2002年
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2002.10.31(木)

 
歴文から数キロ離れた場所に文化祭の展示会場がある。そのため、何回も往復する。今日は大雨。絵画と書の展示に取りかかる。午前中は、関東の高校生、沖縄本島中部の小学生がどっとやってきて大変。高校生は三グループに分かれての来館。

表向き見える沖縄、そしてちょっと関心を示すと、もう一つの沖縄の姿が見えてくる。沖縄の歴史について話をするのであるが、ここではもう一つの沖縄を見る視点について話をする。東京の高校生達の目の色が変わるのがよくわかる。観光気分が、ハっと旅行の目的に気づいてくれる。恐らく、そのことを知って歴文をコースに入れているのだろう。有難いもんじゃ。数年前からやってくる高校である。

 夕方からうし丸とパソ姫が展示作業に入る。老体の私は、座って指示するのみ。残すはあと一日。明日の午前中は展示作業ができず、午後からになる。会場は健康福祉センター。ご苦労さん。

       ▲作品を並べて、「さあ、どんな順序に展示をしようか」


   ▲とりあえず、並べてみようと          ▲展示をするうし丸とパソ姫

2002.10.30(水)
 土曜日から始まる文化祭の絵画と書の作品の荷解きをしてきた。どんな作品があるのかな? また今年はどんなテーマで描いているのかな?など楽しみである。絵画をざっと並べてみたが、まだ全体のイメージが湧いてきません。今晩の夢で展示プランができるかも! 書の方は明日。絵も書もできないが、いつの間にか展示係になっている。不思議だワイ。やるからには、いい展示にしなくちゃな!!残された日は二日なり。数にして80点(絵画と書)くらいかな。どんな展示になるか楽しみにしよっと。
   (工事中



2002.10.29(火)
 休み後の書き込みはなかなか腰があがりません。文化祭が始まるので、午前中は木工の作品の搬入依頼。そして絵画と書の作品の確認。量と質で展示を考える。午前中の点数では歴文の職員も「二、三点出さないといかん」のかと半分心配していた。夕方になって北山高校の生徒達の作品がドンと届いたようだ。ホッ!(中身は見ていませんが。点数は揃ったようだ。明日は展示プランづくりだな。ハイ)

 4時から北山高校の図書館へ。昨年、今年と展示会をしてきた(タイトルが思い出せませんね)。珍しく六月からの展示がまだ続いている。それは、いいね。生徒達が持続して仲宗根政善先生を通して「戦争と平和」を、テレビ画面の向こうの出来事ではなく、自分の問題として考えてくれたこと。そういう時間だったと思う。
 昨年、今年、そして来年の企画につなぐことができそうだ。昨年に全体像の展示をしたようなもんだ。これまでの成果を形にすることで次年度にしっかりとつなぐことができる。つなぐために、形にしていくために、どうすればいいのか?その相談であった(大変な作業であるが、「「やりましょう」と返事してしまったワイ。そこには一本のジョージアコーヒーがさりげなく置いてあった。冷えてなかったな。上間先生)。


2002.10.28(月)

  本日は館は休館です。いい一日を!
  午後から南海日日新聞の取材(富川記者)。


2002.10.27(
 昨日南大東島から帰ってきた。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島の東に浮かぶ大きな島という意味のようだ。今はダイトウジマと読んでいる。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島から東の太平洋上に大きな島があるという認識が読み取れる。通りすがりや漂着した人たちが立ち寄った形跡はあるようだが、沖縄貝塚時代(縄文・弥生期)やグスク時代、そして近世に至って人々が長期に渡って居住した痕跡は確認されていないようだ。

 南大東島の北港から北方に北大東島を見ることができる。案内してくれた教育委員会の宮城さんは「あの島に姉が嫁いでいるのですよ・・・。目の前にみえますがね。ボートで渡れるのですが、先が見えず波が天井から落ちてくる感じですよ」と。島には自然の入江がなく、南の亀池港や西港などの港は人工的に陸側に入江を切り込んでつくってある。漁から入江の港に帰ってきたボートは、すぐクレーンで陸に吊り上げている姿を見た。島の周辺の海岸や港を一周していると、荒波や切り立った海岸が人を寄せ付けてこなかった歴史の一面が伺える。

