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2002年3月1日(金)
おはようございます。今日から3月になりますね、新しい月のスタートです。沖縄県地域協議会の研修会に参加(朝の書き込み)。
会員が90名近く参加したのでしょうか。地域史協議会は毎年3回の研修会を開催している。1回は5月か6月に開催され、出版された市町村史の合評会やテーマを設定して講演や報告がなされる。8月~10月にかけて奄美から与那国島に至る島々のどこかにか行っている。新年度は大東島だとか。因みに昨年夏は与那国だった(私は不参加)。3回目は沖縄県公文書館での開催。その3回目の研修が今日公文書館で行われた。
さて、今回の研修会は今泉裕美子さん(法政大学・国際文化学部専任講師)による「日本の南洋群島政策と移民」であった。1.南洋移民を生み出した契機 2.南洋移民政策―政策決定過程から特徴づけられるもの 3.移民の動きからみた政策 4.南洋移民研究の視点と方法 についての講演でした。フロアからいくつか質問があった。今回お聞きすることができなかった。南米・ハワイ・米国、あるいは満州や南洋など、移り住んでいく人達の意識はどうだったのか。米国に行くのか、南米にいくのか。国策であったり、呼び寄せであったり、要因は様々であるが南洋の「移民」についての研究の薄さもそこらへんにあるのだろうか。逆に南洋に移り住んだ人々の一世、二世などは故郷の沖縄にどう向いているのだろうか。
加島由美子さん(糸満市史)の報告でハワイの沖縄一世の家の様子をスライドで紹介してくれた。沖縄を離れた人々の故郷に向う視線がよくみえた。それは沖縄から関西に住んでいる人たちと近いものがある(視点として)。南洋はどうだろうか。同様であろうか。「移民」をすることの動機はいろいろあるが、国を越えた現地での生活がどうなのか、そのへんのところから南洋移民の姿がみえると、なぜ、移民研究をするのが、すべきなのか。その視点が見えてきそうだが(そう単純なものではないことは十分承知。勝手な期待)。
報告は加島さん(糸満市史)から「ハワイ移民調査報告」があった。ハワイに行くまでの下調べの様子、そしてハワイでの調査の様子。ハワイに住む一世や帰米二世などの生活の状況、向うで手にした資料(渡航許可証・パスポート・戸籍など)の紹介などがなされた。
大城達宏さん(豊見城村史)が「『豊見城村史 第6巻・戦争編』について」の報告があった。1.発刊までの経緯 2.沖縄戦字別調査と「第5章 字にみる沖縄戦」 3.体験談の収集 4.現地(視察)調査、それから内容面について、1.特徴 2.沖縄方面根拠地隊(沖根)につて 3.大田英雄氏の特別起稿 4.付録についての内容について報告があった。豊見城村内にある戦争に関わる施設と村民の動きや関わりの調査、調査する、それを編集していくバランス感覚。大田司令官の子息の特別寄稿は、「戦争とは何か」について考えさせる報告であった。
最後に榮野川敦さん(具志川市史)(事務局)から「沖縄県メーリングリストについて」「琉球デジタルアーカイブ事業について」の事務連絡があった。新年度から地域史にも関わってくるかもしれない事業である(未定)。
参加者の顔が大分入れ代わっている。私たち(?)は、もう古参組みだ。報告を聞いていても、「30代のメンバーがしっかり着実にやっているな」との印象をうけた。懇親会に参加できず残念。4月から、また新しいメンバーも加わってくるだろうし、古参グループも若者からエネルギーをもらわんといかんな。ハイ。(晩の書き込み)
2002年3月2日(土)
「エイサー」をテーマにしている院生がやってきた。提出したレポートを手に。なかなか面白い。中部の市のエイサーや青年会を中心にまとめている。昨日のテーマが移民だったので、それにかけて話が展開した。例えば、ハワイや南米、あるいは関西でエイサーをやる、やっているとなるとテーマがはっきりする。ところが沖縄内で現在行われているエイサーをテーマにするとき、なかなか難しい。現在という、またマチという中で一つ一つ回りの不必要なものを削ぎ落としていくことでエイサーが浮き彫りにできそうだ。
国頭村と大宜味村のエイサーに話が及んだ。まだ、調査をするに及んでいないが、大宜味村大宜味のエンサー(大宜味村ではエンサーという)をみたことがある。女性だけのエンサーであった。その時の印象は、それは「ウシデークではないのか」ということ。今でもそう考えている。ウシデークにエンサーがくっついているのではないか。ウシデークであれば、それは海神祭やシニグと深く関わってくるし、またエイサーの導入の時期などもわかってくるかもしれない。今年の夏はそんなことも念頭に入れて見ることにする。大宜味村大宜味は神アサギが舞台になって豊年祭を行っている。
舞台(神アサギ兼用)の後方にニーヤーがあり、そこに竹筒と木箱があり、木箱に布が入っている(詳細な調査は未)。竹筒には「大宜味間切西掟・・・」とある。何に使われたのかはっきりしない。位牌は新しく仕立てられているが山川親雲上や親田親雲上などがある。大宜味間切の地頭代は山川親雲上、夫地頭の一人は親田親雲上を名乗るので、ニーヤーから地頭代や夫地頭を出した旧家であることがわかる。
2002年3月3日(日)
