2003年1月の調査記録      トップ(もくじ)へ      



2003.1.31(金)

 
突然、資料館の展示のことで来客があった。歴文の展示手法を参考にしたいとのこと。山原に資料館をつくるスタンス、資料の収集、その地域におけるテーマ、展示のバックにあるものなど。これまで、いろいろな展示をみてきたが、他府県の方々に見てもらうことも大事なのだが、より大事なのは地域の人たちが自分達の地域の歴史文化が誇れるような、そしていろいろな分野の学問として学んでいける展示手法や企画が大事。

 収集した資料を駆使すること。展示テーマに合わせて資料を収集すると、展示が非常に軽く見えてくる場合が多い。テーマに合わせて資料収集するのだが、集められる資料はできるだけ幅広く、数多く収集すること。10集めて5展示する。その方法をとって欲しい。5集めて5の展示では、すぐあげ底が見破られてしまうので、展示してあるのは、ほんの一部であり、バックに展示されていない資料が数多くある手ごたえを持たすこと。手ごたえを持たせきれるか。簡単なようだが非常に大事なこと。

 具体的な展示プランを描いてみたいのだが、他人様の資料館のこと。それ以上の展示プランを持っておられるでしょうから、おせっかいな口だしはしない方がいいでしょう。歴文の展示に向けてのスタンスや考え方が、参考になれば幸いです。山原に活動するいい資料館ができればいいですね。完成後のことも是非考えて下さい。それと各地にみる尻しぼみになるような資料館にはしないで頂きたい。機能する資料館にしたいなら、資料収集から展示に関わり、開館後も運営企画していく能力を持った職員の配置が必要なはずだが・・・・。いい資料館ができるよう期待したいもんです。きっと、いい資料館ができるでしょう。


2003.1.30(木)

 本日は研修で南山まで。島添大里城の予定が道を間違って玉城村の糸数城へ。糸数城の琉球石灰岩の野面積みと布積みが組み合わせがいい。地山の方も琉球石灰岩がところどころ露出し、琉球石灰岩の上にのっかったグスクである。南山地域では大里城もそうであるが大型のグスクの一つである。規模や石積みに往時の勢いがうかがえる。文化財担当者が城壁の石積みの実測をしていた。また中央部では草刈作業の方々が数人。作業小屋の後方に窪地があり「井戸ですか?抜け穴ですか?」と聞いてみた。おばさんたちは口々に「実際抜けたことはないが、抜けられるようですよ」と。

 糸数城の歴史は全くうといので解説できないが報告書などによると、築城は14世紀頃とある。玉城按司の三男の糸数按司が築城したという。出土した遺物に青磁・白磁・カムィヤキ・土器片・武具類・玉類など、主に13世紀以降のもののようだ。

 今回確認しておきたかったのはグスク内にある石灯籠であった。4基ほどあり「奉寄進」や「年号」が刻まれていた。「嘉慶十九年・・・奉寄進 知念仁屋」「・・・巳卯年九月吉日」「壬申九月吉日」の字が読める。石灯籠や香炉のある場所は『琉球国由来記』(1713年)にある「糸数城之嶽 神名:モリテル御イベ」のことか。
 一基に、
       玉城按司御上国付御供
        糸数村太田仁屋
        嘉慶二十五年七月」
の石灯籠があり、『中山世譜附巻』に「嘉慶二十五(1820)年に慶賀に玉城按司朝昆が六月十一日薩州に到り、十一月二十二日に帰国した記事がある。糸数村の太田仁屋が玉城按司の上国に御供し、糸数城に石灯籠を寄進している。文献と石灯籠の年月日からすると出発するにあたり寄進する場合と、無事帰国した後に寄進する場合がありそうだ。太田仁屋は糸数村出身だったので糸数城に寄進したのであろう。この石灯籠やその記事は、グスク本来の統治したり防御的な機能を失った後の祭祀に関わる一面と首里王府の上国(年頭慶賀)や対明国政策をみることができる。

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        ▲糸数グスクの布積みと野面積みの城壁(右は門口)

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 ▲糸数グスクの琉球石灰岩の野面積み  ▲糸数グスク内のイベの前の石灯籠

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   ▲糸数グスク内の「奉寄進」や「年号」のある石灯籠

2003.1.29(水)

 
いや、寒い日が続いています。沖縄でも珍しいのでは。桜の満開の山原ですが「春ですね」との挨拶言葉はでてきません。「冷えますね」「寒いですね」「何度だろう」の言葉がほとんど。

 明日は歴文の運営委員会と研修会。沖縄本島の「南のムラ・シマ」と、そう書き記すだけで胸が躍る。どこのムラ・シマにゆくのか楽しみである。研修地として『具志頭村立歴史民俗資料館』は入れてある。行く途中のムラ・シマになるのだろうか。どこにするのかは、これから決めます。どんな研修になりますやら。寒い中ですが。委員の先生方6名とパソ姫が随行。

 今日も「ムラとシマはどう違うのですか」と来館者から質問がきた。「歴文の造語みたいなものです。同じようなものですが、時と場合によって使い分けています」と説明しても、なかなか理解できなかったようで。多分一般的に使っている村と島をイメージしての質問だったのでしょう。山原(やんばる)もそうですが、一言で片付けている言葉のバックには歴史や文化、あるいは地域によって微妙なニュアンスの違いがあることに気づかされる。なかなか説明が難しい。
 ムラの場合は村、近世から明治41年まで使ってきた「・・・村」のこと。今の字(アザ)に相当する行政的な単位の村。そのムラのことをシマを使う場合があります。シマの場合は出身地のニュアンスがあります。「シマはどこですか」「あの人はシマンチュ」など。そういえば、前に説明したことがありますので再度。


