徳之島と琉球          トップへ

                                    於:徳之島天城町(平成21年12月17日)
                                仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長) 

はじめに
1.島津軍の琉球侵攻と徳之島(1609年)
2.西郷隆盛の流刑と奄美(龍郷)・徳之島・沖永良部島
3.徳之島に漂着した船とその処理
4.古琉球の辞令書と三島の「まきり」(間切)
5.琉球(首里王府)からのノロ辞令書

6.琉球の痕跡としての地名や役職や入墨や墓など
   イ.地名  
   ロ.グスク地名の分布 
   ハ.古琉球的な墓 
   ニ.古琉球の時代からの針突
7.道の島の琉球的なものの禁止

おわりに 

はじめに
 与論島・沖永良部島・徳之島の三島を踏査していると琉球(沖縄)と共通する姿が見え隠れする。それらは古琉球(1609年)以前の首里王府の統治や人々の習俗や言葉が継承、あるいは痕跡として遺っているのかもしれない。三島に見える琉球の痕跡を歴史的、習俗、伝承・地名などを具体的にとりあげて、三島に遺っている琉球(沖縄)的なものが、以下のどの時代の影響なのか考えてみたいと思う。
 ・三山時代以前
 ・三山(北山・中山・南山)の時代
 ・三山統一から島津の琉球進攻(1609年)まで
 ・薩摩の琉球侵攻(1609年)以後

 古琉球の辞令書や近世の文書だけでなく、地名(村名)やグスクやノロや掟など、琉球的なものが薩摩の統治下に置かれて影響を受けながらも消え去ることなく根強く継承されている。三島のムラ・シマ踏査し、三島のムラ・シマでの琉球(沖縄)的な痕跡を手掛として報告する。

 
【正保国絵図】(1644年)(「琉球国絵図史史料集第一集―正保国絵図及び関連史料―:所収 沖縄県教育委員会」

  「琉球と与論・沖永良部・徳之島の三島」の関わりについて報告することにするが、ここでは徳之島を中心に述べることにする。三島には、近世になっても「まきり」(間切)の行政区分がある。その詳細について、よくわからないが、行政区分の呼称は古琉球の時代からのものである。奄美に残る古琉球の辞令書が25点余あり、首里王府から発給されたものである。間切という行政区分は首里王府の地方や奄美を統治した姿だとみていい。徳之島について述べたいが奄美大島と喜界島まで掲げてみる。

 徳之島には現在徳之島町、天城町、伊仙町の三つの町がある。それぞれの町には十数の字(ムラ)がある。近世のムラは50近い数である。

 1609年の島津軍の琉球侵攻である。旧暦の3月25日26日には今帰仁間切の運天(古宇利島)。27日は今帰仁グスクに攻め入る。そこでの出来事は、今帰仁グスクのその後の歴史に重要な影響を及ぼしている。琉球進攻は沖縄(琉球)の歴史を大きく変えていった事件であった。

 3月20日に徳之島の秋徳につく。出港したが風がなく22日亀津に着く。そこで山狩りをしている。奄美大島で討伐、亀津で山狩り、今帰仁グスクは無人、首里で射撃戦が行われている。島津軍の琉球進攻は、日本の中世の合戦規模のものでは全くない。その様相は何を意味しているのか。17世紀初期の琉球の人口規模を知りたいのは、琉球側の戦力がどれ程のものだったのかにつながってくる。蔡温が述べているように1700年代には20万人だとすると、17世紀初頭は15万人ほどか(17世紀初頭イモの導入があり、食料が安定し人口は増え、蔡温の頃には20万人まで増えていったか)。二年後には島津軍の琉球侵攻から400年となる。

1.島津軍の琉球侵攻と徳之島(1609年)

 1609年の薩摩軍の琉球進攻は琉球と与論以北の奄美の島々の歴史を区切る大きな出来事である。薩摩軍の琉球進攻後、与論以北は薩摩の領地として割譲し現在に至る。それを境に琉球的なものがどう残ったのか。そして薩摩の統治で消されたもの、統治されながらも根強く残ってきたものにどういうのがあるのか。それを究めていくには、この薩摩軍の琉球進攻は避けて通れるものではなかろう。

