【戦争体験記録】2                            戦争体験記録 1
                                          2020年6月へ


4.仲嶺盛仁(今帰仁村仲宗根)

・本部町伊豆味から乙羽岳へ
 乙羽岳へ登る裏斜面には大きな岩場があってそこを渡って行ったが、数え73才のウンメーは杖をついており、岩場で転んで眼のふちに切り傷が入った。老いたウンメーはなんといたたましい姿だったことか。二女良子が健二の子守役としてつけられ、良子におんぶされ栄養のとれない叔母さんにオッパイの出る筈がなく、敏子はおなかをすかして泣き続けた。

 乙羽岳へたどりつくと部落の見える斜面に野宿した。大人はみんな姉達も含めて女だった。女と子供の一族の集団である。はじめて寝る山の斜面は寝心地の悪いところだったが、真夜中に雨が降り出してずぶ濡れになった。4月も半ばを迎える頃で寒かった。赤ちゃんの敏子も一緒である。敏子の生命力を考えると驚嘆である。乙羽岳の夜明けは凄かった。はじめての体験であったが、一面霧が立ち込めて視野不良となっていた。そんな中で長女敏子が御飯を炊いてもってきていたが、十分炊けておらずグヮーグヮーだった。ずぶ濡れの中でどんな風に火をおこしたのか不思議である。

 雨があがってきて視界がよくなった時、天底あたりを見ると、なんと米軍が大通りを一列になって歩いているではないか、初めて見る上陸米兵。みんなを呼んで見せた。盛治と二人で小屋を作ろうと思い立ち頑張ったがなかなか作れない中、セイグヮヤーのタンメーが作った小屋をもらったが、空がよく見えていた。タンメーは情報を得るためと言って部落へおりて行ったが田んぼで米兵と出会い、止まるようにという米兵の命令を無視したため射殺された。これから後、食糧難や特にマラリヤにおかされることなく一人暮らしのタンメーの苦難は終わった。

・伊豆味の様子

 二、三日あとに誰かが老人を残してきた仲原家の壕へ様子を見に戻ってみた。驚いたことに老人達は元気で私達が出た後すぐ米兵がやってきてお菓子などをあげ、心配しないようにと手話で伝え去って行ったおとがわかった。老人の一人にトゥカシキ(渡嘉敷)のおばあちゃんがいて、貰ったお菓子は孫の宗昭君の手に渡っていたが、きっと毒入りだと言われて食べずに持っていたが、タツミヤの叔父さんが見て「ほう、チョコレートだ」と受け取り、私達の目の前でムシャムシャ食べてしまった。米軍は住民に決して殺すことはしないという話が乙羽岳の避難民に急速に広まっていった。

 八重岳の宇土大佐率いる宇土部隊は、大砲二門をもって伊江島飛行場への援護射撃を任務としていたが、一米軍は伊江島の攻撃より先に八重岳を包囲一発の大砲の発射もないまま、4月14日夜八重岳を脱出羽地の多野岳へ向かった。後に「宇土部隊の逃げ部隊」と住民に言われていたが、中国で戦争を経験し、彼はこちらでの結末を知っていて弾を打たせてなかったから被害が少なくてすんだと評価する声もあった。

 4月13日の夜我が父盛財は六、七人の防衛隊仲間で竹やり隊を結成し「斬り込み」と称して堂々と脱走してきた。途中歩哨兵がやってきて「山!」と声をかけてきたが、味方の暗号である「川!」と答えた。その昼、どうも軍の様子がおかしいのに気付いた。父の壕の隣に通信兵達がいて盛んに最前線と連絡をとっていたが、次第に連絡が途絶え「あっちもだめ、こっちもだめ・・・」となり、包囲網がせばまっていることに気付いた。その中慰安婦達へ解散命令が出された。父は仲原の英篤叔父さんを呼んで「逃げよう」ともちかけたが、叔父さんは「ヤッチー(兄貴)よ、兵隊が逃げたら後でどうなるか知っているか」と反対したが、「よく様子を見てごらん」と説明したら納得し、同志を募って出て来たという。後一日、遅れていたらダメだったと話していた。

・乙羽岳での様子

 特攻機が連日のようにやってきて、米艦隊を攻撃、軍艦からは一斉に高射砲が発射され空中で爆発して黒煙を残していた。乙羽岳からの目撃である。そんなある日、山の麓で避難民が火をおこして炊事をしていて、その煙が偵察機に発見され、突然砲撃された。至近距離だ。遠方へ飛んでいくのと音が違う。海からの発射音が聞こえたかと思うと、不気味な音を引いて落下して爆発した。発射音を聞いて、この弾で自分が最後になるかと思った。ウンメーは私達がひそんでいた岩場から出てハシヌメーへ行く途中の山頂で、この砲撃にあった。

 大きな岩を背にして座っていると、爆発によって吹き飛ばされた土がさらさらと落ちてきたという。「今日一日生きれば長生き!」と言われていた言葉を毎日思い返していた。栄養もとっていない私達にノミやシラミがたくさんついていた。着物ジラミは米粒ほどの大きさで、卵も白く透明で大きくそれをつぶしていたが、減ることはなかった。用事で近所の照屋の叔父さんが来ていたが、シラミが襟から歩いていた。

・謝名部落(トーヌカ)へ降りる

 食糧が底をつき、一口一食のお粥だけとなった。そんな時、何故か盛治が一人訪ねてきたのを覚えているが、彼も同じようにお腹をすかしているだろうと、見ていたことが思い出される。「山から降りよう」と言うのが父の決断だった。「米兵は人を殺さないから米兵を見たら両手をあげんなさい」と父はみんなに話していた。山からは謝名部落へ降り、仲宗根との境あたりにあった巨大な岩からできたトンネルに掘られた壕へ入った。夜間、仲宗根方向の近くが砲撃されており、もの凄い爆発音が続いた。一夜明けてみると、なんと多くの避難民が降りて集まっていた。そして数百米先の農道を米兵達が大きな声を出しながら通って行った。みんな立すくむようにしてその光景を見ていた。

 そこの壕から部落内へ食糧を求めて決死の覚悟だったと思うが、母ツルと寒川の長女敏子に叔母さんの三人で出かけた。アサギ近くにあったビワ園のところまで来ると、なんと二人の米兵が上半身裸でビワを食べているではないか。引き返すべきか、進むべきか迷ったが母は進む道を選んだ。ぬき足差し足で近づいて行った。いきなり大声で「オイッ」と言うなり裸の背中をしたたか叩いた。敵地にいて不意をつかれた米兵はびっくり仰天、腰を抜かさんばかりに驚いていたという。相手は住民であり女性である。三人は笑顔をつくって手話をはじめた。食料をさがしていると。母は二人の米兵を引き連れて行って食糧探しを手伝わせ、荷物を持たせ、帰りは途中までおくってもらった。したたかに生きた三人の女性である。三人は笑顔で興奮気味で、その模様を話していた。

 翌日、完全武装した米兵20人ほどがやってきた。母等が部落内から帰ってきたその道を通って、みんな壕から出てきて両手をあげた。米兵らの機嫌はよかった。近くで初めて見る米兵、印象は目がくぼんで彫りが深く、誰いうともなくウンチューグヮー(盛銀叔父さん)に似ているということだった。鉄兜をぬいで私にかぶせて笑う者もいた。鉄砲から弾を抜いて私にかまえさせ、引き金を引かせる者もいた。壕の側で銃を抜いて「デーテコーイ デテコーイ」という者もいた。そんな時、空をグラマン機がやってきた。私は米兵はどう反応するかと思い、隠れようとした。米兵は心配ないよと言った素振りで止めてくれた。ここはもう占領地になっていると思った。逆に友軍からは敵地になり「友軍機だ」と山で夜中火を消さずにいたところ、急降下爆撃にあい命をおとした者も出た。住民には米兵は敵意を持っていなかった。そこを去る時、私にチーズをかじってくれた米兵がいたが、毒見をして見せたのだと思った。生ぐさいチーズはおいしくなかった。

 それから諸喜田平吉さんをたよって広い大きい家の裏座敷に同居させてもらった。叔母さん達は確か近くのシチダヤー(イサヤーか)の離れに移って行ったと思う。製糖期を迎えており、一家で農家の平吉さんの手伝いもしたし、家畜もいたので山羊の草刈りの手伝いもやった。部落へ降りてきた避難民たちはカタツムリをよく食べ、貝塚のような山があちこちにできていた。農薬のlない当時のこと、カタツムリはよく繁殖していた。カタツムリにとっても戦争は大変迷惑であった。不況な今でもカタツムリは枕を高くしてねむることができる。

・成人男子狩り

 やがて、米兵らによって成人男子狩りが行われた。羽地に連れて行って金網の中に入れられた。捕虜と私たちは言っていた。米軍は捕虜を彼らの作業(役務)に使った。米兵がやってくると男子はみんな近くの藪の中に逃げた。女性の拉致事件も相次いでいた。英篤叔父さんや永山の兄さん達はイシジャチ(岩山)に隠れていた。日本兵捜索してすぐ近くまで米軍が来ているのを知らなかった永山の兄さんが、岩場に隠れている最中大きなクシャミをした。近くにでイチゴを食べていた米兵がびっくりして空へ向けてパンパンと鉄砲を撃った。兄さんはびっくりしたと思うが、米兵もびっくりしてのことだと思う。

 一度部落から山にかけて米軍の大規模捜索があり、寒川のおじいちゃんと三男の将さんが網にかかって連れて行かれ夜になっても戻らず、羽地の金網の中に入っていることがわかったが、将さんは捕らわれの身でありながらサトウキビを美味しく食べて、私を見てニコニコしていたが、心配ではないのかと思った。その時父は平吉屋の裏座敷で病人になって母達に熱もないのに水で濡らしたタオルを額において看病させて難を逃れた。米兵の急な来襲であったが、機転の速さは見事であった。

 部落民の私達には米軍から夕方何時頃から乙羽岳の砲撃をするから近づかないようにという情報が入った。また私達は今帰仁小学校付近にいる戦車隊が乙羽岳を砲撃するのも自由に見せていたので、見に行った。軍事での秘密主義をとる日本軍と大らかな米軍との差がはっきりしていた。

 次第に情勢が落ち着いてきたので、私たちは謝名ウイーバルの平吉(諸喜田)さんの所より焼け残ったタモウシ(玉城)の岸本のアヤーの所へ移った。叔母さん達はシチダヤー(諸喜田家)に残っていた。12坪ほどの茅葺の家には四所帯17人ほどの人が入っていた。

 運天港に上陸した海兵隊は軍用トラックに乗ってこの岸本家の前の道路を通ってひっきりなしに戦線へ送られて行った。こうして部落内にいる米軍とも仲良くなり気心も知れるようになった。部落の人達の中にはせっせと山中にこもっている日本軍に食料をもっていく者がおり、この人達から目をつけられた人がスパイ容疑で殺されていった。かねてこの人達は米軍のスパイだと言われていた与那嶺家の老人三人が真夜中に呼び出されて、刀で惨殺されたが、隣近所だったのでショックだった。この種の悲劇も沖縄戦の特徴で、あちこちで起こった。体に地を染めて倒れていた三人の姿をはっきり思い出せる私達も戦争の傷あとをいつまでも心に残している。ある意味では生き残った人々も被害者だと思っている。逆に米軍に探されているスパイ容疑者もいた。部落の崎山さんもその一人だ。

