運天港の戦争状況                     トップ(もくじ)へ


 今帰仁村運天には海上奇襲部隊の基地が置かれていた。これまで運天港と戦争について、断片的であるが幾度となく体験された方々から伺っている。運天に置かれた海軍の部隊の崩壊、その後陸戦へ移っていく。その流れを通して「山原の戦争」の状況をみていくことにする。

 刻々と攻めてくる米軍と相対する日本軍、そして避難していく住民の動きを日を追ってみていく必要がある。まずは、『今帰仁村史』の「運天港を基地とした海上奇襲部隊」から動き(昭和18年~同20年6月)と流れをおさえていくことから。

  ・運天港に設営隊として山根隊、蛟竜隊(指揮官:鶴田伝大尉)、第27魚雷艇隊(指揮官:
    白石信也大尉)
  ・蛟竜は排水量59トン、乗組員5人、魚雷数2、連側行動日数5日間(小型潜水艦のような
   もの)
   ・蛟竜隊が沖縄に進出したのは昭和19年8月下旬。
   ・基地を運天に置き、11隻の蛟竜で訓練する。空襲による被害で攻撃時には7隻。
   ・米軍の空襲がはげしくなったので、太田司令官は蛟竜隊が破壊されないうちにと20年3月
   25日に攻撃を下令。
     一、本島上陸地点は、糸満、北飛行場海岸の公算が大である。
     二、今朝来、慶伊干瀬の北、及びルカン礁の海面を掃蕩中で、附近には戦艦6、
       巡洋船8、駆逐艦20がいる。
     三、蛟竜隊の二分の一兵力は、本日、日没後慶伊干瀬の南方に散開待機し、攻撃を
       決行せよ。
     四、残兵力は運天港に待機。
   ・この命令で3隻が出撃したが2関が帰還せず。
   ・3月26日の空襲で、さらに1隻が沈没する。
   ・4月5日までに残りの艇も出撃する。
   ・4月6日米軍が北上してきたため太田司令官は残りの艇を処分し、陸戦に移行せよと
    命じた。
     (その間に戦艦に2本、巡洋艦に1本、それぞれ魚雷を命中させたという)

  ・魚雷艇の本格的な増産は昭和18年に入ってから。航空機の中古機械を利用したので
   故障が多かった。
  ・長さ18m、排水20トンを標準としたが部品の不統一で多種多様の魚雷艇ができた。
  ・魚雷艇の主な武装は、魚雷2、13mm機銃1、爆雷2であった。

  ・第27魚雷艇隊(指揮官:白石信也大尉)は、昭和19年8月から9月にかけて運天に
   進出してきた。
  ・魚雷艇18隻、隊員360名。
  ・昭和19年10月10日の空襲で13隻失う。補強して米軍攻撃時には15隻保有。
  ・昭和20年3月27日の空襲で3隻を失う。その夜から魚雷艇隊は攻撃を開始する。残波沖で
   艦艇に10隻出撃、
   午前1時に突撃する。巡洋艦2隻、駆逐艦1隻を撃沈した。
  ・3月28日も出撃するが米艦にあわなかった。
  ・3月29日の攻撃で巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を撃沈する。
  ・3月30日 午前8時から9時まで、午前11時から13時まで、二回にわたって延250機の
   空襲を受け、隠してあった魚雷艇は使用不能となる。
  ・4月6日夜、魚雷艇隊は「当隊は今より陸上戦闘に移行、国頭支隊長の指揮下に入る」と
    打電。
    (以後、八重岳と多野岳で遊撃隊を組織した)

 (避難民や住民の食糧確保、米軍の捜索から逃げまどう兵隊。そこで戦争の酷い様々な出来事が噴出してくる)
 
 ▲海上奇襲部隊が置かれた運天港   ▲屋我地島から上運天方面をみる

 
▲海上奇襲部隊が置かれた運天港  ▲蛟竜(小型潜水艦)を沈座させたという勘定納港

  
▲上運天の東側の壕(兵舎、司令部などか)