ここでは国頭村の一つひとつのムラをみていきます。これまで、神アサギ・ウタキ・集落区分の名称・ムラ・シマ講座などでみてきました。これまでの調査をここに集約していきます。
【国頭村辺戸・比地】
最近各地の石灯籠が気になっていた。国頭村の辺戸・比地、そして今帰仁グスク内の石灯籠。それと拝所の「奉寄進」と彫られている香炉。以前、触れたことがあるが、石灯籠が置かれると大和めいて沖縄(琉球)の御嶽やカーなどにはそぐわないし違和感がある。それだけでなく、近世(薩摩軍の琉球侵攻)以後、琉球は薩摩に支配されていることを隠蔽している。その中で大和風の石灯籠の設置が何故許されたのか。違和感があるのと同時に関心の引かれるところである。大和めいた石灯籠から近世の琉球の薩摩の琉球支配の一面を見ることができる。各地に石灯籠が設置できた按司や王子クラスの首里王府の役人。大和上りは誇りであり、石灯籠の設置は無事の帰国だけでなく権力の象徴でもあったのであろうか。
『心得書』に「すべて、薩摩を琉球属島中の宝島と濁し、一切のやまとめきたるものが、万一支那人の目に留まり、詰問を受けた場合には、宝島人と交易して、手に入れたものと、弁解する事になっている」(東恩納寛淳「中山世鑑・中山世譜及び琉陽」『琉球史料叢書五巻』解説47頁)。また「一切のやまとめきたるものを撤回隠匿し、撤回しがたき、石灯爐や、手水鉢の類は、宝島人が海上安全の祈願のために、奉納したものとして弁疏させることにした」とある。なるほど・・・・
糸数城に「玉城按司御上国付御供
糸数村太田仁屋
嘉慶二十五年七月」
の石灯籠がある。『中山世譜附巻』に「嘉慶二十五年に慶賀に玉城按司朝昆が六月十一日薩州に到り、十一月二十二日に帰国した記事がある。糸数村の太田仁屋が玉城按司の上国に御供し、糸数城に石灯籠を寄進している。文献と石灯籠の年月日からすると出発するにあたり寄進する場合と、無事帰国した後に寄進する場合がありそうだ(他の史料の確認が必要)。
▲座喜味親方寄進灯籠 ▲今帰仁グスク内にある石灯籠の銘(拓本)
(『金石文―歴史史料調査報告書』より沖縄県発行)
【国頭村宜名真】2003.1.5(日)
国頭村辺戸に向かう途中、新与那トンネルの手前の駐車場で車を降りた。曇り空である。世論島や伊平屋島、伊是名島がかすかに見える。今帰仁村の古宇利島は本部半島の先端より陸よりに位置して見える。振り返ると辺戸のアスムイ(安須森)がみえる。天気が悪いので登ることは諦めた。海岸の方に足を運ぶと円形の石段があり、「工夫がなされているな」「おお、トンネルの中でもラジオが聞けるのか」と独り言。
宜名真にあるオランダ墓を訪ねてみた。クリスマスでムラの方々がオランダ墓の草刈りをしたのだろうか。いつもはオランダ墓の碑を確認して移動するのであるが、車を降りて碑の後方に回ってみた。四角に囲われた墓地跡が、今でも遺されている。周りは座礁したイギリス船のバラストで囲ってある。10本余りの花崗岩がまだあるではないか(宜名真踏査する機会があるので、そこで報告)。詳細な調査がしたいのだが、後ろ髪を引かれる思いで、カヤウチバンタへ。そこには「故當山正堅先生頌徳の記」(1958年建立)の碑がある。その文面は省略するが、どうもこの石碑もイギリス船のバラストに使った花崗岩(宜名真のオランダ墓)ではないか。きっとそうに違いない。

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▲新与那トンネルからアスムイをみる ▲新与那トンネル駐車場の護岸

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▲国頭村宜名真にあるオランダ墓碑 ▲オランダ墓の様子とバラストに使われた石

