2002年2月 トップ(もくじ)へ
2002年2月1日(金)
2月がスタートします。今帰仁グスクの桜が満開。午前中、今帰仁の馬場や馬についての撮影や取材あり。放送は2月17日(日)とか。歴文の馬に関わる道具の撮影。特に仲原馬場の古い写真を使う。馬がサーター車や田を耕している場面など。今帰仁村内に仲原馬場・天底馬場・親泊馬場があった。仲原馬場と親泊馬場はその形を遺している。各ムラにも馬場があったようで、馬持ち達が夕方馬を集めて毛並みをみたり、軽く乗馬でもしたのであろう。馬場はかつての原山勝負の会場であった。現在の産業まつりの会場といったところか。学校に楕円形の運動場がなかった頃、運動会場として使われたりした。親泊(現在の今泊)馬場では棒や獅子舞、あるいは豊年祭の会場にもなっている。
2002年2月4日(日)
今、国頭村の神アサギの調査ノートの整理をしている(「山原の神アサギ」参照)。3、4年前に調査したことがある。大学生たちの学芸員実習で調査し、その成果として「山原の神アサギ」の展示会を開催した。短期間の調査だったため個々のまとめまでできなかった。ここで「まとめ」をしていこうと考えた。あれから3、4年という歳月が過ぎてしまった。その間、造り変えたり、新しい変貌をみせている地域(旧羽地村)がある。
神アサギそのものは、生活の変化と共に変わっていくものだと実感させられている。それにしても神アサギという施設は、山原のムラ・シマを見ていけるキーワードの一つであることに変わりはない。神アサギがあるムラ・シマなのか、ないのか。もう、そこから「ムラ・シマの歴史」の紐解きが始まっているのである。さらにムラ・シマの個性や人々の特質が見えてくる。神アサギを手がかりにムラ・シマを読み取っていく作業の楽しさがある。それと今帰仁村歴史文化センターが、国頭・大宜味・名護・今帰仁・名護・宜野座・金武・恩納という市町村という行政区ではなく、それを構成している個々のムラ・シマ(字)に、何故こだわっているのか気づくことでしょう。「北山(山原)文化圏」ということにも!!!
山原に残る茅葺き屋根の神アサギ(上は国頭村安田、
下左は今帰仁村崎山、右下は本部町具志堅)
2002年2月5日(火)
「大宜味の神アサギ」アップ。今帰仁・屋我地・大宜味と進めてきた神アサギ。次は国頭に行くのであるが、非常に面白い。神アサギがムラ・シマの歴史やムラの成り立ちを引き出していく作業の重要なキーワードであることに気づかされる。神アサギの調査は、御嶽や集落やカー(湧泉)など、ムラを構成する様々な要素を拾っていく作業へと結びついていく。そこからムラ・シマの個性を引き出していくことができる。大宜味のムラ・シマの調査・研究がまだ十分でないため、判断の難しいところもある。それは次への宿題にしておく。国頭ではどんな神アサギと出会うのか。また個々のムラの歴史やそこに生きる人々の生き様や個性との出会いが楽しみじゃ。
2月6日(水)~10日(日)の間、山形県酒田市へ。
山原のさくらは今週いっぱいかな、見ごろは!!!!
まだの方は、自分の眼で確かめてみるといいですよ。
今年は、名護・今帰仁・本部・大宜味など、あっちこっちのさくらを満喫しました。帰ってくる頃は葉さくらか。
2002年2月6日(火)
27日に世界遺産登録記念フォーラム「世界遺産の保全と活用」があり、少し話をしなければならない。与えられたテーマは「世界遺産登録に期待するもの」である。まだ、話の骨子がまとまっているわけではない。これから少し考えてみよう。世界遺産登録にどんな期待をしていけばいいのか?
