写真にみる今帰仁 5        
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  (もくじ)(41~50)

 41.今泊(ムラ・シマ)(平成5年11月号)
 42.越地のウヘーでの式典(昭和17年)
 43.茅葺き校舎の「今帰仁中学校」(昭和25~27年頃)(平成6年1月)
 44.今泊のアジマー(交差点)付近(平成6年2月)
 45.天底尋常高等小学校の実習農園(昭和9年)(平成6年3月)
 46.戦前・戦後をつなぐシマの人々(諸志) (平成6年4月)
 47.諸志の志慶真神ハサギ付近(昭和十五年頃)(平成6年5月)
 48.戦争で崩壊、そして復興(天底校)(平成6年6月号)
 49.北山高等学校の設立(昭和23年)(平成6年7月)
 50.与那嶺の豊年祭での人々(昭和31年)(平成6年8月) 


41.今泊(ムラ・シマ)(平成5年11月号)

ムラ・シマを支えてきた人々、その一人ひとりを歴史の場面に登場させて行きたい。その願いは「写真に見る今帰仁」をスタートさせた当初からの課題である。また、写真はその時代時代のムラ・シマの歴史の一場面を記録した歴史史料であるとの認識を持ちながら接してきた。

 写真の場面を歴史的な史料として読み込み、そしてその場面をムラの方々にどれだけ語らせ記録することができるのか。写真の年代や場所や人を特定し、さらにその時代を記録していく。それは史料づくりでもある。

 一枚目の写真は大木のコバテイシと茅葺き屋根の親泊事務所(公民館)をバックに、今泊の棒しんか百名余が勢ぞろいした場面である。昭和26年のウードゥインドシ(踊り年)ではないかという。威勢のいいコバテイシの下に棒を片手にはちまきをした方やどらを打つ人、最前列には有志たちが座り、ムラの人達の力強さを彷彿させる。

 今泊では五年マール(満四年毎)の豊年祭があり、馬場跡(プウミチとも呼び、約二百五十メートル)で道ジュネーや獅子舞、そして棒の演技が盛大に行われる。馬場跡で行われる四十から五十組によって行われるスーマチは見事である。コバテイシの回りがハサギの庭(広場)の役目を果たし、そこにバンクと呼ばれる舞台が設けられムラウドゥ(村踊り)が行われる。それに参加できるのはシマンチュ(島の人)の特権である。

 二枚目の写真は、親泊事務所(公民館)の葺き替えのとき(昭和30年頃か)の場面ではないかという。前列右から新城安雄・大城幸謙・玉城肇・新城信夫・仲村渠敬・嘉数稔・謝花の人(製材をする人)・島袋伝盛・新城元次郎、二列目の右から上間幾一・新城蒲吉・当銘茂吉・仲宗根正秋・新城百三・仲本吉三郎・金城恵美(書記)、後列の右から新城盛一・吉田松助・嘉数吉蔵・新城文吉・仲本吉正・仲宗根孫栄・上間双松・新城光男・嘉味田朝市の二十六氏と子ども一人である。親泊事務所の屋根は、竹茅葺きでひさしの部分はトタンで、「親泊事務所」の看板が下がっている。茅葺き屋根の事務所のある場所は、現在フブハサギと老人クラブが建っている。

 今泊の公民館前のコバテイシや馬場跡は、ムラのほぼ中央部に位置し、シンボルになっている。二枚の写真の公民館の位置は、フプハサギと老人クラブのある場所である。ハサギや公民館も時代とともに移動してきている。

 『字誌』にかかわっていると、ムラ・シマの貴重な写真に出会うこと度々である。字誌ではムラの方々が登場してくる写真を手がかりに、その方々が体験したこと、あるいは写真の場面のことなどを丹念に記録してくださればと思う。今泊の二枚の写真も近く発行される『今泊誌』と関わる中で出会った写真(仲村渠安行氏から字誌へ提供)である。ムラ・シマの歴史を担った方々が、無言ではあるがムラ・シマの歴史に登場する場面である。

