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2001年10月1日(月)

 旧暦の8月15日、十五夜のように丸い古宇利島に渡った。第八古宇利丸がドッグ入りということもあって、今日から代わりの船が波をきって往来する。北風が吹き出したこともあって船が左右にゆれ、潮風をかぶっての島渡りである。しばらく、車や大型の品物の運搬はできなくなるようで、離島苦の一面を見た思いがする港で古宇利掟と合流して、早速シマの散策である。

 島の集落は船上から眺め、港のある中央部(中)、福木の多い東側(東)、中森のある西側(西)の集落、三様の姿がみえてくる。第一桟橋から現在の船着場、そして漁港、さらに東側では架橋工事。戦後50年余のシマの歴史がそこにあるようだ。

 夫婦井(メオトガー)と呼ばれているイリガーとアガリガー。掘り抜きの井戸である。昭和53年に本島から水道水が引かれるが、それ以前はシマの人々の生活水として使っていた井戸である。イリガ―の水は塩分を含み、飲料水としては適しなかったようだ。アガリガ―には井戸の他にレンガで洗濯場がつくらている。
 シマには溜池があり、集落の東側に破損しているのかわずかに水を溜めた池があった。上原や集落の西側に満々と水を貯えた池が何箇所かにみることができた。ほとんど感慨用水に使われている。先月は台風の影響で雨続きだったので満杯状態。掟の話を聞くと水が涸れそうなときもあるようでヒヤヒヤするという。

 マーハグチの御獄は素通りし、東原のパル石の確認へ。放置されたキビ畑の草をかきわけ。「に あ加れ原」(東原)のハル石が姿を表した。その他に「お いれ原」「ヲ いれ原」「ほ あらさき原」のハル石を確認した。このハル石はパル石とも呼ばれ元文検地(1737~50年)のとき、竿入(測量)のときの図根点として使われたもの。古宇利島で5基確認。その1基は歴文センターに。
 古宇利島には七森七獄と呼ばれる御獄があり、マーハグチ・プトィキヌメー・ビジュルメー・ナカムイ・マチヂの御獄の撮影は済ますことができた。トゥンガヌウタキとソーヌウタキは次回に。海神祭のとき、コ字型に七回往復するのはウタキの数に由来するのかもしれない。

 遠見台跡は古宇利島の一番高いところに位置する。近世期に外国船・唐船・大和船の来航を首里王府へ伝える通信網の一つである。標高にすると約107mのところ。跡地に立つと伊是名・伊平屋島、左手に今帰仁グスク近くの北大嶺原、伊江島が眺望できる。番人は古宇利島の人で六人、功績によって筑登之から親雲上の位まで授かったという(『なきじん研究 4』参照)。
 急ぎで昨日の調査ノートを整理してみた。詳細については『公民館講座』で報告することにする。旧暦の8月15日に丸い古宇利島に渡り、帰ってきたら実家からフチャギモチ(モチに小豆をまぶしたもの)を持たされた。古宇利島の丸さ、月の丸さ、そしてモチ。人間としてもっと丸くなれとのことが........う~ん。スライドうまく写っていますように。ウート~とぅ。古宇利掟案内ありがとうございました。


2001年10月2日(火)

 7月31日に海洋博の「琉球村」で行った名護市立大宮中学校の総合的学習に参加した生徒から手紙が届きました。「高倉にねずみ返しがつくってあり、昔の人の工夫に関心した」(高山渚)、「沖縄の今とむかしの家や食べ物の違いについて調べてみようと思った」(新崎絢菜)、「作物を高倉にたくわて、ねずみの被害や湿気をふせぐ工夫がなされていた」(下地憂奈)など感想が寄せられました。ありがとう。1回の学習でしたので、全体の一つ二つの印象しか残っていないでしょう。これからスタートですから、謙虚に多くの方々の話に耳を傾けてください。琉球村もそうですが、あなた方が住んでいる地域に自分の生き方を決めていくほどの中身がつまっていますよ。

