運天を訪れた人々

(工事中)

  運天は廃藩置県後大和の知識人たちを引きつけた場所の一つであり、それ以前も外国船が琉球・日本との通商をにらみつつ頻繁に訪れた港で、多くの人々がその記録を残している。運天や運天港についてのこれらの記録を見ながら、当時の状況を見ることにする。

嘉慶21(1816)年  バジル・ホール来航
      (『朝鮮・琉球航海記』)

  このすばらしい港は、どんなに激しい嵐のときであってもまったく安全に船を碇泊させることができる上、海岸は変化に富んでいるので、船が必要とする修理の種類に応じて、ふさわしい場所を選ぶことも可能である。

  岩が天然の船着場を形造っている場所が何箇所かあり、岩のすぐそばでも水深14~18メートルもあるので、船を横づけにすることができる。傾船修理に適した遠浅の浜もあるので、船底を修理するために船体を傾けることもできる。

  そのほか、ほとんどの崖にうがたれている洞穴は、格好の貯蔵庫になるであろうし、両岸に点在する草地は大勢の人々が宿営地として利用できるであろう。

 〈中略〉(運天の)村の正面には海岸と平行して9メートルの幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこここに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある。全長約400メートルほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。

  以上、バジル・ホールの記述から、十九世紀はじめの運天港、運天村の様子を見た。海岸と平行して通る幅 九メートル、長さ400メートルの並木道は番所の前の道のことで、木のベンチのある並木道のさわやかさ、整然とした様子が生き生きと描かれている。「両側からさし出た木々の枝」は大きく広がるコバテイシの枝々であろう。

  バジル・ホールの一行は羽地内海の美しさと同時に運天港を高く評価し、「われわれが発見したこのすばらしい港」を「海軍大臣メルヴィル子爵を記念して」メルヴィル港(Port Melville )と名付け、以後外国船は運天港のことをメルヴィル港と呼ぶようになる。

■フランス船来航(1844年)

 オランダ船来航

■咸豊3年(1853)年 ペリー来航(『ペリー提督遠征記』)

  Port Melville  大琉球島のこの美しい港は琉球の北西岸にあって、那覇から凡そ85マイルの距離にある。すばらしい陸の目印であるSugar loafisland (伊江島)はこの港口の西北訳12マイルの地点にある。(中略)伊江島の北端を廻り東南東寄りのコースをとると、運天港の港口、即ちKooi(古宇利島)の北側(西側)に達する。ここでは水路の境にあるリーフの端に船又はブイが据えられるまで停泊するか、20~25尋の水中にアンカーをおろすがよい。そういうガイドなしでは吃水の深い船舶にとって、リーフ間の水路を見つけることは困難である。リーフとリーフの間は、所によっては僅か一ケーブル(185メートル)の長さしかない。しかもリーフは常時水中に没している。

  水路の方角と進路は、まず南から東へ37度の方角にあるダブルトップ山並びにヘレ岩向けの方角をとる。その方角に向かって、舵を定め、しばらく進むと、やがてチムニーロックが四分の一東(22・5度)の方位に見える。

  そこでチムニーロックに向かう。やがてポイントコンデが南から東寄り49度の方位に見えるから、それに向かって進んで行くと、もう運天の湾内に滑りこんでいる。

  アンカーを降ろす時は、船が揺れ動いてもポイントコンデの北方に延びているリーフが充分に避けられるように余裕をもって投錨すること。そうすれば、すっかり陸に囲まれ、どの方向の風からも完全に遮断されてまるで、しっかりした地上のドッグに横たわっているように安泰でしょう。

   運天村では良質の水が得られる。

                      ペリー提督の命により 

        合衆国海軍大尉サイラス・ベント(Silas Bent)

