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・ウタキとイベ ・三つの史料
・恩納間切番所と職名階級・任期・定員・俸給・雑給
【恩納間切番所と職名階級・任期・定員・俸給・雑給】(2014年9月28日)メモ
『沖縄旧慣地方制度』(明治26年4月1日)から、恩納間切に関する部分を取り出してみる。恩納間切が創設されたのは1673年のことである。恩納間切の北側の名嘉真村、安冨祖村、瀬良垣村、そして恩納村は金武間切の内であった。南側の谷茶村、富着村、前兼久村、仲泊村、山田村、真栄田村は読谷山間切の村であった。恩納間切が創設されると恩納村に番所が置かれた。恩納間切創設以前の金武間切は同村の金武村に、読谷山間切の番所は読谷山村にあった痕跡がある。読谷山村は山田村となる。『琉球国由来記』(1713年)には読谷山村と山田巫の両方が出てくる。
恩納間切創設時、番所を恩納村に置かれたのは理由があったのであろう。地理的なこともあるであろうが、おもろさうし巻17は「恩納より上の御さうし」とあり、後の恩納村は恩納間切が創設以前から「おんなし(恩納子)」や「おんなやきしま」と謡われるほど、首里王府に伝わっていたのであろう。恩納子という人物はウンナ(大きな広場)に因んだ名称とみられる。それが後の恩納間切や恩納村となったとみてよさそうである。
恩納間切恩納村に置かれた番所に、どんな職名があり、階級、任期定員、俸給、雑給が記されたのが「沖縄旧慣地方制度」(沖縄県史21 旧慣調査資料 資料片11)である。恩納間切は以下の通りである(俸給と雑給は略)。その時の村は@恩納村 A谷茶村 B富着村 C前兼久村 D仲泊村 E山田村 F真栄田村 G瀬良垣村 H安冨祖村 I名嘉間村の10ヶ村である。
・地頭代(第1階級)(5年を内規3年とす)(1名)
・惣耕作当(第2階級)(無期) ・惣山当(第2階級)(無期)(3名) ・夫地頭(第2階級)(3年)(3名)
・首里大屋子(第2階級)(夫地頭退役に際し順次繰り上げ)(1名)
・大掟(第2階級)(上同)(1名) ・南風掟(第2階級)(上同)(1名) ・西掟(第2階級)(上同)(1名)
・掟(第2階級)(無期)(7名)
・文子(第3階級)(無期)(6名) ・脇文子(第3階級)(無期)(6名) ・相附文子(第3階級)(無期)(46名)
・升取(第4階級)(7年)(2名) ・小横目(第4階級)(無期)(2名) ・耕作当(第4階級)(7年)(28名)
・山当(第4階級)(7年)(17名) ・山工人(第4階級)(7年)(14名)
(具体的な事例は下の「三つの史料」(2009年3月28日メモ)で紹介してあります)

【ウタキとイベ】(2009年4月10日)
『恩納村誌』の編集会議があり、「歴史」編についての進捗状況と方針についての報告をする。まだ「恩納村の歴史」の全体像が描けていない段階なり。それは私が史料把握がまだ十分ではないためである。「目次」を構成するには、もう少し時間と歴史を描く史料の把握が必要である。どちらかと言うと村民が「何故?」と思うことへの疑問に答を与えるような歴史の描き方がいいのかもしれない。「目次」に100の質問でも掲げてみようかね。きっと却下されるでしょう(前提としてウタキとイベは分けて考える必要あり。ウタキは森全体、森の内部にある拝む場所は神名とされるところはイベと見る必要あり)。
会議が始まる前と後で、何か所がに足を運んでみた。恩納村役場の隣にある小高い森。ウガンやウガングヮーと呼ばれる。なんども麓から眺めているが頂上部まで行くのは初めて。頂上部に祠があった。内部にはコンクリートの香炉が一基のみ。三つの石がないのでイビ。だとするとその森は御嶽(ウタキ)であることに間違い。その麓にガネクガーというのがある。一帯は古島である。するとかつての古島の人たちのウタキということになる。
『琉球国由来記』(1713年)から恩納間切恩納村の御嶽を拾ってみた。そこには二つの御嶽があげられている。それと「年中祭祀」のところで三ヶ所の拝所があげられている。別資料の田代安定の「沖縄島諸祭祝女類別表」(明治17年頃?)には五ヵ所の拝所が記されている。二つの資料を比較することで、拝所の特定が可能である。
【琉球国由来記】(1713年)(恩納巫の管轄)
・ヤウノ嶽 三御前(神名:ツミタテノイベナヌシ・オロシワノイベナヌシ・アフヒギノイベナヌシ)
・濱崎嶽(神名:ヨリアゲノイベナヌシ)
・恩納巫火神
・城内之殿
・カネクノ殿
・神アシアゲ
「沖縄島諸祭祝女類別表」(明治17年頃?)
・ヤウノ御嶽
・仏ノ前ノ御嶽
・ノロ殿内火ノ神
・東ノ御嶽
・神アサギ
異なる資料から、それぞれの拝所の特定が必要が可能である。まずはヤウノ(御)嶽の特定から。その手掛かりとなるのは「三御前」である。御前とあるのは国レベルの祭祀で、三つのイベがあることを示している。するとヤウノ嶽は『琉球国由来記』(1713年)にあるようにそこは按司や惣地頭クラスの祭祀場である。そこでの神名はイベの名称で恩納間切の両惣地頭が関わる拝所である。「城内之殿」は恩納グスク内にあるイベ部分(神名)をさし、この祠が「由来記」でいう「城内之殿」とみなすことができる。つまり、ヤウノ嶽は恩納グスクのことで、その内部にあるイベを祀る祠が「城内之殿」であると(仲松先生は恩納グスクを濱崎嶽と想定してあるが検討必要ありか)。
ヤウノ嶽が恩納グスクならば、濱崎御嶽はどこかということになる。それは古島にあるウガングヮー(ウガミ)と呼ばれる森だと想定できる。仲松先生はそこはヤウ島への遥拝所とされるが、その森そのものが濱崎御嶽で、神名とされるイベがヨリアゲノイベナヌシで、イベ(神名)を祀ってある祠がカネクノ殿とみることができる。そこも両惣地頭が関わる拝所であり遥拝所とは考えにくい。そのウガンは「沖縄島諸祭祝女類別表」でいう「東ノ御嶽」にあたり、現集落の東側に位置しているので間違いなさそう(私もこれまで濱崎嶽を恩納グスクとしてきたが訂正が必要か)。
「沖縄島諸祭祝女類別表」に出てくる「仏ノ前ノ御嶽」はヨウ島の対岸にあるウタキである。そのウタキがヨウ島への遥拝所と考えた方がよさそうである。