【ムラ・シマ】

 歴史文化センターはムラ・シマという言葉をよく使う。ムラ・シマは今風に言えば字(アザ)のことである。その字のことを大先輩達はムラやシマという。「あなたの親はどこのムラね」「あなたのシマはどこ?」など。今の字は明治41年まで村(ムラ)であった。そのことが後々までムラという呼び方として残ったのであろう。公民館はムラヤーと呼ぶ。ムラは行政的な呼び方であったのであるが、今帰仁村は19のムラ・シマがあり、ムラ・シマに人々が住み、そしてそれぞれの独自の歴史を持つ。その用語を使う場合、行政的な意味だけではなく歴史性・生業・人・豊年祭・地名などムラ・シマを構成する様々な要素を包含した意味で使っている。ムラ・シマの言葉の根底には、そこに生きる方々が歴史の主人公だとする考え方があり、歴史文化センターは、そのことを一貫して貫ぬいてきた。ムラ・シマは歴史文化センターの根幹に関わる言葉のひとつである。因みに今の村(ソン)は明治41年まで間切(マギリ)であった。(詳細は『なきじん研究 1』参照)


2003.1.28(火)
 

 この辞令書は新城徳祐氏の写真資料の一点です。康煕五十六年(1717年)首里王府から久米島仲里間切の比嘉仁屋に比嘉大屋子を給わった辞令書である。『沖縄県の地名』(平凡社)に康煕五二年九月十三日比嘉親雲上が比嘉大屋子に補任された辞令書(与座家文書)があるが、下の辞令書と同一か、あるいは同一人物か未確認。
   
  首里之御詔
    久米仲里間切
    比嘉大屋子者
    比嘉にや給之
  康煕五十六年丁酉四月七日

 
   ▲久米島仲里間切比嘉大屋子叙任辞令書(1719年)


2003.1.25(
 
 今帰仁グスクは桜見の車で一日中ラッシュ状態。歴文の駐車場と公園で弁当を広げて花見気分の家族が・・・。沖縄では桜の下で筵を敷いてご馳走を広げての桜見の習慣がありません。今日は天気がよかったのでピクニック気分での「今帰仁上い」だったのでしょうか。
 「桜の見ごろや何分咲きか?」の問い合わせが多いです。パソ姫は返答に困っています。今年は一斉に桜が咲きません。台風の影響で足並み(咲き並?)がマチマチですので。でも、今が見ごろですよ。

 今日は『ムラ・シマ講座』の冊子の製本。大半が綴じまで終わりました。後は裁断で完成なり。ごくろうさま。

 ということで、今日は軽い書き込みで終わりです。明日はいい休みを!!
    (どこに行こうか思案中なり)
    (締め切り原稿が二本あるなり。今晩で仕上げます。S新聞殿)


2003.1.24(土)

 
これから酒田市に行く「少年の翼」のメンバーに「今帰仁を知ろう」「酒田を知ろう」の講話あり。どんな話にしようか。これから会場まで30分、車の中で考えましょうかね。昨年の酒田のことを思い出しましょうと。
  今日の書き込みは明日にでも。それ急げ!!

 台湾の史料調査の方々が来館。広瀬教授をはじめ黄さん、東山さん、鍾さん、栗原さん、藤波さん。興味深い話いっぱいできました。また、ごゆっくりどうぞ。台湾の少数民族のこともっと聞きたかったですね。時間がなくて。


2003.1.24(金)

 
午前中、名護市立屋我地中学校の30名余の生徒達がやってきた。今帰仁グスクについて学びたいとのこと。まずは、屋我地にある屋我グスクの確認。ニ、三名が知っていた。この屋我グスクは私にとって非常に大事なグスク。はじめて発掘調査に関わったのはこのグスクだから。20数年前のことだが、その経験は今につながっている。そこからいろいろなグスクについての話。さて、このようなグスクから出土するのが、歴文に展示してある数多くの遺物。島国の琉球と周辺の国々との関わり。
 各地のグスクがまとまり、山原では今帰仁グスクが北山(小国家)の拠点となったこと。中国や日本、そして東南アジアとの関わりについて。などなど
 そしてオランダ墓に埋葬されているのはフランス人でありながら、何故オランダ墓と呼ぶのだろうか。そんな素朴な質問に答える。1846年に運天に商館をつくりは屋我地と古宇利島を出島にする計画があったことなど。

 歴文の展示をみた後、今帰仁グスクへ。桜がチラホラ咲いた気持ちいい日和。中学生達の目に今帰仁グスクがどう映ったか。輝いた中学生達の目がありましたね。「歴史を学ぶことは、自分の今をきちっと確認することなのだ」と、そのような意味の報告があった。しっかりした報告であった。ありがとう。

