写真にみる今帰仁 3           トップ(もくじ)へ
   


 21.大井川と寒水(パーマ)村付近(玉城)(平成4年3月)
 22.羽地内海、ムラ移動や塩作りの歴史が(湧川)(平成4年4月) 
 23.琉球の歴史を秘めた運天港(平成4年5月)
 24.志慶真製糖場(シジマサーターヤー)(諸志)(平成4年6月)
 25.ありし日の今帰仁の風景(今泊)(平成4年7月)
 26.ムラの歴史を彷彿させるコバテイシ(今泊)(平成4年8月) 
 27.ヤガンナ島とマリーの塩田(湧川)(平成4年9月)
 28.大井川渓谷を通る道( 玉城・呉我山)(平成4年10月)
 29.シマの茅葺き家・子供達・水くみ(平成4年11月号)
 30.かつて賑いをみせた湧川のマチ(湧川)(平成4年12月)


21.大井川と寒水(パーマ)村付近(玉城)(平成4年3月号)

 今帰仁村で川の名のつく川と言えば東に大井川、西に志慶真川がある。その一つである大井川は、過去に何度か洪水を起こし、流域にある仲宗根のマチに被害を与えた。呉我山を通り伊豆味(本部町)に水源を発する大井川は、特に昭和30年代からパインづくりで開墾された山肌の赤土を流し続けてきた。大井川沿いの仲宗根のマチは、明治30年代から発達したマチである。仲宗根がマチとして発達するきっかけをなしたのが寒水(別名パーマ)であった。明治32年頃、大井川に橋が架かる以前は山岳(サンタキ)を通り寒水のプルマチ(古町)を通る道筋が主要道路のスクミチ(宿道)であった。大井川から寒水に渡る渡地が、今でも踏み石が置かれ、その面影をとどめている。

 一枚目の写真は、寒水村の名残りの一つをとどめる昭和47年の寒水アサギである。字玉城には三つのアサギがあり、それらは玉城村・岸本村・寒水村のアサギで、三つの村の存在を示すものである。三つの村は、明治36年に合併され玉城村となり、同41年に字玉城と改称され、現在に至る。茅葺き屋根の寒水アサギは瓦屋根に葺き替えられ、側の松の大木も枯れてしまい、碑だけが今でも静かに建っている。

 二枚目の写真の右手の森は、左縄をめぐらしていた御嶽である。この御嶽は、1713年の『琉球国由来記』に出てくる岸本村の「オホヰガワ嶽」と見られる。写真にみる御嶽は寒水の地にあるが、玉城・岸本・寒水の三つの村は何度か移動しており、今の寒水の地は、かつて岸本村のあった所なのかもしれない。左手の方が寒水のプルマチで、肉屋や店や理髪屋・食堂などが並んでいた場所である。付近まで舟がさかのぼり、那覇から雑貨品などを運んでいた時代があった。写真に見える御嶽(昭和47年)は、今では造成され姿を消してしまった。昭和30年代まで、付近のクムイは子供達の泳ぎ、そして飛び込みをする姿が見られた。

 三枚目の写真は、プルマチ付近から上流域を眺めた風景である。子供たちの姿が見える場所が、山岳から寒水に渡る場所である。まだ、護岸や砂防ダムがなく水遊びをしている子供たちの姿があり、のどかな風景である。この写真が撮影された昭和47年には、すでに呉我山や伊豆味においてパイン畑の開墾が進み、赤土が流れていた頃である。中央部の森は、昭和9年国会議事堂の門柱に使われた石材(トラバーチン)を切り出した場所である。戦後も一時期トラバーチンの切り出しをしていたが、今では原野になっている。

 昭和47年の大井川と寒水付近の三枚の写真である。アサギが瓦屋根に変わり、松が枯れ、御嶽が消え、川の風景が変わっていく。時には急激に、あるいはゆっくりと・・・。

 


22.羽地内海、ムラ移動や塩作りの歴史が(湧川)(平成4年4月号) 

 嵐山から見るこの風景。内海に浮かぶ島がヤガンナ島、そして中央部の海峡がワルミ海峡(運天水道ともいう)、その右手が屋我地島(名護市)、左手が湧川から天底・上運天・運天に至る。その向こうに見えるのが古宇利島である。遠くには、伊是名や伊平屋島がかすかに見える。ヤガンナ島は、今帰仁村字湧川の佐我屋原に属する。嵐山の展望台から眺めるヤガンナ島周辺の美しさとは別に、墓の島や塩づくりの島としての歴史をもつ。