午後から天気が回復。3時便で伊江島に渡る。本部新港から伊江島に渡るが久しぶりである。今回は阿波根昌鴻氏の資料調査である。参加者は一日から進めている。今回はほとんど手伝えそうにないが、お酒でも差し入れようか。阿波根氏の資料調査は「戦争と平和」と真摯に向かい合うことでもある。物資料を手にすることになるが、真っ白な気持ちで手にしようと思う。まだ逢ったことのない人と出会う緊張感と不安さがよぎる。古文書や歴史史料との出会いとは違いますからね。行ってきます。四日の最終便で帰路の予定。
2002年3月5日(火)
伊江島の島村屋を訪ねた。三年前に島村屋の展示をしたことがある。その後、どうなっているのだろうか。気になっていた。シロアリの巣だらけの館の後に、残された資料をどう展示していこうか、頭をひねったことを思い出した。シロアリの怖さを見せつけられたものでした。物の四分の一は処分しただろうか。涙をのんだものだ。急ぎでの展示展示作業であった。歴文で展示プランを作成し、島の現場で確認し、メモを持ち帰って展示物を歴文で作成し、さらに島で展示するといった作業であった。懐かしい思い出の一つだね。ゆっくり展示を見て、積み残した分は補充し、責めを果たそうと思う。
今回は島村屋の原石(印部土手・印部石・土手(ドゥティ)などの呼称)が気になっていたので、その調査が目的の一つにあった。そのまま、あった(当然のことですが)。展示作業に追われ、撮影や文字の判読さえしていなかった。今回も5分間の調査(そんなの調査と言えませんがね)。でも、山原の原石のところで「伊江島の原石」としてちゃんと報告するよ。ここでは、様子のみ。
伊江島を訪ねたら島村屋にも立ち寄ってください。悲しい物語、伊江島ハンドゥグヮーの等身大の像もありますよ。生きたハブもいます?イイタッチュ(城山)が背景におさまります。ハイ、ぱちり。四日の早朝、イータッチュ(城山)の頂上まで登ってみました。朝日が沖縄本島の国頭・大宜味の山並みの方にのぞめました。帰りは船の時間を間違え、ボートをチャーター(謝花さん、ありがとうございました)。
阿波根昌鴻氏の資料調査の報告は改めてします(まだ、作業中)。
▲伊江島「島村屋」の原石
2002年3月6日(水)
急に冬に逆もどり。夏スタイルに切り換えたばかりなのに。治りかけた風邪をぶりかえさないように。今日は『なきじん研究』11号の写真の選び出し。明日、印刷会社がやってくる。今日で、どこまで詰められるか。まだ、守り。早く攻めに持っていかねば。ハイ。
国頭村の比地は、印象深いムラの一つである。山原のムラの原風景を見つけることができたからである。今帰仁でいくつか、ムラの法則性を見つけ出していた。それが山原のムラで適用できるかどうか。そんな思いで行ったムラであったからである。
また、平成10年9月15日に「比地の海神祭」の調査をしたことがある。比地→奥間→鏡地の海岸まで同行し、記録したことがある。「比地の海神祭」については、調査ノートがあるので、改めてシリーズで紹介することにする。
比地は国頭村の一つの字で、奥間ノロが管轄するムラである。国道から奥間の平野(かつての水田地帯)を比地川に沿って山手に入っていく。間もなくすると、比地の字の掲示板に突き当たる。「字比地」と書かれていて、なるほど「そこが比地なのだ」と納得させられる。その掲示板の下に「ぬ ひち原」の原石があり、これまた歴史史料でムラの存在をアピールしているかのようだ。さらに根を張った大きなガジマルの木があり、ムラの歴史の重みを見せつけている。こういうムラから、学ぶこと多くいつも圧倒される。
ガジマルのある場所は、かつての村屋(ムラヤー・公民館)があった場所である。今では村屋は別の場所に移り、モダンな建物となっている。村屋跡の庭を通り、神道だろうか? 後方の森へと続く小道がある。曲がりくねって登っていくと、所々に福木の大木や屋敷跡の石垣などがある。それと火神の祠がいくつもある。祠を除くと火神や位牌などが置かれて、拝みにくる人たちが今でもいるようだ。豚小屋や水道や建物の礎石などがあり、人の生活がまだ残っている。あちこちに人家のあったテラスがいくつも見ることができる。森の斜面にムラの人々は家を構え生活していたのである。集落の後方の森は小玉森と呼ばれているようだ。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる比地村の小玉森のことだろう。他に幸地嶽とキンナ嶽もみえ、比地村は三つのマク・マキヨの集団からなる村なのかもしれない。
小玉森の頂上部に神アサギがある。そこで海神祭が行われる。
▲弓で猪をいる場面(比地のアサギナー) ▲奥間のアサギナーで
小玉森の中に神アサギやノロ家跡や神屋などがある。周辺に数本の赤木の大木があり、その下に香炉が置かれている。海神祭のときそれぞれの門中が赤木の下の香炉の前に集りゴザやムシロを敷いて座る。そこにご馳走が出され一門が揃って直会をする。また、神アサギの中にはノロをはじめ神人たちが座っている。神人を出している一門の人たちが神人の前に行き神酒を頂いたり祈りをしたり、談笑したりする。神アサギ・集落・御嶽が一つの森(小玉森)にあり、ムラの原風景そのものを描きだすことができ、その風景を見る思いがする(平成10年「調査ノート」より)。
2002年3月7日(金)
昨日からPCの調子が不調。そのため更新ができず。今日は10日に開催される「名桜大学の公開講座」の準備。根謝銘グスク(大宜味村謝名城)と今帰仁グスク(今帰仁村)については、説明せんといかんようだ。根謝銘グスクの説明は非常に難しい。また関心のある方々が集まりそうで、いくつか視点を持って説明する必要がありそうだ。どんな説明になるか、これから考えてみよう。PCの調子はどうだろうか。更新できるかな?