1609年3月、島津軍勢の琉球侵攻で南下していく途中徳之島の秋徳(亀徳)と亀津での出来事が『琉球渡日々記』に次のように記してある。
 
 「廿日の卯の刻に、西のこみを出船にと、とくの島の秋徳と申す湊に申の刻計りに着き申し候。
  船道廿五里にて候。廿一日に出船で、十里ほど乗り出したら、少し向い風気味になり、結局はと
  れになったので、引き返し、亀沢(津か)というところに着いた。・・・・廿二日に、深い山を、おお
  ぜいで山狩りをした。そのわけは亀沢の役人たちが山にかくれているのを狩出すためであった。
  役人を狩り出し、特別に琉球入番衆主取を、致し方なく逮捕された。この人は三司官のうち、謝
  納(名か)の婿である。黄鉢巻の位をもった人を捕らえたのである。」

 秋徳は今の亀徳に改称されたようである。亀徳大橋の向こう側の橋詰がその場所である。亀徳を出たが向かい風で亀津に戻り、そこで山狩をしている。そのようなことを思い描きながらの上陸であった。

 島津側の『琉球渡日々記』で徳之島での出来事は上の通りであるが、徳之島でどうとらえているか興味がある。琉球側の『喜安日記』では「三月十日、兵船大島へ着津して島の軍勢弱して敗軍すと飛脚到来す」と記してあるのみである。
  「亀津の役人が逃隠れたので山狩が行われている。この軍勢に対して秋徳の掟兄弟が棒を尖
   らしたり、竹に包丁や山刀を括り付けて敵を打ち殺せと指示しているほか、粟粥をたぎらし
  て坂や道に流して火傷を負わせるよう命じている」

 
     
▲大橋の橋詰めあたりが亀徳          ▲なごみの岬からみた亀徳・亀津方面

  
 
    ▲右手の丘手前あたりが亀津             ▲フェリーからみた亀津の遠景 

2.西郷隆盛の流刑と龍郷(奄美)・徳之島・沖永良部島

 沖永良部島同様、徳之島でも西郷が上陸した湾屋湊(天城町)、そして岡前の謫居(たっきょ)跡地など記念とすべき場所としている。近年でも顕彰碑を建立している。それを受け入れる島、受け入れ伝えようとする島の人々。幕末に薩摩から罪人として西郷は流刑され、後に有力な人物として顕彰された人物である。そのように、島の外から有力者や影響をあたえた人物や集団を顕彰していく。ここで西郷隆盛を最初に紹介しているのは、近世だけでなく、与論島の北山王の次男、あるいは沖永良部島の三男という「世の主」を受け入れ伝えてきたのは西郷隆盛を顕彰することと相通ずるものがある。

【徳之島と西郷隆盛
 徳之島の天城町岡前に「岡前西郷公園」があり、そこに「西郷南洲顕彰碑」(平成6年)が建立されている。近くに文久2年(1862)6月西郷隆盛が奄美島(龍郷町龍郷)から徳之島に流謫された際、岡本家に身を寄せていたという。西郷が身を寄せていた謫居跡に以下の説明文がある。碑の側に力石が三個置かれ、近くには「岡前曖(あつかい)役所跡」がある。

西郷南洲顕彰碑(平成6年)(天城町岡前)
  徳之島にも遅ればせながら 西郷南洲顕彰碑が建設された 西郷田隆盛は国父島津久光公
  の怒りにふれ 奄美大島 徳之島 沖永良部島に遠島(流刑)の身となったのであるが 時代
  を経て現段階では すでに他島には謫居跡や牢舎が立派に復元されていたのに対し この島
  にはいまだ それに比するものがなかった
  下級武士の出ながら明治維新の最大の功労者となった西郷がこの地で過ごした日々から
  一三二年の年月が過ぎた今日 当時流人の島として位置づけられた徳之島 外面はともかく
  文化的 精神的側面でいかほどの変化を遂げてきたか そして今後ずれどこへ行くべきか 深く
  思いをめぐらす よすがとすべくふるさと・・・


