作業は完了。明日屋根に茅をのせる作業がある。大工をはじめ作業に加わった方々は、プロ並みだと自画自賛。
明日使う8本のイチチャ(80cm程の槍棒)が準備される。屋根頂上部のアンムンを留めるのに使う。
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2003.7.26(土)
今朝8時から崎山の神ハサギ(村指定文化財)の葺き替えを区民の夫(ブー)で行っている。この神ハサギは平成元年6月に葺き替えたことがあり、私は二度目の撮影・記録とりとなった。今回は石柱を残して全面葺き替えである。先日茅部分は下ろしたので、今日は古い桁や梁の撤去作業である。十数名の方々の出賦があった。石の香炉に線香があり、葺き替えの御願はすでになされていた。
大工経験者が三、四名おり、梁や桁部分組むための穴あけや長さを揃えたり切ったり、削ったりは大工の仕事である。残りの方々は、鎌で桁や梁に使う生木の皮剥ぎである。梁と棟木部分は杉の角材、桁はイジュの生木の皮を剥いで使う。
石柱の高さがまちまちだが、上部は一部削って調整した。石柱の高低差の最大は約10cmあるが、そのままとし、水平のたもちは茅部分で調整することになった。
午前中で四本の梁を組み8本の石柱に乗せ、棟木をあげるところまで行った。午後から桁木を釘で打ちつける作業を進めた。ところが急に雨になり一時中断、作業を再開するが、3時前に雷がなり大降りとなったため今日の作業は中止である。続きは明日である。茅のせは月曜日の予定。明日は、きっと晴れるでしょう。神の嬉し涙か!
【2003.7.26の作業】

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▲古い梁や桁の撤作業 ▲8本の石柱はそのまま使う

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▲イジュの生木の皮剥中 ▲午前中で棟木まであげる
2003.7.25(金)
土曜日(明日)から崎山の神ハサギの建設にはいる。土、日は崎山の方々が桁をかける作業にはいる。そこはムラの人たちでつくる。国頭村奥間の大田氏に茅を乗せるときの監督を依頼してきた。文化財の玉城寿くんと。大田氏は快く引き受けてくださった。茅葺きは月曜日。その時に指導を仰ぐことになる。ご指導よろしく。「紫微鑾駕」を取り付けることになりそうだ。記録・撮影で二、三日付き合うことになりそうだ。
今帰仁間切の地頭代(今の村長)は『琉球国由来記』(1713年)から1750年頃にかけての湧川大屋子(ワクガワウフヤク)を名乗る。ところが1750年頃から明治12年(廃藩置県)にかけての地頭代は古宇利親雲上を名乗る。そして地頭代をした家にはメーフイヤー(前古宇利屋)の屋号がついている。同村に複数の地頭代が出てくるので、イリヌメーフイヤーやクシヌメーフイヤーなどと前や後や東西などを付けて区別している。地頭代のお抱え村が古宇利(フイ)村であったことに由来する。
本部間切の場合は、『琉球国由来記』(1713年)に前健堅親雲上でお抱え村の変更がなかった。そのため明治31年まで健堅村が本部間切の地頭代の扱い村である。屋号に健堅屋(キンキンヤー)がつく。本部間切では健堅屋の他に前の健堅屋や後の健堅屋などの屋号がみられる。
因みに具志堅村から出た地頭代は四件、嘉津宇村から二人が確認されている(『具志堅誌』『本部町史』通史編下など)。
〔具志堅村〕
・健堅屋 健堅親雲上 (年代不詳)
・ユバン屋(仲里家) 健堅親雲上(1700年代)
・ソーヌハタイ(具志堅家) 健堅親雲上(1759年頃)
・ウイマ殿内(上間家) 上間権兵衛(明治30年地頭代、最後の地頭代)
〔嘉津宇村〕
・健堅屋(小浜家) (年代不詳)
・健堅屋(小浜家) (年代不詳)
2003.7.24(木)
とうとうやってきたか。ムラ・シマ(具志堅)を本格的に見ていく段階になると小地名調査が欠かせないことに気づかされる。もちろん、神ハサーギ、大川、道筋、井戸、祭祀が行われる場所、旧家、石積みの屋敷などを手がかりに見てきたのではあるが。小地名(ショウチメイ)をおさえ、現場で確認していく作業は、そのムラ・シマの方々の物の見方や考え方を知ることである。そこから学ぶことが数多くあった。
最近、具志堅の方々の、そしてムラの顔が見え隠れしてくる。ムラ・シマには、それぞれの顔がある。それは風土がつくりだした部分が大きいに違いない。具志堅の顔はどんな顔?