とりあえずテストじゃ。
2002年3月9日(土)
※お詫び
ホームページをご覧の皆様へ、数日間PCの不調のためホームページの更新を一時中断しましたことをお詫びいたします。また、文化センター宛てへのメールと職員宛てへのメールも一時不通となっていましたことをお詫びいたします。
■根謝銘グスク(大宜味村謝名城)
10日(日)は「山原学講座」(名桜大学)で山原の主な三つのグスクをまわる。名護グスク→根謝銘グスク→今帰仁グスクのコース。名護グスクは中村氏(名桜大学教授)がなさるだろうから、根謝銘グスクと今帰仁グスクについて頭の整理をしておくことにしよう。
さて、根謝銘グスクは大宜味村字謝名城にあるグスクである。標高110mほどの山頂にある。国頭グスクあるいはウイ(上)グスクと呼ぶ方もいる。ここでは根謝銘グスクと記すことにする。根謝銘グスクの存在は近世初期の『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』に「城村」とあり、グスクの存在が村名に反映しているとみてよさそうだ。
根謝銘グスクの登り口に元文検地(1737~1750年)に使われた原石(土手・印部石など)があった(現在不明?)。それに「ゑ こすく原」とあり、グスクが原名につけられ、グスクの存在が認識されていたことがわかる。現在でも謝名城の小字として「城原」がある。
根謝銘グスクはウイグスク(上グスク)とも呼ばれ、それはグスク全体の呼び方。ウイグスク内に、さらにウフグスク(大城)とナカグスク(中城)がある。ウフグスクは田嘉里(親田・屋嘉比・美里が合併)のウタキ、ナカグスクは謝名城(根謝銘・一名代・城が合併)が左縄(ピジャイナー)を張り巡らし、謝名城のウタキとなっている。根謝銘グスクをめぐって間切の分離・複数の御嶽・ノロ管轄・ムラ移動・合併など幾つもの要因が重なっており、かなり複雑で整理するのになかなか難しそうだ。
「沖縄の歴史」の三山鼎時代は沖縄本島が北山・中山・南山の三山が鼎立していた。その時代の山原は今帰仁グスクを中心として統治されていた。今帰仁グスクを頂点に名護グスク・親川(羽地)グスク・根謝銘グスク・金武グスクがあった。山原の五つのグスクは、後に間切区分のベースとなっている。根謝銘グスクは国頭地方をまとめあげたグスクとみなしてよさそうである。そういったことを前提に明日の根謝銘グスクは、
1.面としての根謝銘グスク(別名ウイグスク)
2.発掘遺物からみた根謝銘グスク
3.祭祀からみた根謝銘グスク
4.もう一つの歴史
5.国頭地方の拠点となったグスク
6.屋嘉比港とグスク
などについて話することになろうか。これから、少し資料の整理をしてみる。そういえば、掘切や地頭火神の話もあったな! ああ、根謝銘グスクから見た今帰仁グスクへの視点もあった。それでもなかなか手ごわい根謝銘グスクだ。現場で参加者と楽しいグスク論に花でも咲かそうか! 私のグスク論は「石積を取っ払ってみよう。さて、何が残るか?」そこからスタートである。現場でどんなグスクが見えてくるか。今晩の夢でグスク像が、きっと出てくるに違いない。イヤ。朝、目が覚めたら忘れているかもしれないな。(遠くから按司居住地だ・聖域だ・集落だ・墓地だなどの声が聞こえてきそうだ。ハイ。どっちも正しいでしょう(要は他人の考えを受け入れる慣用さとスタンスの問題)。
2002年3月11日(月)
午前中「大阪市立大学中世史研究会」のメンバーがやってきた。7日から12日までの日程。これから久高島までいかれるようだ。今帰仁では歴文で展示や歴史のレクチャー。そして「神人」の映画の前半部分を見ていただいた。それから今帰仁グスクへ。時間があれば運天港までの予定でしたがお昼時間がなくなるということで、今帰仁グスクまで。館内はクン蒸作業を進めながら.......。
備前焼きのすり鉢についての質問が二人からあった。以前にも答えたことがある。大和産(備前)の備前焼きの擂鉢(すりばち)についても少し触れた。今帰仁グスクの志慶真郭から出土している備前焼きの擂鉢の欠片は4点である。14世紀中葉のものと、15世紀末から16世紀のものと報告されている(『今帰仁城跡発掘調査報告Ⅰ』1983年)。現在、展示してあるのは本丸(主郭)出土のもの(15~17世紀前半)である。下図は志慶真郭出土の備前焼きの擂鉢の破片である。(同上報告書より)
この備前焼きの擂鉢が備前から単独で移入されたのではないであろう。大和から鉄や鎧などの武具などの移入があるので、一緒にきた可能性が高い。特に備前焼きは鉄と一緒にきたのではないか。また、当時沖縄の焼き物はグスク系の土器の時代であれば、すり鉢を容器として自前でつくっていなかったのではないか。移入された容器の一つだったと見た方がいいかもしれない。