 


42.越地のウヘーでの式典(昭和17年)

 昭和12年は、越地が謝名と仲宗根の分字した年である。初代区長に宮里政正氏、村議員に大嶺英松氏、今帰仁村長は玉城幸五郎氏であった。昭和14年に区長として玉城真幸氏(明治13年生)が選任されたが、この年は防空演習が始まった年でもある。大政翼賛会が発足し、紀元二千六百年の奉祝行事が行われるなど、戦時体制が強化されていった時代であった。昭和16年には学校の名称が「国民学校」と改められ、燐保班が組織され、男子は常用服として国防色(カーキ色)の「国民服」を着用することになった。そのような時代の流れの中で、昭和17年小倉侍従武官が越地を視察した時の模様を写したものである(『越地誌』掲載)。

 上の写真は、越地のウヘーでの式典の場面である。左側に小倉侍従武官、三番目に早川知事、そして右手の袴姿で字の状況を報告しているのは、当時区長をしていた玉城真幸(明治37年生)さんである。「ウヘーに登り参加できたのは区長であった私だけで、他の村人達は侍従に近寄ることが許されず公民館付近で待機させられた」(玉城真幸さんの話)という。

 区長による字の状況報告が終わると、武官から宮里喜一氏(県議)や玉城幸五郎(村長)、そして村民代表に対して時局の重大さや食料の増産などについて訓示がなされた(『越地誌』)。

 一枚目の写真は同じくウヘーで、園児たちのゆうぎを武官に披露しているところである。丸坊主やオカッパ姿の園児たち。時代の動きを知らず、あどけなく懸命にゆうぎをしている姿、ゆうぎはそっちのけでカメラに向かっている園児が一人。戦争への時代の流れを知りつつ、園児のゆうぎをみている大人たちは、子供たちに何を期待したのだろうか。 

 下の写真は、小倉侍従武官が越地を視察したことを記念して撮影した写真である。最前列にウヘーでゆうぎをした園児たちが並び、その後方に国防服を着た青年団や少年団の姿がある。中失部には区長の玉城真幸さんをはじめ県の役人などみえる。また、右側には和服姿で着飾った婦人たちの姿もある。

 昭和17年の三枚の写真から、大きな時代の流れに一人ひとりの存在は打ち消され、ムラ・シマという社会が一つになって動かされていく様子がよく見えてくる。

 
43.茅葺き校舎の「今帰仁中学校」(昭和25~27年頃)(平成6年1月)

 今帰仁中学校は昭和23年4月、大井中等学校の名で戦後新しく創設された学校である。学区は今帰仁小学校区と天底小学校区である。当初は学校敷地や校舎がなく、今帰仁(教場)・天底(教場)・湧川(教場)の各初等学校を借りて授業が行われた。昭和25年に各初等学校に分離していたのを統合し、現在地(字天底133番地)に学校を建設した。中学校の敷地は天底番地であるが、仲宗根のターバル(田原)と接した場所にある。そこには戦前製糖工場があった。

 昭和23年に六・三・三制度が敷かれ、昭和25年10月には分離していた生徒を一か所に統合し、昭和27年に校名が今帰仁中等学校から今帰仁中学校へと改称され、現在に至っている。今帰仁中学校は戦後新しく作られた学校であるが、校舎は茅葺き→赤瓦(一部)→コンクリートと変化をたどった。この写真に「今帰仁中等学校長印」が押されていることから、今帰仁中等学校時代であることがわかる。中等学校時代は、現在地に校舎が建てられた昭和25年から昭和28年に「今帰仁中学校」と改称されるまでの4年間である。校舎が建てられたのは、昭和25年10月で、撮影はその直後であろう(写真提供:山内昌雄氏・幸地良邦氏)。