 平敷で行われていたシグ。シグが行われていた平敷の御嶽までいってきた。そこでシグが行われていたのかと場所の確認。お宮を出て行く場面があるが、お宮は鳥居のことでしょう。そこでシュク(スク)の豊漁願いをした場所だということ。それがわかると平敷の神アサギやナーが不思議とまた違った視点で見たり語ったりする場になった。天底や上運天、さらに古宇利島のサーザーウェー(ピローシ)をこれまでとは異なった視点と複数の祭祀を海神祭同様一つにまとめようとした痕跡がそこにも見ることができる。一生忘れることのできない場所となりそうだ。

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   ▲シグの時出て行くお宮(鳥居)    ▲シグが行われた平敷のアサギナー

2003.1.23(木)

 『ムラ・シマ講座』の冊子の印刷・製本にうし丸さん、パソ姫さん追われている。300頁余だから、けっこうなボリューム。それも手作りじゃ。それが済まないうちに、もう一冊の編集・印刷・製本がやってきます。インフルエンザが流行っているので気をつけていきましょう。両姫さん達は何やら「予防だ」と言ってお茶代わりに飲んでいるようだ。

 外交の多い日が続いている。いろいろ難問がやってくると山となっている書物群のある研修室で資料探しをする。前から気になっていた祭祀の報告を目にしたので、どこかに行ってしまう前に掲載しておきましょう。それは旧暦6月25日に行われていた今帰仁村平敷のシグという祭祀である。話には聞いていたのだが、今では消え去っている。この記録をもとに聞き取り調査で、祭祀の様子を再現可能かもしれない。『沖縄の伝統年中行事実態調査報告書』(昭和50年10月発行)に収録されている。

   ・名称  シ グ
   ・今帰仁村字平敷
   ・旧暦6月25日
   ・海幸の寄物の祈願で貢物(ユイムン)が今年も二倍、三倍も寄ってく
    るようにとの事である。
   ・行事の概要
       お祭は午後から開始され、青竹二本(特に決ってはいない)を
      16米位に面をとって立てて、これに縄をしばる。アサギのミツクヮ
      とアサギヌチックヮは、竹が倒れぬように根元を押える。神女は
      多勢出てきて「ヤーレーホー」と大声をかけて縄を押したり引い
      たりする。次に太鼓を先頭にたたきながらアサギを三回まわる。
      続いてアサギのあるお宮の中を外に出て一巡してくる。
       これは海にいる雑魚のシュクを囲ってきたのだと云う。再びア
      サギに出てジーサシの男二人が縄をひろげて持って神女も一緒
      になってシュクにみなした子供達を追っかけて捕獲しようとす
      る。子供達は捕獲されまいと逃げ回る。神女は互いに奇ラーテイ
      クユラーテークを唱えながら前後左右から囲むようにして捕まえ
      る。
       捕まえた子供は仰向けにされて両足をとられて左右にゆす
      ぶる。これを「シグスン」とか「シグサリン」または「シグピチュン」
      ともいう。
                    *シュクはアイゴのことと注がある。

 旧暦6月25日頃に行われる天底や上運天や古宇利島のサーザーウェーと比較してみると面白い。詳細な検討はまだだが、スクを囲む所作や子供を捕獲しようとするのは古宇利島でのピートゥ捕りのピローシ部分に相当するのかもしれない。平敷でシグと呼んでいる祭祀は他地域のサーザーウェーと似通っている。古宇利島のサーザーウェーの最後の場面はピローシと呼んでいるが、平敷ではシグと呼んでいるのかもしれない。意味不明のピローシを解くヒントがそこにあるに違いない。それにしてもシグの意味もすぐ浮かんできませんね。難解な言葉だろうか。あるいは単純な意味かもしれない。なかなか面白い意味解きになりそうだ(答えは、すでにありました)。

[シグはシュクなり]
 シグはどうもシュクのことのようだ。報告の後方に「シグスン」「シグサリン」「シグピチュン」ともいうとある。シグがシュクであることの糸口はそこにある。
    ・シグスンは「シグがくる」(シュクがやってくる)
    ・シグサリンは「シグをさらう」「シグをすくう」(シュクをすくう)
    ・シグピチュンは「シグがひく」「シグが寄る」(シュクが寄ってくる)
つまり、シグはシュク捕りやシュクが寄ってきますようにと、海の幸(寄り物)への祈願である。

 古宇利島のピローシの場面はイルカを捕獲する場面がある。海豚(ピートゥ・ヒートゥ)を捕るとか、ピートゥが寄るの方音がピローシと表記されているに違いない。ピローシは「イルカ捕り」や「イルカが寄る」ことを願うことからきた名称とみてよさそうである。


2003.1.22(水)

 伊平屋出身という方が来館。わざわざ那覇から。シカマについての調査であった。シカマと出てくるとウェーキがすぐ出てくる。ウェーキは富豪とか金持ち、あるいは地持ちのこと。ウェーキの元で働くシカマはいろいろな形態があるようだ。例えば金を借りて、その利息分だけ労働を提供したり、田畑を貸してもらって小作料のかわりに月に何日か通って働くことをシカマという。いろんな事例をあげての話となった。伊平屋島ではシカマの言葉そのものが死語になりかけているようだ。話の途中で古宇利島のウンナヤーの話に関心が移った。