1.世界遺産登録されてから(現況報告)
2.現在の状況(表面・ブーム的な動き)
3.定着させていく方法(期待)
とりあえず、この三つの骨子で話をすすめるとするか!! まだ、固まらず。取り急ぎ、まとめてからだ。午前中、兼次小学校の授業がはいているのだ。テーマは道具だ。明日は、再考する時間がないのじゃ。
「国頭の神アサギ」は今日アップできた。次は旧羽地村地域か本部町へ進める予定。「国頭・大宜味の原石」について、まだ数は少ないが整理していく(工事中)。
▲国頭村比地 ▲大宜味村謝名城 ▲大宜味村津波
「ぬ ひち原」 「ゑ こすく原」 「ユ あさ加原」
2002年2月12日(火)
今日は旧正月(ソーグヮチ)。かつて旧正というと休校。あるいは午前中で下校。そんな時代があった。若水のことをミーミヂ(新水)や初水などという。ムラ・シマの親川や大川などに、朝早くから水汲みにいく。兼次のウイヌハー(上の河)などは、ムラの人達で行列をなしていたという。早朝に汲んできた水でお茶を沸かして仏壇や床間などに供えた。門松や橙(デーデー)や木炭、昆布などを供える。今では大分省かれているようだ。旧正そのものも、言葉だけの旧正月になっているところもある。
橙はデーデー(代々)(ミカンの一種)と呼び、木に実ったままにしておくと、橙色から再び緑色になる。そこから若返ることにつなげたのでしょう。木炭と昆布はタンとよろこブことにつながる意味だそうだ。門松や締縄は、どうも廃藩置県後行われるようになったようだ(大和風の移入なのでしょうね)。
今帰仁村内では、今泊のウェーガーや兼次のウイヌハー、諸志のウフガー、与那嶺のユナンガー、謝名のシカー、天底のアミスガー、運天の大川、古宇利島のアガリガーやイリガーなどでハーウガミが行われている。かつて以前ほど盛んではないが、ハーウガミが行われている。ムラ人がカーまで行くのは、姿を消しつつある。古宇利島では6名の神人と区長、書記がハーウガミ(イリガーとアガリガー)を行っている(フイジマ掟報告)。元旦から二日、あるいは三日まで仕事を休み、四日が初原(ハチバル)で初畑仕事の日。初起こし(ハチウクシ)といって、大工や漁師などの仕事初めがある。
旧正というと、やはり豚であろう。旧12月27、28日頃から、あちこちで豚の泣き叫ぶ声が聞こえた。正月は豚を潰して、食にして祝った。今泊では公民館の縁側(トゥバシリ)で米・神酒・ミカン・巻昆布・木炭を供えてシマの人達の健康・子孫繁栄・五穀豊穣・一年間の災厄のないようにとの祈願が行われている。
これから、ムラの旧正月の様子を訪ねてみます。ご馳走にありつけるかもね。「ハーウガミしてこい」と言われそうだ。
2002年2月13日(水)
定例の運天の字誌。これで5回目。「目次構成」の細目にはいている。現在のところ17編の柱を立て、さらに細目をあげていく。どんな字誌になるか、目次構成からその特徴をつかむことができる。家を建てることに例えるならば、編は17の部屋割り、さらに編の細目は部屋の中身ということになろうか。
今回は特別番組であった。外間守善先生をお招きし、お話をいただいた。中央から地方を見る視点は終わり、地方から中央を見る。つまり運天の字誌を通して沖縄、さらには日本という国をみるという、ダイナミックな視点を戴いた。今帰仁が生み出した仲宗根政善先生の『今帰仁方言辞典』の話に及び、人物もそうであるが言語研究について最大の評価がなされた。『今帰仁方言辞典』が角川書店から出版されるいきさつについて、「編集者を選びたい」など、エピソードを添えてのお話があった。運天の方々は字誌の意義が十分理解できたでしょう。
今回は「文化財」・「風俗と習慣」・「方言」・「民話」編の細目についてでした。運天の字誌は、次第に姿を見せてきました。これから中身を埋めていく作業に移っていく。3年間という時間と体力との勝負がやってくる。字の方々と楽しい作業ができればと思う。
2002年2月14日(木)
昨日の字誌でエネルギーを使い果たし、今日は遅々と頭が回転せず。「たまにはそういうこともあるさ」と独り言。