▲濱崎ウタキと想定できるウガン ▲ウタキ内にある「カネクの殿」はイベを祀る祠

▲満潮時になるとウタキの麓まで遡流してくる ▲古島近くにあるガネクガー
【三つの史料】(2009年3月28日)
恩納村の三つの史料を並べてみると、興味深いことがわかる。まず、一つは1713年から1763年の間に、恩納間切の地頭代の名称が変わっていることである。谷茶大屋子から前兼久親雲上となっている。恩納間切だけでなく、今帰仁間切でも湧大屋子から古宇利親雲上となっている。そこでも1750年頃には今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上となっている。恩納間切と今帰仁間切とのほぼ同時期に地頭代の変更がなされているのは首里王府の政策があったのであろう。因みに、今帰仁間切の湧川村の創設(1738年)の時、地頭代を古宇利親雲上とし、これまで地頭代の名であった湧川を創設した村名としたと見られる。恩納間切の谷茶はどうだろうか。
それと『琉球国由来記』(1713年)に村名として登場しない恩納間切の谷茶、今帰仁間切の湧川は地頭代の名称(役地?)が変更されると、これまで地頭代の名称であった谷茶と湧川が村として登場してくる。他の間切でそのような例はないだろうか。羽地間切を見ると、嵩川大屋子から川上親雲上へと変わっている。ただし、嵩川村の創設はないが、田井等村を分割して親川村の新設がなされている。変更のない間切が多いのではあるが。そのような地頭代の役地(村)の変更や村の創設、村移動などの動きは、蔡温の元文検地(1737〜1750年)と関係すると見られる。
恩納間切で気づかされるのは掟の一人に「久留原掟」が登場する。久留原掟はどの村の掟なのだろうか。『恩納村誌』を執筆された仲松先生は、「恩納村は大きい村として考えてのことか、恩納掟と久留原掟の二掟が居た。恩納掟は恩納の後村渠(クシンダカリ)、久留原掟は前村渠(メンダカリ)を分担していたらしい」と説明されている(31頁)。明治になっても「久留原掟」は登場してくる。伊江島で明治まで「今帰仁掟」が出てくるのと同じようなことか。
金武間切で村名として出てこない「並里掟」がある。並里は金武村に含まれている。金武村は大規模の村だったので金武掟と並里掟の役地に充てたと見てよさそうである。仲松先生が述べられているように恩納村が大きな村であったために恩納掟と久留原掟を置いたとするのと同様かもしれない。
【琉球国由来記】(1713年)の恩納間切
・地頭代 谷茶大屋子
・夫地頭 富着大屋子 瀬良垣大屋子 前兼久大屋子
・首里大屋子
・大 掟
・南風掟
・西 掟
・名嘉真掟
・安富祖掟
・恩納掟
・仲泊掟
・山田掟
・真栄田掟
・久留原掟
【恩納村役場所蔵の扁額】(乾隆28年:1763)
・地頭代 前兼久親雲上(安富祖村)
・首里大屋子 当山筑登上(恩納村)
・大 掟 当山仁屋(前兼久村)
・南風掟 長浜仁屋(恩納村)
・西 掟 古波蔵仁屋(仲泊村)
(裏面)
乾隆丙子冠船御渡来之時此表字相求候
呉姓久高筑登之親雲上幸孝検者役之
時額作候也
地頭代安富祖村 前兼久親雲上
【恩納間切役員】(明治13年)
・地頭代 前兼久親雲上
・夫地頭 富着親雲上 谷茶親雲上 瀬良垣親雲上
・首里大屋子 金城筑登之
・大掟 大城にや
・南風掟 当山にや
・西掟 喜納にや
・名嘉真掟 金城にや
・安富祖掟 恩納掟
・久留原掟 新里にや
・仲泊掟 松田にや
・山田掟 金城にや
・真栄田掟 安富祖にや