写真にみる今帰仁 8
                                      
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       もくじ⑧(71~80)

 71.モンペ姿の今泊の婦人達(昭和16年)(平成8年5月)
 72.戦前の郵便局職員(昭和18年)(平成8年6月)
 73.空からみた今泊と小地名(平成8年7月)
 74.諸志の字名や地名(平成8年8月)
 75.謝名の字名と小字(平成8年9月)
 76.古宇利の字(アザ)名と小字(平成8年10月) 
 76.古宇利の字(アザ)名と小字(平成8年10月) 
 77.越地の字(アザ)名と小字(平成8年11月)
 78.今泊の湯屋(ユーフルヤー)(平成8年12月)
 79.ミジパイの洗濯場とサーターヤー(今泊)(j平成9年1月)
 80.城内の火神の祠と監守来歴碑記


71.モンペ姿の今泊の婦人達(昭和16年)(平成8年5月)

後方の右側の美しい一本松は、場所を特定する目安になる。今泊の年配の方にとっては、シバサンサチの一本松と言えば印象深い懐かしい場所である。回りには大きな木がなく、小さな丘となっていて一本松は目につく。

 後方かすかに見える山はクボウの御獄である。左手からパナッファイへの坂道、さらに向かって走る道は、大正五年に開通した今帰仁城跡への参詣道路である。戦前の面影を少し残している山や道筋がある一方、シンバサチの一本松一帯は土地改良で地形が一変している。十一名の婦人達が立っている場所は、親田原の水田地帯である。

 親川繁氏(今帰仁村歴史文化センター運営協議員)の調査によると、「昭和16年頃撮影されたようで、夫を戦場に送り出し、留守を守る婦人たちがユイマール(共同作業)で田を耕している場面である。また、昭和19年から20年にかけての悲惨な戦争で、写真に登場している婦人方全員が無事生きのび、現在でも半数の方々がご健在だ」という。

 昭和15年に隣組が組織された頃からモンペ姿が見られるようになるが、昭和16年12月の日米開戦を契機に更に広がり、昭和17年の夏になると道行くときはモンペ姿、婦人達の服飾も戦時色となった。男性は国民服というカーキー色の服を着ていた。 

 昭和16年と言えば、大陸開拓先遣隊として今帰仁から黒龍江省へ入植者を送り出している。また県農会では共同田植の統制規則を制定し、字単位の共同作業、田植え時期の統制・改良品種の植付けなどを打ち出した。 

 昭和18年になると男性は国民服、そして女性はモンペ姿、さらに胸元に住所氏名や血液型を書いた名札をつけた(『沖縄県史』8参照)。

 親田原の水田にモンペ姿でそろった11名の婦人方の前に、三つ歯のクワを置き、田を耕すための共同作業なのであろう。水の切られた水田には、稲の切り株があり、これから田を耕すのであろう、モンペ姿の婦人方の表情に緊張がよぎり、戦争という時代が重苦しくのしかかっている。モンペは自分達で着物や古着で仕立てたのであろうか。モンペ姿は似ているものの、それぞれ柄が違い、田んぼを会場にしたモンペのファションショーである。

 11名の婦人と一人の少年は、悲惨な戦争を無事くぐりぬけ生きのびたという。一人ひとりが戦争から50年余りの歴史を刻んできた。戦前の裸足の時代、そして悲惨な戦争、戦後のもの不足、高度経済成長、さらに宇宙へ人間が飛ぶ時代を生きてきた方々である。                 


72.戦前の郵便局職員(昭和18年)(平成8年6月)

 沖縄に郵便制度が導入されることが決まり、明治7年から実施に移された。その時、首里と那覇と今帰仁に郵便仮役所が設置された。その他 、浦添や北谷などに郵便取扱所が開設された(『沖縄百科事典』沖縄タイムス社)。しかし郵便制度がすぐ普及したわけではなかった。明治12年に廃藩置県、同16年県内の郵便業務の拡充がなされ、人々の生活に定着していった(『沖縄県史』近代史辞典)。

