恩納村の集落と御嶽とイベ

 トップへ   恩納村のウタキなど


 恩納村の集落、御嶽(ウタキ)、その中のイベ(イビ)を見ていく事にする。沖縄本島北部(山原)と中頭・島尻と、両地域の習俗を継承しているのではないか(もちろん、共通する部分もある)。恩納村恩納から北の名嘉間・安冨祖・瀬良垣。それと谷茶・富着・前兼久・仲泊・山田・真栄田・(塩屋)と共通する部分と異なる部分。その仕訳をしてみたい。特に、北部地域とは異なる部分を強調してみるが、結果はどうでしょうか?


【ウタキとイベ】
 山原の御嶽(ウタキ)やグスクを調査してきて過程でウタキとイベは明確に区別して見ていく必要があると気付かされる。ウタキとイベを区別せずごちゃまぜに議論している場合が多々ある。それは『琉球国由来記』(1713年)の記述の仕方にありそうである。「・・・嶽 神名:・・・・イベ(ツカサ・ヌシ)」と記されている。・・・嶽は杜全体をさし、・・・イベは杜の頂上部であったり、石が置かれていたり、今では祠になっていたりする。『琉球国由来記』に神名とあるので、神の存在を表しているのではないかと。

 御嶽の構造について宮城真治は『古代の沖縄』で明確に示されている。それを見ると、ウタキ(御嶽)は杜全体。杜の中にイベ・イベの前・おびづななど、ウタキを構成する要素があげられている。

 今帰仁グスクでの御嶽(ここではグスク)と内部のイベを明確にしているのは『中山世鑑』の北山城攻めの記事である。『琉球国由来記』の旧跡で北山城攻めがあるが、そこでは「鎮所」と記されている。

  去程ニ山北王、其兵ヲ招テ、サノミ罪ヲ作リテモ何カセン。人手ニ懸ンモ末代ノ恥辱ソカシトテ、
   二ノ丸(大内原か)ヘ引上り、神代ヨリ城守護ノ
イヘトテ、崇奉リシ盤石アリ。其前ニシテ宣ケル
   ハ、今ハ
イヘモ神モ諸共ニ冥土ノ旅ニ赴ントテ、腹掻切テ反ス太刀ニテ、盤石ノイヘ切破リ、
  後様ヘ五町余リノ重間河ヘソ投入給。七騎ノ者モ思思ニ自害シテ、主ノ屍ヲ枕ニシテソ臥タリケル

ところが、今帰仁間切の所で「城内上之嶽 神名、テンツギノカナヒヤブノ御イベ」と記されている。上の北山攻略のイヘ(イベ)は城内上之嶽の神名のテンツギノカナヒヤブノ御イベの盤石の事を指している。城内上之嶽をしてあるのは、ウタキ(御嶽:杜)がグスクに取り込まれているからである。神名は神の存在ではなくイベの名称である。「城内下之嶽」も同様で、神名のソイツギノイシズノ御イベは神の存在ではなくイベの名称である。他の個所でもそうであるが、神名の名称は神の存在ではなくイベの名称と見るべきである。

 2008年に調査したのを、ここに移動してみる。いずれ整理しなおすことに。



【安冨祖の集落とウタキとイベ】

 安冨祖は金武間切から恩納間切に組み込まれた村の一つ。集落の東側の森がウタキである。ウタキの内部に二つのイベがある。一つは熱田への遥拝所とされるが、それはムラ内の一集団(熱田からの)のイベと見ている。熱田にもウガンジュ(ウタキ)あり、イベの祠があるからである。

 『琉球国由来記』(1713年)の安冨祖村に森城嶽とアッタ嶽がある。森城嶽は安冨祖御嶽とみていい、アッタ嶽は熱田にある御嶽である。

 安冨祖のウタキ内(安冨祖御嶽)の祠はイベである。三つに区画されている。区画された内部の香炉の奥に、それぞれ石が置かれている。その石がイベである。三つのイベは安冨祖は少なくとも三つの集団からなっていて、それぞれの集団のイベだと位置付けている。

 熱田への遥拝所される祠は、三つの香炉の一段上に香炉(石)が置かれている。それがイベ。


   ▲森全体が安冨祖御嶽(ウタキ)     ▲ウタキ内のイベへの道


   ▲ウタキから眺めた集落     ▲ウタキ内にある祠(イベ)  ▲祠内の三つのイベ


  ▲熱田への遥拝と言われる祠     ▲祠内の奥のイベと香炉

【谷茶のウタキとイベ】

 谷茶は読谷山間切から恩納間切になった村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)に谷茶村名は登場するが、御嶽(ウタキ)や殿、神アシアゲや祭祀の記載がない。『沖縄島諸祭神祝女類別表』には「東ノ御嶽」のみが表記される。集落は海岸沿いに細長く南北に延びている。その東側に位置する森がウタキである。「東の御嶽」はそこを指しているのであろう。