昨年10月19日に開催した「今帰仁ナークニー大会」に最高年齢(92歳)でうたって下さった内間善助さんが他界された。親族の方からお礼の電話をいただいた。以前から何度か電話を入れたようで、私が出張で留守にしていたりしたので遅れましたとのこと。「また、来年も」との思いがあったのですが残念。親族の方から「ありがとうございました。最後の花を咲かすことができました。いいお土産になりました」との言葉には、こちらの方が感謝ですね。ナークニー大会が開催されるたびに語り継がれる人物となるでしょう。ご冥福を祈ります。合掌
2002年2月15日(金)
明日は知念村の文化財案内講師の面々約25名が今帰仁村を訪れる。今帰仁のクボウの御嶽にも登りたいという。今帰仁のクボウ御嶽も斎場御嶽も琉球王国の国家レベルの祭祀場である。斎場嶽は琉球の七御嶽でもある。因みに『中山世鑑』(1650年編纂)による七御嶽は、以下のとおりである。
①安須森(国頭の辺土)
②カナヒヤブ(今鬼神=今帰仁グスク内、別名テンチヂアマチヂ・城内上之嶽)
③知念森・斎場嶽(知念)藪薩の浦原(玉城の百名伊佐良原)
④アマチヂ(玉城グスク内)
⑤コバウ森(久高島)
⑥真玉森(首里森)
⑦島々国々の嶽々
七御嶽としての斎場御嶽と今帰仁グスクのカナイヤブ(別名テンチヂアマチヂ、城内上之嶽)は阿摩美久(アマミク)がつくった御嶽として注目された面がある。と同時に斎場御嶽は第二尚氏王統の祭祀、尚真王が1420年代に中央集権国家を形成したとき、聞得大君を頂点とした祭祀の制度を敷いた。その聞得大君の継承の場とされたことが、琉球王国の最高の祭祀場(御嶽)としてのし上がっていったにちがいない。
今帰仁グスク内のカナイヤブはおもろで謡われる。今帰仁グスク滅亡の際、共に負け亡ぼうと千代金丸でカナイヤブの盤石を十文字に切り刻み、この刀では自腹を切ろうとするが、主を切るに忍ばず鈍刀となり、それは志慶真川に投げ捨て、別の刀で自害した。志慶真川に投げ捨てた刀が後に伊平屋の人がみつけ中山王に献上した。それが宝剣千代金丸であるという。「琉球国由来記」(1713年)で今帰仁ノロ管轄の祭祀場である。
今帰仁のクボウの御嶽は七嶽ではないが、国家レベルの御嶽であることに間違いはない。『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁間切「コバウノ嶽」(今帰仁村)が登場する。神名はワカツカサノ御イベ。今帰仁間切の今帰仁村のコボウノ嶽・同間切謝名村のアフリノハナ、そして国頭間切辺戸村のアフリ嶽につながる興味深い記事がある。
「昔、君真物出現の時、今帰仁間切アフリノハナ(謝名村)に冷傘(ウランサン)が立つ。その時、コバウの嶽(今帰仁村)に冷傘が立つ、またアフリ嶽(辺戸村)に立つと申し伝え也。神道記に曰く。新神が出で給う。キミテズリと申す。出べき前に国上(頭)の深山にアヲリと云う物、現れたり。その山を即ち、アヲリ岳と云う。五色鮮潔にして、一山を覆い尽くす。八、九月の間なり。唯一日にして終る。村人飛脚して、王殿に奏す。其の十月は必ず出で給うなり。時に託女の装束も、王臣も同じ也。鼓を拍、ウタをうたう。皆以て龍宮様なり。王宮の庭を会所とす。傘三十余を立て、大は高いこと七、八丈、輪は径十尋余り、小は一丈ばかり」。
また今帰仁間切のコバウの嶽では「・・・昔、君真物出現の時、この所に、黄色の冷傘が立つ時は、コバウの嶽に赤い冷傘が立つ。またコバウの嶽に黄色い冷傘が立つ時は、この所に赤い冷傘が立つと伝え申す也」とある。「琉球国由来記」(1713年)には、今帰仁ノロの管轄の祭祀場となっている。
そこでの祈願は、・・・・(さて、館長は斎場御嶽とクボウの御嶽をどう説明しようとしているのか? 先日、明日のためではないが斎場嶽を訪れているので仮説を持っているのかもしれない。あるいは知念村の方々の様子を伺いながら淡々と当前のごとく、語るでしょうかね? 一晩寝て考えよう。無責任じゃね)。
2002年2月16日(土)