 今帰仁の郵便仮役所は、明治7年当時運天にあった今帰仁間切番所に設置された。明治16年に与那嶺豊太郎氏が局長に任命され、番所の隣に局舎を新築し今帰仁郵便局として郵便業務を取り扱うようになった。その後、明治23年から小包郵便、同23年から貯金事務、為替の取り扱いなど、業務範囲が拡大していった。

 戦前の郵便局長として与那嶺豊太郎(明治16年)、島袋幸保(諸志、明治25年)、糸数昌厚(那覇市若狭、明治37年)、長田松四郎(玉城、明治42年)の各氏が任命されている。

 明治37年郵便局は運天から玉城のプルマチ(寒水村)に移動、大正5年さらに仲宗根に移転した。戦前の郵便局は赤瓦屋根の立派な建物であったという。昭和15年兼次に郵便局が開設されたが、戦争で焼け、戦後は再建されなかった。

 さて、写真の顔触れは昭和18年2月11日の今帰仁郵便局の職員達の記念撮影である。当時の郵便局長は長田盛徳氏である。前列左から玉城政次(玉城)、仲里源興(仲宗根)、与那嶺幸次郎(仲宗根)の各氏。後列左から松田ヒロ子(越地)、長田節子(仲宗根)、与那嶺清(仲宗根)、桃原惣三郎(天底)、長田輝一(仲宗根)、宇根良謙(仲宗根)、仲里源助(仲宗根)の各氏で、左側の幼い女の子は、長田輝一氏の娘のエツさんである。写真にはいないが他に大城清春氏(天底)と照屋文子さん(天底)がいた。与那嶺清氏は戦死、また長田輝一氏も昭和19年フィリピンのミンダナオ島で戦死された。

 戦前郵便局職員であった与那嶺善太郎氏は、「前に三笠タクシーがあったね。そこの大井川の側に芝生のきれい所があったんですよ。ヤマタイヤーのものではなかったかね。そこで写したものです。近くにはピヤマサムイがあったが、サンガチモーやサイレンモーともいって、時世によって名前が異なっていた。そのモーは、北部製糖工場地を埋めるために壊されてなくなっているよ。戦前の郵便局があった場所は今の我喜屋ビルがある場所」など、当時の郵便局や仲宗根の様子を語ってくれた。戦前の職員の仕事は、主に保険の集金・集配・郵便貯金・電報や郵便物の配達・事務などであった。

 制服や帽子、それに雨合羽・地下足袋・巻き脚半などは国から支給された。制服に帽子をかぶり、脚半・地下足袋の姿は配達係りのいでたちである。郵便配達のコースは決まっていて、自転車で起伏の多い湧川や呉我山も配達した。

 戦争で命を失った方、生きのびて戦後郵便事業の復興に寄与された方、別の職業に移った方。戦争が一人ひとりの人生を大きく変えていった。


73.空からみた今泊と小地名(平成8年7月)

 今泊は今帰仁村の西側の字でエードゥマイ、他の字からはエードゥメーと呼ばれている。今泊は親泊と今帰仁が合併した字(アザ)で、エードゥマイは親泊の方言での呼び方である。親泊の語義については、エードゥマイのエーは親、親は御につながる敬称で「大きな」や「りっぱな」の意味。ドゥマイは泊、つまり港のことである。故に親泊は大きな港、あるいはりっぱな港ということになる。親泊に港があり、機能していた時代、今帰仁城が意気盛んなころが連想される。

 字名そのものが港地名であるが、今泊にはナートゥやナガナートゥ、それにトーシンダー(唐船田)やトゥマイ(泊)バーリなど港に関わる地名があり、リーフの切れめの東のクチと西のクチから船が出入りしていた時代の様子が伺える。

 集落の中央を東西に走るのがマーウイ(馬場跡)で、中間あたりにムラヤー(公民館)や神ハサギ(フプハサギ)がある。海岸にはシルバマやパマンクヮーやシバンティナの浜がある。集落の東にキヌガンファーイ、西にミーモーがある。ミーモーは船で旅立つ人々を見送る場所であった(『今泊誌』)。

