今帰仁の印石(パル石)

元文検地の印石
2020年2月

   (工事中)


【古宇利】 01 
 「ヲ いれ原」は古宇利島にある原石である。村内で唯一現場に残された原石である。「ヲ いれ原」の石は土手の中央部に設置されている。文献にある土手は原石も含んでいるのであろうが、石をめぐらして積んだものであろう。この原石の立っている小字(原)は現在「立ち原」である。一帯は原域の組替えがなされているようで、元文検地の頃は「いれ原」であったに違いない。「いれ原」は西原のことだと思われるが、現在の「西原」は「立ち原」の南側の「野路原」のさらに南側に位置する。大幅な原域の変更があったと見られる。方言音の「いり原」を「いれ原」と表記したのであろう。高さ50㎝、幅30㎝あり。


【古宇利】02
 「レ いれ原」の原石は古宇利島にある。古宇利に「いれ原」の原石が三基あり、その一基である。移動して上原集落にあった。現在、歴史文化センターに展示してある。この原石は「いろは・・・・」「イロハ・・・・」の「レ」の符号である。縦最大60㎝、幅最大26㎝ 現在の「立ち原」や「野路原」あたりまで「いれ原」(西原)だったのだろう。元文検地後に大幅な原域の組替えがなされたにちがいない。



【古宇利】03 
 「さ いれ原」
は古宇利島にある。

  

【古宇利】04
 「オ いれ原」の原石は古宇利の松田さんの門近くに置いてある。「いれ原」と刻まれた三基の原石の一つである。同じ原名の原石が三基あるとはめずらしい。この原石に刻まれた文字は「お」であるが手持ちの辞書に登場しない文字。古宇利の下原の松田富士男氏の庭にあるもの。(松田氏から寄贈があり、現在歴史文化センターで所蔵、及び展示してある)

  


【古宇利】05

 「お いれ原」

【古宇利】06
 「に あ加れ原」の原石は、今年(平成14年)に入ってからの確認である(区長さんの案内で)。島の人たちは以前から知っていたようである。「あ加れ原」は現在の東原の小字へつながる。その原石が置かれている場所(土手から移動)は、現在の東原である。方言音の「あがり」を「あ加れ」と表記するとは、「り」が「れ」となる法則性を知った言語学者か。「いり原」を「いれ原」とするのも同じ。方言音の「あがり原」を「あ加れ」原と表記したのであろう。また、濁音の「が」は「加」で表記してある。

  

【古宇利】07 
 「ほ あらさき原」は古宇利の仲宗根氏の庭先にある原石である。現在の古宇利の小字にない原名である。話ではホーバイの方に畑があり、そこから持ってきたという。また、島の北西の方に「あらさきみさき」があり、島の北側に「あらさき原」があったと見られる。そこでも小字(原)域の組換えがあったことを示している。高さ48㎝、幅25㎝あり。

  

【上運天】08

 現在「エ うけた原」の原石は天底の個人宅の庭にあるが、もとは上運天にあったものである。現在「うけた原」の小字はないが、明治の資料で「うけた原」の原名が登場してくる。現在の「親川原」に含まれているようである。地名として「浮田港」(現在伊是名や伊平屋行の運天港)やウケタ嶽(『琉球国由来記』)としてある。かつて浮田港一帯は「うけた原」であったにちがいない。ここでも方言音の「うきた」の「き」を「け」と表記している。ここでも原域の組替えが伺える。


【勢理客】09

 「の 石加き原」は勢理客の安谷屋氏の庭にあり、かつてあった場所から移動している。現在、勢理客には立増・中道・石垣・吉事の四つの小字があり、原石の「石加き原」は、現在の石垣原へとつながっているにちがいない。勢理客の金・立石・小禄・浜の四つの小字は昭和16年に字渡喜仁へ編入された。石垣(イシガチ)の義は石の多いところの意味のようである。濁音の「が」は「加」で表記してある。高さ49㎝、幅23㎝あり。

 

【天底】10

 「ノ しつや原」か。砥石として使われていたので摩滅し判読しにくい(「しら石原」の可能性もある)。「しら石原」であれば、現在の「白石原」につながってくる。天底は1721年に伊豆味(本部間切)付近から移動した村である。元文検地はその後なので、天底の原石や原名は移動後ということになる。かつて天底の故新城新吉氏宅にあったが、最近不明となっている。高さ60㎝、幅24㎝あり。

 

【玉城】11

 「ユ うち原」は玉城の「ウチ原」にある原石である。現在「ウチ原」内にあるが、元の場所から少し移動している。現在の玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三ケ村が合併している。寒水・ソウーリ川原・岸本原・ウチ原・古島原・外間原・東アザナ原・西アザナ原からなる。高さ46㎝、27㎝あり。

【謝名】12

 「て かしら原」は謝名の小字「頭原」につながる原名である。頭原は謝名と越地にあるが越地は謝名からの分字である。分字のとき頭原を謝名と越地に二分したものである。もともとは謝名村の頭原とみてよい。方言音の「カーシリ」を「かしら」と表記したなら「河尻」の義とみることもできそう。ミンナガーラの下流域にあたるので可能性としては充分ある。高さ35㎝、幅22㎝あり。