    古宇利島の旧公民館の近くにウンナヤーという屋号の家がある。
   今は空き家になっていて位牌と関王の図像がかざられている。建
   物は昨年の台風で大分傷んでいる。
    ウンナヤーを管理している神人から伺ったウンナヤーにまつわる
   ウンナブシの話を思い出した。ウンナヤーはウェーキンチュ(金持ち)
   だっとそうだ。雇人(シカマ)を何人も使っていたという。暗くなって宵
   の明星が輝くまで働かされたという。そのため宵の明星(金星)のこ
   とをウンナブシ(うんな星)と呼んだそうだ。

 ウェーキでよく知られている羽地村源河の源河ウェーキがある。明治14年上杉県令の一行も立ち寄り「国頭地方、第一の金満家」と表現している。いろいろな逸話が残っている。源河集落の山手の中腹あたりに屋敷を構え、今でも屋敷の石囲いが残っている。かつて富豪であった面影が豚小屋や家の柱を乗せる礎石、屋敷の周りの石垣にみることができる。

 今帰仁村のウェーキやシカマについての調査も手がける必要がありそうだ。

 今日はあれやこれやと館をでることが多く、まとめるのが大変。少し頭を休ませましょうかね(怠けクセがでそうじゃ)。実のところ「謝名城をゆく」を整理するのに四苦八苦中である(まだ、未公開)。


2003.1.21(火)

 午前中、酒田市から20名近い方々が今帰仁へ。今帰仁グスクをみた後歴文へ。沖縄と他府県の歴史文化の違いをまざまざと見せ付けられましたとの声。沖縄(琉球)の複合文化を実感していただければ幸いです。

 午後からは本部町の伊豆見小学校から11名。グスクについて知りたいということで。校区にも陣グスクがあるが、陣グスクを手がかりにグスクを理解させるには至難のワザ。と思いつつグスクについて解説。グスクにはいろいろなパターンがあります。今帰仁グスクのような城壁があるもの、城壁のない名護グスクのようなグスク、陣グスクのような岩の切り立った山、麓に墓のあるグスク。奄美から沖縄本島、そして宮古・八重山までいれると、300から400近い数のいろいろなパターンのグスクがあるということ。
 陣グスクからはいていくと理解できないので、まずは代表的な今帰仁グスクをしっかり見てからだね。本部町伊豆見はほとんどが首里・那覇・泊からやってきた寄留士族である。そのことが親の代、もっと上の代から首里・那覇からやってきたという意識がある。そのため北山へ向かない、首里・那覇の方に向いているのが、子供達は無意識であるが話しているとヒシヒシと伝わってくる。さっと切り替えて・・・・

 
 ポカポカ陽気の中、名護市から大宜味村の謝名城(ジャナグスク)へ。謝名城は国頭地方(後の国頭間切と大宜味間切)の拠点となった根謝銘グスクのある字(アザ)で、大宜味村(ソン)の北側に位置しています。
 謝名城は明治36年に根銘村と一代村と村が合併、三つの村から一字づつとって謝名城村、明治41年に大宜味村字謝名城となります。合併し100年余になるが城・根謝銘・一名代と合併以前の集落形態をそのまま踏襲しています。足が向いたのは、北山の時代(三山時代)の名残りと国頭地方をまとめあげ、国頭地方の拠点となったグスクを肌で感じ取りたいというのが私の内側にあったのでしょう。謝名城の詳細は「謝名城をゆく」で紹介します。

 まずは一名代(テンナス)の集落を歩いてた。集落の前方に、かつての水田地帯が広がっていたことがすぐわかる。ここを訪れたのは、一名代あたりまで水没させてみたらどうだろうか。喜如嘉の集落前方のかつての水田地帯を陥没させてみる。入り江にしてみたとき、グスク時代のムラの展開が見えてくるのではないか。
 集落の前方を一名代川が流れている。中流域から喜如嘉の川になるのだろうか。川が字(アザ)の境界線になっているのかもしれない。川の右岸は一名代の人たちの土地に違いない。

 上山公園に登り、そこはムラの人たちのゲートボール場になっていた。ゲームをする人の姿はなかった。寒い冬のせいだろうか。上山農村公園は昭和52年に整備されたようだ。集落の上の方から降りてみた。細い急な坂道は、老人のためだろうか小幅な階段にしてあった。空き家が目立った。正月間もないせいだろうか、庭などは草が刈られ、家主が帰って来たのだろう。斜面の階段を降りきったところにカーを見つけた。「あ、カー散歩は、放り投げてあるな。締めっくりをしなといけないな」と、変なところで反省させられてしまった。

 家の前や川の土手に花が生けてあるのが目についた。ちょうど、集落を降りきったところで耕運機で畑を耕していた一人の70歳くらいの方が、ちょうど手を休めていたので声をかけてみた。「あちこちに花が生けられていますが、あれはなんでしょうか?」「あー、あれか。昨日はあの世の正月ですよ。ミンサーと言って、昨日やったもんだよ」と教えてもらった。「あ、あ、そうか。昨日は十六日なんだ。後世の正月だったのですね」と、お礼を述べながら一人苦笑してしまった。「後生の正月だったのだ」自分自身に言い聞かせた。

 集落の前を流れる一筋の水路の前で「これ、名前ありますか?」「用水路と呼んでいます。いい水ですよ」と誇らしげにいい放った。その老人の一言で一名代(テンナス)の集落が好きになってしまった。「以前はみな田んぼだったのだが、砂糖キビになったが、割りにあわんからアタイグァーに野菜を植えているのですよ」と。少し離れた畑では老婦がインゲンマメの収穫をしていた。