 写真を見ると手前に水田があり、稲穂が実り、戦後数年経った頃である。敗戦から立ち直りつつある時代で、生活物資はまだまだ不十分ではあるが、建物や生徒たちの動きに、ゆったりとした時間の流れが感じられる。昭和二五年から同30年代にかけて、学校の前方から東側の勢理客、また後方の渡喜仁にかけて水田が広がっていた。学校用の水田があり、生徒たちは実習として田植えや稲刈り作業などに駆り出されることがあった。

 水田と運動場の間を通る道は、仲宗根から運天港へつながる道路である。道路沿いに電柱が一本あるが、電気は流れているのであろうか。道沿いで掃除をしているのは生徒である。カメラに視線を向けている生徒たちの姿もみられる。また、運動場では男子生徒が野球をしているその生徒たちは、今では50才余の年齢を重ねている。

 戦後建てられた精米所を、諸喜田幸福さん(勢理客)が営んでいた。2本の大きなドラム缶は燃料タンクである。

 校舎を建てるために丘を壇上にし、そこに茅葺き屋根の校舎が九棟建てられている。校舎はコンクリートや木の床が敷かれているのではなく土のままであった。そのため、土ぼこりが立ち込め、また雨が降ると水が入り込み田んぼ同然になったという。 

 今帰仁中学校は、あと数年で五十年の歴史を刻むことになるが、その間数多くの卒業生を世に送り出し、現在でも送り出し続けている。昭和23年頃の一枚の写真が、学校の様子やそこで学んでいた生徒たちの姿を遠くから写し出している。学校で学び、巣立っていった一人ひとりの人生と学校の移り変わっていく様子が幾重にも重なってくる。 

 ある一瞬を写し出した一つの場面が、もうすぐ50年を数えようとしている「戦後の歴史」を私たち一人ひとりに問いかけているように思えてならない。


44.今泊のアジマー(交差点)付近(平成6年2月)

 今帰仁から水田のある風景が消えて久しいが、四十代、あるいは五十代以上の多くの方々泥まみれになって田植えをした経験を持っている。今帰仁村でかつて水田のあった場所は、前田原や新田原や掟田原などの小字名に名残をとどめている。水田の風景を思い浮かべ、写真を見たりすると、この風景の移り変わりだけでなく米作りを営んでいた人々の生活がどのように変わっていったのか、一つひとつ記録できればと考えている。 

 さて、一枚目の写真であるが今泊のアジマー(交差点)付近からシンプトゥ山方面にかけての風景である(昭和32年、メルビン・ハッキンス氏提供)。アジマーをなしている白いコーラルの敷かれた左右の道はミーミチ(新道、現在の国道505号線)で、大正7年頃郡道として整備された。この道の名称は、郡道、琉球政府道、県道、国道と変化をたどっている。 

 今泊のアジマーで本部方面に向かう昭和バス(現在の琉球バス)に乗り降りする数人のお客の姿が見える。「鼻のあるバス」と呼ばれ、今では懐かしい型である。バスの後方を走っている車は、米軍払い下げのトラックであろうか。燃料を入れたドラムカンを積んでいる。

 縦に走っているのは、今帰仁城跡への道である。この道は大正13年に「参詣道路」として、新しく開搾してできた道である。山手の北大嶺原一帯は、山の山頂付近まで畑として利用され、当時の土地利用を知ることができる。

 二枚目の写真は、今帰仁城跡への道から北側をみた風景である。左右に通っている道はミーミチ(国道505号)で、その向こう側に旧道がみえる。縦に通っているのは今帰仁城跡と集落の中の馬場跡(大道)をつなぐ道である。アジマーには「北山城趾参詣道 九町」と彫られた碑が建立されている。

 写真の場面は、アジマーを横切っている七、八人の若者の姿である。ズボンやスカートの裾をからげ、女は手ぬぐいを姉さんかぶりにして、稲の苗束を手に次の田んぼの植つけに移動しているところである。