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▲カヤウチバンタからみた宜名真の港と集落 ▲「故當山正堅先生頌徳の記」の碑
【国頭村安波】2003.2.18(火)
大宜味村塩屋・屋古・田港に行き、東海岸に回り東村の平良・川田(先日勾玉の件があったので)へ。さらに北上し
国頭村の安波まで。
安波は国頭村の一つで太平洋側に位置する字である。斜面に発達したシマンナハ、分家筋でできたメーダ(前田)とフクジ(福地)、離れたところに寄留人でできたチュラサク(美作)の集落からなる。シマンナハ集落は斜面に発達し、旧家や神アサギやソージガーなどの拝所があり、山原の古い集落形態を保っている。斜面に位置した集落は昭和30年代までほとんどが家が茅葺屋根であったが、今では茅葺屋根の家は一軒もない。
安波は昨年大きく変貌した。シマンナハの集落の中をヌルドゥンチまで車が通る道がつけられ、神アサギがコンクリートから赤瓦葺きに、そしてミーヤー(新屋)や上之屋(ウヘー)、アサギナーからヒナバンタにかけて、さらにソージガーなどが整備された。かつての落ち着いた風情が大分失われている。
安波はウンジャミとシニグが交互に行われている。これまで安波のウンジャミもシニグも部分的にしかみていず、参与観察記録はまだつくっていない(隣の安田とほぼ同時進行で行われているため)。ハナバンタにいくと80歳近い一人のおばあがベンチに腰掛けていた。「安波川の流域はたんぼがあり、その後はキビになり、だあ今は草ボウボウさ。そしてよ、あの引っ込んだところがあるさね。そこに山原船が風よけにとまっていたよ。もっと昔はよ、ムラの下まで船がきよったてよ」など、しばらくゆんたくをした。「家はすぐそこだからよ。遊びにきてよ」と。集落の一番上の家で帰りながら表札をみると「宮城ナエ」とあった。
「おばあ、ウンジャミやシニグの時、ここも使うの?」と尋ねると、「うん、私も神人(カミンチュ)しているから知っているさ」と。「昔はよ、ヌルは安田まで行ってきよったさ。もっと昔、ヌルは安田から安波に移ってきたってよ」と。
「おばあ、神人していますよね。神アサギにある梯子であがったのですか」
「今は歳とって梯子ではあがらんさ」などなど。去年まで使っていた一段あがった神アサギにのぼるのに使っていた木の梯子はヌルドウンチの後ろに置かれていた。「今年のシニグにはきますね」と別れをつげた。安波のおばあとゆんたくできただけで満足じゃ。もちろん、安波の墓地地域も歩いてみた。サキシマスホウの木のある一帯や御願橋の上流部のナンザンバカ(南山墓)とヌルバカのある一帯も(「安波をゆく」で報告)
▲安波川からシマンナハの集落をみる ▲アサギナーからメーダ(前田)集落をみる
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.. ▲新しくつくられた神アサギと梯子 ▲上之屋の隣の家の門(空き屋敷)
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▲上之屋の中にある位牌 ▲ヌーガミにある祠
【国頭村安波】2003.4.19(土)
初夏のような天気。平成13年8月28日に行った調査を整理する。大方、公にしてあるが「沖縄県国頭村安田のシヌグと祈り」として収録するため。安田のシヌグを振り返ってみると、シヌグやウシデーク、あるいはウンジャミなどが、今年もやってくるのかと、緊張感と気持ちの高ぶりを覚える。今年は、どこの調査になるのか(本部町具志堅の予定)。あと、どれだけ調査ができるか、あせりもある(体力的に)。一軒一軒しっかり、自分の目で確認しておこうと考えている。