 181610月バジル・ホールは、ライフ号を運天港の入口付近に投錨し、三隻のボートで羽地内海や内海に面した周辺の村々、そして屋我地島や湧川の塩田などを確認し図面に記してある。羽地内海を湖と表現し、「長さ数マイルにおよび、たくさんの小島が点在している」と概況を述べている。

 1854年にはフランスの艦船が、その後の1856年にはペリーの一行も運天港から羽地内海まで足を伸ばし、図面を作成している。このように近世期末に外国船が琉球を訪れたとき、探険が試みられた場所でもあった。

 写真の左手に見える集落は湧川であるが、蔡温の林業政策で1738年に新設されたムラである。現在の湧川地内には、1736年まで振慶名や松田、我部・桃原などの村があり、移動させられ湧川村を新設した地域である。首里王府の政策によってムラ移動がなされ、湧川という新しいムラの創設がなされた。言ってみれば、政策的ムラ移動のあった歴史的な場所である。

 ヤガンナ島とその対岸(手々原)には塩田跡の石積みが今でも残り(写真参照)、昭和35 6年頃まで塩づくりがなされ、手前の船のある場所にも塩田があった。地籍図には、地目塩田として今でもある。

 羽地内海に面した我部村と塩にまつわる伝説や記録がいくつかみられる。例えば、1713年の『琉球国由来記』に、琉球国の塩は羽地県(間切)の我部村に始まるとか、『沖縄県国頭郡志』にはワルミの洞窟に一人の僧が来て住み、はじめて製塩の方法を人民に授けたなどの言い伝えを紹介している。湧川の下我部には、塩づくりと関わる塩屋の御嶽があり祠を建て祭っている。塩づくりの方法は別にして、1713年の『琉球国由来記』や1813年のバジル・ホールの図にも塩田があり、塩づくりがなされていたことがしれる。一帯は、山原の塩の歴史と深く関わる場所である。                      

 運天港が自然の良港として使われ、その奥にある羽地内海は船の避難場所として利用されている。嵐山の展望台に立つ時、眼下に見える島がヤガンナ島、別名墓の島。島と対岸に見える塩田跡が塩づくりの歴史や伝説をよみがらせ、そして蔡温の時代に政策的なムラ移動がなされた歴史などを思いめぐらしながら眺めるのもよい。塩田跡はそこに住み、塩づくりを営んでいた人々の辛苦をなめた塩辛い歴史的な遺産として今でも残っている。現在みることのできるあたりまえの風景であるが、そこに秘められた歴史をひもとく手がかりを与えてくれる場所であり、写真である。

 


23.琉球の歴史を秘めた運天港(平成4年5月号)

 今帰仁城をめぐる歴史と並び称されるのに運天港をめぐる歴史がある。その運天港は「おもろさうし」で、
 一 せりかくの のろの (勢理客のノロの)
    あけしの のろの  (あけしのノロの)
    あまくれ おろちへ (雨くれを降ろして)
    よるい ぬらちへ  (鎧を濡らして)
 又 うむてん つけて  (運天に着けて)
    こみなと つけて  (小湊につけて)

と謡われ、古くからよく知られた港であった。

 写真は昭和8年発行の「沖縄県人物風景写真帖」『望郷沖縄』(五巻)所収の一枚である。海上に浮かぶ二枚帆の三隻の舟は、山原船(馬艦船ともいう)である。その向こうに屋我地島と小さな島々がかすかに見える。運天港の海岸沿いには、コバテイシの大木の並木が三、四本あり、その下に山原の各間切の上納物が集められ、海上から船で運ばれていったという。また、番所(役場)と見られる二棟の建物があり、運天は大正5年まで今帰仁の行政の中心地であった。写真の手前に貯水タンクのようなものが見えるが、船の補給に用いられた施設のように思われる。

 運天港に寄港する船は、護岸に直接船をつけたわけではなく、写真に見るように少し沖に停泊させ、岸へは小さな舟で荷物を運んだ。戦後になって、桟橋をつくり船を直接接岸できるようになったという。写真の左上の方の崖の中腹に白く見えるのは、ザフンと呼ばれている木材を組んで作った家型の墓である。周辺の個々の墓について、まだ調査していないが、運天と関わった先人達が葬られており、調査・研究が進められていくことで秘められた運天港の歴史が、さらに展開していくものと思われる。