 「この川の名前は何というのでしょうか?」「フプハガーというが、ティンナスガーと橋には書いてあるよ」と指差してくれた。その橋までいくと、確かに漢字で「一名代橋」、反対側に仮名で「てぃんなす橋」とあった。近くに丸い形をした分水を見つけた。上流部から水路を引いて橋のところで一名代の集落の方と、川を越えて喜如嘉方面へ流し込む水路への分水である。

 一名代から城(グスク)集落へと車で登り、根謝銘グスクと城集落、そこから降りて根謝銘集落へと回り、集落の中を歩いてみた。そこは「ムラ・シマをゆく」に譲ることにする。
    
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上山農村公園から一名代の集落を望む     ▲集落の前を通る水路

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▲二手に水を分ける分水        ▲集落内にあるカー

2003.1.19(
  
 18日(土)は『古宇利誌』の件で古宇利島へ。字誌の進捗とこれからの取り組みについての報告とご協力願いとなりました。目次構成や中身の詳細については触れないが棒打ち原稿で七割程度(約400頁)といったところか。これからが字誌として体裁を整えていく作業(原稿校正・追加・割付・図版・写真など)となります。これから編さん委員の方々の出番となります。もう一方の資金づくりもボツボツ動きださないといけませんね。いい字誌ができます。きっと。

 古宇利島に渡る前に30分ほど時間があったので運天の崖中腹にある家型の木の墓まで。崖をよじ登ってみた。船上で「崖に這いつくばっていましたね」との声。ハハハ
 家型の木墓の年代は不明であるが、運天の崖中腹にわずか残っている。文化財指定する必要のある墓である。不特定の方々が拝みをしている。

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            ▲運天港の東側の崖中腹にある家型の木墓

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 ▲運天港の東側にある家墓の内部にある木棺とザフンの木でできた屋根部分

2003.1.18(土)

 昨日歴文の後方にあるクボウヌ御嶽の頂上まで登った。標高約189mのカルスト地形をなした山(ムイ)の一つである。地元ではウガーミやクバンウタキと呼んでいる。クボウやクバはビロウのことで、かつてクバが繁茂していたという。名称もクバに由来しているのだろう。
 「往昔の世、新神が出現するとき、八、九月の間、黄凉傘がアフリヌハナ嶽(今帰仁間切謝名村)に立つと、赤凉傘がクボウヌ嶽(今帰仁間切今帰仁村)に立つ。逆に黄凉傘がクボウヌ嶽に立つと赤凉傘がアフリバナ嶽に立つ。また国頭間切のアフリ嶽に立つこともある。・・・・十月になると神の出現あり。・・・」とあり、クボウヌ御嶽は琉球国の国家レベルの御嶽の一つであった。

 国家レベルの祭祀は近世になって廃止されたようである。おそらく、廃止は今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族が1665年に首里に引き上げることを許されたことと無縁ではなかろう。というのは、このような国レベルの祭祀を掌っていたのは今帰仁阿応理屋恵だったのだから。監守引き上げが許されなかったのは、阿応理屋恵が掌るこのような重要な祭祀があったからではなかったか。
 今では今泊(今帰仁ノロ管轄の今帰仁村と親泊村)が旧暦5月15日と9月15日にウプウガンやムラーウガンの祭祀が行われている。かつては大勢のムラの人たちが参加し、今帰仁ノロの祈願はムラ(あるいは国)の繁盛、五穀豊穣、航海安全である。クボウヌ御嶽への遥拝場所が歴文の入り口にあり、御嶽まで行けない方々はそこで遥拝する。
 
 世界遺産となった今帰仁グスク、隣接して琉球国レベルで行われていたクボウヌ御嶽での祭祀。このような文化遺産と隣接して山を削りとろうとする計画がある。世界遺産にあげた時、バッファーゾーンをもっと広げて欲しいとの要望もあるわけで、範囲を広げて保護していこうというなら理解できるが、削り取りたいとの計画なら許されるものではない。 


     ▲歴文からみたクボウヌ御嶽(標高189m)

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▲クボウヌ御嶽の頂上から麓をみる。左側の写真に歴文、右側に今帰仁グスク

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▲御嶽の麓に広場の香炉(イビヌメーか)     ▲中腹にあるイビ(香炉がある)


2003.1.17(金)

 
最近各地の石灯籠が気になっていた。国頭村の辺戸・比地、そして今帰仁グスク内の石灯籠。それと拝所の「奉寄進」と彫られている香炉。以前、触れたことがあるが、石灯籠が置かれると大和めいて沖縄(琉球)の御嶽やカーなどにはそぐわないし違和感がある。それだけでなく、近世(薩摩軍の琉球侵攻)以後、琉球は薩摩に支配されていることを隠蔽している。その中で大和風の石灯籠の設置が何故許されたのか。違和感があるのと同時に関心の引かれるところである。大和めいた石灯籠から近世の琉球の薩摩の琉球支配の一面を見ることができる。各地に石灯籠が設置できた按司や王子クラスの首里王府の役人。大和上りは誇りであり、石灯籠の設置は無事の帰国だけでなく権力の象徴でもあったのであろうか。