具志堅の盆踊りに次のようなウタがある。
嘉津宇と具志堅や 村一つどやしが
ことば変らしゆる 水のやから
(嘉津宇と具志堅は 村(ムラ)は一つだけど
言葉が変わるのは 水だからだろうか)
土曜日から崎山の神ハ-ギの屋根の葺き替えがはじまります。~火曜日。
2003.7.23(水)
【具志堅の海辺をゆく】
本部町具志堅の地形を読取るため山手から海岸、そして隣接する嘉津宇と新里までゆく。嘉津宇は先日昭和30年代の画像を取り込んだので、現在の様子確認のため足を運ぶ。
さて、具志堅の海岸の新里よりから場所の確認をしてみた。昭和16年に具志堅から西半分は備瀬から分区し新里区として独立した。具志堅のハルヤーだった認識があり、首里・那覇からの寄留人が多い。新里地番は具志堅である。具志堅のマーウイ(馬場)跡は新里区の方にある。マーウイのように新里地域に具志堅と深く関わる場所がある。それで新里域の地名も拾ってみた。ムラを見ていくためには、地名調査もいれんといかんな(大変だぞ)。
・トゥヌジンマガイ
新里域の海岸にある地名。トゥヌジは飛び出たの意味がある。マガイは
曲がったところ。弓状に曲がった砂浜があり、その向こうは飛び出た崖
になっている。地形に由来する地名のようだ。
・パナリヒシ(離れ岩?)
離れた岩(干瀬?)のこと。陸から離れたところにある石(岩)のこと。満潮
になると海中の小島となる。
・ナートゥ(港)
港のこと。河口の場所。かつて港として機能していた時代があったのであろう。
・ハサバマ(ハサ浜)
ハサ? パマは浜のこと。ハサの浜であるがハサは不明。
・ミハージ?
松部のナガシミャー(流し庭・流し場所)での御願がすむと神人はミハージ
(ハサ浜の中央部)の浜までやってきて祈る。ムシバレーやアブシバレーの
時に、芭蕉の柄でつくった小舟に虫を乗せて流した場所である。
・パマグァー(浜小、小さい浜)
ハサパマの東側にある小さな浜のこと。別名ハサグヮーともいう。グヮーは小
さいこと。ハサはハサバマのハサであるが意味?
・イジカタバマ(出方の浜)
現在ボートの発着場になっている。
海岸にある地名を拾ってみた。即座に意味解きはできないが、土地を知る上でなかなかおもしろい。新里のパナリヒシの近くの護岸で涼んでいる二人のオバアに声をかけてみた。
「そこに岩があるでしょう。何と呼んでいますか?」
「アリナー、ナーアイタガヤ?!」(あれねー、名前あったかね)
「パナリとか言いませんか?」
「アイエッタラハジ、ワヌウマンチュヤラングトゥワカランサ」
(そうだはず、私はこっちの人ではないのでわからないさ)
「トゥヌジマガイは知っていますか?」
「ウリヤワカルンドー、ウリ、アマヌパマミッチメー。マガトゥラヤー。ウマヤッサ」
(これはわかるよ。向こうの浜を見てごらん。曲がっているでしょう。そこ
だよ)
おばあ達とのやりとりは、なかなか面白い。方言を聞き取るにはなかなか難しいのであるが、生の声で話が聞けるというのがまたいい。
具志堅や新里のハサ浜は泳いでいる人一人もいません。一人占めの海岸調査。贅沢なもんだわい。暑さ? 34度だそうだ。体温と気温の差が3度以上あれば大丈夫なり。ハハハ

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▲中央の岩がパナリヒシ、 ▲ハサバマ
左向こうがトゥヌジマガイ

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▲新里の海岸でオバア達と ▲河口部分がナートゥ(港)
具志堅の海岸を歩き、公民館(事務所)に立ち寄る。8月のシニグ調査の件でお願いした。「学生が10名ほどで見学にきます。勉強させてください」とのお願い。「いいですよ」と快い上間区長さんの返事。「近いうちに、再度お願いに伺います」ということで。
午前中、東京から帰省した並里くんが学芸員実習の件でやってきた。実習の大雑把打ち合わせ。職員含めて。
神アサギの件で国頭村役場で会議あり(午後2時から)。帰り辺土名の上島に立ち寄る(報告はどこかで)。
2003.7.20(日)
歴史文化センターは21日(月)・22日(火)と休館となります。悪しからず。
原稿書きに追われた一日でした。残りあと一本なり。はい。ホッ。ここで気を抜いたらまたまた、いつ戻ってこれるかわかりません。ちょっと息抜きで書き込みします。
企画展の展示作業もボツボツ入らなければなりません。タイトルから中身も大部変ります。今日の頭の中では。
今帰仁城が抱えたムラ