 運天港は、様々な歴史の場面に登場するが、運天港での歴史的な出来事の一つを紹介する(『琉球王国評定所文書』所収「漂着唐人滞在日記」)。それは、1714年に大島に漂着した唐船が翌年運天港へ回航され、そこで船の修補し本国へ送還された事件である。唐人の出身は、蘇州・福州・松江の三府である。唐人が運天に到来したので諸事締之儀を出し、御条書の通り堅固に申し渡している。勤番屋を三軒調えさせ、位衆人一人、頭一人、百姓一人ずつを昼夜詰めさせ、夜は篝火を焼き見張りをさせた。また、唐人が乗ってきた船に近寄らない、女性は浜辺を通らない、村中で大和歌をしない、唐人の乗っている船付近で漁をしない等、堅固な申し渡しが出された。

 番所の敷地内に縦十間、横二間半の小屋を二軒、縦三間、横二間の台所を一軒調え、小屋の外囲は高ススキやイノマンで内外見通しができないようにし、門の左右と後表の両角に勤番の家を調えて見張らせた。唐人の滞船中は、屋我地と運天の浜に番屋を四件作り昼夜詰めさせた。その時、具志頭親方(蔡温)をはじめ、王府の役人が運天へ検見にやってきた。薩摩役人は上運天村、琉球側の役人は直接下運天に詰めて、またその間大和船の乗り入れが禁止され、天候が悪い場合は郡(古宇利)の前に潮掛りをするように達がだされた。

 このように、薩摩支配を中国側に知られないようにとの政治的な動きがあり、琉球が薩摩に支配されていないというカモフラージュをする役目を運天港が担っていたのである。


24.志慶真製糖場(シジマサーターヤー)(諸志)(平成4年6月号)

 サーターヤーは砂糖を製造する屋(家)のことである。戦前、あるいは戦後間もない頃まで、それを今帰仁村の各字(部落)に見ることができた。今帰仁村は近世・明治・戦前・戦後と砂糖づくりでよく知られた地域である。今でも砂糖キビは今帰仁村の基幹作物の一つとなっている。各字にあったサーターヤーは、昭和三十四年北部製糖工場に買い取られた。ムラ・シマにあったサーターヤー跡地は「・・・サーターヤー」と呼ばれ、かつてのサーターヤー跡地は地名にその名残りをとどめている。

  ここに紹介する写真(『望郷沖縄』所収)は、大正十四年以前のさ-ターヤーで説明に「今帰仁村字兼次の一製糖場」とあり、それは兼次の福地原にあったサーターヤーと見られる。兼次の福地原にあったサーターヤーはシジマサーターヤー(志慶真砂糖屋)と呼ばれ、諸志(明治三十六年に諸喜田村と志慶真村が合併)の志慶真村出身者が中心となって組をつくり管理・運営をしていた。昭和9年、諸志には四つのサーターヤーが稼働しており、志慶真砂糖屋の他に山釜原製糖場(前サーターヤー組)・阿旦門砂糖場(アダンジョーサーターヤー組)・竹原製糖場(ダケラサーターヤー組)があった。

 シジマサーターヤーは、福地原製糖場組として組織され次のようになっていた(『諸志共同組合のあゆみ』)。

  ・蔗作農家人員十二人
  ・製糖場棟数旧瓦葺一棟
  ・甘蔗圧搾機(鉄車)牛馬けん引回転式一基
  ・製糖煮上竈四尺口径丸鍋三連式一基

 この写真の撮影者は、「製糖場では三個の歯車付きの圧搾器があって、二人三人の男女が向かい向かって車に甘蔗を喰わせる。時には知らずに自分の腕をも喰わせる呑気者もある。一人の男は鞭を持って一日中馬を追いまくる。搾られた汁は石川五右衛門の釜を思わせるような大の鍋で煮られる。するとだんだんに水分が蒸散して行って遂に黒砂糖になる・・・」と説明している。二頭の牡牛がのそりのそりやっているのが気に入ってレンズに収めたという。また、当時の砂糖製造時期の様子を「・・・ 沖縄の農家は製糖準備に忙しい。字中のものは総出になって、或は製糖小屋の材料を山に取りに行く者もあれば或は車を据える、或者は馬の走る円形のコースを修繕する。・・・多くは、 共同して仕事の模合をする。先ず畑にあって甘蔗の枯葉の先端が切り落とされる。次に男によって鋭利な鎌で甘蔗が切り仆される。すると女や子供はそれ相応の仕事がある。甘蔗の枯葉を取り除去るもの、甘蔗を集めるもの、集めた甘蔗を縄で縛るもの、甘蔗の束を頭に載せて小屋に運ぶ者・・・・」などと述べている。