  バジル・ホールの一行も水深を詳しく測量した地図を残しているが、ホールによる琉球の描写は非常に絵画的、文学的で情景が目の前に浮かんでくるような記述である。それに対し、武力を背景とした開国を目的としていた生粋のアメリカ軍人ペリーが部下に要求した記録は運天港の絵画的な描写ではなく、琉球と通商条約を結んだ後に度々利用することになるであろう運天港にどのようにして船を安全に入港させるか、そこに焦点がしぼられている。ペリーの部下たちは船上から見た陸地をいくつもの方角から描き分ける地図を残しているが、それらの地図からもアメリカが琉球を対日交渉のための重要な基地として位置付けていることが伺える。 

■明治14(1881)年  上杉県令巡回(『上杉県令巡回日誌』)

  ペリーの来航から28年後の明治14(1881)年、上杉県令が今帰仁間切を訪れている。そのときの様子が庶務課記録係十五等出仕の秋永桂修蔵の筆記により『沖縄県巡回誌』(明治14年)国頭之部に記されている。

  午後一時四十分、舟、今帰仁番所、首里警察分署の前岸に達す。七百年前の昔、源八郎為朝、伊豆の大島より漂流して、颶風に遭ひ、運を天に任せ、来着したる、運天港是なり。秋永詩あり曰、樵漁聚落幾廛々、海水湾環畳碧連、憶起八郎当日事、運天港口始推船、直に路を右に取り、村間を貫き、坂路に就く。一洞あり、其中に鍛冶場を設けたり。鞴(フイゴ)を据へ、鉄碪(カナドコ)を置きたれども、げきとして人なし。曲折盤回して登る、陰風人を襲ひ、草水悲凄す。山の半腹に、邃洞あり、白骨の髑髏、其中に堆積す、或は腐朽せる、鎧櫃の中にあるもあり、土人伝へて、百按司墓と云ふ。〈略〉近来本庁にて、百按司の遺屍を埋むる議ありと聞く。

  〈略〉今帰仁分署に至る、門南西に向ひ、老榕甘木、陰を成し、皆是四五百年の物、傍に福木秀茂せり、港口に日本形の船二艘碇泊す。〈以下は略略〉(大意)午後一時四〇分、船は今帰仁番所と首里警察分署の前の岸に到着した。七〇〇年前、源八郎為朝が伊豆の大島より漂流して、つむじ風に遭い、運を天に任せて来たと言う運天港である。秋永が詩を詠んで曰く「樵漁聚落幾廛々、海水湾環畳碧連、憶起八郎当日事、運天港口始推船」(木こりや漁師の集落がいくつもあり、海水が湾をめぐり青く連なる、為朝が漂着した日のことを思い起こしつつ、運天港の口より船を進める)。すぐに道を右に行き、村の間を通って、坂道に至る。洞窟があり、その中に鍛冶場を設け、フイゴを据えて鉄床(カナドコ)を置いてあるがひっそりとして人がいない。曲がった道を回りめぐりながら登る。陰気な風が吹き、景色ももの悲しい。山の中腹に奥深い洞窟があり、白骨がその中に堆積したり、あるいは朽ち果てたりしている。鎧櫃の中に入っているのもあり、地元の人たちは百按司墓と呼んでいる。間もなく本庁で百按司の遺骨を埋めることが決議されるとのことである。

  今帰仁分署に戻る。門は南西に向かい、四、五〇〇年になるという古いガジマルの木が木陰を作り、その側には福木が茂っている。港には日本型の船が二艘停泊している。

 『沖縄県巡回日誌』に描かれた運天を見ると、今帰仁間切の番所の他、首里警察の分署があったこと、また鍛冶場があったことも知られる。さらに、百按司墓も訪れており、墓の状況の他、「鎧櫃」があったことも記されている。「近来本庁にて、百按司の遺屍を埋むる議あり」とあるが、上杉県令巡回の翌年(明治十五年)県令自ら内務卿山田顕義に百按司墓修復のための見積書を添えて具申している。

