山原の土帝君

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 ・今帰仁村越地
 ・本部町瀬底島
 ・本部町浜元
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 ・伊是名島勢理客
 ・伊是名島諸見
 ・伊平屋島


2009年9月19日(土)

 今帰仁村の越地と本部町浜元、そして同町瀬底のトゥーティンクー(土帝君)を案内する。三ヶ所の土帝君(トゥティンクー)の導入について興味深いものがある。祭祀を司るノロ、もう一方では同家の男方は役人であることも念頭に入れて議論する必要がある。本部町の二つの村、具志川村(のちに浜元村)と瀬底村のノロと男方とは表裏一体の関係にある。そのことは今帰仁間切の中城ノロでも言えることである。中城ノロ家に古琉球から近世にかけての辞令書が9点あった。2枚がノロ、他の7枚が男方の大屋子や目差などの役人である。広大なノロ地を賜るノロ職であるが、実際にノロ地(田畑)を耕作するのは男方である。ノロの祭祀に男方が導入した土帝君の祀りとは区別(ムラの祭祀と一族の祭祀)している。伊是名島の土帝君を追加。


【今帰仁村越地の土帝君】

 今帰仁村越地の宮里家一門が祭っている「土帝君」は、「宮里の土帝君は何時の時代に誰が勧請して来たか解らないが、宮里家は三十六姓の子孫で、陳氏であり、多分クニンダ(久米村)から勧請されたものと思う。祭りは旧の二月二日に宮里一族で行っている。戦前の像は木像であったが、戦災に会い、現在の像は宮里政安氏が台湾から持ってきて祀ってある」という。




【本部町浜元の土帝君】

 浜元に具志川ノロの住宅跡がある。具志川村は明治6年の『琉球藩雑記』では消え、具志川村の一部から創設されたとみられる浜元村が登場している。具志川村から出た「具志川ノロ」は、浜元村で踏襲されている。『絵図郷村帳』(1648年)と『琉球国高究帳』で「具志川村」と登場し、また万暦35年(1607)の辞令書で「しよりの御ミ事 みやきせんまきりの くしかわのろ・・・」とあり、ぐしかわ村は古琉球の時代からあった村である。因みに具志川ノロが管轄する村は1713年の『琉球国由来記』を見ると具志川村の具志川巫火神、神アシアゲ、渡久地村のヨケノ嶽とアカラ嶽である。

 そこで注目しているのは具志川ノロ家が「土帝君」を導入していることである。今帰仁村越地の宮里家は久米系の一族であり「土帝君」を祀ることは理解できる。具志川ノロ家と「土帝君」との関わりは、ノロ自身というより、その男方だと見ている。というのは、具志川ノロ家には三枚の辞令書が残っており、その一枚は具志川ノロだが、他の二枚は今帰仁間切の辺名地目差職(万暦32年:1604)と今帰仁間切の謝花掟職(万暦40年:1612)である。つまりノロ家の男方は唐旅をする、あるいは按司や親方などに随行して唐に行ける立場にある。それはノロが導入したものではなく、男方が唐旅をして導入したとみている。

 ただし、ノロや神人が中心として行われるムラの年中祭祀とは別のものと扱われている。旧暦の二月二日にムラの人々が参加するが、本来ムラの祭祀ではないとの認識がある。新城徳祐資料の中に浜元の土帝君の写真がある。そこにある像と土帝君が写っている(探している最中)




【本部町瀬底の土帝君】

 瀬底島への土帝君の導入は本部間切の地頭代を数代勤めた健堅親雲上(シークエーキ:瀬底豪農)と関係がある。「上間家二世の健堅親雲上(1705〜1779年)が山内親方に随行して清国(中国)へ渡った際農神土帝君の木像を請じて祀ったのが始まりだという」。上間家は代々地頭代を勤めた家で、土帝君は上間家所有のものであったが、大正時代に村(字)の関係者が参加して、旧二月二日に豊年祈願を行うようになったという。中国から持ってきた木像の土帝君は今次大戦で失い、現存するのは昭和32年頃、那覇市の掘師に依頼して造ったものだという。

