与那国町                     
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【与那国島】(2005年3月19日)

 明日から与那国島と石垣島へゆく。与那国島ははじめてである。これから与那国についての下調べ。地図を広げてみると、沖縄本島北部から直線距離にして与那国島までと、鹿児島県の開門岳あたりに相当する。そう見ると、沖縄県ではあるが与那国島は遠い。今回、与那国島に足を向けた理由の一つに、『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)や『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条、そして『具志川家家譜』の記事である。

 ○『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)
   右嘉慶弐拾四卯九月、与那国島江今帰仁按司様
   大和船より被成御漂着候付、諸事為見届渡海之時、
   西表村潮懸滞留ニ而先祖由来より書写、如斯御座
   候、以上
      辰二月          用庸
   右錦芳氏石垣親雲上用能御所持之写よ里写候也 
      用紙弐拾五枚    松茂氏
                     當整

 ○『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条に、与那国島へ漂着した概略が記されて
  いる。
   本年。為慶賀 太守様。陞中将位事。遣向氏玉城按司朝昆。六月十一日。
   到薩州。十一月二十三日。回国。(去年為此事。遣向氏今帰仁按司朝英。
   前赴薩州。但其所坐船隻。在洋遭風。漂到八重山。与那国島。不ー慶賀使
   之期。故今行改遣焉)

 ○『具志川家家譜』十二世鴻基(朝英)の嘉慶24年に詳細な記述がある(省略)。

 薩州の太守様が中将になったときに、向氏今帰仁按司朝英(鴻基)が派遣されたが、薩州に着く前に、船は逆風に逢い八重山の与那国島に流されてしまった。翌嘉慶25年向玉城按司(朝昆)を派遣した。今帰仁按司鴻基は1816年に琉球を訪れたバジル・ホールと交渉した人物である。那覇港を出航したが、逆風にあい運天港に乗り入れ風待ちをし、運天港から出航したが与那国島へ漂着する。漂着地である与那国へである。

 与那国のことを調べている(『与那国島』(町史第一巻参照)と、膨大な情報があるが頭に入れ込めず。島に行って島の人々の個性と接することができればと開き直っている。

 与那国のことを島の人々は「どぅなん」と呼び、石垣では「ゆのおん」と呼ぶという。そのこと確認できれば、それでいい・・・。ついでに言うなら音として確認できないが、『成宗実録』(1477年)に与那国島に漂着した朝鮮済州島民の見聞録では「閏伊是麼」(ゆいんしま)、おもろさうしでは「いにやくに」、『中山伝信録』(1719年)には「由那姑尼」とある。近世になると「与那国」と表記される。

 与那国島近海が黒潮の玄関口だという。大正13年に西表島の北方沖で起きた海底火山。そのときの軽石が黒潮に乗って日本海側と太平洋側の海岸に流れ着いた様子を気象庁に勤めていた正木譲氏が紹介されている。与那国島近海を北流する黒潮本流と、与那国島にぶち当たり反流する黒潮支流があるようだ。そのことが、与那国島の祭祀や言語などに影響及ぼしているのであろう。

 与那国島について、乏しい知識で渡ることになった。すでに多くの研究がなされているであろう。それらに目を通すことなく渡ることになるが、帰ってから学ぶことにする。まずは島に渡ることから。与那国島から石垣島に渡る予定。


 与那国島、竹富島、西表島、小浜島、そして石垣市内(登野城・大川・新川)を訪れた。三泊四日の山原を考える歴史の旅となった。まずは3月20日(日)の午後と21日(月)の午前中に訪れた与那国島から(ニ、三の印象のみ)。
 
 行く前から久部良バリとトゥングダ(人升田)が気になっていた。これまで見てきた山原の土地制度(地割)と矛盾を感じるからである。与那国島における人減らし(口減らし)。人減らしのため女性が久部良バリ、男性がトゥングダが手段として使われたという。与那国島ゆきの気が重かったのはそれである。


【与那国島をゆく】(2005.03.24)

 特に近世から明治にかけての土地制度の中で、山原では人口を増やせよである(一族の繁盛と村の繁栄と祈願する)。もう少し山原の地割制度や先島でいう人頭税について調べてみることにする。与那国島、竹富島、石垣市(博物館前)の三カ所に「人頭税廃止百年記念碑」が建立されていた。まだ目を通していないが、『あさぱな』(人頭税廃止百年記念)が出版されている。山原の土地制度を実態はどうか、何か手がかりをつかんだような気分でいる。 
   
 与那国島の水田にも関心がある。谷間などにある天水田、それとやはり田原川沿いが気になっていた。川沿いは湿地帯ではないか。予想通り、今でも手付かずの湿地帯(沼地)が広い面積を占めている。近世の絵図を見ると入江である。与那国島の稲作の盛衰は山原(特に今帰仁村)の水田の消滅とことは重なってきそうである。

 与那国島を二日足らずで駆け回っての土地制度と稲作についての印象である。集落の成立ちを知るには、山原とは異なった物差しを必要としそう。

 海底遺跡、その証明は陸上部のサンニヌ台や軍艦岩や久部良バリあたりの特殊な地形が「人工的なものだ」と言える程の説明が必要ではないか。それ程大変なことだ。全くの素人の印象。

【与那国島】
 ・沖縄最後に見える夕日が丘
 ・久部良バリ
 ・久部良の集落
 ・久部良漁港
 ・久部良公民館の後方の拝所(久部良御嶽)
 ・太陽の碑
 ・沖縄県最西端の地(碑)
 ・久部良ミトゥ(池:湿地帯)
 ・久部良岳
 ・比川の集落
 ・比川の浜
 ・比川の学校
 ・ハマシタンの群落
 ・立神岩
 ・立神岩展望台
 ・サンニヌ台
 ・軍艦岩
 ・サンニヌ展望台
 ・東崎展望台
 ・ダティクチヂイ(1664年)
 ・浦野墓地
 ・ナンタ浜(祖納港)
 ・祖納の集落
 ・田原川と湿地帯と水田
 ・水源地(田原水園 1952年7月竣工碑:コンクリート)
 ・与那国民俗資料館
 ・人頭税廃止100周年記念碑
 ・十山御嶽
 ・ティンダハナタ(サンアイ・イソバ、インガン、伊波南哲の詩碑、泉)
 ・トゥングダ(人升田)
 ・水田地帯
 ・人頭税廃止百周年碑
   (大和墓と各遺跡は行けず)



   ▲ティンダハナタから祖内集落を眺める         ▲ティンダハナタの崖


    ▲ダティクチデイの石積み             ▲石垣の内部にある方位石


     ▲久部良バリの様子               ▲下方から見た久部良バリ


 ▲田原川か流域からみたティンダハナタ       ▲トゥングダ近くにある水田


        ▲十山神社(御嶽)               ▲久部良御嶽