 今日も高校生達(3名)が、歴史文化センターで総合的学習の視点でまとめていこうと学びにきています。大学への進学を目指して学びにやってきているのです。それぞれのテーマに即して動機、内容、謙虚さ、柔軟性、論理構成、目的など身近な、そして可能なことを様々な形で話題を提供しています。ガチガチの頭ではなく柔軟性が求められています。もう一息です。頑張れ。



2001年10月4日(木)

 館の周辺の草刈に始まった一日でした。朝の草刈、それも主な業務の一つ(私は二時間程)。公園の方は、午前組と午後組に分かれて歴文センターの運営協議会の先生方や退職された先生方が草刈作業をしてくれました。グスク公園の一番広い広場は、先生方の草刈場になっています。私が入る隙間はありません。助かっています。ほんとのボランティアです。ありがとうございます。
 午前中、ナークニー大会の看板を掲げにうし丸さまとペンチと針金を持って村内四箇所へ。宣伝になるかな??? 早速、出場者からファックスが届きました。効果あるのだ。ナークニー大会の中身について、大まかな(詳細な?)打ち合わせ。あれこれ.......。
 午後からある島の字誌の原稿校正に精出すが、午前中の草刈がたたって、しばらくダウン。5時過ぎになると、高校生が二人学びに。ボツボツ仕上げかな。
 これから字誌の校正作業に入ります。きつ~い。「漁業」部分は昼間で終わりましたので、あと二編はこれから片付ける予定。漁法にいくつかあり、網・釣り・もぐり。因みにタコやウニとりはもぐり漁。漁をするとき、時期・潮時のよみ・魚場・漁具などの重要さを校正しながら学んでいます。漁法を学んで漁師にでもなろうか。(なれるワケないです....) 詳細については「字誌」が刊行したら購入して読んでください。なぜか、後方でオフコースの曲が流れています。


2001年10月5日(金)

 字誌の原稿の出校。運営委員会と続きました。この時間(5時半)になると半徹夜状態が身に響く。これから高校生がやってきます。もう一頑張り.........(高校生達の姿みえずほっと)
 「漁業」と「教育」部分の校正原稿のアップ(二校)。二校原稿も三分の二まで進みました。こらからが大変。図版や写真の割りつけ作業が3三校目にやってくるからです。楽しみにしています。(ほんとかいな???)

 運営委員会はうし丸さんも触れているようにナークニー大会の件で盛り上がりました。順位を決めていく大会ではありません。歌い手一人ひとりの個性ある唄に聴き入る、魅了される.....それが一番。歌い手も、聴く方も............嬉しや、悲しや、喜びも.....
 それから今帰仁阿応理屋恵の勾玉の貸し出しの件。『神人』の16mm映画の件、学芸員実習の報告などなどがありました(報告し尽くしましたので省略)。

 運営委員の先生方は歴史文化センターの企画や事業について意見や提案して下さる重要な役割を担っている方々なのです。いつも和やかな会です。美味しい食べ物もあります。

2001年10月7(日)

 6日10年ぶりに大崎正治教授(国学院大学)が訪れました。資料館準備室と呼ばれていた頃に今帰仁で半年ほど調査をなさっています。「諸志の屋号調査と分析」(なきじん研究4所収)の貴重な報告があります。あれから10年の歳月が経っていますが、歴史文化センターの建設のこと、古宇利島の調査のこと、あるいはパプアニューギニアのことなど、様々な話をうかがったり、話したり。ビールと焼き鳥を口にしながら.......。これから3ケ月名桜大学で研究の予定とのこと。フィリピンのスライドの映写も行われる模様(是非参加を。日程などは未定)。

 高校生達が文章をまとめたり、質問をしてきたりの日々が続いています。「一次とおったよ」とムラ・シマ講座に三年も通った生徒が声をかけいく。さわやかのもんです。自分たちの人生をきめていく、迷いの最中にいる高校生達。みんな希望の道に進むことができればと願っています。もう少し、後押ししてあげましょう。高校生達がエンヤコラと坂道を登ってきます(車で?)。

 二組の展示案内。今帰仁グスクのこと。あるいは世界遺産に登録された首里城をはじめ他の資産群も。ノロに関わる部門に関心が集中。今帰仁御神についても........。「ナチヂン御神は美人だと聞いていますがどんな女性ですが?館長さん」「う~ん。好き好きですからね....恋は盲目ともいいますからね!」(みなさん納得) 