が全体テーマになります(多分)。変更する理由は・・・・?!(お楽しみに)
広島のメンバーから卒論のテーマを頂いたので、その辺のことも実習期間中にふれます。短期間なのでどこまでできるかな?神戸のメンバーも。地元のメンバーも。連絡ナシが一人います。東京にいる君。帰郷してから連絡くれるのかな。
最後の一本を仕上げないと。書き込みなし。
では、水曜日にお会いましょう。
2003.7.19(土)
本部町嘉津宇は移動してきた村(ムラ)である。村があった元の場所は伊豆味の古嘉津宇である。『琉球国由来記』(1713年)の頃は、移動する前で嘉津宇村に嘉津宇嶽・小嶽・ソノヒヤン嶽の三つの御嶽を持っていた。嘉津宇嶽は嘉津宇岳にある御嶽のことだろうか。その頃嘉津宇村を管轄するノロは天底ノロである。
1719年に伊豆味村近くにあった天底村が今帰仁間切地内に移動している。その理由が旱魃による飢饉であった。その時、天底村の人たちは具志堅村に働きに出る。それでも村の復興ができず首里王府に願い出て村移動をしている。嘉津宇村も同様な理由で、具志堅村地内に移動したのかもしれない(嘉津宇村の移動の資料は未確認)。
嘉津宇村は具志堅村地内に移動し、明治36年に具志堅村に併合され、昭和16年に分離する。明治15年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』に「嘉津宇村 根神一人」とあり、そして拝所は「嘉津宇御嶽・神アサギ・ノロ殿内火神」の三ヶ所あげてある。
嘉津宇村の移動をみると、村が移動すると移動先で御嶽や神アサギを新しくつくっている。天底村の移動も同様なことがいえる。嘉津宇村の「ノロ殿内火神所」については、もう少し調査する必要がありそうだ。それは嘉津宇の神アサギの側にあるウドゥンを指しているのかもしれないが、天底ノロがある時期、嘉津宇村から出ていた可能性もある。
嘉津宇村は明治36年に具志堅村に統合されるが、御嶽や神アサギなど祭祀に関わることは一つにしないという原則はここでも貫かれている。それと、村が移動した時、御嶽は高い所に向かって置き、あまり故地にこだわらないということ。村移動のとき神アサギは集落と共に移動する傾向にある(集落移動のときは、神アサギは動かさない傾向にある)。
具志堅を中心とした企画展を予定しているが、嘉津宇村の具志堅村への合併、分離があるので歴史で扱うことになるので、少しだけ触れておいた。
事務所(公民館)は平成12年にスラブの建物に建てかえられた。現在の神アサギはセメント瓦葺きである。トゥンは昭和11年に竣工されている。トゥンの横に「嘉津宇神社改修記念 昭和十一年丙子六月二十五日」と刻まれている。
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▲嘉津宇の事務所(ムラヤー・公民館) ▲神アサギとウドゥン(昭和30年頃)
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▲嘉津宇の現在の公民館 ▲嘉津宇の神アサギとトゥン
2003.7.18(金)
本土の出版社の飛び込み原稿書きでバタバタ。二〇数項目送付。ほっです。
残りは明日。残り20数項目くらいあるようだ。それは明日にでも。
それで、今日の書き込みはなしです。
2003.7.17(木)
7時半から
「渡喜仁の字誌」の編集会議です。今日は「外地から引き揚げ名簿」(資料)で、当時の様子を把握する。今帰仁村各字(アザ)のあり。いい資料なり。
〔浜比嘉島の.比嘉をゆく〕
月曜日(14日)、勝連町の浜比嘉島の比嘉までゆく。沖縄の創世神話のアマミキヨ伝承や墓のある島である。浜と比嘉の両方に地頭代火神の祠があるのはどういうことだろうか。
集落で日の出の位置について、かつて大工をしていた方に話を伺ってみた。
「比嘉ではどこから太陽があがりますか?」
「ニーヌファブジは平安座島にあがるから、アマンヂの方だよ」
「あの島の方がアガリですか?」
「うん、あたっているよ」
「浜の方でシヌグ堂がアガリの御嶽になっていますが・・・・?」
「向こう(浜のこと)は変だよ。向こうではカラファイ(羅針盤)をたてても
平安座が北にならないよ・・・・」
との会話を交わした。地元の方にとっても方向感覚がどうも変だという意識があるようだ。ところが浜の方々にとっては当たり前である(やはり太陽の出入りを確かめてみるべきだ。羅針盤を忘れ、時間がなかったので結論は先送りです)。
(工事中)
..
▲橋を渡った所にある大和人墓 ▲石垣の目立つ比嘉集落
..