西郷南洲先生謫居之跡(天城町岡前
 
 「世界的偉人、西郷南洲先生が藩主島津久光公の不蒙り、そのために遠島の身となり、
  苦難の生活をされたのでありますが、わが天城町の湾屋岡前で約三ヶ月間生活をされて
  おります。翁は足軽二名に警護されて現在の浅間湾屋に上陸したのでは文久二年(一八
  六二年)六月十日です ちょうど翁が三十六歳のときでありました 翁はこの日 同地の農家
  湾直道(現山口直為祖父)宅にはいり一週間止宿、その後岡前アツカイ惣横目琉仲為の
  すすめをいれて六月十七日岡前の松田勝伝方に移り ここで六十九日間を過ごしておりお
  られます 即ちこの地が翁の偉業をたたえ その遺徳を偲ぶとともに翁のすぐれた訓が後世
  に継承されることを切に願うものでございます・・・

  
 
 ▲西郷隆盛が謫居した跡地にある碑    ▲碑のそばに置かれている力石

  
    ▲西郷南洲先生謫居之跡の説明板        ▲岡前曖(あつかい)役所跡(天城町岡前)


3.徳之島に漂着した船とその処理

  徳之島に漂着した船の記事をひろってみた。徳之島で唐船や異国船などの漂着船をどう処理したか。その中で大琉球に送り届け、送還したりしている。島津の琉球進攻後の徳之島と琉球との関係が見えてくる。与論島以北を薩摩に割譲しながら琉球との関わりを堅持し続けている。そのスタンスが漂着船の処理だけでなく、琉球的な習俗や統治を近世まで残している。大和化しようとする反面、場合によっては対外的に琉球国の体裁を残そうとする薩摩藩の琉球の隠蔽工作が見られる。古琉球の姿が見え隠れするのは、完全に大和化しなかったことも起因しているのであろう。

【徳之島】
・亀津村(徳之島町) 
   弘化5年亀津村沖に異国船が一艘現れ、橋船で七人が上陸、津口番所に来た後本船に戻り、
   大島方面に向かった(「徳之島前録帳」)。
・秋村(亀徳)(徳之島町)
   明和5年(1768)尾母村下の浦に漂着した唐船の破損した船尾を秋徳湊で修理し乗組員を
   帰帆させる。文化6年(1809)三月井之川湊沖に漂着した唐船一艘を牽引し秋徳湊に回し4
   月琉球に送り届ける。
・和瀬村(徳之島町)
   享保18年(1733)和瀬村下に唐船一艘が漂着、船は破損していたので捨て流し、乗組員15
   人を陸に揚げ琉球に赴く予定。
・尾母村(徳之島町)
   明和5年(1768)尾母村の宇良御口浦に唐船が一艘漂着し、船尾が破損しているので秋徳
   湊で修理し、乗組員26人は帰帆した。
   安政4年御口浦に薩摩山川の船が着船するが途中大風波によって難船、帆柱を切り捨て
   漂着したという。
・井之川湊(徳之島町)
   文化6年井之川港沖に唐船が一艘漂着する。
・母間村(徳之島町)
   安永2年(1773)村の沖合いに唐船一艘が漂着したが、乗組員58人は水・薪を積んで帰帆
   した。
・山村(徳之島町)
   宝栄6年(1709)頃、金間湊(山湊)に南京船が一艘漂着、また享保6年(1721)にも金間浜
   に唐船が一艘漂着。
   嘉永2年(1849)に朝鮮人7人が乗り込んだ船が漂着、山村に11日ほど召し置き、そこから
   秋徳に移し、さらに本琉球に送還している。

  
                                 
 ▲徳之島町の東海岸

・手々村(徳之島町)
   元文4年(1739)手々村地崎の干瀬に朝鮮人25人乗りの船が乗り上げ破損したため、西目
   間切の与人達が本琉球に送還する。
・阿布木名村(天城町)
   弘化5年(1848)八月の大風の中、阿布木名村の干瀬に琉球に向かう観宝丸二十三反帆
   船が破船する。
・平土野湊(天城町)
   京和3年(1803)西目間切の湾屋湊を通過したオランダ船が平土野浦に向かい乗組員(84人)
   の広東人と徳之島の通事与人の兼久村の瀏献が対応、本琉球に向かう。
・湾屋湊(天城町)
   享保20年(1735)「澄屋泊り」(湾屋湾?)に朝鮮人男18人、女8人、赤子2人が乗り組んだ船が
   漂着する。
   明和3年(1766)面縄間切の浅間村の浦に唐船(23人)が漂着、湾屋湊から本琉球に送り届
   ける。
   享和3年(1803)オランダ船が湾屋湊を通過し土野浦に向かう。
・岡前村(天城町)
   弘化4年(1847)沖に異国船(アメリカ船か)が一艘、上陸して鉄砲で鳥などを撃って遊んだ
   あと本船に戻り西の方に向かう。