・収容所へ

 こんな生活をしていた6月□日の朝突然これまで住民に優しい印象を与えていた米軍達が完全武装した、こわばった表情で部落を包囲しはじめた。部落の高台には機関銃もすえた。不安と動揺が広がった。兵士達は部落民に銃を向け始めた。岸本家の私達のところへも兵士が踏み込んできた。「ハーバー、ハーバー」(急げ!)と大声を出し、家宝など大事なものをリュックにしまい込む私達にガチャーガチャーと弾を銃に込める音を聞かせて銃口を向けてきた。ぐずぐずは許されない。これまで何度も見てきた家族総立ちの危機的な移動である。

 謝名ウイバル(前原)のシチダヤー(諸喜田家)にいたら、なんでもなかった叔母さんだが、たまたま用事があって出かけていて、この事件に巻き込まれてしまった。盛治との別離がはじまった。米軍の誘導により子羊の群れである私達は玉城にあった闘牛場に集められた。途中高い所に立って一人ひとり見ていた兵士が父の着物のふところにある四角の盛り上がり見て指さし「何か?」と聞いた。父は取り出してタバコを見せた。

 大きい闘牛場に沢山の人たちが集められ、集められた人々をトラックに乗せ行き先も教えられずに運んでいた。日本軍の攻撃をためらわせるため最前線へ連れて着弾地に降ろすのだという噂が広がった。ありうることだと心配した。このトラックが戻ってくればわかることだと考えたが、台数が多く確認できなかった。舗装されてない道路を荒々しく砂ほこりをまきあげながら住民を乗せて行った。そうしている傍ら成人男子を一人ずつ呼んで尋問が行われている。他の人は帰されているのに父盛財だけは残されている。不安になって聞きにいくと、父は当時みなそうやっていたように偽名を使って「仲山」と言っていた所、先ほど書いた米軍の探している「崎山」ではないかと嫌疑がかけられたのだった。その結果、父とのしばらく別離が始まった。米軍トラックに乗せられる人に米軍に抵抗している者がいた。空手で立ち向かっている。よぼよぼの老人で米軍に通ぜず、つかまってトラックに放り込まれた。

(続く)

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 ▲本部町伊豆味から見た乙羽岳の裏側   ▲乙羽岳から前方から見た海上

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 ▲乙羽岳から天底、運天港方面を眺める  ▲仲嶺家が疎開した謝名の諸喜田家(現在)

※上の画像は2013.7.28撮影


『語り次ぐ戦争』(第3集)


5.【大浦崎収容所の生活】(今帰仁村から辺野古へ)比嘉サエ(崎山出身:現名護市辺野古)

 ・米軍のトラックで大浦崎へ

 崎山部落は(空襲では)そんなに焼けなかったと思う。うちら(崎山の人たち)は今の北山高校の上の方の山、あっちにみんな隠れに行きよったけど、そのあとは山から下りて、海岸の絶壁を下りてガマ(洞窟)とかにも隠れた。海の近くには自然のガマがいっぱいあるさね。海のガマに隠れていたとき、便所もないから海でやったら、死体が流れてきたり・・・。墓の中にも入ったよ。「死ぬならみんな一緒に死のうね」と言って。

 ―米軍につかまったときは?―

 家にいた。部落の裏は海だったから(逃げられなかった)。アメリカさんが上陸してきて、残っている家にはみんな何か持ってきて「食べなさい」「食べなさい」と言っていた覚えはあるはずよ。

それで集められて殺されると思っていた。部落の人全員が学校に集められて、そこから(収容所へ)行ったはずよ。

アメリカさんが、GMCの大きいトラック、あれにみんな乗せて、運転して。今のように道もないから山の中を通って、下ろされたのが今のキャンプ・シュワブの真ん中あたりだった。夜中だよ。夜中に着いて、翌日はみんなDDTを頭にかけられて真っ白になって・・・・。シラミとかいるさーね。

 掘っ立て小屋をつくる

 (大浦崎に着いたら)広っぱに集められて、何もなかった。だからまず家を作った。五〇人組を作って、山から木を切ってきてカヤブチヤーを作ったよ。木はたくさんあるさ。小さい掘っ立て小屋だからね、すぐ出来る。(床がないから)草を敷いていた覚えがある。山に入ってみんなで草を刈ってきて。そこでお産をした人もいたよ。

 (周り)みんな知り合いさ。崎山部落の中でも自分たちはヒガシバルだから、ヒガシバルだけで固まっていた。

―今帰仁からどのくらいの人が連れてこられていたんですか?

 あっちこっちバラバラに住んでいたからわからない。うちなんかは自分の部落の人たちだけで固まっていた。だから淋しくなかった。

 
―ほかの人たちとの付き合いは?

 ないさ。自分の部落の人とか親戚だけ。

 
―かまどは共同ですか?

 うん。かまどは家の外に作っていたよ。穴を掘って土を盛り上げて。鍋はないから、ケチャップなんかの六斤缶あるでしょ?あれを鍋にしたり、お湯を沸かしたり、紐を通して棒で担いで水を汲んだりしていた。

 ―大人たちは仕事に出たりしていたんですか?

 仕事って、何もないよ。家の中に閉じこもってね。若い男の人はみんな戦争に行っているから・・・。

 

―軍作業とかはなかったですか?

 まだそういう時代じゃないよ。仕事どころか命からがら、生きているだけで・・・・。

・食糧取りにシマ(崎山)へ

 ・おいしかった配給

 あとになってからアメリカさんが缶詰とかみんなに配給してくれたけど、(大浦崎)着いた時期は何もないさ。鰯(いわし)の缶詰なんか、大きいのを開けてから五〇人に配給した。

 缶詰をみんなで少しづつ分けたあとは、みんな裸足で哀れしていたから、これに紐を付けて下駄代わりにして、カッポカッポさせて歩いた覚えがある。

 ―配給は米もあった?

  米はなかったと思うけど、何かいろいろおいしいものがあったよ。いちばん美味しかったのは、アイスクリームの粉があったのよ、黄色いの。そのまま食べるとこれがもうおいしくてね、甘いさあね。あとからは食べ物はぜいたくだったよ。


・川の思い出

―水はどうしていたんですか?

 水は、ちょっと上ったところに湧き水があった。今もあるはずよ。そこから汲んできた。きれいな水(美謝川か)も流れていたから、カンカン持って行って上から・・・。飲んだり、何かを炊いたり、川の水でみんなやりよった。あのカンカン、非常に貴重だったよ。お湯も沸かせるし、ご飯も炊けるし。真っ黒になったら川で洗うんだけど、(川の)上に行ったらみんなに怒られるわけ、ヒングが落ちるから。お風呂も川の水で浴びた。

 上では飲み水を汲んで、下であびる。この川は海に繋いでいて、今もビーチの近くに昔からのちっちゃい橋がそのまま残っている。

 思い出すさ。この川で浴びたりしてね。橋の上からアメリカさんが通るから「石鹸ちょうだい」と言うと、投げてくれる。それをもらって浴びよった。子供だから別に恥ずかしくもないさ。

 ―トイレはどうしていたんですか?

 今、世界のあちこちでヤマノミーで生活している人たちがいるさ。あれと同じ。共同で穴を掘ってそこでやっていた。

 ・おにぎりのために学校へ

 ・みんな「泥棒」だった

収容所で一日、何をしていましたか?
 
・大浦崎で亡くなった人たち


[帰郷前日の「戦果」

 ―収容所にどのくらいの期間いましたか?

 長くいたような気がするけど、四~五か月だったのかね。わからんさ。

 (帰る前)食糧倉庫があって金網が張られているわけさ。食糧品はカバーで押さえられている。アメリカさんが鉄砲を担いでガードしていたけど、うちの母親なんかは「明日、シマ(崎山)に帰るから、何か戦果をあげてくる」と言ってね、ガードの目を盗んで六斤の油を一缶盗ってきて、月夜だったから影が映るさ。あわてて滑って転んで手を折ったんだけど、手を折ってもこれを絶対離さんわけよ。翌日、今帰仁に持って行った。油は貴重だったからね。もう母も亡くなっていないけど・・・。

 ―帰るときはまた米軍が送って行ったんですか?

 トラックで帰った覚えはある。歩いて行ける人は歩かすわけさ。歩けない人は車に乗せて行った。

 シマに帰ったらカヤブチのヤナヤーだけど家は残っていた。

―そのとき家族は何人だっんですか?

 両親と(父方)のおばぁと三歳上の兄と五人。兄の上はみんな兵隊にとられていた。戦死はしないでみんな帰ってきたけど。

 ―何のために米軍は大浦崎に連れてきたんでしょうね?

だからね、これが不思議でよ。みんな今帰仁からわざわざここに連れてきたのか。一ヶ所に集めて殺すという話だったんだよ。

  今帰仁の崎山にはアメリカさんがいっぱいいたよ。飛行場も造っていた。うちのすぐ隣りにガライダーの小さな飛行場があった。今は土地改良されて畑になっているけど、今でもその土地は「飛行場」と呼んでいるよ。


6.一看護婦の戦争体験

  昭和19年11月頃だったでしょうか。今帰仁から日本軍は夜のうちに移動していなかったです。従軍看護婦として井上隊にいたのですが、軍隊は11月頃玉城村の方へ密かに移動したらしく、それから壕生活がはじまりました。いつまた空襲が来るかと緊張した中での壕生活。壕から壕へ。乳幼児を抱えて、また乳幼児を指導する立場でした。母親はかわいそうだし、お乳は飲むし、ずっと壕の生活、病人も結核患者もいました。次から次へと各壕を家庭訪問みたいにやっていました。昭和20年4月8日と覚えていますが、米軍が上陸して来たのです。 

 湧川から来た女の方が「ああ、与那さん大変ですよ」というのです。「どうしたの」と聞くと「上陸してきたよ」と。どうでもいいから上の方へ、上の方へ。山の方へ逃げなさいよ。

 呉我山には首里からの避難者が来ていて、さらにマッチャクの方まで。ワキマタはみんな疎開者でした。県庁から医者がきて、わたしに「呉我山を訪問せよ」とありました。それでマッチャクに登りました。そこには首里の人などが相当避難していました。年寄りが多かったです。マッチャクの避難小屋は村がつくっていました。

 私は自分の家もあったのですが、今帰仁村の住民の健康も考えなければなりませんでした。もしケガ人がでたらと心配もありました。ちょうど救急品が、ここの前の防空壕があり、三ヶ所の壕や私の家にも疎開させてありました。

  米軍が上陸してからは、救急薬品を道にこぼしてあった話がありました。救急薬品はマーキュロ・ヨーチン・包帯・ガーゼ・胃腸薬(わかもと)・熱さましなどでした。マラリアの薬はアメリカーが持っていました。それは収容所に行ってからのことです。救急品は県から配給があり、あちこちの防空壕に置き、避難しながら壕をまわりました。一度だけ衛生課の医者がきて、こっちの衛生主任とわたしと避難小屋を廻り検診をしました。その先生はそれっきりきませんでした。首里の方は呉我山の民家の脇に避難させ、できるだけ年寄りと子供の検診をしました。マッチャクでもこっち見て、あっち見てと大変でした。