 『心得書』に「すべて、薩摩を琉球属島中の宝島と濁し、一切のやまとめきたるものが、万一支那人の目に留まり、詰問を受けた場合には、宝島人と交易して、手に入れたものと、弁解する事になっている」(東恩納寛淳「中山世鑑・中山世譜及び琉陽」『琉球史料叢書五巻』解説47頁)。また「一切のやまとめきたるものを撤回隠匿し、撤回しがたき、石灯爐や、手水鉢の類は、宝島人が海上安全の祈願のために、奉納したものとして弁疏させることにした」とある。なるほど・・・・
 糸数城に「玉城按司御上国付御供
        糸数村太田仁屋
        嘉慶二十五年七月」
の石灯籠がある。『中山世譜附巻』に「嘉慶二十五年に慶賀に玉城按司朝昆が六月十一日薩州に到り、十一月二十二日に帰国した記事がある。糸数村の太田仁屋が玉城按司の上国に御供し、糸数城に石灯籠を寄進している。文献と石灯籠の年月日からすると出発するにあたり寄進する場合と、無事帰国した後に寄進する場合がありそうだ(他の史料の確認が必要)。

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 ▲座喜味親方寄進灯籠  ▲今帰仁グスク内にある石灯籠の銘(拓本)
      (『金石文―歴史史料調査報告書』より沖縄県発行)
  

2003.1.16(木)

 
10時半から天底小学校の授業とあいなりました。火曜日のスライドでの話をベースに。人数が多いので5年、6年の二つのクラスに分けて。5年生はうし丸さんが担当。6年生は私が受け持ち。テーマは「地域を見る眼(こころ)」にした。40年から50年前の時代を前回はスライドを使って。今日は具体的に道具を通して地域を見ていく。地域を見ていくことはどんなことなのか。どんな時代にでも、スーと入っていける感性。第三者的に批評していく感性ではなく、自分の問題として気づかせることを目的とした。
 シチタンバク(石油缶)で水を担いでいる兄と妹の場面。ヘラや斧などの道具を使って、また一枚の写真からいろんなことを考えてもらった。5年生は大北墓と今帰仁グスクを結びつけていくなどなど。

 「今帰仁ミャークニー」のビデオテープができたので出演者に配布。お礼を言われて恐縮しています。

  今日は、これから「渡喜仁の字誌」の編集会議です。それ・・・・急げ!!


2003.1.15(水)
 
 名護市仲尾をゆく。仲尾にある勘定納港。北山が中山の連合軍に滅ぼされた時、山原の国頭・名護・羽地・金武の按司達をはじめ中山の軍勢が終結した港だと伝えられている。そこに終結した軍勢が海路と陸路に分かれて今帰仁グスクを攻めたという。そのこともあって度々訪ねるのだが、その痕跡は未だ見つけ出すことができない。それは伝説のことなのかもしれない。そうであれば、見つかるはずがない・・・・
 それとは別に近世の琉球国の四津口(那覇・湖辺底・運天・勘定納の四つの港)の一つであることに間違いない。これまで描いてきた津口(港)の常識を覆す港に違いないと考えている。そういう空想めいた発想を胸に秘めながらの「仲尾ゆき」であった。はたして・・・・・(名護市仲尾で紹介)。

 旧羽地村(羽地間切)地域の森や拝所に石積みの祠をみることができる。香炉が置かれたところもあるが、丸い人形の形した石が置かれている場合が多い。ビジュルではないか。仲尾次の中城(ナカグスク)には二基ある。中腹に一基、そして頂上部の広場に一基。そして親川のメーダムイに一基。田井等・稲嶺にもある。
 水田の広がる羽地間切域に集中してあるものなのか興味深い。もう少し分布と、その広がり、そして祠の内部が香炉なのか、それとも人形の石なのか。また、どの祭祀と関わりがあるのかなどなど。

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▲名護市仲尾次の中城の中腹の祠    ▲中城の頂上部にある祠


2003.1.12(
   
 
天気よし。今帰仁グスクに二度あがりました。桜の咲き具合と火神の祠の前にある石灯籠に刻まれた文字の確認でした。二度目は昼頃から浦添市の歴史ガイド研修の方々への研修でした。グスク内の桜はまだこれからです。天気がよく暖かったので大隅(ウーシミ)の城壁を画像に取り込んでみました。海も空も美しく、のどかな一日でした。

 石灯籠は国頭村の辺戸や比地、そして名護市真喜屋の「奉寄進」と刻まれた石灯籠や香炉が何故、御嶽などの拝所に寄進されたのか。そのことの確認でもある。
 今帰仁グスクの火神の祠の前の石灯籠は4基あり、「今帰仁王子」や「奉寄進」、そして「乾隆十四年」の年号が刻まれている。石灯籠そのものが、沖縄的ではなく大和風である。

 『中山世譜附巻』に「乾隆十二年丁卯(1747)に尚氏今帰仁王子朝忠を薩州に遣わし六月十一日に到着、翌年三月十六日に帰国した」記事がある。今帰仁王子朝忠は今帰仁按司十世宣謨のことである。薩州(薩摩国)から帰国した翌年(乾隆十四年)に監守来歴碑記を建立している。石灯籠も乾隆十四年なので来歴碑と同時に設置したものである。石灯籠は薩州から無事帰国できたことへの感謝の意で「奉寄進」したとみてよさそうである。