 山手の方から集落の東側を流れるのが志慶真川(ニークン川)、西側を海に向かって流れているのがタキンチャガーラ(ヰンジュ)である。水浴び場だった川は水量が減り、川筋にかつての面影をかすかに伺うことができる。水浴び場だった川は水量が減り、川筋にかつての面影をかすかに伺うことができる。

 集落の南側を東西に走る幹線道路のそばをスクミチ(宿道)が通る。スクミチからスクミチから山手の方(今帰仁城跡)へ三本の道が走る。ナガサフバーリを通り、親川から森の中を通るのがハンタ道で、大正時代まで今帰仁城跡への主要道路であった。アジマーからパナファイ(慰霊塔)を左に折れる道は大正13年にできた参詣道である。大川原や新田原や前田原一帯は、昭和30年代まで水田が広がっていたが、畑に変わり、さらに土地が改良なされ地形が変わっている。

 写真に写った今泊の地名や土地利用を読み込む作業は、ムラ・シマの歴史を記録していくことにつながる。



74.諸志の字名や地名(平成8年8月)

 諸志は明治36年に諸喜田と志慶真の二つの村(ムラ)が合併した字(アザ)である、諸志は十八の小字からなり、方言でスクジャと呼ばれている。スクジャは諸喜田村の方言での呼び方である。

 スクジャのスクは地形の底を意味する場合もあるが、グスク(城)のスクに通じ、拝所や御獄の意。ジャあるいはジャーは川平(ハンジャ)の潮平(スンジャ)や寒水川(スンジャガー)などのジャと同じで、清らかな水が湧き出る泉のこと。諸喜田(諸志)には御獄があり、清水が湧き出る泉(フプガー)があり、先人たちはそれに因んでムラ名をつけたのであろう。

 諸志は南に山地があり、台地・御獄・集落・低地・海岸台地、そして海へと続く。

 諸志の小字は、集落部分が村屋敷原でムラウチと呼ばれる。ムラウチはさらにアガリンバーリ・イリンバーリ・メーンバーリ・シリンバーリ・ナファンバーリの五つに区分される。集落の北側に北港原・南港原・港上原の港がつく原名やナートゥ・トーシングムイなどの港に因んだ地名があり、ナハガーラを遡上した諸志の港原一帯が港として機能していた時代があったことが伺える。

 諸志の御獄にあるフプガーやフキンジュからナハガーラに流れ込む流域はワタンジャーと呼ばれ、渡川原の小字名がついている。かつて、一帯の水田はユピータ(深田)であった。海岸寄りのシンボローには佐田道原・仲切原・佐田安原がある。ナハガーラ沿いに崎原と竹原がある。ナハガーラ沿いの、かつての水田地帯は今では区画整理がなされ畑地となっている。

 集落南側の山手にいくと東・西の広原、水の湧き出る場所があった泉原、さらに上原・山田原・猪之平原(イリンビャー)は「西の坂」のことであろうが、平(たいら)の字が当てられている。山之堂原は「平地の多い山」に因んで名づけられたのであろう。

 字の名称は小字、そして小地名を空から見た様子が地形と合わせてみると、ムラの成り立ちや人々の生活、そしてある時代の姿が彷彿し、文字に記録されていない歴史が浮かび上がってくる。


75.謝名の字名と小字(平成8年9月)

 今回は今帰仁村のほぼ中央部、謝名の地名を写真から見てみたい。謝名(ジャナ)のジャを諸志(スクジャ)やスンジャ(潮平)やハンジャ(波平)とジャにつながる地名と解するならば、ジャは「清らかな水が湧き出る泉(ハー)」の意である。そして、ナは地や村を示す意味をもっている。すると謝名(ジャナ)は「清らかな水の湧き出る泉のある地(村)」ということになる。謝名の大島(元島)の南側、乙羽岳の裾の麓にシカ-と呼ぶ湧泉がある。そこは、謝名の各門中がハーウガミや産水を汲んだりするが、そこに因んだ村(字)名だろうか。