  乙羽山に伝染病患者(ハンセン氏病)がいて、今帰仁校にいた軍医がいたので相談すると「あぶない病気だから愛楽園にやりなさい」と言われました。奥さんがいつも一升ビンを三つ、二つはこうして、三つ組んで玉城のソーリガーに水汲みに行くのです。三つの一升ビンで水を汲んで、山の頂上まで行っていました。ちょっとした小屋に住んでいました。消毒液をたくさん持って行って、「住民に危険なことはありません」と言っているのですが、衛生主任は困ると言って、わたしも困ってしまいました。米軍が上陸し、おくさんが水汲みに行ってアメリカーに強姦されたという話を聞きました。その後、どうなったかわかりません。主人はハンセン氏病で奥さんは病気じゃなかったです。四、五回ほど訪問しました。いつも済まなさそうな顔をしていました。

 十・十空襲の時、海軍が11名戦死しました。海に石油や重油が流れ、魚は取ってきても食べられませんでした。家畜はみな放されていました。夜イモを掘ろうとしたら馬が10頭ばかり群れをなして、近くにやってきました。それは怖かったです。収容された後、呉我山に年寄りが二人残っていて山羊を飼うために。黒人兵がきてどうのこうのという話がありました。

 宜野湾の人達の疎開は謝名でした。昭和20年4月9日今帰仁の巡査部長大湾朝光さんが亡くなられました。呉我山で住民に食糧を配給するために制服をつけて指導していた時、その時にやられています。名護方面からきた米兵に。

 慰安所は陸軍と米軍は別々にありました。その人達は疎開してきた辻の人達でした。わたしらは採血して血液検査をしました。血液型を井上部隊が調べると言って、行ったら一人ひとりに何か渡すのです。「君たちももらうか」と言うから「はい」と言ってもらいました。「突撃」と書いてありました。

 わたしが捕虜になったのは昭和20年6月。5月頃「家に帰って増産しなさい」と。家に帰って増産をしていたら、6月20日から収容が始まりました。「捕虜になったら殺される」と聞いていたので二日ばかり逃げ廻っていました。6月22日に目の前に米兵がきて山で避難していた人達も集められ、部落全体が捕虜となり田井等に連れていかれました。羽地の古我知でした。最初は仲尾次でしたが古我知に診療所があり、そこに連れて行かれました。私はできるだけ黙っていたのですが、誰かが「あの人看護婦ですよ」と言ったもんで。ジョウージという衛生兵でした。古我知で「儀保先生の側でナース班長をしなさい」と。比嘉良雄さんから住民のためにと頼まれました。

  今帰仁村などから疎開してきた人たちが田井等地区にいました。今度は戦争の爪痕、シラミと皮膚病、マラリア、栄養失調など、戦争より恐ろしかったです。毎日何人か死んでいきました。どんなに介抱しても栄養失調とマラリアで震える人、一日に14、15名が死んでいくこともありました。穴を掘って、その上に次の人を次々と埋めていきました。夜になるとクロンボーやアメリカーが住民地区にやってきてきました。女目当てです。

  伊江島の方たちが天底に10家族ぐらいが入ってきていました。中に妊婦がいて赤ちゃんが産まれました。ブンキチヤーにいる方でした。金城と言っていましたかね。生まれる段になって何もありません。看護婦なのに助産婦の免許は持っていませんでした。行ってみると生まれそうなので、お湯の中に裁縫糸を消毒して、包帯を切って処置をしました。男の子でした。着物は焼けつくしてないので、ジュバンなど柔らかなものでおしめを縫いました。しかしHBTと言って堅いものしかありませんでした。婦人会長の立津ノブさんに頼んで、自分の古い寝間着などをおしめにした。ようやく20枚、ノブさんのと合わせて30枚ばかりできました。その子は助かりましたよ。今帰仁に向ってオシッコをするなと言っているそうです。 


7.一国土隊の戦争体験 『つれづれに』吉田光正著より

 吉田氏は昭和14(1939)年11月15日、?重兵伍長で現役を満期となったが、引き続き予備役の臨時召集を受けて、内地帰還の翌15年12月まで一年間、?重兵軍曹をつとめた。帰還は武昌から揚子江を通って、昭和15年12月22日に門司に上陸、12月30日に召集解除、沖縄県今帰仁村に帰る。やがて、太平洋戦争に突入することになり、在郷軍人会副会長、青年学校指導員となり、民間の立場から戦争と関わっていく。

  平成3年から「今帰仁村歴史文化センター設立審議委員」をお願いしていたこともあり、会議の合間や研修会などで、戦争だけでなく他のことも伺っていた。ここで戦争部分を拝借させていただくことに。

 「米軍の上陸」

 昭和20(1945)年3月23日の大空襲を皮切りに、毎日のように編隊による大空襲が続いた。その様子を日を追って書く。

  3月27日 空襲により仲宗根(大井川)111戸全焼す。

 3月31日 警察の命により、全村他ミが山の各自の壕に避難し、壕生活が続く、

       今泊の字民は志慶真川の上流地域、あるいは自然壕などを利用。

 4月1日 米軍沖縄本島に上陸、本格的は地上戦となる。

 4月3日 米軍が北部進撃を開始。

 4月4日 兼次校、四教室を残し全焼す。諸志16戸全焼す。

 4月5日  全区長、疎開者の食糧を本部町から運搬する計画だが、米軍上陸で果た

       せず、疎開者の食糧難深刻化。

 4月7日 米軍、名護市田井等に進撃。

 4月12日 米軍、本部半島をほぼ掌握。

 

 このわずか十日前後で、今帰仁も大きくその姿を変えた。4月7日のことだったと覚えている。昼間は壕から出られないので夜間、砲撃の合間をぬって部落(今泊)に戻った。玉城精喜先生(今泊)と二人で、先生の自宅屋敷の壕にあった砂糖樽を持ち出すためだ。130斤余りの砂糖樽を二人で担いで月夜の山道を急いでいた。トゥムニハーニの祠付近にさしかかった時、突然羽地方面から城跡周辺に、激しく砲弾が撃ち込まれ、びっくり仰天、二人は砂糖樽をほったらかして、ミームングスクの南側をころげおちるようにフプガマに退避した。しばらく砲撃の止むのを待って、またもとの道に戻り、砂糖樽を担ぎ直して、吉田家の離れにかくしてから、山の壕に急いだ。

  その前後、クバのウタキ、ハヤモー、東上原、タマータ、大堂原等は、集中砲撃を浴びせられ、東上原の二家族と本部方面からの避難民に多数の犠牲者が出た。翌早暁に、東上原の壕にいた数人で仮埋葬をした。毎日の壕生活では戦況がわからず、イライラの日々が続き、本部半島はすでに米軍に包囲され、住民の緊張は頂点に達していた。

  当時志慶真川の上流は、本部、今帰仁、伊江島の避難民でごったがえしていた。多分4月16日と思うが、朝まだ明けきれない時、壕を抜け出し周囲の状況を調べるため、一人ハヤモーの頂上に登って伊江島をみると、伊江島周辺の海は米軍艦にすっかり取り囲まれている。(伊江村史によると米軍記録として駆逐艦7隻、戦艦2隻、巡洋戦戦艦2隻、大小70余隻という) 蟻のはい出る隙もないとは、このことだろうと思った。

  最初はイイタッチューもはっきり見えたが、午前八時頃から一斉砲撃、飛行機からの空爆で、あっという間に島が見えなくなった。しばらくすると、水納島の西方の艦船から、今度は岳のずいから蟻が這いだすように、水陸両用戦車が陸続と島に向っていった。

  今まで見たことのなかった戦闘のすさまじさ、米軍の物量にすっかり度肝を抜かれ、多くの知人のいる伊江島が無事であることを祈った。途端、頭上に小型観測機(トンボ)が超低空でやってきたので、ハヤモーの中を右に左に移動しながらホウホウの体で壕に逃げ帰った。

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▲今泊のハヤモーから伊江島を眺める

 5月に入り、米軍の宣撫工作により、字民らは各自で集落に帰り、6月25日には久志村大浦崎収容所に収容されたが、私は米軍の執拗な掃討をのがれながら二カ月程、山に隠れていた。

 

 6月25日、米軍は謝名・越地の一部以西の住民と伊江村、本部町、上本部村の住民を一緒にして、久志村大浦(現名護市)に、謝名・越地以東の住民を羽地村田井等にそれぞれ分離して抑留した。

  私は兵歴もあり在郷軍人会の副会長でもあったので、みんなといっしょには行かなかった。行ったらすぐに見破られる可能性があり、身の安全を第一に考えたからである。私と教頭の玉城精喜先生、同じく教員の新城繁雄先生の三人は、山に入った。アメリカ軍の様子をみながら、あとで家族と合流するつもりであったが、結局二ヶ月程は山暮らしであった。昼は山の繁みに隠れ、夜になると部落に下り適当な家で寝て、食事をとる毎日であった。

  やがて、アメリカ軍の掃討作戦も本格的になり山の中も安全ではなくなった。日は定かではないが、いつものようにワラビの繁みに隠れていると、どこからともなく、米兵の陽気な会話が聞こえてきた。「しまった」と思ったが、時すでに遅く、米兵はすぐそこまで来ている。身動き一つできない。ジーッと堪える。潜む目の前をいくつもの軍靴が通る。いつ踏みつけられるか、あるいは見つかるか。まるで生きた心地がしないというのはあのことで、時間が経過も定かでない。とくに難を逃れたことを自覚したのは、大分後のことだった気がする。

 「大浦収容所へ」

 そのことがあって、山も安全ではなくなったので、三人揃って久志の大浦崎にむかった。乙羽山から嵐山を越えて羽地の伊差川あたりに来た時、CP(米軍の警察)に見つかり呼びとめられた。

   「あんたがた、どこに行くのだ」

   「大浦崎に行くところだ」

   「あんたがたは不法侵入だから、カンパン(収容所の事務所)に連れていく」

 そんな会話を交わしながら、そのCPを見ると、中国の野戦で同じ小隊にいた名護出身の比嘉新松という人であった。

   「アゲー、マチューヤアラニ」

   「アリー、イヤールヤルイ。ぼくがあっちむいているから、その間に逃げなさい」

 かつての戦友にお目こぼししてもらうなど夢にも思わなかったが、運よく、またもう一人知人にあった。県の副知事をされた比嘉幹郎さんの父君、比嘉栄裕さんである。比嘉さんは伊差川地区の班長であったので、「おれの部屋に来い。あんたがた食べ物ないでしょう」と言って、御飯から何から御馳走になって、夜から大浦に向った。

 翌日には久志の大浦近くまで行った。三日間も重さ50斤以上の荷物を背負っており、肩は痛いし疲れは極にきていた。荷物はいもなど食糧の他、日用雑貨、教科書、教材といったものだったと思う。先発隊が大浦崎まで行って、女の人達の迎えが来て、ようやくみんなと一緒になれた。