  
     ▲平土野港(天城町)       ▲伊仙町喜念あたりからみた朝焼け

4.古琉球の辞令書と三島の「まきり」(間切)

 近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりがもう少し具体的に見えそうである。


 古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。

  ・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
  ・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
  ・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
  ・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
     (受給者不明)(年欠)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
  ・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)

 ・与論島(近世後期に大水間切と東間切があったという。
   【正保琉球国絵図】に間切名出てこない。
    @大水間切 A東間切
 ・沖永良部島(安政4年:1857に方制、明治41:1908年に町村制)
   【正保琉球国絵図】
    @大城間切 Aきびる間切 B徳時間切
     大城間切/喜美留間切/久志検間切
  安政4年に方制が敷かれ、和泊方・東方・西方となる。
 ・徳之島
   【正保琉球国絵図】
    @東間切 A西目間切 B面縄間切
 ・奄美大島
   【正保琉球国絵図】
     @笠利間切 A名瀬間切 B焼内間切 C西間切 D東間切 
     E住用間切 F古見間切
 ・喜界島
    【正保琉球国絵図】
     @志戸桶間切 A東間切 B西目間切 Cわん間切 D荒木間切
 

5.琉球(首里)からのノロ辞令書

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529〜1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 
▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(『辞令書等古文書調査報告書』
   沖縄県教育委員会)所収より

6.琉球の痕跡としての地名や役職や入墨や墓など

 徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?地名などの語彙の共通性をどう理解すればいいのか。いくつも仮説が立てることができそうである。

 伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納(ウンナー)は「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。

イ.地 名
       【徳之島】                      【沖縄本島】
   ・久志村(徳之島町)            ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
   ・母間村(徳之島町・ブマ)       ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
    ・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク) ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
    ・手々村(徳之島町手々・ティティ)   ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
    ・兼久村(天城町・カネク)       ←→兼久村(名護市・カネク)
   ・平土野(天城町・ヘトノ)        ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
   ・瀬滝村(天城町・セタキ)       ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
   ・与名間村(天城町・ユナマ)     ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
   ・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納)  ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
   ・糸木名村(伊仙町・イチキナ)    ←→イチョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
   ・大城跡(天城町松原・ウフグスク)   ←→大城(ウフグスク)
   ・喜念(伊仙町・キネン)        ←→知念(現在南城市・チネン)? 
   ・グスク                  ←→グスク
   ・間切                   ←→間切(マギリ)
   ・八重竿村(伊仙町・竿・ソー)    ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
   ・掟袋・里袋(・・・ブク)         ←→田袋(ターブク)
   ・河地(カワチ)              ←→幸地
   ・按司(アジ)               ←→按司(アジ) 
   ・玉城(タマグスク)           ←→玉城(タマグスク・タモーシ)

  
     
 ▲面縄の集落(上縄面より)        ▲上面縄への途中にある拝所

ロ.グスク地名の分布(徳之島全域に分布)
  ・大和城(天城) ・大城跡(松原:フウグスク) ・玉城(平土野)  ・天城岳(与名間)
  ・城畠遺跡(花徳城畠)  ・宮城跡(花徳) ・山城(亀津) ・大城跨(マタギ) (亀津)
  ・山城(ヤガグスク)(徳和瀬)
  ・グシク(集落の聖地:神之嶺) ・アゲレグシク(徳之島井之川) 
  ・城(グスク)(徳之島母間:モマ)
 ・宮城(ミャグスク)(母間)  ・宮城(ミャーギグシク)(花徳:ケドク)
  ・宮城跡(ミヤグスク)  ・大城(フーグスク)  (徳之島轟木)
 ・山城(ヤガグシク)(徳之島町山)  
  ・大和城(手々) ・城田(グシクダ) (手々) 
・恩納城跡(伊仙町) ・ウフビラグスク(馬根集落)
  ・シラハマグスク ・浅間按司城跡(阿三) ・ウードゥ
(グスク跡)(阿権:アゴン) 
  ・ターミズグスク(阿権) ・稲積城跡(馬根) ・アマングスク(天城)(木之香)