知念城跡に関心があるのは、グスクの成り立ちもあるが、知念間切が聞得大君の知行地であったこと。それと聞得大君の引継ぎ(御新下り)場所が斎場御嶽。さらに1761年に知念城内に番所が置かれたことなど。おもろさうしで「ちねんもりくすく」(知念城)が14首も謡われている。斎場御嶽が祭祀の頂点に立つ聞得大君の引継ぎ場所として選ばれたのは、すでに指摘されているように『中山世鑑』(1650年編纂)の「琉球開闢之事」で知念森斎場嶽・藪薩の浦原、玉城のアマツヅ、それと久高のコバウ森があげられている。知念に三ヶ所、玉城に二ヶ所あり、また麦の種子が久高島、稲の苗が知念大川と玉城のウキンジュハイジュが発祥地となったことと無縁ではなかろう。五穀(麦や稲など)豊穣は、種が発芽し実る神秘さもあるが、五穀豊穣は即国の貢租と関わってくるものである。
三代目の尚真王は1520年代に各地のグスクに居住していた按司を首里に集居させたこと。同じ頃、聞得大君を頂点とした祭祀の編成。その頂点に立つ聞得大君の継承の儀式を国をあげて斎場御嶽で行ったわけで、斎場御嶽が重要な場として脚光を浴びたことはいうまでもない。聞得大君が代々知念間切の総地頭となり、知行200石から300石給されている。御新下(うあらうり)の場所や儀式、あるいは道具類などを一つ一つ紐解いてみるとおもしろい。聞得大君を頂点とする祭祀を国の租税の仕組みで捉えてみると、ノロなど神人の祈りが生産と租税、納める側の神遊び(休日)と深く関わっていることに気づかされる。そのことは、別稿で報告の予定。知念村の方々を案内しながら、そんなことをまとめていた。
▲知念城跡の正門 ▲知念城跡の裏門
2002年2月17日(日)
いつの間にか雨。これまで中途半端にやってきた、あるいは残してきたものを整理しておきたい衝動に駆られている。島根県や岡山県(倉敷)から来られた方に声をかけられた。岡山県の倉敷は多分備中である。懐かしいなぁ。そんな思いにかられた。来館してきた方々がどこの方かは知らず(民芸に感心のあるグループ)であることは知っていた。それで歴文の第1展示室に展示してある青磁や白磁、あるいは染付け(青花)などの説明をした。その中で大和産(備前)の備前焼きの擂鉢(すりばち)についても少し触れた。今帰仁グスクの志慶真郭から出土している備前焼きの擂鉢の欠片は4点である。14世紀中葉のものと、15世紀末から16世紀のものと報告されている(『今帰仁城跡発掘調査報告Ⅰ』1983年)。現在、展示してあるのは本丸(主郭)出土のもの(15~17世紀前半)である。下図は志慶真郭出土の備前焼きの擂鉢の破片である。(同上報告書より)
この備前焼きの擂鉢が単独で移入されたのではないであろう。大和から鉄や鎧などの武具などの移入があるので、一緒にきた可能性が高い。特に備前焼きは鉄と一緒にきたのではないか。そんなことを話題にして説明した。そういうこともあって、鳥取県と岡山県の方が後であいさつにみえた。そう来られると、備前焼きについて、目の前にある資料に関心を持たざるえないのが常である。釉薬のかかっていない備前焼きの擂鉢の感触や焼き具合や櫛目など、しっかりと脳裏に刻んでおかねば........。
2002年2月19日(火)
18日(月)大宜味から国頭(辺戸)までゆく。大宜味村は「ユ あさ加原」(平南村)と「ユ つは原」(津波村)、国頭村は「井 ひち原」(比地村)の原石(ハルイシ)の確認である。詳細については「国頭・大宜味の原石」で報告の予定。国頭村は浜・比地・奥間・桃原・辺土名・宇良・伊地・与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉・辺戸まで行く。
特に比地は海神祭調査をしたことがあり、場所の確認と旧集落の面影が残っているからである(急用で途中まで)。
2002年2月20日(水)
