今帰仁村大井川下流域の墓①      トップ(もくじ)へ


 今帰仁村下流域に古い墓が散在している。そのいくつかを紹介する。墓調査は基本的に研究調査というより、墓を所有する方々が先祖を確認したいとのこと、それと云い伝わって話がほんとなのか、そのようなことを大きな目的としている。云い伝わっている話と、葬られている銘書との誤差が多きこと度々。士族の『家譜』を持っている墓でも、家譜の人物と墓室内の人物を特定するのも困難な場合がある。墓の持ち主は500年前の人が入っている。北山の時代の人物が入っているはずだとくる。家譜を持たない、家文書の

 以下の画像(玉城:長田家)は平成4年5月3日とある。一族の方から「墓を開けたが、分けがわからないので見てくれないか」と急遽声がかかる。職場を今帰仁に移して間もない頃。一眼レフカメラでシャッターを切るのに精一杯。詳細に整理するのは、まだ時間がかかりそう。






今帰仁村大井川下流右岸のドゥルマタの墓②

2020年6月6日(土)メモ

 古いアルバムに1989年(平成元年6月)の大井川下流(右岸)の木で閉じられた墓の写真が出てきた。平成元年は大学(非常勤)から今帰仁村へ職を変えた年である。平成元年以前から今帰仁村と名護市(羽地間切地域)調査・執筆をしてきていた(角川の沖縄県地名辞典)。そのことがきっかけで今帰仁へ(資料館を建設することで今帰仁村へ:平成7年開館で歴史文化センターと改称)。当初から調査し現在を記録し、遺していく姿勢であったことを以下の写真から気づかされる。(この墓は、直後ブロックで閉じられる。材木は歴史文化センターに展示) 別に玉城ノロがウガンをしている場面と内部の様子の画像があるので紹介。

 墓室内は未調査。墓の管理は屋号ワクガヌヤー。『琉球国由来記』(1713年)頃の地頭代(湧川大屋子)を勤めた家柄か。1735年以後の地頭代は古宇利親雲上(屋号はフイヤー)。1738年に創設された村を湧川村とし、以後の地頭代は古宇利親雲上(屋号:フイヤー、メーフイヤー)

 玉城ノロの独立した墓はないようで、玉城ノロを出した平良一門の墓に葬られたノロがいる。


▲大井川下流右岸のキーバカ(ドウルマタの墓)    ▲ドゥルマタのキーバカを拝む玉城ノロ(昭和46年)

    
  ▲墓室の内部(石棺が10基余)   ▲墓室内の頭骨                ▲対岸のキーバカ  

③炬港(大井川口)の大和人墓

④池城墓

⑤平良一門の墓(障子墓?)(玉城ノロを出した事のある一門)

 詳細な調査はまだ。台風で扉がはずれたとき、一門から調査しようとの計画があったが、計画倒れ。一門のもう一ヶ所の墓は調査済み。


                       ▲墓室の様子(平良筑登之の銘あり)

⑥誌板の納められていた墓

⑦中城ノロ

⑧タカイヤーヤ墓

⑨今帰仁ノロ墓

【今帰仁ノロ】(2009年4月18日)メモ

 今帰仁ノロ家の調査にはいる。今帰仁ノロは親泊村・今帰仁村・志慶真村の三ヶ村の祭祀を司っていた。志慶真村が今帰仁グスクの後方から移動し、諸喜田村へ移動し統合されたため故地での祭祀は今では行われていず、中城ノロが諸志としての祭祀を行っている。今帰仁ノロ管轄の志慶真村の祭祀との関わりは今では見られない。ただし、今帰仁グスク内で行われる旧盆明けの亥の日(ウブユミ:城ウイミ)の時、志慶真村出の神役志慶真乙樽の参加(代理)あったが、今では参加が見られない。