  さて、百按司墓を巡回した後、県令一行は再び今帰仁分署に戻ってきた。「門は南西に向かい」ということは、建物は海に面しており、四〇〇~五〇〇年も経つガジマルの木陰があり、濃い緑の福木が茂っている。また港口には、日本形の船が二艘碇泊している。そのような穏やかな風景を描くことのできる、廃藩置県間もない頃の運天である。

■明治15(1832)年  尾崎三良の今帰仁間切巡回

  上杉県令が今帰仁間切を訪れた翌年、参事院議官補の尾崎三良が今帰仁間切を巡回し、その時の様子を次のように記している。

今帰仁番所に着いたのが午後一時で、地頭代は長崎出張中で惣耕作と惣山当以下の物に面会した。番所は南々東海に面し、正面の海上凡そ半里のところに屋我地島があり、自然の港湾をなしている。湾の深さ二里海深十尋余り、湾口に沖の島(古宇利)があり大洋を障蔽し、大船の出入りが容易で颶風の怒涛が至らず、真に沖縄一等の良港である。また、そこでも源為朝がここ運天に着いたことや髏髑骸骨が数百塁々と山の中腹の岩窟に積まれ、石垣で取り囲まれた百按司墓にふれている。

■明治26(1893)年  笹森義助、運天を行く

  津軽藩(現青森県)弘前出身、明治の三大探険家の一人とされる笹森儀助が明治26(1893)年、運天を訪れている。当時笹森は48歳で、「決死の覚悟で」琉球各地を探険し、本土に戻って後『南嶋探験』(明治36年)を著した。その『南嶋探験』から運天にかかわる部分を抜粋してみよう。

  運天港は湾口北に面す、干潮七丈五尺、満潮八丈五尺、東西四町十間、南北九町。東北六町を隔てゝ羽地間切屋我地島あり。周回四里。西北拾壱町三分三厘を隔てゝ今帰仁間切古宇利嶋あり。周回一里。即ち船舶入港の針路にして、両岸に暗礁あり。故に港口狭く出入甚だ危険と為すも、港内安全にして汽船数艘を容るゝに足る。以て沖縄第一の良港と為すべし。神戸・鹿児島等より那覇へ航行の船舶、若し風涛の虞あれば、必ず此港に避くと。

(大意)運天港の港口は北に面しており、干潮時は約24・8メートル 、満潮時には約28メートル の深さで、港の東西が約454メートル、南北が約980メートルある。東北約650メートルを隔てて羽地間切屋我地島がある。島の周囲は約16キロメートル。西北約2キロメートルを隔てて今帰仁間切古宇利島がある。周囲は約4キロメートル で、まさしく船舶が入港する針路ではあるが、両岸に暗礁がある。そのため港口が狭く出入りが非常に危険ではあるが、港内は安全で汽船数艘がゆったり入ることができる。沖縄第一の良港と言うべきであろう。神戸、鹿児島等より那覇へ航行の途中もし海上が荒れる怖れがあれば、この港で難を避けるという)。

  さらに続けて、「ここより北は山々が続き、沿岸や河川に小さな村落が点在するのみで物産は少なく、運送の便が悪い。しかし、本港の優れた特質を活かして、かつて首里の王城を名護に移し、運天港より南の名護、屋嘉川に八キロメートルの運河を通し、この港を利用しようとの議論が一時は盛んに行なわれていた」との興味深い記事を記している。また「運天港の名は琉球群島の土人にもよく知られ、唱えられている」とし、琉球国正史に記された源為朝伝説を紹介している。笹森は運天港を訪れた翌日、午前8時よりオランダ墓と百按司墓を見学し、午前10時半から上運天村・勢理客村・仲宗根村・平敷村・諸喜田村・志慶真村・兼次村を通過し、親泊村にて昼食を取り、北山城址を訪れた後、阿応理屋恵の勾玉と今帰仁ノロの「宝物」を見物している。精力的に各地を見聞する笹森の行動力と関心の広さは驚くばかりである。