 ウタキの内部に香炉が九つの香炉が置かれた祠がある。九つの香炉とイベの数とは関係ない。「奉寄進」の香炉が三基あり、「□□ 仲村渠□□」と二基にあり、谷茶村出身の奉公人、あるいは間切役人の上国した時の寄進と見られる。

 集落は御嶽を背に発達している。ウタキへの階段の登り口があるが、お宮と呼ばれる拝所(旧家?)の前から御嶽のイベへの旧道がある。


       ▲谷茶のウタキ          ▲ウタキ内につくられた祠


   ▲ウタキ内の祠の内部に香炉が9基(イベを祭った祠か)

  
▲ウタキに張り巡らされた左縄   ▲イベへの旧道     ▲イベへの現道


【恩納村安富祖】(『恩納村誌』参照)

 恩納村(ソン)安富祖は1673年以前は金武間切の村の一つであった。1673年に恩納間切が創設されると同間切の村となる。『琉球国絵帳』と『琉球国高究帳』では「金武間切あふそ村」とある。『琉球国由来記』(1713年)になると恩納間切安富祖村となる。また、おもろでは「おんなやきしま あふそやきしま」と謡われている。

 『琉球国由来記』(1713年)に安富祖村の御嶽が二ヶ所登場する。また祭祀場として三ヶ所ある。安富祖巫の祭祀の管轄は安富祖村のみである。

  ・森城嶽(神名:根立森イベヅカサ)
  ・アッタ嶽(神名:コバウノモリイベナヌシ)
  ・安富祖巫火神
  ・根神火神
  ・神アシアゲ





【安富祖の小字】

 安富祖には小字が13ある。喜瀬武原に小字が二つあり、喜瀬武原と廻袋原である。地積上字となったのは昭和23年である。行政区となったのは大正11年に安富祖から分離する。

 ・宜志富原 ・熱田原 ・金良原 ・大堂原 ・赤瀬原 ・高武名原 ・前袋原 ・村内原
 ・明地原 ・正底原 ・浜原 ・クガチャ原 ・上原




 村内原は安富祖の中心となる場所で、村内原の北側の明地原前袋川が流れ仕明地だったとみられる。恩納間切惣地頭佐渡山殿内が水田化したという。戦後になって前袋川の河口を直線的に海に流れを変えた。旧川地は埋立地にした。

 国道沿いに元佐渡山殿内の仕明地あり。



【安富祖の旧集落】(明治34年頃)

 明治34年頃の安富祖の中心は小字名の示すように「村内原」に集落がある。そこには、安富祖ノロドゥンチ、村屋(村学校)、耕作屋、地頭代、惣耕作などを勤めた家がある。恩納小学校地(後に現在地の熱田に移動)やウッチン畑が見られる。前袋川沿いに伝馬船着き場や薪津口、それにブリ倉が9棟あったという。また惣耕作やミチグイやマザカヤに高倉が記されている。




【熱田の集落】
 ・泊・首里からの移住者(ヤードゥイ)
 ・熱田に居住した泊系統は松茂良(山原船の持ち主)と山田。山田は後に喜瀬武原へ。
 ・首里系統の泉川、佐渡山、喜瀬、幸喜などが移住してきた。
 ・熱田御嶽があるが、移住者の御嶽ではない。
 ・村内集落に熱田から移動して住んでいる人たちの御嶽


【安富祖と山原船】
 伊江島との往来あり。竹茅・山原竹束・薪を伊江島へ。伊江島からは甘藷・豆類など。


【安富祖への芸能の伝播】
 ・安富祖の芝居の練習は御嶽などの拝所で。
 ・後には地頭代屋で
 ・ボージガマへ遥拝する。
 ・根人兼ボウジ頭主出自のハルヌ屋で踊り(ハルヌ屋がないので略)、その後公民館の舞台へ。
 ・本部大主(組躍りは以前からあった。[屋倉」は明治40年に首里人の泉川(良)から教わる。
 ・京太郎 明治35年頃までチョンダラー四、五人が安富祖を訪れ、ノロ殿内や富着屋などの家を廻り
  米一升づつもらった。 


2008年12月2日(火)

 恩納村(ソン)名嘉真と安富祖まで足を伸ばしてみた。手始めに二つの字の地理感覚を体に覚えさせるためである。時々、名嘉真のこと? 安富祖のこと? どの字(アザ)のことだったかなどと混乱を起こすことがある。まずは、恩納村の15の字について、しっかりと体に覚えさせることから。しばらく恩納村の村々を歩くことにする。

 名嘉真の集落内を歩いていると、声をかけられる。「どちらから?休んで行って」と。
    「そこ、流れている川はなんというのですか?」
    「名嘉真川ですよ。どこから来なさったのですか」
    「大和から・・・。海から海水があがってくるのですか?」
       (ウソをつく。丁寧に教えてくれるので)
     「今、潮水があがってきているでしょう。あれ、ザザザーと」