 今帰仁ノロは今帰仁グスクの城壁の外側に旧今帰仁ノロ殿内の火神の祠がある。そこから麓へ移動している。現在は今泊の東側に位置してヌンドゥンチがある。今帰仁グスクの前にあった今帰仁村の集落が移動した後の『琉球国由来記』(1713年)には「今帰仁巫火神」は今帰仁村にある。移動前の今帰仁グスク前にある火神の祠を指しているのか。ならば、今帰仁ノロ家の移動は1700年代になって移動したとも考えられる。ノロ墓に20基近い厨子甕があるという。ノロ墓はノロのみ葬られているとのこと。ならば20名のノロが葬られていることになり、単純に400年前からのノロということになる。近年のノロさんは代理ノロなのでノロ墓にはいることはないとのこと。

 今帰仁ノロ家に簪と勾玉(ガラス:水晶玉)が伝世品として残っている。それらの品々の調査をすることができた。勾玉1個にガラス(水晶玉?94個、4個紛失とのこと))、簪1本、香炉2、のろくむいの位牌(1代~6代まであり、それより古い位牌があった可能性あり)、仲尾次家の位牌などの確認。また、仲尾次家の墓とノロの墓は別々にあり。ノロ墓には20基余りの厨子甕があるという(詳細については別に報告)。簪と勾玉(水晶玉)が祭祀でまつられるのは旧暦の正月と旧8月10日の城ウイミ(大折目)のときのみである。戦前まで楕円形の勾玉(水晶玉一連)と簪を納める箱があったようである。

 今帰仁ノロ位牌

   上段  (文字あり、判読できず。計八枚)
 
    下段  六代のろくもい  仲尾次タマ
               大正十五年寅十月十五日(二十五才)死去
        吉岩嘉妙信女
          霊 位
          寿林妙室信女
         心安妙嘉信女
         四代のろくもい  明治五年寅五月二十二日
                       歳三十九
         五代のろくもひ  明治三十八年巳正月二十二日
                       歳四十一
            
         (※七代、八代、九代と続くが代理ノロのため、この位牌には記されない)
         (七代:代理ノロ:仲尾次タマ 昭和初期~昭和十五年。六代と七代は同じ名前です
          が別人。また、代理ノロは仲尾次家の墓にはいり、ノロ墓には葬られないとのこと。
          ノロ墓は本ノロがでるまで開けないとのこと。)


 ノロ墓には20余りの厨子甕や石逗子があるようなので、位牌の六代以前のノロが葬られているとみられる。位牌の上段にあるのは、それ以前の「のろくもい」だろうか。そうであれば、墓との連続性がある。それと、仲尾次家がノロを継承はじめたのは下段の六代前のノロからだろうか。もう少し調査資料が必要なり。というのは、『琉球国由来記』(1713年)の頃は、今帰仁ノロも今帰仁グスク前から麓に移動しているとみられる。由来記では「今帰仁巫火神」は「今帰仁村」に移動しているが、現在のヌンドゥルチ(仲尾次家)は親泊村地内である。その説明に窮しているところである。(今帰仁グスク前から今帰仁村側の集落に移動し、さらに現在地に移動したのではないかの仮説を立てていたが、今帰仁村側の集落内に今帰仁ノロ(ヌンドゥルチ)があった痕跡が今のところみあたらない。その問題は今帰仁アオリヤエでも生じてくる)。

 今帰仁グスクや今帰仁ノロと名付けられたことと、グスクや今帰仁ノロ火神のある場所が、当初今帰仁(村:ムラ)地内にあったことを示している。つまり『琉球国由来記』(1713年)頃は、それらは今帰仁村にある。ところが、明治36年に合併するまでグスクやノロ火神のある地域(ハンタ原とハタイ原)は親泊村地内である。もし、グスクやノロ火神のある地域が親泊村域であったのであれば、親泊グスクや親泊ノロと名づけられたであろう。そうではないので、どうも1700年中頃以降、今帰仁村と親泊村との境界線の間で変更がなされている。因みにグスクとノロ火神のある場所は、ハンタ原とハタイ原で親泊村の小字である)。