 大浦崎の学校の開設については『今帰仁村史』からなので省略。

  とにかく、すべてないないずくしだった。私は算数を担当していたが、かけ算を担当していたが、かけ算や比例配分、案分など教える時、生徒を浜に連れて行き小石を拾って石を数えながら教えた。教室もなく、木陰を利用するので文字通り林間学校だった。

  収容所の食糧事情は悪かった。食糧の米はLST(輸送船)で運ばれてくるのだが、その荷揚げ作業は各班から賦役(ブー)でやる。ブーに出た人は荷揚げしながら米をネコババして草むらに隠すが、それをまた高い所から見張っている者がいて、横取りするといった案配であった。

  収容所の中では各班から人夫を出し、今帰仁や本部方面にイモを掘りに行って配給をしていた。ついでにカズラを持ってきてもらい、近くの空き地に植える。監視していないと、カズラは抜き取られてしまう始末であった。

  収容所の生活の中で次男の出産があり、家族と合流して二カ月後のことであった。満足に食糧のない、しかも野原に寝起きしていた状態で、よくも無事に生まれ育ったものだと人間の命の尊さを不思議さを体験した嬉しいことであった。

  (工事中)  


4.今帰仁村渡喜仁住民の戦争体験 『渡喜仁誌』より

 【10・10空襲時の渡喜仁】

  昭和19年10月10日の空襲アメリカ軍の艦載機が沖縄に来襲空襲後に、渡喜仁近くに駐屯していた守備隊は被害を避けるために民家も利用した。小那覇安豊家に山根隊、比嘉才三家に菊地隊、謝花喜保家や豊里友達家にも20名から10名が分散して配置されていた。

  昭和20年1月22日、今帰仁村に延べ500機に及ぶ艦載機の波状攻撃があり、3月23日から30日までは毎日ように空襲を受け区民は防空壕生活にはいるようになった。

  空襲は運天港に配備された部隊に集中的に行われたが、仲宗根あたりの民家も焼夷弾によってほとんど全焼し、渡喜仁の民家もこれによって何軒か焼け落ちた。3月10日に山中避難の命令が出て4月1日から全村民が村内のあちこちの山で避難生活を送るようになった。

  昭和20年3月23日突然静かな集落に運天方面から上陸してきた米軍兵は戦車と共にやってきた。古宇利沖に停泊していたアメリカの軍艦に西の方から飛んできた日本軍のゼロ戦が戦艦に突っ込み大きな爆音と共に火柱が上がった。「イクサドゥーイ」と村の人々は我も我もと自分の防空壕に駆け込み息をひそめて成り行きを見ていた。

 日に日に戦いは激しくなり、海岸線の防空壕はあぶなくなり山手の方へと移動した。ウフムイ・呉我山・嵐山へと逃げていった。カキジヌメー、ウフムイ、チビキナ一帯は飲み水があり、あまり苦にならなかったようである。夜はアメリカ兵が歩かないので自分の家に帰りイモとかウムカシを持ち帰り食べたようである。

  米軍上陸部隊は4月8日には伊豆味や湧川あたりまで進駐し、圧倒的な米軍側の攻撃を受けた日本の守備隊は戦闘力を失い壊滅状態になっていった。進駐した米軍は山中に隠れて、避難生活をしている人々にそれぞれ自宅に戻り、生活活動に従事するように呼びかけた。また各字の区長や有志達を集めて村の復興計画を立てさせ、復興を急ぐよう命じた。

  日本軍の敗残兵の中には、字の有志達を「敵に通じたスパイ」と決めつけ何名かの方々が惨殺された。かつての友軍と親しまれ信頼された日本兵が敵の米軍より恐ろしい鬼畜になり下がってしまっていた。そのような恐怖の中で、多くの区民はそれぞれの自宅に帰り、昼間は字内の森(ムイ)や海岸のアダンの下や岩陰にかくれたりしながら、食糧確保のために畑仕事をはじめ、戦闘のない夜は自宅に戻る生活が続いた。

  そのような中で字内米軍による大規模な敗残兵掃討作戦が開始された。自宅に戻るよう命じた米軍は6月17日になって突然、字謝名、越地以東の住民は羽地に疎開するように命令があり、区民のほとんどが呉我や我部祖河あたりに着のみ着のまま強制的に連行された。

  捕虜になった場所は主に海岸で、自分の家で捕虜になった人もいた。その時は日本語で「安心してください。出て来い」とハンドマイクで呼びかけたという。多くの人は手を上に上げ捕虜となった。カキジヌメーに集められ我部祖河や久志小へとトラックに乗せて行かれた。疎開先での生活は一般民家に分散させられ、食事も配給があった。子ども達は小学校に行けた。

  6月25日平敷以西は久志村の大浦崎への疎開の命令がでた。この措置は日本本土上陸準備のため兵站補給基地を村内の海岸段丘上に設置する目的であったと思われる。この作戦で字内に残っていた民家は焼き払われ、運天港から仲宗根に至る直線的広い道路が、耕作地の中に敷設のためコーラル採取後の大きな穴が残されている。

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   ▲1944年9月29日の渡喜仁      ▲1946年4月19日の渡喜仁~運天港付近
       (沖縄出版:オキナワ アイランド 1944年~1947年より) 


今帰仁村謝名住民の戦争体験(昭和59年聞き取り)

  『じゃな誌』に座談会として収録したのを一人ひとりの戦争体験記録として編集しなおした。『じゃな誌』に関わっていた頃。


8.大城秀一(謝名:当時15歳 農業)

 伊江島徴用は青年学校生は奉仕作業ということで伊江島に行きました。一般徴用の方々は、日当もあったが、青年学校生は無報酬でした。一週間位伊江島で働いて帰ってきた、再び行きました。私は三回は行ったと記憶しています。

  飛行場造りの仕事でしたが、主にツルハシとスコップを使っての仕事でした。最初に行った時は兵舎にいたが、一日に二食は米飯で一食はサツマイモ五つか六つ位でした。供出されたイモでしたので、食べられないのが半分以上でした。

 若い食べ盛りの者ばかりでしたので、食事はつらくいつも腹を空かしていました。おかずはありませんでしたが、お汁はあったが味噌汁でした。鏡のような顔が映るような汁でした。その中にカボチャが一切れくらい浮いていました。

 青年学校生でしたので、訓練の一環として行っていたので、全く軍隊と同じで一般徴用者とは変わって朝夕の点呼、消灯などきちんとしていました。その当時、私は国民学校高等科を卒業した年でしたので、数え年で十六歳でした。

 最初メンバーが収容されたのは羽地の方で、二日目は久志の収容所でした。私たちは二日目だったので久志の収容所でした。久志の収容所のことを話すと、私は国民学校の高等科を卒業したばかりで、まだ数えの16歳でした。私たちの家族だけは、どうしても仲原(ナーボロ)のみんなより、一日おくれて羽地でなく久志に収容されました。どうしてかその理由はよくわかりません。

  明日は捕虜収容所に連れて行くから品物は持てるだけ用意しておくようにとの連絡があった。「家畜はどうしますか」というと、名札をつけておけばみんな届けてやるということでした。

 その当時、上の兄達四人はみんな兵隊に行っていて、私は末っ子であるが、男手は私一人だったのでいわば家の大黒柱であった。

 兄嫁は乳呑子を抱えていたし、とても苦労しました。祖先から伝わって来た日記帳や記録帳なども大切に以て行ったが、家畜はほんとうに届くのか、途中でどうなるかわからないと思っていたので用意しなかった。

  久志まで荷物は届いていたが、久志の浜辺に降ろされてDDTを全身にまかれて、そのまま野っ原に放されてしまった。まるで牛馬のようでした。兼次吉次郎さんが先に来ていて、天幕小屋があったので、その小屋に入るようになって安心しました。

  久志は水不足で大変でした。上流で洗濯したり、水浴びをしているが、下流ではその水を飲料水として使っていました。よく記憶にないが、大川と言っていたが、山の上でしたよ。あの辺は地形がすっかり変わってしまって、今行ってもよくわからないですよ。山の下には道路が通っていて、またすぐ下は海でした。民家はなかったように思う。

  山からヤンバルダキを刈りて来て、それで屋根を葺いて床は太めの竹を編んで敷いていた。落ち着いてからは食糧はあまり不足しなかった。缶詰などもあった。

  大浦崎から名護の山を越えて、しかも夜中に食糧を取りに今帰仁まで来たことありました。山の中には日本軍の敗残兵達がいて乞食みたいに食べ物をねだっている者もいて、気の毒でいくらか分けて通ることもあった。

  上手名の近くはみんな弾薬庫でしたよ。戦争後、四、五年間は四月頃のポカポカ陽気の日には自然発火して焼夷弾がよく燃えたものでした。今でも、お宮のある森の下あたりには焼夷弾があるはずですよ。二、三年前に発火したことがありますよ。 


9.松本政雄(謝名:当時18歳 農業)

  徴用で馬力班でしたので、十・十空襲の時は伊江島にいました。


 10.諸喜田平徳(謝名:当時34歳 農業)

  一般の人たちは伊江島飛行場整備作業で、馬車を持っているものは馬力班、持たないものはモッコかつぎで朝から晩まで働いていた。十・十空襲の時は大変でした。爆弾で尻の肉をもぎとられている人もいるし、道端に死んでハエがたかっているし、その死体を木麻黄の枝を切ってきて覆ったままにしてあった。

  中南部方面からの避難民も収容するということで、ヒチャヌホーとか、呉我山のジュンサイシの下の方とか、トゥルバラ、シパガイの上流あたりに、各字から人夫が出て共同で小屋作りをした。米軍の沖縄本島上陸前のこと。

  今帰仁には馬車組合があって、馬力の利用が多く、運天の井上部隊が村内の力の弱い馬は徴用を免れていた。後になって弱い馬を持った人々は人も馬も共に中南部の部隊に徴用されて行ったので、これらの人々はほとんどあちらで戦死してしまった。井上部隊は、山から木を伐り出して馬に引かして軍の施設を作った。私は強い馬を持っていたため、村内にとどまって生き残ったようなもの。

  上陸して間もない頃、米軍の掃討戦があり、掃討戦が終ってから「住民は全部山から下りてきて、食糧増産をしなさい」といわれ、前原に製糖場があったので畑に残っていたサトウキビを刈り取って集めて製糖をしていたら、米兵が来て私はそこから引っ張られ田井等のカンパンに入れられた。

  山に避難していた当時の生活は住民それぞれ違いがあり同じようなものではなかった。トズルバラの避難小屋ではちょっと服装のよい人や色の白い人は「ちょっと来い」と言われ、銃で撃たれたこともあった。避難小屋の中に、他人の国民服が下げてあるのが見つかると、そこにいた人が銃殺されたこともあった。ある日、サトウキビを積んで製糖場に運んでいく途中、米兵に合って荷馬車に積んであるサトウキビを全部下させて調べられたことがある。中には兵器や爆弾でも隠しているのではないかと思ったのであろう。何も出てこなかったので、下したサトウキビを荷馬車に積ませて、よいと思ったら今度は針のようなもので掌や足の裏の硬いのは沖縄の農民で靴など履きなれて足の裏のやわらかいのは日本兵だということだったということ。