昨日は急きょコミセンへ。県指定の文化財の祝賀会。熱ポンポンで途中棄権。風邪の後遺症か首中心に痛みが残っている。今日はそれを押しての出勤。昨日(19日)は「村老人クラブ」の面々(20名)が湧川小と天底小校区の歴史探訪を行った。元気な方々である。学校の総合学習の案内や説明役となる方々である。「足元を知らずして......」との意見がたびたびでた。いいことである。今帰仁村の西側は今帰仁グスクという歴史的な文化遺産があり歴史の厚みがある。東方は比較的歴史の薄さを感じる。しかし、それは歴史の薄さというより、歴文の調査・研究の薄さにもつながる。今回「湧川の路次楽」が県指定(無形文化財)にされたので一つ厚みができたということか。
今回のキーワードは湧川校区は御嶽・ノロ殿地跡・神アサギ・新里家・内海の塩田跡・前田の神田・スヤーの御嶽、天底校区はワルミのテラ・天底馬場跡・アミスガーのシマチスジノリである。盛りだくさんのメニュー。湧川は1738年に創設された村である。今帰仁間切(後の村・ソン)では新しい村(ムラ)ということになる。湧川村は蔡温の林政政策の一環で創設された村である。そのことが湧川村を特徴づけている。湧川地内にあった我部・(松田・桃原)・振慶名・呉我が羽地側へ移され、そこに湧川村を新設した。そのこともあって寄留人の比率が約6割も占めていた(明治36年調査)。
湧川の御嶽にいく前にノロ殿内跡で手を合わせる。ムラのおばあは、ちゃんと礼儀を心得ている。ウガンがすむと御嶽へ。そこでも一つのマナーを守ったのである。湧川の御嶽にはイビヌメーがある。イビヌメーから左縄(ピジャイナー)を張り、そこから男性は立ち入り禁止区域である。仙人を名乗っている私も老人会の面々の前では、若い男性にすぎなかった。そのためイビヌメーでストップ。ハイ。イビはイビヌメーから眺めることとなった。御嶽から下って、次は神アサギである。
湧川には二つの神アサギがある。ウイヌアサギ(上の神アサギ)とウクマアサギ(奥間神アサギ)である。二つの神アサギの存在は、原則として二つの村の合併である。湧川の村の歴史(『なきじん研究 8号』所収)をたどってみても二つの村の合併に関する資料がなく、また伝承も伺えなかった。ふっと気付いたのは奥間アサギの名称と、他の神アサギと異なることである。それは他の神アサギにない火神が設置されていることである。線香をたてるため便宜的に香炉を置いてある神アサギは各地にある。しかし火神のある神アサギは今帰仁村内に湧川の奥間アサギを除いてない。そのため湧川の奥間アサギは人家の跡であると想定している。勢理客に移動している奥間家(現在なし)が羽地間切から湧川地内にきて、さらに勢理客へ移った内容の古文書がある。湧川の奥間アサギは本来の神アサギではなく奥間殿内の跡が、神アサギとして捉えられたのであろう。因みに明治15年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」に「湧川村神アシアゲ壱ケ所」とあり一軒の神アサギである(「山原の神アサギ」参照)。タモト木のある神アサギである。
奥間アサギから新里家へ。新里家は数多くの位牌と図像がある。天孫氏や北山に関わる拝所だという。新里家には弓矢があり、ウプユミ(大折目とワラビミチ)のとき、弓を射る仕草をする。弓は山の神や舟をこぐ櫂(カイ)を象徴しているのであろう。古宇利島の海神祭の弓と同じ役割を果たしていると見られる。
2002年2月21日(木)
この画面で博物館ができないだろうか。そんなことを考える。時々、各地の博物館のホームページを開くことがある。やはり、動いている博物館は訪ねたくもなる。情報をつくる立場にいると、どこまで提供しようかなどと考えてしまう。しかし、惜しみなく情報を提供している博物館や資料館は訪ねたいものである。また、つくっている人に逢ってみたくなる。