 風景の移り変わりを見ていると、自然の変遷だけでなく、ムラ・シマに生きる人々の声を歴史の証として記録できればと考えている。

 


45.天底尋常高等小学校の実習農園(昭和9年)(平成6年3月)

 天底小学校が今帰仁小学校から分離したのは、明治21(1888)年である。その年は、謝名にあった今帰仁小学校が兼次に移転した年でもある。当時の天底小学校の校区は、謝名から東側の字であった。明治32年に今帰仁小学校は兼次から現在地に移転し、新しく兼次尋常小学校が創設された。その時に学区がの再編がなされ、天底校区であった謝名・仲宗根・玉城・寒水・岸本の五ヶ村が今帰仁小学校の校区となった。天底の校区は、天底・勢理客・上運天・運天・湧川・呉我山の六ヶ村となった。戦後になって、湧川独立校として分離したので湧川を除く字(アザ)となった。

 天底小学校は、昭和63年に百周年を迎え『記念誌』を発行している。『記念誌』には数多くの写真が収録され、「百年の歴史」を写真の一コマ一コマから見ていくことができる。その中から二枚の写真を紹介することにする。二枚の写真は、天底尋常小学校『創立五十周年記念誌』(昭和13年)に収録されているものである。

 一枚目は、学校に隣接した農園で農業実習をしている場面である。瓦屋根の校舎があり、その右手の小屋は肥舎や農具小屋や便所などである。学校を囲むように松(祭温松という)が並木をなしている。学校と隣接して農園があった。農園の支え棒は、トマトを栽培しているいるところであろうか。農園について「私(立津政向氏談)が高等科一年の時(昭和9年)津波古充徳先生が実習園ににトマトをつくられ、それが見事に実っていた。

 そのトマトを高等二年生がもぎとって喰ってしまったからたまらない。何しろ校長は、厳格きわまる照屋忠英先生までまっかになっておこられた。ドロボウをつくるためにトマトをつくるのではないといわれ、実習園のトマトをぜんぶひきぬいて堆肥にしてしまった。しかし、私たちは、翌朝早く登校して、落ちていたトマトや積んであるトマトを腹一杯たべたことがある」(『創立百周年記念誌』所収)、「そのトマトは、神戸へ輸出するつもりだった。校長はかんかんにおこり、それ以来トマトはつくらなくなった」(津波古充徳氏談、同『記念誌』)という。

 二枚目の写真も、同じく実習農園であるが、学校の裏門近くにあった畑と思われる。後方の松並木が印象的である。クワを手に畑を耕している生徒やしゃがんで草取りをしている生徒の姿が見える。監督をしている先生の姿もある。手前の畑には、ネギが栽培されているようである。

 学校は、昭和7年に実習地として847坪、翌8年に農業実習地として289坪を購入している。それらの土地が写真の実習農園だろう。

 昭和9年の天底尋常小学校は、児童生徒の数1053名、学級数20、教員数20名であった。当時の校長は照屋忠英先生であった。現在の児童数が約200名余りであるから、その五倍規模の生徒がいたことになる。

 学校関係の写真を一枚一枚見ていると学校の歴史と同時に、そこで学んだ一人ひとりが存在していた証として歴史が描ければと思う。

 

46.戦前・戦後をつなぐシマの人々(諸志) (平成6年4月)

諸志は、明治36年に諸喜田村と志慶真村が合併したムラである。両村から一字づつとり「諸志村」と名づけた。明治41年には今帰仁間切が今帰仁村、諸志村が諸志となり、現在に至る。その名残として二つのハサギがある。二枚の写真から戦前・戦後とムラ・シマを担い、そして歴史を刻んできた方々の顔や表情を見てみよう。