  カンパンに収容された晩に、山から友軍(日本兵)の砲撃があって兵舎は大騒動であった。収容所では、馬耕班という班があって田圃で馬耕をさせられた。

  あの頃は、女の子をかかえている家族が大変でしたよ。

  大浦では、サツマイモを植えて三日目に行ってみると、みんな抜き取られて一本もなかった話を聞いた。

  その頃でしょう。山道を通ってくると女の人の悲鳴を聞いて、木の下でそっとうかがっていると米兵三、四人で暴行している所であった。気の毒に思っていても助けに出ることもできないで米兵が立ち去るのを見て、女の人に慰めの言葉をかけるしかできなかった。女だけ四、五人連れだったらしいが、他の者は山の中に逃げて運悪くこの人がつかまったと言っていた。

  掃討戦の時に焼かれた家もあり、残った家もあったけれど他所から来て家財道具や建物をこわして板などは持っていかれていたし、米兵が兵舎の床などに使うために持って行ったものもあった。

  今から考えると、あの竹槍でもって戦いなさいと言われたことは、本当に馬鹿馬鹿しくて子供の考え以下ですよ。


11.比嘉林昌(謝名:当時29歳)

  伊江島に行っていたが、帰されて炭焼班を命じられて山で木を伐って炭を焼いて出していた。伊江島から帰ってきた翌日十・十空襲があって命びろいした。前に安富祖で炭焼きの講習を受けたことがあったので、炭焼き班をつくって謝名の人々が五人山で炭焼きの仕事をさせられた。

  わたしは、早く捕虜になっていた収容所に入れられていたので、カンパンの内部もよく知っていた。長いカバヤーで謝名出身の者が入ってくるとみんな一つのカバヤーの中に入った。

  昼間は米兵がおってこわいので夜しか道は通れなかった。特に女の人は危なくて、日暮れから夜明け前に歩いて食糧取りにいったものです。日本兵が道端に寝ころんでいる者を見かけることもあった。カバヤー(幕舎)の床の材料として、米兵が板類はみんな持っていっていた。

  私の家の付近は、米軍部隊がいて家のすぐ前には燃料がドラム鑵に入れられて山積みしてあったので焼かれるのはまぬがれた。

  大浦崎の収容所はゆかり牧場のあった付近ではなかったかと思う。または、久志と辺野古の間付近ではなかったか場所ははっきりしない。


 12.島袋ミチ(謝名 当時29歳 三児の母)

  私は伊江島に徴用されたが、三男がまだ乳のみ児だったので、この子をおぶって渡久地まで行ったが、赤子持ちはよいということで帰された。収容はトラックで連れていかれて降ろされそのままだった。サツマイモの茎まで食べたよ。おにぎりをもらってきて、つゆ草やいもの葉などを入れて水をたくさん入れて雑炊を作って、家族みんな水でお腹を満たしていた。


13.仲間光枝(謝名:運天の婚家にいた:当時27歳)

  当時、妊娠9ヶ月でした。浮田の海軍の陣地堀に駆り出されていた。4月に入り米軍が上陸した頃、若い人々は天井裏にかくして年寄と子供は下にいた。顔に炭をぬって、真黒にして髪はたばねて男のようにしていた。MPが近くにいた所は安心だったが、MPの遠い所は本当にこわくて大変だった。

  子供を浴びせている時に、出て来いと米兵にいわれて、何だろうと子供をタオルで包んだまま出て行くと、そのままトラックに乗せられて着物を着る余裕もなくて裸のまま、ただタオルでくるんだまま羽地の呉我まで連れていかれた。食物はないし母乳は出ないし、畑からサトウキビを拾ってきて、噛んで汁を出して与えたこともあった。翌日姉達が連れていかれるのを見て、子供の着物のないことを大声で話したら、後で着物など持ってきてくれたので助かった。

 おにぎり一つもらうために2、3百メートルも並んでいたが、後の方は足りなくなってももらえない家族もあった。

  呉我橋の両端にはC・P(シビリアンポリス、沖縄の巡査)が立っていて、今帰仁から持ってくる荷物をみんな取り上げこともあった。本当に憎らしかった。同じ沖縄人なのに食糧を奪うようにして取り上げられた。

  運天にいる日本海軍は、食料がたくさんあってとても贅沢だと思った。お菓子などをもらうことがあったが、倉庫にしている所では食べられるだけ食べたが、持って外に出ることは禁じられていた。兵隊で家に持って来てくれる親切な者もおった。

  帰った頃、娘の誕生日の頃であったので、謝名に来て誕生祝いをしたが湯呑もないので、コーラビンを切ってコップを作って足りないので、めいめい湯呑を持ってお祝に来てくださいと招待しました。

  サツマイモは植えてそのままにして掘られないと腐ってしまって食べられない。あちこち掘って残ったものが自然に生えていく芋は腐らずに残るもので、みんなが掘ってあった方はよかったんですよ。



14.山内ミネ子
(謝名:当時今帰仁国民学校訓導:当時24歳)

  国民学校五年生以上は、毎日ウッチンドウに陣地堀りに連れて行かれた。当時は水筒もなく、ビンに水を入れて袋を作って水筒をその中に入れてさげていった。サツマイモの弁当を持ってウッチンドウまで一時間余りもかかって登って行って1メートル20センチの深さで120メートルの壕を掘らされた。

  トゥルバラ、ヒチャヌホー、シパガイあたりに小屋を作って避難小屋生活をした。 

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▲謝名の人々が避難した乙羽山(ウッパヤマ・ウイヌホー・ヒチャヌホー・トゥムイ・トゥルバラ・シパガイなど)

  最も苦労したのは若い女の人々でした。私達は弁当を持って山の中に入り、1メートル余りもあるワラビの中で昼中は毎日隠れて暮らした。特に木の上に登っていたりして米兵をさけていまいした。防空壕の中の奥の方に、もう一つたて穴を掘って、その入り口は床板を敷いて男の年寄りの方を板の上に座ってもらっていた。この人の弁当まで作って、毎日女の子四人でその奥の穴倉のような所で暮らしたこともある。毎日米兵がやってきて、おじいさんに出るように言っていたが、おじいさんは病人をよそおって咳をしたりし、しのいでいたが、とうとうこの壕から出されてしまった。 

 私達は天井裏に隠れたのですが、天井にも銃を打ち込んで、誰々が殺されたという噂が聞えてきた。今度は毎日田圃にはいて田植え仕事をしていた。米軍は泥田の中まで入ってこないだろうと思って、あちこち田植えを手伝ってしのいでいた。 

 二日目に連れて行かれたのは、いろいろと食べ物や着物を持って行ったけれど最初の日に連れられたのが、なにがなんだかわからないので、着たきりで何も持たないで連れて行かれた。 

 トラックに乗せられて、呉我まで来て降ろされて、そのままだった。住む所はめいめいで探して入らなければいけないが、前に来た人々で、どこの家もいっぱいで自分達が入る所など全くなかった。一軒の家に百人から百五十人くらいの人がいたのですよ。 

 羽地に行った日は食べる物はなにもなく、後で食物の配給があるというので、行ったらお粥が配られていたが、食器は勿論ないので拳にしゃもじの一ぱいづつ配られた。芭蕉の葉を摘んでそれに入れると破けてもれてしまって、家につくまでは何も残らなかった。翌日からは、小さいおにぎりが配られるようになって、お粥よりはましだった。 

 少し落ち着いてからは、一日一合の米の配給があったし、学校が始まってから学校からも配給がもらえたので少しよくなった。しばらくして、山道から今帰仁まで行って生活用品や食べ物を持ってくるようになった。 

 昼は恐ろしいので、夜中に道のない山中を雑草をかきわけして、食料を持って今帰仁から羽地までたどり着いてこともあった。 

 収容所から帰る寸前に焼かれた家もあった。私の家もそうであった。帰っても家があると思って安心していたら、全部焼かれていた。 

 アメリカ人は目が青いので夜は目が見えないとか言って、それを本気に信じていたからおかしいものです。

  収容所に連れていかれたのは5月頃だったと思う。寒くなかったし、五月の18日頃だったと思う。帰ったのは昭和20年の11月1日頃であった。祖母が収容先で10月30日に亡くなって、泊っていた人々が棺桶を作ってくれて、松本政雄さんが隣の家にいたので頼んで父と二人で我部祖河から謝名の墓まで担いできて葬った。それから三日目にみんな帰ってきた。

 帰って来てからは、食糧にはあまり不自由しなかった。サツマイモ畑は、あちこち掘られていたが、芋を取った後に自生したイモは珍しくよく出来ていたので食糧に助かった。  


6.越地住民の戦争体験(『越地誌』より)

 

【戦争と越地】

 

【小倉侍従武官の越地視察】(昭和17年7月)

 昭和17年7月、小倉侍従武官が来村になった。当時侍従武官という高位の方が沖縄にみえるということは稀なことであった。侍従というのは天皇のお側に仕える人(この場合は武官)で、このようなお方を迎えるということは、大変なことであった。今帰仁村では、侍従の視察として、模範部落である越地が指名されて、視察を受けることになった。

  当時の区長は玉城真幸氏である。当日、氏は羽織袴の正装で区民と共にお迎えいたし、侍従付添いに伴われてただ一人ウヘーに上がり、字の状況の言上に及んだのである。一般の人々は侍従に近寄ることはできず、遠い場所からしか拝顔できなかった。

  それに引き続いて、当時の本村出身の県議会議員宮里喜一氏(昭和17年5月当選)以下村長、村民代表に対し、武官より時局の重大さと、食料の増産について訓示が述べられた。その後少年団の活動と幼稚園を視察され、園児のゆうぎを御覧になった。



 15.【侍従武官と少年団】(宮里邦夫氏回顧)

 昭和17年7月16日、小倉侍従が御来村になり、私たち越地少年団の奉仕活動も御視察になりました。

 その日、私たち越地少年団員は、部落事務所前に整列してお迎えいたしました。そして私は(宮里邦夫、高等科二年)少年団長として、次のような「誓いの文」を多数の来賓の見守る中で読み上げました。

  一つ、皇室のもと、一億一家。心と心、力と力をひとつにして銃後を守り固めます。

  一つ、朝夕に皇軍の苦労を思い、戦線に送る銃後の真心として、慰問文と慰問袋を絶や

      さぬようにいたします。またその留守宅の力にもなります。

  一つ、名誉の戦死をとげられた遺族の家を皆で守り合って、英霊の忠誠にお応え申します。

  一つ、傷痍軍人には、心から敬意を表し、その再起奉公に力を添えます。

  一つ、銃後も、国防の第一線、元気にむつまじく、将来の大きな希望に生き、現在の苦難を

      戦い抜きます。 

 そのあと、私たち少年団は、あらかじめ編成されていた各班に分かれて、畑を耕したり、薪集めをしたりして、出征兵士の留守家族の奉仕活動をしました。

  以上は、宮里邦夫氏が当時の少年団長として重責を背負い、緊張の中に、「誓いの文」を読み上げる姿が目に見えるようである。また、その「誓い文」を読み上げる姿が目に見えるようである。また、誓い文は、当時の時局を如実に物語るものであり、貴重な記録である。