また、塀に囲まれた集落を研究している方から質問をうけた。沖縄のグスクは、集落であったのが石囲いで城壁を築き、支配者のみが居住し、一般の人たちは城壁外へ出していったと考えた方がよさそうだ。城壁を築くことのなかった集落が山原では丘陵の斜面に残っているということだろう。
2002年3月10日(日)
「山原学講座」(名桜大学)で名護グスク・根謝銘グスク・今帰仁グスクと回った(説明は中村と仲原。参加者約20名)。城壁のない名護グスク。それが特徴でもある。名護グスクの斜面に残るヌルドゥンチ跡・ニーガミヤーの跡・名幸の祠・フスミヤーの祠などは、かつての住居地の痕跡が火神の祠として遺し今に伝えている。それらを構築して、かつてのムラの形を復元する作業が頭の中でできそうだ。神アサギのあるナー(広場)もいいが、名護グスクの旧道もまたいいもんだ。ゆったりとした時間の流れの有難さを肌で感じ取ることのできる空間である。
三つのグスクに共通してあるのが神アサギと御嶽(ウタキ)、そして住居(支配者の居住地かどうかは別にして)である。それはグスクに限らず古ムラ(古い集落)にみることができる。それと地形的には100m近い丘陵やその斜面を利用してグスクが形成されている。本来、グスクや御嶽の中に集落が形成されているのをみかける。グスク内に次第に地域を統括する権力者のみが住むようになり、権力者は外来の鉄や陶磁器など移入する。それがさらに勢力を伸ばしていく。グスク内に散在している鉄器や陶磁器類の遺物は、勢力を伸ばしていく大きな要因になったみることができそうだ。
山原の名護グスクや根謝銘グスク、そして親川(羽地)グスクや金武グスクを中堅クラスのグスクと呼んでいる。それは規模というより勢力としてみた場合である。グスクの成り立ちや規模や勢力からして、今帰仁グスクには圧倒されるのがある。今帰仁グスクも他のグスク同様、中規模の勢力を持つ時代があったにちがいない。山原の他の中堅規模のグスクを支配下に治めていくことで、他のグスクと桁違いの勢力に成長していったであろう。中国と交易をした山北王の出現は、北山という小国家を形成していった。今帰仁グスクの迫力に納得させられるのがある。
山原のグスクの形成過程は、各地の小さなグスクやムラ(マクやマキヨ)が、国頭地方では根謝銘(国頭)グスク、羽地地方が親川(羽地)グスク、名護地方が名護グスク、金武地方が金武グスク、そして本部半島は今帰仁グスクへ統括されていった。それが後の間切区分へとつながっていく。さらに五つの地方をまとめあげていったのが今帰仁グスクである。そのような動きが北山という小国家の頂点に押し上げていった過程が想定できそうである。それと御嶽や神アサギなどの神人の祭祀の世界。国の貢(租税)の制度という視点でみていくと、祭政一致の国の姿が見えてくる。
山原のグスク巡りは、北山という国の成り立ちを様々な視点で考えることでもあった。ここでは述べないが『明実録』から山北王の国としての世界も見えてくる。グスクを足で眼でみていくことは、山原学の歴史という軸線をしっかりと確立していく作業でもある。
グスクを歩きながら、また説明しながら頭の中でそんなことを考えていた。(昨晩は夢でなにもみなかったようだ。あじゃー)。参加者のみなさんお疲れ様。来週は山原の津口(港)を回ります。足腰を鍛えるつもりで懲りずに、どうぞ。(名桜大学の「山原学講座」のコマーシルじゃ)
2002年3月13日(水)
今日は運天の字誌がある。今回は「屋号」について進めることにしよう。屋号は各家につけられた名称である。屋号はその家をさす指標と言った方がいいのかもしれない。姓・名前・場所・地理・身体的特徴・役職など様々である。これから字誌の資料づくりじゃ。
館内のくん蒸で館を追い出され二日間、職員は天日での虫干しをしたのでしょうか(まだ、聞いていない)。午前中は、くん蒸のため外に避難させてあった食器類や冷蔵庫内のものをもとの場所へ。くん蒸で大きなムシ類の屍骸がいないことは喜ぶべきか。悲しむべきか!休むと調子を取り戻すのに時間がかかる。午後からボツボツ調子をあげていくぞ。.......とり急ぎ開館のお知らせです。
午前中は新潟県教育大学付属中の生徒(4名)がやってきた。沖縄のグスク(今帰仁グスク・具志川グスク・豊見城グスクなど)について学習しようと。県内の「球陽高校」(39名)が総合的な学習で沖縄の歴史を学ぶ。7時から「運天の字誌」だ。書き込む時間なし。それ、出発だ!!。
