今帰仁村勢理客                        トップへ



【勢理客】(なきじん研究メモ)(2004年2月10)

 勢理客出身の島袋源七氏は『山原の土俗』(昭和4年)でワラビミチについて、以下のように記してある。


    今帰仁村勢理客に於いては毎年旧の七月中旬に行われる。白衣装を着け、白八卷を
    した祝女や神人が字内の祭神「火神」の前に集まり、根神は各一門中から集めた餅(之
    は甘蔗の葉に長く包んだもの二包づゝ)を捧げ、氏子から集めた米(一合)で神酒を造ら
    せ、それを神前に捧げ、尚お藁を束ねて此藁の数にも増して子孫を繁昌せしめて下さい
    と祈願し、それが済むと各氏子は神さまのおさがりの餅と神酒とを戴いて帰る。
     此所を引き上げて、神アシアゲの庭で獅子を躍らせ、宴を張り、一日中面白く遊んで
    帰るのである。獅子舞は健康を祈るもんだと伝えている。

 このワラビミチはワラビミチと大ユミと合体した形で現在でも行われている。勢理客ノロは湧川の神アサギまで行って祭祀を行う。近世に創設された湧川村も含めて勢理客・上運天・運天の順で祭祀を執り行っている。現在は火神というより、神アサギとアサギナーで行っている。

 勢理客ノロ殿内跡にあるワラザンは昭和初期から子孫繁昌を願って納めている。そのワラザンを納めることは、今でも行われている(藁をさがすのに苦労しているようだ)。



  ▲今帰仁村勢理客の御嶽の中のイベ        ▲勢理客の神アサギ

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   ▲勢理客ノロの簪(二本)         ▲「の 石かき原」の原石


【勢理客】(なきじん研究13号メモ)(2004年2月8日)

 勢理客は今帰仁村の東側の字(アザ)である。方言でヂッチャクと呼ばれ、「おもろさうし」で「せりかく」と登場する。宮城真治は、ジッチャクはシリサクで「後の谷」と解している(『沖縄の地名考』70頁)。今帰仁村玉城にマッチャクがあり(乙羽トンネルと呉我山トンネルの間)、マッチャクの地形からチャクが谷間や盆地であることがよく理解できる。宮城真治はジッチャクのジッをシリ(後)を理解している。マッチャクのマッはマリだろうか。マリ(マリー:真利)は他の事例で丸いや毬(マリ)と理解する方がおられる。そうであれば、マッチャクは丸い谷間、円形の窪地ということになる。

 現在の勢理客は立増原・中道原・石垣原・吉事原の四つの小字(コアザ)からなるが、昭和15年までは渡喜仁も勢理客の内であった。

 勢理客は「おもろさうし」で謡われるほどの勢理客ノロ(別名シマセンコノロ)を出した村である。ノロ家には現在でも二本の簪(カンザシ)が残っている。勢理客ノロは『琉球国由来記』(1713年)に島センク巫(勢理客巫)と登場し、勢理客村・上運天村・運天村の祭祀をつかさどっている。現在でもノロ管轄村は踏襲されている。

 勢理客ヌル殿内(ノロ家)から今帰仁間切の役人を多く出している。「勤書」や「元祖行成之次第」などの古文書に兼次親雲上・諸喜田親雲上・奥間親雲上・古宇利親雲上・湧川親雲上など役職を勤めた人物の名がみえる。

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 ▲今帰仁間切勢理客村全図(渡喜仁部分は略)  ▲字勢理客の小字区分図


【勢理客ノロの簪(カンザシ)調査】
2006.07.20メモ)

 今帰仁村字勢理客に勢理客ノロ家がある。ヌルドゥンチあるいはヌンドゥンチなどと呼ばれている。ノロ家はスクジャヌヤーとも呼ばれている。勢理客ノロ家に二本の簪がある(一本は竿がない)。竿のついている簪は85グラム、竿なしは45グラム。同じ家に簪が二本あるのは稀である。今回の調査は「沖縄の金工品関係資料調査に係る現地調査」で、実測と写真撮影が主である。私は簪の模様や技術的なことは全く知識をもっていないので傍で様子を見ているだけである。その間、ノロ家の娘である充代(津波古)さんと神行事や屋号などの話を伺う(ノロ家には長時間の調査、ご協力いただきありがとうございました)。