今日は「国頭村の神アサギ」(山原の神アサギ)を立ち上げの準備をしてみた。工事中であるが明日立ち上げる予定。今帰仁からスタートして屋我地・大宜味、そして国頭へと進めてきた。ムラ・シマにある施設の一つに過ぎないが、そこからムラの個性を見出すことができる。建物は茅ふきから瓦屋根やコンクリートなどに変わってきた。その変化をどうとらえていくのか。4時頃二人の小学生が神アサギのことで調査にやってきた。会議の合間をぬっての説明。すでに、自分たちが住んでいる字(玉城と平敷)の神アサギへ行ってきたという。歴文の第三展示室へ。そこに神アサギのコーナーがある。5分の1の神アサギと各字の神アサギが写真で置いてある。
古い神アサギと今のアサギ。建物の変化。内部にあるタモト木は何のために置いてあるのか。何故屋根が低いのか。香炉が置いてあるが何故か。誰が拝むのか。何の祈りをするのかなど。日本にもあるのか。質問を受けたり、投げかけたり。するどい質問もあった。地域の子供たちが、ムラを見ていくキーワードを一つでもつかむことができると、次々と法則性を見つけ出していく。そして展開していく。子供たちの展開をみているとなかなか面白い。神アサギのない字は、どんなムラ。二つあるのは、三つあるのはなどと。宿題を一つだした。今帰仁村と親泊村→今泊村、諸喜田村と志慶真村→諸志村となった。さて、玉城・岸本・寒水の三つの村が合併したのであるが、玉城村と決めてしまった。それは理由があったのであろうが面白くないね。あなたならどんな村名にする? でした。どんな村名をつけてくれるのかな!!!!
▲新里家の図像と位牌など
湧川の塩田跡は、それも寄留人と深く関わっている。首里や那覇、泊などから寄留してきた士族は、すぐムラウチに住むことが許されなかった。そのため、山手や不便な場所、あるいは海岸沿いなどに住んだ。塩田にかかわった人たちは主に寄留人である。スヤーウタキは塩に関わるウタキである。我部の故地が付近にあったのか、我部の人たちの拝所となっている。ワルミノテラは塩づくりを伝えたという坊さんが住んでいたガマだという。テラの屋我地から天底へ架かる橋がテラの上部を通る。湧川にはムラガーや井戸、石きり場や神田などもある。
天底の馬場跡は、その面影が全く失われている。四、五件の民家と側を通る道路が馬場跡だという。天底公民館の地は森になっていて馬場の東はずれだったというが......。
今回の最後は天底のアミスガーである。淡水のノリ(しまちスジノリ)の自生地である。ほとんどその姿が見えない。校区別にムラ・シマ巡りをしたいとの要望が多い。年に4回とか。喜ばしいことではあるが、それは多すぎる。早く、案内役のバトンタッチをせねば。
2002年2月22日(金)
シリーズの2を一部アップ。昨年調査をした沖縄県国頭村安田のシニグ。「国頭村安田のシニグと祈り」、その一部をアップするなり。他のこと書き込む時間ないなり。また、「国頭の神アサギ」も写真のみアップ。「球陽高校」の総合学習の打ち合わせで若い先生方の訪問あり。3月に行う総合学習の打ち合わせ。では、また明日。
2002年2月23日(土)
昨日サイトの操作を誤り、過去の画面が登場。ご迷惑をおかけしました。復帰させるにはパソ姫がいないとどうにもなりません。今日は休み。明日まで忍。ホームページを開けるのが恐ろしいので一回開いただけ。水道や電気、それに電話などが故障してしまうと、それは大変だ。職員の気持ちが分かるような。歴文は、まあ一方的に情報を流していけばいいスタイルにしているので忍で回復まで待つことにしよう。でも、回復するまでは胃が痛いもんじゃ。ハイ。今日は、これで退散じゃ。失礼しました。
2002年2月27日(水)
世界遺産登録記念フォーラムがあった。世界遺産の保全と活用がテーマ。辻村国弘氏が「世界遺産の現状」で講演。それを継いで「世界遺産の保全と活用」で報告。4名の報告で、あとはデスカッションすべきだった。その後に6名の報告があり、デスカッションする時間がなかった。4名の報告でフロア含めてのパネルデスカッションがなされるべきだった。また、今帰仁城跡の保全と活用について議論なされるべきで、県内の他の世界遺産に広げる必要はなかった。デスカッションのところで、「・・・はどうでしょうか」と、何ケ所かに振り、そこで報告されるべきだった。反省することの多いシンポジウムの企画内容だった。