▲比嘉集落内にあるミーガー ▲比嘉集落とアマンヂ
2003.7.16(水)
午前中兼次小6年生の歴史を体験する授業である(担当:仲原・石野)。エーガー・ハンタ道・ミームングスク(見物グスク)・三つの火神の祠を回りながら、自分の分担した時代の様子をイメージすること、そして現在の様子を確認していく作業である。
・エーガー(親川)
・今帰仁グスクが機能していた時代に果たしていたエーガーの役割
(集落内に井戸や水道が引かれるまで)
・大正5年までエーガーの側を通るハンタ道が今帰仁グスクへの主要道で
あったこと。
・今帰仁村と親泊村の人たちの生活用水や飲料水として使っていたカー
・生活と関ってきたカーなのでハーウガミや若水取りに産ガーとして拝まれる
・昭和30年代までエーガーから水路引いて水田を潤していた
・現在のエーガーの様子
・ハンタ道
・大正5年まで今帰仁グスクへの主要道路であった
・17世紀初頭まで今帰仁グシクの前方に今帰仁村があったので村の
人たちの生活道路でもあった
・1609年薩摩軍の琉球侵攻のとき、今帰仁グスクを攻めたときに薩摩の
軍隊が通った道である
・ハンタ道の途中にあるミームングスクは今帰仁グスクが機能していた時代
につくられたものであろう。名の示すとおり見張り場であったのであろう。
・大正5年に新しい道が開通したのは車の出現である。
・三つの火神の祠
・火神の祠を扱うのは、かつて今帰仁ノロやトゥムヌハーニーや阿応理
恵屋恵などの住居していた家があったということ。屋敷を残して移動す
るとき火神の祠を建てていく習慣があり、1600年代初頭に今帰仁村が
移動するが、それ以前に一帯に村があった証である。
・今帰仁グスクの前方のハタイ原やハンタ原に村があった時代、そして
移動した後の様子をみていく手がかりとなる。
・それぞれの時代の様子をみていく作業である。
・阿応理恵屋恵は今帰仁按司と関わりは深い。監守一族は大北墓に
葬られているので、その関わりを歴史の上みていく。
今帰仁グスクまで行く予定であったがそこまで・・・・・・。歴文の涼しいエントランスホールでグループごとに報告。汗を流しながらのハンタ道の歴史コース。一つひとつ歴史を刻んできた道や集落移動、火の神の祠などを通して、下の時代に沿って体験できただろうか。
①北山王時代(13世紀末~1416年)
②第一監守時代(1417年~1469年)
③第二監守時代(前期)(1470年~1609年)
④第二監守時代(後期)(1610年~1665年)
⑤間切時代(前期)(1666年~1871年)
⑥間切時代(後期)(1872年~1907年)
⑦村政時代(前期)(1908年~1945年)
⑧村政時代(後期)(1946年~現在)
もう少し、歴史の時間の流れを意識しながら、そして各時代に留まってその時代をイメージする訓練が必要である。今帰仁グスクは別の機会にやるが、歴史を刻む知識や出来事だけでなく、各時代に踏み込んで考えていく感性が育てばと考えている。現在を見ているのだけど、実のところ頭の中では各時代をイメージしていく訓練である。
報告を聞いていると、歴史用語に大部慣れてきたようだ。体験したことと知識としての出来事が結びついてくると、もっともっと楽しくなっていくでしょう。

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▲エーガー(親川)からスタート ▲ハンタ道を通りながら・・・

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▲今帰仁グスクの見えるミームングスクで ▲今帰仁ノロ火神の祠で
2003.7.15(火)
〔古宇利島をゆく〕
古宇利島で今年度の二次の発掘調査が昨日からスタートしている。発掘をしているシマの方々の激励、そして発掘現場前の家主さんへあいさつ回りとお願いへ。課長に同行する。用件を済ませた後、船待ちの時間ぶらりと島の集落内を歩いてみた。どの島を回っても、石積みと福木囲いの屋敷はいい。
7時35分運天港発の便で古宇利島に渡る。中学生達は朝の一便で統合中学校へ登校する姿がみられた。ちょっと活気づく朝の風景にちがいない。
島回りはウプドゥマイ(大泊)の浜からシラサ(小さな岬)、チグヌ浜、さらにチグヌ浜にある洞窟までいく。満潮時と風が重なり、洞窟に波が流れ込み、潮しぶきをあげていた。そこは島に死者がでる島の人たちはチグヌ浜にきて左足で海水をけり、それから手足を洗い清めると聞いている。喪家はそこからウル(サンゴ)を拾って家に播くという。お祓いや清めの意味を持っているのだろう。抜けた洞窟からあの世へ霊を送り出す観念があるのかもしれない。
今日の集落回りは、古宇利島にどのくらいの石積みの屋敷があるのか確認してみたかった。ブロック塀に変わりつつあるが、石積みの屋敷囲いがざっと数えて20件はあるのではないか(正確な調査は、字誌に入れていく予定)。
西側から集落内に入ってみた。かつての石積みの屋敷跡や福木の老木の屋敷囲いがあり、集落はもっと西側まで広がっていたことがわかる。切石の相方積みや布積みり、あるいは石灰岩や海石などの自然石を積み上げた野面積みもある。
あちこちに空き家が目立つ。石積みの屋敷跡に、その家のかつての勢いが伝わってくる。それは島に住む人々の生活であり、歴史の厚みとして感じ取ることができる。石積みのある家や屋敷に屋号を明記しておくと、その家の様子をよみがえらせる手がかりになるに違いない。
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▲今日の古宇利島 ▲朝の一便の第八古宇利丸
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▲ウプドゥマイの浜とシラサの岬 ▲チグヌ浜の抜けた洞窟
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▲野面積みの石垣の家 ▲相方(亀甲)積みの石垣のある家
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▲布積みや相方積みの石垣のある家 ▲相方積みや野面積みの石垣のある家
2003.7.13(日)
月曜日は
休館なり。中部の高校までいきます。時間があれば浜比嘉島の比嘉まで行きたいのですが・・・・。
先日、浜集落は歩いてみた。その時、東の御嶽が私の感覚では西側に位置している。また南か東に位置しているように見える御嶽が西の御嶽である。多分、金武湾をグルっと回ってきたので方向音痴になっていたのでしょう。東の御嶽(シニグ堂)がどうしても北か西の方向のようにしか見えなかった。島の民俗方位があるのかもしれない(今帰仁村運天でその経験はしている)。羅針盤を持っていってみようか。やはり確かめてみたいものだ。行く時間あるかな!!
夕方6時頃まで今帰仁に戻らなければなりません!集りあり。無理かな?