2002年3月14日(木)
『なきじん研究』(11号)の校正にはいている。なにか懐かしい原稿である。平成2年から10年まで、写真を手がかりに100回、シリーズで書き綴ってきた。10年という歳月は、あっという間だったような気がする。その間、職員たちの後押しがあったことはいうまでもない。感謝ですね。そんなことを振り返りながらの校正。HPで書いたり、まとめたりしているのも、回りの方々の手助けがあってのこと。そして画面の向こう側の方々にも感謝ですね。いつも、しゃべりながら、そして現場を歩きながらまとめていくスタイルをとってきた。もちろん、今でもそうである。ここ7ケ月はPCに向って書き込みをはじめている。生産的ではあるが、公にしているという意識もあって六分、七分の内容に留めている。そうなるとストレスがたまりますね。それは個人的なことだから、どうでもいいのじゃ。
振りかえれば、一つひとつは一夜漬けの原稿だったように思う。締め切り前にまとめあげたのは数える程だった。そういった原稿ではあるが、10年という歳月の重み実感している。しばらく、10年の歳月の長さと重みをかみしめながらの作業がつづきそうだ。HPで書き込んでいるものも、10年の歳月がたったとき、そんな思いで校正しているような気がする。下の写真はその中の二枚である。
▲今帰仁村役所(昭和22年建立) ▲当時の村役所の職員
2002年3月15日(金)
早朝から球陽高校(沖縄県内)の学習。歴文と今帰仁グスク。生徒達は外国への研修授業が予定されていたらしい。ところが昨年9月のテロ事件のあおりで県内の研修となったようだ。たまたま、外国を楽しみにしていたのに「本土でもない。離島でもない。本島北部になったバーよ」と生徒の声を耳にした。「しめた」歴文には外国に留学してから、「沖縄の歴史や文化をしらなくて困った」とやってくる学生達がよくいる。そうならない為に、今日は琉球国、山北・中山・南山という過去の外国へタイムスリップしてみよう。という学習とあいなりました。生徒の中に歴文の展示に「うちのオバーが展示されているよ」誇らしげ。みんなにも「彼女の将来は、あのやさしそうなオバーだな」と紹介。何名かは納得した様子。外国に留学する意義は理解できたでしょうか。
「一人ひとりが何故そこに人間として存在するのか?」それを様々な学問で見極め、人を通して確認していく作業が総合的な学習なのだぞ。グスクで生徒達と記念写真。球陽高校の皆さん、いい感性持っています。がんばれ!!!
午後から伊江島から素焼きの厨子甕の移動があり(今帰仁村字諸志の墓へ)、その立会い調査がありました。(私は伊江島に行けず)
下の写真は昭和35か36年、今帰仁グスク内で行われた海神祭(ウンジャミ)が終わりシバンティナ浜へとグスクを降りる場面である。今帰仁グスクの正門(平郎門)がまだ積まれていない頃。グスク内で祭祀を行って降りていくところ。白装束に白鉢巻をした神人と区長さんと書記さん? 肩にご馳走(?)の入った包みを担いだ女の子。神人はヌミ(弓)を手に白鉢巻をし、これからシバンティナの浜に向うのでしょう。ここではウンジャミ(海神祭)ともいい、また城折目(グスクウイミ)や大折目(ウプウイミ)ともいう。七月の盆明けの亥の日に行われる。この祭祀は三日に行われるが1日目(戌の日)がウーニフジ(舟漕ぎ)、2日目(亥の日)が海神祭(ウプウイミ・グスクウイミ)・3日目(子の日)がシマウイミ・トントトトンという。
▲今帰仁グスク内での海神祭(ウンジャミ)の
祭祀が終わりシバンティの浜へ向うところ。
2002年3月16日土)
明日は「山原学講座」(名桜大学)がある。テーマは「山原の津口(港)」である。津口(港)がテーマであるが、今考えているコースは、
・渡久地港(本部町)
・炬港(今帰仁村)
・運天港(今帰仁村)
・勘定納港(旧羽地村)
・塩屋(大宜味村)
である。山原に数多くある津口(港)を通して、ムラ・シマを見て行こうと考えている。デジュメをつくるが、どんな内容になるかはこれから。資料を整理していく作業で中身を考えていく。雨天の場合は、歴文で津口(港)をスライドでやろうかな。(4枚のスライド写真は故メルビン・ハッキンス氏提供・歴文所蔵)
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▲左上伊江港(昭和30年代) ▲上右伊江島の港(昭和30年代)
▲左下渡久地港(昭和27年頃) ▲下右本部町渡久地の市場(昭和20年代)