..
   ▲海岸はいつも荒波だそうだ!     ▲直接外洋と接した港。接岸できません

 切り立った断崖と押し寄せる荒波が人を寄せつけない環境であるが、島の内陸部は盆地状で幕(ハグ)と呼ばれる二重・三重にめぐらされた防潮風林が続き、そしていくつかの池があり大陸的な穏やかな島に一転する。


....                ▲内陸部にある池の一つ大池

..
 ▲ほとんどが大規模なサトウキビ畑       ▲落ち着きをみせる石積みの建物

 現在につながる人々の居住は明治33年に遡る。(続く

 午後から浦添文化協会の文芸部?の方々の案内。今帰仁グスクと運天の源為朝が一時住んだというテラガマまで。運天から南山、そして浦添をつなぐ為朝伝説コースなり。

  うし丸さん、ぱそ姫さん、留守中ご苦労様でした。お疲れ様!!


2002.10.23(水)

  24日から26日まで南大東島です。

 今晩は「渡喜仁」の字誌の検討会がある。1945年から67年までの議事録に目を通してみる。明日から南大東島へ。その準備もあり。今日は体力をセーブしないと・・・。午前中は大丈夫そうだ。
 昨日は頭痛と吐き気でダウン状態。どうにか持ちそうだ。これから、もう一つ頭をめぐらさなければならない字誌がある。2時間ばかりの講座なのだ。前回は資料を準備して出張したのにお流れにしたようだ。一服できると思っていたのに。

 明日の南大東島行き大丈夫だろうか。数名の回数券チケット何故か私の方に送られてきているじゃないか。信用あってのことだろうと思うのだが。来月、マットウバかどうか人間ドッグで頭の検査をすること知らないのだね。また、一番遠いのだぞ空港まで。地域史の皆さん。朝5時に自宅を出ないと行けないな。言いたいこと書きましたので忘れないでしょう。ハハッハ。みんなのためじゃ。早く片付け、徹夜なしにしましょうかね。

 南大東島。はじめての島。あれみっけ。それみっけの島だろうか。八丈島?と沖縄のチャンポン文化だろうか。どん顔をした人たちが住んでいるのだろうか。大東島を見ることで足元の歴史文化を見ていくキーワードを見つけることができるだろうか。楽しみじゃ。先日行った黒島が沖縄のアイルランドと言葉を発したが、大東島はどうだろうか。
 確か明治25年は那覇港を出港した大有丸は天候が悪く運天港に停泊して大東島に出港した記事があった。玉置時代と言われる八丈島出身の人物の登場がある。島の歴史はなかなか興味深いものがある。どんな歴史を歩んできたのかは、明日からの研修で学ぶこと多いであろう。島の人たちの顔、どんな表情を見せてくれるのか。いい旅したいもんだ。


2002.10.20( )

       明日(月)は休館です。
 「今帰仁の墓―後生の世―」RBCで夕方放映の予定です。

 
黒島から帰ってきて、島の人たちの個性が気になる。島の牧場に転がっている石。黒島は平坦な島の意だという。牛の移入も土の少ない島に大きな影響を及ぼしているようだ。恐らく、現在の牧畜の歴史は浅いのではないか。牛の移入は牧畜というより、土を耕す、石だらけの土地を畑にすることが目的であろう。それまでフィラ(ピラ)で作物を植えるところだけ堀る。そのような農法が長い歴史として持っているにちがいない。「桟橋を造ったときも土が少ないので石を積み込んだ」という(土では溶けて流出すると思うのだが)。それだけ土が少ないということを言わんとしたのだろう。

 フィラを使って土地を耕してきた永い生活、それが島の人たちにどれだけ個性や気質に染みつき影響を及ぼしているのか。島のあちこちに積まれた石や牧場に転がっている白っぽい石、牧草におわれた石の島。そこに生きてきた島の人々の生活がハート型をした島の形と、人々の気質とどう結びついているのか。
 勝手な思いをめぐらせながら島の資料(昭和30年代調査の新城徳佑資料)に眼を通している。どこかで「黒島民族」そんな言葉を聞いたことがある。それは竹富町の島々は言葉や気質や生活習慣が異なることを意味しているのであろう。