 一枚目は昭和15年1月の記念写真である(諸志の島袋吉助氏提供)。昭和15年は「皇紀二千六百年」にあたり、その時の記念写真である。建て物は、現在の諸志公民館の一角に位置した場所である。竹茅葺き屋根の建て物でヒサシに近い部分は赤瓦が乗せてある。事務所(ムラヤー)が、今の売店の所に建設されると、ここは青年クラブの活動の場として使われた。

 前の一列には六名の女性達(左から旧姓玉城ミツ、旧姓仲村ヨネ、旧姓内間ハル・旧姓与那嶺ハナ、内間ヨネ、内間ハナさん)がムシロの上にひざまづき、二列目は長椅子六名(左から旧姓島袋フミ、旧姓宮城トミ、旧姓与那嶺シズ子、島袋ナへ、旧姓仲村タケ、旧姓松田マシさん)が腰かけている。左側の旧姓島袋フミさんと旧姓宮城トミさんは和服姿である。後方には十二名の男性達が並び、国防服姿で胸をはっての撮影である。背広姿の男性は上間仙信さんである。向かって右側は当時青年団をしていた内間トシオさん(戦死)で、左側の青年団旗に立っているのが副団長をしていた与那嶺庄徳さん(戦死)である。すでに諸志の字(アザ)にも戦争への機運が次第にたかまっていた。この中で内間トシオ氏や与那嶺忠松氏、内間貞直氏、金城庄正氏などが戦死されていた。

 二枚目の写真は、昭和31年の旧盆の青年会のエイサーのメンバーである。場所は豊年踊りをするアガリンヘーである。サンシンを弾き太鼓を打ち、そして指笛を吹きながら「エイサー、エイサー」と舞い、各家庭やアジマーなどを回って踊った。ムラ・シマ青年達のはつらつとした踊りの姿が浮かんでくる。戦後十年が経ち、ムラ・シマの人達の生活が落ち着きはじめた頃である。まだ米軍支配の沖縄ではあるが、軽やかな服装や顔の表情に明るさがあり、ホッとさせてくれる。

 島袋輝志雄氏は、写真を見ながら当時のことを「その時分は、青年のまとまりもよくて、人数も27、8名から三十名ほどいた。青年会の活動費というのは、一ヶ月の内20日ぐらいは朝の作業をして資金をつくった。作業というのはその時分はほとんど茅葺きだったので茅刈りをしたりした。それで稼いだ資金で青年クラブを建て直したり、宇幼稚園の先生の給料の補助をしたりした」と語ってくれた。

 諸志は字誌が本格的にスタートし、その関わりで提供いただいた写真である。シマに生きる一人ひとりが登場してくる字誌ができることを期待したい。

 

47.諸志の志慶真神ハサギ付近(昭和十五年頃)(平成6年5月)

 諸志は諸喜田村と志慶真村が、明治36年に合併してできた字であることはよく知られている。諸志を通るかつてのスクミチ(宿道)は、スクジャ御願(御獄)の中から公民館の側を通り兼次へとつながっている。そのスクミチ沿いにトゥンと志慶真村の神ハサギなどがあった。

 明治・大正・昭和と諸志の出来事が一つひとつ刻まれていくが、諸喜田村と志慶真村が合併し諸志村となり、明治四十一年に諸志村から字諸志となった。スクミチは郡道へと名称がかわり、さらに大正の頃郡道が集落の南側から中央部へとつけ替えられた。また、二つの神ハサギも戦後アガリンヘーに移転・統合されたが、再び二つのハサギになった。このように変遷をたどる諸志のムラ・シマである。

ここで紹介する昭和15年頃の一枚の写真は、当時の諸志の状況や、時代が大きく変わっていったことを示す史料である。昭和15年頃、志慶真の神ハサギ付近で撮影されたもので、現在そこは公民館敷地になっている。写真に写っている昭和15年頃の青年達は、みんなスクジャンチュ(諸志の人)である。

 一列目には女性の青年団員が並び、向かって左から(すべて旧姓)島袋ナエさん、松田マシさん、仲村タケさん、玉城ミツさん、仲村ヨネさん、内間ハルさん、与那嶺ハナさん、内間ハナさん、金城静子さんである。