2002年3月17日(日)
名桜大学を午前10時過ぎに出発。名護・今帰仁・本部の境、そこは三土手(ミツドテ)と呼んでいる。首里王府からの達(タッシ)が各間切番所に届けられる。その道筋を宿道(すくみち)という。その宿道が今帰仁・本部・名護に分かれる分岐点が三土手である。名護間切の役人が今帰仁と本部への達を運んでくる。今帰仁と本部間切の役人が達を受け取るために三土手にやってくる。受け取ってそれぞれの番所に届ける。その街道を宿道というのだね。きっと幽霊も神さまもお通りになったのでしょうね。バスの中で案内文を見たら「津口(港)・宿道をあるく」とあり、ギョギョ。宿道の資料はナシでした。それで「宿道とは」と最初に説明することに相成り。
渡久地港・炬港・運天港・勘定納港・塩屋港(湾)については、シリーズで紹介する予定なり(結構長い原稿)。今日のコースは初めて。いや、山原の物の流れを眺めていくのに格好のテーマだと思ったですね。『なきじん研究 9-山原の港-』について報告してあります。
2002年18日(月)
本日は休館なり(午前中の予定キャンセル)。
午後から、プライベートで那覇まで行くなり。
(今日の書き込みなしです。昨日で使い果たしました)
2002年3月19日(火)
今帰仁村民劇「風雲 北山城」の上演が近づいてきた。これから、会場へ。激励のことばをかけてきます。一時間半の番組。出演者にも余裕がでてきたため、感情移入もみられるようになった。もう、一ふんばり。出演者、そして裏方さんご苦労さん。成功間違いなし。
2002年3月20日(水)
「津波(大宜味村)を行く」をシリーズでUPしてみた。4年前の調査ノートを整理してみた。ここ4年で神アサギが作り替えられ(平成12年)、歴文でも「山原の神アサギ」の企画展(平成9年)を開催している。ムラ・シマそのもの、そして歴文も刻々と動いていることを実感させられる。
ここ何日か、書き込みが中途半端が続いている。5時後の書き込みなので、夕方から何か入ると尻切れトンボになるなり。「村民劇 風雲 北山城」の練習に顔を出している。そのため7時半の男を続けている。いよいよ明日が本番。出演者は、大分余裕が出てきたようだ。明日、最後の通しの練習が一回残すのみ。手作りの舞台ですからね。見事なもんですよ。見ないのがソンソン。村のひとたちの底力を見せつられる思いです。一時間半の劇を一週間ずっと見つづけてきた。何もせず腕組みをして。罪滅ぼしに、第一幕、第二幕.......とつくっている最中。明日の劇が終わると本業に戻れるぞ。じゃがね。出演者はじめ裏方さん、みんなごくろうさん。
2002年3月22日(金)
昨日朝、数名の方から阿波根さんの訃報の電話とメールをいただいた。「反戦平和」もあるが、人間阿波根昌鴻に学ぶことが多かったですね。3月3日4日伊江島に渡り、阿波根昌鴻氏の資料整理の手伝いをさせてもらった。2日間倉庫の一つの整理を見守ったのであるが、阿波根昌鴻という人物の生き様を見せつけられましたね。一つひとつの物について謝花さんのコメントがあり、貴重な時間を得ることができたと感謝しています。
また、1993年10月沖縄県地域史協議会の研修会が「わびあいの里」でありました。阿波根さんの1時間余の話で「地獄は戦争より残酷ではない」「助けあって生きる地球の上の人間」という考え方が強烈に印象に残っています。歴文の準備室時代、「伊江島への思い」(『あしびなぁ―伊江島特集―』1994年3月発行)として一文書きました。カミナリが鳴り響く中、阿波根さんのことと伊江島のことを思い出した一日でした(合掌)。下の写真は1993年10月沖縄県地域史協議会の伊江島研修のとき、阿波根昌鴻さんからお話を伺ったときの様子です。
▲阿波根昌鴻さんから話を聞く(1993年10月) ▲イイタッチュー(1993年10月)
2002年3年24日(日)
23日(土)琉球王国評定所刊行事業完了記念シンポジウムが浦添市民会館(中ホール)で開催された。「評定所文書」は利用させていただいているし、これからも活用していく史料である。刊行にあたって関わって来られた方々の生の声が聞けることは非常にありがたい。史料の収集、翻刻、そして刊行という長年のご苦労の上に研究が進んでいることを実感させられた。「百田紙に記された琉球の近世」。
記念講演
・「幕末期の琉球貿易」.......上原兼善(岡山大学教授)
研究報告
・「総論 琉球評定所文書刊行の意義」……高良倉吉(琉球大学教授)
・「評定所文書の文書形態」……小野まさ子(県文化振興会史料編集
室主任専門員)