 今帰仁村中部域のウプユミが中断したままである。写真のはめ込みはしておこうと思うのだが・・・。「すくみち」の再発行を計画しているようなので、それに向けてまとめることにする。


2002.10.19(土 )
 
石垣市で沖縄県博物館協議会の研修会があり参加した。研修会の内容や報告については別で報告する。

(メモ書き)
 二日目の午前中の研修が終わり、黒島まで足を延ばした。これまで西表や小浜、竹富には何度か行っている。黒島は初めてである。黒島の情報を持たずに島に渡ってみたのであるが、なかなかイイ島である。12時30分の便であったので島での昼食。仲本にある食堂に車で連れていってもらった。車の中から「平坦な島だな」「牛が多いな」の第一印象。
 車の運転手さんが「南の北海道ですよ」の第一声。牧場が広がり牛があちこちに群れをなしている風景があった。なるほどと思いながら食堂へ。食堂で料理をつくっているのは若者達が三名。また食事に来ているのは大和風の数人の若者たちがほとんど。「ああ、歳だな」と内心思いつつそばを食べたのは私たち四名。那覇市歴史資料室のMさん、県博友の会のIさん、宮古博物館のOさん。千代金丸・千金丸サミットだなとのMさんの声。

 島の案内役は黒島観光の島仲さん。まずは小中学校のある島の中央部にできた展望台へ。頂いた簡単な地図を見ると仲本・宮里・東筋・伊古・保里などの集落がある。また、浮海御嶽・舟浦御嶽・迎里御嶽・南風御嶽・南風保多御嶽・南神山御嶽・喜屋武御嶽・比江地御嶽・北神山御嶽・阿名泊御嶽・仲盛御嶽・保里御嶽がある。御嶽はワンと呼ばれているようだ。どうも御嶽の発生と関わる重要な場所でり拝所となっている。沖縄本島の御嶽(ウタキ)に相当するものにちがいない。集落との関わりでは複雑な歴史を持っているようだ(古宇利島の七森七嶽と集落を考える上でヒントが得られそうだ)。黒島はハート形の島だとの説明。なるほど。道開通の碑はハート型(島の形)の石でした。あっ!!
   
  ・乾震堂(ブサドーと言っていた)
  ・イサンチャ(古い墓)(二基)
  ・伊古旧桟橋
  ・勤王流ゆかりの地(八重山民謡)
  ・比江地御嶽
  ・番所跡(宮里)
  ・フズマリ(タカムイ)
  ・ビジターセンター
の順で回ってみた。ビジターセンターでは宮喜 清(キヨ)さんが、「名前を書いて」と、呼び止められてしまった。「みやき壮」の民宿もやっているようで「次くるときは泊まっていってよ」と。そばにいた孫だという娘?とハイパチリ。 


 宮喜 清さんと娘さん?

□フズマリ(タカムイ)
 1644年尚賢王の時に烽火をあげる制度ができた。海上に現れる船の監視をし、首里王府へ伝達する場所である。先島の島々にあり黒島にもある。宮里にあるのがフズマリ(タカムイ)、学校の側にも同様なムイがある。それも火番所と説明していたが未確認。

□イサンチャ(古墓)
 古い墓のことをイサンチャと言うのだろうか?鉄条網を張られた牧場の中にあり、周辺は石積み。中に家の屋根を模してある。土を耕すのにヘラを使っていた時代に、島の役人高嶺首里大屋子が石垣から牛を連れてきて、それに鋤と鞍をつくらせ耕す訓練をした。牛は耕すことに慣れ、生産もあがったという。そのことに感謝したという。その人物の墓がイサンチャだという。隣にあるのは、高嶺首里大屋子の島での奥さんの墓。また黒島への牛の最初だともいう。

....
     ▲乾震堂の入口        ▲乾震堂の祠にある碑?