たわいもない会話を交わしていると、「そこによ、仲間節の碑建てたばっかしよ。ウシデークも踊ってお祝いしたさ」と。ウシデークや神行事のこと。ウタキや旧集落のことなどを伺う。「そこの新城だからよ。ちょっと待って」と言って、家から缶ジュース二本、お菓子までも。忘れませんね。このようないいシマは。仲間節の碑建立のいきさつを記した資料をいただく(公民館から)。

【恩納村名嘉真】
 恩納村名嘉真は1673年まで金武間切の村の一つであった。1673年に金武間切と読谷山間切から村を分割して恩納間切を創設した。それ以後、名嘉真村は恩納間切の内。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』には「金武間切中間村」とあり、『高究帳』の石高を見ると田が157石余、畠が7石余で、圧倒的に水田が多い村であった。その名残は小字名の川田原と新田原の原名にみられる。1713年の『琉球国由来記』では「名嘉真村」と表記さ、以後の資料では名嘉真村である。

 名嘉真(中間)村が金武間切であったことを示すのが、以下の琉歌である。その碑が11月28日に建立されている。「金の御前がなし」は金武王子、あるいは金武按司は仲間(名嘉真)から久志辺野古まで領地とし、もう一首は「佐渡山の主御前」で恩納間切の総地頭であり、名嘉真村から真栄田・塩屋まで領地としていたことが読み取れる。間切分割以前の金武間切は西海岸から海岸、恩納間切は北の名嘉真から読谷山間切の村であった南側の塩屋・真栄田まで領地とし、間切の領域が知れる。

  仲間から かいとて
  久志辺野古までも
  金武の御前がなし
  うかけ親島

 もう一首あり。
  名嘉真からけとて
  塩屋・真栄田までん
  佐渡山の主御前かけ親島



【名嘉真の小字】
 名嘉真は村内原・浜原・前袋原・川田原・新田原・竿底原・伊武部原・下袋原・ヤーシ原・アンタカ原・金武上原・名嘉真山の12の小字からなる。現在、村内原と浜原に集落が発達している。カンカーの祭祀があり、大島組・新島組・浜組に分かれ、各カンカー毛で祈願がなされ、豚の下アゴを各組の入口に吊し悪疫払いをしたという(『恩納村誌』)。


   ▲名嘉真の12の小字

 名嘉真は古島・新島・浜の三つの集落からなる。古島の方に神アサギや地頭火神、そして名嘉真ノロ殿内(ヌール屋)などがあり、古島から新島、そして浜へと集落が展開していく様子が知れる。近年、古島に新しく家が建っているのが目につく。

【三つの御嶽】
 『琉球国由来記』(1713年)に名嘉真村に三つの御嶽が記されている(以下のように想定されている)。
  ・トマリガシラ嶽(神名:アフスシヅカサ)・・・・新島東側の杜
  ・カワイフ嶽(神名:アフデヅカサ)・・・・・・・・古島の近く
  ・マナツジ嶽(神名:マカサノイベヅカサ)・・・新島と浜の境界を流れる名嘉真川沿い

【名嘉真古島の復元】
 『恩納村誌』に名嘉真の古島集落の復元図が掲げられている。それによると昭和4年頃まで約10戸、昭和43年には3戸、昭和550年には川端屋のみとなる。近年、また住宅が増えつつある。ノロドゥンチを始め、祭祀を司る根神やニーブヤなど旧家が見られる。それと村屋や地頭屋敷跡などもある。川端や玉井は集落内に住んでいる寄住人や寄留人である(姓のみの屋号)。イーフヌヤーの屋号の家があるが、イーフ(深田)の近くにあったことに由来しているのであろう。前袋原当たりの水田は深田だったのであろう(確認のこと)

  ・イーフヌヤー ・イリジョー ・国神小 ・タンパラヤ ・ニーブヤ ・ノロドゥンチ
  ・地頭屋敷? ・前ヌカー ・村屋 ・神アサギ ・国頭屋 ・テラヤ ・根神
  ・クシライ ・ノロドゥンチ小 ・新城ヤ ・玉井 ・ジョーヌ屋 ・谷茶 ・アガリジョー
  ・大屋 ・ミーヤ ・マースヤ ・横目 ・川端 ・金城ヤ ・門口 ・門口小 ・入門小
  ・ニーブ小 ・獅子祠 ・大屋

 名嘉真の豊年祭の番組の導入は、『恩納村誌』に記されている。
  ・組踊りの八重瀬は与那原殿内が村廻りで教授(明治21年頃)(マナツジ嶽で稽古)
  ・女踊りの紅型衣装は御殿家下り(七百五十貫と八百貫で購入)
  ・村遊び棒は越来間切の比嘉・島袋村の人の伝授。


    ▲海水が遡流している名嘉真川       ▲名嘉真の海岸の様子


      ▲名嘉真ヌール屋        ▲新しく葺きかえられた神アサギ


   ▲地頭(名嘉真脇地頭)火神の祠     ▲カワイフ嶽への遥拝所