2001年10月10日(水)

 みきさんはムラ・シマ講座とナークニー大会の案内文書の発送準備や窓口業務、うし丸さんは庶務で役場の往復でバタバタ。それぞれが多忙をきたしています(ご苦労様です)。

 収蔵庫から平成5年から7年にかけての歴史文化センターの建設に伴う資料探し。ナークニー大会に出演しようかどうか、迷っている方々への出演依頼。かつて出場したことのある方々の訪問。ナークニーの歌詞の原稿化(当日の資料)。28日、29日の日本歌人全九州国際交流沖縄短歌大会の受け入れ側の調整など。今月は皆に苦労かけそうだ。体調を崩さないように気をつけよう。

 潮がスートと引き、本業に向かえる時間になったような気分。ナークニー大会に向けての冊子づくりにもうひとふんばりしてみます。どんな歌詞に出会えるか楽しみながら......。広島の富田さんからチリメンジャコやいわしのフライ??が届きました。いわしのフライをガリガリ食べながらみんな元気だしています。チリメンジャコは家庭料理にと......。ありがとさん
 

2001年10月11日(木)

 「このような仕事をしていてよかった」そんな思いを味わうことのできた日でした。今朝、ナークニー大会―謡う・聴く―の進捗状況と、これからみんなで進めていく作業と舞台の確認をしました。後、四、五名の出場者のお願い廻りした。また、故渡名喜カメさんが遺してくださったナークニーの歌詞の校正で渡名喜家(トナチヤー)へ。

 ナークニーを追いかけて畑や家々を廻りました。諸志で歴史文化センターに勤めたことのある人物が目指していた仕事に合格したとの朗報。実に嬉しいものです。

 同じ諸志に住んでいる92歳の内間善助さん。20年前のナークニーに出場されたお一人。高齢で体調を気遣っていたのですが、「なんで合図しないのか」と。「でますか?」「でるさー」と。16歳から三線を弾きはじめたとのこと。当時のモーアシビーについても、「安眠の邪魔になるから海辺やモーで朝まで謡っていたよ。翌日?は畑で寝ていたよ」と話されます。三線を手にチンナミをして一曲ナークニーを謡ってくださいました。哀愁が漂い、情けを謡っています。胸を打ちますね。大会には、厚い手ぬぐいを準備せねば。いい仕事をさせて下さって感謝です。夕方から、三名の方々へ依頼。明日は故人のナークニーの歌声がテープで聴けそうです。楽しみじゃ


2001年10月12(金)

 
やっとこさ。今日一日を振り返る時間。古宇利掟さまが来館。字誌の件と写真パネルの借用で。タクという海のものも一緒に来館。夕方にはアチラシケーラシで歴文センターの部屋はユデダコ状態かもね(タコのニオイがぷんぷん。あすの朝は、みなのキツーいことばがありそう。窓を全開しておこう)。ナークニー大会当日の冊子の編集作業に入りました。どんな冊子かというと、
   1編 大会出場者の顔、顔、顔........(言ってみれば紹介)
   2編 今帰仁ナークニーの歌詞と内容
   3編 資料編(これまで公にされたものを編集)
 どのくらいのページになるかな??(70ページくらいかな)。いい資料になりそうだ。歌詞の内容について、うし丸さんはシマのお姉さまからお習いを。「方言が分からないと.......、なかなか解し難いね......」の弁。そこは安心してお任せします。持ち帰っておウチで残業。ご苦労様です。
 午後は整備委員会の打ち合わせ。担当者の説明を聞くだけ(委員会で)。大会当日、スライドやライティングをするか。そのため会場の舞台確認。まだ、判断つかず。判断は明日に持ち越し。出場者に日にちと時間などの確認と「頑張ってください。お願いします」のことばかけ。
 今日で3編はほぼ形ができあがりました。油断すると何があるかわかりませんので、気を引き締め.......ましょう。最中、家で緊急事態が発生した模様。「スグ帰れ」コールがなっています。ムラ・シマ講座の準備は早朝出勤でやります。では....中途半端ですが.........。


2001年10月17日(水)