...
   ▲イサンチャ(古墓)                ▲イサンチャの墓室の入口
 

......
▲ハート型をした道開通の碑(東筋) ▲比江地御嶽の建物〔東筋) 

..
▲フウマリ(タカムイ)(火番所)(宮里)   ▲番所跡の祠(宮里) 

2002.10.16(水)

 17日~18日まで出張(石垣市)のため、このページは休息なり。
 沖縄県博物館協議会 (研修会) 
   事例報告(ムラ・シマ講座と総合学習)あり。

 日曜日からプロバイダーの異常で更新Aができずでした。日曜日は大宜味村、昨日は恩納村まで足を延ばしてみた。名護から南に下るのに決心がいる。それは私自身が恩納村のムラ・シマを見ていくキーワードを十分持っていないからである。一つでもムラを見ていけるキーワードを探すつもりで・・・

 最初は名護市の世富慶からはいた。三年前だったか、記憶は定かでないがマチでもムラの成り立ちをしる空間を残しているのだと、ショックを受けたことがある。かつての集落の時空を蘇らしてくれるところである。
 神アサギや竜宮の祠や火神を祭った祠やアサガー(二つある)の湧泉などがあり、その一つの傍にガジマルの老木がデンと居座り、一帯は落ち着いた雰囲気にある。数久田・許田・幸喜・喜瀬へ行く。今回はカーの撮影であるが集落との関わりで見ている。カーについては「湧泉散歩」で紹介する。

 恩納村安富祖では二期作の米の収穫が間近な田があった。まだ、収穫には早い水田もある。今年の夏(七月)の出来はよくなかった。一期の稲が脱穀さえされず離れの小屋に、今でもどさっと置かれている。それは悲しいものがある。二期作こそは豊作でありたいと願いをかけた。
 
 
      ▲恩納村安富祖、収穫前の様子(二期作)

 
今回気になったのは恩納のグスクである。北から南に向かうと大田を過ぎ恩納集落の手前の森がグスクである。現在の恩納集落はグスクの西側にフルジマ(古島)やウガミなどのフルジマにちなんだ地名があり、そこから移動したようだ。グスクを南側に回ると細い上り口がある。グスクに上ると火神を祭った祠がある。赤瓦の破片があるので、以前は赤瓦屋根の祠だったのだろう。また、サンゴ石も散在し、礎石の跡も残っている。少し奥の方にはいて見ると、ちょっとした石積み(サンゴ)があり、平坦地が幾重になってあり人の居住地だった気配がする。

 『琉球国由来記』(1713年)に恩納村にはヤウノ嶽と浜崎嶽がある。標識(村指定の文化財)には崎浜嶽と想定している。恩納ノロの祭祀となっている。また恩納村の城内之殿とあるのは、グスクの祠を指しているのであろう。供物(五水四合)は両惣地頭から出される。重要な祭祀場の一つとなっている。もう少し詳細に踏査をしてみたいもんだ。


2002.10.13(

    14日(月)15日(火)休館となります。

 
大宜味喜如嘉を行く。途中、津波のヌルガー、根路銘のシマナハガーなど散歩しながら喜如嘉へ。それは湧泉散歩でいずれ紹介します。実にいいカーですよ。一人自慢。

 
大宜味村喜如嘉で山原のスライドを使って山原の魅力を語る。他に4名のパネラーあり。私の持分は午前中のスライドを使って「山原学」の視点で様々なことを話す。以下のような写真80枚を使って水田のある風景・マチや集落・人・船・塩田など。しゃべったこと思い出すと疲れが、どっときますので写真でお楽しみください。ハッ!ホッ!


▲昭和27年k頃の水田のある風景  ▲黄金色にかがやいた稲穂

▲昭和25年頃の名護のマチ      ▲昭和28年頃の伊江島の集落

2002.10.12(土)
 
明日の講演?準備で詰まっています。れからテーマとスライドの選び出しです。1000枚余りの中から80枚。やっと尻に火がついたか! ウプユミは途中でチョンです。あしからず。徹夜状態かな!? 息抜きのコーヒーの差し入れでもないかな? 画面のあなたですよ。ハイ 遠慮はいりません。眠気覚ましじゃ。そう、そう湧泉散歩も朝のまんまだな!
 
〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕②
 大折目(ウプユミ)は海神祭(ウンジャミ)と呼ぶ地域もある。今帰仁村の中部地域は海との関わりよりも農耕(田畑)を中心としているため、ウンジャミではなくウプユミの呼び方をしているのであろう。仮説ではあるが、近世になって山・農耕・海の祭祀の合理化がなされたのではないか。その時、どの名称で呼ぶかとなると、海と関わりの強い地域はウンジャミ、そして農耕地域ではウプユミの名称を残したのではないか。玉城ノロの管轄するウプユミの祭祀に山・海・農耕の場面がどれだけ見い出せるか。

 『琉球国由来記』(1713年)から玉城・平敷・謝名・仲宗根の大折目の記事を拾ってみると、以下のような供え物が出されている。注目されるのは魚とコバ餅。山の物がどれか。『宮城真治ノート』で「松の下で弓を引く」場面がある。この弓が狩猟を意味しているか。


 ・玉城巫火神         ・玉城村神アシャギ
    線香・五水          五水・神酒・粟神酒・肴・コバ餅・魚
 ・平敷村神アシャギ         ・謝名村神アシャギ
   芋神酒・肴・粟神酒・焼酎・魚   芋神酒・魚・粟神酒・焼酎・魚
 ・謝名村神アシャギ
   五水・神酒・肴・コバ餅

 ウプユミが行われる日は旧暦7月最後の亥の日、古宇利島のウンジャミは旧盆明けの最初の亥の日、同一の日に行われることもある(今年)。まずは、祭祀が行われる場所の特定からしてみる(神人などについては別に扱う)。

〔今帰仁村中部地域のウプユミの拝所〕 
(工事中)
 宮城真治ノート
  (大正13年)
玉城調査(昭和47年) .
玉城ノロ火神 ①ヌル殿内の火神 .
. ②ヌル殿内のミャー .
玉城あしやげ
 ウムイをうたう
 踊る
③アシャギ
・アサギ
・内神殿内
・大屋子殿内
・玉城勢殿内
・シリトゥンガ
・玉城ヌシー
・テンチヂ・アマチヂ
・ウチ殿内
...
. ④ヤナジガー
・岸本と寒水のフルジマ を通ってヤナジガーへ
.
. ⑤岸本アシアゲ ..
岸本ウカー . .
岸本あしやげ . .
まえ原
トーヌカ
上ジナの松の下
・松の下で弓を引く
⑥神道(トーヌカ上から)
(謝名のサンケーモー)
.
平敷御嶽
平敷あしやげ
ウプアシアゲ
マチガヌ蔵



.
⑦平敷の神アサギ
・蔵
謝名 ⑧謝名のアシャギ
.
ウペーフヤの庭 ⑨ウペーフヤ .
. ⑩謝名グスク(御嶽)
..
仲宗根
アシャギ
⑪仲宗根
・神アシャギ前
.
解散 .
.


2002.10.11(金)
 
ここしばらく、まとまった資料づくりから離れている。今帰仁村の今泊(今帰仁グスク)と古宇利島の海神祭(ウンジャミ)についての参与観察記録は報告してきた。ウンジャミと同時期に行われる玉城ノロと中城ノロ管轄のウプユミについての参与観察記録は、歴文としてまだ公にしていない。

 今回は玉城ノロ管轄の旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミについて報告していく。一気にできないので日々作業を進めていくことにする(試行錯誤の作業なので随時変更する)。

〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕①
 
今帰仁村の中部地域(玉城・謝名・平敷・仲宗根)の祭祀に旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミ(大折目)がある。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四かムラ(字)は玉城ノロの管轄である。四かムラの年中祭祀、その中のウプユミ(大折目)について構築しておきたい。

 今では玉城ノロが継承されていず、また祭祀そのものが断片的にしか行われていないため、ウプユミに参加した経験のある方々の記憶に留めているにしぎない。通して行われていないため、また聞き取りをしても記憶のあいまいさもあり全体の流れがなかなか見えてこない。

 幸いにして、大正13年頃の『宮城真治民俗調査ノート』と昭和47年の「玉城部落調査報告」(普天間高等学校 郷土研究クラブ その時の写真が歴文に寄贈されている)がある。また筆者の参与観察も含めて再構築してみる。(続く

.
 ▲玉城の神アサギ(昭和47年)       ▲謝名のペーフヤの庭で(昭和47年)
                  
(写真提供は琉球大学の町田宗博氏。感謝です)

2002.10.10(木)
 午前中は15年前に墓調査や古文書などを解いてあげた方が和菓子をお土産に来館。あの時、わからなかったことが分ったということで、御礼に。また、新しい文書が見つかったということで。

 午後から今帰仁グスクの整備に伴う委員会に出席。

 本日の書き込みはナシじゃ。


2002.10.9(水)
 
急に気温が下がり皆長袖姿。そうしたい我の長袖は奥の奥に。当分、夏スタイルか。イヤイヤ、取り出してこないと流行に乗り遅れるワイ。来月には人間ドッグで頭の検査もする予定。語りと体が衰えたせいで頭の回転が早い気がする。

 急きょ(午後7時)「運天の字誌」あり。それ、急げ!!
  

2002.10.8(火)
 久方ぶりに雨の一日です。午後から中学生達に墓の話。

 
時々、写真を扱っている。今週の日曜日、ちょうど下の写真の時代のスライドを扱うので少し頭の整理でもしておくことにする。二枚の写真は昭和27年頃である。記念写真に納まっている小学生達は、今では50代ということになる。この写真が写真としていいかどうかは別にして(もちろん、わたしにとってはいい写真である)。

 さて、写真は昭和27年頃の生徒達と校舎である。生徒達はもう50歳を越している計算になる。複式で学んでいたのか、まだ確認していない。茅葺屋根の教室で学んだわけです。50年経った今、約90名一人ひとりがどんな人生をたどって人として存在しているのか(プライバシーに関わる部分が多いので公にできないが…)。

 右側の茅葺屋根は教室である。雨が降れば室内は田んぼ状態。馬小屋教室など呼ばれていたようだ。戦後数年経っているが、まだ物のない時代。しかし、その時代を体験した方々の目からみたら、今の子供たちに何か欠けているものがあるとの声をきく。学ぶ環境がすべての面でよくなったのに、置き忘れてきたのはなんだろうか? 写っている学生や教室の建物をみるといろんなことが脳裏をよぎる。それは単なる郷愁ではなく、これからさきを考える手がかりをいくつも内包しているように思う。


     ▲本部町本部小学校(昭和27年頃)(メルビンハッキンス氏提供)
  

2002.10.7(月)

  
本日は歴史文化センターは休館です。またのご来館を!!



2002.10.6(
 朝から木棺(板製の厨子甕)の屋根部分つくり。屋根部分は今日で完成できそう(脚部分は8本必要とするので、まだまだじゃ)。入母屋式の屋根なり。作製しているのは、木棺の図と同じものではありません。来週あたり完成祝いでもやりましょうかね!!

.......
  作成中の木棺(木製厨子甕)      百按司墓にあった木棺の図
                            (『笹森儀助資料』より)

 東京のサカモトさんから企画展「今帰仁の墓―後生の世―」のありがたいメールいただきましたので紹介します。
 次は神アサギをキーワードにして山原のムラ・シマを回ることができたら、ほんとの・・・ですよ。・・・部分はサカモトさんはもう気づいていらっしゃると思いますよ。回る前に歴文にぜひ立ち寄ってください。コツを伝授いたします。


歴文の職員の皆様へ(東京のサカモトさんから)

はじめまして。
 東京在住の沖縄好きです。9月27日に歴文を訪ねて、今帰仁の墓の展示を拝見しました。毎年、9月初めから半ばにかけて沖縄を旅しているのですが、たまたま遅くなってしまった今回、本部に立ち寄って、その後どうしようかと考えていたところに、目に止まったのが、歴文の展示催しの張り紙でした。「これは、私のために開かれた展示だ!」などと勝手な思い込みで、その足で歴文にGO!じっくりと拝見させていただきました。

 展示内容はとてもわかりやすく、そして充実していました。お墓について、何の知識がない人が見ても、ちょっと知識のある人にとっても、満足のいく内容だったのではないかと思います。企画展だったこともあるのでしょうが、沖縄のお墓について、ここまで深く掘り下げて展示されているのは初めてでした。

 ホームページを見るまでもなく、数々の手作りの展示物や写真などから、職員の方たちの情熱を肌で感じました。本当にありがとうございました。

 変な趣味と言われそうですが、歴史は素人なのに、葬墓制に興味があって、沖縄に行くたびに、いろんな古いお墓を見て回るのを楽しみ(?)にしております。お墓や人骨というと、本土、特に都市では縁起の悪いものというニュアンスが強く(沖縄にもそういう感覚があるのかもしれませんが)日常で生活とは意識の上で隔離されているような存在なのですが、沖縄のお墓は、なんか違うんですよね。海辺のとても景色のよい場所やビーチのそばに平気でお墓があったりするところもあって、沖縄の人々は、お墓に対して畏れ敬いつつも、温かな思いを持っているような気がします。(本土の人間の勝手な思い込みですが)

 実は、歴文ができる前に百按司墓を訪ねたことがあるんですよ。そのころは、今よりも案内や表示などが整ってなくて、さっぱり場所がわからず、一緒に行ったダンナに、村役場へ問い合わせに行かせました(!)役場の方は親切で、わざわざどなたかに電話をかけて場所を聞いてくれました。

 今思うに、その電話の問合せ先は歴文の館長さんだったのかも…。

 その後、歴文にも何度かうかがって、池城墓の場所などを教えていただいた記憶があります。ほかの自治体では、建造物としても歴史的に意味のあるお墓なども看板や案内などがいっさいないところも多く、探しても見つからなかったことが何度あることか。やはりお墓は土地の方、その家の方たちのものなので、外部の人間が場所を聞いたり、ずかずかと踏み込んでいくのには勇気がいるものです。(逆の立場になったら、「何? この人」と思うでしょうしね。自分としてもかなり変わった趣味だと思います)そのあたりは難しいところではありますが、今帰仁では、歴文さんがきちんと学術的に資料などを作成してくださっているのでありがたいです。
 来年の沖縄訪問のテーマは各部落の神アサギにしようかな。

 長々と書かせていただきましたが、これからも皆様のますますのご活躍をお祈りしております。              東京のいち歴文ファンより



2002.10.5(土)
 「サガリバナ咲いていませんか?」と訪ねてきた方がいました。う~ンン・・・。目の前に木が10ほどあることはわかっているが、近づいて花をしっかり眺めたことがありません。満月に咲くのかと思いきや今晩(旧暦8月29日)三本の木で咲いていました。10月にも咲いているのですね。
 20mほど離れている木ですが、花の色が異なっていました。何故かはセンサクしません。どっちも香りをいっぱいふりまいています。今晩の花見客はわたし一人とコウモリ。贅沢な寂しい花見だワイネ。こうもりさん。画像で花見でもどうぞ。時には、花見にひたる夜があってもいいじゃありませんか。場所は歴文の前の公園広場です。夜空は満天・・・・・。

.......
   ▲歴文前のサガリバナです。台風で倒れたままだな。明日は。。。。ダナ

  ・・・・・・・今日は花で閉じます・・・・・・・


2002.10.4(金)
 
督促の督促にも負けず2年近い間。そういうことには心臓に毛どころが釘が生えてしまいました。それを抜き取らんことには優しくなれませんね。他府県の方々には理解しがたい沖縄の個性であります。それを知らず押し付けてくる方々は、またヤマトゥーだと嫌われたりします。そういう個性を見抜いて、仕事をさせるのが一流の編集者(出版社)でもあります。企画し執筆者に依頼してから出版まで四、五年はかかるとみた方が賢明ですね(他人ごとのように)。
 重い重い荷物を降ろし、頭の中がすっきり中。いつまで続くでしょうか。「今回のような(某地名辞典)仕事は、これから断ろうなと・・・寿命が縮まるから」と(ほんまかいな)。

[備忘録]

   ▲メルビンハッキンス氏と子供達、そのカメラで

 上の写真はメルビンハッキンス氏のアルバムの複写である。昭和26年頃の場面である。ハッキンス氏は歴文にカラーのスライドとモノクロ写真を計2000点近く提供頂いている。写真の紹介はここではしませんが、歴文のスタンスの一面をハッキンス氏の写真を通して学んだところが多いということ。忘れそうなので、記憶に留めて置きたいので序の部分だけ。
 
 これまで様々な調査をしてきた。その中でムラ・シマに行くとき、あるいは島に渡るとき、どれだけそのムラ・シマについて予備知識を持っていけるか。そしてシマの人たちと言葉が交わせるか。持っている予備知識は、見せびらかせるためのものではなく、シマの方々に語らせるためのキーワードであるということ。
 もう一つは目の高さである。ムラ・シマの方々の高さで。外人でありながら(あるということなのか)、スーと溶け込んでいける氏の本能的なところ。そうであると同時に、押し付けがましいところがないということ。撮る側の視点というより、撮られる側の立場での場面が多い。結果として映された写真に調査する側、そして撮る側の人間性がもろに出てくる。それは写真を見るたびに教えられますね。歴文の基本的な考えにつながっている。そのような写真と出逢えるかも。新城徳祐資料以来ないので、ボツボツの予感がする。写真ではなく文書かもしれない(メモ)。


2002.10.3(木)
 
一つ物事が片付くと気持ちいいもんだ。しかし10月の掲示板は見たくありませんね。文化の秋だし仕方ありませんね。たまには、受講者になりたいですね。といいつつ、今帰仁中の生徒達への話、教育委員の先生方の案内、ムラ・シマ講座の中身、大宜味村でのスライドの説明、沖博館(石垣)での報告、それと南大東島行きなど、頭の中はあれこれと走り回っています。ちょっと時間よ「トマレ、トマレ」。頭は回転して先に行っているのですが、口と体がついて行きませんね。歳を感じていますわ。

 といいつつも、夕方から再び墓と関わる位牌を眺めている。20枚余りの文字(戒名)や年号が書かれたもの(何というのだろうか?)の読みをしている。以前墓調査をしたことがあり(士族)、その位牌である。お墓・位牌・家譜があり、さらに墓調査がなされているため、墓を通して「あの世の世界観」や時代を見ていく上で条件が揃っている。また、そういう機会をつくって下さった方々には感謝です。そういう調査に関われるというのありがたいし、幸せ者だと思いますね。(墓と位牌について公にできるかは、まだわかりません。持ち主の気持ちを大事にしたいですね)。

 13日に大宜味村で昭和25年から36年頃にかけてのカラースライドの上映をする予定。そのため先日喜如嘉まで足を延ばした。喜如嘉がどんなムラ・シマなのか、少し下調べ。喜如嘉を話するためのキーワード探し。あるはあるは、話題にこと欠かないムラだ。
    ・ムラ(集落)の成り立ち
    ・赤瓦屋根の残る集落k
    ・芭蕉布の里
    ・ヒンバ森から眺めた風景
    ・かつての水田地帯(ショウブ・ビング)
    ・豊年祭の道ジュネー
    ・ウスデークとエイサー
    ・喜如嘉小学校
    ・アブシバレー
    ・大宜味デーク(大工)
などなど。やはりムラの人だね。


2002.10.2(水)
 
あれこれと原稿締め切りに追われている。今日で片付けるぞ。重い重い荷物を早くおろしてすっきり次のことをしたいもんだ。
 そうこう書き込んでいると、また明日になる。では片付けてからにしましょうかね。今、コーヒータイム。
  「湧泉散歩」の画像が出てきませんね!!明日まで辛抱くだされ。機械オンチにはどうにもなりませんのだ・・・。(あちこちいじっていたら、どうにか更新できたようです)
  ハハハハ・・・・

 ある地名辞典の校正原稿、明日(あ、今日か)送付になります。悪しからず。


2002.10.1(火) 
 10月となりました。回りの風景も秋の気配がしてきました。また運動会や文化祭などが行われています。教育委員会(歴文センター)主催のミャークニー大会への出演依頼の声かけもボツボツはじめています。どんな方々が出場してくださるか。もう少しすると募集をかけます。楽しみじゃ。

 昨日は大宜味村の喜如嘉へ。ここしばらく、「後生の世」と付き合っていたので気分転換。途中、津波(ツハ)・塩屋などブラリブラリしながら・・・。目的地は喜如嘉である。芭蕉布やキジムナーで知られたムラである。キザハと呼ばれるようであるが、どんな意味を持つのだろうか。あまり、考えず肌で感じたムラの姿を捉えてみたいのだが。そんなつもりで・・・。
 10月13日(日)に40年から50年前のスライド(カラー)を80枚程紹介する予定である。どんな視点で解説しようか。かつての喜如嘉の様子を下の写真から読み込み、脳裏に刻み込みながら・・・・ まだ、思案中なり。


▲大正9年頃の喜如嘉(『喜如嘉誌』)▲昭和初期の喜如嘉校付近(『喜如嘉誌』)