大宜味村白浜                                トップヘ


【塩屋と渡野喜屋(白浜)の渡し舟】2005.02.10(木)メモ

 塩屋と渡野喜屋(現在の白浜)間の渡し舟の往来はいつ頃からはっきりしないようだ。明治14年上杉県令が大宜味間切を視察した際、渡し舟について間切から廃藩置県で不合理が生じている旨報告している。これまで渡し船の運航が夫役で間に合わしていたが、廃藩置県以後、それが出来なくなって困っていると。ならば運賃をとってどうかと県令から提案される。その後、渡し舟(伝馬舟)は村費で建造して「渡し賃」を取ることになった。渡し番は塩屋と渡野喜屋から、それぞれ出していた。

 役場の吏員・村議・郵便配達人・駐在所の巡査などは無料で、一般の通行人から渡し賃を取って運営していた。

 昭和の初め頃、名護から渡野喜屋まで乗合い自動車が運行するようになり(南陽自動車・朝日自動車・新垣自動車)、渡野喜屋は客待ちの場所となり雑貨や菓子を売る店、食堂ができ賑わったという。塩屋側の舟着き場は学校の校庭となっていて、賑わいを見せていた頃は送別の宴など校庭で行なわれ、授業に迷惑がかかったため舟着場を学校から少し離れた場所に変更された。

 渡し舟は辺土名までバスが塩屋湾を回って運行されるが、それでも渡し舟は続いた。昭和13年に宮城橋(丸太橋)が架けられると渡野喜屋と塩屋を結んでいた渡し舟は宮城島と塩屋を往来するようになった。昭和38年に塩屋大橋が開通したため渡し舟は役目を終える。現在の塩屋大橋は1999年に竣工したものである。

 昭和7年頃三島丸(約30トン)が就航し、塩屋と那覇間を結んだ。昭和17年村営の新造船大宜味丸(53トン)が就航する。当時は山原船も航海し薪や木炭、材木、農産物が輸出されていた。(参考文献:『塩屋誌』大宜味村塩屋)

【ペリー来航と塩屋湾】(工事中)