 
  ▲今帰仁ノロの勾玉と水晶玉(ガラス)     ▲今帰仁ノロの簪(カンザシ)

 
   ▲仲尾次家の位牌              ▲今帰仁ノロ代々の位牌

 
 ▲仲尾次家の位牌の前の香炉       ▲今帰仁ノロ代々の位牌の前の香炉


今帰仁ノロ墓(2012年12月6日記録) 今帰仁村の墓―事例―

 今帰仁ノロの墓の内部を見る機会があった。夏の台風で今帰仁ノロ墓の石積みが崩壊してしまった。内部を見てほしいとの連絡があり、早速職員を伴ってノロ墓へ。横穴の掘り抜きの墓で、積まれた石は比較的やわらかいものである。正面の墓口は海石(珊瑚石灰岩)で非常に軽い。

 石製厨子甕が三基、御殿型の陶製厨子甕が二基、御殿型の陶製(素焼?)の厨子甕一基、蓋のない無頸(ボージャー)一基の計七基が納められている。向って右側にはイケがあり、そこには厨子甕に入れる以前のノロの遺骨とみられる。つまり、厨子甕に入っているノロの以前のノロの遺骨とみてよさそうである。

 今帰仁ノロ宅(ナキジンヌンドルチ)に立ち寄り、位牌も見せてもらった。ノロ墓の厨子甕に葬られているノロは位牌にあるノロと見られる。(その中の無頸(ボージャー)の甕についてははっきりしない)。

 位牌にあるノロより古い方のノロはイケに置かれているとみてよさそうである。石製(厨子甕)に洗骨して葬る習慣以前の時代のノロの葬り方。今帰仁ノロの位牌の古い方は戒名しか記されていない。山原では1700年代から位牌に銘を書き記すとと厨子甕に洗骨を納める習俗になったと見られる。一般的な墓の事例からも。

【墓地内の厨子甕】

 ①②③④とボージャ(無頸の厨子甕)には銘はなし。但し、③には文字らしきものがあるが判読不能。銘はないが、位牌ののろの1~6代とほぼ一致している(一基のみ不明)。

 ①石製厨子甕(銘なし)
 ②石製厨子甕(銘なし)
 △③石製厨子甕(銘判読できない)(四代ノロクモイか)
 ④御殿型焼き厨子甕(銘なし)
 ⑤に「五代のろくもい 仲尾次タマ 歳四拾壱」、「明治参拾八年正月弐拾弐日死去 
   明治四拾壱年拾壱月弐壱五日洗骨」とある。
 ⑥に「大正十五年寅十月十六日死去 六代乃ろくもい 仲尾次たま 二五才 
     昭和六年旧十二月三日洗骨」とある。
 ⑦無頸の厨子甕(銘なし) 

【位 牌】(〇は墓地ののろくもいと一致)

   〇大正十五年寅十月十五日死去 六代乃ろくもい仲尾次タマ
    ・古岸妙寿信女
    霊 位
    ・寿林妙霊信女
    ・心安妙寿信女
   △四代明治五年丙寅五月二十二日死去 歳三十九
   〇五代乃ろくもい 明治三十八年巳正月二十二日死去 歳四十一

  
   
    
 ▲台風で全面が崩壊したノロ墓             ▲墓の内部を伺う
 
   
①②墓の向って左側に石製厨子甕       ③正面奥の石製厨子甕

  
 
 ④御殿型の籐製(素焼?)厨子甕       ⑤五代目ののろくもい     ⑥六代目ののろくもい

 
  
▲イケの六名以前のノロの遺骨    ▲無頸(ボージャー)の厨子甕

 
    
▲今帰仁ノロ家の位牌                ▲六名のノロの位牌




⑩仲原家の墓

⑪てい門(ボーボー家)一門の墓

⑫瀬底の大城家の墓