〔具志堅のシニーグ〕メモ
以下の部分は『沖縄の芸能』(昭和44年発行)からのメモである。今年の調査(8月)は、以下の流れや衣装などを念頭に入れて、参与観察記録(調査記録)をとってみたいと考えている。
本部町具志堅ではシニグやシヌグのことをシニーグと呼ぶ。
・旧暦7月25日に行われる。
・当日の午後、ムラの女の人たちが盛装して神アサギの側に集まる。
・ノロが先に祈願して待っている。
・全員が集まると太鼓を打ち、シニグを歌う。
・シニグの歌を謡いながらアサギ庭で二重円をつくる。
・内側が未婚の女性、外側は中年の婦人たち。
・かつては胴衣袴(ドヂンカカン)だったが、紺地の絣帯を前に結ぶ。
・中年の外側の婦人たちは鉢巻を結び、紺地の絣か芭蕉衣に前結びの帯。
・老女たちは、鉢巻を前にして紺地のかすりか芭蕉衣、帯をしめないで
ウシンチー姿。
〔シニーグ舞〕
・11種の曲節がある。
・一節終るごとに小休止をする。
・先頭の音頭とりが太鼓を三回打ってから節を謡いだす。それに和して皆で
謡いながら舞う。
・舞の手は拝み手・押し手・祓い手・捧げ手・こねり手がある。
・シニーグ舞はノロを先頭に根神以下の神人が続く(これらの神人が太鼓を
打って音頭をとる)。
〔シニーグの場所〕
・上(具志堅)アサギ→真部アサギ→上間アサギ
・上間アサギでのシニーグ舞が終ると太鼓の早打ちに合わせて参加した女性
たちが一人ひとり円陣の中に入って踊る。
・最後は男性たちも円陣に入り踊り群舞をする。
かつては、具志堅・真部・上間の各神アサーギで行っていたが、三つの村が統合してからは上アサギ・真部神アサギ、そして上間アサギの順序で三カ村一緒になって行うようになったという。(現在の流れはどうだろうか?)
※三箇村の神ハサーギ、現在の神ハサーギの位置、そして祭祀の流れを
場所と時間の流れで記録する必要あり。調査年によって場所の特定が
不明確のため論をたてにくいところがある。
▲本部町具志堅のシニーグ舞い(上間ハサーギ?)
『沖縄の芸能』口絵写真(昭和30年代)
2003.7.12(土)
本日ムラ・シマ講座なり。行事があれこれ重なっているから参加者はどうかな?
今帰仁村勢理客にいきます。御嶽―神アサギ・湧泉―集落の軸線。参加者に理解できるかな?ボツボツ集まってきました。いざ、スタートです。天気はランラン・・・
朝から気温が30度近くに上っている。その時は、そのくらいの暑さはなんのそのである。終ってから、やはりグタッです。終ってから学芸員実習卒業生達と今年の実習生達の受け入れで打ち合わせ(広島のメンバーはSとTが面倒をみることに)。
さて、本日のムラ・シマ講座は勢理客でした。9時半まで歴文の講堂で今日行く場所の説明。マイクロバスに乗って勢理客の御嶽へ。
御嶽はウガミと呼ばれ、御嶽の中にイベ(イビ)がある。今では祠がつくられ、中に二つの香炉が置いてある。「奉寄進」と年号、さらに人名が刻まれている。明治以前の中国年号と奥間仁屋と上間仁屋の名前が読み取れる(年号と名前は確かめる必要あり)。イビの回りに藁の左縄(ピジャイナー)が張り巡らされ、男子禁制の場であることを今でも示している。御嶽にはクバやクロツグ、ホルトの木などが繁り神々しい。
神アサギに移りる。勢理客の神アサギはセメント瓦ふきの建物である。柱はコンクリートになっているが、茅葺の頃は4本柱だったにちがいない。建物の中にはタモト木が置かれ、御嶽に向かって拝む位置に香炉が置かれている(本来香炉はなし)。
隣接して勢理客ヌルドゥンチ跡がある。建物の中に火神とワラザン(藁算)が置かれている。ワラザンは毎年新しく作っているようだ(稲藁を手に入れるのに苦労しているようだ)。ヌルドゥンチは勢理客ノロのかつての住居跡である。本来豊年祭を行うアサギナーがあるが、今ではミャーヌヘーに常設の舞台を作ってそこで行っている。
ウイヌハーは集落の上の方にあり、ヒチャヌハーは集落の下の方にある湧泉のこと。勢理客の集落はムラウチ集落とインガの集落に大きく分けられ、ムラウチ集落は上・中・下の組に分かれる。ウイヌハーを利用したのは集落の上の方、シチャヌハーは集落の下の方が利用してのでしょう。インガは水に不便をきたしたようで、離れたウプグムイやイシガキガーを使ったという。集落の下方の家々はヨシコトガーを使った人々もいたかもしれない(そこは未調査)。

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▲勢理客の御嶽(ウガミ)の中の祠 ▲ウガミの中の祠(イビ)にある香炉

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▲御嶽の中で説明を受ける。 ▲神アサギの中の説明を受ける。
2003.7.11(金)