 なお、当時幼稚園の視察を受けた時の保母は、金城スミさんと松田ヨシさんのふたりである。

  侍従武官来村ということは当時として、今帰仁村の大きな出来ごとであったと思われるが、何故か村史や村の記録に残っていないのは不思議である。それ故、この記事と写真はなおさら貴重な史実として保存しなければならない。(付記についは略)

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 小倉侍従武官来村、幼稚園児の実情視察(越地ノウフェー) 小倉侍従武官来村時の記念撮影(昭和17年)
 


【学童疎開】 

 昭和17年ミッドウェー海戦で敗れた日本軍は、太平洋中南部の諸島を次々と米軍に奪回され、ついには昭和19年7月、サイパン島の攻撃で玉砕してしまった。

 このような状況の中、8月にはいると海軍は沖縄死守備隊として運天港から湧川にかけての一帯に、白石、鶴田、山根の海上特攻隊が駐屯し、陸軍は八重岳に連隊本部を置く独立混成第四四旅団が本部半島守備隊として駐屯するようになった。 

 住民は、召集される者、陣地構築に動員される者と次第に戦闘体制の中に組み込まれ、学校も兵舎となってしまい、日一日と沖縄決戦の様相が濃くなってきたので、国策として、女や子供は本土か台湾に疎開させられるようになった。疎開には一般疎開と学童疎開があった。

 学童疎開とは、小学校の児童を教師が引率して行く疎開のことであり、越地からも親元を離れて次の学童が疎開に応じた。

     ・当山ナヘ  (高等科1年)

     ・真栄田シゲ (高等科1年)

     ・大嶺ミツ子 (国民学校6年)

     ・宮里妙子  (国民学校4年)

     ・大嶺和男  (国民学校4年)

     ・宮里政三  (国民学校4年)

     ・米須トミ   (国民学校3年) 

【学憧疎開の出発から帰村まで】

  


【慰霊塔の建設】 

 昭和23年、終戦の混乱の中からようやく自分を取り戻して、何んとか人心も正常に落ち着きを見せ、不幸にも戦争で命を失った人々を悼むようになり、その霊を慰めようという機運が盛り上がり、字として慰霊塔を建立することになった。 

 そして場所は、幼いころから眺め親しんできた乙羽岳のよく見えるところ、そして眺望のよいところとして、「ヤマトゥウヘー」が選定された。この高台からは、眼下にテェーミナトを見下ろし、北には紺碧の大洋と伊是名、伊平屋の山々の見渡せる最高の場所であった。 

 こうして選定された場所に、今次大戦で、国のためとはいえ尊い生命を捧げた字出身の軍人、軍属二十四柱の英霊の名を碑に刻み、越地慰霊塔として建立したのである。そして毎年旧暦の一月十六日の先祖の法要に合わせて、字民総出で慰霊祭を行いその霊を慰めていたのである。

  しかし、昭和43年?に今帰仁村の慰霊塔が仲原馬場のもと忠魂碑跡地に建立されたので、村当局から各字の慰霊塔は村慰霊塔に合祀するようにとの通達を受け、字の慰霊塔も余儀なく御魂をお移ししなければならなくなった。それと同時に字民全員での慰霊祭も、毎年行われた6月23日の慰霊の日の清掃や平和記念祭も姿を消してしまった。

  今では、村の慰霊祭は行っているものの、関係者のみに通知があり、村当局とそれらの人々の参列という限られた数での平和祈願祭となり、誠に淋しく、形式的になってしまったような感がして、残念に思えるのである。

  現在、今泊、湧川などそのいくつかの字に残っているその字出身戦没者の、名前の刻まれた碑が、その字の人々の手によって温かく保存され、小学生から老人まで身近な自分たちの慰霊塔として、法事や慰霊の日の行事が行われているのを見ると、まことにうらやましく、人間味の豊かな、ほんとうの平和を願う姿であり、立派な平和教育を無言のうちに示していると思うのである。

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▲古宇利島の人々を救ったスルルガマ


【村内の戦争遺跡】
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諸志の慰霊塔
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16.伊江島飛行場建設(新城徳佑氏ノート)

 

【大浦崎収容所】

  ①場所

  ②住まい

  ③食糧

  ④墓標


17.【戦争から戦後へ】(宮里政充氏:今帰仁村越地)

 戦争のこと】

 私は教科は国語ですが、新学期の最初の授業ではかならず、沖縄の話、とくに戦争中の話をします。生徒は一生懸命聞いてくれます。私にとって幼い頃の戦争体験は、いわば、原体験ともいうべきもので、理屈を越えて私の体に染みついてしまっています。

 

 私は昭和14年に生まれましたが、その二年前に日中戦争が勃発し、翌年10月には沖縄でも国民精神総動員沖縄実行委員会なるものが開催されています。いわゆる15年戦争の真っただ中に生まれ落ちてきた、ということになります。日本が第二次世界大戦に突入した16年にはまだ三歳ですから、その当時のことは何も記憶に残っていません。

  年表によると、沖縄守備隊が今帰仁村に進駐してきたのは19年の8月で、戦争に関わる私の記憶はこの頃から始まります。しかし、小学校に駐屯していた守備軍が、実は沖縄へ上陸する前に敵の魚雷に会い、多くの犠牲者を出しながら、命からがらようやくたどりついた軍隊であったことなど、子どもの私にわかるはずもありませんでした。小銃さえ全員には行き渡っていないという哀れな状態であったと、記録は語っています。 


7.今帰仁村崎山の戦争体験 『崎山誌』より

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18.大城義雄 

 伊江島徴用中に10・10空襲に遭遇して崎山出身者の様子。崎山からは一般徴用者として、上里善吉、与那嶺幸三、諸喜田太保、諸喜田善之進、城間喜政、仲里幸長、喜屋武光五郎の8名が伊江島に渡っていた。また、青年学校生の奉仕作業団の中に山城武雄、大城義雄がはいり、伊江島飛行場整備作業に参加していた。伊江島徴用には二通りあり、青年学校生は先生に引率され奉仕作業ということで無報酬であった。また、訓練の一環として行っていたのでとても厳しく、軍隊と同じで朝夕の点呼、消燈などきちんと守っていた。一般徴用の方々は日当が出ており、朝夕の点呼もなく割と自由だったようである。 

 宿は貧弱なもので徴用者向けの労働者宿舎という茅ぶき長屋で中廊下があり、その両側が部屋になっていて、何名も雑居寝ができるようになっていた。食糧事情は次第に悪くなり、一日二食はイモ、麦、米の混ぜご飯、一食はサツマイモ五、六個位与えられましたが、何しろ供出してきた芋でしたので食べられない芋が多く、若い食べ盛りの者には、昼間の重労働もあいまってひもじい毎日でした。 

 おかずはなくお汁は味噌汁でカボチャ一丁か野菜葉一枚はいているだけのお粗末なものでした。10・10空襲の時は大変でした読谷飛行場と伊江島飛行場と運天港の海軍基地が攻撃目標だったらしく滑走路を破壊するため500㎏爆弾が何発も投下されました。

  軍隊は防空壕に避難し、徴用者と島の住民は主に墓や自然洞の中に避難しました。崎山の徴用者十名も墓の中に避難しました。500kg爆弾が爆発する毎に墓穴の天井から小石がこわれて落ちてきます。そこで諸喜田善之進さんが墓穴の入口にしゃがみ込んでブルブルふるえているので中のみんなが中へ入るようにいくら説得しても入らないのでよく訳を聞いてみると、爆弾が爆発した震動で墓の天井が落盤したら全員生き埋めになることをこわがってのことらしい。無事空襲も終り崎山出身者には事故はなかった。他字の人で病気をして労働者長屋で休んでいた一人が焼夷弾による火災のため焼死したようである。

  爆弾で尻の肉をもぎとられて倒れて苦しんでいる人がいるし、道端の死人に蠅がたかるので木麻木黄の枝を折ってきて覆ったままにしてありました。そとに出ると機銃掃射をあびせられるし、爆弾の破片や銃戦がビューン、ビューンと無気味な音を発して飛び散るのでとても危険でした。

  空襲は昼の間だけで終り、晩は無気味な程静かで昼間の空襲は嘘のようでした。翌月11日の晩崎山の徴用者11名は伊江島脱出を図るため一人一円当出し合い合計11円で島のサバニを借り、伊江島の東海岸から本島の浦崎泊へ避難し、全員無事家へ帰ることができました。

 

【崎山からの護郷隊】
 

 護郷隊は自分たちの郷土は自らの力で護るという使命のもとに召集された紅顔の青年たちであった。日本大本営の直接指令を受けて編成された第三第四遊撃隊として行動する隠密部隊である。隊長は村上大尉で外の幹部は大尉1名と少尉4名の幹部候補生あがりであった。その幹部は昭和19年3月陸軍中野学校で、ゲリラ戦術、スパイ戦術の特殊教育を受けた24、5代の壮々ある青年将校であった。第三十二軍司令部に属し平服姿で長髪をし変装して、北部一帯の山々に潜入し実施踏査を行い、その任務と行動は秘密裡に進められていた。

 軍事教育を受けた優秀な下士官、兵と地元出身で適齢期前の青少年を義勇隊員として、昭和19年10月召集し、第三十二軍司令部に入隊、そして同年12月第三遊撃隊として同軍歩兵隊長宇土武彦の指揮下へはいて陣地構築の任務についた。その任務を遂行中終戦を迎えた。今帰仁から護郷隊に召集された人員は70名、そのうち戦死者は12名でた。

 崎山から上里善蔵、諸喜田利栄、金城林昌、諸喜田実の四名が召集された。上里善蔵は戦死された。

 【米軍上陸当時の崎山】

 和20年4月米軍は集中的に空と艦砲射撃の援護のもとに沖縄本島の北谷に上陸を敢行し、みるみるうちに中部から南部へ、また中部から北部へ侵攻してきた。

  村内では教育どころではなくなく、村内各学校では解散式が行われた。艦砲射撃や空爆や上陸した米軍から生命の安全を守るため、家族で山などに避難するように軍から命令が出ていた。道路という道路は米軍の手中にあり、戦車、装甲車、ジープ、武装兵を満載したGMCがひっきりなしに往来し、時折下車して避難しえいる墓の近くまでやってきて何やら訳のわからない英語を大きな声で話しながら近づいてきて、こちらの気付かず遠ざかっていくときには、心臓の止まる思いをしたり、神様の加護があったから気づかれずに助かったんだと感謝したりの生活が続いた。

   (村史から?)