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     ▲今帰仁グスク内の火神の祠前のある石灯籠と監守来歴碑記

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 ▲今帰仁グスクの外郭内に     ▲今帰仁グスクの大隈と城壁(12日)
    ある今帰仁ウーニ(舟)
    と本部ウーニ


2003.1.10(金)

 
この写真は昭和30年代の山原のどこかです。まだ場所が特定できていません。撮影はCloyd Chrisutman氏 1953―1957年沖縄に滞在。今帰仁・名護・屋部・本部・伊江島・宮古などの写真を多く残されています(歴文に所蔵)。1996年に歴文に寄贈いただいた中の一枚です。

 海岸(港?)に積んであるのは薪です。斧で割って同じ長さに揃え竹で束ねたのはワイダムン(割り薪)。マチへ売りに出します。陸路運ばれるのもあれば、山原船で運んだ時代もあります。このようは風景は昭和30年代まで見られたようです。

 那覇のマチでは旧正月前になると、借金取りは金を貸した家を回ったのだそうです。その時、納屋にワイダムンが積んであれば、お金があると判断し借金の取立に家の中まで入っていったそうです。ところがワイダムンがないと、金がないのだなと諦めたといいます。ふふん、なるほど。ワイダムンが買える家は、経済的に、まあ裕福ということなのでしょう。

 薪を商品として売り出す山原の人たちは、山奥まで行って木を切り出し、馬の背に担がせ里まで運び、集積場で斧で割って束にして出したのです。

 
  ▲ワイダムン(割り薪)を集積した港?と馬車で薪を運んでいる(昭和30年頃)

2003.1.9(木)

 
外は暖かい小春日和。しかし館内は冷え冷えしています。館の赤瓦屋根に上ってみるとガジマルが数本根を張っているではありませんか。ニ、三メートルも根を伸ばしている元気者がいます。そのままにしていたのでは、母屋とられてしまいます。ガジマルと綱引きです。瓦が剥がれてしまいます。誰がも上れる屋根ではありませんので画像でお見せ致しましょう。

 二枚目は歴文からみた今帰仁グスクです。もうすぐ、桜が見ごろになります。屋根にかわいいシーサーがのかっているのですが、撮影するのを忘れてしまいました。屋根の樋に溜まった砂やごみを洗い流しました。ガジマルの撤去。すっきりしました。
 近くで採掘の動きがある。それは許されません!!


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2003.1.8(水)

 今晩は『運天の字誌』であるが体調悪くパスである。「今日は休みます」との連絡がつくと俄然元気がでてくる。なぜでしょうかね。

 斧(オノ)は今帰仁村ではヲゥーヌ(wu:nu)あるいはヲゥーヌー(wu:nu:)と呼んでいる。斧にはいくつか形がある。写真の斧は刃・台木・柄の三つの部分に分かれている。刃部分は鉄、台木は樫の木、柄はアデクがよく使われたようだ。この形態の斧は奄美や沖縄で古くから使われているという。
 刃部分は鉄でできておりパー(pa:)とよぶ。刃部分に凹があり、台木が凸になっている。刃と台木が外れないように竹皮を凸凹に挟み込み抜けないようにする。
 この斧で木を伐り倒したり、角材にしたり、薪割りに使われた。刃の部分のみ鉄にしてあるのは、鉄の少ない地域でうまれた知恵だったのでしょう。台木や柄を木製にすることで芯をはずしても手にしびれがこないという利点もあるようだ。何といっても使った時の微妙なバランス、形が気にいっている道具である。近いうちに薪でも割ってみようと。少し手入れが必要だな。生徒達に見本を見せないといけないかも・・・・。

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      ▲ヲゥーヌ(斧二本)           ▲刃と台木部分の凸凹


  ▲ヲゥーヌ(斧)で丸太を角材に  ▲トーニ(豚の餌入れ)を作っている

2003.1.7(火)

 寒い日が続いています。歴文は今日から部屋全体を暖めるためストーブがつけられた。ストーブに乗せたヤカンがシュッシュッと水蒸気を飛ばしています。
 来週早々天底小学校の5、6年生の授業があります。どんな内容にしようか。担当の先生方と、事務的な打ち合わせをしてきました。一回目は学校の視聴覚教室を使い、2回目は歴文を使ってのやることになりました。中身については、これから練ります。タイトルもまだ決めていませんが、楽しい授業にしたいもんだ。60名余りだからね。

 昨日は天気がよかったので名護市の真喜屋と稲嶺までいってみました。真喜屋については小川徹先生がや島袋源七先生の研究があります。琉球大学図書館の島袋源七文庫に真喜屋や稲嶺の風水や土地整理(地割)などの貴重な史料が残っており、それらの史料を使ってみると面白いのだが、現場に合わせてみていくとなかなか手強いです。手がけた方々の多くの声もそうです。