6日(月)勝連町浜比嘉島まで足を運んでみた。平安座島・宮城島・伊計島は与那城町の内。浜比嘉島もそうだと思っていたのだが、途中勝連町であることに気づいた。まったくの認識不足である。途中、海中道路の途中にある「海の駅 あやはし館」(二階部分が資料館)までいく。休館であったが職員が出てきて展示を見せてくれた。感謝。海に関わるいい展示がしてあった。再度ゆっくり訪ねることにする。
以前シニグの分布図をみていたら浜比嘉島にシニグ堂(東の御嶽)があり、シニグが行われているようだ。旧暦六月二八日と八月二八日に浜と比嘉の二つのムラ(集落)で行っているようだ。浜比嘉のシヌグ祭は、他地方の人が島に渡ってくるのを無くするための時化祈願だという(『勝連町史』)。
浜比嘉両部落の神職、当役、有志が集り、先ず島に他地方の人が上って
いないか確かめた後、シヌグ堂に参集して、他地方からの渡来者防止の
為の時化を祈願する。すると当日は必ず海が荒れるのでこれを「シヌグ荒
れ」と称えている。
今日でも「シヌグ荒れ」は必ずあると島の人は語っている。シヌグ堂での
行事が終ると、比嘉の関係者は別れて比嘉の諸拝所を巡拝する。拝所の
浜崎という所では、ヤブチ島の方向目掛けて弓を射る所作をすることにな
っている。
古宇利島のプーチ御願や海神祭(ウンジャミ)の要素も含み興味深い。名称はシヌグだが山原のシニグの要素と大部異なっているような印象をもつ。行われている祭祀を見てみたいのだが、「シヌグ荒れ」が来てダメでしょうね(現在もそうだろうか)。

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▲海中道路の途中にある「海の駅 あやはし館」 ▲浜比嘉島の浜集落

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▲海中道路の途中から浜比嘉島をみる ▲シヌグ堂(西の御嶽)の中の様子
2003.7.10(木)
本日書き込みありません。
2003.7.9(水)
間に合わせの校正原稿あり。そのため多忙なり。書き込みたくさんあるのだが、明日にでも!月曜日の勝連町浜比嘉島のこと。古宇利島ことなど。
2003.7.8(火)
兼次小学校6年生の総合的学習(午後2時過ぎから)。今帰仁グスクの歴史をテーマにした学習。ここでは「今帰仁の歴史」を今帰仁グスクを手がかりに、各時代の特徴や流れをさがしていこうというするもの。今帰仁グスクを共通の場面として、各時代の様子を発掘された遺物や石碑や集落移動、ハンタ道などを通して各時代の様子を描いていく。
便宜的に下のように8つの時代に区分し、39名を8グループに分け分担する(②は歴文が担う)。グループが分担する各時代の特徴や資料(現在目にできる石碑や屋敷跡など)をとりあげながら、読み取っていく作業をしていく。さらに自分の分担した時代を別のグループのメンバーに教えていく方法をとる。まとめとして各時代を連続させることで全員で「今帰仁の歴史」を描いたのだという実感させる。全体の流れを把握しながら、自分が分担した時代を的確に理解していく。
今帰仁グスクやお墓や石碑などの資料を手がかりに「歴史を組み立てていく」訓練と発見、それを他のメンバーに教えたり伝えていく(発表)おもしろさを体験させる。
今日は目的と、これから進めていく方法や調査の仕方、各時代のおおまかな特徴などについての説明でおわる。スタートしたばかり。これからどう展開していくか楽しみである。生徒達の頑張り次第であるが、まとめの発表までいけたら、一生の財産になる出来事だと考えている。期待しましょう。(窓に掲げた黄色いのが8つの時代の特徴を示した区分表です)
①北山王時代(13世紀末~1416年)
②第一監守時代(1417年~1469年)
③第二監守時代(前期)(1470年~1609年)
④第二監守時代(後期)(1610年~1665年)
⑤間切時代(前期)(1666年~1871年)
⑥間切時代(後期)(1872年~1907年)
⑦村政時代(前期)(1908年~1945年)
⑧村政時代(後期)(1946年~現在)
16日(水)には、親川から今帰仁グスクまでハンタ道を通り、実際に歴史の痕跡を見つけながらの学習と踏査となる。お楽しみに!!
各時代の特徴とこれからの取り組みの説明はうし丸と館長でした。資料づくりはこずでした。
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▲各時代をパネルで説明。これからが楽しいのだが・・・大丈夫かな生徒たち!
2003.7.6(日)
月は
休館日です。中部にある高校まで行きます。ちょっと散歩する時間あるかな?
来週の火・金に総合的学習(歴史・自然)あり。16日にもあり(歴史)。準備なしの課外授業をやっているようなもんです。工夫して臨みますから。お楽しみに!