持分の報告は以下のとおりです。昨晩の骨子と大分異なりました。一夜漬け。
「世界遺産登録に期待すること
皆さん、こんにちは。辻村国弘先生の基調講話「世界遺産の現状」という示唆にとんだ、そして世界の例で講話がありました。
それを継いで「世界遺産登録に期待すること」が、私に与えられたテーマです。ここでは「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてグスクが北から今帰仁城跡・座喜味城跡・中城城跡・勝連城跡、そして首里城跡の5つ、関連遺産群として玉陵(タマウドゥン)・園比屋武御嶽石門・斎場御嶽(セーファウタキ)・識名園の4つ。計9つの資産が世界遺産に登録されました。限られた時間ですので一つ一つ話することはできませんがので、今帰仁村に関わる今帰仁城跡にしぼって話を致します。
まず、世界遺産に登録されてからこれまでの今帰仁村の経過報告をすこしさせてください。今帰仁城跡が世界遺産に登録されたのが、申すまでもなく平成13年12月2日でした。それ以降どんな状況が生じたか。あるいは行政として何をやってきたのか。そこからお話申しあげようと思います。
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)を訪れたお客さんは、世界遺産登録前は11、12万人、世界登録後は15、16万人と約1.4倍から1.5倍の増加がありました。4割から5割、確実にお客さんの数は伸びています。その数字は明らかに世界遺産登録の効果です。昨年9月に水を刺されるような不幸な出来事がニューヨークでありました。その影響で一時お客さんの数が減り気味にありました。1月の桜の季節の到来で、再び増加傾向を示しています。
さしあたりの課題として世界遺産効果をどこまで維持し、さらに来城者の増加をもたらすような企画をしていくかが課題となってきます。
世界遺産に登録された後、入城者の増加を行政は指をこまぬいて、ただ動きを見ていたわけではありません。今帰仁村で世界遺産に関連してどんなことを行ってきたのか、少しばかり紹介します。
・2000年12月2日 世界遺産登録される。
・2001年1月21日(日)
「今帰仁城跡世界遺産登録記念事業として―今帰仁グスクとその世
界―のシンポジウムを開催しています。
その時の報告者のタイトルだけ申し上げますと、
・今帰仁城跡の整備史と世界遺産登録(事務局の報告)
・今帰仁グスス四方山話(新城紀秀氏)
・今帰仁城跡の発掘調査の成果(金武正紀氏)
・今帰仁城の歴史(仲原)
・今帰仁グスク周辺の豊かな自然(安座間安史氏)
・与論・沖永良部から見た北山(先田光演氏)
・今帰仁城跡の保全と今後の課題(安原啓示氏)
このシンポジウムで今帰仁グスクが果たした歴史的な意義や山原・奄美に及ぶ歴史・文化の基層の部分について共通認識をもつ土台ができた重要なシンポジウムだといえます。それは今帰仁城跡が世界遺産登録をきっかけにして奄美を視野に入れた歴史・文化・交流といった広い視野で考えていく意味で大きな成果だと評価していいと思います。
・2月3日(土)4日(日)の二日間
世界遺産登録記念事業として「今帰仁村文化祭」(例年は11月の
文化の日)を「今帰仁グスクまつり」として開催したしました。
・道ジュネー
・式 典
・記念イベント(踊り・日本舞踊・太鼓・棒術など)
・展示会など
・2001年7月28日(土)
「今帰仁の伝説・史話に見る人と歴史と文化」(シンポジウム)
・沖縄の歴史と文化―世界遺産と今帰仁城跡―外間守善先生
・組踊の題材に見る北山―本部大主を中心に―大城 学氏(芸大)
・今帰仁の伝説にみる北山―北山城と関連人物伝―遠藤庄治先生
(沖国大)
・世界に通ずる沖縄芝―創って観て演じて楽しむ村芝居へ―
幸喜良秀先生
・中北山之由来記と中北山の時代―仲原(歴史文化センター)