 二列目の左から内間トシオさん、与那嶺忠松さん、金城庄清さん、島袋正蒲さん、与那嶺庄徳さん、宮城博康さん、内間巌さん。後方の列、向かって左から与那嶺庄幸さん、比嘉角次さん、与那嶺ヒロシさん、内間貞直さん、金城庄吉さん、与那嶺ヤスオさん、与那嶺孫一さん、島袋金雄さん、与那嶺繁雄さんである。写真を提供して下さったのは与那嶺庄幸さんである。女性達はみんなもんぺに靴をはき、頭はタオルでねえさんかぶりをし、キリッとした緊張感は当時の時代を反映している。男性達は、タオルをねじり鉢巻きにしたり、帽子をかぶったりしている。前には、真新しいスコップが立てられ、青年団が共同作業をした後の記念撮影である。後方には、ガジュマルの大木や赤瓦屋根のトゥンや茅葺き屋根の神ハサギが見える。この神ハサギは志慶真村の神ハサギだが、その頃もう一つ諸喜田村の神ハサギが中城ヌルドゥンチ(宮城家)の西側にあったという。戦後、二つのハサギはアガリンヘーに移された。

 神ハサギの後方に竹を編んだチニブが見えるが、それは青年クラブの囲いのようである。撮影場所は現在の公民館の角で、向かって左側はウガミ(諸志御獄)の中を通るスクミチ(宿道)で、右手は売店へ向かう道である。段になっているが、今では削られ公民館が建てられ、かつてのこの一帯の風景は、まさにムラ・シマの変遷を示す史料である。


48.戦争で崩壊、そして復興(天底校)(平成6年6月号)

 戦後の今帰仁の復興は、学校のスタートにその様子を見ることができる。ここで紹介する写真は、戦後間もない昭和22年頃の天底校である。昭和19年の8月、天底国民学校に特殊潜航艦隊の白石部隊が駐屯し、学校には職員室だけを残し教室は字の事務所(公民館)に分散した。その頃にはすでに戦況が厳しく、正規の学校の授業が行われる状況ではなかった。高学年の生徒達は、陣地構築などに駆り出されていた。

 昭和19年の8月、天底校でも国民学校の初等科の児童生徒に対して九州への疎開希望者を募った。最終的に60人の希望者があり、宮城徳吉先生(当時教頭)と豊里ツル先生が引率した。今帰仁国民学校の児童生徒69人も加わり、引率者や寮母などの世話人を含め、総勢158人の集団疎開であった。昭和19年8月27日、巡洋鑑の香島で那覇港を出航し、翌28日鹿児島港に着き宮崎県に分散して疎開した。

 昭和20年3月23日、アメリカ軍の沖縄県への上陸作戦が開始され、今帰仁村では運天港を中心に激しい爆撃を受けた。その日は、学校で卒業式と終了式が行われる予定であったが、それどころではなかった。曲がりなりにも行ってきた学校教育は、その日をもってできなくなる。

 昭和20年の6月下旬、謝名から東側の村民は羽地に、西側は久志の大浦崎に強制収容された。同年10月30日には羽地に収容されていた村民の帰郷が許され、11月2日には大浦崎に収容されていた村民にも帰郷の許可が下りた。

 11月6日松本吉英氏が村長に推され、26日に村内の元校長や教育関係者によって学校開設について話し合いが持たれ、天底校は12月3日に開校されることになった。開校当時の状況を次のように報告している。
 ・  児童数 387人
 ・  職員数 男6 女4 計10人
 ・  設備状況
  ① 建 物
   イ、旧校舎五棟中、二棟空襲で倒壊三棟残存する。教室数合計十四、一棟の
    半分は屋根瓦なし。三棟共、雨戸、硝子戸、教室の仕切皆無。
   ロ、その他の残存建物 元図書館一棟(二四坪) 農具舎一棟
  ② 校具、教具、その他戦前の備品は一物も残らず。
  ③ 経過の概要
  ④ 開校当時の運営状況