 三連式の鉄の歯車、砂糖キビを噛している女性三人、そして二頭の牛を追っている男性、松の木の後に隠れている男性、赤瓦屋根の製糖場、周辺に積まれた砂糖キビ、松の大木など。そのような風景を写真にみていると、大正末から昭和初期にかけて厳しい経済不況に襲われたが、何故かゆったりとした時間と長閑な時代が彷彿してくる。


25.ありし日の今帰仁の風景(今泊)(平成4年7月号)

 メルビン・ハッキンス氏(オレゴン州)から 442枚のカラースライド写真とモノクロ(白黒)写真 266コマが送られてきた(名城政健さん宛)。1991年11月にも五百枚余り同様のスライド写真の提供があり、それに続くものである。今回送られてきたスライド写真の中から三枚を選び、「今帰仁のありし日の風景」を紹介してみることにする。

 一枚目の写真は、今泊のエーガー(親川)の南側のハンタ原から大川原からニークン、そしてシュク原と崎原に至る風景である。中央部を東西に走る道路はスクミチ(現在の本部循環線)で、コーラルの敷かれた道路を鼻のある赤い昭和バスが走っている。ちょうどバスの走っている付近には、現在でも松の並木が残っている。また、西側のスクミチ沿いのヌンドゥルチモーの松などが、わずかではあるが当時の風景の面影を偲ばせる。中央部を南北に流れる水路は、エーガーからクビリに流れ、その両側には水田が広がっている。田植えの時期なのだろうか。水田には水が張られ、農家の人々にとっては、まだまだ忙しいのであろうが、ゆったりと心なごませてくれる。手前の丘陵地まで畑として利用され、当時の状況がうかがえる。

 そのころの土地利用の様子をよく示すのが、二枚目の写真である。それは今泊の新田原から前田原にかけてで、その向こうの丘陵地は北大嶺原である。丘陵のほぼ頂上部まで畑として利用され、中腹あたりにサトウキビ畑が目につく。そのサトウキビに白い花が咲き、季節は冬である。二期作の稲が刈り取られ、手前の水田は田おこしがなされ、荷車をひく人は冬姿である。後方の丘にある松はムラの人たちにとって良く知られた一本松であるが、今では土地改良により姿を消してしまった。

 三枚目の写真は1961年の撮影である。エーガー付近で、そこからひいた水路で洗濯している姿がある。その向こうに、苗代で稲をひいている二人の姿。二期作の田植え時期であろうか。遠くに見える松並木は、スクミチ(宿道)沿いの松である。

 このような、三十年前のありし日の風景を写真にみていると、その地に生まれ育ち、そこで生涯を遂げた人たちの日々がどのようなものであったのかを写真の一コマというよりムラ・シマの営みを支えてきた人々の歴史の一コマとしてとらえていきたい。


26.ムラの歴史を彷彿させるコバテイシ(今泊)(平成4年8月号) 

 今泊は今帰仁村の一番西側に位置する字である。明治36年に今帰仁村と親泊村が合併し今泊となった。その後、明治39年に分離し、昭和47年に再び合併し現在に至っている。その今泊には国指定の史跡の今帰仁城跡のほか、県指定の天然記念物のコバテイシがある。今泊のコバテイシ付近には、公民館やハサギや老人センターなどがあり、ムラのセンターとしての役割を果している。コバテイシの側を直線的に走るのは、かつての馬場(マーウイ)跡である。天然記念物として指定されたのは、1956(昭和31)年10月19日である。当時、コバテイシについて、「しくんし科に属する落葉喬木で、樹高18m推定樹齢300~400年、親泊ではフパルシと称えている。親泊区の中央広場にあって輪生している枝は水平に拡がって凡そ百坪をおおい、樹形美しく樹蔭に二、三百人を収容することが出来る。・・・古来名木として