それは今帰仁城を伝説や史話などに登場する人物から捉えていこうとする試みでした。このように今帰仁城跡が世界遺産に登録され、それをきっかけにシンポジウムを開催し今帰仁城跡の歴史・文化を確認し、村民あげて共有していく。それは世界遺産ブームとして終らさないための、足が地についた事業に結び付けていく事業だと考えています。
・2002年2月16日(土)
「今帰仁グスク世界遺産登録1周年記念―今帰仁村婦人会演芸
のつどい―」 (村婦人会)
・志慶真乙樽肖像画募集・展示―村に伝わる美女伝説を地域の活性
化につなげよう」と商工会が企画。
2月15日に表彰式・祝賀会を開催しています。
その外にもパンフレットや冊子や研修会、マスコミやインターネットでの紹介など。またガイド養成など様々な事業を進めてきました。その外に今帰仁城跡の整備事業も進めている最中です。外壁や大隅周辺の抜開や城壁の整備なども行っています。ここまでは、これまでの世界遺産に関わる事業の進捗状況の報告となりました。
さて、世界遺産に期待するものなのですが。多分、多くの方々が期待するものは今帰仁城跡にやってくるお客さんを増やしていく、あるいは世界遺産登録後の現状を維持していくことにあると思います。その対策が必要となります。
そろそろ客さんはリピートしてきています。またリピートさせる魅力あるグスクにする必要があります。もしかしたら、現在の状況は世界遺産というブームの渦中にいるのかもしれないという怖さがあります。そのために、今必要としているのは、案内パンフレットやチラシなどがたくさん出ています。それも必要ですが、そのブームという熱を持続させていくための努力が先ほど報告した事業だと思います。
これまでの事業は積み残してきた課題を世界遺産をきっかけに片付けている最中だといってもいいのかもしれないです。
これまでの世界遺産に関する出版物やパンフレットは数多くでています。今帰仁城跡の郭や旧道や本丸などの位置や場所などについては知られるようになってきています。ボツボツお客さんがリピートしている段階にきています。
リピートしてくる人達の声の中に、ガイドブックにはない次の説明の要求が出てきています。それは世界遺産登録後の動きで顕著なのが案内や研修の数が多くなったことです。その必要性がガイドの養成の要求につながっています。 今月の中旬でしたかね。今帰仁で研修した知念村からお礼の手紙を頂きました。また石川市からお菓子が送られてきました。手紙の内容は、次は今帰仁で一泊して研修したい。ぜひ、そうしたいとの手紙でした。私だけではなく、案内をした職員たちもそのようなお礼の言葉や手紙や電話を一回や二回でなく数多くいただいているはずです。二回、三回とリピートさせるためには、今帰仁グスクの歴史や文化にふれることで、発見があったり感動があったり、目からウロコが何枚も落ちて見事な歴史・文化があることに気づいたことと、村の人との出で合いがきっかけになっている場合が多々あります。
さらに欲を言えば村民一人ひとりが世界遺産に登録された今帰仁城跡をキーワードとして、語る人、語れる人になる、一人でも多く方々そうなって欲しいです。今帰仁城跡をはじめ村内のガイドができる村民が数多くつくりだせたら、今帰仁グスクと今帰仁の人にあいたいとやってくる。村民一人ひとりがガイドができるなら、「ほんとの歴史と浪漫あふれる村」になるのではないか。
世界遺産にかけて、そんなことを期待したいですね。今帰仁グスクに関わる100の質問を考えてみようかと計画しています。それを村民が解きながら、今帰仁グスクのこと、今帰仁のことを理解していく。村民の一人ひとりが今帰仁の歴史や文化について誇りを持って答る、そして伝えていく。世界遺産をきっかけに村民一人ひとりが今帰仁の歴史や文化を誇りとして語ることができる。そんな村ができれば……期待したいですね。すでに、そういう視点で活動している方々が何名かでています。
...
上の写真は今帰仁村運天の百按司墓の木棺と呼ばれているもの。
蝶番の取り付けられていた痕跡が見られるが、蝶番そのものはわかり
ません。写真も今のところ確認できていません。
この写真で参考になるかどうか。取り急ぎ。