もくじ
2010年(平成22)71

 『恩納村誌』の編集委員の朝からの会議。村誌編集の件が目的であるが、今度の「山原のムラ・シマ講座」で「羽地按司御初入」を一部テーマとするので首里から羽地間切への途中宿泊した名護・恩納の両間切番所跡をいく。首里から羽地間切真喜屋村の宿舎に来るまでの宿泊地が出てくる。首里を出発し、読谷山間切宇座村で一泊、次に恩納間切恩納番所、そして名護間切名護番所、羽地間切真喜屋村へ。首里を出発して羽地間切真喜屋村まで三泊四日の旅である。14人の一行は、名護間切番所跡と恩納間切番所跡地まで首里から徒歩でやってきたのである。

 史料に出てくる場所が確認できると、記録された出来事と、その時代を彷彿させながら読み取っていくと非常に面白い。恩納間切番所で一泊した一行は、昭和15年頃の風景の中を歩いていったのだ!
      
 
   ▲現在の恩納間切番所跡地       ▲昭和15年頃の恩納村役場と恩納松下

 
  ▲昭和15年頃の恩納松下からの様子      ▲恩納松下の歌碑からの現在の様子


2010年(平成22)72

 恩納のノロ関係の引き出しを整理することに。『恩納村誌』で扱われた資料を確認しておく必要がある。『琉球国由来記』(1713年)に記されている濱崎嶽が恩納グスクを指しているのか。それとウガングヮーと呼ばれている森は重要なウタキの一つではないか。というのは、その麓にフルジマカーとカネクノ殿があり、恩納の一部の人達が住んでいた場所の痕跡である。カネクノ殿には両惣地頭や恩納ノロの祭祀場である。兼久一帯に住んでいた小集落のウタキの可能性が高い(一帯は古島と呼ばれ、神アサギもそこにあったという)。森の頂上部にある祠はカネクノ殿(ウタキのイベ?)の可能性はないか。

 恩納間切内のノロは他の地域のノロとは異なった動きが見られる。そのことについては、詳細な別資料での確認が必要。一般ノロの継承は、首里大あむしられ、真壁大あむしられ、儀保大あむしられのいずれかの殿内に参上する。恩納間切のノロは首里大あむしられである。そこに参上し、火神の殿に新任の報告をする。王府からの辞令書は大あむしられの手から授かる。勾玉は女神官制度が敷かれた時の初代のノロに授けたものを代々継承される。その際前任者から直接受け取る。役地としてノロクモイ地の譲渡あり。役俸としてのノロクモイ地と呼ばれる役地が付与される。村の良地の田畑が与えられる。ノロ継承の願書は、ノロの親類及び間切役人の連名、領主の惣地頭の副申をもって王府に提出される。

 明治政府はノロクモイ地からの実収穫高料を報告させ、明治17年度の石高換算額を基準として、明治末に一時国債証券を支給して旧禄制度の改革を行っている。ノロクモイ地の収穫高は明治15年と17年に調査報告がなされた。王府時代には
毎年末に収穫高を王府に報告することになっていた。ところが、恩納間切の全ノロの収穫高の報告がなされていない。

 「女神官の数は置県の際に合計二百四十九名があり、このうち十一人のノロを除いては、すべて役俸を給与されていた」とある。恩納間切のノロは役俸を給与されなかった十一人にはいていたことになる。明治14年の内務卿と大蔵卿からの達(第三千九百七十四号)に、「一、恩納ノロクモイ始め拾三人之分現収高既ニ滅殺せし今日に在りては更に廃給のものとして制外に附すべき事」とあり、明治15年の「社寺調査原書」と「諸禄処分による社禄調表」(明治43年)に恩納間切のノロが除外されているのはそのためである。明治以降の恩納間切内のノロ関係を複雑にしている要因になっているようだ。

「社寺調査原書」と「諸禄処分による社禄調表」の調査の目的は? 何に結びついていったのでしょうか・・・。ノロ制度の廃止と各字のウタキの神社化の資金などへ。そして「ノロ制度の終焉」へと結びついていくいく・・・

  
 ▲恩納村恩納の神アサギ  ▲恩納ノロ家(ヌンドウルチ)  ▲ノロ家の屋敷にある拝所

 
 ▲恩納グスク内にある殿(トゥン)     ▲カネク殿の近くにあるウガングヮー

『恩納村誌』から整理(工事中)

 恩納村内のノロ

 琉球国由来記
  のノロ

辞令書 

 

 

 恩納ノロ(公儀)

 恩納巫




 神女はノロ、根神を入れて49名、神アサギに充ち満つ状態である。一年間の祭祀行事は比較的保存され、それにウムイが残っている。舟のウムイ、海のウムイ、山のウムイ、しらちなのウムイがある。


 (恩納ノロの一年間の祭祀の流れを整理必要)
【五月十五日稲穂祭】に例
神人と区長はじめ村有志が神アサギに集まる。神女がウムイに合わせて、ころばした臼を猪にみたてて弓で射るその後、グスク拝み、城内の殿でのウガン(シロマシ神酒・キウリサシミ・シブイサシミ・麦神酒・イモ神酒などを捧げた。神酒の原料は各戸から提供。グスクでの祭祀後、瀬良垣の祭祀へ。残った神女はグスクからマーニの葉柄を携えて兼久之殿へ。四隅にマーニを差す。・・・

 山田ノロ(公儀)

 山田巫

(ノロ位牌) 

 大正初年まではノロ、若ノロを入れて七人の神女がいたという。以後後継ぎがなく、最近(昭和50年頃)までノロと言われているが名実の伴わない存在となっていた。三人のアンシーがいた。

ノロ墓は久良波にあり。『琉球国由来記』(1713年)で山田村のウタキは「オシアゲ森 神名:サケノイベヅカサ」とある。その森(ウタキ)が山田グスク内にないことに注目する必要あり。

久志家から出る神人の出席がないと祭祀は開始されないという。ノロが富着の神アサギへの同伴者。最後の山田の根人はアガリ家の主人か? 稲大祭のときノロが富着から帰ってきた翌日、祭祀が終わった報告をグスク・護佐丸先祖の墓、殿内小でウガンをし、その後神アサギで村人の歓待を受けた。 

 真栄田ノロ(公儀)

 真栄田巫

 

 80年前(昭和50年頃から)にノロが死に、その後ノロの争奪があって塩屋からノロと根人が出るようになった。そのノロも根人も亡くなり、祭祀は区長によって保たれている。

 

 安富祖ノロ(ムラノロ)

 安富祖巫

 

 戦前までノロ・根神・ウッチ神その他を入れて七人だったが現在(昭和50年頃)ではノロ・根神だけとなっている。どうにか祭祀は行われているが、根人も出自の家が亡んでいなくなって区長が代表として世話をしている。

 

 名嘉真ノロ(ムラノロ)

 名嘉真巫

 

 昭和8年頃までノロ・若ノロ・クシレーなどと司祭その他を入れて九人の神女がいた。それに男性の根人・ニブ取り・扇(クバ製)持ち二人いた。