  ・天城遺跡(伊仙町阿権・太野・木之香) ・ミョウガングスク跡(明眼神社) (犬田布)
  ・宿森(グスク跡地)
(八重竿) ・恩納城(ウガングスクともいう)(面縄) ・山岳城跡(中山) 
  ・中山城(ネーマグスク)  

 

ハ.古琉球的な墓
 宜野座村の松田の洞窟を利用した墓を何ヶ所か見てきた。洞窟や森の崖を利用した死者を葬る葬制が気になっていた。「もしかしたら、近世から近年に至る以前の葬制(風葬)ではないか」。古琉球の葬制がどうだったのか、まだ不明である。もちろん、王陵(タマウドゥン)や浦添のヨウドレ、今帰仁村の百按司墓などは王家であったり、貴族クラスの墓である。一般的な墓がどういうものだったのか。亀甲墓、掘りぬきの墓などは近世以降のものである。今帰仁村でも1600年代後半からの墓である。それ以前は、崖や森の中、あるいは洞窟を利用した墓が一般的だったのではないか。今、私たちが見ているのは、その多くが近世の墓である。

 与論グスクの西側は崖になっている。グスクの南側に崖を降りる小さな道筋が整備されていた。遊歩道だろうと思いつつ降りてみた。崖の中腹に墓がある。先日行った宜野座村の松田の墓に似ている。洗儀礼は近世的な葬制だと考えている。それは一般の人々が掘り込み墓や亀甲墓の導入と時期を同じくするのではないかと。与論島や宜野座村松田の洞窟や岩陰の墓場は洗骨以前、そして掘り込み洗骨して厨子甕を納めていく墓以前のものではないかと。洗骨して厨子甕に納めていくのは、王族や貴族であって、一般の人々は洞窟や崖下などに葬っていたのであろう。すると、与論島や宜野座村松田などの風葬は、古琉球の死者を葬る習慣だったのかもしれない。このように見ていくと、与論島の与論グスクが崖の中腹や海岸の洞窟などの風葬の跡は、古琉球の葬制なのかもしれない。

 【トゥールバカ】 
 沖永良部島をゆくとトゥール墓がある。琉球形式の墓だと言われている。琉球形式の墓に間違いないであろうが、トゥールが気になる。崖や岩を横に掘り込んだ墓のことを指している。世之主墓(内城)やイニャートゥ墓(新城)やアーニマガヤの墓(知名町赤嶺)が掘り込み式としてはトゥール墓である。

 トゥールであるが、わたしが知る限り石灯籠のことをイシドゥールといい、石づくりの焚字炉があるが、石灯籠に似ていることからトゥールと呼んでいる。そこを管理していた家がトゥルバンヤー(灯籠番家)の屋号を持っている。もしかしたら、沖永良部島の横への掘り込み式の墓は、四角に掘り込んだところが石灯籠の胴部に似ていることに由来しているのではないか。それより古い墓の形式として洞窟や半洞窟を利用したとみられる。

 世之主墓やイニャートゥ墓、アーニマガヤの墓はトゥール墓(横堀り式墓)であるが、沖永良部島の支配者の墓である。トゥール墓も支配者クラスの墓とみられる。一般的な人々の墓がどうなっているのか。海岸の崖や岩陰の洞窟を利用しているのはそれか。気になるところである。

以下の記録をみると沖永良部島の墓の変遷がみえてくる。琉球と同様、洞窟や岩や岸を掘り込んで、石を積み、石屋のように木の扉をつくり戸口で閉める形式があり墓屋と呼んでいたようである。それが悪臭を放ち不潔なので埋葬するようになったと。