国頭村の神アサギについて来客の予定(火)あり。「山原一〇〇年」の出版物の飛び込みあり。
一日写真整理と目次、そして原稿校正と動きが取れません。それで、今日の書き込みなしです。では、では来週。
2003.7.5(土)
12日(土)は
ムラ・シマ講座が行われます。今帰仁村勢理客を予定しています。詳細は
ムラ・シマ講座を参照してください。
午後一番で伊是名村から親子31名がやってきた。今帰仁グスクを見学した後、歴史文化センターまで。今日は、名護青年の家に一泊のようだ。小学生から大人までなので、伊是名と運天港の関わりについて。明治以前は伊是名島と運天港が航路であった。エンジンのついた船になると伊是名島と渡久地港へ変更。そして平成になると再び伊是名島と運天港を結ぶ航路となります。そして今帰仁グスクの話。
小学生達に「アサギみてきた?」きょとんとしているので、「もう一度神アサギみてきて・・・」「伊是名に神アサギありますか?」「は~い」 沖縄本島北部と伊是名・伊平屋に神アサギがあります。神アサギがあることは、そのムラの歴史の古さを物語っています。「神アサギに入ったことありますか?」子どもたちは「???!!!」「何故、あんなに屋根が低いんでしょうか」と。「伊是名の神アサギと山原(本島北部)の神アサギに違いがあります。それは伊是名の神アサギは旧家の庭にあること。山原の神アサギのほとんどがアサギナーの側にあることです。何故でしょうか」(答えはまだでていません)
(工事中)
2003.7.4(金)
入道雲がもくもくと、空は青く、海も鮮やか、海の向こうの島々もくっきりと見えます。午後から歴文の車を車検へ。そして湧川の水源地と前から話のあった石碑と拓本の件でI氏宅を訪ねた。その途中、墾謝堂共同簡易井戸(昭和九年竣工)をみてきた。クガニムイ(黄金森)のガジマルと根元の古い墓、さらに嵐山の「やまのみち」まで。
次々と7月のスケジュールがはいてきます。なかなか忙しい月になりそうだ。いいことだ?!
旬のパインをほおばりながら、見知らぬ旅人たちとゆんたく。今帰仁をピーアール。展望台での会話を聞いていると、地理感覚がチンプンカンプンの話。ここは羽地内海、そして小さな島はヤガンナ島、その向こうは陸続きのようだが、それは屋我地島、屋我地島の向こう側が現在橋建設中の古宇利島、左手遠くに見えるのが伊是名島と伊平屋島。右手をご覧下さい。遠くに見えるのが沖縄本島最北端の辺戸岬なり。と即席のガイドするなり。
ガイドしてきたからではないが、パイン頂いてきました。もちろん、おいしいパインなので大和にも送りました。頂いたパインは明日食べましょうかね。感謝です。(本日の画像なり)

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▲ソンソンマタからみた羽地内海 ▲嵐山展望台から眺めて羽地内海

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▲墾謝堂の黄金森とガジマルの大木 ▲黄金森の古い墓
2003.7.3(木)
昨日、歴文のHPを愛読されている方がお見えになりました。東京からです。感謝申し上げます。調査や研究もあったのでしょうが、歴文のHPが19日で止まっていたので「倒れているのでは・・・・」と。ご心配いただいた上に、わざわざ来館いただき、ありがとうございます。
このHPは引越しをしたのですが、引越しの手続きがなかなかうまくいかず、事情をご存知ない方々は19日までのを開いていたようです。昨日からジャンプするようになりました。10日余もご迷惑をおかけしました。業者間のやりとりは、素人にはチンプンカンプンです。とにかく、無事引越しできましたので、今後ともよろしくお願いいたします。
わざわざ暑中お見舞いに来館されたのは小林文人先生(今では東京学芸大学名誉教授)です。今帰仁村との関わりは20年以上もなるのではないでしょうか。夏になると、学生達を引き連れてZoo設計の今帰仁村中央公民館に来て学生達を指導していたのではないでしょうか?「公民館は活動する場で、公民館の屋根のツタを見なさい。訪ねて来るたびに、コンクリート部分が緑でおわれていくでしょう。成長していくる・・・・」そんな言葉を伺ったような。
今年になって三回目の来館かもしれませんね。歴文で子ども達に授業をしているときも。その後も、腰が痛くなるほど立ち話をしたような。いろいろ思い出してきました。昨日は談話室で座ってでしたね。先生。公民館や社会教育に関する資料、気にとめておきます。公民館の規約の件も。
歴文は調査・研究もありますが、社会教育の一端も担っています。字誌への参加やムラの方々と文化財めぐりをしたり、ムラ・シマ講座を開催したりなど。ミャークニー大会や伝統行事のバックアップしたりもそうです。日常業務のほとんどが社会教育に関わっています。いろいろアドバイスいただければ有り難いです。
2003.7.2(水)
スク(あいごの稚魚)やウニ豊漁について新聞やラジオで流れている。まさに「海の幸」の到来ですね。