  これらの報告から開校当時の天底校をみると、五棟あった旧校舎の内二棟は空襲で壊れ、三棟を残すのみであった。しかも一棟の半分は屋根瓦がなく、三棟とも雨戸や硝子戸や教室の仕切りが皆無の状態であった。開校はしたものの校舎や校長住宅の屋根や教室の修理作業、仮校舎の建築、それに運動場や農場の整備作業に追われた。そして教員の採用、教科書・黒板・机・椅子などの備品の提供を呼びかけた(天底校『記念誌』参照)。

 昭和21年5月、仮校舎三棟が完成し、翌22年1月、さらに二棟の仮校舎が建設された。各字から演技を出し合って盛大な落成式が行われた。馬小屋校舎と呼ばれたカヤ葺き屋根の建物の写真は、昭和22年の落成式の模様を写し出しているのかもしれない。間もなく、6月23日がやってくる。



49.北山高等学校の設立(昭和23年)(平成6年7月) 

北山高等学校が設立許可されたのは昭和23年3月である。同年7月に田井等高等学校(名護高等学校)から分離、その時の北山校の生徒数は147(男生徒94、女生徒53)人であった。崎山と仲尾次の事務所を仮校舎として授業が行われ、開校式は崎山事務所で行われた。同年12月に現在敷地に校舎ができ落成式及び祝賀運動会が行われたという。

 北山高等学校が、現在地に許可設立に至るまで、村議会や区長合同協議会などで敷地・予算・負担・校区など様々な議論がなされた。その議論の様子を昭和二十三年の『議事録』から拾ってみることにしよう。

 村議会で「教育問題の件」として高等学校の件が取り上げられたのは昭和23年3月8日で、初等中学校独立校(現在の今帰仁中学校)を東側にするか西側にするか、高等学校の敷地問題とからめながら出された。高等学校敷地について上本部村も考慮して委員会で仲尾次区と決定し、議会に提案された。しかし、5000坪の耕地を潰すとなるとそこで生活している二、三家族にとって死活問題である。あるいは、独立初等中学校を西側に置くのなら、高校は仲原馬場付近がいいなどの意見が出された。

 しかし、高等学校敷地を仲尾次として具体的に進めていくのであるが、中央部の仲原馬場付近がいいのではないか、村民の負担が軽減されるのではないかなど、議会審議の中でたびたび意見がだされた。

 高校誘致費、敷地接収、住宅移転料、作物損料、測量費、地ならしなど大きな事業のため、北山高校設立実行委員会が設置され、最終的に昭和23年6月15日の議会で多数決をもって決定された。仲原馬場付近を主張し「陳情書」まで提出したのは東側の湧川であった。

 写真は昭和33年2月である。北山校の『沿革誌』から教室の竣工をみると昭和23年12月ルーフィング葺きの校舎落成、同25年4月木造茅葺き二教室落成、同27年7月校舎四教室(基礎石造り)竣工、同29年記念図書館、校舎二教室竣工、11月校舎三教室、同31年10月校舎竣工と次々校舎が整備されていった。左側の建物は、学校設立当初のルーフィング葺きの寄宿舎の建物である。右側の建物は昭和二十七年に建てられた基礎石造り教室であろう。旧校舎と新しい校舎の間にある車は、英会話クラスの授業を行うために学校にきたメルビン・ハッキンス氏のオールドモービル車である。

 生徒達の服装は、まだ統一されていず、色の異なった学生帽、そして苦労して整えた制服や靴、カバンにも不自由をし、ふろしきに本をつつんでいる生徒の姿がみられる。また、カーキ色のオーバーを着た学生、肩にカバンをかけた学生など、精一杯の学生らしさを装った姿がある。