 謝名は東仲原・西仲原・頭原・伊地那覇原・大島原・東大棚原・謝名俣原・前田原・西大棚原・上手名原・大久保原・真良地原・迫田原・美謝原・前原・乙羽原の十六の小字からなる。

 シカーのある場所は美謝原(ビージャバル)で、シカーの美しさに由来する小字、ビーの生えたハーとみることができる。ビージャのジャも謝名のジャと同じ意味を持つ地名と見られる。

 謝名の古い集落ある場所は、大島原(ウプシマバル)である。御獄や拝所があり、御獄を背に南斜面に発達した集落である。その下方(前方)に前田原があり、かつての水田地帯である。さらに前原と続き、大島原を中心に小字名が名づけられている。上空から見ると、御獄を背景に南斜面に集落が発達している。

 また、大島原から発達して新しい集落を形成したのが仲原(ナーボロ)である。ほぼ東西に走るスクミチ(現在の国道)を挟んで整然と集落が形成されているが、近世の中頃から発達していった集落と見られる。上手名原は寄留人で形成され、散在した集落をなしている。迫田原から真良地原一帯は、平成七年の土地改良で大きく変貌した(写真は土地改良前、平成3年)。

 日々目の高さでしか見ない風景を視角を変えて見ると、古島タイプの集落の形態や近世後のムラの成り立ち、そして自分たちが住んでいる家が字(ムラ・シマ)の集落のどの部分に位置し、集落を形成しているのかよくわかる。山や湧泉(ハー)や御獄の回りは緑地帯として残され、ムラ・シマに近々住む人々の知恵がうかがえる。



76.古宇利の字(アザ)名と小字(平成8年10月) 

 古宇利島は海上に浮かぶ今帰仁村の島(字)である。1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に古宇利島のことを「郡島有人居」と記してある。郡島はクイシマに郡島をあてたのか、それとも「こほりしま」の音に郡島をあてたのかは定かではないが、1609年の「琉球渡海日々記」には「こほり」、「絵図郷村帳」では「沖ノ郡島」、1713年の『琉球国由来記』では「郡村」、近世の中頃から「古宇利村」と現在の字が当てられるようになった。

 郡や古宇利と記して「クイ」や「クーイ」と発音していた節がある。例えばペリー遠征記ではKouiと記してある。現在でも古宇利島のことをクイジマやフイジマと呼んでいる。クイやフイは越えることをクイルン、あるいはフイルンということから、海を越える島や海を越えた島のことを意味するであろう。また、今帰仁間切の地頭代になると古宇利親雲上の名を賜り、同時にメーフイヤーやフイヤーの屋号がつく。

 古宇利は古宇利原・横田原・東原・宇辺ノ花原・上原・雨底原・中原・根が底原・喜屋原・野路原・西原・道ノ下原・立ち原・流し原・宿ノ前原・渡海原・城原・仏ノ上原・大当原の十九の小字からなり、「・・・バーイ」と呼んでいる。現在の小字名と小字域は明治36年の小字を踏襲している。

 集落は島の南側の古宇利原に発達し、小字名に東・西・中・上・前・下など方向や位置を示す呼び方が目につく。雨底原はアマジャフ、根が底原はニガジャフと呼び、ジャフは凹地を意味する。この二つの小字は島の中央部に位置し、大雨になると一帯は水がたまることがあったという。

 野路原(ヌルバーイ)は神役であるノロの土地(ヌル地)があった地域、流し原は島の北西にあり別名クルスと呼ばれ、クルスは黒潮(深い海)に面していることに由来するのだろう。

 古宇利には蔡温の時代(今帰仁間切は1743年頃)に測量図根点として使われた石(原石)がある。古宇利島には「ヲ いれ原」と「ほ あらさき原」の二つの原石(印部土手石)が存在する。「いれ原」は西原と思われるが、その原石は現在の「立ち原」にあり、また「あらさき原」の小字は現在ないが、アラサチの小字名が残っている。それは、原域の組換えがなされたことを示している。