 

 大浦崎で崎山区民からも帰らざる人となった方々が数人でた。殆どの人が衣類・食料品が不足していた。要領のよい人達は戦果と言って軍の物資を失敬してきて食糧の足しにしている人もいた。健康な人達は何名が組になって食糧、衣類、日常品を求めて郷里の村まで通った人が多かった。未明に大浦崎を出発して名護山道から伊差川、薬草園、我部祖河から呉我山を経て崎山入りした。呉我山から伊豆味のブリ墓を通って平敷から崎山いりするコースを通った。米兵を避けながらの昼間の半日行程であった。 

 崎山には大勢の米軍が駐屯していて、とてもにぎやかであった。平敷の駐屯部隊からはいつでもマイクを通して音楽が流れていた。崎山の東原(アガリボロ)に丸目の鉄板を敷き並べた小型飛行機場があり、小型機が何機も駐機していた。当原、伊佐原、ミンタマイには数えられない程のテント兵舎が縦横きちんと並んで立てられ米兵がひしめいていた。 

 炬港へ通ずる道は米軍の塵捨て場になっていた。その塵捨て場に捨てられた物には未だ一度も使ってない梱包されたままの毛布があり、缶詰類、煙草、キャンデー、セット、いろいろな日用品、スイッチを入れると走り出すトラックまで捨てられていた。その豊富な物の中から必要な物を選り分けて包み、ロープでしっかり結んで天秤棒でかついで、はるばる久志まで運んでいった。 

 最初は欲張ってあれもこれもとに持つ荷物の中に入れるのだが、途中で重すぎて着かれてくると山中の日本兵に分けてあげたり処分したりした。親子兄弟で一回郷里へ行って色々な物を運んでくると、しばらくの間は生活が豊かになり潤った。食糧に困ると、また揃って郷里へ物資探しに行くということを何度も繰り返していた。それにつられて婦女子も郷里通いするものが多かったが途中米兵の婦女暴行事件が多発し危険であるから、やめた方がいいという郷里通いの仲間からの中尉があり、そこで引き返して難を逃れた婦女子もいた。 

 山中では時々4~5名の米兵に婦女暴行をされている現場に出会うこともあったが、相手は自動小銃や拳銃を持っているのでどうすることもできなかった。また数名の黒人兵に暴行されて道端に髪や服を乱し太ももをあらわに出し、それをおう元気もなく放心したように道端に横たわっている痛々しい姿もあった。 

 6月25日に強制収容されてから四ヶ月余の月日が流れ、11月2日帰郷許可がおり、収容生活から解放され懐かし郷里に帰った喜びは大きかった。

  崎山の家屋はほとんど焼かれ、田畑は荒らされ、肥沃だった耕地はコーラルで敷き固められ、そうでない所も重機やトラックでおし固められていてすぐには使えない状態でした。 

 

  (工事中)


8.今帰仁村与那嶺住民の戦争体験『与那嶺誌』から戦争体験記録を再構成

 


19.島田 常子さんの戦争体験記録

 

(工事中)

 


20.上間光(当時30歳) 

 大浦崎では食糧の配給があったので飢え死にすることはなかった。羽地に収容された人々は食べ物にはあまり困らなかったと言っていた。家もあったし、大浦崎のような野宿同様な生活ではなかったようですね。

 


21.仲里静(当時26歳)

 子供が小さくて、まだ一歳にもなっていなかったので徴用は免れた。食べ物はどうしても確保するかが最も大きなことでした。海から海藻を拾ってきて煮て食べたが、堅くて食べにくかった。

 殺されるに行くのだから、何も持たなくてよいと思って着替え一枚も持たずに大浦崎に連れて行かれた。山に行って木を伐ってきて、掘立小屋を造り、内に草を刈りてきて敷いて、草がきれるとまた刈りに行った。

 

 缶詰めの配給があって、缶をきってお碗がわりに使った。おかゆを見て子供が「大雨が降ったのか、今日のおわんは水がいっぱい入っているね」と言っていたことが思い出される。

 

  帰ってきたら、仲里ヤーの墓あけられていた。

 


22.山内昌敬(当時22歳)(戦後教員:校長)
 

 海軍に行っていて、徴用から帰ってくるとシラミが大変だった。与那嶺に兵隊はどのくらいいたのかね。(設営のため20人くらいはいたようだ)。戦後しばらくして、自家製の酒をイモやサトウキビで造っていた。世の中が少し落ち着いてからだろうね。 


23.□□(当時19歳) 

 ある軍曹などはシンボロや各家庭を廻って家にいる者や畑にいる者もみんな壕掘りに連れて行った。

道路沿いの松の木は戦車の通行妨害のために伐採されて道に横たえられていたが、ブルトーザーがきて片づけて、穴も掘ってあったが、穴も埋めて戦車は通っていた。

 


24.上間道夫(当時18歳)

 青年学校へはなく、村から徴用令状として読谷飛行場に連れていかれ、二ヶ月くらいいたが、帰ってくると、また伊江島に連れていかれた。最初は15日位の交替制だった。

 

 護郷隊だったが、記録がないので、はっきりした年月日は憶えていないが、教育は三段階に分けられて行われ、謝花国民学校に連れていかれ、そこで三ケ月の訓練をうけた。たしか昭和19年になっていたであろう。隊長は村上という人だった。

 

 大宜味出身の島袋という上巻上官がいて「君等死ぬんでないよ」と、よく言われたが、この人は戦死したらしいと聞いている。

 

 4月28日頃読谷から逃げてきた者が多かった。嘉手納方面から上陸二ヶ月前に暁部隊に米一千袋あるということで取りにいくことになっていたが、行く段になってから出かけようとしたら、戦はもうすでに負けていて避難民も山から下ってきた。 

 大きな道を堂々と歩いて帰ってきたが、その間に二回米軍にあって尋問された。年齢を聞かれて17と手真似で答えた。米軍に会っても逃げたら殺される、逃げなければ殺すことはないからと言われていた。 

 大浦崎から帰ってきて、マラリアにかかり布団を何枚か重ねても震えはとまらなかった。その震えがすむと、今度は熱が出てたいへんだった。


25.大城増吉(当時18 

 青年学校で行った覚えはない。玄米でお汁は真っ黒でウムンシルみたいだった。日本兵の中にはむごい人もいて与那嶺源吉さんがながれて帰ってきたことがある。その兵隊は屋比久原某だった。 

 事務所に兵隊がおったのでお宮の下まで陣地を掘ったのではないか。

 最初からゲリラの訓練をうけた。スパイも兼ねていて着物はいつでも替えられるようにしていた。あまり危険な目にあわなかったが、三回くらいは大変だった。銃は五人で三丁持っていて、短剣のサヤは木製だった。昭和20年2月頃から羽地の田井等から多野岳の頂上に行って道をつくっていた。 

 米軍の上陸があってそれから紙箱につめた爆弾を米軍のテントに投げ込むようになっていた。テントに着かない前に照明弾が上がったので爆弾を投げだして逃げた。六月頃だったか、隊としての統制はもうとれていなかった。 

 遊撃隊は夜間行動ばかりしていて、米兵は見たことがないので、家に帰ってきてかくれているより畑の方は安全だということで畑に出たら米兵がきた。初めて見る米兵なのでびっくりしえ逃げたら、銃を向けて乱射してきたが、一発もたらなかった。 

 大浦崎には何の予告もなく、GMCが来てすぐ乗れと行き先も告げずに押し込められて行った。


26.内間博一(当時17歳)  

 伊江島の避難民は山口の下の山田に下るあたりに小屋を建て多くいた。だいたいソテツを食べていたのではないか。海の魚はすごかった。一年も魚をとらないと、そんなに多くいるのかと思った。


27.与那嶺進(当時15歳) 

 女の人で挺身隊という名目できていた。家から油味噌を持っていったら、作業に出ている間にみんなの食べられたことがあった。 

 伊江島でのこと。水運搬車にはうじ虫がいて、それに入れた水を飲まされた。那覇から衛生車を持ってきて、そのまま使っていると言っていた。ワジーから水を運ぶので丈夫な馬であった。難儀な作業をのがれるために丈夫な馬を買って水運搬だけしている人もいた。

 陣地掘りはキンチャボロ、山口の上にかけて、お宮の下あたりまで掘った。与那嶺いた兵隊は20人くらいで、設営と人夫徴発のためで、石川県出身者が多く、字民とは仲良くやっていた。

 10・10空襲の後は家は焼かれ墓の中、ガマの中で寝泊まりしていた。

 当時一人の?の老婆が袋をかついで彷徨っていた。どこから来たのか誰も知らないおばあさんだった。関という中尉が製糖工場の前の松の木に縛りつけていた。子ども達は胡椒を口に入れたりしていじめていた。縛りつけてあるので手の皮はやぶけてかわいそうだった。

 僕は伊江島に行っていたが、海軍からの採用通知が来て、役場の兵事係が立会で徴用を解かれて本土に駆逐艦で渡った。あの頃マラリアが流行して死人も次々に出た。特に老人は体力が持たずひどかった。

 


今帰仁村今泊(今帰仁・親泊)

 

 


仲尾次清彦(当時9歳)今帰仁村親泊

 昭和18年の何月か記憶にない。戦争が自分の身に迫っている感じはしていた。国民小学校3年生。少年団訓練が毎日あった。地下に敵の米兵がいるので、しっかり地面を踏みしめてあるけと訓練。少年だは力いっぱい足踏みして行進。

 米兵イメージはすごく体が大きいとのこと。自分では立ち上がれないので、出歩くときはいつも小さな鐘を腰にむら下げていて、ころんだら鐘をならし人におこしてもらう。米英は鬼畜米英と教えられていた。ヒージャーミーと聞いていたせいか、山羊のような動物のイメージ。最初に米兵を見たとき米兵も人間だという驚きがあった。

 昭和18年の何月かはわからないが、寒い頃、シマの海の沖で日本の輸送船が難破。軍服をきた五、六人の日本兵が板片に乗って浜に漂着。シマの人たちが火を炊いて体を温め、水や食事を与えていたようだが、かなり弱っていた。朝鮮人ではなかったか。

 シマから召集を受けた軍人を見送ることもあったが、まだ自分には戦争と直接結びつかなかった。日本兵がいる、そのことから戦争が近いと実感しました。昭和18年の何月か、温かい頃、親戚ではないがよく知っている方が南方で戦死した。従兄と一緒に行ったのです。親戚の方が集まり、泣いていました。子供心にも切ない寂しさと悲しみを覚えている。三味線のかなでる「小浜節」の哀愁のメロディーと結びついくる。

 B29が最初に現れたのは朝礼の時間。朝礼の体形であったことは覚えている。双眼鏡で空を見ていた先生が突然「B29だ」と叫びました。空を見上げると青空に白い線がひかれ、あれが敵機かと、皆一目散に防空壕に逃げました。

 19年の7月か、サイパン玉砕のニュースが入り、隣りのヌンドウルチの家族はショックでした。範吉おじと里おばが死んだという。沖縄もそうなるのだと重苦しい気分となる。数日後、ヌンドルチの叔母が沖縄にも米軍がやってくるよ。やがてアメルカ世になるさと。今からアメリカの名前をつけておこうかと。従弟の健三にはロースト。

 シマ(親泊)には園田少隊がいた。大きな事務所には兵隊、小さな事務所には看護婦が数人いたような。私の友人で三つ年上の正行が何かの拍子に看護婦を指差したら、看護婦に手招きされ、いきなりパッシと右の頬を力任せにぶたれました。朝鮮人は指さされることを嫌うと後で聞かされた。その頃、軍歌や戦争を謳歌する歌が盛んに歌われていた。一方では敗戦を意味する内容の歌が陰で歌われていました。「一つ人々チチミソリ、クンドゥヌイクサヤ、マギイクサ、ニホンヌウチジニ サダマユル マギイクサ」巡査の耳に入ったら大変。その頃は巡査がハバをきかせていた頃。

