【大宜味間切饒波の灌漑と他の村の土地利用】          トップ(もくじ)へ




 山原(やんばる)の村(ムラ)を見てくると、必ずしも一つのキーワードでは見ることはできない。各村を歴史的に見なければならないことは当然のこと。近世の村(ムラ)へと結びつくマク・マキヨ、近世以降の神アサギ、祭祀、集落の呼称、移動村、分離した村、合併村、寄留の人々の村、村墓、土地制度などで見ていく必要がある。それと間切を区分する方切、ノロ管轄なども現在のムラの形に影響している。今回特に気になるのは、村墓と土地制度と村のことである。大宜味村根路銘に根路銘村、大宜味村、大兼久村、饒波村の村が明治初期まであったこと。行政を越えた地に村墓があったこと。

 以下の資料で紹介する土地制度(地割)である。現場踏査をする必要があるが、饒波村地内に周辺の村が土地の割り当てがなされている。他の村の人たちは貢租(税)は出身地へ納めたのか、あるいは饒波村へ納めたのか。いくつか確認したいことがあるが、地割の制度で他の村の土地を耕すことが政策上許されていること。(土地が少なかったことで)。村墓が他の村に造ることが許されていることなど、近世の村の形をみていく上で興味深いことが見えてくる。

   (まだ、未調査中)


【大宜味間切饒波の灌漑】

 大宜味、饒波両村田畝の内饒波山出口原収得二十七石五斗余。真栄武多原収得九石二斗計三十六石余皆水田で灌漑の便なく旱魃の時は耕作することができなかった。明和元年(1768年)安永元年(1772年)の両年大旱魃があって農民の困窮一通りでなかった。ここで饒波村前田筑登之親雲上、前山川親雲上、惣耕作当平良筑登之親雲上耕作当金城筑登之等水道を開き、堤高一尺三寸、広さ一丈二尺岩石二十二坪を切開き水道三百七十歩、樋の長さ二十歩を開通した。これから農耕に好結果をもたらした。安永六年(1777年)尚穆王二十六年十一月三日政庁から功労者各人へ褒賞を賜った。(球陽)(沖縄善行美談:昭和6年)島袋源一郎著)

※田畝(でんぽ。たはた)
 大宜味間切の大宜味村と饒波村
 饒波の出口原と真栄武多原の字(原)は見えない(統合されたか、小地名に残っていないか確認が必要)
 現饒波集落の上の方(橋があるが、その一帯とさらに上の方)に大宜味や喜如嘉の人たちの田があったことは伺えた。



・饒波川上流の宇呂(ウロ)は行政的に饒波に属するが志敏地番は喜如嘉にぞくする。

・饒波の集落は現在地ではなく東側の喜味原にあり、そこに御殿(ウドゥン)屋敷跡やウドゥンガー
 があったという。


・乾隆18年(1753)の頃、饒波川は薪炭の積み出し地で、山筆者が材木を積んだ船の荷改めを行う。
・乾隆7年饒波村の金城が桐実を播種し、中国や日本からの輸入した桐油が自給できるようにした。


・地割は大宜味(大兼久)・饒波が一つになって行われ、その土地のほとんどが饒波村に集中。
・乾隆42年(1777)饒波村前田筑登之親雲上らが、出口原(27石余)・真栄武多原(9石余)の田地へ、
 古志波辺川から水を引く。


・道光25年(1845)から同28年に大宜味間切に下知役を派遣し、饒波村と大宜味村、大兼久村の用水路が破壊
 したため畑地になっていた百姓地を修補し820坪余の田にした(柳姓小宗家譜)


  (以下工事中)