 このように字名や小字名をひもといていくとシマの歴史やかつての原域や土地利用が彷彿してくる(写真は平成五年撮影)。また、シマの方々の字や小字に対する認識が伺え興味深い。


  (※原図:仲原作製図)


77.越地の字(アザ)名と小字(平成8年11月)

 越地は今帰仁村のほぼ中央部に位置する字(アザ)である。昭和12年に隣接する謝名と仲宗根の一部を分割して独立した新しい字である。そのため、越地には神アザギがなく、また祭祀や豊年蔡などは出身字で一緒に行っていたが、その結びつきは今では薄れている。

 越地は方言でフイジやクイジと呼ばれてるが、独立以前の小字名が字名になった。隣の謝名の小字名を見ると、古い集落のある大島原を中心に前原や前田原、仲原などと名づけられている。それからすると、越地の名称は元島の大島原を起点に名づけれらたと見るのが自然である。すると、越地(クイジ)は「越えた地」、あるいは「越える地」と解することができる。

 宮城真治氏は「クイジ(越地)はナハブロ(仲原)の更に後方の北に位置するところであって、メーブロ(前原)及びナハブロ(仲原)に対照して後方を意味することは推知するに難しくない」(『沖縄の地名考』81~82頁参照)と解し、越地(クイジ)は「後の地」と捉えている。

 越地は謝名から分割した頭原・伊地那覇原・与比地原・謝名越地原・渡喜屋原・小浜原と仲宗根からの仲宗根越地原の七つの小字からなる。

 頭原は越地と謝名の東側にありカシラバルと呼ばれる。蔡温の時代に竿入(今帰仁間切は一七四三年頃)に使った原石(て かしら原)が現存する。頭原はミンナガーラの下流域にあり、マーハ-やイビなどの湧泉もあり、カシラはカーリシ(川尻)に由来する地名かもしれない。

 伊地那覇原も越地と謝名の両字にあり、分字の時に小字も二分された。与比地原はユピチバルと呼ばれ、今帰仁小学校一帯である。ユピチは深い地のこと。運動場の西側は窪地の地形に由来するのだろう。

 渡喜屋原(トキヤバル)は西側に位置し、平敷と隣接する。小浜原(クバマバル)は字の北側に位置し、炬港に面している。海岸は越地浜(フイジバマ)などの浜があり、それに因んだ名称だろう。

 謝名越地原は分字する以前に謝名出身の方々が集落を形成し、謝名の越地原であった。また、仲宗根出身の方々が集落を形成していた場所も仲宗根の越地原であった。分字の時、両字にあった越地原を区分するため謝名越地原と仲宗根越地原と、旧字の名を付して区分した。

 このように、字名はシマの歴史や成り立ちを秘め、また小字は越地の分割の歴史を刻み込み、地名は私たちにメッセージを送り続けている。



78.今泊の湯屋(ユーフルヤー)(平成8年12月)

 『沖縄県国頭郡志』(209貢)に「近年所々に湯屋の設備あり、また個人として風呂桶を備ふる者多しと雖も末だ一般的ならず、地方農民は夏季は冷水に浴し、冬季は殆ど沐浴せざる者敢えて珍しからず。されど漸次衛生思想の発達とともに各村に銭風呂の設けられつつあるは喜ぶべき現象なり」とあり、対象時代山原では、湯屋がまだ一般的ではなかった状況を伺わせる。

 今帰仁村では明治30年頃玉城盛安氏が仲宗根の大井川寄りの橋の南側に湯屋を開業したのが初めてだという。大正の初期には島袋福賢氏が開業し、大正12年頃金城龍次郎氏が引き継いだが戦争で破壊された。昭和の初期、仲宗根に三軒の湯屋(銭湯)があった。戦後仲宗根に玉城長幸氏と仲里源幸氏、今泊に嘉数安喜氏が湯屋を開業した(五年間)(『今帰仁村史』)。 

 諸志の浴場は昭和4、5年頃金城康正氏の屋敷の西側にあり、金城藤四郎氏によって創設された。諸志の浴場は産業組合が設立されると、組合に譲渡され組合員の保険衛生設備として経営された。大人五銭、学生子供は三銭であった。昭和20年まで経営されていたという。(諸志共同組合のあゆみ)。

 写真は今泊にあったユーフルヤー(湯屋)の落成式(昭和7年頃)の記念撮影である。今泊の湯屋は大正13年に個人経営の湯屋(現在の162番地)ができたが、昭和6年頃に青年団の経営の湯屋(190番地)が開業した。字の青年団が力を合わせて建設した建物の前での撮影である。丸い煙突がたち、建物の左側にヤジロベエ式の水汲み用の棒が見える。板壁が張られ、格子も見える。当時汲み上げに利用した井戸は今でも残り、青年風呂ハーと呼ばれている。後に手押しポンプで水をあげた。

 風呂焚きの薪はクボーヌ御獄や今泊の山からとり、間に合わせていた。それは青年団の奉仕作業だった。(親泊繁「今泊のユーフルヤー」『すくみち』第15号所収)。右側に青年団の団旗が揚げられ、その前に新城力氏(故人)の姿が見える。向かって右側半分が男風呂で、左が女風呂である。前列に与那嶺吉松、仲宗根新幸、玉城マツ、新城マチ、玉城ウシ、大城ウシ、玉城ウシ、新城チヨ、上間マチ、金城マツさんなど。二列目に仲宗根徳善、金城金一、玉城精ハン、仲宗根嘉一(団長)、石嶺ハナ、上間ゴゼ、嘉数マツ、湧川ナベさんなど。三列目には上間有幸、上間政徳、諸喜田政子、上間ゴゼ、仲宗根ツル、上間マツさんなど。後方には玉城亀拾、仲宗根小松、玉城マチ(当時18歳)、新城ナエ、金城ヨシ、玉城徳一、玉城ハナさんの顔が見える(親川繁氏調査)。十余名が今でも健在である。

 落成式に参加した若い青年達。女性は着物姿、男性は坊主頭に着物姿が目につき、国防服の姿も数人見られる。

 昭和35年頃になると個人風呂が次第に増え、これまでの共同湯屋は経営が困難になり廃業していった。今ではどの家にもあり、日々入る風呂であるが、大正時代までは夏は冷水で、冬はたまに湯で浴びる程度のものだった。そのためカイセンや皮膚疾患などが多かった。各家庭に風呂が設置されると、家の造りや生活が大きく変貌した。



79.ミジパイの洗濯場とサーターヤー(今泊)(j平成9年1月)

 この度アメリカ在のクロイド・クリスマン氏(68才)から300点余の写真フィルム(カラー83点、モノクロ232点)が届いた。クリスマン氏は昭和28年から32年まで宣教師として沖縄に在住し、数多くの写真をとっている。今帰仁村の今泊にもしばらく滞在し、村内の今泊えをはじめ本部町(崎本部の学校、伊豆味、渡久地のバス停、渡久地港)、伊江島(イータッチュ、爆撃にあった質屋)、名護市(屋我の教会、名護曲がり、イルカ狩り)、国頭村(辺戸の水路)、諸見(郵便局、教会)、那覇市(港、市場)などの風景や人物、施設等の撮影をしている。今回はその中から今泊の二点を紹介する。

 昭和28年頃の今泊の小川で洗濯をしている場面である。場所はミジパイで、今帰仁城下の親川から流れる川の下流で、まだ水田が広がっている頃である。後方に見える丘は、ヌンドゥルチモーである。小川に大きな洗濯板が設置され、三人の婦人が洗濯している。母親についてきた子供達の姿も見える。カニやエビやフナなどを取って遊んでいるのだろうか。

 天気の良い日は、一帯に洗濯物が干され、のどかな風景が見られたという。手前のバーキには芋が入っており、芋洗いの場でもあった。クリスマン氏のメモにWASHING CLOTHES AT NAKIJIN IMDOMRI(1953-1957)と記してある。今では周囲は畑にかわり、洗濯場もなく、かつての様子はわずかコンクリートの水路に面影を残しているのみである。当時サーター車は木製で「製糖期が終わると小川等につけて保存した。木車の台本がミジパイにつけられ住民の洗濯板として利用されていた」(『今泊誌』)。

 二枚目の写真は戦後今泊のシュク原にあったサーターヤー(砂糖小屋)である。戦前シュク原にはエーガ組サーターヤー、東組サーターヤー、新田組サーターヤー、御殿組サーターヤーがあったが、昭和17年に今帰仁村全体の製糖工場が現在の今帰仁中学校敷地に出来、ひとつにまとめられた。クリスマン氏のメモにはSUGAR CANEFACTORY(1953-1957)とある。

 クリスマン氏から送られてきた三百点余の写真を整理していると、平成3年から四年にかけてメルビン・ハッキンス氏から1500点近い写真の提供をいただいた頃のことを思い出す。「写真が、その時代を映し出している歴史史料である」ことを写真を整理しながら、再び実感している。

 

80.城内の火神の祠と監守来歴碑記

今帰仁城跡内に上の御獄、下の御獄、カラウカー、そして「火神の祠」などの拝所がある。「火神の祠」な城内の本丸と呼ばれる主郭にあり、『琉球国由来記』(1713年)「今帰仁里主所火神」とあるのが、この火神と見られる。また1743年の「今帰仁旧城図」には、単に「火神」と記されている。火神の祠は、ウドゥングァーやシルウチヌウドゥングァー(城内の御殿小)(『鎌倉芳太郎ノート』大正末)と呼ばれている。

 城内の火神は、『琉球国由来記』に「今帰仁里主所火神」とある。また「今帰仁旧城図」で「火神」と記される祠の前方には、祠に関わる「山北今帰仁城監守来歴碑」や石灯籠が建立されており、以上のことから第二尚氏系統の今帰仁按司(第二監守)関係の火神を祭ってあることがわかる。シマ(字今泊)の神人がウンジャミ(海神祭)のとき、カラウカー・火神の祠・アザナ・上の御獄(テンチジ)・下の御獄(ソイツギ)の順で御願をするが火神もその一つになっている。

 上の写真(昭和32~35年)は、火神の祠を正面からみた状況である。赤瓦屋根が一部壊れ、内部に陽光がさし込み、正面の木の扉が崩壊している。祠の壁はツタが生え、漆喰で塗り固められ、剥離した部分から、あい方積みで積まれた石積みの様子が伺える。

 下の写真(昭和35年)の祠の前の碑は今帰仁按司十世宣謨(王子)が1749年に建立した「山北今帰仁城監守来歴碑記」と石灯籠である。石灯籠には「奉奇進石灯炉」や「今帰仁王子朝忠」の銘が刻まれている。

  今帰仁城跡の前方(ハタイ原)に今帰仁ノロ火神、阿応理屋恵按司火神、トモノハーニノロ火神、古宇利(フイ)殿内火神などの祠がある。それぞれの火神の祠のある場所は、神役を勤めた神人の居住した屋敷跡で、移り住んでも旧地に火神を残し御願をする習慣が読み取れる。

 城内の火神も同様に考えると、1665年北山監守の七世従憲は首里に引き揚げたが火神はそのまま城地に残したもので、それが18世紀初頭の『琉球国由来記』に「今帰仁按司里主所火神」さらに十世宣謨の時の「今帰仁旧城図」で「火神」と記されているのであろう。

 火神の祠と山北監守来歴碑記、それに石灯籠は昭和62年に現在地に移設されるが、これら二枚の写真は昭和30年代前半の、移築整備以前の様子をとどめ、当時の状況が知れる。