・「異国船の琉球来航と王府の対応」……島尻克美(那覇市市民文化
部歴史資料室主査)
・「評定所文書にみる民衆」……豊見山和行(琉球大学助教授)
討 論
高良 倉吉(琉球大学教授)
上原 兼善(岡山大学教授)
小野 まさ子(県文化振興会史料編集 室主任専門員)
原口 泉(鹿児島大学教授)
島尻 克美(那覇市市民文化部歴史 資料室主査)
赤嶺 政信(琉球大学教授)
豊見山 和行(琉球大学助教授)
深沢 秋人(沖縄国際大学非常勤講師)
コメントする力量はありません。幕藩体制下の琉球の姿の一端を垣間見ることができた。「琉球王国評定所文書」(一巻)所収の「大島より送参候漂着唐人滞在中日記」(乾隆七年・1742年)を思い出していた。乾隆6年(1741)12月奄美大島に唐船(53人乗)が漂着した出来事があった。漂着した唐船は運天港に回され修理して3月17日に出港していった。その間、運天に唐人を収容している間様々な動きがあった。その時、次のような申し渡しがなされている。
・唐人を囲った近くに地元の人は立ち寄らないように。
・唐人を囲った近辺から女性は通らないこと。
・大和年号は大和名、斗舛・京銭などを唐人に見せないこと。
・村中で大和歌を歌ってはいけない。
・唐人が滞在中、高札をかけないこと。
・火の用心を入念にすること。
また、大和役人の横目達は隣接する浮田港で待機して指示を出している。唐人と直接関わるのは首里王府の役人達である。その時、具志頭親方(蔡温)も下運天にやってきて荷物の積み入れについて質問している。漂着した唐人に対する首里王府や薩摩役人の対応は、琉球王国の大和への顔と中国(清国)への顔をしなければならない状況を端的に示している。「評定所文書」にある一例であるが、幕藩体制下の琉球国の内実を知る貴重な史料が豊富に含まれている(詳細については、「なきじん研究3」参照)。
2002年3月25日(月)
本日、歴文は休館日なり。
午前中、岩手県岩手町の教育委員会から教育長、引率教諭と生徒達の来館あり。歴文と今帰仁グスクまで案内。午後から今帰仁村の教育委員会で交流会の予定あり。
2002年3月26日(火)
いろいろ締め切りがやってくると体調を崩す。
その一。
すきっ腹にシマラッキョウを皿いっぱい食べて翌日は貧血状態(ラッキョウは血圧を下げると聞いているが?、信用していなかった。信用しようかな)。普段、体調がよいときで血圧65~110位。病院でそう言わず測定すると看護婦さんは「????もう一度計りましょうね」ときます。再度計っても同じ。接続線を押したり、器械をたたいたり!!!「大丈夫ですよ。そんなもんですよ」というと、ほっとした表情。機器を信じていないことはいいこと。貧血気味で自動車道(高速)を通り、浦添市での琉球王国評定所刊行事業完了記念シンポジウムに参加でした。体調が悪く懇親会に参加できずでしたね。「いかに血圧を下げると言っても適量に食べること」と回りのアドバイス。ありがとうございますね。と素直にお礼を述べたものの、早く調子を取り戻そうと、残っているシマラッキョウは、それだけでは二の舞いを踏むと思い、サンドイッチと一緒に食べました。一日だけ体調よしでした(救いようがないと回りは.......)。
そのニ。
先日、古宇利小学校の生徒達が学校でつくった黒砂糖をプレゼントに歴文に持ってきてくれました。茶わきに、大事にチビリチビリ食べてきました。三、四センチの一個の塊と入れ物の下に粉状の黒砂糖が残りました。香りが失せかけていたので、香り豊かな古宇利島の砂糖を食べようと思い立ちました。鍋で塊と粉になった黒砂糖を暖め溶かしました。いい香りが事務所中漂いました。鍋の中では黒々と溶けた黒砂糖。ちょっと焦げ目をつけるとサーターナンチチ。あの30数年前、サーターナンチチのおいしかったことが脳裏をよぎったのです。溶けた状態のサーターを口元へ。一瞬、熱いかな?と迷って唇を閉じてしまった(スプンを止めればいいのにさ)。ビーダマほどの熱い熱い黒砂糖が上下の唇にくっついてしまったのです。アチッチチ。チチチ......
今日は口に手を当てて話をしています。「歯が抜けたのですか?」「いや、口内炎でね。イター」「いかに好きでもほどほどに」と、よきアドバイス。ありがとうございます。上下の唇に水ぶくれが一つづつ。口の中は口内炎状態と報告したら、「それはガチマヤーじゃないか」と。トホホホ.......締め切り原稿をどう言い訳して逃げようかと、無意識に覚えた体の反応ですね.......。そうとわかれば片付けるしかないか。水ぶくれ状態になった唇をかみしめながら……頑張るか!