 ノロ家には簪(カンザシ)のほかに地方役人に関わる文書のある家である。戦前、ノロ(家?)はハワイに引っ越していったとのこと。勢理客ノロ家の家文書はハワイ(故湧川清栄氏)から故比嘉春潮氏経由で琉球大学図書館(比嘉春潮文庫)にはいている。比嘉春潮氏経由で地元出身である故島袋源七氏が一部再写本されている(琉球大学図書館島袋源七文庫)。

 簪そのものについて述べるすべは持っていないので、島袋源七氏が書き写された『諸事日記 勢理客村大城にや』(大清嘉慶拾壱年丙寅正月吉日)から、ノロに関わる部分について拾いあげてみた。島袋源七氏は『諸事日記』を写され勢理客ノロ家に奉献されている。島袋源七氏は「奉献 嶋せんこあけしの祝女こもり御霊前 昭和廿年八月十二日 嶋袋源七」と書き記してある。

 『諸事日記』には「一 元祖行成之次第 一 方々御拝所 一 井川水撫所 一 諸事日記」 とあるが、納められている文書のタイトルと必ずしも一致していない(ノロと関わる部分のみ抜粋)。

 「御霊前写」
      嶌スンコノロクモイノ夫
   一 雪松玄栄禅定門 康煕元年壬寅十一月初五日
      嶌スンコノロクモイ
   一 神梅妙英禅定尼 康煕六年丁未十二月十八日
      嶌スンコノロクモイ女子
   一 雪岩妙白禅定尼 康煕十三年甲寅十二月初八日

 「元祖日記」
       乾隆二十二年丁丑五月二十日去
   一 神嶋せんこのろくもひ終吊済 蒲戸

 勢理客ノロは「おもろさうし」で「せりかくのろの あけしののろの ・・・・ うむてんつけて こみなとつけて」と謡われ、古くからよく知られたノロである。勢理客ノロの管轄村は勢理客、上運天、運天で、後に湧川まで管轄するようになる。二本の簪は二度焼けたという。一度はノロの継承争いで衣装なども焼き払い、それと大戦で家が焼かれたという。ただ、簪の状況から見ると直接火にかかり、熔けたような痕跡は見られないので蒸される程度だったのかもしれない。

 『諸事日記』に記された嶌スンコノロクモイ(勢理客ノロの別称)の一番古いのは康煕元(1662)年である。勢理客ノロは1662年以前から継承されてきたと見られるが、山原では『諸事日記』にある年号(康煕・雍正)あたりから墓室の厨子甕に銘が記され、あるいは位牌が設けられる(間切役を含む平民層)。今帰仁間切の中城ノロ家には万暦のノロ辞令書をはじめ、ノロ家の役人に嘉靖、万暦の古琉球の辞令書(4点)発給されているので、勢理客ノロ家も古琉球まで遡ることができるにちがいない。

 
          ▲竿のある勢理客ノロの簪の模様(85グラム)

 
          ▲竿のない勢理客ノロの簪(45グラム)


▲今帰仁村勢理客の勢理客ノロ家での調査の様子


ムラ・シマ講座(2008年7月13日)

 「ムラ・シマ講座」は今帰仁村勢理客。勢理客は方言でヂッチャクと呼び、浦添市や伊是名村などにもあります。勢理客ノロは、「せりかくの のろの あけしの のろの・・・」とおもろでも謡われ、よく知られたノロでした。勢理客ノロをだすムラがどのようなムラなのか調べてみます。集落の形態としては基本的なタイプです。

 勢理客は今帰仁村(ソン)で面積の一番小さい字ですが、昭和12年頃までは今の渡喜仁あたりまで勢理客でした。また勢理客ノロは勢理客・上運天・運天、そして湧川などの祭祀を管轄しています。ワラビミチの時、湧川から勢理客、上運天、運天までゆき祭祀を行っています。