 教室が兵舎になっていたので学校はずっと休校。校庭ではしばしば兵隊の演習が行われた。竹でつくった戦車を兵隊に担がせ、上官が上にのり号令をかけていた。中尉がガニマチだったのでハペラー中尉を名づけていた。

 真部山の方兵隊が運天港へ行った帰り、親泊のうちに五、六人立ちより、母が砂糖と御茶を出して歓待。「わたしたち兵隊は死を覚悟している」とのこと。兵隊の演芸会が兼次校で二回あった。一回は運動場で、橋本大尉を中心に左右一列に座って何かやっていた。二回目は長い校舎がコの字型になって兵隊が何かやっていたが、記憶にない。二回目は、マガラ軍曹が手足をおもしろく動作をつけ床をドンドンさせながら「早くこいこい起動部隊 沖縄沖まで来たならば 飛行機十で体当り 沈没激破の大戦果 知らせてください大本営」と唄ったら大喝采。「まがってもまがらぬは マガラ軍曹」とやったら大喝采。

  10月10日の空襲のあと、数ヶ月は空襲はすくなかったが、二月の中旬頃、父は伊江島の徴用から帰ってきた。伊江島に行っていたシマの人たちは、その頃ほとんど帰ってきていた。クジに当らず残されていた人もいた。空襲が激しくなり、艦砲射撃の始まっている伊江島へ救出に行くのは困難になっていた。

 父が帰ってきて、空襲がはげしくなり、艦砲射撃がはじまり、私達三家族(計19名)は墓に隠れたり、山に逃げたりした。逃げ回っているとき、数分おきに照明弾が打ち上げられ、あたり一面が真昼のように明るくなった。「ナマヌウチドゥ ハクナーハッケー」(今のうちに歩きなさい)と後ろを返っていたのは忘れません。

 4月に入った頃、この壕は狭いか別に自分たちの壕を掘るのだといって大人たちが止めるのも聞かず壕堀いった。しばらく鍬のひびきがしていた。秀という大柄の18歳の女性がいて用を達しにでていきました。すぐに真っ青な顔をして引き返してきました。体はぶるぶる震えて、何があったのか声もでません。「アメリカーネーミャッタン」(アメリカに見つかった)とやっと声を出した。瞬間みな震え上がった。しばらくしてパンパンと二発の銃声が近くでした。鍬の音は聞こえなくなった。壕の入口に祖母ともう一人のおばさんが座りこんでじっとしていた。数分たって正行が手に御菓子をもって泣きながらきた。お母さんの顔をみるなり「オットー、テープーチ、ラッタン」(鉄砲で撃たれた)と。お菓子をもった正行に、二人の兄は「ウヌクヮーシ、ヒティレ、うりーとぅ、イヤオットートゥ、ヘータシトゥ、ユヌモンヤンドゥ」(お菓子を棄てなさい、これは君のお父さんの命と換えたようなもんだ)というと、お菓子を畑に投げ捨てた。暗くなるのを待って墓をでた。

 (食糧は豊かでした。肉類は特に豊富でした。毎日のように豚・山羊・トリを食べていた。)

 食事は夜のうちに家で準備して壕へもっていい、主食はイモでした。畑へいってイモを掘ってきた。イモ畑がたくさんあったので他人に畑のイモを掘ることはなかった。

 父はプンニバルの山畑、伯父は海の近くの畑は。イモは暗くなってからは掘れなかった。明るいうち、まだ飛行機が飛びかっている頃、壕をでた。夕方イモを煮たりおかずを作ったりするため、シマに下りる母についていった。道端や畑に飛行機からばらまかれた宣伝ビラが落ちていた。色とりどりなので珍しくたくさん拾いました。これには毒がぬられていて、皮膚にしみこんだら死ぬと聞かされ、全部すてた。家でなんども手洗いをした。

 夜、墓を出て、ヌンドゥルチの一家のいるフプガマへ行き、清一伯父一家の元気が顔をみて心強くなった。ここも昼間、米兵に発見されたとのこと。それでここで一夜を明かして、叔父一家とフプガマをでて、少し離れた松の木のソテツの茂みに隠れていた。午前9時頃、異様なにぶい大きな音が断続的に聞こえてきた。ニークン橋を架けるための作業だと。米軍は機械で松(妨害された松の大木)を簡単にかたづけていたと。

 シマの青年がやってきて米兵から貰ったものだと缶詰を(貝?)みせた。食べてもどうもないよ。米兵はなにもしないが、後で何されるかわからないと思うと恐くて山に逃げたと。

 昼過ぎになって米軍が住民は山から下りるようにと言っている。降りないと軍用犬で山探しをするといっていことを聞き、降りることにした。先頭はおばあさんがなり、次にこどもたち。それに大人が続いた。ニークン橋を通るとき、みな両手をあげ、米兵が手をおろせと合図があったので手をおろした。そこで米兵をまともに見た。米兵も人間だなとの印象。その日に家に落ち着いた。夕方ヌンドゥルチに米兵がやってきた。大きいなの印象。一人の米兵が従妹とワタシニチョコレートを差し出した。伯父がチョウダイシナサイというと二人はチョウダイをしてありがとうといって受け取った。後で少しづつ分けてたべたが、非常においしかった。 

 海兵隊が兼次校からパンタ近くまでテントを張ってあった。友だちと一緒に遊びにいった。そこで缶詰類やお菓子類をたくさんもらった。はじめて口にするものばかり。マッチや煙草も珍しくもらった。米兵の前でABCを言ったら、米兵は喜んでたくさんお菓子や缶詰をくれた。米軍から缶詰やお菓子をもらっていることが知られているらしく、山に隠れている友軍に知られると大変だから貰いに行かないように、残っているのは棄てなさいと。一方ではたくさんもらってきて米軍の食糧をへらしなさいと。 

 米兵は「ユージャパン」と尋ねるはずだから「ノーオキナワ」と答えなさい。すると米兵は満足したように微笑んだ。そのような関わりをもったので海兵隊は親切だったとの印象。 

 米軍はたえず移動していた。中南部へいくようであった。5月中旬頃は中南部は戦闘中。雷の遠鳴りのようなものが昼夜とだえることなく聞こえてきた。親泊は約1ヶ月前から作物をつくっていた。夕方になると伊江島付近で特攻機が三機姿をみせていた。兼次校の県道沿いにテントがニ、三あってわずかの兵隊が残っていた。6月の中旬頃、米軍によって今帰仁・本部の人たちは強制的に久志に疎開させられた。 


9.今帰仁村古宇利住民と戦争

 

古宇利島と戦争】 

・昭和19年4月 学校名は古宇利国民学校。瓦ぶき校舎、カヤふき校舎もあった。

・昭和19年8月日本軍守備隊が今帰仁に駐留する。陣地構築などで動員がかかる。

・昭和19年9月頃伊江島飛行場の設営で生徒が徴用される。 

・昭和19年10月10日に沖縄全島で米軍の空襲が始まった。

・米軍の飛行機がひっきりなしに攻撃してきた。

・最初のころ、日本軍の演習だとおもって、命中するたびに西側の森でバンザイバンザイをしていた。

・アメリカの飛行機だとわかると、カネがガンガン、ガンガンうちならされた。

・全校生徒は泣くもの、走るもの、家に帰るものなど、大混乱となった。

・学校の東側の防空壕にかくれたもの。回りのコウ(ガマ)や岩かげなどにかくれたもの。

・10・10空襲あとは、毎日のように空襲があり、動いているもの、馬や豚やヤギなどをめがけて

 爆撃してきた。  

・多くの家が家庭用の防空壕をもっていたようだ。

・古宇利島の沖合に待機していた米軍の軍艦から発射された火球が愛楽園に落ちて行くのをみた。  

・愛楽園と運天港の爆撃は激しかった。

・10・10空襲で那覇の町の90%が焼ける。五万人が焼きだされる。全県で死者800人、家屋

 15,000軒余が全焼。  

・古宇利島では校舎や拝所、民家などが被害をうける。

・10・10空襲後、天気がいいとB29偵察機がやってきた。

・昭和20年3月末になると空爆や艦砲射撃が激しくなる。岩陰や防空壕に避難しつづけた。

・昼間は壕にかくれ、夜になると壕からでて芋掘りややさいなど食べ物さがし。

・井戸からの水汲みは敵の焼夷弾の明かりを利用。  

・壕の中の生活はモグラと同じ、ノミ・シラミ・ギンバエなどが異常発生。

・島の人達は、家庭の防空壕や岩場など、あちこちにかくれ、かくれしていた。

・昭和20年5月20日午後3時頃、艦砲射撃がトゥンジ浜に結集していた青年団に犠牲者がでた。

・どこも危ないということで、多くの住民がスルルガマに移動した(ガマの入口は大潮の干潮時

 にしかみえない)。

 

・スルルガマに隠れて数日すると、スルルガマの外で銃声が聞こえ「出てこい、出てこい」

 「命はたすけてやる」と呼びかけられた。

 

・スルルガマの中は騒然となり、東と西の口から逃げ出すのもいた。

・昭和20年5月19日、20日に米軍の掃討戦があり、島の人々は水陸両用戦車2台で羽地の

 田井等に収容される。 

・戦争前は島から関西に出稼ぎや移民した人達(ペルー・ブラジル・アメリカなど)から送金が

 あり、またも模合などをして 資金をつくっていた。半農半漁であった。

・はだしでノーパン

・芋とミシンシル(味噌汁)

・かやぶき家で掘っ立てつくり、アダン葉のむしろ

・学校の弁当(昼食:芋三、四個)

・トイレのおしりふきはユナの葉

・草刈り・芋掘り・水汲み・家畜のえさやり・海に行ってイモ洗いなど  

・古宇利島の人達の避難は、屋我地の親戚や知人友人を頼って、物置や豚小屋などを利用さ

 せてもらった。  

・屋敷の片隅や空き地にほったて小屋をつくり、食料は古宇利島から運んで生きのびた。

・昼間は屋我地島の人になりすまし、荒地をたがやし、芋を植え、夜になると舟を漕いで島に渡る。

・芋や野菜をとり、隠しておいた穀物や塩、砂糖、味噌などを分けて持ちかえり飢えを凌でいた。

・古宇利島への帰島は昭和20年11月半ばに許された。

・島への引き揚げると、島の人達は生き返ったように元気をとりもどし松やモクマオウを切りだし、

 茅や ススキを刈って家をつくった。 

・米軍がひきあげた跡地に行って、テントや棒、板材や角材、ハンマー、ツルハシ、スコップ、

 毛布や布団、HPTの服や帽子、パンツや軍くつ、水筒、缶詰、タバコ、ダイナマイトなどを

 「戦利品」としてあげてきた。

・戦利品をもって与論島や沖永良部島に密航し、子牛や豚、ヤギ、鶏などの家畜を持ちかえり、

 家畜はどん どん増えていった。 

・戦後の学校が開かれたのは昭和20年12月3日であった。

     (古宇利誌/古宇利小学校記念誌など)


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     古宇利島の人々を救ったスルルガマ