 外では嵐が吹いていますが〈三時頃まで)、館内はナークニー大会の冊子づくりにいそしんでいます。台風で館は閉めましたが、うし○さんはナークニーの意味解きと印刷に懸命。美喜さんとこずえさんはページ合わせでクルクル回り。地球を三回廻ったと言っていましたので、寝ていてもクルクル廻りをしているかもしれませんね。目が回ってぐっすりグーグーかも。
 編集作業も大詰めにきています。表紙・あいさつ文・校正、そして謀字誌のもくじ構成の作成と1日中ワープロと向き合いました。

 夕方7時から字誌の編集会議。「もくじ」(17編)立てをして、担当者を決めていきます。漁業については、希望者があり助かりました。分担については急ぐことはありませんので参加者で勉強会。道路工事で絶対に避けていただきたい風水に関わる場所。「虎の口」というそうです。ムラの風水なので、壊すことを避けさせたそうです。風水は強しです。そんな話が話題になり、なるほど、なるほど......。次回の予告。休むと損した気持ちになる字誌の編集会議でした。また、来月の第2水曜日。

 台風もどこに飛んでいったのか、帰りの空に星がみえました。台風一過のすがすがしい一日でした。明日は、ナークニーの冊子の製本に入ります。台風がやってくるとみんなの仕事がはかどりましたね。台風サマサマでした。ごくろうさまでした。
 

 ・「本部の伊野波付近が入り江になり、船が遡っていったことを知り、いにしえの風
  景をイメージすることができた」(岩井也浩)
 ・「湧水の豊富さに感動、伊野波節の歌の地に立って情景を思い浮かべ感動!」
   (志慶真元雄)
 ・「秋来ぬと目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる の歌の気
  分。セミの鳴き声がロマンチックな気分にさせる」(喜屋武加代子)
 ・「母から満名川で魚をとったり、田草取りを手伝ったりしたことを聞かされていたの
  で、40年前の伊野波の様子を思い描きながらの調査であった」(上地敦子)
 ・「山あり湧き水あり、川の流れあり、自然と人との関わりと再確認することができ
  た」(与那嶺江利子)
 ・「参加しようか迷ったけど参加。山原のセミのケ~ン、ケ~ンの声、秋風に舞う木
  の葉、石くびりのホルトの紅葉した木の葉など、いっぱいお土産を持って帰れま
  す」(那覇から参加の喜納さん)
 ・「石くびりの展望台から伊野波の集落全体を見渡すことができた。今の風景に茅
  葺き屋根の家や水田の広がる風景を重ねてみました。その中に自分をポンと置
  いてみたいなぁ」(平山ふさえ)
 ・「石くびりの道が一番良かった。まさに山道である。もっともっと長ければ、落葉
  にセミの声、南国の森。下之ウフワク、かやぶきの家々(むかし).......(山南成貢)
 ・「展望台から昔の情景を思い浮かべた時、秋風の中、時間がゆっくりと流れてい
  るそんな気分になりました」(仲尾次梢)
 ・「ウタキのこと、ウフワクのぷくぷく湧き出る水の様子に感動。涼しかったのでず
  ~とそこにいたい気分にさせられました。今日ず~とノンビリした気分でいまし
  た」(宮城さゆみ)

 参加者のノートから一文拾ってみました。ムラ・シマをまわりながら、一つひとつ自分の内側(生き方)に問いかけながらの講座もいいものです。参加者の皆さんご苦労様でした。


2001.10.20(土)

 今帰仁ミャークニー大会―ウタを謡う・聴く―無事終わる。15名の歌い手、そして多くの参加者、気を使いながら進めてきた企画であった。委員会の会場づくり・受付・照明・撮影など、みんなの協力がありがたかったです。ごくろうさま。

 いろいろな声を耳にしながらではあったが、出演者の交渉や企画に気を使いながらも楽しく進めてきました。意外とタフに動けました。反省もありますが、次につないで行けばいいことです。
 テープを聞きながら大会の雰囲気を再度よみがえらせてみました。やはり、一人ひとりの持ち味(節まわし)がなんともいえないですね。「今帰仁ぬ城」を詠んだ歌詞が多かったのですが、同じ歌詞でも歌い手の謡い方や思い入れで、そんなに雰囲気が異なるのかと実感させられました。聴き手を引き込んでいきますね..........。そこが聴きてを魅了するのでしょう。