 この土帝君の導入に関心を持っているのは、浜元(具志川ノロ)では、その男方に関心をもったが、ここでは健堅親雲上(本部間切の地頭代)が瀬底島に持ってきて上間家が祀っている。その女方は瀬底ノロを出す家である。すると、浜元の具志川ノロ家の男方同様、中国旅(あるいは随行)する立場にあった。ノロが中国まで行って土帝君の像を持ってきたわけではなく、その男方が持ってくる。ノロが行うムラの祭祀に溶け込むことはなく中国からの導入だとの認識が今でもある。そのためムラのものではなく、導入した一族のものだとの認識がある。
(土帝君の画像は『瀬底誌』より)





2010(平成22)年10月19日(火)

国頭村奥間の土帝君

【解 説】
(沖縄の地域文化論:大学講義

   奥間は国頭間切の番所(後の役場:200年余)があった村(ムラ)である。国頭間切(後の村)の行政の中心となっていた時期がある。番所跡は奥間小学校敷地である。その痕跡とする一つが地頭代(番所)火神の祠がある。

 奥間集落の後方に奥間グスク、別名アマグスクある。そこにはニシヌウドゥン跡とフェーヌウドゥン跡の祠と石燈籠?が置かれている。祠はウタキ(グスク)のイベである。そういう場所(杜)をウタキやグスクと呼んでいる例である。頂上部をアマンチヂといい、そこにはイベがある。因みに、ニシヌウドゥンのイベはノロ・勢頭神、フェーヌウドゥンのイベは若ノロ・根神・勢頭神が担当して拝む(神人とイベとの関係、そして近世の行政村が成立する以前のムラの姿が見え隠れする)。

 奥間には土帝君や金剛山(金剛嶺:経塚)や南無阿弥陀仏、カンジャヤーや十二支や豊年祭や綱引きなどがあり、外の文化をいくつも導入している。それは奥間に番所が置かれていたことと関係していると思われる。金剛山 は首里に住む国頭親方が国頭間切番所のある奥間村にやってきて建立(康煕45:1706年)、筆者の東峰は坊さんのようである。経塚(きょうづか)とは、経典が土中に埋納された塚。仏教的な作善行為の一種で、経塚を造営する供養のことを埋経という。阿弥陀仏に帰依する意。浄土宗で阿弥陀仏の救済を願って唱える語である。

 「土帝君」が琉球(沖縄)への移入は康煕37年(1698)である。農業の神様を祭っており、中国からの導入である。国頭への導入はだれがやったのであろうか。国頭間切の役人が唐旅をし、持ち帰り奥間村に持ってきたものであろう。年一回奥間の村で祭祀(旧暦2月2日)を行っている。

 奥間を構成している門中に、座安姓・金城姓・与那城姓・親川姓がある。奥間ノロは座安姓の一門から出している。他に、小橋川姓(後に小川)、竹園(元与那城姓)、東恩納、宮里、宮城、大城、山川、奥間、橋口(元金城)、又吉、玉城、嘉数、伊波などがあるが寄留民だという(『沖縄風土記全集:国頭村編』)。寄留してきた一族が多いことが村の歴史や文化に大きな影響を及ぼしている。祭祀の中心となっているのは古くからの一門である。座安一族から出る公儀ノロは首里王府からの任命なので中央部の祭祀の影響を受ける。また、座安家は尚円王(金丸)と関わる伝承を持ち、それを示すカンジャヤーがあり、そのことが奥間の村の伝統的は文化となっている。また鍛冶屋が扱う金属、あるいは金丸に因んで奥間はカニマンのマクの名の名称を持ち字(アザ)の称号にもなっている。

 首里王府によってノロ制度(1500年代)がしかれるが、ノロが掌る村(ムラ)があてがわれる。奥間ノロは奥間村と比地村である。ノロ制度そのものは消滅するが、今でもノロが行う祭祀は引き継がれている。奥間ノロは比地で行われる海神祭に出ている。

 地域(特に沖縄のアザ:区)の歴史と結びつく出来事や遺されている碑や伝承、今でも行われている祭祀や綱引きや村踊りなどを見て行くと、そのムラ・シマの歴史や伝統や文化に気づかされる。

奥間の土帝君