 勢理客にウタキがあり、神アサギ、ノロドゥンチ跡があります。ウタキから下の方に集落が展開します。規模の小さい集落です。集落の上の方にあるがのがウイヌハー、下方にあるのがヒチャヌハー、そしてかつての水田のあった付近にあるのがヨシコト(ユチユットゥガー)です。

 ここから勢理客のウタキを見つけることができるでしょうか?!前回行ったスムチナウタキも見えます。その違いは? ウタキを構成する基本的な要素を確認します。

  ・勢理客のウタキ(イビ・銘のある香炉)
  ・神アサギ(タモトギ)
  ・勢理客ノロドゥンチ跡(ワラザン)
  ・ウイヌハー
  ・ヒチャヌハー
  ・ヨシコトガー


     ▲勢理客のウタキはどれでしょう? ▲ウタキの中を見ます(祠はウタキのイビ)


            ▲勢理客のウタキのイビにある香炉(二基)

  
  ▲勢理客の神アサギとノロドゥンチ跡 ▲神アサギ内の香炉とタモト木  ▲ノロドゥンチ内のワラザン



【おもろさうし:せりかく】(2003.5.4)

 
「おもろさうし」(第14巻46 No.1027)に、次のような古謡がある。その中の「せりかく」は今帰仁村の勢理客、「うむてん」も同じく今帰仁村の運天のこと。そして「かつおうたけ」(嘉津宇岳:標高約448m)は現在は本部町伊豆味に位置している。1665年以前は今帰仁間切のうちの嘉津宇村(近世になって村を移動)にあった山である。嘉津宇村のあった場所は今でも古嘉津宇と呼ばれている。

 一 せりかくの のろの   (勢理客の ノロの)
     あけしの のろの    (蝉の ノロの)
     あまくれ おろちへ   (天雨 降ろして)
     よるい ぬらちへ    (鎧を 濡らして)
  又 うむてん つけて    (運天に 着けて)
     こみなと つけて    (小港に 着けて)
  又 
かつおうたけ さがる (嘉津宇岳に 下る) 
     あまくれ おろちへ   (天雨 降ろして)
     よろい ぬらちへ    (鎧を 濡らして)
  又 やまとの いくさ     (大和の 戦さ)
     やしろの いくさ     (山城の 戦さ)

 「かつおうたけ」(嘉津宇岳)は麓から、あるいは遠方からいつも眺めている。六合目あたりに駐車場があるので、そこまで車で何度か来ているが、頂上部まで登ることはなかった。今回は意を決しての登頂であった。
 頂上部は古生代石灰岩を中心とした岩石からなるが、ケイ岩や粘板岩も見られる。駐車場から頂上部まで結構な勾配と岩場である。若者や元気者にすれば、あるいは本土の山登りを経験した方々にとってはかわいいものかもしれない。国頭村辺戸の阿須森や今帰仁村今泊のクボウの御嶽より険しい。登り口に杖が数本置いてあった。登った経験のある方が「どうぞ」と親切心からに違いない。遠慮なく使わせてもらった。ありがたや。ありがたや。

 頂上には、すでに豊見城市から来たという一家?が記念撮影で大声をあげているのが聞こえた。タイマーにしているようだが、どうもタイミングがうまくいかないようだ。「シャッターを押してくれますか」とお願いされた。今度は私に「記念に撮ってあげますよ」と。「では、ではお願いします」(画像に入れるか迷っています。上等に写っていたら・・・。先日新聞のコラムに顔写真が掲載された。すると「誤魔化していますね」ときた。それは10年前の若い頃の写真でした。気持ちは今も昔も変わりません)。

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 ▲豊見城市からきた一家?(頂上にて)      ▲「気持ちは今も昔も一緒ですよ」

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 ▲嘉津宇岳からみた今帰仁方面       ▲嘉津宇岳からみた名護市街と名護湾