 2月の日の澄んだ小春日よりの学校の様子。新しくできた北山高校の石造りの壁の教室と設立当初のルーフィング葺き屋根の寄宿舎。新旧の教室の間に止められている車をもの珍しそうにみている生徒達。教室に向かう生徒達。

 昭和24年4月から卒業生を送り出し続けている北山高等学校であるが、生徒の服装や旧校舎に、まだ戦後の復興期の色が濃く残っている。


50.与那嶺の豊年祭での人々(昭和31年)(平成6年8月) 

 与那嶺は今帰仁村のイリンシマー(西の字)の一つである。公民館(集落センター)の西側に神ハサギがあり、ハサギミャーに舞台をつくり五年マーイでムラウドゥイ(村踊り)と呼ばれる豊年祭が行われる。

 ムラウドゥイはシマ(字)にとって、長い伝統のある最大の催しものである。ムラウドゥイは旧の8月15日(十五夜)の頃に行われ、各家庭でフチャギをつくり仏壇に供える習慣がある。 

 与那嶺のムラウドゥイは、「明治には行われており、一時中断したが山内昌義区長の時に再開した。8月7日のミャージャーシ、九日はメースクミ、11日からアシビ、そして15日はショウニチ(正日)、17日がワカリと行われていた」という(金城新治氏の話)。

 特徴ある演目として、国頭サバクイがある。写真の場面は、与那嶺の神ハサギ庭に作られた豊年祭の舞台の前で字の有志の方々の記念撮影である。戦後三回目の豊年祭で、那覇から玉城盛義氏を招き踊りを仕込んだという。舞台の屋根部分の幕に「川上写真館三岳大通り」とあり、川上写真館から字与那嶺に寄贈されたものである。また、1956年と年号も記されており、昭和31年の豊年祭の時と見られる。舞台後方にはハサギミャーの松並木も写し出されている。

 紅白の幕の飾り付けに「阪神在者一同」と書かれた字も見える。舞台の後ろの幕は、阪神在住者から寄贈されたものであろうか。松・梅・鶴が描かれ、中央部に与那嶺の「與」がデザインされている。豊年祭の本番の始まる直前の記念撮影なのだろうか。ネクタイを絞め正座したシマの先輩方の表情は少し緊張気味である。写真に写っている40名のムラの先輩方のお名前(敬称略)を紹介したい。

 前列左から、島袋宗三郎、与那嶺蒲吉、与那嶺雄一、西島宗次郎、与那嶺蒲次郎、玉城正義、与那嶺源三、玉城銀吉、仲宗根蒲喜の各氏である。二列目左から腰かけに掛けているのが上間源一、山内昌雄、仲宗根小次郎、仲宗根孝清、与那嶺盛栄、山内昌義、当間蒲二、西島光男、内間博一、玉城清朝、山内ミツの各氏。三列目の左から島袋源三郎、松田太郎、与那嶺蒲太、棚原憲英、与那嶺盛孝、金城新治、上間和男、与那嶺豊三、島袋ヒロ子の各氏。最後列は左から仲宗根孝徳、金城新徳、島田清仁、山内昌保、大城久信、与那嶺勝、仲宗根孝秋、西島ハル、上間ミツの各氏である。都合で写真撮影の場に参加できず、左側に配置されているのは元農協長の与那嶺福次郎である。

 戦前、茅葺きであった公民館、戦後瓦葺となり、さらに与那嶺集落センターと装いを新たに赤瓦屋根の建物へと建てかえられた。豊年祭も明治・大正・昭和、さらに平成の現在までつながってきた。

 38年前の豊年祭の話や先輩方の名前を西島源正、島袋直三、金城新治の三氏から伺った。シマの方々の言葉の中に、豊年祭の生きた歴史が刻まれている。写真に写っている先輩方のほとんどが既に他界されているが、この一枚の写真の中にシマで生きてこられた方々の証が記録されている。