   今帰仁ぬ城 しもないぬ九年母
     志慶真乙樽が 貫ちゃいはちゃい

   今帰仁ぬ一条 並松ぬ美らさ
      赤染みぬ芭蕉と 美童美らさ

 かつてはミャークニーは生活の場で謡われ、即興的に掛け合い、思い入れや優しさがにじむ唄がつくられていたのでしょう......。それを記録する仕事がわたしたちの仕事なのじゃ......


2001年10月21日(日)

 午後から古宇利島に渡る。老人・婦人会の運動会で島の人口が減るもんで、本島側から50名近い方々を引き連れての島渡り。第八古宇利丸が少し新品になっていました。船は50名乗船しても大丈夫(もちろん)。至って穏やかな海でした。

 今日の島渡りは県の博物館友の会のメンバーでした。古宇利島はフイジマあるいはクイジマと呼びます。今帰仁間切の地頭代(今の村長)は1750年頃から古宇利親雲上と呼びます。古宇利親雲上(地頭代)をした家にはフイヤーやメーフイヤーなど、・・・フイヤーの屋号がつきますなどの話をしたのです。
  そして海神祭(ウンジャミ)の道順に沿っての案内。神アサギ・ウタキ・アサギナー・フンシヤー・神道を通り、シチャバアサギ、さらにシラサの岬まで。神道の途中にあるヒジャヤー(比嘉屋)とノロ殿内をまわりました。海神祭(ウンジャミ)のとき弓(ヌミ)を持つ神人の出ていない門中の元家跡には、弓を持つ神人の出現を待って弓がそのまま置いてありました。

 シラサや堤防、そして古宇利島の漁民の話など、など.......。古宇利島はいいしまです。運天港では大北墓まで立ち寄り皆さん、那覇へ。いい古宇利島ゆきでしたでしょうか。


2001.10.23(火)

 
今帰仁ミャークニー大会に出場して下さった方々へお礼の電話。出場者は会場の雰囲気や様子がわかりませんので、その出来具合を報告。いいできでしたと......。来年の出場、ツバをつけ確約しておきました。近い内にビデオを届けます。ゆっくりご覧ください。次回はオレもでるぞと、何名か遠吠えしている方もいらっしゃいます。期待しています。出場して下さった一人ひとりに感謝です。味わいのある一人ひとりの謡い方にひかれていくのですね。また、この大会を開催するまでに裏方として力をかして下さった多くの方々、そして会場の設営から案内までご協力してくれた教育委員会のみなさんありがとさんです。
 唄い手の思いをしっかりつかんで大会をもりあげ、進行してくれたうし丸さん、受付やカメラマンをしてくれたパソ姫もご苦労さまでした。


2001年10月24日(水)

 ミャークニー大会の余韻が続いた一日だったらしい。朝から那覇出張。地域史のブックフェアの返本回収のため。久しぶりに那覇の空気を吸った気分? やはり、山原の空気がうまい。返本を積み込んで、那覇市の歴史資料室まで足を運びました。「とまりん」時代は一度も訪問することがありませんでした。現在は市(県?)営住宅の2階に間借りの様子。確か、久茂地からとまりんへ。さらに旭町の現在地に。歴史資料室の放浪の旅が痛々しい。それに職員の苦悩や疲れがうかがえます。特に50代の方々。どうにか、ならんもんかね.......(一人ごと)

 歴史資料室で仕入れた情報で県公文書館で「写真にみる近代の沖縄」の展示会を開催しているというので立ち寄ることにしました。明治の初期から昭和(戦前)の378点の写真を中心とした展示会でした。崇元寺門や橋、西原・与那城?の馬場、宜野湾の馬場、土地整理事業(測量の様子)、市場、井戸、生活の場など興味をひく写真が数多くありました。見ごたえのある展示でした。
 留守番役のみなさんはミャークニー大会の問い合わせや来客の対応に、いい思いとン~の思いをしたようで。ごくろうさま。