2002年3月27日(水)
午前中名古屋からの来館者あり。今帰仁グスク出土の遺物とグスクの話。9時半からNHK展示物の撮影(7月放映の予定)に立ち会う。28日(午後1時)北山(今帰仁)の歴史番組作成の打ち合わせあり。
午後から原稿の執筆にやっと入る。10数項目終わり。後数項目あり。徹夜状態かな。明日20項目ほど原稿渡しです。中身の書き込みできませんのじゃ。悪しからず。
2002年3月29日(金)
午後2時から歴史文化センターの運営委員会開催。今日の審議は平成13年度の事業報告、そして次年度の計画案が主。その他、研修に参加された委員の先生方の報告がなされました。主な項目を掲げると、
・運営委員会
・沖縄県博物館協会の研修会
・沖縄県地域史協議会の研修会
・第9期ムラ・シマ講座
・学芸員実習
・今帰仁ミャークニー大会
・記録映画「神人」の映写会
・国頭村安田シニグ調査
・今帰仁の文化財ガイド(公民館講座)
・村内の小中校学校の総合的学習
・『なきじん研究11号』の発刊
・古宇利のウンジャミ調査
・その他
などがあります。
もちろん、日常的なレファレンスや窓口業務など盛たくさんあります。そのような事業を報告し、さらに運営委員の先生方に意見を出していただいて次年度に活かしていくことになります。その中で研修報告に話題が展開しすることが度々です。例えば、久米島の「久米島きみはゑ500年」に参加された仲尾次清勇委員長から、展示会のこと、久米島ウミガメ館やホタル館、沖地協での移民や戦時中の最後の打電文の資料の紹介などがありました。さらに森良宣運営委員の方から南洋移民について、ハワイや南米などとは異なるのではないだろうかと感想がありました。
また玉城清運営委員から、ここではテーマにならない門中についての質問があり、それは墓の企画展で取り上げることにしました。その他にいろいろな意見や質問などがありました。喜屋武加代子運営委員の麦テンプラをほうばりながら、ざっくばらんないい会議でした。運営委員の先生方1年間ご苦労様でした。次年度もよろしくお願いします。
みなさん、ありがとう!!!
球陽高校と兼次小学校4年生から、先日行ったレファレンスのお礼の手紙や感想がたくさん届きました。それから「球陽高校」からは「白バラ」(フランス菓子)が届き、生徒さんから留守中電話もあったよし。兼次小学校は担任の奥間先生が歴文まで。ありがとう。みなさんも頑張って。そんなに気を使わなくてもいいのですよ。歴文には!!!(やはり、その反応は有難いですよ。やって、よかったと。こちらも感謝です)
2002年3月30日(土)
外は良い天気。1日中、原稿校正するなり。今晩で一通り済ませることができるかな? 4月の二週目から撮影に入るというテレビ番組(歴史探索 悠久の地・今帰仁)(20分)の打ち合わせ。来週二、三人に出演の依頼をしなければ……ならんのじゃ。
塩屋港(津)をゆく(平成14年3月17日)
3月17日(日)名桜大学の山原学講座で渡久地港(本部町)・炬港(今帰仁村)・運天港(今帰仁村)・勘定納港(旧羽地村)、そして塩屋港(大宜味村)のコースを回った。前日の雨模様から、気持ちよい天気となる。最後の塩屋湾を見下ろせる丘で「山原の港(津)」を歩くことの面白さと机上の知識や議論では味わえない魅力に取りつかれた受講者が何人もでてきた。それは有難いことだ。最後に回った塩屋湾と港。塩屋は大宜味間切の番所が置かれた村でもある。
塩屋港のことをサーインナトゥと呼ばれ、サーは塩屋。インナトゥは港のことである。塩屋の名称は塩田に因んだようで、塩づくりに使った焼けた石が塩屋小学校の裏手の祠に祭られている。『ペリー提督日本遠征記』(歴文所蔵:1854年)には「SHA BAY」とある。塩屋湾をふさぐように宮城島が湾口に浮かぶ。津波―宮城島―塩屋を橋でつないでいる。塩屋に番所が置かれたのは17世紀末頃からだという。田港間切が創設されたのは1673年のこと。後に大宜味間切と改称された。その時、田港村にあった番所を塩屋村に移したようである。田港には今でも地頭代火神の祠が残っている。塩屋にあった番所(後に役場)が明治44年に字大宜味に移し、現在に至っている。大宜味間切時代の番所(役場)は塩屋村に置かれ、同間切の行政の要となっていた。番所跡地に大宜味小学校がある。校内のガジマルの大木が番所跡の証だという。
名護・羽地方面から大宜味間切(村)の塩屋より北の方に行くには塩屋湾を陸路円状に迂回していくか、白浜(渡野喜屋村)から渡し舟で塩屋に渡るか、羽地の仲尾次あたりから舟でいくか、いくつか方法があったようである。乾隆18年(1753)渡野喜屋村でも首里王府役人の検者が材木を積んだ船の荷改めを行っている。昭和7年まで名護からの乗合自動車が白浜まで運行し、そこから塩屋まで渡し舟で客を運んだという。同9年に塩屋湾沿いに大保回りの道路が開通すると、国頭村の辺土名まで運行するようになった。すると白浜と塩屋との渡し舟は姿を消していった。
大宜味間切の番所が塩屋湾に面して置かれたので番所の前の浜は港としての役割を担った。港あたりで塩屋の海神祭(ウンガミ)のハーリーが行われている。下の左側の写真の塩屋湾に突き出た岬の先端部分に番所の建物が確認できる。番所に面した海に二隻の山原船が停泊している。大宜味間切の首里王府への貢納物は塩屋に集積し、塩屋港から直接那覇・泊港へ運ぶもの。仕世上米などは今帰仁間切の運天港へと運んだ。また、薪や炭などを山原船に積み込んで那覇へと向ったという(『大宜味村史』参照)。下の右側の写真は塩屋湾に突き出た岬にある丘から番所跡(塩屋小学校)を眺めたところ。
▲塩屋湾に突き出た岬に番所がある。 ▲岬の丘から見た番所跡(小学校)