    親泊くふあでさや枝持ちの美らしや
    わやくみの妻の身持ち美らしや

と歌われ、競馬や豊年踊もこの樹の下で行われた、今でも字民集合の場所となっている」と説明している(『沖縄文化財調査報告』 452頁、昭和53年)。  上の写真は指定される四年前の1952(昭和27)年のコバテイシとその周辺の状況である。ハッキンス氏は「1952. Oyadomari ku Meeting House and Office 」と記録されている。コバテイシの葉が新芽をもっていることから季節は初夏だろうか。美しい枝ぶりを見せているコバテイシとかつての事務所である。

 右手の直線的な道路がマーウイ(馬場)跡である。後方の茅葺き屋根の建物が事務所(公民館)で、屋根のヒサシに当たる部分はトタンを使い、そこは現在は老人センターとフプハサギが建っている場所である。

 下の写真は1953年のコバテイシからマーウイの西側を望む風景である。コバテイシに鐘がつるされ、時間や集会などを知らせる時計の役割を果たしていた。馬場跡を横切って事務所に向かう親子たちの姿から、季節は冬である。左手を伸ばして鐘の支え棒にもたれながら、母と子を眺めている男の子の背中が愛らしい。コバテイシの下はかっこうの記念写真をとる場所であった。メルビン・ハッキンス氏は、記念写真を写す場所としてここを利用され10枚余りの写真を残している。

 かつて行われていた競馬はいつしか消え、今でも行われているのは豊年祭である。その舞台となり、マーウイで行われる道ジュネーは西から東へと向かう。コバテイシの前でドラが打ち鳴らされ、ドラの鳴り響く中で四十組余りが行う棒術は、ムラの勢いと根強い結びつきをみせ壮観である。また、コバテイシの側に舞台をつくり、そこで豊年祭(ムラウドゥイ)が行われる。コバテイシの樹形がかわり、周辺の建物の配置も大きく変化してきた。コバテイシそのものの樹形の美しさだけでなく、その樹齢、あるいは周辺の移り変わりやムラの人々の生活などがコバテイシに刻み込まれ、ムラのシンボルとなっているだけでなく、そこにムラの歴史の長さを深く感じさせてくれる。


27.ヤガンナ島とマリーの塩田(湧川)(平成4年9月)

 今帰仁村で塩づくりと言えば羽地内海に面した湧川である。その塩づくりは、昭和356年まで行われていた。三枚の写真は、塩づくりが行われていたヤガンナ島とマリーにあった塩田である。湧川の他に大井川河口の炬港付近にも塩田があり、生産されていた。塩の起源について『琉球国由来記』に「当国塩ハ、羽地ノ県内、我部村ニ始ル」とあり、羽地内海一帯は塩づくりに適した場所であったのであろうか。『朝鮮・琉球航海記』(1816年)所収の運天港周辺の地図に「Salt  Marsh」 とあり、塩田が外国人の目にもとまっている。明治36年の今帰仁村の塩田面積は仲宗根村が七六二七歩、湧川が四町〇七〇四歩である。

 一枚目の写真は、羽地内海に浮かぶヤガンナ島である。島の左手に石垣で囲われた塩田と二軒の小さな塩炊き小屋が見える。そこは沢岻安博さん所有の塩田である。昭和356年頃まで塩づくりをしていたという。今でも、塩田跡の石垣や煙突や塩炊き小屋の跡などがアダンや雑木の下に残っている。写真は、まだ塩づくりが行われていた頃で、それから数年後に姿を消していった。塩田跡の石垣やウスタンク(塩水タンク)やクミなどに、かつての塩づくりの面影を残している。手前左側の道路はマリー道で、その道沿いにも塩田と塩炊き小屋が見える。  

 二枚目の写真は、昭和31年に撮影されたマリーにあった塩田である。そこは、湧川の大城栄一さんが塩づくりをしていた場所で、昭和356年頃まで使われていたところである。写真の場面は、大城さん夫妻がタオルを頭にかぶり、シナボーチ(竹の棒)で、まかれた砂の固まりをたたき、砕いているところである。真夏の炎天下での厳しい作業。後方に見えるのは湧川の集落である。パイナップルの栽培がはじまったころで、集落の後方の丘陵地は開墾がはいっている。三枚目の写真は、マリーの塩田の近景である。右手に茅葺き屋根のマースヤー(塩炊き小屋)やウスタンクなどがある。手前が大城栄一さん、後方に奥さんの姿が見える。

 これらの写真は、1952年にメルビン・ハッキンス氏によって撮影された湧川の塩田風景である。近世、あるいは明治・大正・昭和と続いた塩づくりは、昭和356年頃に終わりを告げた。海水から塩をつくる作業工程は、稲作や砂糖キビづくりとは異なり、日々の天候に左右され、また重労働でもあった。塩づくりは、今帰仁村で過去の話となってしまった。