■明治32~35(1899~1902)年

             加藤三吾、琉球を研究する

  加藤三吾は津軽藩弘前出身の笹森儀助と同郷で、明治32(1898)年、沖縄県立中学校の博物学の教師として赴任し、在職三年間の間、琉球の研究と教育に打ち込んだ。為朝の琉球渡来伝説に対して疑問を呈した人物である。

  その著『琉球の研究』に運天港の短い紹介文が掲載されている。

 「運天港は本部半島の東北端にあって、為朝遺跡の一と称せられてをるが、背に山を負い前は江を隔てて屋我地島に対し、湾は狭けれど海は深く、人煙は稀であるが風景は佳である。」静かな運天港の風景を簡潔に描写している。 

■明治40(1907)年  菊池幽芳、運天を訪れる 

  菊池幽芳は水戸藩(現茨城県)出身の小説家で、当時の家庭小説の代表的作家と言われる。明治40
(1907)年、源為朝の琉球渡来伝説を実証するために琉球を訪れた。本土に戻って翌年発行された『琉球と為朝』に「美なる運天港」というタイトルで章を設け、運天港の様子を小説家らしい筆で描写している。少し長いが引用してみたい。

  運天港は中山五港の一として知られ、沖縄における第一の良港で、那覇などは到底ここと比べものにならぬ。昔、首里を名護に移してこの港を利用しようという議論さえ盛んに起こったほどで、港は名護、今帰仁間切より成る半島の東北端に位し、その口は東北に向かって狭く開き、北に古宇利島を控え、東に屋我地島を擁し、西南北の三面丘陵に包囲されて深く湾入し、全く風波を避け得べき安全港である。しかし交通が極めて不便な土地なので、現在ではこの港は難にも利用されておらぬ。ただ近海を通る漁 船や汽船が暴風に遭うと逃げ込んでくるというだけだ。

  もし那覇から運天を訪おうとするものは、四日目ないし一週間目位に那覇を出る小汽船に乗って、まず名護につき、名護から陸路わらじ掛けの足を運ばねばならぬ。名護と運天の間は五里足らずであるが、山坂越えで随分難儀な道のりである〈中略〉。運天港は・・・・三日月なりに入り込んで、油のようにとろりと湛えた一濺(せん)の水を隔て、一杯に抱き込んだ屋我地島が右手にひろびろと、つい其の三日月の向こうの端で運天村を包囲する断崖と接続して見えるのは、湾がそこでまた折れ曲がるからである。その湾は細くて長くて狭くて川とより外見えぬ。その位に対岸の屋我地島は近い。それほど狭い帯のような水が流れもせず、さざなみも立てず、瑠璃色をなして渾然と湛えているのを見ると、深さのほども想像される。

  突角の鼻が海へ沈んでまた持ち上がったのだろう、五、六の奇抜な形をした珊瑚礁が、にょきにょきと行列して、湾の口を護る巨人のように海の中に突っ立っている。ここから左手の外洋へかけ、無数の暗礁が、見下ろすと模様のように海を彩って、その合間合間の水は春の日に翡翠玉を砕いて流したような、何とも言えぬ華やかな翠を浮かべている〈中略〉。

  紺青を溶いた海には一艘の漁船も見えず、雪を散らした浜辺にくり舟の影さえない。人っ子一人その辺りに見えなくて、太古のような寂寞と、長閑な春日に領されているのを見ると、何か自分は人間以外の天地へ来たような気がして、もしこの海と崖から閉ざされた村の中へ下りて行けば、人も犬も馬も鳥も、そのままみな木乃伊(ミイラ)になっているのではないかと思った。

  菊池が運天を訪れた明治40年当時、交通は海上から陸路に移り、運天港は既に港としての機能を果たし終えていたことが分かる。陸路から運天に行くには道が整備されておらず、かなりの苦労を要したようである。トンネルができるのは大正13年で、十七年後のことである。開国前後の緊張感に満ちた運天港とは一転して、森閑とした情景が描かれている。