 昨日は「百按司墓のスケッチ」(島袋源一郎)の貴重な資料の提供あり(沖国大、南島研より)。ありがとうございます。


2001年10月25日(木)

 10時半頃、「仲原くん、元気か。君がいるから助かるよ」と声を発しながら仲松弥秀先生(93歳)やってきました。この前から何度か電話がありました。「木曜日は確実にいます」と約束してありました。私がいなくてもクボウの御獄は先生の方が御存知のはずなのに???? 私がいるかどうか、何度も確認したのは撮影があったのです。撮影することがわかるときっと逃げると、先生は考えていたのでしょう。なんと、本格的なカメラマンとスタッフを何名も引き連れての来館でした。

 クボウの御獄まで先生を車に乗せ、ときどき公用車の車体をこすりながら悪道を登っていきました。「先生を担いでいこう」というと、「君ではダメ。あの娘(子)ならいいよ」と冗談。93歳にして、相変わらず元気です。「クボウの御獄は大事なところだから、君説明しなさい」、そんな調子で説明役を務めさせられました。先生とは考え方が違うのにいいのかな??? 後で先生に怒られそう。「君はいいこというが、弟子にはしない」と言われそう。「今の話は、オレは聞かなくてもいいから、若者に伝えなさい。ありがたいな」と。「もう、これないがいい日だ」と感慨深そうに、かつて訪れた頃の様子を思い出すように「神人はここ、男の人はそこ、ここらイベの方に登るんだ」と記憶をたどっていました。

 今帰仁グスク内の上の御獄(カナイヤブ・テンチヂアマチヂ)と下の御獄(ソイツギのオイベ)の二つの御獄の撮影まで。上の御獄は辺戸方面のその彼方のニライカナイ。下の御獄は伊是名・伊平屋方面を向いているとの仲松説。ウンウンと聞いてあげるのみ。仲松説に悩まされぱなっしのわたしですが、先生から民俗学の多くを学びました。感謝。

 短く切った杖はカッコウが悪いとグスク内の店のおばさんから、新しい杖を無理やり寄付された先生。そこでも「子供が授かる場所があるはずだ。そこは何というのか」「はい、プトゥキヌイッピャです」「石を持ってくるはずだが、何というか」「はい、ウルです。サンゴです」「そうか、いいこと聞いた」と、調査をされているのです。頂いた長い杖をついて石段を下りました。分かれぎわ「君がいて、ほんとに助かった。頑張れ」の言葉を頂きました。こちらこそ、ありがとうございます。これから辺戸の安須森まで行かれるとのこと。無理せずに。元気で....


2001年10月31日(水)

 「動き」への書き込みも二ケ月が終わろうとしています。まだ、振り返って読むことはありませんが、歳月が経つことで歴史文化センターが目指していること、そして日々動いていることの意義が見えてくると考えています。レファレンスは業務の重要な部分を占めます。そこに時間を割くことが多くなってきています。もちろん、窓口や庶務や管理などの業務が大切なことはいうまでもありません(職員みんなの協力があってできること。

 今日は二つのグループのレファレンス。一グループは展示解説をしながら、世界遺産のグスクのこと。首里城と関係する玉陵や斎場御獄(セーファウタキ)や園比屋武御獄石門のこと。三山の時代の北山のこと。滅ぼされた後の監守時代と大北墓。運天の果たした役割など。そして明治の辞令書や原石や山北監守来歴碑記など。いろいろな質問が連発。質問が出てくることはありがたいですね。

 午後のグループは、歴史に関心のあるメンバー。スライドを見ながら山原の歴史を概観し、かつての山原の風景をよみがえらしながら生きた歴史の話。国頭村安田出身の方がいましたので、今年調査したシニグをベースに話が展開。祭祀を通しながら国家を考え、さらに国家以前のムラ、国家に組み込まれたムラについて話をしました。祭祀を通して、国家・租税・神人・ノロ・人々との関わりを視点に置いて考えることが多くなりました。近い内にまとめたいですね。

 このような日々の動きは小さなものですが、その積み重ねが動じない歴史文化センターの柱となり、理念となり、信用となっていくのだろうと考えています......。今日は、風邪をおしての一日でしたが、実にいい日でした。