  


28.大井川渓谷を通る道( 玉城・呉我山)(平成4年10月号)

 大井川、それは今帰仁村のほぼ中央部を本部町伊豆味から今帰仁村の呉我山・玉城、そして仲宗根を通り炬港へ注ぐ川延長約10.8キロメートルの河川である。大井川といっても、静岡県にある大井川とは比較にならないほど短く小さな川である。しかし、川幅や長さが短くても川の名はほんとうに大井川である。下流には炬港があり、古い時代には港として機能していた時代があった。              

 大井川渓谷の崖の中腹を切って郡道が開通したのは大正5年である。『沖縄県国頭郡志』には「名護より今帰仁村玉城を経て仲宗根役場まで、山入端原分岐点より延長三千六百二十二間幅員二間(大正5年度完成)」と記されている。紹介する写真は『望郷沖縄』(大正14年初版)所収の「大井川の峡江」である。写真説明には、「木曾山中のやうな感じのする峡江、所は今帰仁村呉我山から同村大井川に越す郡道、古世紀の石灰岩の断層と水蝕れとの結果出来たのであらう。清洌の渓流も沖縄では珍しいが、下流は大井川となる。川にはミチユと称する魚が多い」、また「川岸にはウドノキが多い」とも記されている。

 写真は郡道が開通して間もない頃で、渓谷の中腹を左右に伸びているのは新しい道である。まだ、完成したばかりなので工事後の面影が残っている。破壊した岩の破片が斜面にころがっている。崖の中腹にダイナマイトを使って岩を破壊し、道路を通す工事だったという。その下を流れているのが大井川である。三つ土手から、呉我山・玉城・仲宗根に通ずる郡道の整備は大正時代になされ、その道路の開通は寒水村のプルマチ(古町)から仲宗根の新しいマチの発達へとつながっていく。下の写真は、1985年1月で砂糖キビの白穂がゆれ、呉我山と玉城をつなぐ道路として、まだ使われていた頃である。むき出した崖の岩膚に大正5年当時の工事の困難さが偲ばれる。

 かつて、仲宗根と名護をつなぐ主要道路として利用されていた時代があった。また、人口の多かった昭和30年代には仲宗根から呉我山を通り呉我・仲尾・仲尾次、そして名護へ向かうバスが朝、夕往来していたこともある。平成2年まで使われていたこの道路は、今では乙羽トンネルにかわって車や人の往来はほとんどなく、渓谷を通る道と静かな風景が、まだ遺っている。最近、崖崩れ予防用の金網を破って落ちてきた石が、道路をふさいでいる。大井川渓谷の道路沿いにあった松並木の数も少なくなってきた。整備され、今度は遊歩道として人々に利用される日を待ち望んでいるようである。新しい道路の開通で、大正5年に切り開かれ、人々の生活に利便さを与え続けた道路は、再び別目的の道路に変わろうとしている。


29.シマの茅葺き家・子供達・水くみ(平成4年11月号)

 日々変化している回りの風景や生活。意識しながら記録することはなかなかでずにいる。過ぎ去った出来事を資料に探し求め、さらにそのことをムラ・シマとの関わりでみてきた。戦後47年という時の流れの一端を二枚の写真で振り返ってみる。

 一枚目の写真は、開け放された親泊(後に今泊)の茅葺き屋根の家である。母屋と炊事場が別棟になっており、母屋の向かって右側が一番座、そして左側が二番座と呼ばれる部屋である。一番座と二番座にムシロが敷かれている。二番座には湯呑み茶碗が二個置かれ来客でもあったのであろうか。家の柱は原木を使い、柱は礎石の上にのり、壁は板張である。アマダイ(軒下)に真新しいタライが置かれ、洗濯物を頭に乗せて近くの川に洗濯に出かけた時代であった。

  家の前のジョウにムラの子供達が三人、そしてこの写真の提供者であるメルビン・ハッキンス氏の娘と息子が仲良くおさまっている。このような茅葺き屋根の家は、台風にでもあうと崩壊することたびたびであった。1961年や1963年の台風で親泊 (今泊) で茅葺きの家が何軒か崩壊し被害を受けている。壊れた家の建て直しや屋根の葺き替え作業は、ムラの人たちのユイセーでなされることが多かったという。