 これまで報告された「真喜屋の研究」そのものが非常に難解です。もう少し単純に見て、そして入いていけたらと考えています。そのために、真喜屋を構成している基本的な集落の景観や御嶽や神アサギやヌルドゥンチやカーなど、ムラを読み取っていける過去を彷彿できるポイントに立ってみることにします。「真喜屋をゆく」で報告しますが、ここでは、御嶽と御嶽の中の植物、御嶽の中のイベ。祭祀を掌る真喜屋ノロの住宅跡(ヌルドゥンチ)など。真喜屋も御嶽―神アサギ―集落を軸として展開している基本的なムラです。
 ここで興味深いのは御嶽の中のイベの向きです。高い山手に向いているのではなく、北?(海)の方向に向かって拝むということです。またヌンドルゥチの火神や位牌などの向きも北側になっています。真喜屋の拝所は、どうも北の方に向かうものと、御嶽に向かう二つの方向性があるのかもしれない。神アサギはメークミドゥンチは御嶽、ウッチ火神の祠やアハチャビの拝所は北向きです。その違いは神の来訪と関係あるのであろう。それは神が一つでなく、多彩な神の存在を観念として認識している証なのであろう(一つに結論づけようとする発想は慎まなければならない)。
 集落の中を歩いてみると神アサギへの神道、放射状に広がる旧集落、集落を中を通る水路、そしてペーフドゥンチやニガミウガンなどの拝所、そしてカーなど、かつての集落がまだ確認できます。
   
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▲真喜屋の「上之御嶽」への上り口       ▲クバが繁茂している
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    ▲御嶽の中の祠(イベ)            ▲真喜屋のろ殿内跡

2003.1.5(

 明けましておめでとうございます。新年もよろしくお願いします。

 年末、そして新年早々、沖縄本島北部(山原)をゆっくりと歩いてみた。スタートは国頭村辺戸からである。ムラ・シマを歩きながら記録していきたいと思いは、11年前の一文にみることができる。ムラ・シマを記録していきたいとの構想は、平成3年(11年前)の以下の一文(「北へのドライブ」(『琉球新報』落ち穂)に見ることができるので、掲載することにする。

   休日になると、午前中三人の子どもたちを引きつれて国頭方面へ
  車を走らせる。山原に住みながら、さらに北の方へと足が向くのは
  どういうことなのだろうか。ときどき自問自答する。
   そのことは、山原と地形が似た久米島や八重山に行ったとき何か
  ホッとするが、その気持ちと共通することなのだろうか。車のハンド
  ルを握りながら時々そんなことを考える。
   北へのドライブは、やはり山原の村(ムラ・シマ)の一つひとつをみて
  おきたいというのが、私の大きなねらいである。ここ一年間、今帰仁村
  の十九のムラやシマを歩き回ってきたが、そろそろ山原全体を視野に
  入れて、今帰仁のムラやシマを位置づけ、特徴づけていかなければと
  考えている。これまで奥・辺戸・宜名真・辺野喜・安田・安波・奥間など
  国頭村の十六字の約半分は訪ねてみた。
    しかし今帰仁村のムラ・シマと比較するにはまだまだである。三人
  の子供たちを引きつれてのドライブは、いつまで続くかわからないが、
  彼らに拒否されるまでは当分続きそうである。
   後部座席の三人のワンパクたちは、車の後ろを走るツーリングの
  オートバイの若者たちにVサインを出したり、グー・チョキ・パーをしな
  がら楽しんでいる。「お友達ができたよ」と得意げである。「暴走族たち
  じゃないの?」と返すと「違う、追い越ししないから優しいお兄ちゃんた
  ちだよ」と抗議してくる。三台のオートバイは国頭村与那で国道58号線
  を右折して、子供たちと別れを告げた。
   車の中の子供たちは、いつの間にか静かになり、そして寝てしまっ
  た。彼らの思いは私とは異なり、辺戸岬の出店でアイスクリームやハ
  ンバーガーやジュースである。「子守だ」と出かけるドライブはひそかに
  一石二鳥だともくろんでいるのであるが、連休を前に「今度は交代して
  みない?」の声が飛んできた。
                               [平成3年5月]

 国頭村辺戸に向かう途中、新与那トンネルの手前の駐車場で車を降りた。曇り空である。世論島や伊平屋島、伊是名島がかすかに見える。今帰仁村の古宇利島は本部半島の先端より陸よりに位置して見える。振り返ると辺戸のアスムイ(安須森)がみえる。天気が悪いので登ることは諦めた。海岸の方に足を運ぶと円形の石段があり、「工夫がなされているな」「おお、トンネルの中でもラジオが聞けるのか」と独り言。
 宜名真にあるオランダ墓を訪ねてみた。クリスマスでムラの方々がオランダ墓の草刈りをしたのだろうか。いつもはオランダ墓の碑を確認して移動するのであるが、車を降りて碑の後方に回ってみた。四角に囲われた墓地跡が、今でも遺されている。周りは座礁したイギリス船のバラストで囲ってある。10本余りの花崗岩がまだあるではないか(宜名真踏査する機会があるので、そこで報告)。詳細な調査がしたいのだが、後ろ髪を引かれる思いで、カヤウチバンタへ。そこには「故當山正堅先生頌徳の記」(1958年建立)の碑がある。その文面は省略するが、どうもこの石碑もイギリス船のバラストに使った花崗岩(宜名真のオランダ墓)ではないか。きっとそうに違いない。

 目的地の辺戸に、なかなか到着しませんね!!

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▲新与那トンネルからアスムイをみる ▲新与那トンネル駐車場の護岸

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▲国頭村宜名真にあるオランダ墓碑 ▲オランダ墓の様子とバラストに使われた石

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 ▲カヤウチバンタからみた宜名真の港と集落  ▲「故當山正堅先生頌徳の記」の碑