【謝名】13
 「ミ うへてな原」は謝名の現在の小字「上手名原」につながる原名である。平敷と隣接し、方言でウイジャナと呼ぶが「上手名」や「上謝名」の字を充てている。謝名の上の方という意味か。左側は拓本。高さ40㎝、幅22㎝あり。

 

【謝名】14
 「ウ ちやな原」は謝名村にあった原石である。「ちやな」は方言でヂャナと発音されたと見られる。しかし現在の小字に「ちやな原」はないが、それに近い「謝名俣原」がある。そこでも、原域(小字)の組替えがなされていることがわかる。「ちやな原」は謝名俣原につながる原かどうか、まだ定かでない。謝名の中心となる場所の原名かもしれない。縦最大で50㎝、横幅30㎝の微粒砂岩である。

 

【謝名】15

 「に 大こふ原」は謝名村にあった原石である。現在の「大久保原」につながる原名である。ところが明治期の「平敷村略図」に「大コブ原」があり、平敷村の原名の可能性もある。ここでは謝名村の「大こふ原」としておく。大こふ原は方言でウークブバルで「大きな窪地」に因んだ原名である。高さ52㎝、幅22㎝あり。

  

【平敷】16

 「井 ふ原」か。途中から折れているので文字が不明部分があるが、平敷村略図の位置からすると、「外さく原」の原域にあるので、「ふ原」と彫られていると見られる。現在平敷のマチヌヘーにあり、ガジマルの大木の下に置かれ線香がたかれている。かつては松の大木があり、稲を干す場所に使われていたという。井はゐの真字(楷書)。

 

【諸志】17

 この原石は諸志の内間巌夫氏の庭にあり上下破損しているので、原名の文字の判読ははっきりできない。判読できる部分が「 けら原」なので、現在の竹原はダケラ原やダケラン原と呼んでいるので、その可能性がある。横幅は27cmあり。

 

【諸志】18

 この原石は諸志の内間巌夫氏宅の庭にある。下分部が破損し失っている。「よ さき原」とあり、諸志の小字「崎原」(サチバル)につながる原名とみられる。諸志は諸喜田村と志慶真村が明治36年に合併した村(ムラ)である。二つの村の小字の区別があったのか。諸喜田村の地に志慶真村が入組むように移動しているので、区別はなかったかもしれない。

 

【諸志】19

 諸志の内間俊彦氏宅の庭にあった原石である。「さ ひろ原」とあり、現在の諸志の小字東広原と西広原がある。東・西の広原に分けられる以前の原域に設置されていたのであろう。高さ56㎝、幅26㎝あり。

  

【兼次】20・21

 兼次の大城哲夫氏宅にある原石である。「ソ 加祢寸原」と彫られている。高さ48㎝、幅29㎝あり。カネス原である。方言ではカニシやハニシである。現在の小字ない原名でムラウチの村屋敷原あたりの原名ではないかと想定している。「フ 加祢寸原」は現在歴史文化センター所蔵である。かつて、兼次の民家にあったものである。高さ54㎝、幅27㎝あり。

  

【今泊】22
 今泊の民家にある原石。「れ □□原」であるが、砥石に使われていたため、字が磨耗して判読できないが、所有者によると「さき原」と彫られていたという。高さ52㎝、幅25㎝あり。今泊の現在の小字に「崎原」があり、それにつながる原名と見られる。



【今泊】23 

「□ しきま原」
 



【湧川】24


2011年1月26日(水)メモ

 「印部石」が寄贈される。今帰仁村湧川の前田原にあった印部石(原石)である。前田原には前田拝所があり、湧川の祭祀に旧暦二月の最後の亥の日に行う前田折目(前田御願)がある。前田にあるイビムイ(湧川のウタキ:タキサンともいう)の麓に三穂田(ミフダ:神田)がある。そこで稲の生育や豊作のウガンがあある。神人が神田に入り稲苗の初植えの祭祀が行われる。田植えの合図であるという。20年前田港さん(故人)から付近に「原石がある」と聞かされていた。前田原一帯は土地改良がなされた。そのこともあって土地改良中に何度か足を運んだが確認することができなかった。今回提供された印部石(原石)はあった場所からすると、間違いなさそうである。

 「ケ しゆや原」である。塩屋原のことであろう。現在の小字(原)に「しゆや原」はない。前田原に「スガー」「シユガー」(塩川)があり、元文検地の頃、現在の前田原に「しゆや原」の原域があったと見られる。「しゆや原」は塩屋に因んだ原名と言えそうである。今帰仁間の元文検地は1743年頃だと見られる。印部石がたてられたのは、湧川村が新設されて間もない頃である。(湧川村が創設される以前、湧川村地内に振慶名・我部・松田・桃原などの村があった。それらの村を移動させて湧川村を新設)。湧川村に印部石を設置したのは村移動や村の新設と関係あるのだろうか。現在の小字に「しゆや原」はない。

 
▲湧川の前田原にあった印部石