 二枚目は、シチタンバク(石油缶)で水くみをしている兄と妹である。妹は、まだ裸足である。水道が各家庭に普及していなかった頃、水くみは子供達の日課の一つであった。朝の登校前や下校してから、近くの井戸や湧泉から水を肩にかつぎ運んでいたものである。もう少し大きくなると、二つのシチタンバクを前後に天びん状(ボーガタミー)にかつげるようになる。シチタンバクで汲んできた水は、主に飲料水や台所用に使われ、洗濯などは川に出かけてやっていた。

 写真にみるこのような風景や場面や様子は、もう3040年前のことになってしまった。1960年代(昭和30年代)は今帰仁の風景や生活、あるいは道具などが大きく変わっていった時代である。その時代は、現在の物の豊かさにつながる時代のスタートでもある。ぜいたくなほど、物の豊かさの中にいる私たちが、もう一度振り返ってみなければならない時代でもある。

 当時の何枚かの写真を整理したり、あるいは生活道具を収集していると、戦後50年近い時の流れは、今帰仁のムラ・シマの人々の歴史の厚みと重みとして伝わってくる。


30.かつて賑いをみせた湧川のマチ(湧川)(平成4年12月)

 今帰仁村でマチの景観をなしているのは仲宗根のみである。仲宗根のマチは、明治の30年代になって、寒水から現在地にマチらしい景観をつくりだしていった。その頃、仲宗根だけでなく湧川のカーソー(川竿)の下流域にもちょっとしたマチらしい賑いを見せた時代があった。二枚の写真は、大正8年に発行された『沖縄県写真帖』(『望郷沖縄』第二巻)に所収された今帰仁村字湧川のカーソー下流域にあった二軒の商店の写真である。

 大正時代の5、6年といえば、山原で郡道の整備が進められ自動車が走りだし、交通も海上から陸上へと移り変わっていった時代である。湧川のカーソー下流域の繁栄していた時代を、「明治三十年ごろから川竿の尚家の資本で丸一商店ができ、それが後に共同店となり、その後真栄城商店となった。その隣に首里鳥掘の人で我謝孟訓、孟由、孟温氏の店が立ち、向かい合いに浦崎唯寛商店があった。また下我部の仲松弥武、嘉陽宗義の三氏による仲津嘉商店もあった。その他に肉屋、豆腐屋、そば屋、はては料亭までが軒を並べて街をつくっていた」(『湧川誌』27頁)と説明している。

 一枚目は、真栄城商店で赤瓦屋根のしっかりした店がまえをなし、「質屋」や「雑貨商」などと書かれたのれんがさがり、その前に十人余りの人たちが立っている。写真撮影があるので家族や店員やお客などが集まり、一列に並んだのであろう。隣の「ト」のマークのついた建物は倉庫だろうか。垣根の外にも人の姿がみえ、近所の人たちの姿だろうか。そこに見える人たちは着物に帯を結んだ服装である。店の品物までは見えないが、のれんに書かれた質屋や雑貨商からすると、日用雑貨や質流れなどの品物が並べられていたのであろう。後方には、ムラの人たちの茅葺き屋根の家も見える。

 二枚目の写真は、我謝商店で、瓦屋根の二階建ての建物である。我謝商店は真栄城商店の隣にあったという。写真の右側に見える屋根は真栄城商店の「ト」のマークのある建物とみられる。後方の山手は、ほぼ頂上付近まで畑として使われ、当時の土地利用がしれる。

 湧川のマチは、カーソー下流域だけでなく隣接する我部井の方にもあった。「隣の川竿と共に、渡嘉敷商店を中心に理髪屋あり豆腐屋あり、はては旅館、料亭なども立ち並び盛況を呈していた」(『湧川誌』29頁)。湧川のマチを賑わしたのは、伊豆味や呉我山や天底、それに屋我地から来たお客であったという。商店に並べられた商品について写真から読み取ることはできないが、当時の新聞広告(大正6年)をみると、文具小間物、石鹸化粧品、呉服、反物、米殻、味噌、醤油、陶器、石油、素麺などの品物を扱っていることがわかる。

 湧川のマチは、いつまでも繁栄しつづけることはできなかった。昭和初期になると衰えをみせ、マチとしての賑いは失っていった。そこでの商売が成り立たなくなり店を引き揚げ、今では二、三の店があるのみで、当時の面影はほとんど消えてしまっている。