時々、村(ムラ)の規模(世帯数・人口)について質問を受けるので、明治13年の「沖縄県統計概表」(『沖縄県史』(20巻)から今帰仁間切の各村の戸数・人口を掲げておくことにする。目安になるでしょう。今帰仁間切の一世帯あたり5.17人である。
〔今帰仁間切〕(明治13年)
No |
村 名 |
戸 数 |
人 口 (計)9568 |
① |
今帰仁村 |
111 |
男269 女274 (計) 543 |
② |
親泊村 |
226 |
男626 女561 (計)1187 |
③ |
兼次村 |
79 |
男177 女203 (計) 380 |
④ |
志慶真村 |
28 |
男 82 女 66 (計) 148 |
⑤ |
諸喜田村 |
94 |
男237 女201 (計) 438 |
⑥ |
与那嶺村 |
93 |
男252 女232 (計) 484 |
⑦ |
仲尾次村 |
76 |
男182 女178 (計) 360 |
⑧ |
平敷村 |
81 |
男194 女199 (計) 393 |
⑨ |
崎山村 |
108 |
男243 女231 (計) 474 |
⑩ |
謝名村 |
163 |
男380 女379 (計) 759 |
⑪ |
仲宗根村 |
123 |
男304 女316 (計) 620 |
⑫ |
岸本村 |
29 |
男89 女 80 (計) 169 |
⑬ |
玉城村 |
35 |
男 69 女 65 (計) 138 |
⑭ |
寒水村 |
13 |
男42 女26 (計) 68 |
⑮ |
湧川村 |
168 |
男503 女483 (計) 986 |
⑯ |
天底村 |
73 |
男179 女157 (計) 336 |
⑰ |
勢理客村 |
126 |
男325 女275 (計) 600 |
⑱ |
上運天村 |
133 |
男324 女290 (計) 614 |
⑲ |
運天村 |
70 |
男184 女148 (計) 332 |
⑳ |
古宇利村 |
123 |
男286 女253 (計) 539 |
上の表から明治36年に合併した志慶真村が28戸、岸本村が29戸、玉城村が35戸、寒水村が13戸と戸数が極めて少ない村であった。合併の理由の一因は戸数(人口)にあったのであろう。但、今帰仁村と親泊村の合併は戸数の問題ではなさそうである。
明治13年の今帰仁間切の各村の戸数や人口は、ムラ・シマの規模をみていく目安になる数字である。
因みに企画展を行う「本部間切具志堅村」は戸数253戸は伊豆味村の334戸に次いで二位、人口は具志堅村が1166人で一位である。その頃には具志堅村は上間村と真部村と具志堅村が合併して間もない頃のようである。
2003.7.1(火)
7月です。外は夏真っ盛り。この頃、雨がなくダムや川の水量が減り、川膚が目立ちます。今年は旱魃の夏になるかも! 適度の雨が降ってくれないと困ります。
琉球大学図書館の「島袋源七文庫」に『土地整理ニ関スル書類綴』(真喜屋村・稲嶺村事務所)(明治32年)がある。最後の土地替え(地割)の協議事項認可申請書である。今帰仁間切(村)では、このような地割に関する文書資料がまだ確認されていない。
羽地間切真喜屋村と稲嶺村の土地替えの「旧持地数」と「新持地数」、その「変更の事由」を見ていくとだけでも、当時の土地配分(土地替えの変更)の様子が見えてくる。配当を受ける年齢の家族が増えたり、配当を受けていた人が死亡などで減になったり、雇人の分は雇主が配当を受けていたが今回は雇人本人に配当されているなど、なかなか興味深い。
下の表には見えないが、
宿道ハ幅八尺以上トシ左右ニ各六尺ノ余地ヲ置キ(水田貫通スル
時ハ余地ヲ設ケズ)
脇道ハ幅五尺以上、原路ハ幅三尺以上、防堤ハ幅七尺トスル事
などと、当時の道筋の幅なども規格があり管理されていたことがわかる。また、二十歳を過ぎて新しく屋敷の配当を受ける場合、屋敷は四十坪を超えることは許されなかった。因みに明治三二年「分家ノ為ニ屋敷地トシテ配当スベキ人」は三二名いた。
満二十歳以上ノ者ニシテ新ニ屋敷ノ配当ヲ受ケントスル者ハ明治
三十二年六月三日迄ニ申シ出ル事但一戸ノ配当坪数ハ四十坪ヲ
越ルヲ許サザル事
新持地数 |
旧持地数 |
変更の事由 |
番地身分屋号 |
氏 名 |
壱地五分 |
弐地五分 |
配当ヲ受クベキ人員ノ減少セシニ依ル |
一番地平民蔵原屋 |
親川平三郎 |
三地五分 |
四 地 |
配当ヲ受クベキ人員ノ減少セシニ依ル |
三番地平民舛取屋 |
島袋善三郎 |
弐 地 |
参 地 |
仝 上 |
四番地平民□門 |
島袋善太郎 |
弐地七分 |
壱地五分 |
配当ヲ受クベキ人員ノ増加セシニ依ル |
五番地平民上里屋 |
上里角次郎 |
弐地五分 |
弐 地 |
仝 上 |
六番地平民ヨガフ屋 |
与那嶺豊三郎 |
壱地五分 |
|
雇人ノ配当地ハ其雇主ニ配当セシモ今回ハ本人ニ配当セシニ依ル |
七番地平民宮里屋小 |
宮里吉蔵 |
弐地四分 |
壱 地 |
配当ヲ受クベキ人員ノ増加セシニ依ル |
九番地平民宮平屋 |
宮平林三 |
(続くが以下省略)

▲「持地人各自の持t地数」の一部
宿泊の家
.