【墓所の儀】
  明治15年墓所の儀和泊、手々知名、西原は数百年前より埋葬其の他は洞籠(窟?)墓

 (岩岸を掘りあるいは石を築き石屋の如く木扉を造り戸口占む、又墓屋ともいう)へ葬りし
  を夫では悪臭不潔の害あるに依り総て埋葬すべき旨支庁長より命令ありて埋墓に
改定。
 

ニ.古琉球の時代からの針突(パジチ・ハジチ)

 与論島と琉球との関わりで、気になるのが針突である。パジチあるいはハジチと呼ばれている。それは手の甲や指に墨を刺すもので、模様は地域によって異なっている。針突の分布は小原一夫の調査報告を見ると喜界島から与那国島に至っている。1609年以前の琉球国全域に分布していたことになる。その起源については定かではないが、1534年の冊封使記録の『使琉球録』や1603年の袋中の『琉球神道記』に「針衝」とあるので、古琉球の時代からあった琉球国での習慣であったに違いない。1609年以降、琉球国では何度か廃止の動きがあったが、最終的に廃止されたのは、沖縄県では明治32年である。針突は琉球はもちろんのこと、1611年に分断された与論以北の奄美でも、古琉球の時代から明治まで伝えた古琉球の痕跡の一つである。

与論島以北では明治5年の廃藩置県(沖縄は明治12年)のとき針突の廃止令が出されたようだが、奄美大島は再度明治9年に出されたようである。しかし、島津の琉球進攻後も根強く続いた針突はすぐ廃止されることはなかった。与論島では明治35年まで行われていた(『与論町誌』)。古琉球の時代から1609年の島津の琉球進攻の後1611年に与論島以北を島津領とした。奄美では島津支配となるが、古琉球の時代から行われてきた針突は明治30年代まで根強く行われてきた。

 針突は喜界島から与那国島に渡る琉球国の領域で行われていたものが、政治支配の圧力はあったものの明治30年代まで根強く受け継がれてきた。1611年後島津(薩摩)支配で奄美では、琉球的なものを禁止されていくが、与論島をはじめ奄美に残った針突は、古琉球からの痕跡の一つと見てよさそうである。今では沖縄、奄美でも伝統的な針突をした女性は見られない。針突を施すと一生消えるものではない。今帰仁村でも調査した(昭和55〜56年)ことがある。当時明治10年生まれの上間マツさんと13年生まれの上間タマさんの二人が完全な針突を持った方であった。
 
 ▲明治10年生まれの上間マツさん(故人)(昭和55年撮影)  
  ▲明治13年生まれの上間タマさん(故人)(昭和55年筆者撮影)

 

▲各地における針突の図柄模様『与論町誌』より

7.道の島の琉球的なものの禁止

 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』に記された以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったにちがいない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。
   ・1611年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
    ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を琉球か
    ら請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖するようになる。
     (亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に謁して辞令を貰っていた
     という)
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。


 【口語訳】
  毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、
  詰まりは當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が
  存する。というのは昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何か
  につけ不自由でいかにも気ままの風俗がわるく蔓延りそれに世がわり(革命)騒ぎも度々
  あって万民が苦しんだいきさつは言葉で言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にした
  がってから此の方は風俗も善くなり農民も耕作方にひとしお精を入れるようになり国中が
  何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代になった。これは畢竟薩摩のお蔭でか
  ように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考えなければいけない。この事
  は「御教条」にも詳しく記しておいた。

おわりに

  (生き延びたノロ制度)

 

【主な参考文献】
 ・『与論町誌』与論町誌編集委員会(昭和63年)
 ・『和泊町誌』(歴史編)和泊町誌編集委員会(昭和60年)
 ・『伊仙町誌』伊仙町誌編さん委員会(昭和53年)
 ・『鹿児島県の地名』平凡社(1998年)
 ・『南島説話生成の研究』山下欣一著(第一書房)(1998年)
 ・『与論島―琉球の原風景が残る島』高橋・竹著
 ・「徳之島調査報告書」沖縄国際大学南島文化研究所(1985年)
 ・大宜味村文化財基礎調査及び歴史文化基本方針策定事業
         (沖縄県大宜味村教育委員会)(平成22年3月)