琉球・沖縄の地図
             ―土地整理前後の地図・土地台帳など―       (講演デジメ)

                  仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター元館長)

もくじ

1.「今帰仁間切平敷村略図」から
 ・作図の年代・方法
 ・平敷村畧図と印部石
 ・平敷村図の原と小字
2.国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)
3.土地整理と合併村
4.土地整理と今帰仁間切の平敷村小字前田原図一帯
5.土地整理字図・小字図
 ・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)
 ・今帰仁間切兼次村土地整理台帳
6.今帰仁間切村全図と今帰仁村村字全図(画像で紹介)
7.戦後の測量 

1.「今帰仁間切平敷村略図」から

 ・「平敷村略図」の年代
 ・「平敷村略図」と周辺の原と印部石
 ・「平敷村略図」の原と現在の小字

  
  ▲平敷村略図       ▲今帰仁旧城図(乾隆7年癸亥)(具志川家家譜より) 

・平敷村略図の作成年代は?
・元文検地図は「南が上、北が下」とあり、平敷村略図も北が下、南が上。(タイトルに合わせる)
・「今帰仁旧城図」もタイトルに合わせると北が下、南が上

・平敷村略図周辺の原と印部石

 ・ミナト原 ・スガ原 ・渡川原 ・前田原 ・掟田原 ・山田原 ・ゴミ原 ・上原 
 ・上原 ・上サナ原 ・上謝名原 ・山出原 ・トチャ原 ・小浜原  


  
 ▲大こふ原       ▲うへてな原         ▲ヰ ふかさく原

 ・印部石の原と「平敷村略図」と現在の小字

 「平敷村略図」がいつ頃の図面なのか、年号が記載されていないためはっきりしないが、明治32年以前の図面とみられるタイトルには「平敷村略図」とのみある。図面の神は楮紙で本土産だとのご教示を受けている)。

 「平敷村略図」は平敷村と周辺村との境界を測量し、その内側に小字の線引きをした図面である。西側の崎山村との境から竿入(測量)(竿入)が始まり、海岸のミナト原(崎山)を起点に南下し、さらに上原から東側の謝名村境へと北上し海岸で終了している。「平敷村略図」から情報を読み取ると、東西南北、謝名村境、崎山村境が記され、凡例には赤色の道路、黒の破線の原境、赤い丸印の村境などが測量うされている他、小字名や道路、それに家、松などの記載がある。境界線の部分に出てくる小字名は、ミナト原、・スガ原・渡川原・前田原・掟田原・山田原・ギミ原・上原・上サナ(上ザナ・上謝名)原・山出原・トチャ原・小浜原である。ミナト原が崎山、ゴミ原は崎山か仲尾次(グミの小地名がある)。上ザナは謝名、平敷にもウヘテナ(上ザナ)原がある。平敷村の周辺は不明な四地点を除いた距離は2,288間5合(約4.6km)である。

 「平敷村略図」と名の示す通り、平敷村の周辺と小字の境界などを概略的に作成した図面である。略図面ではあるが、旧原域や原名や村境や印部石との関わりもあり、今帰仁村内で確認されている印部石の整理をしてみる。数個の増あり。 

2.国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)

  ①  国頭郡今帰仁間切平敷村字戸茶原 筆数百三十九筆
②  国頭郡今帰仁間切平敷村字前田原
③   国頭郡今帰仁間切平敷村字運田原
④   国頭郡今帰仁間切平敷村字山出原
⑤   国頭郡今帰仁間切平敷村字越原
⑥   国頭頭郡今帰仁間切平敷村字沢原
⑦   国頭郡今帰仁間切小浜原

    

3.土地整理と合併村

明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプ。
 ①貧富割(12村)
   今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷

   ・勢理客・天底・湧川・古宇利
 ②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
   仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
 ③貧富および人頭割(3ヶ村)
   玉城・岸本・寒水
 ④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
   上運天

 
    ▲山原の地割基準              ▲今帰仁間切の地割基準のタイプ

  
 ▲国頭郡今帰仁間切崎山村全図     ▲今帰仁間切天底村字和呂目全図

 4.平敷と崎山の前田原一帯

 今帰仁村の今泊・与那嶺・崎山・平敷・謝名・仲宗根・湧川の字に「前田原」と呼ばれる小字がある。名の示す通り、水田のあった場所に付けられた地名である。昭和30年代まであった今帰仁村内の水田跡は、前田原や安田原、掟田原などの小字名にその名残を留めている。

 昭和22年から24年にかけて、崎山のハーラマイアジマー(川回辻)付近から山手の方に向かって崎山と平敷の前田原一帯を撮影したものである(Okinawa lsle of Smiles,William E.Jenkis)。

 後方の山は、一番右手の山がハサマ山(標高約252メートル、崎山地番)さらに左側が乙羽岳(標高約275メートル)である。左右に走る直線道路がスクミチ(現在の国道五◯五号)で、中央部を斜めにいくのがジニンサガーラである。台風や大雨の時に氾濫を起こすことがあった。

 ジニンサガーラを挟んで手前が崎山の前田原で、向こう側が平敷の前田原である。因みに国道の向こう側は、平敷の掟田原。平敷掟を勤めた間接役人の役地があったことに因んだ地名であろう。

 ジニンサガーラの両側に広がる水田は水が張られ、田植えはこれからだろうか。土地改良が、まだなされておらず、戦前からの曲がった畦道は不便ではあるが風情がある。

 昭和48年に平敷土地改良事業が着手され、水田から畑地に切り替わり、現在に至る。中央部を「~」字形に流れているのがジニンサガーラである。川の水をモーターで汲み上げ、現在、キク畑、ビニールハウス(ニガウリ、キュウリなど)、緑化木、砂糖キビなどの潅漑用水として利用されている。国道沿いにガソリンスタンドや民家ができた。

 戦後、今帰仁村の土地利用が大きく変わった要因の一つに昭和30年代後半から40年代にかけて、稲作が消えたことがある。水田跡の水はけのいい土地は畑地に切り替わったが、湿地帯はそのまま放置された。昭和40年代になると土地改良事業が進められ、一筆一筆の形が直線的に区画された。土地改良の目的は小規模農地が雑然としている、一筆ごとの面積が少ない、低湿地帯の土地改良をし、生産高を向上させることにあった。

5.土地整理字図・小字図

・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)
 ・今帰仁間切兼次村土地整理台帳

6.今帰仁間切村(ムラ)全図と今帰仁村(ソン)村字全図



7.戦後の土地測量(昭和22年)

 戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただいた(今帰仁村仲尾次:昭和22年)。

 
▲昭和22年の土地測量をした面々(今帰仁村)        ▲戦後すぐの土地測量図

 参考文献
・『なきじん研究 7号』所収

今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみる(仲原)(平成9年)  
  1.「平敷村略図」
  2.平敷村の小字図
  3.「平敷村略図」と現在の小字の比較
  4.村内の原石(印部石)と小字(原名)
  5.平敷の現在の小字の現況
  6.今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者 
・『じゃな誌』(所収)(昭和62年)(仲原)今帰仁間切の地割と平敷村 
・「今帰仁村の印部石」(所収:仲原) 沖縄県地域史協議会発行

※地図の原図は歴史文化センター所蔵