▲シヌグが始まるのを待つ神人 ▲神アサギに準備された神酒

▲安田の海岸で禊をする ▲これから山へいく親子
【国頭村安田】2003.8.6(水)
国頭村安田をゆく。旧暦7月最初の亥の日安田でシヌグが行われた。12時頃安田に着く。会議は15時からなので、それまでシヌグを調査することにした。山降りが12時だと聞いていた。ところが山に登るのが12時頃で山降りは13時だという。ちょっと時間ができた。しめたである。早速、山降りの三箇所のスタートの場所へ。
まずはヤマナスへ。満潮時にあたり、胸まで浸からない川は渡れない。そこは断念してササへ。
ササには大部人が集まり、頭にガンシナーを被り体に木の枝やツタを巻いて準備中。出発前に山の神と海の神への御願が行われた。太鼓が打たれると、エーヘイホーの掛け声。一時頃になると一列に行列をなし、ササをスタート。川に突き当たり左折して川に沿っていく。県道を横切り、決まった道筋を通りトゥンチバルへ。
アギ橋(安田橋)に行くとヤマナスが早く着いたため、メーバ組の到着を待つ。メーバ組がアギ橋に到着するのを待ってヤマナス組と合流する。アギ橋には飲み物を準備して家族や女性達が待つ。
それから橋を渡り、道路を横切ると左折して畑の中を通りトゥンチバルへ。トゥンチバルでササのメンバーと合流する。そこに待機していた女性達を取り巻くように二重、三重に渦巻き状に円をつくる。そこで中央部の女性達に山降りしてきた男性達が持ってきた木の枝を揺らしてエーヘイホー、スクナレースクスクと呼応して掛け声をかけあう。
今回の安田のシヌグは流れでみると同時に、いくつもの要素を引き出してみることにある。シヌグが何かではなく、安田のシヌグに含まれている見え隠れするいくつもの要素が確認できればと考えている。特に稲作と関わる部分とヤーハリコー。他の地域との祭祀を比較する上で、安田のシヌグ(シヌググァーを含めて)が一つの物差しになるのではと考えているからである。例えば、具志堅のシニグや古宇利島のウンジャミなどと比較してみると、祭祀を通した「国(クニ)と村(ムラ)」の姿が見えてくる。さらに古琉球の辞令書に登場してくるいくつかの貢租(ミカナイ)などもあわせ見ると・・・・。
【国頭村安田のシヌグ】
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@メーバからみた安田の集落 |
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A安田の神アサギ |
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Bヤマナスから降りてきた組 |
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Cメーバから降りてきた組 |
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Dササから降りてきた組 |
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Eトゥンチバルで三組が合流 |
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F神アサギへ移動 |
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Gヨリアゲ森 |
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H海岸で山と海の神への祈り |
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Iウイヌカーでの禊 |
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Jウイヌカーから旗頭を神アサギヘ |
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K田草とり |
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L神アサギに柱をつく(ヤーハリコー) |
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M女性達が舞う(ウシデーク |
【国頭村辺戸】2003.9.2(火)
広島の学生達と国頭村まで。辺戸の集落と安須森(アスムイ)登りに挑戦。わたしは安須森にあと何回登れるか? 今回は体力だめし。まだ登頂できる体力がありました。
国頭村比地にある「やんばる野生生物保護センター」は休館でした。残念。辺戸でノグチゲラの営巣する巣穴をあちこちに見つけました。はやりの神アサギに行かねば。近くにノロドゥンチあり。アサギミャーで最近祭祀が行われたようだ。
辺戸のウガミにある石灯籠はいつも気になるものだ。1688年に国頭按司正美が薩摩に使いとして派遣されたことと関係ありそうである。
安須森登りは、沖縄の人々の神観念が伺える場所である。子の方向からやってくる神と天から降臨してくる神の接点の場所のようだ。先祖や子などの文字が書かれた拝所がいくつかある。
▲目指すはあの安須森。不安・・・ ▲登頂成功なり。はりきったのは斉藤さん

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▲安須森から辺戸の集落をみる ▲辺戸にある石灯籠(1688年?)
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▲辺戸のノロドゥンチ ▲辺戸の神アサギとアサギミャー
【国頭村比地のミルク田と天人】
老人が子や孫を連れて畑回りをしていると、どこからともなく天人(アマンチュ)が現れて年齢を聞いた。「120歳になります」と答えた。今度は「子や孫は繁盛しているか」と聞いた。「また孫、ひち孫までいます」と答えると、「美しい心を持った人だ」と、稲の作り方を教え、「村人たちにも教えてやるといい」と言って姿を消したという。教えられたとおりに稲作をしたらおいしい米ができた。比地川の中の宮付近にミルク田跡がある。泉川の山城家が管理している。ここが田の始まりと言われ、隔年に行われる豊年祭のとき、この田を拝んでから行事がはじまる。豊年祭の長者大主で、その場面が演じられている。
この伝承を持つ泉川の山城家の庭に神屋があり、そこに杖を持った天人(アマンチュ)の図像が掲げられている。比地に伝わった伝承に登場する天人を図像として描き掲げてある。
『国頭村史』(別冊)「国頭村の伝説」―比地のミルク田の話―
『国頭村の今昔』(沖縄風土記全集)
比地の口碑・伝説―ミルク田の話・人物―
【
国頭村辺戸】
2004.7.25(日)
O国頭村辺戸の安須森(アスムイ)
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。
『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
・シチャラ嶽 神名:スデル御イベ
・アフリ嶽
神名:カンナカナノ御イベ
・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ
アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。
アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れるの王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。
宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」
の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国
由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。
首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。
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▲辺戸岬から見た安須森 ▲辺戸の集落から見た安須森
P辺戸のシチャラ嶽
『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。
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▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽) ▲御嶽のイビヌメーだとみられる
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▲御嶽の頂上部にあるイベ ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある