今帰仁間切の御支配と印部石    トップへ


はじめに 

1、今帰仁間切の御支配

 『向氏家譜』(具志川家)に「今帰仁旧城図」が掲げられている。この旧城図は乾隆7年(1742)に測量され翌年8年に差し出されている。その図に「はんた原 フノ印針本ヨリ戌下小間右小十八間」とあり、竿本として「フ はんた原」の印部石(原石)が使われている。元文検地(1737~1750年)の一連の御支配(測量)で今帰仁間切全体の測量がなされたとみられる。その過程で今帰仁城の測量がなされ、その時の針図が『具志川家家譜』に収録されている。今帰仁間切の御支配は1742年と設定してよさそうである。「今帰仁城之儀、此節御支配ニ付而間切江被下候旨承知仕候、然者今帰仁城之儀」の「覚」があり、「戌八月廿五日」とあり、乾隆7年(1742)のことである。その時の「御支配」に関わったのは御支配奉行の冨濱親方と幸地親方、竿頭は喜屋武親雲上である。その時の今帰仁按司は十世の宣謨(今帰仁王子)である。

今帰仁城のある一帯は、現在「ハンタ原」で元文検地の頃も「はんた原」であった。ハンタは今帰仁城のある崖地(端地)に因んだ地名であろう。この「旧城図」のことを「針図」から今帰仁間切の御支配は乾隆7年(1742)とする。

ここでは、印部石の原と現在の小字(原)との関係について述べる。つまり、元文検地の印部石の原が、現在の小字(原)と必ずしも一致しない。それが何故なのかを「今帰仁間切平敷村略図」と今帰仁村内の印部石(原石)を手掛かりに印部石の原名と現在の小字との関わり、それと印部石を通して見えるものの一部を述べることにする。

 2.今帰仁間切内の印部石(原石)

 これまで今帰仁村内に印部石(原石)は22基が確認されている。現場(土手)に残っているのは三基のみである。ほとんどが移動している。そのため、現在の小字と印部石の原名との正確な比較は困難である。

「今帰仁間切内法」の第72条と第104条に、印部土手(印部石)についての条文がある。今帰仁間切は「今帰仁間切内法」の提出は明治20年である。条文の「名書碑」は印部石(原石)のことであろう。条文通りだと明治20年代まで印部石(土手)は役割を担っていたことになる。春と秋に見廻り修理をし、もし印部(石)がなくなっていたら地頭代に届け、担当者の案内の上調えさせなければならなかった。ここでは印部土手、方切土手、田畑印部土手、山野印部土手、他の間切との境界土手などとあり、印部石(原石)を置く土手も重要視されている。 

【第72条】
印部土手並ニ名書碑文又方切土手ノ義到テ大切ナル御仕置ニテ少迚相破候テハ御沙汰ノ程不軽事候間間切中印部土手帳表春秋田地御廻見前相改修補サセ若印部(石)無之候ハヽ地頭代ヘ相達頭御役衆御案内ノ上調方可申付無其儀夫々不行届候ハヽ科銭拾貫文申付尤不下知ノ品ニ依重科ニモ依重科ニモ可及事

【第百四条】
役々ニ於ゲ田畑印部土手山野土手他村間切トノ境界土手巡視シ若切細メ又ハ破損シアル者ハ者ハ事ノ軽重ニ応シ科銭申付他村間切ノモノハ其番所ヘ通知シ科銭二十貫文徴収候事

最初に「今帰仁旧城図」から「はんた原 フノ印竿本ヨリ戌下小間右小十八間」を引き合いに出したのは、この御支配(元文検地)の時今帰仁城も御支配が行われてる。乾隆7年(1742)八月に御支配がなされているが、「今帰仁旧城図」の提出は翌年の四月である。御支配の時今帰仁城を「間切へ下される」旨承知している。しかし十世宣謨(今帰仁王子)は「城の囲内分を私子孫へ永代御願地として下されたく」願いでて許された経緯がある。乾隆14(1749)年には「山北今帰仁城監守来歴碑記」を建立している。そのことも含めて、今に大きな影響を及ぼしている。元文検地と呼ばれている御支配、そこで使われた印部石(原石)は土地測量によっての増収が目的であったであろうが、今帰仁城の竿入図(針図:惣坪五千九百十五坪)は今帰仁間切への払い下げから今帰仁按司家の永代御願地として許されたわけである。その時、針図作成のための竿本になったのが「はんた原 フ」の印部石(原石)である。


 その時に設置されたのが、今に残っている印部石であろう。現場に保存されているのは、今帰仁村で四基ある。その中で土手まで残っているのは二基のみである。「間切内法」で土手を細くしたり破損した者に罰則を与えたのは現場を見ると理解できる。印部石が何であったか、そのことが忘れられたため、間切に200余あったのが今に残っているのは今帰仁村では一割にすぎない。 

3.「平敷村畧図」に出てくる原

 「平敷村畧図」(歴史文化センター所蔵)がある。現在の今帰仁村平敷の図である。その図の作成がいつなのかははっきりしていない。明治32年頃の土地整理期の図とは異なり、それ以前の様子(原)が描かれている。平敷村の周辺を測量した図である。隣接して謝名村境や岢山村境とある。凡例として道・村境・原境などがある。その図に注目しているのは、現在の小字に移行する前の原が示されている。前半はミナト原(第一号)から上原(三十三号)まで、後半は上原(第一号)から小浜原(丗号)で終わっている。「平敷村略図」が印部石(原石)を使って針図を作成したかは不明であるが、その範囲や接した地域に「ヰ ふかさく原」「に 大こふ原」「ミ うへてな原」の三基の印部石(原石)がある。

 平敷村略図に出てくる原は22である。境界線を測量しているので隣接する謝名村と崎山村の原もある。平敷村のみは19の原である。ミナト原とゴミ原は崎山村、上謝名原は謝名村の原である。それらを除くと平敷村に19の原が記されている。19の原が11の小字となる(58%)。と現在の小字と対比してみる。すると、元文検地の時に使われた印部石(原石)と現在の小字とが一致しない理由がわかる。具体的に示してみる。五つの原は、二つ、あるいは三つの原を一つにし、二つ、あるいは三つから一つの原を代表して今の小字名になっている。平敷村の原と今の小字の比較から、今の小字は二つ、あるいは三つの原をまとめ、その中の原の一つが代表して今の小字名になっている。平敷のみで言えば、19の原が11の小字にまとめられている。単純に言えば元文検地の頃あった原が三分の一は統合され、原名は消えたことになる。しかし、小地名や印部石(原石)にかつての原名が残っていることがわかる。現在今帰仁村で22基の印部石(原石)が確認されている。原石の原が現在の小字と合致するのは22の内15である(69%)。「平敷村略図」でみるように、かつての原から現在の小字に移行していく過程で約三割の原が統合されたことになる。現在の小字名の地名の語義は、いくつかの原が統合されていることを念頭に入れて考える必要がある。 

 

 まとめ

 ※「平敷村略図」のゴッシクの原名(小字名)に複数の原が統合されている。


印部石(原石)(2005.02.24 メモ)

 もう「南風」の原稿の締め切りがやってきた。明日にでも送付することに。もう一度見直してから。今回は昨年、今年と名護市内の病院の窓から名護湾を眺める日々があったので「名護湾岸のムラ」(仮称)でも。

 今帰仁村内の原石(ハルイシ)を報告用に改めて整理する。法量や拓本、そして写真撮影。これまで村内で確認してしたのは20基だが、三基ほど所在不明となっている。今回のまとめで一区切りしたいと考えている。もちろん新しい発見があれば追加した形で報告する予定。

 原石の原名と現在の小字との関わりについて『なきじん研究』―今帰仁の地名―(第7号)でまとめてある。元文検地の原石に出てくる原名と現在の原域との比較研究をしてもらいたい。たまたま、今帰仁村には「今帰仁間切平敷村略図」があり、現在の小字以前の原域がわかる地図である。それからすると、「現在の小字は複数の原を一つにまとめ、その中の代表的な原名が現在の小字名となっている」ことがわかる。他の地域でも、原石の原名と現在の小字名が比較できる史料があるのではないか。出てきて欲しいものだ。



          ▲歴史文化センター内に展示してある原石


   ▲今帰仁村古宇利島の原石の展示       ▲古宇利島の原石の拓本



今帰仁に残された印部石(原石)(2009年7月23日)

 「今帰仁に残された印部石(原石)(仮題)」の原稿が待っている。これまで確認してきた今帰仁村内の22基の印部石と「平敷村畧図」の原、さらに現在の小字との関係をまとめている。乾隆7年(1742)に行われた今帰仁城の御支配(測量)の竿本になったのが「フ はんた原」の印部石(原石)である。それをとっかかりとしていく。22基の村内の印部石(原石)にコメントを入れ、「平敷村畧図」の原と平敷の小字の関係を読み取り、印部石の原と現在の小字とのつながり、それらについてまとめることに。

  「今帰仁旧城図」の「はんた原 フノ印竿本ヨリ戌下小間右小十八間」を引き合いに出したのは、この御支配(元文検地)の時今帰仁城の御支配が行われている。乾隆7年(1742)八月に御支配がなされ、「今帰仁旧城図」の提出は翌年の四月である。

 御支配の時今帰仁城を「間切へ下される」旨承知している。しかし十世宣謨(今帰仁王子)は「城の囲内分を私子孫へ永代御願地として下されたく」願いでて許された経緯がある。その後の乾隆14(1749)年には「山北今帰仁城監守来歴碑記」を建立している。そのことも含めて、時の御支配は今に大きな影響を及ぼしている。

  元文検地呼ばれている御支配、そこで使われた印部石(原石)を基点として土地測量を行い王府は増収を目的としたのであろう。それだけではなく今帰仁城の竿入図(針図:惣坪五千九百十五坪)は今帰仁間切への払い下げから、急きょ?今帰仁按司家への「永代御願地」として許されたわけである。その時、針図作成のための竿本になったのが「はんた原 フ」の印部石(原石)である。はんた(ハンタ)原は、当時と変わらない小字名である。残念ながら、「フ はんた原」の印部石の現物は確認されていない。

 
 
                               ▲「平敷村畧図」       ▲「オ いれ原」(古宇利島)